エリヤの五回の到来

THE FIVE COMINGS OF ELIJAH

エリヤの五回の到来

Tim D. Pruitt

eagle

    ほとんどのクリスチャンはイエス・キリストが戻られるのにエリヤがとても必要と知っているが、なぜエリヤは最初に来なくてはいけないのでしょうか。バプテスマのヨハネはイエスの第1回の到来の先駆けでした。もし2000年前イエスが来られたときに、メシアを受け入れるための人々の心を用意するのにエリヤが来る必要がありましたら、イエスが2回目に戻られるときにエリヤは先に来る必要はあるのでしょうか。もしそうなら、「エリヤの霊」はなんでしょうか。また、神は何回この特別な聖別を使われるのでしょうか。このトピックは非常に重要です。なぜならあるエリヤが来ると約束されたのなら、彼のミニストリーとメッセージは認識され、そして受け入れられなければなりません。

    これはイエスの弟子がイエスに尋ねた質問です。

    マタイの福音書 17:10-13、「そこで、弟子たちは、イエスに尋ねて言った。『すると、律法学者たちが、まずエリヤが来るはずだと言っているのは、どうしてでしょうか。』イエスは答えて言われた。『エリヤが来て、すべてのことを立て直すのです。しかし、わたしは言います。エリヤはもうすでに来たのです。ところが彼らはエリヤを認めようとせず、彼に対して好き勝手なことをしたのです。人の子もまた、彼らから同じように苦しめられようとしています。』そのとき、弟子たちは、イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだと気づいた。」

    なぜエリヤの霊によって注がれた方がメシアの到来の先駆けとなる必要があるのでしょうか。一人目のエリヤ、つまりエリヤ本人をよく見れば、神がご自分の到来のためにご自分の民を用意する変わることのないやり方を知ることができます。

 

THE FIRST COMING OF ELIJAH

エリヤの第1回の到来

    一人目のエリヤについての記録はあまりないのです。しかし、それから続く世代が彼の断固とした性格や動揺しない性質といった本性を受け継ぐために、神は旧約聖書でそれを保たれました。彼は確かに聖書においてもっとも力のあるすばらしい預言者の一人でした。彼についての記録は簡潔であるけれども、この聖別の継続的な現れの太鼓判として機能しています。彼はギレアドの岩だらけのところのどこかから現れ、旋風の中で火の馬車に乗って神秘に消えました。バアルにひざまずかなかった人は7000人いたが、彼だけが堕落した国家の王であるアハブと彼の妻イゼベルに立ち向かいました。

    アハブはイスラエルの王でした。彼はツロのエテバアル王と同盟を結び、その娘であるイゼベルを娶りました。エテバアルはアシェラ(地中海地方が崇拝する女神)の祭司であり、彼の娘イゼベルは熱狂的に偶像崇拝を推進し、神の人々にエホバを礼拝することから離れさせました。アハブとイゼベルはバアル(地中海地方が崇拝する神)に奉納する寺院がイスラエルの中で運営することを許しました。その地域は王のひいきをうけ、第一の戒律である「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神、主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。(申命記6:4-5)」をやぶりました。

 

    エリヤは突然アハブの前に現れ、干害を預言して、こう言いました、「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。(列王記 第一 17:1)」王は革の腰巻きとマントルもしくはシンプルなローブという質素な身なりをしたこの気取らない毛深い男を払いのけました。3年間の干害が終わろうとするときに、エリヤは突然再び王の前に現れ、このときになってアハブは話を聞く気になりました。

    エリヤはイスラエル北部の海岸に面した山であるカルメル山の頂上での対決を申し出ました。ここでエリヤはイゼベルの神たちを試し、火によって答える神が唯一の真の神として受け入れられことを要求しました。エリヤは群衆の前に出て、こう言いました、「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか。もし、主が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え。(列王記 第一 18:21)」

    これからこの特別な聖別の特徴について勉強します、エリヤはこうしました:まず、彼は古くなったエホバの祭壇を修理し、決められた捧げ物を上に置きました。神が下ろされた火は、主は唯一で真実の、生きている神だと証明し、イスラエルの心をエホバに戻し、偶像崇拝から離れさせました。エリヤが群衆のこころをつかむと、400人のバアルの祭司を殺しました。それから、エリヤとイゼベルの間で戦いが続きました。

    これはエリヤの働きであり、彼のミニストリーのしるしもしくはトレードマークは:祭壇を修理して回復するし、人々の心を原本の真の信仰に戻すことによって、礼拝をされるべき方に戻すことです。

 

THE SECOND COMING OF ELIJAH

エリヤの第2回の到来

    エリヤの忠実なしもべであるエリシャは同じ霊、もしくは聖別の2つの分け前が彼に注がれることを約束されました。これは後ほどほかの預言者によって立証し、認識されました。エリコの預言者のともがらが彼を見かけて、「エリヤの霊がエリシャの上にとどまっている」と言い、彼を迎えに行って、地に伏して彼に礼をしました(列王記 第一 2:15)。エリシャはエリヤのミニストリーを続け、2倍の奇跡を起こし、その中の一つはエリシャが亡くなってからでした。亡くなった男性がエリシャの墓の中に投げ入れられ、彼の骨に触れると生き返ったのでした!「エリヤ」の聖別の継続のトレードマークは偶像崇拝に対して続く戦いに見られました。エリシャはイスラエルの心を主なる神に戻すように働きました。

    エリヤの霊を正しく認識するために、聖書を調べる必要があります。これは決して霊の生まれ変わりの意味ではありません。エリヤの聖別は神の御霊が一人目のエリヤで行ったのと同じ決定的な方法で働くことでなければなりません。聖書をさらに詳しく調べると、エリヤの聖別を受けた方々を認識する基準がわかります。

    1.偶像崇拝もしくはヤハウェ 神の偽りもしくは意味のない礼拝である間違った宗教に対抗すること

    2.必要とされる真理の回復を行うこと

    3.神の選民の心を真の信仰に戻すこと

    詩篇68:18でこう書かれています:「あなたは、いと高き所に上り、捕らわれた者をとりこにし、人々から、みつぎを受けられました。頑迷な者どもからさえも。神であられる主が、そこに住まわれるために。」これは神が自分の民の間にいらっしゃるときに見られるやり方です。神は賜物によって人を聖別され、彼らは神がご自分を表すための器となります。使徒パウロは同じ原則を立て、イエス・キリストが天に上られた後に、主から来る賜物について教えたときに、詩篇について言いました。

    エペソ人への手紙 4:7-11:

    しかし、私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。 そこで、こう言われています。「高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。」この「上られた」ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。この下られた方自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方なのです―こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。

    この聖書はあらゆるミニストリーの賜物は神から来ると明かしました。そのため、エリヤの霊は本当にキリストの御霊が特別な働きのために神のところから聖別として来るものなのです。エリヤの聖別はある個人を聖別します。ある宗派、教会、もしくは組織の一連の働きではなく、神によって分離された個人の働きなのです。

    創世記から旧約聖書のカーテンが下ろされて閉じられるマラキ書まで、神はアブラハムの子孫を使い、人に神の神性を教え、贖い主のためにこの世を整えるのに、最終的にご自分の計画を実行するのに律法を使われました。その時代の間、神の道具はこの小さくてぼんやりしていたヘブライ人の国イスラエルでした。イスラエルが国となる約650年前、神は信仰深い族長であるアブラハムに、彼の子孫は大きい国家となり、自分たちの土地を持ち、地上の人々は彼らを通して祝福されると約束されました。

    信義深いことに、まさに神がエレミヤを通して預言されたように、イスラエル人の第一回の国外追放の70年後、神はご自分の民を彼らの土地に連れ戻され、ご自分の約束を成就されました。しかし、現地の圧力と外国の台頭がその次の世紀まで続き、幻滅と皮肉が入り込んだとき、霊的な反抗が再び起こりました。

    マラキのメッセージは主の日が来ようとしていると宣告し、それは主が道を用意するためにご自分より前に遣わされる使者によって前ぶれされると約束しました。このメッセージはエリヤの霊が来て、もう一度こころを神に戻すと約束しました。メシアが来られるどのくらい前なのでしょうか。ユダヤ人、そしてもちろん全世界も約束されたこの栄光に満ちた日をどのくらい待てばよいのでしょうか。ダニエルは彼が見た幻の中から七十個の「七」という手がかりを与えられました。メシアの到来はマラキの預言から四百年以上は長引きません。マラキからバプテスマのヨハネまで、聖書は静けさを保ち、バプテスマのヨハネまで神は預言者を通して話すことはありません。400年以上イスラエルは導いてくれる預言者を持たずに衰弱します。

 

THE THIRD COMING OF ELIJAH

エリヤの第3回の到来

    エリヤの聖別の3回目の出現は天使がザカリヤに突然現れ、彼と彼の妻エリザベスに息子が生まれると彼に教えたときに起こりました。天使はエリヤの聖別は彼の息子に注ぐと伝えました。「彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子どもたちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです。(ルカの福音書 1:17)」

    このエリヤの聖別はあらかじめマラキ書にて予言されました。しかし、ルカの福音書 1:17とマラキ書 4:5-6を比べると、天使がザカリヤに宣告したとき、ヨハネにその予言の一部だけを引用したとわかります。マラキ書4:5-6に書かれていることをよく見てみると、「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ(天使が将来にもう一回来るエリヤの聖別を指す部分を残したことに注目してください。)、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」

    これを理解するために聖書に聖書を解釈させなければいけません。「彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。」この2句は何を意味するのでしょうか?

    バプテスマのヨハネは確かに父の心を子に向けさせました。彼はユダヤ人を彼らの父の信仰に向けさせました。旧約聖書の律法によれば、それは神の子、イエス・キリストに向けた新しい自由な信仰でした!

    しかしルカの福音書1:17において、天使がマラキ書4:6を引用したときに、天使は途中で止めました。彼は1節を終えませんでした。なぜならマラキ書4:6の残りの部分はヨハネのミニストリーに該当しないからでした。それは将来の子の心をその父に向けさせるエリヤのために残っているのです。この後のエリヤは末世の真の信者の関心と注意を新約聖書の教会にいた初期の使徒の父たちの信仰に向けさせます。

    この聖句の途中で止めることはイエスが御自分のミニストリーにおいてイザヤの預言を読まれたときに、御自分の第1回目の到来にのみ当てはなるものを引用されたときにも起こりました。「すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。『わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦しを、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。』イエスは書を巻き、係りの者に渡して座られた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。イエスは人々にこう言って話し始められた。『きょう、聖書のみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。』(ルカの福音書 4:17-21)」

    旧約聖書にある原本の預言を振り返ってみましょう。

    「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、」(イザヤ書61:1-2)

    ルカの福音書4:17-21をイザヤ書61:1-2と比べると、イエスは聖句の途中で止めたことに気づきます。なぜなら2節にある、「われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、」という預言はイエスの第1回目の到来ではなく、第2回目の到来に当てはまるものだからです。

    このことはヨハネの福音書1:19-23で、ヨハネがパリサイ人に彼はエリヤなのかと聞かれたときに否定したことを理解する助けになります。ヨハネは自分はマラキ書4:6のもう一人のエリヤではないということを言っているのに違いありません。なぜなら彼はキリストの第2回目の到来の先駆けとなるエリヤではないからです。あのエリヤは地球が釜のように燃やされる最後の日である、主の大いなる恐ろしい日の前に来ます。これはマタイ17:12-13においてイエスが明確にヨハネはエリヤだとおっしゃった言葉を理解する唯一の方法です。この理解がなければ、キリストの言葉と主の預言者ヨハネの言葉は相反することになります。

    キリストの第1回の到来にそなえるために人々の心を戻すエリヤの聖別が来る必要があると、旧約聖書のイスラエルの背教が示したのと同様に、キリスト教会の歴史をたどって、それが元の使徒の真理からどのように堕落したのかを調べる必要があります。この原本の御言葉からの堕落で、神はもう一度エリヤの聖別を使い、末世の子たちの心を使徒の父たちの信仰に戻す必要があるのです。

    使徒パウロは自分のことを自分の娘をある夫に嫁がせる父親のように、教会をキリストの花嫁として定めたと言っていました。しかし彼は清純な処女が夫でない者に欺かれるのと同じように、教会が誘惑され、真理から堕落するのではないかと心配していました。誘惑があまりにも強いので、教会がパウロが教えたイエスでなく、「別のイエス」あるいは「別の霊」を受け入れかねませんでした。

    コリント人への手紙 第二 11:2-4

    「というのも、私は神の熱心をもって、熱心にあなたがたのことを思っているからです。私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています。というわけは、ある人が来て、私たちの宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝えたり、あるいはあなたがたが、前に受けたことのない異なった霊を受けたり、受け入れたことのない異なった福音を受けたりするときも、あなたがたはみごとにこらえているからです。」

    パウロはさらに、イエス・キリストの再来、つまり「主の日」の前に、背教が起こると警告していました。教会があまりにも堕落し、真のキリストと主の御言葉を拒絶して、教会の中で偽のキリストを礼拝します。

    テサロニケ人への手紙 第二 2:2-4

    「霊によってでも、あるいはことばによってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙によってでも、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。彼は、すべての神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。」

    コリント人への手紙第二11章、そしてテサロニケ人への手紙第二2章はヨハネが黙示録17章で見た他の者から種を受け取った乱れた女性、淫婦と描写されたこの堕落した女性と照らし合わせることができます。これは旧約聖書にイスラエル国がヤハウェから離れ、偶像崇拝の淫行に陥ったとき、預言者たちがした描写と同じです。新約聖書の教会の淫行は最終的に自分と同じように堕落した娘たちを生み出します。

    ヨハネの黙示録 17:1-6

    「また、七つの鉢を持つ七人の御使いのひとりが来て、私に話して、こう言った。『ここに来なさい。大水の上にすわっている大淫婦へのさばきを見せましょう。地の王たちは、この女と不品行を行い、地に住む人々も、この女の不品行のぶどう酒に酔ったのです。』それから、御使いは、御霊に感じた私を荒野に連れて行った。すると私は、ひとりの女が緋色の獣に乗っているのを見た。その獣は神をけがす名で満ちており、七つの頭と十本の角を持っていた。この女は紫と緋の衣を着ていて、金と宝石と真珠とで身を飾り、憎むべきものや自分の不品行の汚れでいっぱいになった金の杯を手に持っていた。その額には、意味の秘められた名が書かれていた。すなわち、『すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロン』という名であった。そして、私はこの女が、聖徒たちの血とイエスの証人たちの血に酔っているのを見た。私はこの女を見たとき、非常に驚いた。」

    この誤った礼拝は使徒たちが伝えた原本の真理から離れることを起し、人々の心を父たちの原本の信仰から離れさせます。まるでイゼベルがイスラエルの心をヤハウェから離れさせたので、神がエリヤを遣わなければいけなかった時のようです。

    ヨハネの黙示録 2:20

    「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行わせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。」

    黙示録1-3章を注意深く読むと、イエス・キリストは御自分が将来7つの教会時代でされる仕事を示しているのを見ることが出来ます。イエス御自身が黙示録の作者です。ヨハネはただの記録者にすぎず、彼は紀元後95-96年にかけて彼に訪れた一連の幻で見たものを書き記しました。これらの幻を見ている間、ヨハネは今日のエーゲ海に浮かぶ、ギリシアとトルコの間の近くに位置するパトモス島という小さな島に収監されていました。御霊によって彼は主の日に入ったのです。ヨハネは、「私は、主の日に御霊に感じ」と言っていました。ここにある主の日は1週間の7日目の意味ではありません。主の日はイエス・キリストが来られ、世界を支配して王となり、「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。」(ヨハネの黙示録 11:15)を成就する日を指しています。

    この幻において、ヨハネは今までに見たことのないイエスの御様子を見ました。イエスは七つの燭台の間に歩かれており、右手に七つの星を持っておられました。主の目は、燃える炎のようであり、白い髪の毛と顔は主の正義でまぶしく輝き、舌は鋭い両刃の剣のようでした。この光景はあまりにも恐ろしいので、ヨハネは恐ろしさでひれ伏して倒れました。この幻で、イエス・キリストは至上神、偉大な『わたしはある』として表されました。ここでイエスは天におられます神と示されました。三位一体ではなく、唯一の神です。このことは黙示録の第1章で4回も書かれているので、間違いありません。イエスは単なる預言者ではありません、イエスは神より小さい神ではなく、第二の神でもありません。イエスは神なのです!すべての黙示で最も偉大なのは私たちの主イエス・キリストの至上の神性なのです!

    イエスが御自分の至上の神性を明かされた後、主はヨハネに七つの燭台は七つの教会であり、御自分の手にある七つの星はこれらの教会の天使もしくは使者だと教えられました。主はそれぞれの教会への手紙を口述されました。それらは小アジアにある異邦人の教会でした。これらの特定の教会にある状況は世の終わりまでにキリスト教が歩む七つの時代とマッチします。結果的に、これらの手紙は異邦人教会のための七つの時代についての預言でした。イエスはそれぞれの教会の中にいる御自分を信じる者に話しかけられ、彼らを励まし、足りないところを批判し、御自分の御言葉への信仰を保ち、勝つ者への奨励を約束されました。主はまたそれぞれの教会にいる自分はクリスチャンだと言うが、実はそうではない偽りの教会に話しかけられました。

    イエスは、「エペソにある教会の御使いに書き送れ。…」と言われることから口述を始められました。それはそれぞれの教会に御使いがいることを意味します。御使い(Angel, 天使)は使者を意味します。それらは天にいる使者ではなく、ヨハネも天にいる使者に手紙を書く必要はありません。これらの七人の使者はそれぞれの七つの教会時代に生きる、その時代の使者となる七人の方です。

    1. 黙示録 2:1-7 エペソ      53 - 170 パウロ

    2. 黙示録 2:8-11 スミルナ     170-  312 エイレナイオス

    3. 黙示録 2:12-17 ペルガモ    312 - 606 マーティン

    4. 黙示録 2:18-29 テアテラ    606 - 1520 コルンバ

    5. 黙示録 3:1-6  サルデス 1520 - 1750 ルター

    6. 黙示録 3:7-13 フィラデルフィア 1750 - 1906 ウェスレー

    7. 黙示録 3:14-22 ラオディキア 1906 -    ?     「エリヤ」

    初めの時代の使者はパウロでした。彼がキリストへ改心するとすぐ、主はパウロについてこう言われました、「あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。(使徒の働き9:15)」最初、パウロはユダヤ人にしか伝道しませんでした。ユダヤ人が彼のメッセージを拒絶すると、彼はこう言いました、「神のことばは、まずあなたがたに語られなければならなかったのです。しかし、あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者と決めたのです。見なさい。私たちは、これからは異邦人のほうへ向かいます。なぜなら、主は私たちに、こう命じておられるからです。『わたしはあなたを立てて、異邦人の光とした。あなたが地の果てまでも救いをもたらすためである。』(使徒の働き13:46-47)」

    パウロは小アジア中で異邦人の教会を設立しました。彼は自分の手紙でキリスト信仰をも明確にしました。「そこで、異邦人の方々に言いますが、私は異邦人の使徒ですから、自分の務めを重んじています。」(ローマ人への手紙 11:13)

    一つ目の教会は紀元53年にパウロがエペソで教会を設立し、イエス・キリストの御名による水の洗礼や聖霊による霊的な洗礼といったキリスト教の基礎的な教義を12人の改宗者へ教えた時から始まりました。エペソという名前は「リラックスして、ありのままでいよう。」の意味です。最初の頃、エペソ教会はパウロがイエス・キリストからの啓示によって得られた福音について行ったが、その後真理から離れ、別の教師が教える異なる福音に耳を傾けました。一つ目の教会が御言葉から離れたので、イエスは彼らにこう言われました、「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。」(黙示録 2:4)主はしかし、彼らの間で良いものも見つけられました、「しかし、あなたにはこのことがある。あなたはニコライ派の人々の行いを憎んでいる。わたしもそれを憎んでいる。」 (黙示録 2:6)

    ニコライ派(Nicolaitane)という言葉は2つのギリシア語から成っています:征服もしくは打倒の意味のNikao、そして信者、つまり聖職者ではなく、一般の信徒を意味するLaosです。これらのニコライ派は徐々に信者をコントロールし、聖霊による導きを人間による導きに変えました。このような変化は神御自身が始められた教会で起きうるのでしょうか。創世記で最初、神がカインとアベル、イサクとイシュマエル、エサウとヤコブのような動機と意図が異なった兄弟を造られたことが明かされました。すべてのケースにおいて、一人は神の真の種子で、一人はそうではありませんでした。しかし二人とも神を愛していると主張しています。イエスのミニストリーも同じで、イスカリオテのユダと真の使徒たちを生み出しました。

    同じように、一つ目の教会時代は異なった性質を持つ群衆を生み出しました。彼らのことを、「真のブドウの木と偽りのブドウの木」、もしくは「麦と毒麦」、あるいは「信徒と偽りの信徒」、または「霊的なクリスチャンと世俗的なクリスチャン」と呼べるが、すべて同じことです:真のクリスチャンは霊的な経験によって新しく生まれた者で、偽りのクリスチャンは知識に頼った者です。別の言い方をすると、一方は聖霊に満たされたが、もう一方はそうではありません。それが、ニコライ主義が教会に根ざしたわけです。霊的な経験を持つ代わりに、ある人々は教養のためや何か他の理由で、また政治的な理由でクリスチャンになった人もいるのです。これらの中の何人かが階層制度を作り出し、彼らの兄弟たちをコントロールしようとします。悪魔はこれらの世俗的なクリスチャンと彼らの政治的システムを使い教会に潜入し、最後の時代に至っては、イエス・キリストは黙示録3:20で教会の外に立たれ、ドアをたたいて中に入ろうとされました。悪魔が教会を握っているので、彼らの心は原本の信仰から離れ、そのため神は携挙できる人々を用意するのにもう一度エリヤを遣わされます。

 新約聖書最後のラオディキア教会時代は1906年に神がアメリカカリフォルニア州ロサンゼルス市のアズサ・ストリート・ミッションの群衆に聖霊の賜物を回復された時から始まりました。あの小さなグループのクリスチャンを口火にして、聖霊の賜物は教会中に広がり、世界規模のリバイバルである現代のペンテコステ運動になったのです。ああ、悲しいかな。約束から始まったものが時が経つのにつれて宗派となったのです。これらのペンテコステの人々は自分たちの運動を組織化し、教義のフェンスを立て、コンクリートのような堅い囲いを作り、ドアを堅く閉めたので、聖霊は彼らをそれ以上高いところまで導くことができませんでした。イエスはラオディキア教会時代を非難してこう言われました、「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録 3:20)

    旧約聖書が御言葉よりも重視される人の伝統に囲まれた宗派で終わるように、新約聖書時代も数々の宗派の教義で囲まれた宗教の世界で幕を閉じます。

 

THE FOURTH COMING OF ELIJAH,

IN THE LAST CHURCH AGE

最後の教会時代においてのエリヤの第4回の到来

    ラオディキアは7つ目でイエス・キリストが地上に戻られる前の最後の教会時代です。今回主は審判のために戻られます。マラキがこう予言しました、「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、・・・子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」したがって、最後の教会時代に遣わされる使者はバプテスマのヨハネのように、エリヤの霊を持っています。

    この偉大なエリヤはラオディキア時代に来て、使徒の原本のメッセージを持ってきて子を父の信仰に向けさせます。エリヤがイスラエルを非難したように、彼はラオディキアのクリスチャンたちを非難し、なぜなら彼らは原本の与えられたものと同じ信仰を維持できなかったためです。エリヤの霊がヨハネに注がれたとき、その霊は伝道を続け、奇跡を行いませんでした。それはイエスは彼のすぐ後に来るので、主がメシアと認識されるためには奇跡としるしが必要だったからでした。マラキ書4:2に書かれていますように、「 しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、いやしがある。」ヨハネが大きい奇跡を行う必要はなかった、なぜなら彼の仕事はキリストの到来を知らせるものだったからです。

    バプテスマのヨハネがパリサイ人とサドカイ人の宗派に拒絶されたのと同じように、この末世のエリヤは誤解され、様々な宗派から拒絶されます。主が来られる前に、彼はあまりにも偉大で力に満ちた人なので、ヨハネがキリストに間違えられたように(ルカ3:15、ヨハネ1:19-20,3:28)、人々は彼をメシアと間違えます。このエリヤの聖別を受けた最後の時代の使者を認識することができるのでしょうか。

    まず、彼は力のある預言者で、エリヤ、エリシャ、バプテスマのヨハネと同じように神の御言葉に忠実です。キリストの御霊は数多くの失敗することのないしるし、賜物、超自然の不思議で彼を示され、彼は復興のメッセージをもたらし、子のこころが1つ目の時代にある初期教会の父である使徒たちの信仰に戻します。エリヤがイゼベルと彼女の偶像崇拝に対抗するように、彼は偽りの教会と彼らの教義に対抗します。バプテスマのヨハネは同じ霊に注がれ、ユダヤ人の宗派に彼らの人が作った伝統から悔い改めるように呼びかけたことで同じことを行いました。彼らは自分たちのことを神の御言葉よりも上に上げたので、メシアを受け入れるためにはこころの準備をするために悔い改める必要がありました。神の御霊がエリヤの霊を地上の使者に注がれるといつもその人は組織化された宗派に拒絶されます。そのため、真の神の御霊は聖別したエリヤを通して今日の現代的なキリスト宗派を拒絶し、大声でそれに対抗します。

    エリヤ、エリシャ、そしてバプテスマのヨハネのように、この終わりの時の預言者は荒野を愛する者です。彼は名が知れ渡る者ではありません。ティシュベ人エリヤも名が知れ渡る人ではないし、若い頃から荒野に行っていたバプテスマのヨハネも知られませんでした。エリシャは質素な農夫でした。同じように、この末世の預言者は人によって選ばれたわけでもなく、神学校によって訓練されたわけでもありません。逆に、今日のこの預言者は神によって選ばれ、御霊から知識と啓示を受けます。

    一人目のエリヤはイスラエルが異教の手から解放されようとするときにやってきました。ヨハネも解放の時に来ました。ヨハネはこう言ったのでした、「私はキリストではなく、その前に遣わされた者である。花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」(ヨハネの福音書 3:22-30)ヨハネはイエスが来られた直前に伝道を行い、群衆に知られるようになりました。イエスをメシア、神の子羊として紹介するのにちょうど良い時期でした。教会の携挙の前に来るエリヤは神の子の心を御言葉であるキリストに向けさせます。

 

THE FIFTH AND FINAL COMING OF ELIJAH,

TO THE JEWS IN ISRAEL

イスラエルにいるユダヤ人のためのエリヤの第5回、そして最後の到来

    贖いの書には「印を押された十四万四千人」として知られるユダヤ人の選民をも含んでいます。ここでも心を向けさせることが必要です。このとき、ユダヤ人の父たちは心を振り向いて御子と主の使徒たちを受け入れます。彼らは約2000年前にまさにこちらのキリストを拒絶したのです。今日、ユダヤ人の信徒たちは世界中から集まって、彼らに約束されたメシアを受け入れるために、故郷に帰りました。彼らは自分たちの礼拝の聖殿を持つことを切望しています。彼らは七本枝の燭台、赤い雌牛などの様々な聖殿のものを再現できたのです。これらの誠実なユダヤ人はもう一度、血の捧げものをしようと望んでいます。なぜなら彼らは血がなければ罪の赦しはないと知っているからです。メシヤの黙示が来る前に、彼らの心を向けさせる預言者が来ます。彼はユダヤ人の心を伝統的な動物の捧げもの、安息日を守ること、祝祭日から方向を変え、それらのことはイエス・キリストで成就されたと教えます。ユダヤ人は彼らの最後の、そして最終のしるしを受け入るはずです。彼らの心は振り向いて、彼らが拒絶した御子と使徒たち、つまり子らを受け入れるはずです。彼らは自分たちの時代とそのメッセージを認識し、神の御国の印を押されるはずです。

 

ELIJAH’S MINISTRY BEFORE THE RAPTURE

エリヤの携挙の前のミニストリー

    同様に、キリスト教会はイエスの再来と約束された復興の日を認識しなければなりません。なぜならイエスは万物の改まる時まで戻られません。「それは、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにメシヤと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです。このイエスは、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの万物の改まる時まで、天にとどまっていなければなりません。」使徒の働き3:20-21

    神の選ばれた教会の心は世俗な教会の伝統と宗派の派閥から離れ、聖書の生ける神に向けなければなりません。人と教会の伝統の命令による支配と導きを捨てて御言葉に戻らなければいけないとパウロは福音を述べ伝えて言いました。主の再臨を待ち構え、主と空中で会うためにはこうしなければなりません。

    聖書の霊的な指示でエリヤの霊に注がれた預言者がキリストの再臨の用意をするために遣わされます!エリヤの霊に注がれた預言者が信者の心を主を迎えることへ向けさせないことには、イエス・キリストは来られません。こうするために、人の伝統を捨ててわきにやらなければなりません。父である使徒たちが教えた御言葉の真実は純粋な教会でもう一度回復することは絶対に必要です。バプテスマのヨハネが来たときにパリサイ人とサドカイ人の宗派がこうすることができませんでした。同じように、宗派と彼らの訓練された神学者はこのことはできません。預言者が必要です。なぜならそれは神が話される唯一の方法だからです。神は宗派や宗教の派閥を通して御自分の御言葉を明かしたことは一度もありませんでした。「まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。」アモス書 3:7

    「イエスは答えて言われた。「エリヤが来て、すべてのことを立て直すのです。」マタイの福音書 17:11