パンフレットーこの御言葉が聞いた通り実現

主イエス・キリスト

    真剣なクリスチャンなら誰でも世の終わりが近づいていて、われわれの親愛なる主イエス様はもうすぐ空中で御自分の花嫁とお会いになるのを知っています(Ⅰテサ4:16,17)。しかし多くの人はバプテスマのヨハネが主の第一回の到来を予告したと同じように、あるエリヤの霊を持つ預言者がキリストの第二回の到来を予告することになっているのを知りません。もちろん、いまでも多くの偽の預言者が人々を惑わしています(マタイ20:11,24)。しかし偽の預言者が現れると言われた同じ神様が、一人の真の預言者が来るとも言われました。

    一方、神様の御言葉はすでに捻じ曲げられ、時がたつに連れて失われてきました。いま世の中では900もの宗派があり、それぞれが自分こそ真理を持っていると言い張っているが、皆神様の御言葉やほかの宗派と矛盾しています。もちろん、彼らは皆正しくなく、このような混乱は神様に由来するものではありません。なぜなら聖書にははっきりと私たちに神様は混乱の神ではないと書かれたからです(1コリント14:33)。しかも神様はこの世の終わりで自分の御言葉を復興されるのにいかなる宗教や人、もしくは議会をも使われるつもりはなく、世の終わりに来るエリヤの伝道事業によって自分の御言葉を復興されるのです(アモス3:7、マタイ17:11)。

    マラキ書第4章で世の終わりが書かれたところで、神様はこう言われました、「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」

    次に載せる聖書の言葉は、一緒に読まれることによって、神様が主イエス・キリストの第二回目の到来を告げる預言者を遣わすつもりでおられることを証明しています。

アモス3:7

    「まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。」

    これは神様のお決まりのパターンで、どこへ行っても変わりません。重大な聖書の出来事の前にも、必ず神様が預言者に告げられていることが分かるでしょう。例えば、洪水の前に遣われたノア、ソドムとゴモラの炎上の前のアブラハム、イスラエルに遣わされたモーゼ、キリストの第一回目の降臨の前に遣わされたバプテスマのヨハネ、異邦人に遣わされたパウロー、黙示録11章にあるユダヤ人のところに遣わされた二人の証人などなどです。

マラキ4:5-6

    「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」

    ここでのエリヤの霊は主の日に先立つと予言されました。聖書を学んでおられる方ならだれでも主の大いなる恐ろしい日とはキリストの権限そして審判のための第二回目の降臨のことだとわかります。(イサヤ2:12,19;1テサロニケ5:2,3;2ペテロ3:10)

    エリヤについてのこの預言の2つのポイントに注目してみましょう:

    1.父の心を子に向けさせる

    2.子の心を父に向けさせる

    この次の説明では、私たちはこの預言の一部が実現したということがわかるでしょう。

ルカ1:17

    「彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子供たちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです。」

    これはもちろんバプテスマのヨハネについて言っています、ただし注目するべきことは、聖霊はマラキ書に書かれた預言者を2つに分け、そしてヨハネが第一部分を実現させたことを示しているという点です。その上、ヨハネは主の大いなる恐ろしい日の前ぶれをしていません。しかし彼はイエスが神様の羊飼いとしての地上の伝道事業の前ぶれをしました。

マタイ17:10-12

    「そこで、弟子たちは、イエスに尋ねて言った。『すると、律法学者たちが、まずエリヤが来るはずだと言っているのは、どうしてでしょうか。』イエスは答えて言われた。『エリヤが来て、すべてのことを立て直すのです。しかし、わたしは言います。エリヤはもうすでに来たのです。ところが彼らはエリヤを認めようとせず、彼に対して好き勝手なことをしたのです。人の子もまた、彼らから同じように苦しめられようとしています。』」

    キリストはどのようにして前の聖書の言葉のつながりを維持しながら同じようにエリヤの伝道事業についての予言を分けたのかに注目してみましょう。イエス様はエリヤの伝道事業の一部分はすでに満たされましたが、残りの部分はまだこれから満たされることを指し示されました。彼はこの預言者が「すべてのことを立て直す」と示されることによってこの預言者の伝道事業のほかの側面を紹介されました。

Ⅱテサ2:3

    「だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。」

    パウローは主の日は背教が起こるまで来ないと明言しました。「背教」はギリシャ語の「Apostasia」に由来し、信仰の放棄を意味します。もし読者がⅡテサの2章を通して読み、特に12,13そして15節に注目すると、パウロが、キリストの弟子たちが伝える神様の御言葉から離れてしまうことを警告しているのがよく分かります。この「神の御言葉からの離別」こそ、まさに紀元4世紀頃ローマカトリックが優位に立ち、聖書の権限を教会の権限に置き換え、キリスト教信仰を異教の信仰と結合させたときに起こったことだったのです。

使徒3:20,21

    「それは、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにメシヤと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです。このイエスは、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの万物の改まる時まで、天にとどまっていなければなりません。」

    ペテロも、キリストが肉体の形で戻って来られる前に、まずは復元(改まる時)が来なくてはならないことを認めています。「復元( restitution)」は「復興する(restore)」と同じギリシャ語の言葉に由来していて、「復興」の意味としても読み取れます。上記で紹介したマタイ17:11との相似点に着目してみましょう。両方とも「万物」の復興を指し示しています。ペテロもまたこれらが何であるのかを認識していて、このように言っています。「神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの万物」、これは神様のすべての御言葉の復興のことです。預言者たちを通して、他にはどんなことが語られたのでしょうか?(ペテロの第Ⅱの手紙1:21)

    ここで、この聖書の一節の全体像をまとめて文字にしてみましょう:

    1.エリヤは万物を復興させる。(マタイによる福音書17:11)

    2.キリストの第二回目の肉体的な降臨の前に、万物が復興されなくてはいけない。(使徒の働き3:21)

    3.万物とは、預言者の口を通して語られる、神の御言葉のことを指す。(使徒の働き3:21)

 

黙示録10:7

    「第七の御使いが吹き鳴らそうとしているラッパの音が響くその日には、神の奥義は、神がご自身のしもべである預言者たちに告げられたとおりに成就する。」

    この第七の御使いとは、神様が預言者たちに明かしてきた御自分の奥義を伝道する使者として、認識されています。この奥義とはキリストの奥義であるが、テモテへの第Ⅱの手紙3:16によれば、キリストは神様が肉体として現れた形です。その神様のキリストにおける顕現というのは、初期のキリスト教会の預言者や使徒たちのメッセージの核心でした。したがってこの第七の御使いは、神様の御言葉もしくはロゴスを異邦人の教会に対してさらに強く主張されるのです。

    読者は、異邦人たちの教会にとって、黙示録の最初の3章がどれほど重要かということに気づかなければなりません。そこには、かつて小アジアに存在していた七つの異邦人教会の状況や特徴について描写されています。ここで、この説教がヨハネ(黙示録を与えられた使徒ヨハネ)の時代にしか当てはまらないと思い込むのは間違っています。黙示録の初めの章では、その内容は「すぐにも起こるはずのこと」と表現されています。つまり、黙示録全体は予言であって、近い将来から始まり、異邦人の容赦、144,000人のユダヤ人への神様のお召し、キリスト統治の至福千年、白い玉座での審判、そして新エルサレムへまで予言が続くのである。

    したがってこれらの七つの教会についても予言であり、これらの特徴は神様から異邦人に割り当てられた容赦のすべての時期を構成する七つの時代に対応します。エペソからラオデキアまで、それぞれの時代には、神様からのメッセージをもたらす天使がいました。「天使(Angel)」という言葉は使者を意味していて、天の使者というだけでなく地上への使者をも意味していて、この使者を通して「御霊が諸教会に話しかけられる」のです。過去二千年の間に、神様は人々の信仰を守るために、パウロ、エイレナイオス、マーティン、コルンバ、ルター、そしてウェスレーといった偉大で信仰深い先導者を送られてきました。

    黙示録10:7の内容は、第七の御使い、つまりラオデキア時代の御使いの任務が、上記のような奥義を告げて知らせるということだと説明しています。この最後の使者は私たちの元へ到着すると、もう初期の時代の教会が脱離してしまった神の御言葉(万物についての)を告げ、携挙と主イエス・キリストの第二回目の降臨にまつわる奥義について明らかにすることでしょう。

    あの頃の敬虔のパリサイ人のような霊を持たないように気をつけなさい。すなわち、神様の過去になさったことを信じているのに、神様がいま自分の目の前でなさっていることを受け入れることができないことです。パリサイ人は自分たちは神様の御言葉を信じていると言いながら、神様が遣わされた彼らを罪の中からお救いになられるメサイアをなんと拒絶したのです!神様の預言者を拒絶するのは神様自身を拒絶することと同じなのです。(Ⅰサムエル8:7)使徒パウロの忠告を考えなさい、「しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。」(ガラテア1:8)事実上、神様が一人の預言者を遣わされるのは、人々にこの預言者のメッセージを受け入れさせるためです。なぜなら、それが神様御自身の御言葉を御自分の民にもたらすのに選ばれた方法だからです(アモス3:7)。

    しかしながら、大部分の人はこの預言者兼使者を拒絶するでしょう。いつもそうです。多くの預言者は当時の多くの人に受け入れられませんでした(マタイ5:11,12 使徒7:51,52)。何百万人中、ノアの話を受け入れたのは七人だけでした;イスラエル人は絶えずモーゼに不平を言い、モーゼに反発しました;人々はサムエルを拒絶しました;エリヤは人々に憎まれ、自分が唯一残った神様を愛する人だとさえ思いました;人々は絶えずエレミアを笑いものにしました;イエス様は言われました、「……ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者……」(マタイ23:34-37)。

    私たちはどうすればら世の中に大量に雪崩入る偽預言者の中から本物を見つけられるのでしょうか。一つだけ、神様は言われました、「あなたが心の中で、『私たちは、主が言われたのでないことばを、どうして見分けることができようか。』と言うような場合は、預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼を恐れてはならない。」(申命記18:21,22)したがって、本物の預言者を判明するのは容易なのです:彼が予言したことはすべて成就する、なぜなら神様は間違えをされることはないからです。次に、聖書を調べると、主の預言者が予言を発する時に、「主はこう仰せられる」で始まることに気づくでしょう。なぜならそれはまさに主が預言者の口によって話されているからです。したがって、この世の終わりに来るエリヤは「主はこう仰せられる」を持っていて、しかも彼の予言や教義はいつまでも正しいのです。最後にこういう方法で考えてみてください:神様が一人のメサイアをこの世に遣わされるならば、人々にその方がモーセが話したあの預言者だと知らせるために、ある方法を選ばれる必要があります(申命記18:15-19)。神様はどのようにして人々にイエスはその預言者兼メサイアだと証明されるのでしょうか。一つの方法はたくさんのしるしを行うことによることだが、この点だけでは証明できません。ヤンネとヤンブレもモーセと同様に超自然なことを行うことができるからです。しかし神様の預言者はある独特の証明を持っています、彼は神様の御言葉を人々に伝える人です:「というのは、神の言葉は生きており、……心の思いや考えを見分けることができるからです。」(ヘブル4:12)あの預言者兼メサイアはどのようにしてナタナエルに自分の身分を証明されたのでしょうか。ナタナエルの心中の秘密を明かすことによってです(ヨハネ福1:45-50)。イエス様も同じようにペテロに自分の身分を証明されたのです(ヨハネ福1:40-42)。さらに、イエス様がどうやってヨハネ福音書の第四章で井戸のそばの女に自分こそがモーセが話したあの預言者だと証明されたのかを考えてみましょう:「女はイエスに言った。『先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。』イエスは彼女に言われた。『行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。』女は答えて言った。『私には夫はありません。』イエスは言われた。『私には夫がないというのは、もっともです。あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。』女は言った。『先生。あなたは預言者だと思います……』」(ヨハネ福音書4:15-19)。