原 罪

THE ORIGINAL SIN

原     罪

Tim D. Pruitt

eagle

原罪とは何か?

サーパント(Serpent)は何なのか

これは聖書の中でどうやって証明されたのか。

原罪とは何か?

    ローマ人への手紙 3:23にある御言葉は、すべての人は罪を犯して神の栄光を受けられなくなったと言っている。聖書はまた、すべての人は生まれたときから罪人であると言っている。詩篇51:5にこう書かれている、「見よ、わたしは不義のなかに生れました。わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました。」 NIV訳は、「確かに私は生まれた時に罪深かった。私の母が私を身ごもったときから罪深いのである。」

    この聖書によると、すべての人は生まれたときから贖いが必要であることが明らかである。なぜなら、イエス・キリスト以外のすべての人間は罪の中に生まれたからである。イエスと他の人間の違いは何なのか?主は処女によって生まれたのであり、性によって生まれたのではない。処女によって生まれたイエス・キリストがアダムの堕落した子孫たちを贖いに来た理由は何なのか。すべての人が新しく生まれなければならない理由がいくつかある。もし私たちの最初の出生が正しければ、なぜこれが真実なのか。もし私たちは堕落した状態で罪人として生まれてなければ、私たちは贖いを必要としないであろう。原罪には聖書の真実があり、性によって生まれたすべての人は罪の中で生まれ、死ななければいけない理由がある。こういうわけで贖いは性によって生まれたのではない方(処女によって生まれた)によってされる必要があり、私たちが新しく生まれる事ができるように罪の補いをして下さる方を必要とする。

    罪は単に神がアダムとエバに食べないようにと言われたリンゴや他の果物を、彼らが食べてしまったような不従順から来ると結論付けている人がいる。いわれはこうである。父なる神は二人の子、アダムとエバをお持ちだった。父なる神は子どもたちに言われた、エデンの園のどの木の果実を食べても良い、なぜならどの木も食べ物としてよいから。しかし、ある木、善悪の知識の木の実を食べてはいけない、もし食べたら、必ず死ぬであろう。 ある日、エバが一人で園にいたとき、「ヘビ」が彼女にその木の実を食べるように言いくるめた。彼女はそこでアダムに果実を与えた。この木の実を食べた後、子どもたちは恐れて父なる神から隠れた。父なる神の裁きは、子どもたちはあらゆる悲しみ、痛み、そして死を経験することであった。本当なのか。彼らはリンゴ或いはなにかの果実を食べたために死ななければならないのか。何という恐ろしい話であろうか。ある木の果実を食べたことから得られる結果はなんとひどいものだろうか。そして、この話の続きでは、将来、この愛すべき父なる神は何人かの子どもを地獄に送り込み、火の湖の中で焼くと続いている。

    その園で起きた何かがこの世の中のすべての罪、悲しみ、痛み、そして死の原因である。これはすべてのめくらで生まれた赤子、すべての殺人、不義、悲嘆、痛み、悲しみ、そして死は原罪によってもたらされたわけである。考えてみて下さい!この罪のために人間はすべてが完全であったエデンの園から追放された。私たちがこの罪から贖われるためには神の子、イエス・キリストの死でさえ必要だった。原罪とは何だったのか。聖なる正義の神からこのような厳しいそして恐ろしい判決が下されるのはきっとひどい行為であっただろう。それはきっと木から成るリンゴや他の何かを食べたことよりもさらにひどいことである。

 この疑問の答えを探すために、ある人はエバは悪魔と性行為があったもしくはエバはヘビと性行為があったという聖書に基づかないばかげたことを信じている。これらの考えは明らかに真実ではない。多くの絵や物語で語られているようなヘビは原罪と関係すると信じることができようか。話すことのできるヘビはギリシア神話にとても似ている。悪賢く作られた寓話を信じるつもりはない、なぜならすべての真実は聖書に基づかねばならないからである。原罪の真実は新しいものではない。もともと、それは創世記でモーセによって語られていた。それは新訳聖書の信仰でもあるということは後でわかる。バプテスマのヨハネ、主イエス、使徒パウロ、そして使徒ヨハネは皆この基本的で聖書の真実を教えていた。

サーパント(Serpent)は何なのか

 一般の聖書読者は子どもの時に、サーパントは木にいたヘビで、なぜかエバにリンゴを食べるように言いくるめたと教えられた時に、言葉を話せるヘビをきっと想像しただろう。しかし本当にヘビは話せるのか。それならサーパンドは実際どうしてエバを誘惑したのか。ヘビは木に巻きつきながら聖書に実際に書かれたことを言った。創世記3:1にはこう書いてある、「さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った、『あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。』」

 この聖書の一節は私たちにサーパントとは何者であるかの一つ目の手がかりをくれた。彼は獣であり、蛇もしくは何かの爬虫類ではない。彼は地上のほかの獣よりも「狡猾」(つまり巧みで、すばしこい、悪賢い、ずるい、そして感覚があることを意味する)である。彼は動物の中で人間に次ぐ高等動物にちがいない。彼は考えることができ、人間の言葉を話すことができるので、チンパンジーやその他の類人猿よりも人間の種に近かったのにちがいない。なぜなら彼は考えることも、話すこともできたから。彼は決して木に巻きついている爬虫類ではない、なぜなら彼は人間と同じように直立歩行をしていた。これが神の御言葉から明らかである。創世記3:14にこう書いてある、「神である主は蛇に仰せられた。『おまえがこんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。』」

 彼は明らかに神に呪われる前に這って歩かなかった、そうでなければ神が彼を呪われる意味がないのである。その呪いで彼の形が変わり、直立で歩くことができなくなり、這って歩かなければならなかったことが明らかである。だから、サーパント(serpent)として知られる獣はヘビではない、なぜなら彼は考えることと話すことができて、直立歩行ができたからだ。彼はエバを罪へと欺き、だますことができた。エバはアダムにそれを与え、そしてアダムも罪を犯すことになった。

 神の子たちは神の形をもとに再現され、そしてそれは霊的な増殖、つまり神の御言葉によってである。創世記1:27-28でこう書かれている、「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女に彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。『生めよ、ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。』」ヨハネの福音書4:24には、「神は霊ですから...」と書いてある。神はアダムの霊を創造されたが、まだ彼を人のかたちで土を耕すために園に置いてはいない。創世記2:5にはこう書いてあった、「...土を耕す人もいなかったからである。」創世記2:7では、「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生き物となった。」創世記1:27では、人は神の思考の中で造られたが、まだ肉体として実体化していなかった。神が地球のちりから人の体を創造されるまで、土を耕す人はいなかった。

 創世記1:27、2:7によると、神がまず人の霊を創造され、次にその人の霊を土のちりから造られた体にお入れになったことが分かる。神がアダムにふえよ、地を満たせと言われたときに、彼はまだ「霊」であった、なぜなら彼の霊はまだ肉体に置かれていなかったからであるということを理解することは大切である。言い換えて見よう:アダムの肉体がまだ地球のちりから造られていない、彼がまだ「霊」であったときに、彼は生めよ、ふえよと言われた。人は性で繁殖するようにとは言われていなかった。彼は霊として神のやられたように、つまり言い出された言葉の力によって生めよと言われた。しかしながら、道徳の自由を与えるために人が肉体として現れたときに性的に繁殖できるように人を造られたのであった。しかしアダムは霊的な方法、つまり御言葉の力によって生めよと言われた。神の子孫としてのすべてのアダムの息子は、神と同じように御言葉によって生み出されるはずであった。

 これが神の2人目のアダムであるイエスをもたらせたのである。イエスは性ではなく、神の御言葉によってお生まれになったのである。神は血球を造られ(卵子と精子の両方)、聖霊によって処女マリアの中にそれを置かれた。肉体がその血球からでき、イエスの体が作られた。私たちが2人目のアダムから新しく生まれる時に、同じく霊によって御言葉で生まれる。人の堕落の前の方法によってである。ペテロの第一の手紙1:23でこう書かれている、「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神の言葉によるのです。」私たちは自分たちの第一の出生は間違いであることを知っている、なぜなら私たちは新しく生まれ変わらなければならないからである。第一の出生によって私たちはすべての痛み、悲しみ、そしてそれに伴う死の中に生まれた。第二の出生によって私たちは永遠の命とそれに伴う喜びの中で生まれる。

 ここにエデンの園で起きたことについての聖書の記述がある。聖書はエバはサーパントに騙されたと言っている。創世記3:1ではこう書かれている、「さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。」この獣はあまりにも人間に近かったので(しかしながらやはり動物であった)、考えることができ、話すことができた。彼は立つことができ、チンパンジーと人間の間にあったが、人間に近かった。彼はあまりにも人間に近かったので、彼の種は女のと交雑し、妊娠させることができた。その時神はサーパントを呪われた。サーパントの体のすべての骨が変えられ、蛇のように這わなければならなくなった。科学はいかに努力しても、その失われたリンクを見つけることはできない。神はそれを見届けられた。人は聡明で人と動物との関係を見出すことができ、進化論によりそれを証明しようとする。進化が起きたのではなく、人と動物が交雑したのだ。これは神が隠し続けられた謎であったが、今明らかにされた。それはエデンの園の中でエバが命に背を向け、死を受け入れたときに起きた。

サーパントの子孫はあったのか?

 サーパントの子孫はあったのか。聖書にははっきりと書いてある。創世記3:14-15でこう書かれている、「神である主は蛇に仰せられた。『おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。わたしは、おまえと女の間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。』」15節にあるように、サーパントは子孫もしくは子を持っていた―「おまえ(サーパント)の子孫と女の子孫との間に」。もしこれに意味があるなら、サーパントは子孫、子を持っていた。神がエデンの園で彼らに言われたことにもう一度注目しよう。創世記3:15では、「わたしは、おまえと女の間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」もし私たちは聖書を信じて、女はイエスという子孫を持つと信じるなら、サーパントにももちろん子孫がいたはずだ。聖書を学ぶ人ならだれでも女の子孫は性からではなく、神によってもたらされたキリストであることを知っている。蛇の頭を踏み砕くという予言は実際にキリストが十字架で悪魔を征服することであることはよく知られている。十字架でキリストは悪魔の頭を踏み砕き、悪魔は主のかかとにかみつく。この御言葉は確かにキリスト(女の子孫)についての預言であった。贖い主は女から来るべきであった、男性との肉体関係からではなく、女から来るべきものであった。この罪のない男はカリバリでサーパントの頭を踏み砕き(押しつぶす)、そして次にイエス(女の子孫)はかかとをかみつかれる(彼が人間としてこの世を歩いた時)。

知識の木は食べ物ではない

 創世記3:2-3にこう書かれている、「女は蛇に言った。『私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、「あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。」と仰せになりました。』」

 神は彼らの前に二本の木を置かれた。いのちの木はイエス・キリストを象徴し、善悪の知識の木は罪、死、そして悪魔の象徴であった。一本の木は生命であり、もう一本は死の木であった。死の木の実は知識であった。

 創世記2:9にこう書かれている、「神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生み出させた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生み出させた。」

人間には道徳の自由がある。彼らは善悪を選択する能力のない動物とは違るのである。人間は神のイメージに基づいて造られたため、選択ができないロボットか何かではない。神は人の前に二本の木を置かれた、いのちの木と死の木である。彼らはほかのどの木の実を食べてもよいが、死の木の実を食べないように警告された。この木の実は知識を与え、食べた者を賢くし、食べた者の目を開らき、彼らを性に向けさせる。この木を食べることによって、エバは彼女の潔白を失い、彼女は裸体を意識するようになる。

古代のサーパント

 聖書では古い(古代の)サーパントは全世界をだました悪魔であると証明している。ヨハネの黙示録12:9では、「こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。」

 サタンは堕落天使であり、邪悪の霊である。霊は実体となれる体が必要である。

 エデンの園に悪魔が入ることができる人間に次ぐ獣がいた。サーパントを使うことで、彼はエバに話かけることができた。獣(サーパント)を使って話すサタンの話を聞いている間、エバは自分が裸であることを知った。

 サーパントは彼女に彼女は裸だと教えた、なぜなら、神は創世記3:11でこう聞かれた、「すると、仰せになった。『あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。』」エバはこの実をまるで箴言30:20の姦通する女のように食べてしまった。「姦通する女の道もそのとおり。彼女は食べて口をぬぐい、『私は不法を行わなかった。』と言う。」エバはみごもり、彼女が食べてしまったこの実、もしくは種からカインを生んだ。ヨハネの第一の手紙 3:12では、「カインのようにあってはいけません。彼は悪い者から出たもので...」エバはこの知識を食べて彼女が裸であることを知っただけではなく、彼女はアダムにもそれを与え、アダムからもみごもった。創世記3:6-7には、「そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのによく、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。」

 これで私たちは人間はいのちの木によって生きることになっていたが、それにもかかわらず死の木を食べることを選んだということを悟った。こうすることで、人間は自分の裸もしくは性について知ることになった。サーパント、人間に次ぐ直立する獣は自分の種を人間のと混ぜることができた。彼はエバを騙して、彼女の性に気づかせて、そして彼女はカイン、彼女の一人目の子ども、悪い者から出たものを生んだ。彼女は再び彼女の夫にその木の実を与えて、そしてまたみごもってアベルを生んだ。あの過ちで、すべての子どもは今、性によって死の中に生まれ、罪の本能が彼らの人生を操っている。

アダムとエバが神の声を聞いたときに、隠れた。創世記3:7ではこう書かれている、「このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。」ここに注意:彼らは自分のからだの罪を犯した部分ををおおった!彼らは自分たちの口ではなく、裸の体をおおった!

のろい

 これをさらに証明できる神の裁きがある。神は正しいであり、その罪にふさわしい裁きをお与えになった。創世記3:16ではこう書かれている、「女にはこう仰せられた。『わたしは、あなたのみごもりの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。』」

 注意:神は彼女の口を呪われなかった!神は彼女の子宮と妊娠を呪われた!彼女はこの行為によってみごもり、彼女の妊娠は倍になる。彼女は実際に、双子を生むことになった、カインとアベルである。これによって、子どもの出生は言われた御言葉によってではなく、痛みの中で生まれることになった。創世記3:16、「...あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」神は彼女へ特別な判決を言い渡された。神は彼女の性への欲望(切望と熱望)は夫とだけのものだと厳しく命じられた。それはヘブル人への手紙13:4でも明らかにされている、そこには、「結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい。寝床を汚してはいけません。なぜなら、神は不品行な者と姦淫を行なう者とをさばかれるからです。」肉体関係は結婚でのみ認められる、そうでなければ、重大な罪である。

 アダムだが、彼は騙されなかった。

 テモテへの第一の手紙 2:14では、「また、アダムは惑わされなかったが、女は惑わされてしまい、過ちを犯しました。」

 アダムは何が起きたのか、そしてその結果は何なのかを知っていて、死ぬ必要はなかった。しかし彼はすばやくエバを受け入れ、そうすることで、彼は彼女とともに罪を犯したので、神は彼らふたりをさばかれることになった。これはまさに二人目のアダム、キリストが私たちにされたことである。コリント人への第二の手紙 5:21では、「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」

 創世記3:17-19では、「また、アダムに仰せられた。『あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは一生、苦しんで食を得なければならない。土地は、あなたのために、いばらとあざみを生じさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。』」

    神はアダムの罪のために土地を呪われた。今、彼が支配し、御言葉によって君臨した楽園を失うだけでなく、彼が取られた土地も呪われた。彼のちりの体は不老不死を失うことになった。いばらとあざみ、疾病と苦悩は、彼の体が来たその土地に帰るまで、彼を悩まし続けることになった。しかしながら、二人目のアダムを通して、ある栄光な日にこのことは元に戻ることになる。罪が征服されるだけでなく、私たちの体も変えられる。コリント人への第一の手紙 15:51-54、「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、『死は勝利に飲まれた。』としるされている、みことばが実現します。」

    創世記4:1では、「人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、『私は、主によってひとりの男子を得た。』と言った。彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。」聖書のこの章でサーパントもエバを肉体的に知ったとは書かれなかった。なぜならそれはすでに第2章で言われたからである。聖書の簡単なストーリーは、双子がこのようにして生まれたこと、そしてエバはその中の一人は主から来たものと言っている。明らかに、すべてのいのちは神から来るものである。そして、この理屈では、カインは主から来たのであった。しかし、彼は本当はあの悪いものからなのである。ヨハネの第一の手紙 3:12では、「カインのようにあってはいけません。彼は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました。なぜ兄弟を殺したのでしょう。自分の行いは悪く、兄弟の行いは正しかったからです。」

    注意してください、戦いは直ちに二つの種の間で始まり、そして憎しみが増したカインはアベルを殺した。

カイン、その悪いものは彼の兄弟を殺した。そして神は彼をアダムの家族から離し、ノデの地に送り込まれた。したがってカインの血統はアダムにさかのぼることはできない。彼の血統は別のものである。さらに、アダムの子孫の系図にはカインが含まれていない。アダムの歴史の記録にはカインは言及されていない。創世記5:1-4では、「これは、アダムの歴史の記録である。神はアダムを創造されたとき、神に似せて彼を造られ、

    男と女に彼らを創造された。彼らが創造された日に、神は彼らを祝福して、その名をアダムと呼ばれた。アダムは、百三十年生きて、彼に似た、彼のかたちどおりの子を産んだ。彼はその子をセツと名づけた。アダムはセツを生んで後、八百年生き、息子、娘たちを産んだ。」

    アダムの子孫は神の子とも知られているが、正しい人々であった。

    ヘブル人への手紙11:4では、「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。」

 彼らは義人であった。なぜなら彼らは主の名を呼び求めるとき、無実の代理の血をささげたからである。

創世記4:26では、「セツにもまた男の子が生まれ、彼はその子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。」

 しかしカインの系図は悪で、その系図から殺人者たちが出た。

 創世記4:23-24では、「アダとツィラよ。私の声を聞け。レメクの妻たちよ。私の言うことに耳を傾けよう。私の受けた傷のためには、ひとりの人を、私の受けたうち傷のためには、ひとりの若者を殺した。カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍。」

 ノアの時代で、その二つの血統は混ざり、カインの子孫とアダムの子孫は混ざってしまった。そこで、神は増えてきた悪のために地球を破壊された。創世記6:1-2では、「さて、人が地上にふえ始め、彼らに娘たちが生まれたとき、神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。」アダムの息子たちはカインの娘たちを娶り、そしてこれらの娘たちを通して、その血統は大洪水を通り抜けた。今、カインの血統はすべての人間に混ざっている。

 このサーパントの真実はすべての時代を通して知られていた。しかしながら、ほかの真理と同じように、それは宗教改革で完全に元に戻されなかった。バプテスマのヨハネはこの真理を知っていた。彼は御言葉を受け入れなかった人々の中にこれを認識した。マタイ3:7、「しかし、パリサイ人やサドカイ人がおおぜいバプテスマを受けに来るのを見たとき、ヨハネは彼らに言った。『まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。』」

    イエスもこの真理を教えられた。マタイ12:34では、「まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。」

 ユダヤ人は彼らはアブラハムの子孫だと言っていたが、自然な法則では彼らの血統はアブラハムにさかのぼることができた。しかし、ユダヤ人の血統でさえ純粋ではなかった。

 ヨハネの福音書8:39-44では、「彼らは答えて言った。『私たちの父はアブラハムです。』イエスは彼らに言われた。『あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行いなさい。

ところが今あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに話しているこの私を、殺そうとしています。アブラハムはそのようなことはしなかったのです。

あなたがたは、あなたがたの父のわざを行っています。』彼らは言った。『私たちは不品行によって生まれた者ではありません。私たちはひとりの父、神があります。』

イエスは言われた。『神がもしあなたがたの父であるなら、あなたがたは私を愛するはずです。なぜなら、わたしは神から出てきてここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わしたのです。あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないでしょう。それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです。あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼らのうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。』」

 これらのユダヤ人は自分たちは神から来た者だと言っていたが、イエスは彼らに彼らは神から来たのではなく、最初から殺人者の彼らの父の悪魔から来た者だと教えられた。彼らはこれについて抗議して論じて言った、「私たちは不品行によって生まれた者ではありません。」(ヨハネの福音書8:41)

 イエスは神の処女から生まれた子であった。約束された女の種であった。マリア(女)は種を持たなかったが、この種は聖霊がおおうことによってマリアの中で造られたのである。イエスは話された御言葉によって宿され、これは神の創造である。サーパントの種はカリバリでこの種(イエス)にかみついた。誰がイエスにかみついたのか。それは人であったか、それともヘビであったか。もしそれは人であったならば、サーパントの種は確かに肉体の中にいたはずだ。

 使徒パウロもコリント人への第二の手紙 11:2-3 で同じくこの真実を教えていた。「というもの、私は神の熱心をもって、熱心にあなたがたのことを思っているからです。私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚され、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています。」

 彼はコリントの教会に、彼は彼らをひとりの人(キリスト)の花嫁に定め、彼らを清純(純潔、無垢)な処女としてささげたいと望んでいるが、しかし彼は彼らがサーパントがエバを欺いたときのように穢されるのではないかと恐れていた。エバはアダムの花嫁に定められたが、サーパントによって処女を失い、サーパントが彼女は裸であるとの知識を与えたときに、彼女は穢された。

誰がサーパントの種なのか、そして誰が神の子なのか

     イエスは二人の種を蒔く者のたとえ話をマタイの福音書13:37-42で教えられた。

    「良い種を蒔く者は人の子です。畑はこの世界のことで、良い種とは御国の子どもたち、毒麦とは悪い者の子どもたちです。毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫とはこの世の終わりのことです。そして、刈り手とは御使いたちのことです。ですから。毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります。人の子はその御使いたちを遣わします。彼らは、つまずきを与える者や不法を行う者たちをみな、御国から取り集めて、火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。」

 ここでイエスははっきりと私たちに世界には二種類の種が蒔かれた:御国の子どもたちと悪い者の子どもたちだと教えられた。一つの種は人の子、いのちの木であるキリストによって蒔かれ、もう一つは悪魔によって蒔かれた。悪魔の子どもたちは火の燃える炉に投げ込まれる。しかし、神の子どもたちは地獄には一人もいない。

 この二つの種の違いは何であろう。ヨハネの黙示録の1-3章では、神が教会に対応される七つの時代を表した七つの教会がある。すべての教会時代は同じ警告で終わる、「耳のある者は(個人が)御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」御霊は御言葉を与えられる。彼はそれぞれの時代の真実をお持ちである。それぞれの時代に自分の選民がいて、その選ばれた人々は常に「御言葉を聞き」、そしてそれを受け入れることは、彼らの中には種子があることの証明である。ヨハネの福音書8:47でこう書かれている、「神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。」

 まとめると、この聖書の真実は完全になぜ救い主、私たちの主イエスが、性によってではなく、処女によって生まれなければいけなかったのかを説明してる。それは同時になぜ性によって生まれた人は新しく生まれなければいけないのかを説明している。ヨハネの福音書3:3では、「イエスは答えて言われた。『まことに、まことに、あなたがたに告げます。人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。』」