CAB-10 七つの教会時代の概要

  • 伝道者:ウィリアム・ブランハム
  • 録音番号:CAB-10
  • 年:CAB

An Exposition of the

Seven Church Ages

Chapter Ten

七つの教会時代の解説 第十章

七つの教会時代の概要

七つの時代について聖書を一節ずつ解き明かしたので、まだ一連の時代をまとめて説明していませんでした。私たちはそうすべきでした。そのため、この章では、神の御霊がヨハネに与えられた黙示に基づき、エペソ時代から順にすべての時代の歴史を追って行きたいと思います。私たちはそれ以上新しいことは加えないつもりです。
私たちは勉強で多くの黙示録は完全に誤解されたと知りました。なぜなら、この本の中で指摘されて責められている「教会」は「選民」、すなわち「キリストの身体」である「花嫁」に対するものだけではなく、本物のクリスチャンか名ばかりのクリスチャンに関係なく、クリスチャンと呼ばれるすべての人々に対するものだということを私たちは分かっていませんでした。すべてのイスラエル人は皆が本当のイスラエル人ではないのと同じように、すべてのクリスチャンも皆が本当のクリスチャンではありません。したがって、私たちは教会は二本のブドウの木、真のものと偽りのものからなると勉強しました。その二本のブドウの木は二種類の霊で動いています。一本は聖霊を持っていて、もう一本は反キリストの霊を賦与されました。両方とも神を知っていて、神からも知られていると主張しています。両方とも神のために話していると主張しています。両方ともいくつかの基本的な真理を信じているが、お互いに賛同しません。しかし両方とも主の御名を背負い、クリスチャンと呼ばれ、またこの名前のために公に主と関係があると声明し、神はそれを婚約と呼ばれています。神は彼ら両方が御自分に対して責任を負うようにされ、そのためにそれぞれに話しかけられています。
これらの二本のブドウの木は隣り合って成長し、この世の終わりに成熟して収穫されることも勉強しました。偽りのブドウの木は真のブドウの木に打ち勝つことも破壊することもできず、同じように、真のブドウの木も偽りのブドウの木をイエス・キリストに救済される関係へと導くことはできません。
そして、私たちはもっとも驚くべきものを学びました。聖霊は偽りのブドウの木に属する新しく生まれていないクリスチャンにも降り、さまざまなしるしと不思議を力強く行うことができます。ユダでさえ聖霊によって一定の伝道事業を与えられているが、悪魔と呼ばれています。
これらの原則に従って、七つのそれぞれ異なった時代を追ってみましょう。
教会はペンテコステで生まれました。一人目のアダムが神の御手から花嫁を授けられ、彼女が穢れのないままでいられたのがほんの少しの間であったのと同じように、キリスト、最後のアダムはペンテコステで純潔の花嫁を授けられたが、彼女は分かれて穢されないでいたのは短い間でした。
「ほかの人々は、ひとりもこの交わりに加わろうとしなかった」(使徒の働き 5:13)そして、「主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」(使徒の働き2:47)
これがどのくらい続いたかは知りませんが、エバがある日サタンによって試されて誘惑されたのと同じように、教会はある反キリストの霊に入られたことによって汚染されました。
「それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。」
(第Iヨハネの手紙4:3)
「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。」
(ヨハネの黙示録2:4-5)
一つ目の時代で教会はすでに「堕落した女性」でした。サタンがアダムの前にエバを得たのと同じように、今サタンは「小羊の婚宴」の前に教会、すなわちキリストの花嫁を誘惑してしまいました。彼女の中の何が堕落の原因となったのでしょうか?それはヨハネの黙示録2:6に書かれた、「ニコライ派の人々の行ない」です。その一つ目の時代ですでに神の純粋な御言葉に従うことから離れてしまいました。彼らは神が教会に御自分に絶対的に頼るという要求(最初から最後まで完全に神に頼って御言葉を成就し、人の管理制度から離れること。)から離れ、ニコライ主義に歩み寄りました。すなわち教会の中での人による管理組織を立ち上げ、あらゆる政府のように法律によって人を管理することです。彼らはイスラエルが行なったことをしました。彼らは御言葉と聖霊のかわりに人の管理制度をとりました。
死が入りました。どうやって知ることができるのですか。一つ目の時代に聖霊が話しを聞こうとする人々に向かって、「勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」と言う声を私たちはもはや聞くことができないからです。教会はすでに死の木(もしくは宗教的な偽りのブドウの木)に深く中毒してしまいました。その木の終わりは火の池です。今は火の剣を持っていのちの木を守るケルビムはまだいません。今、神はまだエデンから離れられたのと同じように教会の中から離れられてはいません。いいえ、神は最後の時代まで御自分の教会の中におられます。その時、神はすべての人に来るようにと呼びかけられます。
ここに注意してください。このエペソ教会の使者へのメッセージは実際のエペソ地方の教会へのものではありません。それは時代への手紙です。その時代は麦と毒麦の比喩のように真理の種子と誤りの種子が存在しています。それぞれの教会時代は畑であり、その中に麦と毒麦がいます。偽りの教会は政府と御言葉を組織化して人間の意志を加え、真のクリスチャンを攻撃しました。
毒麦はいつも麦やそのほかの作物よりもよく生えます。毒麦の教会はこの一つ目の時代ですばやく成長しました。しかし麦の教会もすくすくと育っていました。一つ目の時代の終わりにニコライ派の人々の行いがその土地の偽りのブドウの木の教会で広まり、さらに自分たちのグループ以外のところにも広めようとしました。その影響は真の教会にも達しました、なぜならポリュカルポスのような尊敬されるべき人たちでさえ自分たちのことを主教と呼び、しかしその称号とその職務についてはまったく聖書に基づいていませんでした。さらに、その時代で、真の教会は初めの愛を失いました。その愛は花嫁と花婿の成婚そして新婚の愛として例えられていました。その神への完全の愛と神に委ねる心は冷めました。
しかし注意してください。黙示録2:1では主イエスが御自分の教会の中におられ、右手に使者たちをお持ちになっていると書かれています。この花嫁は堕落し、教会は真と偽りが混じりあっているにもかかわらず、主はそこからお離れになりませんでした。教会は主のものだからです。
まさにローマ人への手紙14:7-9に書かれているように、
「私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。」
十字架で主は全世界の人を買い取られました。彼らは主のものです。主は生きている人そして死んだ人の主です。これは所有権です、関係ではありません。そして主は命と死を持ている身体の中で歩いておられます。
一つ目の時代に植えられたものは二つ目の時代、そしてそれ以降の時代で成熟し、収穫されるまで成長します。そこで聖霊の黙示によって、スミルナ時代で教会全体の歴史が発展し、啓発されたのを見ることができます。
この時代で偽りのブドウの木からの憎しみは増しています。見てください(9節目)、彼らは真のグループから離れました。彼らはそこから出ました。彼らはうそつきです。彼らは自分たちが自称している者とかけ離れています。しかし神は彼らを破壊しましたか?いいえ。「収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。」
「しかし主よ、彼らは滅ぼされるべき者です。なぜなら彼らは主の人々を破壊しています。彼らはその人々を殺しています。」
「いいえ、そのままにしておきなさい。しかしわたしはわたしの花嫁に言います、『死に至るまで忠実でありなさい。わたしをさらに愛しなさい。』」
この偽りのブドウの木はサタンのブドウの木であることを確信することができます。彼らの集会はサタンのものです。彼らは神の名のもとに集まり、自分たちはクリスチャンだと嘘をつきます。彼らは伝道し、教え、洗礼をし、崇拝し、キリストが教会にもたらされた様々な聖なる儀式に参加するが、彼らは神のものではありません。しかし彼らは自分たちは神のものだと言うので、神は彼らに責任を取らせ、それぞれの時代に彼らを指して、彼らに向かって話されます。
彼らはまさに私たちにバラムを思い出させます。彼は預言者の職務を持っていました。清い動物をいけにえとして捧げているところから、彼は神への正しい近づき方を知っていることが分かります。しかし彼は本当の御言葉の預言者ではありません。なぜなら神が彼にバラクを喜ばせに行ってはいけないと言われているにもかかわらず、彼は金と名声に対する欲望を持っているので、なんとしても行こうとしました。だから神は彼を行かせました。バラムの心の中の欲望によって、神の完璧な御心は許可の御心に変わりました。
神は確かに「行きなさい。」と言われました。 神は御自分の御心を変えられたのですか。いいえ。バラムが行ったとしても神は御自分の方法があります。バラムは神の御心を取り消しませんでした。神はとにかく御自分の方法があるのです。御言葉を避けて行ったバラムこそが敗者でした。
そして今日、私たちは同じ問題を持っています。女性の伝道者、組織、間違った教義などなど、そして人々は神を崇拝し、聖霊の現われもあるが、バラムと同じ道をたどっています。受けた任務が明かにされた御言葉とは逆にもかかわらず、神は自分たちに話されたと主張しています。そして私は神が彼らに話されたことを否定しません。しかしそれは神がバラムに二回目に話したことのようです。神はバラムは御言葉よりも自分自身の欲望を望んでいるので、彼にそれを与えたが、最終的にやはり神御自身の方法に従ってなされました。
今日においても、神は人々に自分たちの欲望に従いなさいと言われた、なぜなら彼らは御言葉を拒絶したからです。しかし神の御心はそれらにかまわずに成就されます。アーメン。このことを分かってほしいです。このことは全体をすっきりし、すべての時代のことがはっきりと見えることができるだけでなく、聖霊の現われや外的な祝福が大いにあるこの最後の時代で、なぜ神の御言葉によって明かにされた御心にこの時代はそこまで対抗するのかを分からせることができます。
もし大きい声でかつはっきりとしたメッセージを受けた時代があるとしたらこの時代です。そのメッセージはかつて、そして今も旧約聖書の真理です。それは、「奴隷の女の子どもは自分自身が追い出されるまで自由の女の子どもを苦しめる。」ということです(ガラテア人への手紙 4:29-30)。これはサタンが名ばかりで偽りのクリスチャンのグループを通して、真のクリスチャンに対しての憎悪と冒涜を噴出させ、このことは神がラオディキア時代の最後にその偽りのブドウの木を引き抜くまでますますひどくなるということを私たちに思い知らせます。
予言の霊によって三つ目の時代で世界の教会はニコライ主義を教義として受け入れると明かにされました。聖職者と一般信者たちの間の溝は深まりました。それは彼らが地方の羊の群れの羊飼いである長老たちが、御言葉によって羊の群れを管理するという聖書の真理から、「ニコライ派の人々の行ない」に向いてしまったからです。聖職者は自分たちを階級の中に置き、上には上があり、これは聖書に反するやり方です。その後それは聖職者を人と神の間に置くという祭司制度に変わり、聖職者は一定の権限を持つ一方で、一般信者の神から与えられた権利を否定し続けるようになりました。これは権利侵害です。この時代にこれは教義となりました。それは教会の中で神の確固たる御言葉として設置されたが、絶対にそうではありません。しかし聖職者はそれを神の御言葉と呼び、したがってその教義は反キリストなものです。
人の管理は純粋に政治性のものであるため、教会は政治に関わるようになりました。この関与はある独裁者の帝王によって歓迎され、彼は教会の政治と国家の政治を合併させ、武力によって真の宗教であるかのように偽りの教会(サタンの偽りの宗教)を設置しました。そして様々な帝王の様々な勅令によって、私たちは政治力を持つ偽りの教会はさらに貪欲に真のブドウの木を破壊したことを発見しました。
悲しいことに、真のブドウの木はこの教義に対して免疫を持っていませんでした。しかし私は真のブドウの木はニコライ派の考えを教義にしたとは言っていません。まったくそうではありません。しかしあの小さな死の毛虫は真のブドウの木の樹液を吸い続け、それが倒れることを望んでいました。真の教会の中で神が監督として呼ばれた人たちでさえ、その職務の権限を地元の教会以外のところにも広げようとしました。当時教会に出現したこのやり方はパウロが望んでいるものではありませんでした。なぜなら、パウロはこう言ったからです、「彼らは私のことで神をあがめていました。(ガラテヤ人への手紙1:24)」パウロがどんな権限を持っていたであろうと、彼は人々の視線をすべての権限を持っておられる神に向けさせ続けました。しかし聖職者はいつも神の導きを追い求めるのと同時に人の導きも求め、栄光を受けるのに値しないところに栄光を授けました。私たちは真の教会は人文主義に汚されたことを見つけました。ニコライ主義の設置にともなって、使徒の継承、伝道者の設置、牧師の選挙などなど、偽りの教会はバラム主義とそう遠くは離れていません。「サタンの深部」への第二段階は今進行しています。
この第二段階はバラムの教義です(黙示録2:14に書かれています)。バラムはバラクに「連合の会議」によってイスラエルの子たちをつまずかせるように教えました。そこで、客らは神の御言葉に反する二つのことをします。バラクは自分の国を固めるために助けが必要だったことをあなたがたは覚えているはずです。彼はその時代でもっとも勢力を持っている霊的な人物であるバラムを呼びました。バラムは彼にイスラエルを騙し、破壊するやり方を教えてあげました。
まず、彼は双方が集まって話し合い、そして一緒に会食をして問題を解決するように提案しました。ともかく、お互いに理解することはためになります。これを終えたらあとは楽になります。次の段階は一緒に崇拝することです。もちろん主催者は少しの圧力をかけ、ゲストが自分の意図よりも先に行ってしまいます。これは旧約聖書にだけ起きたことではなく、新約聖書の教会にも起きていました。なぜなら当時にはバラクと同じような帝王がいて、自分の国を固めてくれる人を必要としていました。
そのためコンスタンチンは名ばかりのクリスチャンであるローマの最初の教会を招待し、クリスチャンたちの支持を得られるように助けを求めました。なぜなら彼らはとても大きい組織だからです。その結果として325年のニカイア公会議が開かれました。真のクリスチャンと名ばかりのクリスチャンがコンスタンチンの招待によって集まりました。本当は参加すべきでない真のクリスチャンでさえ集まりに参加しました。
コンスタンチンは彼らを連合するようにあの手この手を使って働きかけましたが、真のクリスチャンは彼らはそこにいるべきではないと気づき、そこから離れました。残った者に、コンスタンチンは政府の経費と政治的そして物質的な権利を与えました。偶像崇拝と心霊主義が人々に伝わり、聖徒の名前が刻まれた肖像が建物の中に置かれ、人々は死者と会話し、もしくは亡くなった聖徒に向かって祈りをささげるなどと教わった、これは心霊主義のほかになりません。
人々が本当に必要としている食べ物である神の御言葉は政府が強行した教義や信条、そして儀式に取って代わりました。最も深刻なのは、人々は3人の神を与えられ、唯一の真の神に3重の名前がつけられました。主イエス・キリストの御名による水の洗礼は3つのタイトルの異教的な洗礼に変えられました。
本当の信徒はそこに行くべきではありませんでした。彼らはすでに多くの真理を失い、そして今彼らは神性にたいする理解を失い、水による洗礼において御名をタイトルに代えました。
このバラムの教義に注意してください。まず、これは計画された策略であり、堕落した聖職者制度によって人々を自分たちのもとに縛り、計画的に人々を不信仰の罪に導きます。ニコライの教義は堕落した聖職者制度であり、彼ら自身の間で権利闘争がありました。その一方、バラムの教えは征服であり、信条や崇拝の体系を通して人々を束縛します。これによく注意してください。人々を名ばかりの教会に束縛し、破壊するものは何だったでしょうか。
それは教会の教えに取り入れられた信条や教義でした。これはローマカトリック教会の教義でした。彼らは真の食べ物である御言葉を与えられませんでした。彼らは偶像崇拝から来た食べ物を与えられました。キリスト教の用語でバビロン式の異教を包みました。
同じ霊と教義は今すべてのプロテスタントにも存在し、それは宗派と呼ばれています。ニコライ主義は組織化し、教会のリーダーシップを人間の意志で行なうことによって聖霊を排除します。
バラムの教えは宗派主義であり、教会のマニュアルが聖書に取って代わります。そしてまさに今、多くの神の民は宗派主義のわなに陥り、神は彼らにこう叫ばれています、「わが民よ。この女から離れなさい。その罪にあずからないため、また、その災害を受けないためです。」見よ、彼らは無知です。しかしもし今携挙が起きたならば、このような無知は神の裁きの中で、間違った側に入ったことを上訴する理由にはなりません。
聖職者たちは組織してお互いに一段一段と上へランクをつけ、どれだけ素晴らしく、そして必要に見えても、最後に反キリストの現れであるリーダーが付きます。これは人の意思が御言葉に取って代わることの他にありません。組織化された宗派にいる人は反キリストの体系の真ん中にいます。このことをはっきりと説明させてください。私は人々に反対しているわけではありません。私は体系に反対しているのです。
政府と教会の連合によって、暗黒時代が始まりました。そして事実、その後約1000年教会は深い闇に入り、すなわちサタンの深い所です。ニコライ主義とバラムの教えを受け入れ、政治、経済、そして物質の力を得た敬虔の人が向かう方向は一つしかありません。それはまさにイゼベルの教義に向かうのです。 
さて、なぜこう言うのでしょうか。なぜなら、私たちは第4の時代を勉強した時に、イゼベルはシドン人で、アスタルトの祭司王エテバアルの娘だと指摘しました。彼は殺人者でした。この女性は政治的な理由でアハブ(イスラエル王)と結婚しました。その後彼女は人々の信仰を支配し、レビ人を殺害し、寺を立て人々にアスタルト(ヴィーナス)とバアル(太陽の神)を崇拝させました。彼女は教義を作り、彼女の祭司たちに教えさせ、彼らは人々にそれを受け止めさせました。
名ばかりの教会が暗黒時代でどのような感じかをここではっきり見ることができます。彼らは完全に神の御言葉から離れ、神性に関する名前やタイトル、そしてわずかな聖書の原則だけが残りました。彼らは引用したすべての聖書の章節を原文の意味を変えることによって捻じ曲げました。彼らの学院の司教たちは大量の論文を書き、彼らの歴代の教皇たちは皆、自分は全然誤りはなく、神からの黙示を受けており、神として人々に話すと言いました。 これらのすべては神父たちに伝えられ、彼らは恐怖を通して人々にこう信じさせました。これに同意しない者は処刑もしくは破門され、破門は死よりもさらにひどいかもしれませんでした。教会の自信ありげな声が乗っ取り、力を振り回し、真のクリスチャンがほとんどいなくなり、御言葉がほとんどなくなり、聖霊の現れがほとんどなくなるまでに殉教者の血を飲み干しました。しかし真のブドウの木はもがきながら生き残りました。神はその小さな群れに対して誠実でした。ローマは彼らの身体に対して何をしようとも、彼らの中の聖霊を殺すことはできませんでした。彼らは真実の光に照らされ、聖霊の力で支えられました。
ここで徹底的な分析をしてみましょう。ニコライ派の行ないと教義、バラムの教義、偽りの女性預言者イゼベルの教え、これらは3つの霊もしくは3つの霊的な原則からなるのもではありません。これら3つは同じ霊の3つの現れです。なぜならそれはある深い所から別の深い所へ移っていくからです。これらはすべて何なのでしょうか。それは反キリストの霊が3つの異なる段階においての現れです。いったん聖職者が離れて組織すると、人々をその中に導いて、組織によって人々を縛って圧迫しました。この組織は神の純粋な御言葉ではなく、彼らが教える信条と教義に基づいていました。
崇拝の中で行事と儀式の割合が増えました。そしてすぐに体系全体が闘争的で極悪非道な力となり、全力を尽くして宗教の言論と実際の力ですべてのことを支配しようとしました。それは神様の御言葉ではなく、自分の偽予言からエネルギーをもらいました。それはキリストの名で来たけれども、事実上完全に反キリストです。
果てしない歳月が過ぎ、真理はきっと死ぬであろうように見えました。すると人々はローマカトリック教会の邪悪に抗議しはじめました。なぜなら神はこのような教えと行いをする教会にいるなんてどうしても想像できないからでした。これらの抗議は無視されたり、注意を引くことがなかったり、ローマの弾圧を受け消えたりしました。しかしそのとき、神は至高の恵みをもってマルティーン・ルターという名の使者を遣わされ、宗教改革を始められました。彼が働く時期はちょうどローマカトリック教会が自分自身を吊るすのに十分な長さのロープを持つ時期でもありました。ルターが信仰による義認を教えた時に、真のブドウの木は数世紀以来はじめて大きく成長しました。
名ばかりの教会が政府の力で支持されてきたが、政府の力は今それに対抗し始めました。そしてここでルター、そして真の信徒たちは間違いを犯しました。彼らは政府が彼らに資金を援助することを許しました。そのためこの時代は御言葉の中で遠くまで進みませんでした。
それが達した地点のために神に感謝いたします。しかし、それが政治の力に頼りすぎたため、この時代は組織化で終わりを告げました。そしてルターの時代で偽りのブドウの木から分かれたこのグループも、今はもどってあの淫婦の娘になりました。なぜなら彼女はニコライ主義とバラムの教えに入ったからです。
この時代は多くの派閥争いの痕跡が残されました。彼らが真の種子からどのくらい遠いのかを証明するのに、歴史を読めば、時には死に至ることもあった迫害を彼らがお互いにどのようにしたのかが見えるのです。しかしすべての時代と同じように、彼らの中にもわずかながら真の種子がありました。
この時代に起きたあることにうれしく思います:改革が始まったのです。それは復興ではなくて改革でした。それは回復でもありませんでした。しかしニカイアで死んで、暗黒時代で腐敗した小麦の種から真理の芽が生まれました。これは将来、ラオディキア時代の終わりで、イエスが来られる前に、教会は小麦の種の花嫁に戻ることを象徴します。一方で毒麦は収穫され、火の池で燃やされます。
5つ目の時代に、印刷技術の開発によって御言葉は大いに広められ、6つ目の時代はすぐにその恩恵を受けました。この時代は回復の2つ目のステージでした。前にも言ったように、それは穂が出る時代でした。教育が充実していました。これは知識のある人々が神を愛し神に仕えた時代でした。伝道事業が充実しており、御言葉は世界中に広がりました。これは兄弟愛の時代でした。ドアが開かれる時代でした。これは最後の長い時代でした。その次に来るラオディキア時代は短いものとなります。
国内外の真のブドウの木の数に関して言えば、この時代は今までになく繁茂しました。この時代では聖徒たちは最前線に行きました。真のブドウの木は広がり、偽りのブドウの木は後退しました。真のブドウの木が行くところならどこでも神は光といのちと幸福を与えられました。偽りのブドウの木は正体を現わしました。それは闇、悲惨、貧困、無学、そして死です。偽りのブドウの木が権利を持っていた時代で真のブドウの木を殺せなかったのと同じように、真のブドウの木もこの時偽りのブドウの木を主イエス・キリストに導くことができませんでした。しかし偽りのブドウの木は堅固に身を固め、最後の時代の終わりに、神の選民で真のブドウの木である小さな群れを除いたすべてのものを勝ち取るまで待ち続けました。
しかし悲しいことに、一つ一つの神の大きな運動において(たくさんありましたが)、人々はニコライの教義を捨てることを軽視し、彼らは皆組織化して死にました。その後彼らは様々な宗派へと変化し、食糧のない牧場で霊的に死んでいる人を見守りました。彼らは全然知らなかったが、すべてのグループはそれぞれ同じ間違いに汚されました。彼らは名ばかりのクリスチャンに過ぎなかったが、すべてのグループはそれぞれローマカトリック教会のように自分たちだけが正しく、他のはみな間違っていると断言しました。この段階は実は最後の時代で娘たちが最後の時代で家に戻り、ローマに戻って母親の雌鶏の下に行くのために用意されたのです。
そして今最後の時代、ラオデキア時代に来ました。それは私たちの時代です。それは最後の時代だと知っています。なぜならユダヤ人はパレステチナに戻ったからです。彼らがどのように戻ったのであろうと、彼らは今そこにいるのです。そしてこれは収穫の時代です。しかし収穫の前に成熟が起きなければなりません。2本のブドウの木の成熟です。
ルターの時代は春の芽生えでした。ウェスレーの時代は夏の成長でした。ラオデキアは収穫の時であり、束ねて燃やすために毒麦を集め、主のために麦を収穫して蓄えるときです。
収穫の時期。収穫期が近づくに、今まで成熟過程で著しい速さで成長した作物はスピードを緩め、遂には成長が止まることに気づいたことがありますか。それはまさに今私たちが見ていることではありませんか。偽りのブドウの木は人を失い、彼らは共産主義やほかの信仰に向かったのです。そのためその彼女の会員数は彼女が私たちに思わせたいように増加していません。人を支配する力も昔ほどではありませんでした。そして多く場合、教会はまるで演出のようです。
真のブドウの木はどうでしょう。彼女は成長していますか。以前リバイバルの集会に参加し、祭壇からの招きに答えるあの大勢の群衆は今どこにいるのでしょう。彼らの多くはただ一時的に情熱になり、本当に霊的なことよりも、物質的なものを望みます。この時代は昔ノアが箱舟に入り、ドアが閉まったのに、神が裁きを7日間も遅らせたあの時代に似ていませんか。しかしあの静かな日々になんと神に向き直った人は一人もいませんでした。
しかし今は収穫の時です。麦と毒麦を成熟させた人々はこの時代に現れます。毒麦は人々を御言葉から離れさせた堕落した教師の下で素早く成熟しました。しかし麦も成熟しなければなりません。彼女のために、神は御自分によって示されたミニストリーを持つ預言者であり使者でもある人を遣わし、彼は選民によって受け入れられます。彼らは1つめの教会でパウロの言うことを聞いたように、彼の言うことを聞きます。彼女は御言葉の中で成熟して、御言葉の花嫁となり、彼女の中で純粋の御言葉と信仰をこもった力のある働きを見ることができます。
偽りの教会のグループたちは集まって世界教会協議会となります。この世界教会協議会は獣のしるしです。
ヨハネの黙示録13:11-18
「また、私は見た。もう一匹の獣が地から上って来た。それには小羊のような二本の角があり、竜のようにものを言った。この獣は、最初の獣が持っているすべての権威をその獣の前で働かせた。また、地と地に住む人々に、致命的な傷の直った最初の獣を拝ませた。また、人々の前で、火を天から地に降らせるような大きなしるしを行った。また、あの獣の前で行うことを許されたしるしをもって地上に住む人々を惑わし、剣の傷を受けながらもなお生き返ったあの獣の像を造るように、地上に住む人々に命じた。それから、その獣の像に息を吹き込んで、獣の像がもの言うことさえもできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。ここに知恵がある。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。その数字は六百六十六である。」
覚えてください、剣によって倒されたのは異境のローマ帝国でした。しかし彼女が名ばかりのローマキリスト教会に入り、異教とキリスト教を統合させ、神聖ローマ帝国になったとき、彼女の致命的な傷も治りました。彼女はこのまま残り、イエスが再来するときに彼女を滅ぼします。しかしローマは単独でそれをしませんでした。彼女の娘は彼女と一緒にいて、彼女は世界教会協議会によって絶対的な権力を手に入れます。
このことは一部の方にとって信じがたいことであるが、実はこれはみんなに目に映っているはっきりとしたことです。なぜなら今世俗的な教会は政治を支配しようとし、そして機が熟したとき、その支配力はとても強いものです。人々の期待に反して、世界教会運動はローマが頭になることで終わります。それは黙示録の17章3-6節に、淫婦で秘密なバビロンは獣の上に座ると書いているからです。彼女は最後の、もしくは4番目の皇帝を支配しています。このローマ教会はそうしようとしています。ローマは世界の教会システムを支配下に置くことでそうしようとしており、この獣の像(すなわち教会システム)はローマに服従します。なぜならローマは世界の黄金を支配しているからです。したがってすべての人々は世界教会システムに属せずに、手もしくは頭に獣の印がないと売買することができません。そうでない人は運命に身を任せるしかできません。
頭にある印は彼らは世界教会システムの教義である三位一体などを受け入れることを意味し、手の印は彼らは世界教会の望むことを行うのを意味します。教会システムは大きい力をもって真の花嫁を迫害します。この獣の像は花嫁を伝道や説教などから離れさせようとします。彼女の伝道者は慰めと真理を人々に伝えることを禁じられます。しかし反キリストが一人の人間と化し、この世界の教会システム全体を支配してしまう前に、真の教会はこの世界から離れ、主のもとに行きます。神は御自分の花嫁を連れ、子羊の大いなる婚宴に向かいます。
このまとめの章において、ペンテコステから最後の時まで、二つの教会と二つの霊を追跡しています。この最後の時間を使って、ラオディキア教会の中でこれを見せたいと思います。
ラオディキア教会は20世紀に入ってからすぐに始まりました。この時代で真の教会は当初ペンテコステでの花嫁の状態まで戻るため、これは力に満ちた回復でなければならないことがおわかりでしょう。信徒たちは霊でそれを感じ、神に一つ目の時代にあったような聖霊の新しい注ぎを求めました。
当時、多くの人々は異言を話し、聖霊の賜物を表したため、これが答えだと思えるようになりました。そのため、これは絶対ずっと待っていた復興だと人々は信じました。 それは違っていました。なぜなら、秋雨は春雨のあとでないとやって来ないからです。春雨は春で指導の雨です。秋雨は収穫の雨です。指導の雨がまだ来ていないのに、これが実現することはありえるのでしょうか。人々に指導して子の心をペンテコステの父に向けさせる預言者兼使者がまだ遣われていません。そのため携挙のための復興と最後の胎動はまだ来ていません。前、霊の表しを享受していたのでした。その中には悪魔の力もあります。なぜなら人々は知らず知らず悪魔のコントロール下に入ってしまったからです。それが本物でないことの証明は、これらの人々は(二代目がまだ出現する前に)組織化し、聖書に基づかない信条を書き、彼らよりも前のほかのグループと同じように自分たちの囲いを作ったことなのです。
覚えていますか。イエスが地上にいらしたとき、ユダもいました。それぞれ違う霊から来て、亡くなってからそれぞれの場所に行きました。キリストの霊はその後真の教会に戻り、ユダの霊も偽りの教会に戻りました。
黙示録 6:1-8にこう書いてあります。
「また、私は見た。小羊が七つの封印の一つを解いたとき、四つの生き物の一つが、雷のような声で、「来なさい」と言うのを私は聞いた。私は見た。見よ。白い馬であった。それに乗っている者は弓を持っていた。彼は冠を与えられ、勝利の上にさらに勝利を得ようとして出て行った。小羊が第二の封印を解いたとき、私は、第二の生き物が、「来なさい」と言うのを聞いた。すると、別の、火のように赤い馬が出て来た。これに乗っている者は、地上から平和を奪い取ることが許された。人々が、互いに殺し合うようになるためであった。また、彼に大きな剣が与えられた。小羊が第三の封印を解いたとき、私は、第三の生き物が、「来なさい」と言うのを聞いた。私は見た。見よ。黒い馬であった。これに乗っている者は量りを手に持っていた。すると私は、一つの声のようなものが、四つの生き物の間で、こう言うのを聞いた。「小麦一枡は一デナリ。大麦三枡も一デナリ。オリーブ油とぶどう酒に害を与えてはいけない。」小羊が第四の封印を解いたとき、私は、第四の生き物の声が、「来なさい」と言うのを聞いた。私は見た。見よ。青ざめた馬であった。これに乗っている者の名は死といい、そのあとにはハデスがつき従った。彼らに地上の四分の一を剣とききんと死病と地上の獣によって殺す権威が与えられた。」
ユダの霊がどのように白馬の騎士として戻ってきたのかが見えますか。それは白でした。ユダがイエスに似ていたように、それは本物にとても似ていました。ある冠は彼(白馬の騎士)に与えられました。どのように?あの霊はニコライシステムのリーダーに降りました。彼は三つの冠を被った法王であり、自分の神殿に神として座り、自分自身をキリストの代表と呼んでいました。もしキリストの代表は「キリストの代わり」、「代替」、もしくは「神の代表」を意味するものでしたら、法王は自分のことを聖霊と呼んでいた、もしくは聖霊を排除し、その代りに行動していたことになります。それは彼の中にいたユダの霊の仕業でした。彼がどのように勝利したかを見てください、彼は出て行って勝利の上にさらに勝利を得ました。キリストはそのようにされませんでした。主のもとに来たのは天なる父があらかじめ定められた者たちのみでした。あの霊はそのまま受け継がれ、先日教えたように、ある日それはある生身の人間の中に棲み、その人は世界教会協議会の頭となります。しかしイエスは戻られ、御自分の再臨の大いなる栄光でそれらを破壊されます。彼らの結末は火の池なのです。
しかし真の種子はどうなるのでしょうか。それは先日教えたように、神はこの時代に遣われた使者からの真実の御言葉で御自分の民の用意をされます。彼女の中には完全なペンテコステがあり、なぜなら御霊は彼らを最初の状態に戻されるからです。それは「主がかく仰せられる」なのです。
それは「主がかく仰せられる」なのです。なぜならヨエル書2:23-26にこう書かれているからです。
「シオンの子らよ。あなたがたの神、主にあって、楽しみ喜べ。主は、あなたがたを義とするために、初めの雨を賜り、大雨を降らせ、前のように、初めの雨と後の雨とを降らせてくださるからだ。打ち場は穀物で満ち、石がめは新しいぶどう酒と油とであふれる。いなご、ばった、食い荒らすいなご、かみつくいなご、わたしがあなたがたの間に送った大軍勢が、食い尽くした年々を、わたしはあなたがたに償おう。あなたがたは飽きるほど食べて満足し、あなたがたに不思議なことをしてくださったあなたがたの神、主の名をほめたたえよう。わたしの民は永遠に恥を見ることはない。」
ここで神は「償おう」とされている、と書かれています。ルターの時代は教会を償いませんでした。それは改革を始めたのでした。ウェスレーの時代も償いませんでした。ペンテコステの時代も償いませんでした。しかし神は償われます、なぜなら神は御自分の御言葉を否定することはできないからです。これは教会の復活ではなく、「償い」なのです。神は初期のペンテコステまで教会を戻されるのです。25節になぜ償いが必要なのかが書かれています。根っこと、わずかな茎以外、いなご、ばった、食い荒らすいなご、かみつくいなごたちはほぼすべてを食い尽くしました。皆さんご存知のように、これらの虫は実は同じ種で、それぞれが異なる成長段階にあるだけなのです。そうです。それらは同じ反キリストの霊が時代を通して、組織、宗派、そして偽りの教義で表しているものです。そのかわいそうな小さな根と茎は復興されようとしています。神は新しい教会を植え付けようとはされません。神は御自分の元のものを元の種子を実るまで栽培されるつもりです。神は23節で書かれていることをされています。それは教え、つまり初めの雨のことです。次に後の雨もしくは携挙の信仰が来ます。
したがって、私たちはマタイの福音書24:24が完全に成就されるときにいるのです、「できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。」選民を騙そうとするのは誰なのでしょうか。それはこの末世にいる「油を注がれた者の偽者」の中にいる反キリストの霊なのです。これらの偽者はイエスの御名を名乗り、自分たちが末世に神から油を注がれたと主張しています。彼らは偽りのメサイア(油を注がれた者)です。彼らは自分たちを預言者と呼びます。しかし彼らは神の御言葉と一つになっているのでしょうか。いいえ。彼らはそれに足したり引いたりしてきました。 神の御霊の賜物が彼らで表れていることを否定する人は誰もいません。しかしバラムと同じように、彼らは自分たちのプログラムを持っています。献金の呼びかけ、賜物の働きはあるが、神の御言葉を否定もしくは無視します。そうすることで論争や異議が生じ、さらに大きい利益を得るチャンスを消すことを恐れています。しかし彼らは神の贖いと神の御力で解き放されることを教えます。昔ユダがキリストからミニストリーを与えられたのと同じです。しかし彼らは誤った種子なので、結果的に偽りの霊が彼らを動かしています。
彼らは信仰深いですか。ああ、もちろん!彼らは選民よりも勤勉で熱心なのです。しかし、彼らはラオディキア人にすぎないのです。キリストではなく、大勢の群衆、大きいプログラム、そして大きいしるしを求めます。彼らはキリストの2回目の到来について教えるが、預言者兼使者の到来を否定します。この預言者兼使者は力、しるし、そして真実の啓示において彼らを超えているのにもかかわらず。そうなんです。末世でこの偽りの霊は本物にあまりに近いので、 神の御言葉からのずれを認識することによってのみ見抜くことができます。毎回それが御言葉に反することで捕まると、私たちがすでに偽りだと証明した論点で弁解します、「私たちには成果があるのではありませんか。私たちは神に属す者なのです。」
終わる前に、ある考えが浮かびました。麦の種子が埋められ、双葉を出し、房が出来、本物の穂が実ることについてずっと話してきました。これは、ルーテル教会の方は神によって罪なしとされることに基づいた教えをしているので、聖霊を持たないという意味なのではないかと困惑する方はいらっしゃるかもしれません。そしてメソジスト教会などの方々もそうではないかと困惑する方がいらっしゃるかもしれません。いいえ、そうではありません。そういう意味ではないのです。特定の人々や個人について話しているのではありません。時代について話しているのです。ルターは神の御霊を持っていました。しかし彼の時代は完全なる復興の時代ではありません。なぜなら聖霊は最初のようにあふれ出ていないからです。ウェスレー、ブース、ノックス、ホワイトフィールド、ブライナード、ジョナサン・エドワード、ミュラーなどの方々もうそうなのです。彼らはもちろん聖霊に満たされました。はい、もちろんです。しかし彼らがそれぞれ生きていた時代は復興の時代ではありませんでした。この完全に背教の最後の時代こそが復興の時代であって、ほかの時代はみなそうでないのです。これは背教の時代です。そして回復の時代なのです。これは丸く完結した時代です。この時代が完結すると、すべてが過去となります。
ここで7つの教会時代の伝道を終えたいと思います。御霊がそれぞれの時代に語る言葉だけ言いたいと思います。「 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」
神の御霊が私たちに語りかけられ、時代の真実を教えられただけでなく、人々の心が御自分に振り向くことができるように誠実に働きかけられたと私は心から信じています。それがすべての伝道と教えの目的です。御言葉の伝道と教えが為されたとき、羊が神の御声を聞き、ついて行くのです。
私は一度も人々が自分について行くようにするために、自分の教会に参加させるために、もしくは団体や組織を作るためにメッセージを教えたことはありません。一度もそうしたことはないし、今もそうするつもりはありません。それらのことに興味はありません。私は神と人々のことに興味があるのです。その中の一つを完成させられたら満足です。それは神と人間の間の真の霊的な関係を築くことです。そこで人はキリストの中で新しい人となり、主の御霊に満たされ、主の御言葉通りに生活します。私は今主の御声を聞いたすべての方に、私が心から信じ、自分のすべてを主に捧げたように、あなたがたの命を完全に主に捧げるように呼びかけ、嘆願し、警告します。神の祝福がありますように。主の再臨であなたの心が喜びに満たされますように。