封印をとく - Breaking The 7 seals

88th chapter of

Supernatural The life of William Branham

By Owen Jorgensen


 

神は簡易さのうちに隠れられる

    1963年3月17日、日曜日の朝、ウィリアム・ブランハムは新しくなったばかりのブランハム・タバナクルの説教壇に立ち、黙示録6、8章に現れる七つの封印についての説教を始めようとしていた。彼は説教の前に、改装されたばかりの会堂の献堂式をした。会堂の北の壁を30フィート広げ、外側を赤いレンガで覆ったのだ。また礼拝堂の内壁は新しく木のパネルで覆われた。とはいっても、ずっと変わらないものもあった。説教壇の後ろの壁には、13年もずっと同じ写真が飾ってあった。それはテキサス州ヒューストンで撮られた、火の柱がウィリアム・ブランハムの頭の上にとまっているのを捉えた写真を引き伸ばしたものだった。会堂の中の椅子はいままでどおりの、1950年代からずっと使っている映画館スタイルの椅子だった、もちろん新しく足された椅子もあったが。いま、会堂は満席だった。「30年前、まだこの土地に沼があって睡蓮が咲いていた頃に、わたしはこの会堂をイエス・キリストにささげました。睡蓮は不思議な花です。泥の中で生まれて、日光を浴びようと泥と水を押しのけて、水上に頭を出して、美しく咲きます。同じことがここにも起きたのです。わたしが若かったころ、睡蓮が泥水を押しのけて、水上に頭を出し、谷間のゆりであるイエス・キリストのように花咲いていたのです。

    ビル(訳者注:ウィリアムの愛称)はそしてマタイの福音書11:25~26を引用した。

25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。26 そうです、父よ。これが御心にかなったことでした。

    ビルはこの説教の題目を、「神は簡素さのうちに隠れ、簡素なものに御自身を現される」(God hiding Himself in simplicity, Then reveals Himself in the same)と名づけた。「多くの人々は神の御自身の現わし方によって神を見逃します。たいていの人は、神はこうあるべきだとか、こうするはずだとかについて、自分の考えを持っています。多くの人々は神が過去におこなった御業を称え、未来に神がなされる御業を待ち望み、しかし神がいま現在行われている御業は見落とします。彼らは神を見失ってしまったのです。過去を振り返り、神の素晴らしい御業を見ますが、神はシンプルなものを用いて、素晴らしいことを行ったのだということは見逃します。また、彼らは預言されている神の御業を待ち望みますが、それらは十中八九、もう彼らのまわりで成就されていて、あまりにもシンプルなことなので認識できなかっただけなのです。」

    ビルは洗礼者ヨハネを例に出して話した。イザヤ書40章3-4で預言されたメシアの到来を告げる人物はとても力強く、山を低くし、谷を起し、すべての道を整えると書かれている。700年後、ひげを生やしラクダの毛皮を着た男がヨルダン川の辺に立って人々に説教した。「悔い改めなさい、天の国は間近に迫っている。」ヨハネは教育がなく、お金も名声も、優雅に話す術もマナーも何も持っていなかった。それでも、洗礼者ヨハネは彼について書かれた預言のすべてを成就したのである。ヨハネのミニストリーはとても簡素で洗練されていなかったため、同時代の学者や聖職者たちのほとんどが神の御業を見過ごしてしまった[マラキ書3:1; マタイの福音書3:3; マルコの福音書1:3; ルカの福音書1:76; 3:4; ヨハネの福音書1:23]。

     そしてビルは最も偉大な例、メシアのイスラエルへの到来について話した。イエスは偶然によるのでなく、神の御計画によって馬小屋で生まれた。イエスは庶民の家庭で育ち、大工の仕事を学んだ。イエスがそのミニストリーをはじめたとき、彼は村々を廻って、病の人を癒し、神の国について人々に教えた。イエスは自分の着物とサンダルは持っていたが、それ以上はなにも持っていなかった。彼の生涯はとても地味で質素なものだったが、それでもイエスは神が人類に与えられた最も素晴らしい贈り物なのである。何故、同時代の学者や聖職者たちはイエスはメシアで、神の油注がれた方だということがわからなかったのだろうか。それは彼らが、何か派手で豪華で、彼らが聖書から誤って解釈した想像の絵にあうようなものを求めていたからだ。彼らは神が、預言の解釈を、成就することによってなされるということを知らなかったのである。

    イエスの弟子たちが、師匠が実は約束されたメシアであることを知ったとき、こう訊いた。「何故聖書にはエリシャが先に来ると書いてあるのですか?」それについてのイエスの答えは、「彼はすでに来たが、彼らは知らなかったのだ。彼らにはわからなかったのだ。」[マタイの福音書 17:10-13;マルコの福音書9: 11-13]。イエスはもちろん、エリシャの霊を受けた洗礼者ヨハネについて話していたのである。ビルは言った。「これを言うと皆さんは驚くかもしれません、しかし言いましょう、携挙も同じようにして起こるのです[コリント人への手紙第一 15:51-52;テサロニケ人への手紙第一4:16-17]。携挙はとても地味に行われるので、神の裁きが下る日まで人々はそれに気づかないでしょう。人々は神の人を見て言うのです、『わたしたちにエリシャが送られるはずだったのではないのですか?携挙がおこるはずではなかったのですか?』それに対してイエスさまが言うでしょう、『それはすでに起こったが、あなたがたは気づかなかったのだ。』これが神は簡素さのうちに隠れられるということなのです。」

すきま (The Breach)

    1963年3月17日の日曜日の夜、ウィリアム・ブランハムは、教会の7つの時代(Seven church ages)と7つの封印のあいだの隙間についての説教をした。これは教会の7つの時代について書いてある黙示録の2章と3章、そして7つの封印について書いてある6章と8章の間にある隙間、黙示録の4章と5章について言ったものである。4章と5章は天における出来事が、キリストの教会に勝利を得させることについて語っている。キリストの花嫁は3章の終わりで天に挙げられ、19章まで地上には帰ってこない。つまりキリストの花嫁は大艱難を経ることがないのである。しかしながら、この4章と5章は天で起こった出来事であり、天は地上の時間の枠からは外れたところにあるのである。これらのことは永遠での出来事だと覚えておかねばならない。

    黙示録の4章でヨハネは、御座に座られた神が、鮮やかな虹に囲まれているのを見た。稲妻と雷鳴が神の周りで響き渡り、神の顔は宝石のように輝いておられた。神のまわりには、6つの翼とたくさんの目を持った、4つの生き物がいた。1つ目の生き物はライオンのようで、2つ目の生き物は牛のよう、3つ目の生き物は人の顔をしており、4つ目の生き物は鷲のようであった。御座のまわりには24人の長老たちが座っていた。神の玉座の前には7つのともし火があり、それぞれが7つの神の霊を意味していた。

    ビルはヨハネの黙示録の5章を読んだ。

1 また、私は、御座にすわっておられる方の右の手に巻き物があるのを見た。それは内側にも外側にも文字が書きしるされ、七つの封印で封じられていた。

2 また私は、ひとりの強い御使いが、大声でふれ広めて、「巻き物を開いて、封印を解くのにふさわしい者はだれか」と言っているのを見た。

3 しかし、天にも、地にも、地の下にも、だれひとりその巻き物を開くことのできる者はなく、見ることのできる者もいなかった。

4 巻き物を開くのにも、見るのにも、ふさわしい者がだれも見つからなかったので、私は激しく泣いていた。

5 すると、長老のひとりが、私に言った。「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。」

6 さらに私は、御座―そこには、四つの生き物がいる―と、長老たちとの間に、ほふられたと見える小羊が立っているのを見た。これに七つの角と七つの目があった。その目は、全世界に遣わされた神の七つの御霊である。

7 小羊は近づいて、御座にすわる方の右の手から、巻き物を受け取った。

8 彼が巻き物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老は、おのおの、立琴と、香のいっぱい入った金の鉢とを持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒たちの祈りである。

9 彼らは、新しい歌を歌って言った。「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、10 私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」

    黙示録の5章で神が手に持っていたのは、いまわたしたちが知っているような本ではなかった。それは巻物で、一枚の羊皮紙かパピルスから出来ていた。ヨハネはそれの形について特には述べていないが、古代の巻物をみると、それがどういったものなのかを想像することができる。巻物は書き終わるとくるくるとまとめられて筒に収められた。もし誰か特別な人に向けて書かれた物ならば、パピルスの端に蝋が落とされて、その上にサインなどが彫られたはんこを押した。はんこはたいてい指輪になっていた。これは、誰かその巻物を読む権威のある人が現れるまで、それを秘めておくのにとてもいい方法だった。

    ヨハネが見た本はまた、両側に文字が書かれていた。外側には黙示録の6章と8章で語られたシンボルが書かれており、内側にはその解釈が書かれていた。そしてその解釈が、そこに書いてある謎の啓示、答えなのである。7つの封印はどういうふうに巻物にくっついていたのだろう?それはだれにも確かなところはわからない。それは内側にリボンからつる下がって栞のようになっていたのかもしれないし、7つの紙が一緒に巻かれていたのかもしれない。またはひとつの巻物に7つの封印が並んで押されていたのかもしれない。しかしそれがどんなふうだったかというのは、その中身に比べれば全く重要なことではない。巻物は神の霊によって封印されていたのだ。もっと正確に言えば、それぞれの謎は、神の別々の霊によって封印されていたのだ。それは神の御座の前にあった7つのともし火である。封印は完成したものを意味する。たとえば聖霊は一人のクリスチャンの印である。聖霊は、神の国を待ち望むクリスチャンを、神の贖いが完成するまで封印する。[エペソ人への手紙1:13-14; 4:30; ローマ人への手紙8:22-23]またほかにもマタイの福音書27章と28章にも良い例がある。イエスが墓に納められたあと、ローマ兵がその墓の入り口に大きな石を置き封をした。イエスが復活したとき、主の天使がその封印を解き、石を転がして墓の入り口をあけた。

    ビルは黙示録の5章で現れる巻物は、贖いの書だと教えた。これはアダムがエデンの園で罪を犯したことで失われたもののすべての所有権の要約である。最初、アダムは、なにひとつ欠けることのない完璧な世界を支配する権威を与えられていた。アダムは一番最初の神の息子として、神に次いで世界を支配していたのだ。また神はアダムに、自分の進みたい道を選ぶ自由も与えていた。イブが神の言葉を自分のいいように解釈して罪を犯し、アダムがそれをかばって自分もまた罪を犯したとき、アダムは持っていた権力、そして永遠の命を失ったのだった。死がこの世界に入り込んだ。それは神が、「しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」[創世記2:17]といわれたとおりである。アダムが永遠の命と世界を支配する力を失ったとき、その権利はもとの持ち主である主の手に戻った。そして神はそれを7つの封印で封じて、サタンの手に落ちないようにした。贖いの計画のすべては、この7つの封印をされた巻物の中にあり、それは誰か巻物の封印を解くことのできるひとがきて、エデンの園で失われたものを贖うのを待っているのである。

    とはいえ神は贖いの日を無為に待っているような方ではなかった。何千年にもわたって、神は預言者たちに霊を与え、贖いの計画をすこしずつ紙に書かせた。のちにこれらの書はまとめられて聖書となった。イエスの復活からいままで、神の祝福を受けた人たちが、聖書の言葉を理解しようと努力し、いくらかの成功を収めた。しかし、彼らは決して神の計画の全体図を獲得することはできなかった。イエス・キリストがその計画の重大な鍵を握っているのは明らかである。イエスの死とそれに続く復活が、何の変哲もないふつうの人々の中に、神の霊が住むことを可能としたのである。ほかの問題はもっと難解である。たとえば神の性質について、そして聖霊のバプテズマを受けた証拠などである。それについてはさまざまな教えが出回っているが、神はそのご計画の全体図を、時が来れば人々に明かすと約束された。

    「贖う」という言葉は、決められた金額を払って所有権を取り戻す、という意味である。「贖いの書」を開くことのできるひとは過去にも未来にも誰もいなかった、だからヨハネは激しく泣いたのである。旧約聖書に出てくるイスラエルの父祖たちもできなかった、エノクも、ノアも、アブラハムも、ヨセフも。旧約聖書の預言者たちもできなかった、モーセも、エリシャも、ダニエルも、洗礼者ヨハネも。新約聖書の使徒たちもできなかった、マタイも、ペトロも、ヤコブも、ヨハネ自身も。教会時代の使徒たちも出来なかった、パウロも、イレニアスも、マルティン・ルターも、ジョン・ウェスリーも。天には、天使やケルビムなどの、罪を犯したことのない生き物がいるが、彼らも贖いの書を開くにふさわしいとされなかった。神の法が、堕落した人類を贖う者は人に近い者でなくてはならないと定めていたからである[レビ記25:47-49; ルツ記3- 4章]。子羊が現れるまで、アダムが失ったものを贖うのにふさわしいほど正しく力強い人は現れそうにもなかった。ヨハネが泣いたのは、贖いの書を開くことのできるひとが現われなければ、人類は永遠に失われたままだと知っていたからである。私たちがキリストにおいた望みが無駄になってしまうところであった。

    24人の長老の一人がヨハネに言った。「泣くのではない、ヨハネよ。ユダ族の、ダビデの末裔であられる方が打ち勝たれたからだ。」打ち勝つというのは、組み合って負かすということである。(英語ではprevail)それはイエスがゲッセマネの園でしたことでもある。イエスは血が汗として流れるまで祈り[マタイの福音書26:36-46; マルコの福音書14:32-42; ルカの福音書22:39-46 ]、十字架での死から逃れようとする肉の思いに打ち勝ったのだ。ヨハネは、力強い獅子が現れるものと期待した。しかし彼が見たのは7つの角と7つの目のある子羊だった。子羊の白い毛は、十字架での苦しみのために血で赤く染まっていた。イエスはすべてのことにおいて神の御言葉を守られたので、打ち勝たれたのだ。実にイエスこそ、アダムが失ったものを贖うにふさわしい人であった。

    ヨハネは、子羊が現れるまでその存在に気がつかなかった。だからふさわしい人は誰もいないと嘆いたのである。子羊はどこから来たのだろう? 子羊は父なる神の御座に、十字架で死に復活したその時からずっと座っていたのである。イエスは十字架で死に復活した時からずっと、神の右の座(right hand of God)に座り、ずっと聖なる人たちのために仲介者となってくださっていたのだ。教会の7つの時代の間ずっと、神のご計画の全体像を知らずにその時その時の光に従って行動する人々のために、神の御慈悲を祈られていた。しかしいつか、イエスの仲介者としての役目の終わる日がくるのである。神が選ばれた人々の最後の一人が、神の印を受ける日が来たならば、もうこれ以上、イエスの仲介者としての役割は必要なくなるのだ。そうすると、慈しみの御座は裁きの御座にかわる[ヨハネの黙示録19:7-9出エジプト記25:1-22; レビ記16:2; 民数記7:89; ヘブル人への手紙 9:3-5]。ヨハネは子羊が王座に座っておられる方の右の手から巻物を受け取るのをみた。ビルはここから、彼の説教を黙示録10章に移した。

1 また私は、もうひとりの強い御使いが、雲に包まれて、天から降りて来るのを見た。その頭上には虹があって、その顔は太陽のようであり、その足は火の柱のようであった。

2 その手には開かれた小さな巻き物を持ち、右足は海の上に、左足は地の上に置き、

3 獅子がほえるときのように大声で叫んだ。彼が叫んだとき、七つの雷がおのおの声を出した。

4 七つの雷が語ったとき、私は書き留めようとした。すると、天から声があって、「七つの雷が言ったことは封じて、書きしるすな」と言うのを聞いた。

5 それから、私の見た海と地との上に立つ御使いは、右手を天に上げて、

6 永遠に生き、天とその中にあるもの、地とその中にあるもの、海とその中にあるものを創造された方をさして、誓った。「もはや時が延ばされることはない。7 第七の御使いが吹き鳴らそうとしているラッパの音が響くその日には、神の奥義は、神がご自身のしもべである預言者たちに告げられたとおりに成就する。」

    この天から降ってきた天使は、頭に虹をいただき、契約の天使として現れられたイエス・キリストにほかならない。彼が手に持っている巻物は、黙示録5章で閉じられたのと同じ巻物である。またイエス以上に偉大な方はほかにおられないので[ヘブル人への手紙6:13-20 ]、彼は自分自身にかけて誓われたのである。神は第七の天使がラッパを吹くとき、つまり第七の教会のメッセージが語られるとき、神の謎はすべて明かされると約束された。この地上で明かされられるものはすべてである。 神の謎についての問題を終わらせるために、第七の教会のメッセンジャーは預言者でなくてはならない。洗礼者ヨハネがマラキ書4章5節から6節を成就したように、この最後の日の預言者はその預言の残りの部分を成就しなくてはならない。それは、「子の心を父に向け」、神の子たちの信仰を、初期教会の父たちの信仰にあわせることである。ヨハネと最後の時代の預言者には共通点がある。その役目だ。洗礼者ヨハネはただの預言者よりも偉大な人物であった。彼はメシアの到来を告げ、人々を準備させるという役目があったからである[マタイの福音書11:7-12; ルカの福音書7:24-28]。ヨハネは、聞く耳のあるものたちにキリストを証明した。同じように、第七の教会の時代のメッセンジャーは、預言者型の使者で、聞く耳のある者たちにキリストを伝え、彼らの心をキリストの再臨に備える。

    ビルは言った、「第一の教会(エフェソ)から第六の教会(フィラデルフィア)の時代まで、人々は贖いの計画について研究してきましたが、第七の教会の時代(ラオデキア)になり、第七の天使がラッパを吹くまで真実は明かされません。第七の使者は、他の人が解けなかったすべて神にまつわる未解決の問題を解決し、神からの啓示を得て、神の啓示のすべてを明かします。そうすれば、神の神格(Godhead)などの問題もすべて答えを得ます。すべての謎、サーパントの種(serpent’s seed)なども明かされます。」

    「これらのことはわたしが創り上げたのではありません。これは、『主はこういわれる』、神が私に教えてくださったことです。そしてこれらのことは黙示録に載っているのです。「 第七の御使いが吹き鳴らそうとしているラッパの音が響くその日には、神の奥義は、神がご自身のしもべである預言者たちに告げられたとおりに成就する。」預言者たちとは、神の言葉を書いた預言者たちです。第七の天使がラッパを吹くとき、すべて、いままで研究されてきた未解決の問題は解決します。そして封印がとけ、謎がとけたときに、虹を頂いた天使、イエス・キリストが、片足を地に、片足を海につけて地上に降りてこられます。

    ビルはこの説教の最後に、イエスが教えた寓話、10人の乙女について話した[マタイの福音書25:1-13]。10人の乙女の全員がランプを持っていた。しかしそのうちの5人だけが、賢くも油を一緒に用意した。花婿の到着が遅れ、全員が眠りに落ちた。真夜中に「見ろ、花婿の到着だ!外に出て出迎えなさい!」という声を聞いたとき、愚かな乙女たちは自分たちが油を持っていると信じ込んでいた。しかしランプに火がともらないので、彼女たちは誤りに気づき油を手に入れようと急いだ。彼女たちが油を買いに行っている間に、花婿が到着した。賢い乙女たちは花婿と共に婚礼の宴にいった。そして扉は鍵をつけて閉められ、愚かな乙女たちは締め出されてしまった。

    ビルは言った、「10人の乙女たちが寝ていた間に、音がし声がし叫び声がした。何が起きたのでしょう?乙女たちは皆起き上がってランプの準備をしました。賢い乙女たちは花婿とともに婚礼の宴に行き、愚かな乙女たちは大艱難の時代に残されました。嘆き、泣き叫び、歯軋りしながら[マタイの福音書22:1-14 ]。残されたのは教会であって、花嫁ではありません。キリストの花嫁は婚礼の宴にいったのですから。これが教会と花嫁の違いです。」

    なぜ封印が解かれたのでしょう?それは最後の教会の時代に真実を明かすために解かれました。子羊は神の真実を御自身の花嫁たちにあかし、御自身に属する者たちをその王国に取り戻すために封印を解かれたのです。いま、神は御自身に属する者たちを取り帰そうとなされているのです。」

    「傷ついた子羊が永遠から、父なる神の御座から歩み出て御自身の権利を取り戻されるとき、慈しみの御座(mercy seat)は裁きの座に変わります。イエスは子羊から獅子、王になられるのです。そして女王を呼び御自身の横に立たせられます。パウロが『あなたがたは聖なる人たちが世界を裁くようになるのを知らないのですか?』と言った通りです。」[コリント人への手紙 第一 6:2]イエス・キリストはカルボリの丘で御自身を犠牲にされたとき、花嫁を完全に買い戻された。残忍なローマ兵の手にかかり十字架につるされたときイエスは「成し遂げられた!」[ヨハネの福音書19:30]と叫ばれた。しかしそれからもまだイエスは、ご自分の贖いで買い戻された人々への権利を主張しなくてはならなかった。最後の一人が偉大な羊飼いの囲いに入るとき、神の偉大な贖いの計画は完了する。

第一の封印 黙示録6章1-2節

    神の御座の間についての背景を説明し終わり、ウィリアム・ブランハムはいよいよ7つの封印の謎について教えるところだった。その責任の重さを十分に知っていたので、彼は一週間、隠遁して神との時間を持つことに決めていた。朝早く書斎に入るとほぼ一日をそこで過ごした。妻のメーダはアリゾナ州ツーソンに学校のある子どもたちと残っていたので、家の中はとても静かだった。

    ビルは黙示録の6章1-2節を読み始めた。

1 また、私は見た。小羊が七つの封印の一つを解いたとき、四つの生き物の一つが、雷のような声で、「来なさい」と言うのを私は聞いた。
2 私は見た。見よ。白い馬であった。それに乗っている者は弓を持っていた。彼は冠を与えられ、勝利の上にさらに勝利を得ようとして出て行った。

    「さて主よ、これは何を意味しているのでしょう?」ビルは部屋中を行ったり来たりしながら神にたずね、ひざまずき祈った。また少したつと彼は聖書を取ってもう一度この2章を読み返した。どういう意味なのだろう?彼は他の人がどういうふうにこの部分を教えているかを知っていた。最近彼は黙示録について書かれた本を三冊読んだのだ。それらの著者の有名な神学者たちは皆この白馬の騎手について同じ意見を持っていた。黙示録のなかでは、馬は権力の象徴である。白馬は清らかさ、神聖さ、正義を暗示する。それゆえこの白馬の騎手は、第一の教会の時代にイエス・キリストの愛を持って世界を征服し始めた聖霊に違いないと、彼らは書いていた。

    この説は妥当に思えた。何時間もこのことについて祈ってからビルは何の違和感も感じなかったので、この角度から第一の封印を考えようとした。ビルは机の前に座りペンを片手に、メモ帳を取り、膝に聖書を置いていつでも御言葉を確かめられるように準備した。彼が最初の一言をメモに書こうとしたそのとき、部屋の空気が突然変わった。彼は聖霊が部屋に入ってきて、火の柱が自分の前につり下がっているのを見た。その霊の存在の形が彼になにか間違えたことがあったのだと察しさせた。何度体験してもこれには慣れなかった。永遠の炎を見つめると、彼は第一の封印が解け、巻物が開かれるのを見た。ビルはペンを取り、説教を書き始めた。

    日曜日の夜6時30分にブランハム・タバナクルの扉が開いた。7時30分、ビルは教会の牧師専用の書斎から出て、説教台の前に立ち会衆たちに挨拶した。まず「すきま」(The Breach)の復習をしてから、彼は第一の封印について話し始めた。子羊が巻物を受け取ったとき、ヨハネは雷のなる音を聞いた。簡単に言えば、それは神の声だったのである。ビルは、ヨハネの福音書12章23-29節を用いてこれを示した。それはイエスが大声で祈ると天からの声がそれに答えたのだが、イエスの周りにいた人にはそれが雷の音に聞こえたという箇所である。

    次に、御座のまわりの4つの生き物のうちのひとつが大声で、「出て来い」といった場面である。ビルは獣が黙示録の中では権力を象徴するという意見では、他の神学者たちに賛成していた。これらの4つの生き物たちはそれぞれ、獅子、雄牛、人間、鷲に似ており、4つの福音書の書き手であるマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネを象徴している。

    それから白馬の騎手である。ビルはこれが最初の教会の時代にキリストの愛をもって世界を征服した聖霊だという神学者たちの意見を紹介した。ビルは言った、「これは確かに正しいように聞こえます、しかしこれは真実ではありません。わたしが神から頂いた啓示はこれです。キリストと聖霊は同一人物であって、ただ現れの形が違うだけです。だから、一方に子羊であるキリストが巻物を片手に立ち、もう一方に白い馬に乗った人がいる、これは聖霊ではありえません。」

    「これもまた最後の日に明かされる真実のひとつです。どうすればキリストが3人であってまたどうして1つの神になれるのか。父と子と聖霊は、三位一体主義者がよくいうように別々の人格ではありません。父と子と聖霊はひとつの霊の3つの違った現われ方なのです。3人の神ではなく、1人の神の3つの性質、役割なのです。だからどうすれば、一方にキリストが立って巻物を掲げ、そしてもう一方で白馬に乗って世界を征服できるのでしょうか。それはありえません。だからこの白馬の騎手はキリストではないのです。」

    もし、この白馬の騎手がキリストでないのなら、いったい誰なのだろう?ビルはこの騎手は反キリストの霊の象徴であると教えた。白い馬は偽装である。その騎手は教会に反キリストの霊を浸透させるため正義らしさを装っている。イエスは、反キリストの霊はとてもよく聖霊に似ているので選ばれた人以外はみな惑わされてしまうとおっしゃっている[マタイの福音書24:24; 使徒の働き20:29]。この白馬の騎手は、弓を持っているが矢は持っていない。彼ははったりである。彼には何の霊的な力もない。サタンはペテンで政治的な力を操る。サタンはローマ帝国の政治力を使ってイエスを殺した。それでも神の贖いの計画を止められないことを知ったサタンは、次の目標として生まれたばかりのクリスチャンの信仰を広まる前に潰してしまおうとした。サタンは、パウロを含むほとんどの使徒を殺すことに成功した。彼はローマの皇帝ネロを使って、キリスト教を非合法化するのにまで成功した。それによって何千人ものクリスチャンが殉教したのである。それでも、サタンは福音が広まるのを止めることができなかった。そこでサタンは作戦を変え、自分が教会に入り込んでしまうことにした。自分も信者の一人であるかのように見せかけながら、彼は組織的にパウロの語った福音を歪めた。彼の目標は普通の信者たちを征服することだった。黙示録の2章6節に神はニコライ派の教えを憎んでいると書いてある[ヨハネの黙示録2:6]。コライ(Nicolatan)という言葉は「大衆を征服する」という意味である。サタンは教会を聖霊ではなく人が指導するようにさせた。サタンはある人々をそそのかして、人の上に立つようにさせた。サタンの長期計画は、一人の人を他のすべての人を支配するようにさせることであった。この計画は教えから始まったのではなく、ひっそりと人々の間の霊から始まった。その霊は教会を組織化させようとするものであった。これは霊から始まり、次に見解になり、最後に行いとなった。次第にそれは教会の教義となり、ローマのコンスタンティヌス帝によってキリスト教が国教化した時、それらの教えは法律にまでなってしまった。コンスタンティヌス帝はこの新しい宗教が、彼の膨大な国民たちに受け入れられるようになるため、キリスト教の教えに異教の考えを混ぜ合わせた。この新しい宗教が人々の口に甘く感じるようにした。この新しい国家宗教を運営するために、コンスタンティヌスはローマ・カトリック教会を立ち上げた。紀元325年、彼はビサニアのニケアの街、いまのトルコで会議を開き、教会の教義について話し合い、司教たちの投票によって正統な教義を決めた。彼らはそこで、三位一体の神を自分たちの神とすると決めた。それは神には3つの神格があるという考えである。3つの神格は互いに同等であると、彼らは教えた。ここから、教会の過ちは指数関数的(訳者注:急速的に)に広まった。ローマ・カトリック教会が教皇を選出したことから、サタンは1人の男に聖霊のかわりに教会を支配させるという夢を果たした。

    第一の封印の白い馬は、これらのすべてが最初どれほど無害そうに見え、潔白そうに始まったかを表している。ヨハネはその手紙の一つで[ヨハネの手紙 第一2:18]、初期教会の時代でもうすでに反キリストの霊が地上に現れていると書いている[ヨハネの手紙 第一2:18]。事の始めから、サタンは王として冠をかぶ、神のように賛美されることを願っていた。異教のローマがローマ・カトリックとなり、教皇がローマ・カトリック帝国の支配者となったとき、サタンは冠を手に入れる方法を見つけた。反キリストの霊が教皇にはいり、教皇は偽の教えを教える偽預言者となった。偽預言者の成功は歴史上長く続いた。ローマ・カトリック教会は黙示録の17章に出てくる大淫婦となった。御言葉を歪め、世界を彼女の淫行、つまり反キリストの霊によって毒したのである。(すべて神の御言葉に反するものは反キリストである、なぜならキリストこそが御言葉だからだ。[约ヨハネの福音書1:1])最終的に、この大淫婦は多くの娘たちを持つに至った。彼女たちは母親とは異なっているものの、反キリストのシステムを受け継いだ。

    最後の時代には、この偽預言者は黙示録13章に書かれた獣になる。この獣は大艱難の時代に世界の経済を牛耳ることになる。(キリストの花嫁はこのときもう地上にはいない。天の子羊の婚礼の宴に出ているのだ。)最後の教皇は天才で、スーパーマンのような人になる。彼は一時的に世界を政治と経済の大惨事から救うことになる。ローマ・カトリック教会はユダヤ人と契約を結ぶことだろう[ダニエル書9:26-27]。中東はついに平和を得たかのように見えるだろう。一時的にだが、教皇の政策はとても上手くいくので、世界中の政治的・宗教的なリーダーがみな彼の権力にひれ伏すだろう。

    第二テサロニケの2:3-12でパウロは、人々が獣の嘘を信じ、その惑わしによって罰せられることを、神は許可されたと書いている。黙示録の13:8には、子羊の命の書にその名が記されていないものはすべてその獣を拝むことになると書いてある。ついにローマはユダヤ人との契約を破り、その本性を現す日が来る。獣の印を刻印されたもの意外は誰も、買うことも売ることも出来なくなる。獣は彼に逆らうものを迫害し、殺しさえする。残されたクリスチャン(愚かな乙女たち)は死に至るまで獣に抵抗する。ビルは言った、「反キリストと獣は同じ霊なのです。」 第一の謎を要約してビルは、この白馬の騎手はサタンの霊の3つの段階を象徴しているといった。(悪魔の三位一体、もしそう呼びたいのであれば。) 第一にサタンはニコライ派の教えを教える反キリストの霊だった。彼が反キリストと呼ばれたのは彼が、第一の教会の使者であるパウロの教えに反していたからである。第二にサタンは偽預言者となった。間違えた、歪んだ言葉を伝える教皇である。ローマ・カトリック教会の階級制度について教え、聖書の地上最高の権威を削減したのである。第三に、サタンは獣となった。最後の日にサタンの力は頂点にまで達し、狡猾さとたくらみで満ちたスーパーマンに擬人化された。

第二の封印 黙示録6章3-4節

    火曜日の夜ウィリアム・ブランハムはいままでの話の復習といまの話の予備知識について語ってから説教に入った。彼は最初の4つの封印した秘密の順番について聴衆に語った。子羊が封印を解くと、御座のまわりの4つの生き物の一つが声をあげた。どの封印に伴う出来事も、一度始まると他の封印が開かれる間も、ずっと続いた。謎が明かされると教会時代の使者が啓示の霊を得てそれを自分の時代の教会に示すのである。それは霊的な戦いを起し、その戦いは同時代の大部分の人が神の啓示を拒否したことに対する仮の裁きで終わる。パウロが初期教会で確立した教えは、後に偽教師たちによってうやむやにされてしまった。そのため、第二から第六までの教会時代の使者は改革者であって預言者ではない。彼らは自分たちが復興させようとしている御言葉の全体像を知らなかった。彼らは神学にたくさんの未解決の問題を残した。黙示録10章7節によると、第七の教会の使者はすべての未解決の神学上の問題を集め、その答えを教会に説明すると書いてある。終わりの時代の大部分の人たちは彼の教えを拒否し、裁きを受けるだろう。しかし、数少ないながらこの教えを聞いて受け入れる者がいる。

    説教も半分ほど進んだところで、ビルは黙示録の6章3節と4節を読んだ。

3 小羊が第二の封印を解いたとき、私は、第二の生き物が、「来なさい」と言うのを聞いた。

4 すると、別の、火のように赤い馬が出て来た。これに乗っている者は、地上から平和を奪い取ることが許された。人々が、互いに殺し合うようになるためであった。また、彼に大きな剣が与えられた。

    第二の封印を読み終わると、ビルはその説明をした。この赤馬の騎手は白馬の騎手と同一人物である。その騎手はまたもやサタンで、馬が変わったことは、彼の教会への攻撃の方法が変わったことを意味する。サタンはすべて、世界の政治の支配者である。[マタイの福音書4:8]彼は教会の政治と世俗国家の政治を操って、ローマ帝国が活躍できるようにした。偽預言者の力を増すためである。サタンはこれを、教会と世俗権力が一体となり後のローマ・カトリック教会への種を蒔いた、紀元325年のニケーア会議で達成した。教会が政治的な権力を握ると、教会はその教義を大衆に強要し、それに反対するものを迫害し、殺すことができるようになった。赤い馬は、最初の偽預言者、教皇ダマスス一世(紀元304年から384年)、そしてそれに続く偽預言者である教皇、枢機卿、司教たちに剣にかかって死んだクリスチャンたちの血を示している。

    この問題に確証を与えるため、ビルはハゼルティンのキリスト教会の歴史について書いた本である「どうやってそれらのことはおこったのか?」(R.Hazeltine “How did it happen?” 1958)を参照した。ビルは、4世紀の有名な司教である聖アウグスティヌスが聖霊をうける機会を得ながらもそれを拒否した話を紹介した。それからずっと後にローマの教皇は誰でもオリゲヌス(182-251年「諸原理について」)の著書を読んだ者を見つけ次第迫害し始めた。(3世紀にオリゲヌスは教会内部の腐敗について暴露した手紙を書き、それは人々に広く読まれていた。) 

    イタリアのある執政官がアウグスティヌスに、オリゲヌスの本を読んでいるというだけの理由で人々を殺すのは正しいと思うかと聞いたとき、アウグスティヌスはこう答えた、「人はその不信心な不和の報いとして全身をゲヘナの炎に焼かれるよりは、自らの炎で焼かれて滅びたほうがマシです。」後にローマ・カトリック教会の指導者たちは、このアウグスティンの発言を利用して人々を迫害し、自分たちの行いを正当化するために用いた。ローマ・カトリック教会は、イエスがルカの福音書14章16-23節で話した教えを歪めて、迫害を正当化する教義を作り出した。この箇所でイエスは、人々を宴に招いた金持ちの男についての寓話を話している。人々が宴に来ることを拒否したとき、金持ちの男は召使に、人々を強要してでも宴に来させるようにと言った。これに対するローマ・カトリック教会の解釈は、もしも人々が招待されても教会に加わらないのなら、教会はどんな残忍な方法を使ってでも人々を強要して教会に加わらせることができる、というものだった。

    紀元380年、ローマの皇帝テオドシウスが彼の最初の布告の中で、「さてわれわれはみな、神の神格である父と子と聖霊、平等で権威ある聖なる三位一体を信じよう。われわれはこの信奉者をカトリック・クリスチャンと呼ぶことにする。(われわれとは、教皇ダマスス、アレクサンドリアの主教ペトロ、そして彼自身のことである。)われわれは他の教えるものどもに不名誉な異端者とよぶ。またなまいきにも教会だと名乗っている彼らの秘密集会を禁じる。また神聖な正義を根拠として、天の知恵に導かれたわれわれの権威が妥当だとする処罰を、彼らは受けなくてはならない。」この布告が第二の封印の赤い馬が何世紀にもわたって自由に駆け回ることを最終的に許した。この騎手であるサタンは何万人もの人々を彼の計画に反対したために剣にかけた。シューマッハーはその著書「輝かしい改革」(Schmucker “The Glorious Reformation”)の中で1850年までにローマ・カトリック教会は6800万人の人を、カトリックの教義に反対したといって殺したと書いている。 第二の封印で象徴されているように、サタンは地上から平和を奪ったのだ。

    黙示録17章はローマ・カトリック教会を緋色の獣に乗った淫婦として現わしている。地上の住人は彼女の霊的な淫行のワインによって酔っぱらったのである。この評判の悪い女はまた、自分が殺したクリスチャンの血を飲んで酔っぱらった。黙示録では、女性は教会を象徴している。黙示録の17章はまた、このいかがわしい女は大いなる都市であり、7つの丘の上に座り、世界中の王たちを支配していると書いてある。この表現に当てはまる都市は一つしかない、ローマである。そして7つの丘から世界を支配する教会も一つしかない、ローマ・カトリック教会である。

    イエスは言われた、「権を取る者は皆件で滅びます。」ローマ・かトリック教会は実際の剣にたよって何世紀ものあいだ支配をしていた[マタイの福音書26:52]。しかし聖書はまた、霊的な剣がついにサタンとその支配を滅ぼすと書いている。イエスが再臨すると、彼の口から出る言葉は鋭い剣となり国々を打つであろう[ヨハネの黙示録19:13,15]。神の御言葉は霊的な剣であり、これこそが最後に打ち勝つ。ヘブル人の手紙4:12には、「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く・・・」と書いてある。

第三の封印 黙示録6章5-6節

    水曜日の朝早くに目覚めたビルは祈り、そして黙示録の第三の封印を読んだ。

5 小羊が第三の封印を解いたとき、私は、第三の生き物が、「来なさい」と言うのを聞いた。私は見た。見よ。黒い馬であった。これに乗っている者は量りを手に持っていた。

6 すると私は、一つの声のようなものが、四つの生き物の間で、こう言うのを聞いた。「小麦一枡は一デナリ。大麦三枡も一デナリ。オリーブ油とぶどう酒に害を与えてはいけない。」

    朝の光が窓から差す前に、聖霊が部屋に入ってきて第三の封印を守っている封を解いた。ビルはそれから日中の間祈り続け、聖書からこの啓示を支える聖句をさがしていた。

    水曜日の夜、ビルは聴衆に、白馬に乗っていた騎手がまたもや、三度目に馬を変え、この黒馬に乗っているのだと教えた。黒い馬は、霊的な無知とその暗闇を象徴する。何世紀もの間、カトリック教会は人々から霊的な思考能力を奪ってきた。カトリック教会は自分たちの教義は、神から直接与えられたものだと言ってきた。教育のない大衆にそれを確かめる術はなかった。ほとんどの人は聖書を読むことが許されていなかったからだ。これはまことのクリスチャンたちにとって、実に辛い暗闇の時代であった。そんな暗闇の中世の教会時代でも、神の選ばれた種たちはほんの僅かに残された真実にしがみついた。時にそれは、心に絶えず付き纏う、何かがおかしいというとがめのようなものでもあった。

    この霊的な不均等さは、黒馬の騎手が手にもつ秤に象徴されている。秤は重さを計る機械で中央に枢軸があり水平が保てるようになっている。左右同じ皿が腕に下がっており、皿がどちらも空のとき、腕は完全な水平を保つ。決められた重さの錘が基準として用いられる。もし一方の皿の上の物の重さが分からないのなら、もうひとつの皿の上に決まった重さの錘を置けばいい。両方の皿が釣り合うまで、錘の数や重さを調整すれば、使った錘の重さの合計で、分からなかった物の重さがわかるのである。この方法は精密に、どんな物でも重さを計ることができる。ただしその精密さはすべて、使う基準の錘の信憑性にかかっている。くるった錘はつまりくるった結果を意味する。

    もしもローマ・カトリック教会が、聖書をその基準として用いていたのなら、暗闇の時代というのはおこらなかったに違いない。聖書を基準として天秤の皿に載せたなら、教会と聖書は釣り合っただろう。しかしローマ・カトリック教会は裁きと教皇の布告とをその基準の錘として用いた。教会がそうしたのは、そうすればもっと教会の指導者たちが大衆を支配できたからである。これは封印の小麦と大麦の売り買いに象徴されている。小麦・大麦は生活に欠かせないものだからである。

    いったんローマ・カトリック教会がその教皇を至上の権威と定めると、彼らは自分たちの慣習を作り始めた。9日間の祈り、告解、免罪符、聖体拝領、煉獄。これらのどれも聖書をもとにしていない。カトリック教会はまた精巧に信条を作り上げた。その信条にもっともらしさを与えるために、彼らはそれに「使徒信条」などという名前を付けたが、使徒たちは決して「使徒信条」に書いてあるようなことはいわなかった。もし使徒たちが信条のようなものを持っていたとするのなら、それはペトロがペンテコステの日に言った、「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」[使徒の働き2:38]。これが使徒たちのメッセージであった。彼らはペトロが天の国への鍵を持っていることを知っていた[マタイの福音書16:19]。悔い改めとイエス・キリストの名による洗礼は天の扉を開くのである[ヨハネの福音書10:1-9 ]。

    黒い馬とその騎手が地を駆けるとき、それは神の子らにとって暗闇の時代である。聖書は、イエス・キリストへの信仰に生きること、これが永遠の命を手に入れる唯一の方法であると書いてある[エペソ人への手紙2:8;约14:6; 使徒の働き2:38-39]。カトリック教会はこのシンプルな救いの道に、たくさんのものを加えることによって複雑化してしまった。それはたとえば、教会への出席や、司教への告解、免罪符、マリアや他の死んだ聖人への祈りなどその他たくさんの決まりや条件である。聖書を読むことが制限されている中で、どうすれば本当の信者が真理にたどり着けるというのだろう?神はその答えを持っておられる。御座を取り囲む4つの生き物のなかから声がした。それは子羊の声である、「オリーブ油とぶどう酒に害を与えてはいけない。」油は神の聖霊の象徴である[レビ記8:12; ゼカリヤ書4:12; マタイの福音書25:4 ]。ぶどう酒は神の霊から啓示を受けたときの興奮、刺激を意味する。聖霊がある人にイエスはメシア、救い主であるという啓示をあたえたとき、その人が感じる興奮はぶどう酒からの酔いに勝る。イエスがヤコブの井戸で出会ったサマリア人の女性について考えてみよ[ヨハネの福音書4:1-30]。彼女はイエスが救い主だとわかったとき、彼女はあまりにも興奮して走って街にいき知っている人すべてにこのニュースを伝えたのだ。彼女の社会的立場からいってそれは適切なことでなかったにもかかわらず。 使徒言行にはたくさんの例が載っている[使徒の働き2:1-40; 10:34-48; 19:1-7]。聖霊がペンテコステの日の120人に降ったとき、彼らは道に出て行ってそこにいるすべての人にキリストを伝えた。この120人たちはあまりにも聖霊の啓示に興奮していたので、それを見ていたある人は新しいぶどう酒を飲んで酔っぱらっているのだと思ったほどである。これが教会をつくった啓示の力である。

    子羊が「オリーブ油とぶどう酒に害を与えてはいけない。」と言ったとき彼は、「わたしが誰かという啓示に害を与えてはならない。この啓示を完全に消し去ってはならない。ここにはまだ数少ないながら、この啓示を持っている人たちがいるからだ。サタンよ、お前は彼らの肉の体を迫害するかもしれない、しかしこの啓示を殺してはならない。これは種である。いまは土の中にあり目に見えないかもしれないが、いつかは芽がでて育つ日が来るのである。わたしはいなご、ばった、食い荒らすいなご、かみつくいなごが食べてしまったものを、回復させる。これらのヨエル書1:4、2:25で語られた4匹の害虫は、黙示録6章でサタンが乗った4つの馬と対応している。」

第四の封印 黙示録6章7-8節

    ウィリアム・ブランハムは聴衆に、贖いの書は天地創造のまえから神によって計画され、書かれていたと語った[エペソ人への手紙1:4; ヘブル人への手紙4:3; ペテロの手紙 第一1:18-20; ヨハネの黙示録13:8; 17:8]。神がその計画について考えこんでいると、神はその創造物がサタンによって堕落させられるのを予見した。神と同等になりたいと考えた邪悪な天使である。ほんのちっぽけな水素が存在する前から、神はその花嫁を選ばれ、選民を贖うために子羊を捧げることを決めておられた。サタンは贖いの計画を覆そうとあくせく働いたが、神の裏をかくことはできなかった。

    なぜ神はこれらの7つの封印を開こうとされたのだろう?神はどれだけ御自分の花嫁を愛しているか、そして彼女のためにどれだけのことをしたのかを示すために封印を解かれたのだ。イブが神の御言葉から離れてしまったとき、神はいつの日か神の子たちを真実の御言葉のところに戻すと約束された[創世記3:15]。神の子たちが真実の御言葉の期間を待っているあいだ、神はイスラエルにその代わりになるものをお与えになった。動物のいけにえと儀式による贖罪のシステムである。しかし動物の血は罪を覆うだけであって、罪への欲望を取り除きはしない。しかしながら、イスラエルの人々は次第にこのシステムを好むようになってきた。

    神の御言葉が肉体を取りイエス・キリストとして現れたとき、イスラエルの国は本物であるイエス・キリストより、代わりである贖罪のシステムを取ったのだ。彼らは目の前に現れた生ける御言葉を理解しなかったのだ。イエスは肉体に入っておられ、肉体、肌、骨、筋肉、神経、血、心、精神、人格などで包まれていた。真実の神の御言葉であったのだ。イエスはただ一つの目的のため地上にこられた。それは花嫁を贖うことである。ユダヤ人がピラトにイエスを磔にするように要求したとき、彼らは気づかぬうちに神が天地創造の前から考えておられた計画の重大な一部分の計画を成就したのだ。真実の御言葉であるイエスは人の罪を完全に清めることのできるいけにえの子羊となられた。

    ビルはこの罪の清めは、漂白剤の樽のなかに落ちた一滴のインクのようだと説明している。一滴のインクは漂白剤の化学成分のなかに落ちて、元々のインクの成分はすべて消えてなくなってしまう。ビルは言った、「すべて生まれ変わったクリスチャン(真の信者)、クリスチャンは、完全に神の前で罪なく潔白です。彼は自分の行いに頼らず、イエス・キリストの血が彼のすべての染みを清めてくださいます (彼の罪の告白はその中に落ちたからです) 。聖書は、『だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。』[ヨハネの手紙 第一3:9]と言っています。もしイエス・キリストの血という漂白剤がその人と神の間にあるならば、誰がその人を罪に定めることが出来るでしょうか?イエスは、『だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。』[ヨハネの福音書5:48]とおっしゃっています。いったいどうすればわたしたちが完全になれるのでしょう?しかしイエスがそれを求めておられるのです。もしイエスがそれを求められたのなら、イエスはそれを叶えるための方法を用意しくださっているはずです。そう、方法はあります。それはイエスの血です。」

    一時間ほど説教した後で、ビルはついに本題である黙示録の6章7-8節を読んだ。

7 小羊が第四の封印を解いたとき、私は、第四の生き物の声が、「来なさい」と言うのを聞いた。

8 私は見た。見よ。青ざめた馬であった。これに乗っている者の名は死といい、そのあとにはハデスがつき従った。彼らに地上の四分の一を剣とききんと死病と地上の獣によって殺す権威が与えられた。

    ビルはこの騎手がまたも、いままでと同じサタンであることを説明した。蒼ざめた(pale)という色は、白、赤、黒馬が混ざったものいう意味である。宗教的、政治的、そして悪魔的な力の混ざった終末の日の権力である。この謎の騎手は最初の3頭に乗っているときは名前が無かったことに注目してほしい。そしていま、4頭目の青白い馬では「死」と呼ばれているのだ。地獄が彼に従っている。肉体的な死の後に陰府(墓)が続くように、霊的な死にも常に陰府(炎の湖、つまり永遠に神から切り離されてしまうこと。)が従っている。サタンが創り出し、真実として喧伝した教団組織は、実は霊的な墓場なのである。ビルは、自分は教団に属している人たちを批難しているのではなく、彼らを支配し、誤った教えのうちに捕らえている組織に反対しているのだと表明した。

    サタンが教会時代の間馬を乗り回しているとき、神は眠り込んでいたわけではなかった。イザヤ書59:19は「敵が洪水のようになって襲うとき、主の霊が彼を押し上げる。」と書いている。神の御座を守る4つの生き物は、最初の4つの封印が解かれるとき喋ったのと同じ生き物である。彼らは4つの福音の力を象徴している。それはマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネであり、東西南北から御座を守っている。彼らは7つの教会時代に、キリストの花嫁をサタンの攻撃から守るために特別に配された力を象徴する。

    最初の生き物はライオンの顔をしていた。それはユダの獅子であるイエス・キリストの影響を示している。イエスによるフレッシュな啓示は初期教会を取りまとめていた力である。サタンが人々の新しい信仰を歪めようと企むのに対し、キリストはマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネには福音書を、ペトロ・ヤコブ・ヨハネそしてパウロには手紙を書かせて永遠につながる真実を確立した。これらの読み物は初期教会の時代を通じて複写され、配布されてクリスチャンたちに、イエス・キリストについての確かな啓示を与えた。

    第二の生き物は雄牛の顔をしている。雄牛は重荷を背負う生き物であり、これは第二、第三の教会時代に迫害を耐え忍んだ真実のクリスチャンたちにふさわしい。(この雄牛の霊は第四の教会時代にも影響した。教会時代に重複する部分があるように、4つの生き物にも重複する時代があるのだ。)雄牛はまた、生贄として使われる生き物でもある。この雄牛の霊は、信仰のため自らの命を捧げ殉教したクリスチャンたちを助けたのだ。

    第三の生き物は人の顔をしている。知的で賢く計算高い霊である。神は御自分のこの一面を用い、マルティン・ルターや他の改革者たちに聖書を分析させた。その過程で彼らはローマの直接支配を拒否するにいたったのである。1440年の印刷技術の開発と、続いて起きた聖書の様々な日常的な言語への翻訳は、たくさんの人に直接神の言葉に触れる機会を与え、神の言葉とローマ・カトリック教会の教義を比べるきっかけを作った。

    この知的な霊の影響によって第五の教会時代に神に選ばれた人々はカトリック教会から離れ、第六の教会時代を通じて聖書への理解を深めていった。彼らはその知性を用い全力を尽くして神の御言葉を探求したが、人間の悟り、理性で出来ることは限られていた。何世紀が経つにつれ、聖書の解釈の流儀がどんどん増えていった。クリスチャンのグループは繰り返し分裂し再組織し、聖書を元にした教団はアメーバのように増えていった。サタンはこの混乱を利用して、たくさんの指導者たちにそれぞれ真実を求めさせた。それぞれが部分的な真実を得たものの、サタンが真実を曲げたせいで決して真実の全体は捉えられなかった。

    しかし神はもう1匹、生き物を用意しておられた。それはこの時代の混乱に対抗し、教会をキリストの再臨に備えるために最後の教会時代までとっておかれたのだ。御座を守る4つ目の生き物は鷲の顔をしている。鷲は他のどの鳥よりも高く飛べ、より遠くまで見渡せるため、最後の日にエリヤの霊に満たされて預言する異邦人の預言者を象徴している。彼は初期教会の使徒たちの教えを教会に回復させる役目を負っている[マラキ書4:5-6 ]。彼は聖書学校や神学校からは現れない。彼がその教師の古い教えに染まらないためである。最初のエリヤのように、彼は同時代の宗教組織に反対するだろう。それは困難で孤独な仕事である。ある時ティシュべ人エリヤは、あまりの孤独に、もうイスラエルに自分以外神の御言葉に忠実な人間は残っていないのではないだろうかと感じた。その時神はエリヤに、7000人がまだ偶像を拝まず国を支配している歪んだ宗教組織に染まらずにいると教えられた[列王記 第一19:9-18 ]。終わりの日もそのようになる。終末の時代に異邦人に遣わされる預言者は一人だが、そのメッセージを信じるクリスチャンたちの上に同じ鷲の霊が降るだろう。しかし彼らの数は少ないだろう、世界の人口の百万分の一くらいに。

    サタンは教会を、組織によって歪めた。マルティン・ルターと改革者たちがカトリック教会を離れたとき、彼らはその時代のための真実の啓示を受けていた。しかし彼らに従った人々の多くはまだ組織にとどまり、それが彼らを霊的な死に至らせた。この教会組織は自分が女王だと言い、キリストの花嫁であると言い張る[ハネの黙示録18:7 ]。この決着はもうすぐつくだろう。生と死、この世の二大勢力、が戦うだろう。青白い死の馬に乗ったサタンが、純白の命の馬に乗ったキリストと戦うのだ。サタンの軍団、つまりその組織を信じるものが、神の軍隊と戦う。蒼ざめた馬の騎手は今や剣を持っている。それはサタンが霊的にも、肉体的にも人を殺せるということを意味している。神はその霊的な剣である永遠の御言葉によってサタンを打ち負かすだろう。偽預言者、獣、そしてそれを礼拝する者たちは打ち負かされ、それから炎の湖で滅ぼされる[ヨハネの黙示録19 ]。しかし、地獄は永遠のものではない。地獄は最後には炎の湖で滅びるからだ。聖書は永遠の裁き、永遠の火による復讐、永遠の滅亡によって苦しめられる人々について書いている。裁き、火、滅亡は永遠である[ヘブル人への手紙6:2; 犹7; テサロニケ人への手紙 第一1:9]。しかしその裁きを受ける人たちは永遠の存在ではありえない。永遠の命を得る唯一の人たちはイエス・キリストの霊をその内に受けている人である。

第五の封印 黙示録6章9-10節

    金曜日の朝、ビルは日の出の前に起き上がり、書斎に入ると黙示録の6章9-10節を読んだ。

9 小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見た。

10 彼らは大声で叫んで言った。「聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行わず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。」

11 すると、彼らのひとりひとりに白い衣が与えられた。そして彼らは、「あなたがたと同じしもべ、また兄弟たちで、あなたがたと同じように殺されるはずの人々の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい」と言い渡された。

    ビルがいままでに読んだ黙示録の解説はすべて、この祭壇の下の魂は殉教したクリスチャンたちだと書いていた。それはありえることだとビルも思った。その時火の柱が部屋に入って来、人間の理屈を覆された。ビルがその超自然的な光に釘付けになっていると、彼は幻によって別の次元にいざなわれていた。祭壇の下に集まった魂たちを見、ビルは彼らが誰なのか、そして誰でないのかを知った。さらに、この幻はまた彼に終末の大艱難で封印を受ける14万4千人のユダヤ人たちを見せた。

    ビルは、5回のエリヤの訪れを見た。5回のうち4回、エリヤは一人で訪れた。しかし最後の5回目、大艱難の時代にユダヤ人に神を伝えるためにやってきたエリヤは一人ではなかった。それをじっくり見てビルはエリヤと共に立っている人物が誰なのかを悟った。

    その夜教会で、ビルはその日知ったことを説明した。7つの封印は厳密に時系列順に並んでいるのではない。最初の4つの封印はその順に起こる。しかし最後の3つはそうでない。幾つかの出来事は重複して起こる。キリストの花嫁は黙示録の3章の後、天に婚姻の宴のために挙げられる。そして黙示録の19章で夫であるイエス・キリストと共に地上に戻るまでは登場しない。そのため第五の封印と第六の封印は異邦人のキリストの花嫁には直接関係しない。

    最初の4つの封印が開かれたとき、4つの生き物がそれを告げたが、最後の3つの封印にはそれがないことに注目してほしい。それはキリストの花嫁が第四の封印の終わりに地上から取り去られたからである。花嫁が地上から取り去られると共に、神は教会を守っていた霊を取り去られる[テサロニケ人への手紙 第二2:7 ]。第六の封印の時代に反キリストの霊がいままでになく自由に行動するのはそのためである。

    第五の封印で祭壇の周りにいる人たちはいったいだれだろう。彼らは多くの神学の教師たちが教えるような殉教したクリスチャンではない。彼らはイエス・キリストのために殺されたのではなく、「神の言葉と自分たちがたてた証のために」殺されたのだ。これらはモーセの律法に忠実であったユダヤ人たちである。その中には紀元33年のイエスの死から異邦人のキリストの花嫁の携挙までのあいだにその信仰のために殺されたユダヤ人を含む。彼らが白い衣を与えられたことも注目に値する。キリストの花嫁はイエスを救い主として信じたときに白い衣を与えられた。またこの人々は復讐を求めている。復讐は「目には目を」のモーセの律法において正しい行動である[出エジプト記21:22-25; レビ記24:19-20; 申命記申19:16-21 ]。彼らがクリスチャンならば復讐を求めはしないだろう。イエスは敵を愛し、赦すように教えたからである[マタイの福音書5:38-48; 6:12-15; 18:21-35]。これらのユダヤ人が白い衣を与えられたのは、異邦人が神の国に入ることが出来るようにと、神が彼らの目を盲目にさせたからである。ローマ書の11:25-26には、

「、、、すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです。イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。、、、」使徒言行15:14でペトロは、神は異邦人の中にいる御自分に属する人たちを取り出したかったのだと言っている。

    キリストの花嫁が婚礼の宴のため天に挙げられたのち、地上に残った人々は地上最悪の艱難に会うことになる。その艱難の期間に、14万4千人のユダヤ人たちが、2人の証人のメッセージを受け入れることによって神の印を受ける。聖書にはその2人の証人の名前は書いていないが、ビルはそれがエリヤとモーセだといった。

黙示録の11:6には 

    「この人たちは、預言をしている期間は雨が降らないように天を閉じる力を持っており、また、水を血に変え、そのうえ、思うままに、何度でも、あらゆる災害をもって地を打つ力を持っている。」と書いてある。ティシュべ人エリヤは雨を意のままに操り、モーセは地を災いで打った[列王記 第一17:1;18章; 出エジプト記7:19; 8-11]。モーセとエリヤが地上を去ったのち、彼らは変容の山でイエス・キリストと語りあう姿が見られた。それはこの二人の預言者にまだ地上でするべき仕事が残っているということを表している[マタイの福音書17:1-8; マルコの福音書9:2-13; ルカの福音書路9:28-36]。大艱難の時代にこの2人の証人は、第四のエリヤが最後の教会時代に語ったのと同じメッセージをユダヤ人たちに語る。

    14万4千人のユダヤ人たちがイエス・キリストを救い主として認めるとき、彼らは過去にイエスを拒絶したことを悔いて泣く。彼らに神は、それは異邦人を救うためだったのだとご計画を説明されて、彼らを慰められるだろう。カナンで飢饉があったときにヨセフがその兄弟たちに自分の正体を現したのは、イエスが終わりの大艱難のときに14万4千人のユダヤ人たちに御自身を表すことの素晴らしいタイプである[創世記45:1-15 ]。ヨセフが兄弟たちと会っていたとき、ヨセフの異邦人の花嫁は宮殿で休んでいたことも象徴的である。

第六の封印 黙示録6章12-17節

    この週のあいだビルは一日平均3時間しか寝ていなかった。土曜日の朝、彼はまたも日の出前に起き上がり、その週のほとんどを祈りと学びのためにすごした書斎に入って、黙示録6章12-17を読んだ。

12 私は見た。小羊が第六の封印を解いたとき、大きな地震が起こった。そして、太陽は毛の荒布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。

13 そして天の星が地上に落ちた。それは、いちじくが、大風に揺られて、青い実を振り落とすようであった。

14 天は、巻き物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山や島がその場所から移された。

15 地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が、ほら穴と山の岩間に隠れ、

16 山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。

17 御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」

    日中ビルはほとんどをその書斎で過ごした。彼は昼食を隣の家のバンクス家かルビー・ウッドの家でとった。バンクスは彼をレストランのランチに連れて行くこともあったが、ビルは食べ終わればすぐに自分の書斎に戻った。彼はなにものにもその役目から妨げられたくなかったのである。土曜日の午後、火の柱が書斎を照らしビルを、この地球が子を産もうとしている女のように呻き震える未来に連れて行った。[イザヤ書13:6-11]。幻が終わったとき、ビルはあまりに茫然として息も出来ないくらいだった。書斎の椅子から立ち上がると、彼は外にでて庭中を行ったり来たりした。冷たい三月の空気は彼を少しだけ生き返らせ、懐かしい我が家の芝や樹木は彼を落ち着かせた。空の大きな積雲、美しい風景をみてやっと彼は書斎に戻るだけの力を得た。

    ビルはとても恐ろしい出来事が地球を襲うのを見たのだった。彼はこの幻のすべてを聴衆と分かち合えはしないと思った。もし話したのなら彼らを過度に怖がらせてしまうだろう。しかしこの幻で彼はまた、美しく新しい地球が、古い地球から出てくるのを見た。ビルは思った、「おお、神様。このことを彼らに知らせないわけにはいきません。何とか彼らにこのことを理解させなくてはなりません。でも、イエス様、それはわたしには出来ないことです。あなたが、誰も御父が引き寄せてくださらなくてはあなたのもとに来ることはできないとおっしゃったとおりです。[ヨハネの福音書6:44]でもあなたの御言葉がわたしを慰めてくださいます。それは

『父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。』というあなたの御言葉です。」[ヨハネの福音書6:37;18:9]

    その晩の集会で、ビルはどのようにして第六の封印が、神の救いの計画を拒んだ罪悪の世界に対して裁きを引き起こしたのかを説明した。異邦人の時は終わったのである。キリストの花嫁たちは婚礼の宴のために地上を去った。神はユダヤ人たちを最後の最後に救うための仕事に取り掛かられた。モーセと、5回目に地上に現れるエリヤとが、ユダヤ人たちに第七の教会の天使(4回目に現れたエリヤ)が異邦人の花嫁たちに語ったメッセージを語るのである。そして14万4千人の正統派ユダヤ人たちがキリストを受け入れる。

    第六の封印は自然界の順序の機能を休止させるものである。それは大地震から始まり、火山の噴火、核戦争、おぞましい飢饉などである。黙示録8章の7つのラッパは第六の封印の時代に起こる。黙示録8章から17章のあいだにおこる7つのラッパ、3つの災難、7つの最後の災いなどは第六の封印の時代に起こるのである。

    すべてイエスを拒絶した異邦人たちは神の怒りから逃れようともがく。しかし悔い改めるにはもう遅い。神の慈悲をはねつけたからには、神の怒りを受け入れるほかに道はない。第六の封印は、神を拒否した罪の恐ろしい成り行きを明かしている。

    第六の封印にはもう一つ、人類の未来にとても大切な側面がある。7つの封印は、7つ揃って贖いの計画を明かすものなのである。最初の4つの封印は、7つの教会時代と重なっており、神がどのようにして獅子、雄牛、人間、鷲、のような霊を用いてキリストの花嫁を悪魔の策略から守られたかを表す。霊的に盲目になりユダヤ人たちは、第五の封印において贖われる。第六の封印では14万4千人の地上に生きるユダヤ人たちが、大艱難のさなかに贖われる。しかしこの地球にも贖いを受ける必要がある。サタンがイブを誘惑したとき、その罪の結果であるカインとその子孫が人類を政治、不道徳、宗教などで堕落させた。何千年も経ち、人類は自然界をも汚染し堕落させることに成功したのである。

    第六の封印には3つの目的がある。

    第六の封印で起こる出来事は、地上に取り残された異邦人の教会を清める役割がある。これらの取り残されたクリスチャンたちはマタイの福音書25章に出てくる愚かな乙女たちである。獣の印に抵抗することによって、彼らはその不信仰を清め、白く大きな御座での裁きで慈悲を受ける。[マタイの福音書25:31-46; ヨハネの黙示録20:11-12]この第六の封印はまた、イスラエルの国をも清める。このことは黙示録の7章、そして黙示録の8、9、11章の7つのラッパ、三つの災難の中で明かされている。第六の封印は地上を清める。これは黙示録15、16章で7つの災難をたたえた鉢が地上に注がれる箇所に詳しい。第六の封印はまた、黙示録17、18章をも含む。それは大淫婦とその娘たちに裁きと滅亡が下る箇所である。そしてそれは神の贖いの計画を頓挫させようと大昔から企み、いんちきの代りの計画である組織化した宗教に差し替えようとしたサタンの組織である。

    黙示録11章の2人の証人が、これらの裁きの多くをつかさどるだろう。たとえば、大地震が起きたあと「太陽は毛の粗い布地のように暗くなり」というところに注目してほしい。出エジプト記10:21-23で、主がモーセに手を空に向かってあげよ、と命じたとき3日間エジプトは暗闇に包まれた。これは神がイスラエルをエジプトでの奴隷状態から解放される直前に起こった。終わりの日、モーセは再び暗闇を呼びだすだろう。そして神はその直後に14万4千人のユダヤ人を霊的な盲目状態から救いだし、彼らはイエス・キリストを救い主と認めるだろう。

封印についての質問と答え

    1963年3月24日、日曜日の朝、ウィリアム・ブランハムは聴衆たちに、この週はいままでにないほど深く神の霊に浸った一週間であったと話した。彼がいままでに主催した癒しの集会は並ぶものがないほど多くの奇蹟を起したにも関わらず、この一週間の集会は癒しや奇蹟以上のものであった。この週、ビルは奇蹟を起したその同じ霊が隠された真実を明かされるのを見たのだ。彼は8日間のほとんどを一つの部屋のうちで過した。そして時には火の柱の前で一時間立ち尽くすこともあった。これらは彼に負担を及ぼすほどだった。人間の頭が耐えられるストレスには限界がある。ビルはイエス・キリストが彼を永遠に救ってくださったのを知っていたので、死を恐れていたのではなかった。しかし部屋に現れたキリストの臨在、つまり聖霊御自身はビルを聖なる恐れで口も利けないほどにした。聖霊が明かしてくださったことの幾つかは、ビルがけっして人々に明かすことができないようなものだった。もし明かせば人々に誤解をもたらし、その一部は狂信主義に走るだろう。

    この朝ビルは第七の封印について語るのではなく、人々が紙に書き集会が始まる前に集められた質問に答えるのに専念した。ビルは6つの明かされた封印に関して質問してほしいと望んだ。ほとんどの質問は封印に関するものであったが、幾人かは他のことについて質問した。神の性質、水の洗礼、結婚と離婚、地獄、予定説、そしてサーパントの種などについてである。

    ある人は携挙を逃した愚かな乙女たちの運命についてたずねた。ビルの答えは、「彼らは艱難の時代に殉教し、至福千年が終わってから復活して裁きを受けます。なぜなら聖書は残りの死者たちは一千年たつまで生き返らないと書いているからです。そしてもう一度復活があります。義人も罪人もみな、キリストとその花嫁によって裁かれるのです。」[マタイの福音書 25:31-46; コリント人への手紙 第一6:2-3; ヨハネの黙示録20章]

    ほかの人は、大艱難の時代にユダヤ人たちに現れるエリヤは本物のエリヤなのか、それともエリヤの霊を受けた誰かなのかと質問した。ビルは答えた、「確かなことはわかりません。しかしそれはエリヤの霊を受けた人になるのではないかという気がしています。なぜなら聖書は『エリヤの霊がエリシャの上に宿り』エリシャはエリヤと同じ事をした、と書いているからです。しかし本当にそうなるかはわかりません。正直に言ってわからないのです。」

    またほかの人は第一の封印が開かれたことは第二テサロニケの手紙2章3-4節、滅びの子の出現の成就になるのかと聞いた。ビルの答えは「そうです。」だった。

第七の封印 黙示録8:1

    1963年3月24日、日曜日の夜、ウィリアム・ブランハムは第七の封印の謎に、うやうやしい気持ちを抱きつつ取り組んだ。彼は黙示録8章の最初の一節を読んだ。

8:1 小羊が第七の封印を解いたとき、天に半時間ばかり静けさがあった。

    これだけである。これが贖いの書の最後の1ピースを完成させる重大な封印についてヨハネが書いたすべてである。そこには何の象徴も登場しない。しかし、天において誰も動かず喋らずにいたにも関わらず、ヨハネはその時間の経過にたしかに気づいている。ビルはこの沈黙は、第七の封印が秘密にされなくてはならなかったからだといった。もしサタンがこの秘密を知るならば彼はいままでしてきたようにそれを歪めてしまうだろう。それを防ぐために第七の封印は秘密のままでなくてはならなかった。そして逆説的にいえば、その沈黙のなかにこそ謎解きの鍵が秘められているのである。

    ビルは7つの封印とイエスがマタイの福音書24章で語った話の興味深い共通点について話した。イエスとその弟子たちはヘロデの建てた神殿を歩いていた。弟子たちが神殿の建築の素晴らしさに感嘆すると、イエスは神殿が破壊されることについておっしゃった。そのあと、弟子たちはキリストの再臨の目印と世界の終わりについてたずねた。イエスはその前に起こらなくてはならない種々の事柄を並べて答えられた。ビルはそれらがどのように7つの封印と一致するかを語った。

    第一の封印、白馬の騎手と反キリストの霊の現れはマタイの福音書24章4-5節と対応する。

4 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。

5 わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わすでしょう。

    また第二の封印、赤馬の騎手が地上から平和を奪うのは、マタイの福音書24章6節と対応する。『また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。』

    第三の封印、黒馬の騎手そして穀物と秤はマタイの福音書24章7節の前半と対応する。『民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり』

    第四の封印、蒼ざめた馬とその騎手である死はマタイの福音書24章7節の後半と8節に対応する。『方々にききんと地震が起こります。しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。』

    第五の封印、祭壇の下で復讐を求める魂はマタイの福音書24章9節から13節に対応する。『9 そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。10 また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。11 また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。12 不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。13 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。』

    第六の封印、恐ろしい災害と大艱難の時代の地殻変動については、マタイの福音書24章29節から30節に対応する。『 29 だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。 30 そのとき、人の子のしるしが天に現れます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。』

    イエスは6つの封印については語ったのに、第七の封印についてはそれが秘密であること以外なにも言わなかった。イエスは言った、『その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。』[マタイの福音書24:36 ] ビルは言った、「第七の封印が開かれたとき、天は半時間、完全に沈黙に包まれました。彼らはその内容に感服したのです。なぜか、それがなになのか、誰にもわかりません。しかしわたしが受けた啓示はみなさんにも明かしましょう。いまわたしがここに立っているのと同じくらい確実に、第七の封印は3つの要素から成り立っています。神のお助けによって、そのうちの1つについて話すことが出来ると思います。これがその啓示です。謎は7つの雷のうちにあるのです。」彼が話していたのは黙示録10章に出てくる謎めいた7つの雷のことである。これらはヨハネが聞き、理解したものの、書き留めることを禁じられたのだ。7つの雷は終わりの日の理解に重大な役割を占めているにも関わらず。

    ビルは続けて語った、「神が7つの雷に語らせたのには理由があります。キリストである子羊は巻物を取り七つ目の封印を開きました。しかし、ご覧のとおりこれは隠された謎です。誰もそれを知りません。それはマタイの福音書24章でイエスのおっしゃったことにつながります。それは誰もキリストのこられる日を知らないということです。そして7つの雷の謎もそうです。これらのことはつながっているのです。わたしたちが今わかるのはこれだけです。すべてその他の謎は明かされていますが、これだけはまだ明かされていません。わたしは自分の部屋にいて、7つの雷の謎が明かされるのを見ました。しかしわたしが言えるのはここまでです。」

    「わたしたちは神の恵みによって、ここに神の言葉の成就をみます。隠されていた6つの封印の謎は明かされました。そして7つ目の封印は公には明かされません。まだその謎が明かされるときが来ていないのです。それでも、わたしたちはもうここまで来ていますし、残りの謎はキリストがその花嫁を迎えに来るまでにどのような形にせよ明かされるでしょう。それまでは、よく祈り、良いクリスチャンとして生き、キリストの再臨を待ち望みましょう。」

    ビルはこのゆゆしき日に至るまでに彼が見た幻や訪れについて話した。1955年から、彼はそのミニストリーの3つの段階についての幻を与えられていた。最初は謎めいた幕屋または大聖堂についての幻。次は1962年の12月に見た天使の幻、そしてサビーノ・キャニオンでの「王の剣」の訪れ。最後に何週間か前に、サンセット・ピークでビルを訪れた7人の天使たちである。

    ビルはこう言って話しを締めた。「いままでの幻、与えられた御言葉、歴史、そして教会時代の啓示、これらがすべて一つに調和するのです。わたしの理解が及ぶ限り、そして神の言葉により、また幻、啓示によってわたしは言います、この7つの封印の解釈は神から直接与えられた託宣、『主はかく仰せられる』であると。」