CAB-09 ラオデキア教会時代

  • 伝道者:ウィリアム・ブランハム
  • 録音番号:CAB-09
  • 年:CAB

An Exposition of the

Seven Church Ages

Chapter Nine

七つの教会時代の解説 第九章

ラオデキア教会時代

ヨハネの黙示録3:14-22
「また、ラオデキアにある教会の御使いに書き送れ。
『ア-メンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。
「わたしは、あなたの行いを知っています。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。
このように、あなたはなまるぬく、熱くも冷たくもないので、わたしは口からあなたを吐き出そう。
あなたは、自分は富んでいる、豊かになり、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。
私はあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるために、目に塗る目薬を買いなさい。
わたしは愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。
見よ、わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、かれのところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。
耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。』」
(一) ラオデキア市
ラオデキアという名前は「人々の権利」を意味し、王家の女性に敬意を表すためにいくつかの都市につけられました。この都市は小アジアの中でもっとも政治的に重要であり、経済が繁栄している都市の一つです。卓越した市民たちによって莫大な財産がこの都市に集められました。そこはある優秀な医科大学の所在地です。市民たちは芸術や科学においても著名です。25個の都市の行政機関の中心地であるため、よく「メトロポリス」と呼ばれていました。人々はゼウスを崇拝していました。実はこの都市は彼らの神に敬意を表すために、一度ディオポリス(ゼウスの都市)と呼ばれたことがありました。第4世紀にある重要な教会協議会がそこで開かれました。頻繁に来る地震のためにこの都市は最終的に完全に放棄されました。
この最後の時代の特徴は私たちが生きているこの時代を表すのになんとぴったりなのでしょう。例えば、彼らは一人の神、神々の元首と父であったゼウスを崇拝していました。このことは20世紀が「一人の神、万人の父」という宗教の前提で、皆お互いに兄弟となり、共通の崇拝方法を通して、人々の愛、理解、そしてお互いへの関心を強めるという考えで、プロテスタント教徒、カトリック教徒、ユダヤ教徒、ヒンドゥ-教徒などを連合させることを予知しています。カトリックとプロテスタントは今努力して、実際にこの連合の中で確実な地歩を得ています。そして他の宗教もこれに従うのを期待していると公言しています。このような態度は世界の首脳たちが連合国で各霊的な崇拝の概念を認めることを拒否し、すべての宗教が同じゴ-ルを望み、同じ目的を持ち、そして皆基本的に正しいため、これらのばらばらな概念を置いて、一つになることを推奨したときに見られました。
ラオデキア、「人々の権利」もしくは「人々の正義」、この名前に注意してください。今まで20世紀の教会時代のようにすべての国家が起き上がって社会的、そして経済的の平等を要求するような時代はありましたか。これは共産主義の時代であり、理論に過ぎませんが、すべての人が平等を求めています。これは自分たちのことをキリスト教民主党、キリスト教社会党、キリスト教共和連邦などなどと呼ぶ政党の時代です。自由主義的な神学者たちの考えによると、イエスは社会主義者であり、早期の教会は聖霊の導きのもとに社会主義を実践したため、今日私たちもそうすべきであるというのです。
古代の人々がラオデキアをメトロポリスと呼んだ時に、彼らは私たちが今日設立している世界的な政府を望んでいました。あの都市はある偉大な教会協議会の開催場所であるため、それは今日の全キリスト教会運動の予示であることを私たちに思わせます。まもなく私たちはすべての「いわゆる」クリスチャンたちがそこに集まるのを見るでしょう。実際に、教会と政府、宗教と政治は連合しています。毒麦は束ねられています。麦はまもなく収穫されます。
それは地震の都市でした。そのような地震は最終的にその市を破壊しました。この神から離れ、例の淫婦に求愛する時代は神が全世界を振動させることによって完結するでしょう。世界のシステムが崩壊するだけでなく、地球自体が揺らされ、キリストの至福千年の君臨のために更新されます。
その都市は裕福な人からの寄付で富んでいました。それは文化に満ちていました。科学に富んでいました。今日になんと似ているのでしょう。教会は裕福で崇拝は美しく形式的であるが、冷たくて死んでいました。聖霊による御言葉は文化と教育に取り替えられてしまいました。そして信仰は科学によって取り替えられてしまいました。人は物質主義の犠牲者です。
古代のラオデキアのすべての性質は20世紀のラオデキア教会時代で生まれかわりました。神の憐れみの中で、彼女の罪を分けられ、結果として裁判にかけられませんように、聞く耳を持つ者は彼女から出ていくように願っています。
(二)ラオデキア時代
ラオデキア教会時代は20世紀の変わり目、おそらく1906年から始まりました。それはどのくらい長く続くのでしょう。私は神の僕として、多くの幻を見て、それらは成就しなかったものは一件もなかったのですが、私はこの時代は1977年頃に終わると推測します(これは予言ではなくて推測です)。個人的な意見ですが、この推測は1933年6月のある日曜日の朝私に訪れた7つの連続的な大きな幻に基づくものです。主イエスは私に、主の到来は近づいており、しかし主が来られるまでに、7つの大きい出来事が起こると話されました。私はそれらを全部書きとめ、そしてその朝主の黙示を人々に述べました。1つ目の幻は、ムッソリ-ニはエチオピアに侵入し、その国は「彼の足で踏みつけられ倒される」。その幻はもちろんいくつかの反発をあおり、何人かは私が話した時にとても怒って、それを信じませんでした。しかしそれはその通りに起こりました。彼はただ自分の現代的な兵隊を連れてそこに踏み込み、政権を奪いました。その国はチャンスがなかったのです。しかしその幻は同時にムッソリーニが自分自身の人々によって倒され、恐ろしい最期を迎えると言いました。それはまさにその通りに起こりました。
次の幻(2つ目の幻)はアドルフ・ヒトラ-という名前のオ-ストリア人はドイツの独裁者として現れ、世界を戦争の中に引き込むことを予言しました。それがジ-クフリ-ド線、そしてわれわれの軍隊はそれに打ち勝つのに苦しむことを示しました。さらに、それはヒトラ-が謎の最期を迎えることを示しました。
3つ目の幻は世界の政治の派閥に関するものでした。それはこれから3つの大きな主義であるファシズム、ナチズム、共産主義が出現するが、最初の2つ目は3つ目のものに飲み込まれるということを私に示しました。その声は警告しました、「ロシアに注意しなさい、ロシアに注意しなさい。北の王に注意しなさい。」
4つ目の幻は第2次世界大戦後の科学の大きな進歩を示しました。その幻の中で、あるプラスチックのドーム型の車はリモコンの制御下で美しい高速道路を走行していました。この車の中にはハンドルがなく、人々は何らかのゲ-ムを楽しんでいました。
5つ目の幻はわれわれの時代のモラルの問題、おもに女性に関したものです。女性は選挙権を獲得した後、自分の場所から離れ始めることを神は私に示されました。そして彼女たちは髪を切り、このことは彼女たちがもはや男性の支配下にいなく、平等な権利、あるいはほとんどの場合、それ以上の権利を主張することを象徴しています。彼女は男性の服装をし、そして徐々に服を着なくなり、最後に私が見たのは小さなイチジクの葉のようなエプロンを着けた裸の女性でした。この幻の中で私は全世界の恐ろしい堕落とモラルの悪化を見ました。
そして6つ目の幻の中で、ある最も美しいしかし残酷な女性がアメリカで現れました。彼女は国民を完全に支配しました。これはいくつかの女性は、女性が選挙権を得たことによってアメリカで大きな力を握る幻の可能性もあるが、私はこれがロ-マカトリック教会の台頭のことだと信じています。
最後の7つ目の幻の中で、私は最も恐ろしい爆発音を聞きました。私が振り向いて見ると、アメリカ全土はがれき、爆弾穴、そして煙しかなかったです。
この7つの幻、そしてこの50年間の世界情勢の急激な変化に基づくと、これらの幻は1977年にすべて成就するであろうと私は予想(予言ではありません)しています。イエスが「その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。」と言われたことに基づけば、私の声明は無責任だと感じる人も多くいるでしょう。しかし、30年後の今日、私はやはりこの予想を維持します、なぜなら、イエスはその年、月、週を知っている人はいないとは言われなかったからです。だから私は繰り返します、神の啓示を受けた御言葉の生徒として、1977年は世界システムの終点で、至福千年に導入されるでしょう。
このことを言わせてください。これらの幻は間違いであると誰か証明できるのですか。それらはすべて実現したのではないでしょうか。はい、それぞれは成就した、もしくは今成就しようとしています。ムッソリ-ニはエチオピアの侵略に成功し、その後失敗してすべてを失いました。ヒトラ-は自分が終わらせることができなかった戦争を開始させ、神秘的に亡くなりました。共産主義は他の二つの主義に打ち勝ちました。プラスチックのドーム型の車は作られ、ただ道路のよりよいネットワ-クを待っているだけです。女性はほとんど裸になり、そして今は上がない水着でさえ着ています。そして先日私はある雑誌でまさに私が幻の中で見た服(それを服と呼ぶならば)を見ました。それは透明なプラスチックの布で出来ていて、3つの黒い点があり、胸部の狭い部位をカバ-しています、下半身の濃い色のところは小さなエプロンみたいなものがつけられています。カトリック教会は台頭しています。われわれは1人のカトリック教徒の大統領を持っています、もう一人来てもおかしくありません。
何が残されているのでしょうか?ヘブル書12:26に書かれたものだけが残されています、「あの時は、その声が地を揺り動かしましたが、このたびは約束をもって、こう言われます。『わたしはもう一度、地だけではなく、天も揺り動かす。』」神は大地を再び揺り動かされ、ゆるくて揺り動かされるものを揺り動かされます。そして神は地を更新されます。去年の3月、1964年の受難日にアラスカで発生した大地震は地球のバランスを崩さなかったものの、全世界に衝撃を与えました。しかしながら、神はある世界的な地震を通して、ご自分はさらに大規模なものを引き起こされると警告されています。神はこの罪によって呪われた世界を破壊され、揺らそうとされています。兄弟たちよ、姉妹たちよ、その衝撃に耐えられる場所はただ一つしかありません、それは主イエスの囲いの中です。まだ神の憐れみが手の届くところにあるうちに、惜しみなくあなたの命のすべてをイエス・キリストささげるように懇願します。主は誠実な羊飼いであり、あなたをお救いになり、世話をされ、傷のない者として、大きな喜びを持って栄光の御前に立たせるのです。
(三)使者
パウロが使者であった一つ目の時代以外、それぞれの時代は神が遣われた使者を本当に知っていたでしょうかととても疑問に思います。そしてパウロの時代でさえ、たくさんの人は彼の身分を認識することが出来なかったのです。
私たち今生きているこの時代はとても短いものになるでしょう。物事はとても早く起こります。だからこのラオデキア時代の使者は私たちはまだ彼はだれなのかを知りませんが、今ここにいるはずです。しかし彼が知られるようになるにはかならずある程度の時間はかかるでしょう。彼の伝道事業を描写する聖書の言葉があるため、それを証明することはできます。
まず、その使者は預言者です。彼は預言者の役割を持ちます。彼は予言の伝道にたずさわります。それはしっかりと御言葉に基づき、なぜなら、彼が予言を発したり、幻を見るたびに、それはいつも御言葉を指すからであり、いつも成就されるからです。その予言の正確性は彼が預言者であることを証明します。
彼は預言者であることの証拠はヨハネの黙示録の10:7にあります。「第七の御使いが吹き鳴らそうとしているラッパの音が響くその日には、神の奥義は、神がご自身のしもべである預言者たちに告げられたとおりに成就する。」
欽定訳聖書(KingJames version)のこの章に書かれているこの人物は「御使い」と呼ばれているが、天にいる者ではありません。ヨハネの黙示録9:13に書かれているラッパを吹く第六の御使い、そして11:15に書かれている第七の御使いは天の者です。ヨハネの黙示録の10:7に書かれているこの者は七つ目の時代の使者であり、人です。彼は神からのメッセ-ジを持ってきて、そして彼のメッセ-ジと伝道事業は神がご自身のしもべである預言者たちに告げられたとおりに神の奥義を成就します。神はこの最後の時代の使者を預言者として接されるでしょう、なぜなら彼はまさに預言者だからです。パウロが一つ目の時代に預言者として遣われたのと同じように、最後の時代も預言者を遣わされます。
アモス書3:6-7 「町で角笛が鳴ったら、民は驚かないだろうか。町にわざわいが起これば、それは主が下されるのではないだろうか。まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。」
末世のときにイエスの七つの雷が現れる。
ヨハネの黙示録10:3-4
「獅子がほえるときのように大声で叫んだ。彼が叫んだとき、七つの雷がおのおの声を出した。七つの雷が語ったとき、私は書きとめようとした。すると、天から声があって、『七つの雷が言ったことは封じて、書きしるすな。』と言うのを聞いた。」
それらの雷の中に何があったのかを知る者はいません。しかし私たちは知る必要があります。そして黙示を受け取るのに預言者が必要です、なぜなら神は預言者以外にご自分の聖書の黙示を明らかにする道はありません。御言葉はいつも預言者によってもたらされて、これからもずっとそうです。これは神の原則であり、聖書を普通に調べてみるだけでこれは事実だと分かります。不変な神は不変な方法でいつもご自分の預言者をご自分の御心から離れた人々の時代に遣わされます。神学者も人々も御言葉から離れたため、神はいつも間違った教えを正し、人々をご自分のところに連れ戻すためにご自分のしもべをそれらの人々に遣わされました(しかしいつも神学者から離れました。)
だから七つ目の時代の使者は来ます、そして彼は預言者です。
ヨハネの黙示録10:7でこの使者が来るのが見えるだけでなく、イエスの再来の前にエリヤが来ると御言葉が言っているのを見つけることもできます。
マタイの福音書17:10で、「そこで、弟子たちは、イエスに尋ねて言った。『すると、律法学者たちが、まずエリヤが来るはずだと言っているのは、どうしてでしょうか。』イエスは答えて言われました。『エリヤが来て、すべてのことを立て直すのです。』」
私たちの主の到来の前に、エリヤは教会の立て直しのために来なければなりません。
これはマラキ書4:5に書かれていることです、
「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」
エリヤはイエスが来られる前に戻って来なければならないことを疑う余地はありません。彼は完成させなければならない特別な仕事を持っています。その仕事はマラキ書4:6に書かれています、「彼は子の心をその父に向けさせる」ことです。その理由は私たちがこれは彼があの時にしなければならない特別な仕事だと知っているからです、なぜなら彼はすでにエリヤの伝道事業がバプテスマのヨハネにあるときに「彼は、父の心を子に向けさせ」という部分を完成させたからです。
ルカの福音書1:17 「彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子どもたちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです。」
ヨハネの伝道事業の中で、「父たちの心は子どもたちに向けさせられた。」なぜならイエスがそう言われたからです。しかし子どもたちの心は父たちに向けさせられたとは言われませんでした。それがまだ起こっていないからです。末世の日の子どもたちの心はペンテコステの父たちに向け戻されます。ヨハネはイエスが子どもたちを羊の囲いの中に導かれることができるように、父たちを用意しました。今、このエリヤの霊が降りかかっている預言者は子どもたちがイエスの再来を迎えられるように用意します。
イエスはバプテスマのヨハネをエリヤと呼ばれました。
マタイの福音書17:12「しかし、わたしは言います。エリヤはもうすでに来たのです。ところが彼らはエリヤを認めようとせず、彼に対して好き勝手なことをしたのです。」
イエスがヨハネをエリヤと呼ばれた理由は、エリヤの上に降りかかっていた同じ霊が戻って来てヨハネの上に降りかかったからです。この霊は前に一度アハブ王の支配の後に戻って来てエリシャの上に降りかかっていました。今、その霊はイエスが来られる前にもう一度戻って来てもう一人の男の上に降りかかります。彼は預言者です。彼は神によって立証されます。イエスご自身は肉体として現れて彼を証明できませんので(ヨハネに対してされたように)、それは聖霊によって証明されます。だから彼の伝道事業はたくさんの偉大で奇妙なことが起きます。
預言者として、彼のすべての黙示は神によって証明されました。なぜならすべての黙示は成就されるからです。御力の奇妙なわざは彼の信仰のこもった命令によって起こります。彼は御言葉の中で神が自分にお与えになったメッセ-ジを持ち出し、人々を真理そして神の真なる御力に戻します。聞き入れる人もいるが、大部分の人は敬虔な形をしていても、その実を否定して(テモテへの手紙第二3:5)、彼を拒絶するでしょう。
このヨハネの黙示録10:7の預言者兼使者はマラキ書4:5-6と同じ人であれば、彼は本質的にエリヤとヨハネに似るでしょう。二人とも彼らの時代の公認の宗教学校から離れました。二人とも荒野の人でした。二人とも神の直接の黙示によって「主はかく仰せられた」を得たときにのみ行動しました。二人とも当時の宗教の秩序やリ-ダ-を非難しました。それだけではなく、彼らは堕落した人や他人を堕落させる人も非難しました。そして注意すべきことに、二人とも不道徳な女性や彼女たちの行為を予言で強く非難しました。エリヤはイゼベルを罵り(列王記 第一 21:23 )、ヨハネはピリポの妻であるヘロデヤを非難しました(マタイの福音書 14:2-4)。
彼は人気者になることはありませんが、神によって証明されます。イエスがヨハネを、聖霊がイエスを証明したように、この人はまず聖霊が彼の人生の中でなされた他と比べようがない確かな働きによって証明されると考えられるでしょう。そしてイエス御自身が再来されるときもヨハネを証明されたように、彼を証明されるでしょう。ヨハネはイエスが来られることのあかしをしたように、この人もヨハネのようにイエスが来られることのあかしをするでしょう。そしてキリストの再来こそがこの人はもちろん御自分の二回目の到来の先駆者であることの証明となるのでしょう。このことはこの人こそがマラキ書4章に書かれた預言者の最後の証拠となります。なぜなら異邦人の時代の最後にイエス御自身はお現れになります。そのとき、その人を拒絶した人たちにはもう遅すぎます
この末世の預言者についてさらに明らかにするために、マタイの福音書11:12で書かれた予言者はバプテスマのヨハネであり、彼はマラキ書3:1で一度予言されたことに特に注目しましょう、「『見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす。彼はわたしの前に道を整える。あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、来ている。』と万軍の主は仰せられる。」
マタイの福音書 11:1-12 イエスはこのように十二弟子に注意を与え、それを終えられると、彼らの町々で教えたり宣べ伝えたりするため、そこを立ち去られました。さて、獄中でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、その弟子たちに託して、イエスにこう言い送った。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」イエスは答えて、彼らに言われました。「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。盲人が見、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者には福音が宣ベ伝えられているのです。だれでも、わたしにつまずかないものは幸いです。」
この人たちが行ってしまうと、イエスは、ヨハネについて群衆に話しだされました。「あなたがたは、何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。でなかったら、何を見に行ったのですか。柔らかい着物を着た人ですか。柔らかい着物を着た人なら王の宮殿にいます。でなかったら、なぜ行ったのですか。預言者を見るためですか。そのとおり。だが、わたしが言いましょう。預言者よりもすぐれたものです。この人こそ、『見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道をあなたの前に備えさせよう。』と書かれているその人です。まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも。彼より偉大です。」
これはすでに起きてしまったことです。これは起きたこと。もう過去のことです。しかし今からマラキ書4:1-6に注目してください、「見よ。その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行う者は、わらとなる。来ようとしているその日は、彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。―万軍の主は仰せられる。―
しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、癒しがある。あなた方は外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。
あなたがたはまた、悪者どもを踏みつける。彼らは、わたしが事を行なう日に、あなたがたの足の下で灰となるからだ。-万軍の主は仰せられる。-
あなたがたは、わたしのしもべモ-セの律法を記憶せよ。それは、ホレブで、イスラエル全体のために、わたしが彼に命じたおきてと定めです。
見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。
彼は父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。
見てください、このエリヤが来た後、地球はただちに火によって清められ、悪人は燃やされて灰になります。もちろん、このことはヨハネ(彼の時代のエリヤ)の時代に起きませんでした。神の御霊がマラキ書3:1で使者(ヨハネ)の到来を予言されたのは、少なくとも3世紀前にイザヤ40:3で予言されたことの重複です。
「荒野に呼ばわる者の声がする。『主の道を整えよう。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。」
そしてヨハネは聖霊によってマタイの福音書3:3でイザヤとマラキ書両方の予言を話した、「この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」と言われたその人です。」
だから私たちはこれらの聖書の章節からマラキ書3章の預言者、つまりヨハネはマラキ書4章の預言者ではないことをはっきりと見ることができます。しかしもちろん、ヨハネとこの末世の預言者二人ともにエリヤと同じ霊が注がれています。
このマラキ書4章とヨハネの黙示録10:7に書かれた使者は2つのことをします。1つ目、マラキ書4章に基づくと、彼は子の心をその父に向けさせます。2つ目、彼はヨハネの黙示録10章にある7つの雷の秘密、つまり7つの封印の中に隠されていた黙示を明らかにします。まったくこれらの神によって明らかにされる「秘密の真理」こそが、子の心をそのペンテコステの父に向けさせるのです。絶対そうです。
しかしこのことも考えてください。この預言者兼使者の本性と挙動はエリヤとヨハネと同じです。この預言者兼使者の時代の人々はアハブやヨハネの時代の人々と同じです。そして子の心だけが向けさせられるので、聞くのも子だけでしょう。アハブの時代は7千の真の種のイスラエル人だけが見つかりました。ヨハネの時代も少なかったです。両方の時代の大多数の人は偶像崇拝の淫行の中にいました。
ラオディキアの預言者兼使者とヨハネ、つまりイエスの第一回目の到来の先駆者である預言者兼使者についてもう一つ比べたいことがあります。ヨハネの時代の人は彼をメシヤと間違えました。
ヨハネの福音書1:19-20 「ヨハネの証言はこうである。ユダヤ人が祭司とレビ人をエルサレムからヨハネのもとに遣わして、『あなたはどなたですか。』と尋ねさせた。彼は告白して否まず、『私はキリストではありません。』と言明した。」
この末世の預言者兼使者はあまりにも力を持っているので、主が来る前に、彼を主イエスと間違える人もいるのでしょう。
(終わりのときに世界には何人かを誘惑して彼らにこれを信じさせる霊があるでしょう。
 マタイの福音書24:23-26、「そのとき、『そら、キリストがここにいる。』とか、『そこにいる』とか言う者があっても、信じてはいけません。にせキリスト、にせ預言者たちが現れて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。さあ、わたしは、あなたがたに前もって話しました。だから、たとい、『そら、荒野にいらっしゃる。』と言っても、飛び出して行ってはいけません。『そら、へやにいらっしゃる。』と聞いても、信じてはいけません。」)
しかしそれを信じてはいけません。彼はイエス・キリストではありません。彼は神の息子ではありません。彼は兄弟の一人、預言者、使者、そして神のしもべです。彼は「私は主ではない、しかし主は私の後に来ます。」と叫ぶヨハネが受ける名誉以上の名誉を授かる必要はありません。
このラオディキア時代の使者についての章を終わらせる前に、これらの2つの考えについて真剣に考えなければいけません。まず、この時代は一人だけの預言者兼使者を持ちます。ヨハネの黙示録10:7でこう書かれています、「彼(he単数)が吹き鳴らそうとしているラッパ」神が御自分の人々に二人の大きな預言者をお与えになる時代は1つもなかったです。主はエノクをお与えになり(ただひとり)、ノアをお与えになり(ただひとり)、モ-セをお与えになり(ただひとりであり、御言葉を持っていて、他人の口によって予言を発しています)、バプテスマのヨハネはただひとりで来ました。この末世は一人の預言者が来ることになっています(女預言者ではありません、この時代で神の黙示をもたらす女性は男性よりも多いけれども)、そして誤ることのない御言葉は彼(預言者)が末世の人々に秘密を明らかにし、子の心をその父に向けさせると言っています。
神の人々はある集団の黙示を通して集まるであろうという人がいます。私はその声明に挑戦する。それはヨハネの黙示録10:7に逆らった、露骨で、根拠薄弱の仮説です。この末世に人々は予言を発し、彼らの伝道事業は正しいであることを私は否定しません。複数の預言者がいることを私は否定しません。パウロの時代にでさえ、アガボという預言者が飢饉を予言した 使徒の働き11:28)。私はそれに賛成する。しかし私は御言葉の全然誤りのない証拠によって、一人以上の大きい預言者が御言葉に隠された秘密を明らかにし、伝道事業によって子の心をその父に向けさせるということを否定する。主の失敗することのない御言葉「主はかく仰せられる」は揺らがずに立ち、証明されるでしょう。一人の預言者兼使者はこの時代に遣わされます。
人類の習性に基づき、人が多ければ、彼らが皆信じる大きい教義の中の小さな点についての意見での分岐も大きいというのはみんな知っていることです。この末世で回復される間違いのない力を持つのは誰なのでしょう。なぜならばこの末世は純粋な御言葉の花嫁を表すものだから。それは私たちが再びパウロの時代に完璧に与えられ、正しく理解された御言葉を持つことを意味します。誰がそれを持つのかを教えよう。それは徹底的に示された預言者、おそらくエノクの時代から今までのどの預言者よりも徹底的に示された預言者でしょう。なぜならこの男は最頂点の予言の伝道事業を持つ必要があるし、神は彼をお示しになるからです。彼は自分について語る必要はありません。神はしるしの声によって彼の代わりにお話になるからです。ア-メン。
心の中に強く焼き付けるべき2つ目の考えは、反キリストの霊と永遠に祝福されるべき聖霊は7つの教会時代が始まるのと同時に動き出したことです。
ヨハネの手紙第一4:1「愛する者たち。霊を差別なしにみな信用してはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、たしかめなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。」
それに気づきましたか。反キリストの霊はにせ預言者とともに行動します。にせ預言者は時代が始まるのと同時に現れ、時代が終わるのと同時に消えてゆく。もちろん、ヨハネの黙示録に書かれているまさに「真のにせ預言者」はこれから現れます。しかし彼が現れる前に多くのにせ預言者が現れます。
マタイの福音書 24:23-26 「そのとき、『そら、キリストがここにいる』とか、『そこにいる。』とか言う者があっても、信じてはいけません。にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。さあ、わたしは、あなたがたに前もって話しました。だから、たとい、『そら、荒野にいらっしゃる。』と言っても、飛び出して行ってはいけません。『そら、へやにいらっしゃる。』と聞いても、信じてはいけません。」
これらのにせ預言者の特徴は以下のような様々な聖書の章節に書かれています。ペテロの手紙第二2:1-2「しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現れるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。そして、多くの者が彼らの好色にならい、そのために真理の道がそしりを受けるのです。」
テモテへの手紙第二4:3-4「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分に都合の良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」
テモテへの手紙第一4:1「しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えに心を奪われ、信仰から離れるようになります。」
いずれの事例においても、偽預言者は神の御言葉の外にいる人と気づくでしょう。「反キリスト」とは「反御言葉」であると示したように、これらの偽預言者は来て御言葉をねじまげ、自分たちの極悪の目的に合うように解釈します。恐怖心を利用して他人を堕落させ、しっかりと縛りつける人に気づいたか。彼らが言うには、もし人々が自分たちの言うとおりにせず、もしくは離れたら、壊滅が起こります。彼らは偽預言者です。なぜなら真の預言者は常に人を御言葉に導き、人々をイエス・キリストに結びつけ、そして人々に自分もしくは自分が言ったことを恐れるようにとは言わず、御言葉が言われることを恐れるように言うからです。これらの人々はユダと同じように金銭を好みます。彼らはあなたに自分が持っているものをすべて売り払って、彼らの陰謀を実現させるために、彼らにささげるように言います。彼らは伝道よりも、金銭の徴収に多くの時間を使います。自分の意思で賜物を使う人たちは、その賜物を悪用し、金を求め、そして御言葉を軽視しながら自分たちは神に属すると言います。そして人々はこれが死の道だと知らずに、彼らについて行き、我慢、サポ-トし、そして彼らを信じます。
 そうです。地上は貪欲な模倣者で満ちています。末世のときに、彼らはその預言者兼使者を真似ようとする(使徒の働き19:14-16)。スケワの7人の息子はパウロを真似ようとした。魔術を行うシモンはペテロを真似ようとした。彼らの模倣は肉体に属するものです。彼らは真の預言者が生み出したものを生み出すことはできません。真の預言者が復興は終わったと告げたとき、彼らは色々なところを回って、自分たちは大きな黙示を持ち、人々が今もっているものはまさに正しく、そして神はさらに大きく素晴らしいことを人々の間で行うであろうと主張します。そして人々はだまされてしまうのです。同じこれらの偽預言者は末世の使者は神学者ではないため、人々は彼の言うことを聞くべきでないと主張します。かれらは使者が生み出すことができるものを生み出せません。彼らはその末世の預言者のように神に示されません。しかし彼らはいばる言葉や自分たちの世界に知れ渡る名声を使って、人々にその人(使者)の言うことを聞かないように警告し、彼の教えは誤りだと言います。彼らの行いは彼らの父である悪魔に属するパリサイ人とまったく同じです。なぜならパリサイ人はヨハネとイエスは間違ったことを言っていると主張するからです。
それでは、なぜこれらの偽預言者は真の預言者に対抗し、彼の教えを疑うのでしょう。なぜなら彼らは自分たちの先祖たちがアハブの時代にミカヤに抵抗するのと同じように、真理を形式に変えるからです。彼らは400人いて、全員一致して同じことを言い、人々を騙しました。しかし一人の預言者、一人だけ正しい者がいて、残りはすべて誤りでした。なぜなら神はただ一人に黙示を委託するからです。
偽預言者に気をつけなさい。なぜなら彼らは残忍なオオカミだからです(マタイの福音書7:15)。
もしこのことについてまだ疑問があれば、神に御自分の御霊であなたを満たし、導くように求めなさい。なぜなら真の選民は騙されないからです(マタイの福音書24:24)。分かりますか?あなたを騙せる人はいません。もしパウロが間違っていても、選民を騙せなかったのでしょう。1つ目のエペソ時代の選民は騙されませんでした。なぜなら彼らは偽使徒や偽預言者を試し、嘘つきだと分かり、追い出したからです(ヨハネの黙示録2:2)。ハレルヤ。主の羊は主の声を聞き、主に従います。ア-メン。私はそれを信じます。
(四)あいさつ
ヨハネの黙示録3:14「ア-メンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。」
ああ、これはまさに私たちの愛らしい救いの主イエス・キリストの本性を表すもっとも素晴らしい描写ではありませんか。私はこれらの言葉を見ると叫ばずにはいられません。それらは私の心の奥に真実感をもたらせます。聖霊の完全な黙示を待たなくても、それらの言葉を読むだけで、私は感動させられます。
イエスは末世に関して、この御自身についての描写を下さいました。恵みの時代は終わろうとしています。主は第1世紀から20世紀までご覧になられてきた、そしてこれらの時代に関するすべてのことを教えて下さいました。主が最後の時代の特徴を明かして下さる前に、御自分の慈悲深く、かつ至高の神性見せてくださいました。これは主御自身についての黙示の最頂点です。
ア-メンである方はこう言われます。イエスは神のア-メンです。イエスは神の「それを成就させよう」です。ア-メンは最終決定を意味します。ア-メンは賛成を意味します。ア-メンは勝利の約束を意味します。ア-メンは変わらない約束を意味します。ア-メンは神の印を意味します。
今、このことを注意深く見て、その中の本当に甘くて美しいものを分かってほしいです。これは主の末世においての御自分の黙示だと言いました。恵みの時代が終わると、至福千年はすぐあとにやってきます、そうではありませんか。
さて、私と一緒にイザヤ書65:16-19を読みましょう。「この世にあって祝福される者は、まことの神によって祝福され、この世にあって誓うものは、まことの神によって誓います。先の苦難は忘れられ、わたしの目から隠されるからだ。見よ。まことにわたしは新しい天と地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもありません。だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれない。」
これは新エルサレムについてです。これは至福千年です。私たちが至福千年に入るとき、主はいかに思いやりのある神なのかを聞くでしょう。第16節、「この世にあって祝福される者は、まことの神によって祝福され、」
はい、それは確かです。しかし本当の訳は「まことの神」ではありません。それは「ア-メンの神」なのです。なので、このように読みます、「この世にあって祝福される者は、ア-メンの神によって祝福され、この世にあって誓うものは、ア-メンの神によって誓う。先の苦難は忘れられ、わたしの目から隠されるからだ。見よ。まことにわたしは新しい天と地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれない。」ハレルヤ。
主は旧約のエホバ、「ア-メンの神」です。主は新約のイエス、「ア-メンの神」です。「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただ一人です。(申命記6:4 )新約聖書は別の神を示してはいません、それはただ一人そして同じ神についてのさらなる黙示です。キリストは自分のことを知らせようと降りて来られたのではありません。主は子を示すために来られたのではありません。主は父を知らせ、示されるために来られしたのです。主は一度も2人の神についてお話しされなかったのです、主は一人の神についてお話されました。そして今この末世で、私たちは最頂点の黙示に戻りました。聖書の中で神性についてのもっとも重要な黙示で、それは、イエスは神であり、主と父は一つです:神はただ一人であり、神の御名は主イエス・キリストです。
主はア-メンの神です。主はいつまでも変わりません。主のなさることは決して変わりません。主は言われたことを堅く守り、なさったことは永久なものです。主の言われたことから除いたり足したりすることができる人は誰一人いません。それが成就されるように。そのような神に仕えることをうれしく思いませんか。あなたはいつまでも常に主とともにいれば、道に迷うことはないのです。主はア-メンの神であり、いつまでも変わりません。
「ア-メンである方がこう言われる」。私はそれが好きです。それは主の言われたことはすべて最終決定であることを意味します。それは主が一つ目の時代や二つ目の時代、そしてすべての時代に対して言われた御自分の真の教会と偽のブドウの木のことは確かに真実であり、変わらないことを意味します。それは主が創世記で始められたことはヨハネの黙示録で終わらせられることを意味します。主はそうされなければならない、なぜなら主はア-メンだからです。だからそれが成就されるように。今なぜ悪魔は創世記とヨハネの黙示録を憎むのかをもう一度見ることができます。彼は真理を憎みます。彼は真理が勝つことを知っています。彼は自分の終わりは何なのかを知っています。彼がどう戦おうと、私たちは勝利の側にいます。私たち(主の御言葉を信じる人だけです)はア-メンの側にいます。
「忠実で、真実である証人である方がこう言われる。」「忠実」についてわたしの思うことを言いたいです。私たちはよく偉大で不変な神について話します。神の御言葉は変わりません。そして私たちはそのように主について話す時、私たちには主はとても人と関わらない神のように見えます。まるで神は宇宙全体そしてその運行の規則を創造された後、立ち戻って偉大で人と関わらない神になられたように見えます。まるで神は堕落した人間のための贖いの道を作られ、つまり十字架の道であるが、キリストの死が私たちの罪を償ってくださり、その復活が私たちに主に通じるドアを開いた後、神はただ腕組みして引き下がったように見えます。それはまるで、創造された後、自分の創造物に対して興味を持たれなくなった偉大なる創造者を私たちのほとんどの人は信じているようです。それはあまりにも多くの人が考えがちなことです。しかしその考えは間違っています、なぜならただいま神は世の中の万物を支配しています。神は創造者であり、支持者です。
コロサイ人への手紙1:16-17「なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、まだ見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。」
主は主権を有する神です。ご自分の御心によって、主は前からご存知であった御自分の選民を贖う計画を立てられました。十字架で亡くなられた御子は贖いの定義をお定めになり、聖霊は父の御心を注意深く実行されています。ただ、いま主は御自分の御心に沿ってあらゆることを働かされており、その中におられます。主は御自分の教会の中におられます。この偉大な創造者、救世主である神はただいま偉大な羊の牧者のように忠実に御自分の民の間で働かれています。主の存在は御自分の民のためのものです。主は彼らを愛し、彼らのために世話され、いつまでも彼らを見守られています。御言葉に「あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです」と書かれると、まさに書かれた通りのことを意味します。私は私の神は忠実を守られることをとてもうれしく思います。主は御自分に真実であり、嘘をつかれません。主は御言葉に真実であり、主は頼りになられます。主は私たちに真実であり、私たちの誰一人も見捨てられずに、末世に高く掲げられます。私は自分が主の忠実の中で休めることをうれしく思います。
ピリピ人への手紙1:6.「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」
「主は真実の証人」この言葉、真実はヨハネの黙示録3:7に戻って見たのと同じ言葉です。「偽り」との反対の意味の「真実」を意味するものではないことを思い出してください。それはさらに豊かで深い意味を持っています。それは部分的な実現とは反対の完全なる実現を表します。フィラデルフィア時代に戻ると、主の到来は近いと描写されました。あの時代の神に対する大きな愛は私にペテロの手紙第一1:8を思い出させます。「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけど愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。」
 彼らとともに私たちも一緒に喜びます。私たちは主を見たことはありませんが、主を感じたことはあります。私たちは限られた感覚で感じる限りの主を知っています。しかし顔を合わせる日が来ます。それがこの時代です。主はこの時代の終わりに来られます。部分的な認識は完全なる認識、完成された認識になります。ハレルヤ!私たちは今鏡にぼんやり映るものを見ていますが、もうすぐ顔と顔とを合わせて見ることになります。(コリント人への手紙第一13:12)私たちは栄光から栄光へと移ってきたが(コリントへの手紙第二3:18)、もうすぐ栄光の中にいて、主の栄光の中で輝く。私たちは主に似た者となります。(ヨハネの手紙第一3:2)私たちの救世主であるイエスに非常に似た者になります!すばらしいことではありませんか。私たちは主の中で満ち満ちています。(コロサイ人への手紙2:10)それは真実です。主は私たちに嘘をつかれる。ある日、私たちの体の原子たちは変化し、朽ちないものを着る。(コリント人への手紙第一 15:53)そうしたら私たちは完全な実現はどんなものかを認識するでしょう。
「主は忠実で真実な証人。」さて、「証人」という言葉について考えてみます。「殉教者」という言葉はそこから出たものです。ステパノ(使徒の働き7:58-60)やアンテパス(ヨハネの黙示録 2:13)などの聖徒は聖書で殉教者として書かれました。彼らは殉教者であり、証人でもあります。イエスは忠実な殉教者でした。聖霊はそのことの証人です。聖霊はそのことの証言をします。世界はイエスを憎み、殺しました。しかし神はイエスを愛し、そしてイエスは父なる神のところへ行かれました。イエスが父なる神のところに行かれた証拠は聖霊が来たことです。もしイエスが父なる神に受け入れられなければ、聖霊は来なかったでしょう。
ヨハネの福音書16:7-11を読んでください。「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。罪についてというのは、彼らが私を信じないからです。また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。さばきについてとは、この世を支配するものがさばかれたからです。」
この世の聖霊の存在はイエスの代わりで、イエスが義であり、父なる神のところへいかれたことを証言します。
しかしヨハネの福音書ではまたこう言っています。「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻ってくるのです。」
主は助け主をお送りになりました。主は助けぬしでした。主は霊として真実の教会に戻ってきました。主は教会の間で忠実で真実な証人です。しかし、いつか主は肉体の姿で戻ってこられる。主は彼らに誰がただ一人の賢い支配者なのかを証明されます。それは主、栄光の主であるイエス・キリストです。
忠実で真実な証人、創造者そして支持者、完全な認識、ア-メンの神です。
ああ、私はいかに主を愛していることか、いかに主をあがめていることか、神の子であるイエスよ。
私はこのあいさつの部分の私の考えをコリント人への手紙 第一1:18-22のこれらの言葉で締めくくりたいです。
「しかし、神の真実にかけて言いますが、あなたがたに対する私たちのことばは、『しかり。』と言って、同時に『否。』と言うようなものではありません。私たち、すなわち、私とシルワノとテモテとが、あなたがたに宣べ伝えた神の子イエス・キリストは『しかり。』と同時に『否。』であるような方ではありません。この方には『しかり。』だけがあるのです。神の約束はことごとく、この方において、『しかり。』となりました。それで私たちは、この方によって『ア-メン。』と言い、神に栄光を帰するのです。私たちをあなたがたといっしょにキリストのうちに堅く保ち、私たちに油を注がれた方は神です。神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました。」
「神に造られたものの根源である方」主イエスがここで自分の身分を言われました。しかしこれらの言葉は見た目の意味とはちょっと異なります。文字通りに解釈すると、何人かの人(実際には多くの人がいる)はイエスが神の最初の創造物であり、神性より低いと思ってしまうのです。そしてこの最初の創造物は宇宙の残りとその中のすべてのものを創造したと思ってしまいます。これは間違いです。みんなが知っているように、これはほかの聖書の言葉と一致しないのです。「主は神の創造物の開始者もしくは作者」という聖書の言葉があります。私たちはイエスが神、真の神であり、創物主であることを確信しています。
ヨハネの福音書 1:3 「すべてのものは、この方によって造られました。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」主は創世記1:1に書かれた方です。「初めに、神が天と地を創造した。」
そして出エジプト記 20:11ではこう書かれています、「それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。」
見てください、主は創造者に間違いがありません。主は物質の世界の完成された創造物の創造者です。
もちろん今私たちはこれらの聖書の言葉が何を意味するかがわかります。もし別の解釈があれば、それは神が神を創造したということになってしまうのです。造物主である神がいかに御自身を造られるでしょう。
しかし今主は教会の中に立っておられます。この末世の中で御自分は誰なのかをお示しになられています。主は御自分を「神の創造物の作者」とお呼びになりました。これはもう一つの創造です。これは教会と関係しています。これは主御自身の特別な使命です。主はその教会の創造者です。天におられる花婿は御自分の花嫁をお造りになられました。神の御霊として、処女マリアの中で細胞をお造りになり、そこから御自分がお生まれになる体を造られました。私はそのことを繰り返したいです。主はマリアの子宮の中でお生まれになる体となる細胞を造られました。聖霊がただマリアの卵子にいのちを与えるだけでは不十分です。それはやはり罪をもつ人間が生んだ身体です。それは「最後のアダム」を生むことはできません。その方について、聖書にはこう書かれています、「(父なる神が)わたしのために、からだを造ってくださいました。」神(マリアではありません)がその体を造られました。マリアは人間の保育器であり、その聖なる子どもを身ごもって、生み出します。それは神の人です。主は神の子です。主は新しい創造から来られたのです。人間と神が出会い、結合しました。主はこの新しい族類の第一名であり、この新しい族類のかしらです。
コロサイ人への手紙1:18「また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。」
コリント人への手紙 第二5:17「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなりました。」
このように、人は古い秩序もしくは古い創造物であるが、キリストと連合することによって、神の新しい創造物となりました。
エペソ人への手紙2:10「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」
エペソ人への手紙4:24「真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきでした。」
この新しく造られた者は古い創造物の改造ではありません、もしそうなら新しく造られた者と呼ぶことはできません。これは聖書の言葉に書かれたとおりに、「新しく造られた者」なのです。それは別に造られた物であり、古い創造物とはまったく異なります。主はもはや肉体の形で私たちと関わりません。あれはイスラエル人たちとの関わりの仕方でした。主はアブラハムをお選びになられました。そしてアブラハムからイサクの信心深い末裔たちが生まれました。しかし今あらゆる血縁、部族、そして国の中で、主は新しい創造をされるつもりです。主はその創造の一番目でいらっしゃる。主は人間の形で造られた神です。今主の御霊によって、主は多くの息子たちを創造され、御自分の物とされました。創造主である神は御自身を御自分の創造物の一部として造られました。
これは神の真実の黙示です。これは主の目的でした。この目的は選抜という形で達成されました。それはなぜ主はすべてが終わるときに最後の時代を見下ろし、この神の新しく造られた者の作者として、まだ教会の中におられるわけです。主の最上の御力がこれらのことを成就されました。主は御定めによってこの新しく造られた者のメンバ-をお選びになりました。主は御心のままに彼らを子にしようと愛をもってあらかじめ定めておられたのです。主は御自分の全知と全能によってそれを成就されたのです。もし主は確信されなければ、御自分が教会の中にお立ちになって御自分の兄弟たちから栄光をお受けになることはおできでしょうか。主はすべてをご存知であり、御自分の目的と愛をもった御心を成就するために、すべてのことを御自分がご存知のように働かせられました。
エペソ人への手紙1:11「私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。私たちは、御心によりご計画のままをみな実現される方の目的に従って、このようにあらかじめ定められていたのです。」
ハレルヤ!主に属していることを喜びに思いませんか!
(五)ラオデキア教会へのメッセ-ジ
ヨハネの黙示録3:15-19 「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸のものであることを知らない。わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために 、火で精錬された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。わたしは、愛するものをしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」
この聖書を一緒に読むと、聖霊はこの時代に関して一言も情け深いことを語られていないことに気づくでしょう。聖霊は二つの告発をし、それらに対する判決を下されました。
(1)ヨハネの黙示録 3:15-16
「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。」
この聖書の言葉を注意深く見ていきたいと思います。ラオデキア教会時代はなまぬるいとここで書かれています。このなまぬるさは神から罰を受けることになります。その罰とは、彼らは神の口から吐き出されることです。ここで私たちは多くの人々のように間違った道に進みたくありません。彼らは無分別にも、神は御自分の口から吐き出されることができるので、聖徒の忍耐という教義は真実ではないと言うのです。今ここであなたがたの考えを正したいと思います。この聖書の一節は個人に与えられたものではありません。それは教会に与えられたものです。神は教会に話されています。さらに、もし聖書の言葉を思い出してみると、私たちが神の口の中にいると書かれたところはありません。私たちは神の手のひらにいます。神の胸の中にいます。時間がまだ存在しなかった知られざる時代のときに、私たちは神の御心の中にいました。私たちは神の羊の囲いの中に、牧草地の中にいます。しかし神の口の中にはいません。しかし主の口の中には何があるのでしょうか。主の口の中にあるのは御言葉です。
マタイの福音書4:4「イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」」
御言葉は私たちの口の中にもあるはずです。私たちは教会が主の身体であるということを知っています。地上では神を代表しています。教会の口の中には何があるのでしょう。御言葉です。ペテロの手紙第一4:11 「語る人あれば、神のことばにふさわしく語り」ペテロの手紙第二1:21 「なぜなら、預言は決して人間の意思によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったからです。」
それならこれらの末世の人々はどうしたのでしょうか。彼らは御言葉から離れています。彼らはもはや御言葉に対して熱くありません。彼らはそれに対してなまぬるくなっています。私はこれからそれを証明します。
バプテスト派の人いわく、彼らの信条と教義は御言葉に基づいます、彼らを説得することはできません。彼らが言うには、奇跡がある使徒の時代はすでに終わったのであり、信じてからの聖霊による洗礼は存在しません。メソジスト派の人いわく、(御言葉に基づくと)水の中に浸かることによる洗礼は存在せず(水をまくことは洗礼ではありません)、聖霊による洗礼は清めをもたらします。キリストの教会(宗派)の人は更生の洗礼に重点を置きますが、多くの場合、乾いた罪人が濡れた罪人となって起き上がります。しかしながら彼らは自分たちの教義は御言葉に基づいていると主張しています。ペンテコステ派をも見てみましょう。彼らは御言葉を持っているのですか。神の御言葉を彼らに試してみると、ほぼ毎回のように彼らは感覚のために御言葉を売ります。御言葉にあるかどうかに関係なく、正確に御言葉を解釈しているかどうかも関係なく、もし油や血や異言やその他の「しるし」を行うことができれば、大多数の人はそれにだまされます。しかし御言葉に何が起きたのですか。御言葉は片隅に置かれてしまいました。だから神はこう言われました、「わたしはあなたに反対します。わたしの口からあなたを吐き出します。これは最後の時代です。7つの時代の7個ども、わたしは人々がわたしの言葉よりも自分たちの言葉を重んずるのしか見てきませんでした。そこでこの時代の最後にわたしはあなたを口から吐き出します。すべてが終わってしまいました。わたしは、はい、わたしは教会の真ん中にいます。わたしはア-メンの神であり、忠実で真実の主であり、わたしはわたしの預言者を通して自分のことを黙示する。」はい、そうです。
ヨハネの黙示録10:7「第七の御使いが吹き鳴らそうとしているラッパの音が響くその日には、神の奥義は、神がご自身のしもべである預言者たちに告げられたとおりに成就する。」
これがそうです。主は立証された預言者を遣わされます。主はほぼ2千年後にある預言者を遣わされます。主は組織や教育、そして宗教の世界からかけ離れた預言者を遣わされます。彼はバプテスマのヨハネや旧約のエリヤのように、神からの声にしか耳を傾けず、「主はかく仰せられる」を持っていて、神のために話をします。彼は神の代弁者となり、マラキ書4:6に書かれたように、子の心をその父に向けさせます。彼は末世の選民を連れ戻し、彼らは示された預言者が話すパウロとまったく同じ真理を聞きます。彼は真理を復興させます。そしてそれらの選民たちと彼はその日に主を真実に現わす人、主の御身体、そして主の声となって主の仕事を行ないます。ハレルヤ!わかりますか?
教会の歴史を少し振り返るだけでこの考えはいかに的確かが証明されます。暗黒時代に人々は御言葉をほとんど失いました。しかし神はルタ-を遣わされ、御言葉を伝えさせました。あの時代、ルタ-は御言葉を話しました。しかし彼らは組織となり、単純な御言葉ではなく教義や教条に傾く組織はふたたび純粋な御言葉を失いました。彼らはもはや神のために話さなくなりました。そこで神はウェスレ-を遣わされ、そして彼は彼の時代の御言葉の声でした。彼の神からの黙示を信じた人々は生きた書簡となり、彼らの世代のすべての人に読まれ、知られていました。メソジストが失敗すると、神は次の人を遣わされ、これがこの末世まで続きました。ふたたびこの地に別の人が現れ、使者のもとに集まる者は最後の時代の最後の声となります。
はい、そうです。教会はもはや神の「代弁者」ではありません。それはそれ自身の発言人です。だから神は彼女に反対します。神は預言者と花嫁を通して彼女を困惑させられます。なぜなら神の声は花嫁にあるからです。
はい、そうです。なぜならヨハネの黙示録の最後の章の17節にこう書いてあります。
「御霊も花嫁も言う。『来てください。』」
世界はもう一度ペンテコステの時のように神から直接聞くことになります。しかしながらもちろん御言葉の花嫁は最初の時代のように拒まれることになります。
今神はこの最後の時代に向かって叫んでおられる、「あなたは御言葉を持っています。あなたはほかの時代より以上の聖書を持っていますが、あなたは御言葉を分解し、粉々に砕き、望ましいものを取り望まないものを捨てる以外に御言葉に対して何もしていません。あなたはその中で生きることよりもむしろ議論することに興味を持っています。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしいです。もしあなたが冷たく、それを拒否したら、わたしはそれに耐えられます。もしあなたが熱烈にそれの真理を求め、その中で生きるならば、わたしはそのことであなたを賞賛します。しかしあなたがわたしのことばをただ受けとるだけでそれを尊敬しなければ、わたしはあなたを尊重することを拒みます。あなたがわたしに吐き気を起こさせ、わたしはあなたを吐き出します。」
誰もが生ぬるい水が胃の中で気持ち悪くさせるということを知っています。もし嘔吐剤の必要があれば、生ぬるい水は最適の飲み物です。生ぬるい教会は神の気分を悪くさせ、神はそれを吐き出すと宣言されます。それは私たちに主が大洪水の前に何を感じられたかを思い出させます、そうではありませんか。
ああ、神は教会が冷たいか、もしくは熱いかであることを願っておられます。もっとも、教会は熱くなるべきです。しかしそうではありません。神は教会に対する判決を宣告されました。教会はもはや神の世界に対する声ではなくなりました。教会は現状を維持しますが、神はそれを認められません。
ああ、神が花嫁にある声を与えられたように、神はいまだに世界の人々への声を持っておられます。私たちが言ったように、その声は花嫁の中にあります、それについては後で更に話します。
 (2)ヨハネの黙示録 3:17-18
「あなたは、自分は富んでいる、豊かになり、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸のものであることを知りません。わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。」
さてこの節の最初の文を見てみよう、「なぜならあなたは言った」。ほら、彼らは話しています。彼らは神の代弁者のように話します。これは実に私が16-17節で言ったことを証明します。しかし彼らはそう言っても、それは間違いです。カトリック教会は自分が神の代わりに話すと言い、主の確実な声であると言っています。私の知っている限り、このような霊的に邪悪な人はほかにいません。しかしながら彼らは彼らの中に入っている種に基づいて生み出され、私たちはその種はどこから来たものかを知っています。そうではありませんか。
ラオディキア教会は言っています、「私は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もない。」それは彼女の自尊心です。彼女は自分自身を見て、それは彼女が見たものです。彼女は「私は富んでいる、」と言いました。これは彼女がこの世界のものに富んでいるということです。
彼女はヤコブの手紙2:5-7にもかかわらず、自慢しています。「よく聞きなさい。愛する兄弟たち。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富むものとし、神を愛する者に約束されている御国を相続する者とされたではありませんか。それなのに、あなたがたは貧しい人を軽蔑したのです。あなたがたをしいたげるのは富んだ人たちではありませんか。また、あなたがたを裁判所に引いて行くのも彼らではありませんか。あなたがたがその名で呼んでいる尊い御名をけがすのも彼らではありませんか。」
私は豊かな人は聖霊に満たされないとは言っておりません。しかし私たちはみな御言葉はその数はわずかであると言っているのを知っています。真の教会の大部分は貧しい人たちで占められています。それなら、もし教会が豊かになれば、私たちはただ一つのことを知っています:「イ・カボデ」がその教会の門に書かれてしまったことです(サムエル記 第一4:21)。それを否定することはできません、なぜならそれは御言葉だからです。
教会の富に関して、今までの教会は今日のような富を持ったことはありません。綺麗な教会も今までになく増し、様々な組織がお互いに誰がより大きくて美しい建物を建てられるかを競い合っています。そして彼らは何百万ドルもかけて教育センタ-を建て、それらの建物は週に1,2時間しか使われません。これはまだいい方で、さらにひどいのは、彼らは子どもたちが教育でちょっとした時間をかければ、家での何時間もの教育に代用できる期待することです。
金銭は教会に流れ込み、さまざまな宗派が株や債券、工場、油田、そして保険会社でさえを持つようになりました。彼らは福利と退職金に投資し、それが伝道者の罠となりました。なぜなら、もし彼らがさらなる光や神の愛のために組織から出ると、彼らは年金を失ってしまいます。ほとんどの伝道者はそれに耐えられずに圧力に満ちた組織に居残ってしまいます。
今は末世であることを忘れないでください。私たちは、今は末世であることを知っています、なぜならイスラエルはパレスチナに戻りました。もし私たちが本当に主は来ると信じているなら、膨大に建物を建てる人々はきっと何か問題があります。それはこれらの人々はここで永遠に住むつもりか、もしくはイエスの到来は何百年も先だと人に思わせます。
宗教は今日大きいビジネスとして知られていることを知っていますか。彼らは財政を管理するために教会の中にビジネスマネ-ジャ-を雇用するのは間違いのない事実です。このことは神の御意志なのでしょうか。主の御言葉は使徒の働きで聖霊と信仰に満たされた7人が事務的問題を処理することで主に仕えたと私たちに教えているのではありませんか。あなたはきっとなぜ神が、「あなたは自分が富んでいると言っているが;わたしは決してそうは言っていなかったです。」と言う意味が分かるでしょう。
数多くの教会のラジオ番組、テレビ番組には何百万ドルの費用がかかっています。富が教会に流れ込み、メンバーは富と比例して増えています、しかし教会が貧しくて聖霊に与えられた能力にのみに頼った時代に比べると成果はあがっていません。
雇われた伝道者、雇われたアシスタント、雇われた音楽と教育事業、雇われた聖歌隊、雇われた管理人、番組、娯楽、すべて莫大な資金がかかり、しかしそれにもかかわらず、神の御力は低下しています。そうです。教会は富んでいますが、御力はそこにはいません。神は御自分の御霊によって動かれ、教会の富とか才能によってではありません。
この富への欲望はいかに極悪非道なのかを指摘したいと思います。教会は会員を増すことに努力しています、特に裕福な人々を求めています。至るところで裕福な人や教養のある人、世の中で名声がある人が入って活躍できるように、宗教を魅力的で人を惹きつけられるようにしています。もし富が霊的の基準であれば、世界はすでに神が存在され、神のすべてを把握しているにもかかわらず、教会は一つもないことを、彼らは知らないのですか?
「あなたは、自分は豊かになったと言っている」これは文字通り「私は霊的の富を持っている」を意味しています。これは金の街道と神の存在のある至福千年のように聞こえます。しかし私は本当であるかと疑います。教会は本当に神の霊的に富んでいるのですか。御言葉の光の中でこの二十世紀のラオディキアの自慢話を検討して見ましょう。
もし教会が本当に霊的に富んでいれば、社会はその影響を感じるのでしょう。しかしこれらの社会のいわゆる霊的で有力者の実際の生活はどうでしょう。郊外や高級住宅地では夫婦交換、売春、不良な集まり、ひどい公共用品の損害にあふれています。乱交する性行為、麻薬中毒、ギャンブル、窃盗そしてあらゆる悪と不道徳は極点に達しています。そして教会はこの世代はなんと良いものですか、教会の中はなんと人に満ち溢れているものですか、伝道先の住民でさえよい反応を示していると主張し続けいます。教会は人々を医者、特に神経科医に送ります。霊的に富んでいるとどのくらい言い続けるのですか。それは真実ではありません。彼らは破産しているのに知らないのです。
自分の周りをよく見てください。通りかかる人をよく見てください。群衆の中で、クリスチャンの外見のある人を見つけられるのですか。彼らがどのような服装をしているのか、どのような振る舞いをするのか、話題は何か、どこに行くのかを見てください。見かけた通りかかる人の中には生まれ変わった人もいるはずだが、少数でしょう。しかし今日の正統派の教会は何百万もの人が贖われて、聖霊にさえ満たされたと言っています。ちぢれ毛のショ-トヘア-に、短パンやズボン、キャミソ-ル、ブリ-フを履き、イゼベルのように化粧をしてふらふらする女性が聖霊に満たされたと言えるのでしょうか。もしこれがクリスチャンの女性にふさわしい外見であれば、不道徳の女性はどのようなものかを考えてみたくもありません。
流行は女性が始めたのではありません。それはハリウッドが決めたものです。しかし、女性の方々、聞いてください、生地やミシンをまだ売っています。あなたがたは店の中の物を買って、それを口実としてその服を使う必要はありません。これはとても真剣なことです。ある男性がある女性に対して欲望を持って見たなら、その人はすでに心の中で彼女と不義を犯したということを聖書で読んだことはありますか。そのような服を着てそのことを引き起こしたと思ってもみなかったでしょう。あなたがまったく気づかず、そのような欲望を持たない本当の処女であるけれど、あなたは彼と同罪です。神はあなたの責任を追及し、あなたは裁かれます。
婦人方、私はあなたがたがこのような説教を好まないことを知っています。しかし姉妹よ、あなたがしていることは絶対に間違っています。聖書はあなたが髪を切ることを禁じています。神はかぶり物として髪を与えられました。神はあなたにそれを長く伸ばすように命令されました。それはあなたの栄光です。(コリント人への手紙第一11:2-16)あなたが髪を切るとき、あなたは自分の夫のリ-ダ-シップ(指導権)を離れたことを意味しています。エバのように、あなたは離れて自分の意志に従いました。あなたは選挙権を獲得しました。あなたは男性たちの仕事を奪いました。あなたは女性本位を離れました。あなたは悔い改めて神のもとに戻らなければなりません。そしてこれだけではない、あなたがたの中には神が男性のために、男性のためだけに取っておられた説教壇や教会の職務にも侵すことができると思っています。
ああ、私は痛いところを突きましたね。まあ、聖書の中で神が女性に説教することや男性を支配する権利を授けられた場所を示しなさい。そして私は言ったことに対しておわびします。あなたは私の間違いを見つけることはできないでしょう。私は正しいのです。なぜなら私は御言葉とともにいて、御言葉の中にいるからです(コリント人への手紙 第一11:3; 14:34-37; テモテへの手紙 第一2:11-14;創世記3:16)。もしあなたは霊的に富んでいるならば、それは真実だとわかるでしょう。御言葉以外に真実はありません。パウロは言った、「私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。」(テモテへの手紙 第一2:12) あなたはエペソ4章の5種類の職務を行い、男性を支配しないということはできません。姉妹よ、あなたはその御言葉を聞き入れたほうが良いのです。聖霊に満たされた命の中で現れた神の御霊があなたに伝道師になるように言われるはずはありません。なぜなら御霊と御言葉は一つだからです。彼らは同じことを話されます。誰かが間違えたのです。誰かが騙されたのです。遅すぎる前に目を覚ましなさい。悪魔はあなたの母親、エバを騙したのです。彼は今、その娘たちを騙しています。神があなたがたをお助けになるように。
「私は乏しいものは何もありません。」誰かが「私は乏しいものは何もありません」と言ったときに、それは「私はすべてを持っています。」、もしくは、「今なんでも持っていますので、それ以上必要なものはありません。」と言っているのと同じです。あなたはこのことをどう表現するかは自由だが、それは教会が自己満足していることです。教会は自分が持っているもので満足しています。教会は自分がすべてを持っているのか、もしくは十分に持っていると思っています。それはまさに今日のことです。自分は黙示、力、そして真実を持っていることを主張しない宗派はあるのでしょうか。バプティストの話を聞いてみよう、彼らはそれらを全部持っています。メソジストの話を聞いてみましょう、彼らはそれらを全部持っています。キリストの教会の話を聞いてみよう、彼ら以外すべて間違っています。ペンテコストの話を聞こう、彼らは豊かさの中の豊かさを持っています。彼らは私が彼らに関して真実を語っていることを知っています、なぜなら彼らのマニュアルはまったく同じだからです。彼らはそれをとても立派に書き、名前を添え完成させました。神はそれ以上持たれていません、そして彼らはちょうどそれ以上望みません。御言葉に書かれているにもかかわらず、彼らは神の癒しを信じずに、それを望まないのです。神が天を開いて彼らにしるしを見せられても、彼らは聖霊を望みません。
彼らはすべて持ち、もしくは十分に持っていると話し、証明しようとしています。しかしながらそれは真実でしょうか。この二十世紀を一世紀と比べてください。さあ、比べてみてください。力はどこにあるのでしょう。愛はどこにあるのでしょう。罪に対抗しイエスに向かって信仰とともに歩く純潔な教会はどこにあるのでしょう。団結はどこにあるのでしょう。見つからないのです。もし教会は必要なものすべて持っているなら、なぜ使徒の働きの中の信者たちは今の信者たちよりもずっと持っているのに、まるで自分たちはすべて持っていないかのように、さらに神のことを求めるよう叫ぶのですか。
(六)神の診断
神がご覧になったものは彼らが見たものとはまったく異なったものです。彼らは自分たちが物質的に豊かで、霊的にも富んでいると言っていました。彼らは何も必要としない点まで達しました。しかし神は正反対のものをご覧になりました。神はこう言われました、「あなたは知らないが、しかしあなたはみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸のものである。」ある人がそのような状態の時、特に裸であるのにそれを知らないとき、絶対に何かがおかしいのです。きっと何かあったのです。神はユダヤ人と同様に彼らを盲目にされたのではないでしょうか。福音はユダヤ人に戻ろうとしているでしょうか。歴史は繰り返されているのですか。私はそうだと言います。
神はラオディキア時代の教会は「みじめ」だと言われました。その言葉は「忍耐」と「試練」を意味している2つのギリシア語から来ています。そしてそれは真のクリスチャンに来る試練とはまったく関係ないものです。なぜなら神はクリスチャンが試練にあるときは「祝福されています」、そして彼のそれに対しても喜んでいると形容されています。しかしここでは「みじめで、哀れ」と言われています。なんと奇妙なことでしょう。この満たされた時代に、この進歩の時代に、この豊かな時代に、試練なんてあるのですか。さて、これは奇妙です。しかしこの満たされて、チャンスのある時代に、みんなが恵まれて、さらに多くの恵みが待っています。多くの発明が私たちの仕事を代行し、多くのものが私たちに喜びをもたらした。しかし突然、精神病がこの国の警鐘を鳴らしました。みんなが喜ぶべきときなのに、不幸と思うものが一つもないのに、何百万人が夜に鎮静剤を服用し、朝に興奮剤を飲み、医者のところに駆けつけ、病院に入り、アルコ-ルで由来不明の恐怖を抑えようとしています。
はい、この時代は大量な財産のたくわえを誇りにしているが、人々は昔よりも不幸せになりました。この時代はその霊的の成就を誇りにしている、人々は自信を失ってしまいました。この時代はよりよい道徳価値を誇っているが、それはノアの洪水以来の時代の中のどれよりも堕落しています。それは自分たちの知識と科学を話すが、しかしそれはすべての分野において敗戦を戦っています。なぜなら人の心と魂と霊は地球に到来している変化を理解し、ついていくことはできないからです。わずか一つの世紀で私たちは馬車の時代から宇宙の時代に入り、私たちはそれを誇りに思い、自慢します。しかし人の心の中では暗黒で空虚な穴があり、苦痛を叫んでいる。そしてわけもわからずに人は恐怖に陥り、世界はあまりにも暗く、ノイロ-ゼの時代と呼ばれても適当です。誇っても、裏づけはないのです。平和を叫んでいるが、平和はどこにもありません。すべて持っていると叫びながら、満足できない欲望の火によって燃やされています!「平和はありません。」神は悪者どもに仰せられます。(イザヤ書48:22)
「彼らは哀れである。」それは彼らが哀れまれる対象であるということです。哀れまれます?彼らは哀れみを軽蔑します。彼らはプライドに満ちています。彼らは自分たちの持ち物を誇りとしています。しかし彼らが持つものは時間の試験に耐えることはできません。彼らは神の黙示の岩の上よりもむしろ砂の上に建てたからです。地震はもうすぐ来ます。神の怒りの嵐の審判はもうすぐやってくる。破壊は急にやって来て、彼らの現世的な準備にもかかわらず、彼らは地球にやってくることに太刀打ちできないのでしょう。彼らは自分たちの世俗的な努力が自分たちを妨害しているにも関わらず知らないのです。彼らは実に哀れまれる対象です。この末世の世界キリスト教会統一運動の中の可哀相な人々を哀れみなさい。なぜなら彼らはそれが神の運動といっていますが、実は悪魔の運動です。組織の呪いを知らない人を哀れみなさい。美しい教会、立派な牧師館、素晴らしく訓練された聖歌隊、富の展示、威厳と敬虔な礼拝を非常にたくさん持つ人々を哀れみなさい。彼らを哀れみなさい。羨んではいけません。古い建物に戻って、薄暗い部屋に戻って、地下室に戻って、世界から離れて神に近づく場所に戻りなさい。自慢して自分たちの賜物について語る人を哀れみなさい。彼らを哀れみの対象にしなさい。なぜなら彼らはもうすぐ怒りの対象となるからです。
「彼らは貧しいのである。」もちろんそれは霊的に貧しいことを意味しています。この時代の終わりの兆候はより大きく、より良い教会、さらに多くの会員を持ち、聖霊の働きなる動きを示すことです。しかし満たされた祭壇、聖霊の賜物の運行、著しい出席率は神からの答えではありません。なぜなら祭壇に来た人はめったに神とともに歩き続けようとしないからです。そして大きな集会が終わると、教会の通路に出た人たちはどこに行ったのでしょう。彼らは一人の言うことを聞き、ある呼びかけに答え、網に入ったが、魚ではなく、まるで亀のように自分たちの水に戻ったのです。
そして彼らはみな異言を話すことについて語っています、これは聖霊による洗礼の証拠として考えられています。そして人々は自分たちが偉大な信仰復興の真っ最中にいると思い込んでいます。信仰復興は終わりました。アメリカでの最後のチャンスは1957年でした。異言は今神の差し迫る災難のサインです。それはベルシャツァ-ルの饗宴に壁に現れた文字のようなものです。末世の多くの人は、「主よ、主よ。私たちはあなたの名によって奇跡をたくさん行い、あなたの名によって悪魔を追い出したのではありませんか。」と言っても、主は「私はあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。」と言われることを、あなたがたは知らないのですか。(マタイ の福音書7:22-23)。
イエスは彼らが不法をなすものだと言われました。しかし、ある人は病人のために祈ることができ、会衆の中で油と血を出現させることができ、予言をし、あらゆる超自然なことが行うことができ、そして人々は彼に群り、彼は主から来たと誓いながら、実は彼は宗教の名を借りて金銭を騙し取り、罪の中で生きています。彼らの唯一の答えは絶対に聖書に基づかない答えです、「まあ、彼は成果を得た、だからきっと神から来たのだ。」なんと恐ろしいことでしょう。この時代は神の御霊についてはなんと貧しいでしょう、その哀れで貧困に打ちひしがれた人たちはなんとわからないのです。
「あなたは盲目で、裸のものである。」これは本当に絶望的です。盲目で、裸でもそれを知らないことはできるのですか。しかし聖書は彼らが盲目で、裸だけどそれがわからないと言っています。答えは、彼らは霊的に盲目で、霊的に裸なのです。エリシャとゲハジがシリアの軍隊に包囲されたときのことを覚えているでしょう(列王記 第二6:17-23)。エリシャは神の御力によって彼らの目を打って盲目にしたことを思い出せるでしょう。それにもかかわらず、彼らの目は大きく開いていて、自分たちの行き先も見えたのです。その盲目は特別なもので、彼らはあるものは見えるが、エリシャやしもべ、そしてイスラエルの軍のような特定なものは見えないのです。アラムの軍隊が見えるは彼らに対して何もしなかったが、見えないものは彼らを生捕りにしました。これは私たちにとって何を意味するのですか。それはイエスの地上での伝道とまったく同じです。イエスは彼らに真理を教えようとされたが、彼らは聞く耳を持っていませんでした。
ヨハネの福音書 9:40-41「パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言いました。『私たちも盲目なのですか。』イエスは彼らに言われた。『もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、「私たちは目が見える。」と言っています。あなたがたの罪は残るのです。』」
この時代の態度はまさにそれと同じです。人々はすべて持っています。すべて知っています。彼らは習う事はありません。もし御言葉からある真理が来て、ある人が違う考えの人に自分の考えを説明しようとすると、その聞き手は勉強するために聞くのではなく、反論するために聞くのです。さて、私はある公正な質問をしたいです。御言葉は御言葉を反論することができるのですか。聖書は聖書に矛盾することはあるのですか。御言葉の真理の中で2つ教義があってお互いに相反することは可能なのですか。いいえ、そのはずはない。自分の目を真理に向ける人は何人いるのですか。私の知る限り、聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益であると知っている人は1パ-セント未満です。(テモテへの手紙 第二3:16)
 もしすべての聖書の御言葉は神がお与えになったものならば、それらはすべてぴったり合うはずです。選民は神が定められたものであって、神に見捨てられたものは滅びると信じる人は何人いるでしょうか。信じない人は耳を傾けてくれるのでしょうか、いや、傾けてくれないでしょう。両者ともに御言葉の中にあって、決して変わることはない。御言葉を学び、真理の教えとそれらに反対しているように見える御言葉を一致させることに、彼らは時間をかけたくない。それとは逆に、彼らは耳を閉ざし、歯をかみしめ、神の御言葉を拒絶します。この時代の終わりに預言者が来て、彼の行っていることと話していることに彼らは盲目です。彼らは自分たちが正しいのだと堅く確信するので、彼らの盲目のために彼らはすべてを失われます。
神は彼らが裸で盲目であると言われた。盲目で裸なのにそれを知らないという人よりも惨めなものを私は想像することができません。答えはただ一つです:彼は精神に異常があります。彼は無意識な状態にすでに入ってしまったのです。身体の機能が失われ、霊的な記憶喪失症を患っています。それは他に何を意味しているのでしょうか。それは聖霊がこの末世の教会から離れてしまったことを意味するのですか。それはまるでロ-マ人への手紙1:28にあるように、人が神のことを自分たちの心から遠く突き放してしまったことを意味するのですか。
「また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。」
このようなことが起きたにちがいません。自分たちを神の人と呼び、自分たちは神を知り、聖霊を受けていると言っていますが、しかしながら、裸で盲目にもかかわらず、それを知りません。彼らはすでに騙されたのです。彼らは悪い霊を持っています。選民は騙されることはありません。しかしそれ以外の人は明らかに騙されたのです。彼らは神の御言葉を拒んだので、盲目になってしまったのです。彼らは神の世話や保護から離れることで、裸になり、自分たちによる救済のやり方を設立しようと探り、組織によって自分たちのバベルの塔を建てようとしています。
彼らが大会や集会などを開くとき、彼らの服は自分たちの目の中でなんとかわいらしく、美しく映るのでしょう。しかし、今神はそれらをすべて剥ぎ取り、彼らは裸になりました。なぜならこれらの組織は彼らを反キリストのキャンプに行かせ、毒麦の畑に入り、束ねられて、燃やされるのを待っていますから。彼らは実に哀れみの対象です。そうだ。彼らを哀れみ、警告し、懇願しても、彼らはやはり破壊の道に向かい、彼らを火の中から引き出して救おうとしても、彼らは激怒して拒絶するでしょう(ユダの手紙23)。彼らは実に惨めです。しかし彼らはそれを知らない。硬くなって希望を持ちません。彼らの光栄は実は彼らの恥です。御言葉に反抗しますが、いつか裁かれ、恐ろしい告発の代価を払う日が来るでしょう。
(七)各時代に対する最後の忠告
ヨハネの黙示録3:18-19「私はあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるために、目に塗る目薬を買いなさい。わたしは愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」
 神の忠告は簡潔で、要を得ています。主はこの末世の教会にある希望を示されます。その希望は神ご自身です。主は言われた、「わたしの所に来て買いなさい。」この「わたしから買う」という御言葉から、ラオディキア教会はイエスから神の御国の霊的な物をまったく買おうとしないことが明らかです。彼らの取引は霊的なものではありません。彼らは自分たちのことを信仰深いと思っていますかもしれないが、本当にその通りでしょうか。彼らの間でなされることは決してパウロがピリピ人への手紙2:13で言っていました、「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです」のようなことではありません。したがってこれらのすべての教会、学校、病院、冒険的な伝道事業などは何でしょう。彼らは神の御霊の種ではなく、宗教的な種と霊である限り、神は彼らの中にはおられません。
「豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買いなさい。」これらの人たちは十分な金を持っていますが、それは間違ったものです。それは人の命を買って破壊してしまう金です。それは人の性格を縛ってねじる金です。なぜなら金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。(テモテへの手紙第一6:10) 
ヨハネの黙示録18:1-14「この後、私は、もうひとりの御使いが、大きな権威を帯びて、天から下って来るのを見た。地はその栄光のために明るくなりました。彼は力強い声で叫んで言った。『倒れた。大バビロンが倒れた。そして、悪霊の住まい、あらゆる汚れた霊どもの巣くつ、あらゆる汚れた、憎むべき鳥どもの巣くつとなりました。それは、すべての国の民が、彼女の不品行に対する激しい御怒りのぶどう酒を飲み、地上の王たちは、彼女と不品行を行い、地上の商人たちは、彼女の極度の好色によって富を得たからである。』それから、私は天からもう一つの声がこう言うのを聞いた。『わが民よ、この女から離れなさい。その罪にあずからないため、また、その災害を受けないためです。なぜなら、彼女の罪は積み重なって天まで届き、神は彼女の不正を覚えておられるからです。あなたがたは、彼女が支払ったものをそのまま彼女に返し、彼女の行ないに応じて二倍にして戻しなさい。彼女が混ぜ合わせた杯の中には、彼女のために二倍の量を混ぜ合わせなさい。彼女が自分を誇り、好色にふけったと同じだけの苦しみと悲しみを、彼女に与えなさい。彼女は心で、「私は女王の座に着いています者であり、やもめではないから、悲しみを知らない。」と言うからです。それゆえ一日のうちに、様々な災害、すなわち死病、悲しみ、飢えが彼女を襲い、彼女は火で焼き尽くされます。彼女をさばく神である主は力強い方だからです。彼女と不品行を行ない、好色にふけった地上の王たちは、彼女が火で焼かれる煙を見ると、彼女のことで泣き、悲しみます。彼らは、彼女の苦しみを恐れたために、遠く離れて立っていて、こう言います、「わざわいが来た。わざわいが来た。大きな都よ。力強い都、バビロンよ。あなたのさばきは、一瞬のうちに来た。」また、地上の商人たちは彼女のことで泣き悲しみます。もはや彼らの商品を買う者がだれもいないからです。商品とは、金、銀、宝石、真珠、麻布、紫布、絹、緋布、香木、さまざまな象牙細工、高価な木や銅や鉄や大理石で作ったあらゆる種類の器具、また、肉桂、香料、香、香油、乳香、ぶどう酒、オリ-ブ油、麦粉、麦、牛、羊、それに馬、戦車、奴隷、また人のいのちです。また、あなたの心の望みであり熟したくだものは、あなたから遠ざかってしまい、あらゆるはでな物、はなやかな物は消えうせて、もはや、決してそれらの物を見いだすことはできません。」
これはまさに末世の組織化された教会です。なぜなら第4節でこう書かれていますからです、「わが民よ、この女から離れなさい。」携挙はまだ起きていません。これらの恐ろしい状況はまだこの富んだ偽りの教会にあるとき花嫁はまだ行っていません。
しかし、神の金はある。ペテロ I 1:7:「あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く」。神の金は苦難の熱い火の炉で作られるキリストのような人格です。それは正しい金です。
しかし今日の教会はどのような金を持っているのでしょうか。それは朽ちる世俗の金です。それは富であり、自己満足です。それは富を霊的であることの重要な基準にしてしまっています。神の祝福と教義の正確性などの証拠は今、どれだけの裕福な人がそこに所属しているかに基づいています。
「遅くなりすぎる前に来たほうが良い、そして火で精錬された金を私から買えば、あなたは真の裕福を得ることができる。」と主は言われた。分かりましたか。よく聞いてください、「私たちは裸(物理的に)でこの世に来るが、裸(霊的に)でこの世を去ることはできない。」私たちは何かを持って行くことになります。その物は何か、持って行くことができるすべての物です。少なすぎず、多すぎないものです。だから私たちは今神の前で自分は正しいと証明できるものを持って行くように非常に気をつけるべきです。そこで、どんな物を持って行くのでしょうか。私たちの人格、兄弟よ、それは私たちが持って行くものです。では、あなたはどんな人格を持って行くのでしょう。それは主のように苦難の熱い火の炉で作られる人格なのですか、それともこの道徳のないラオディキアの人々のようなもろいものなのですか。それは私たち次第です。なぜならあの日、すべての人は自分の重荷を背負うことになります(ガラテヤ人への手紙6:5)。
ラオディキアは裕福な都市です。その鋳造された金貨は両側に銘刻がされています。金貨はその繁栄な貿易の時代を象徴しています。今日、その双頭の金貨はここにあります。私たちは自分たちを売りに出し、自分たちを買い取ります。教会でも同じことがされています。私たちは自分たちを罪から買い取り、また彼らが言うには、自分たちを買って天国の中に入ります。しかし神はそのようには言われていません。
その教会はこのような驚くべき富を所有しています。どんな時でも彼女は世界全体の貿易システムに乗っ取ることができ、実際に世界教会協議会のあるリ-ダ-は教会が近い将来にそうすべきであり、そうすることができます、そしてそうするでしょうと公に予言しました。しかし彼らの金のバベル塔は崩壊します。火の中で精錬された金のみが耐えられます。
そして教会がそれを今までの時代を通してし続けたことです。彼女は神の御言葉から離れ、自分の信条や教義を取りました。彼女は組織化して、世俗に入り込みました。このように彼女は裸で、神は彼女の淫行を裁かれます。彼女がこの恐ろしい状態から脱することができる唯一の方法は主に従い、主の御言葉に戻ることです。
ヨハネの黙示録18:4「この女から離れなさい」。コリント人への手紙 第二 6:14-18「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。『わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となります。それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。』」それらの装いに代価が支払われるでしょう。そしてそれは分離の代価です。
「目が見えるようになるために、目に塗る目薬を買いなさい。」主はあなたが目薬を買わなければならないとは仰せられませんでした。聖霊には値はつけられません。ガラテヤ人への手紙 3:2 「あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。」聖霊の洗礼がなければ、あなたは真実な御言葉の聖霊による黙示に決して目を開かないでしょう。聖霊を受けていない人は神と神の真理に盲目です。
この目薬が人々の目を開くことを思うとき、私は幼い頃ケンタッキ-にいたときのことを思い出さずにはいられません。私と弟は屋根裏部屋の麦わらでできたベッドに寝ていました。家の割れ目から隙間風が吹きました。冬になり、寒すぎるために朝起きると目が凍って炎症をおこし、開けられなくなることもありました。私たちはお母さんを大声で呼ぶと、彼女は熱いアライグマの脂を持って上がり、私たちの目を氷が溶けるまでそれをぬりました。そうすると私たちは見ることができました。
御存じのように、この時代、ひどく冷たい隙間風が教会に吹いています。おそらく、彼女の目はある種の凍結で開けられなくなり、彼女は神が用意されたものに盲目になってしまったのです。彼女は神の御霊の熱い油で目を開く必要があります。神の御霊を受け入れない限り、彼女は教会の行事を神の御力の代わりに、教義を御言葉に代用します。彼女は実を見る代わりに、人数を成功として見ます。神学の博士は信仰へのドアを閉ざし、入ろうとするすべての者を禁じます(マタイの福音書23:13)。彼ら自身は入らないし、他の者も入れさせません。彼らの神学は不信者によって書かれた心理学の本から来ました。私たち皆必要な心理学の本があります、それは聖書です。それは神によって書かれ、神の心理学を含んでいます。博士によって解説する必要はありません。聖霊を受け入れ、説明させなさい。聖霊がその本を書き、そしてその中に書かれているものとその意味を教えることができます。
コリント人への手紙 一2:9-16「まさしく、聖書に書いてあるとおりです。『目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。』神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜ったものを、私たちが知るためです。この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。いったい、『だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか。』ところが、私たちには、キリストの心があるのです。」
もし聖霊がこの時代に大声で抗議されていることが真実であれば、私たちはバプテスマのヨハネのようにやって来て、今まで無いように教会に挑戦する人が必要です。そしてそれがまさに私たちの時代に来る人です。もう一人のバプテスマのヨハネが来て、主の第一回の到来の前駆者と同じように大声で叫ぶでしょう。私たちは彼がそうすると知っています、なぜなら次の節でこう言っています。
 ヨハネの黙示録 3:19:「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」これはヨハネがパリサイ人、サドカイ人、そして異教者の荒野で叫んだ同じメッセ-ジです。「悔い改めなさい」その時はその他に道はなかったのです、今もなおその他に同じ道はありません。それは悔い改めです。心を入れ替えてください。戻って来なさい。悔い改めなさい、あなたはなぜ死に向かうのですか?
最初のフレ-ズである「わたしは、愛する者を」について調べてみましょう。ギリシア語では人称代名詞である「わたし」が強調がされています。主は「わたしを愛する者は」とは言われていません。多くの方がそう言うべきだと思っているようですが。この聖書の節で、イエスを人類愛の対象にしてはいけません。違います!ここは神に愛されるすべての人を指します。これは主の愛です。私たちの愛ではありません。
ここでもう一度私たちは自分たちが主の贖い、目的、計画の中に栄光を得ていることに気づきました。そして神の主権の教えの真理の中で私たちはより強く確信します。主がロ-マ人への手紙9:13で「わたしはヤコブを愛した」と言われましたように。神がそれらの人しか愛さないのであれば、満足されて、ご自分に近づかない人たちの愛を待たれていることを意味するのですか。決してそうではない、なぜなら主は同じロ-マ人への手紙9:13で「わたしはエサウを憎んだ」そして11節で聖霊は大胆にこう叫んだ、「その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行わないうちに、神の選びの計画の確かさが、行いにはよらず、召してくださる方によるように」この愛は「選びの愛」です。それは主の選民への愛です。そして選民への愛は人間の功績とは無関係です。ここでは選択することが神の御心であり、人間の行いやそのほかの物とは無関係です。なぜなら、「その子どもたちは、まだ生まれてもおらず」のときに、主はすでにこう言われた、「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」
そして今主は自分の選民に対してこう言われています、「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。」「叱る」は「叱責する」の意味です。叱責することは改正するために暴露することです。「懲らしめる」ことは罰することを意味しません。それは「改正するために鍛える」ことを意味します。
これはまさにヘブル人への手紙 12:5-11で書かれていることです。
「そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」
ここでは神の愛が表されています。主は愛の中で自分の家族、自分に似た御子たちによってなる家族を望んでおられます。したがって、主の前では人間はみな一塊の粘土のようです。同じ粘土から尊いことに用いる器とつまらないことに用いる器を作られます(ロ-マ人への手紙9:21)。その選択は神自身の選択です。そしてそれらの選ばれた者、主の御霊によって生まれた者は生活の中で神のイメ-ジになるように鍛えられます。主はあらゆる忍耐、優しさ、そして哀れみで鍛えられます。主は釘で刺された跡のある御手で鍛えられます。時折こちらの陶器師は御自分が作られている器を御自分が望んだように新しく作り直すために完全に粉々に砕かれます。しかしこれは愛です。それは主の愛です。これ以外に主は他の愛の形はないのです。あるはずがありません。
小さな群れよ。恐れることはありません。この時代は早く終わります。毒麦は束ねられます。三つ編みの縄が切れにくいように、彼らは政治的、物質的の、そして霊的の三重の強さの力を持ち、キリストの花嫁を破壊しようとします。彼女は苦しんでも、それに耐えられます。地上に降りかかってくるものを恐れてはいけません、なぜなら「世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された」からです(ヨハネの福音書 13:1)。
「熱心になって、悔い改めなさい。」この偽りの教会は熱心を持っています。間違えないでください。彼女はユダヤ人と同じような熱心を持っています。ヨハネの福音書 2:17「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす」しかしながらこれは間違った熱心です。これは彼ら自身が建てた家に対するものです。それは彼らの信条、教義、組織、そして彼ら自身の公正のためのものです。彼らは御言葉を自分たちの考えから取り出しました。彼らは聖霊から離れ、人間をリ-ダ-にしました。彼らは神である永遠の命をわきにやり、良い行いがそれにとってかわり、さらに教会に従うことを良い行いにとって代わりました。
しかし神は別の熱心を求められています。それは「私は間違っていた」認められる熱心です。自分が間違っていたと認める者はだれでしょう。これらすべての宗派は何に基づいているのでしょう。彼らは自分こそ本物で、神に属し、正しいと主張しています。彼らはすべて正しいはずはありません。実は彼らは誰一人正しい人はおりません。彼らは塗装された墓であり、死人の骨で満たされています。彼らは命を持っていません。彼らは神からの証明がありません。神はいかなる組織にも御自分を現すことはありませんでした。彼らは自分は正しいと言っているが、それは彼ら自身がそれを言っているからであり、実際そうだということはありません。彼らは神からの「主はかく仰せられた」の証明が必要であるが、それを持っていません。
ここでこう言っておきましょう。私は神が偽の教会にだけ悔い改めるようにと言われたとは思いません。この節で神は御自分の選民に話しかけられています。彼らも悔い改める必要があります。多くの神の御子達はいまだにそれらの偽の教会の中にいます。彼らはエペソ人への手紙5:14で書かれている人たちです、「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」眠っているのは死んでいるのではありません。彼らは死者の中で眠っています。彼らは死んだ宗派の中にいます。彼らはそれぞれの宗派と一緒に流されています。神は「起きなさい!自分の愚かさを悔い改めなさい。」と叫ばれています。彼らは自分たちの影響力、時間、金銭、そして彼らの生活までもこれらの反キリストの組織にささげています。彼らは悔い改める必要があります。彼らは心を改めて、真理に向き合う必要があります。
はい、この時代はみな悔い改める必要があります。しかしこの時代は悔い改めるのでしょうか。御言葉に戻るのでしょうか。聖霊を人々の生活にいさせるのでしょうか。イエスを唯一の贖い主としてもう一度あがめるのでしょうか。そうしないでしょう。なぜなら次の節でこの時代の終末の仰天させるような衝撃的な真実を明かします。
(八)教会の外にいらっしゃるキリスト
ヨハネの黙示録 3:20-22「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」
この節をめぐっては大きな混乱があります。なぜなら多くの伝道者はこれを個人に向けた福音伝道で使っていて、まるでイエスがすべての罪人の心のドアの前に立っておられ、ドアをたたいて入ろうとされていることを言います。そしてもし罪人がドアを開けたら、主は入ることができると言います。しかしこの節は個人の罪人に対して話しかけていません。このメッセ-ジ全体はすべての時代でのメッセ-ジと同様に、要約です。22節では、「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」と言っています。つまりこれは最後の時代の教会へのメッセ-ジです。これはラオディキア教会の終末が近づいたときの状況です。それはある個人に対しての個人的なメッセ-ジではありません。それは御霊が私たちにイエスがどこにおられるのかを教えられているのです。キリストは教会を去られてしまったのです。
これは御言葉を教条のわきにやり、聖霊の代わりに教皇、主教、主席、顧問を置き、贖い主の代わりに仕事のプログラム、教会に入会すること、ある教会の体制に従うことを置くことの結果ではないのでしょうか。主に敵対するのにこれ以上何ができるのでしょうか。これは反逆です!これは背教です!これは反キリストに向かって開けられているドアです(テサロニケ人への手紙 第二2:3)。主が御自分の父の御名(イエス)で来たにもかかわらず受け入れられずに拒絶されたのでしたら、もう一人自分の名前(嘘つき、模倣者)で来る者は彼らに受け入れられます(ヨハネの福音書5:43)。不法の人、滅びの子が支配するようになります。
マタイの福音書24章で、この世の終わりにはイエスがいらっしゃる前に天にしるしが現れると書かれています。最近このようなしるしが成就し、私たちが論じている真理を黙示していることに気づいているのでしょうか。その真理とは、イエスはいままでわきに押しのけられましたが、末世では教会の外まで押し出されました。一つ目の時代では少数のニコライ派の人々と呼ばれる誤った教えがいたため、その円は完全なものではありませんでした。二つ目の時代ではさらに暗闇が忍び寄り、光が暗くなり、暗闇が円をさらに多く覆いました。三つ目の時代ではさらに侵食が進み、そして四つ目の時代は暗黒の時代で、光がほとんど消えてしまいました。
このことを考えてください。教会の光はキリストの光の反射です。主は太陽であり、教会は月です。だからこの円形の発光体は月です。それは一つ目の時代のほとんど満月の頃から欠け、四つ目の時代で三日月になりました。しかし五つ目の時代で再び光り始めました。六つ目の時代ではさらに大きく光りました。七つ目の時代では途中まではさらに輝き、そして突然とまり、ほとんど真っ暗になりました。光の代わりに背教の暗闇があり、その時代の終わりにはもう光らずに、暗黒が支配しました。キリストは今教会の外におられます。
これが天に現れるしるしです。最後の月食は皆既月食でした。ほぼ満月の状態から皆既月食になるまで七つの段階がありました。七段階目で、ロ-マ法王パウロ6世がパレスチナにエルサレム聖なるツア-で訪れたときに皆既月食が起きた。彼はエルサレムを訪れた初めての法王でした。その法王の名前はパウロ6世です。パウロは始めての使者で、この人も同じ名前を使いました。ここで六、人の数字に注意してください。これは偶然ではありません。そして彼がエルサレムを訪れたときに、月もしくは教会が真っ暗になりました。これです。これが末世です。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。(マタイの福音書24:34)主イエスよ、来てください。(ヨハネの黙示録 22:20)
ここで、なぜ真と偽りの2本のブドウの木があるのかを知ることができます。私たちはなぜアブラハムが二人の息子、イサクを迫害する肉体から来た者と約束から来た者を持つのかを知ることができます(ガラテア4:22-23,29; 創世記16:1-4;18:9-15; 21:1-3)。私たちはなぜ同じ親から来た双子のような二人の男の子が、一人は神のことを知り、そして愛しているが、もう一人も同じように真理を知っているが、同じ霊を持っておらず、その結果選ばれた子を迫害してしまうのかを知ることができます(創世記25:21-26)。神は堕落した人のために排斥されるのではなく、選民のために排斥されるのです。
選民は選民を迫害するはずがありません。選民は選民を傷つけるはずがありません。堕落者が選民を迫害し、破壊するのです。ああ、それらの堕落者は敬虔です。彼らは賢いです。彼らはカインの子孫、サ-パントの種です。彼らは自分たちのバベルを建て、自分たちの都市を建設し、自分たちの王国を作り、そして同時に神を求めます。彼らは真の種を憎み、できることは何でもして、主の名さえ使って、神の選民を破壊します。しかし彼らは必要とされています。「小麦にとってもみ殻は何でしょうか。」もみ殻がなければ、小麦はありません。しかし、終わりの時に、もみ殻に何が起きるのでしょう。それは消えることのない火によって燃やされます。そして、小麦はどこにいるのでしょう。小麦は主の穀倉の中に集められます。そしてそこに主がおられます。
ああ、神の選民たちよ、気をつけなさい。よく勉強して、注意してください。恐れおののいて自分の救いを達成してください(ピリピ人への手紙2:12)。主にあって、その大能の力によって強められなさい(エペソ人への手紙6:10)。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたえる獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています(ペテロの手紙第一5:8)。信仰を堅くし、祈りによって注意をはらっていなさい。今は終わりの時です。真実と偽りのブドウの木両方が成熟のときを迎えています。麦が成熟前に、熟した毒麦は束ねられて焼かれます(マタイの福音書13:37-42)。見てください。彼らはみな世界教会協議会に参加しています。それは縛りです。すぐに麦の収穫の時が来ます。しかし今は二つの霊が二つの木の中で働いています。毒麦から出てきなさい。勝利を勝ち取り始め、主の賞賛が得られるように、そして主と一緒に支配するのにふさわしくなるようにしなさい。
(九)勝者の王座
ヨハネの黙示録 3:21「勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。」
私たちは何に打ち勝つのでしょう。それはよくある質問です。しかしそれはこの節の真意ではありません。ここでは私たちが何に打ち勝つのかが真意ではなく、どのように打ち勝つのかが真意です。これは合理的です。もし私たちがどのように打ち勝つのかを知っているならば、打ち勝つべきものは問題になるのでしょうか。
主イエスが勝利を得られる御言葉を読めば、この問いかけの真理が得られます。マタイ4章では、イエスは悪魔の試みを受けられました。主は御言葉によって、そして御言葉のみで、サタンの試みに打ち勝たれました。これらの3つの大きな試みはエデンの園での試みにちょうど合致します。それは肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢でした(ヨハネの手紙第一 2:16)。イエスは御言葉によって打ち勝たれました。エバはサタンの試みで御言葉を使わなかったため負けました。アダムは御言葉に従わなかったために負けました。しかしイエスは御言葉によって勝たれました。そして今、これが勝者となるための唯一の道です。そしてこれは、あなたは今自分が勝っているかを知る唯一の方法です。なぜなら御言葉は失敗することはありません。
もう一度イエスがどのように世界の宗教システムに勝たれたかに注目しましょう。主が繰り返し当時の神学者たちによって悩まされ時に、いつも御言葉を使われました。主は父が与えられた言葉しか話されませんでした。主の知恵によって、世はいつもひどく困惑させられました。なぜならそれは神の知恵だからです。
主の人生の中で、主は自分に打ち勝たれ、神の御言葉に従順にすることによって勝利を得られました。
ヘブル人への手紙5:7でこう書かれています。「 キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。キリストは御子でおられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、」 主は何に従順にされたのでしょう。神の御言葉です。
その御言葉通りに生きられずに主イエス・キリストの御座に座ることができる人は誰もいません。あなたの祈り、断食、悔い改め、あなたが神の御前でなにをささげようとも、あなたはその御座に座ることはできません。それは御言葉の花嫁のみに与えられます。王の王座は王妃と分かち合えます、なぜなら王妃は王と連合しているからです。このように主のように御言葉に属する人のみがその御座を分かち合うことができます。
様々な時代を通して、私たちははっきりと示すことができました。アダムとエバは御言葉を離れたことによって堕落した、エペソ時代は御言葉からわずかに逸れたことによって堕落しました。すべての時代は御言葉から離れ続け、世界の教会のシステムが最終的に御言葉を拒否しました。このラオディキア教会では暗闇が御言葉を覆い、主がそこから離れられるという結末を迎えます。主は外で御言葉に従うことで主についていく御自分の民を呼ばれています。短い間の強力の聖霊の働きのあと、この追われて迫害された小さな群れはイエスによって連れて行かれます。
(十)異邦人時代の終わり
この時代は七つの教会時代の最後の時代です。最初のエペソ時代に始まったものは必ず最後のラオディキア時代で熟して収穫されます。二つのブドウの木は自分の最後の実を結びます。二つの霊の働きはそれぞれの終点で終わります。種まき、水やり、成長はもう終わりました。夏は終わりました。収穫用の鎌は今出されました。
私たちはつい先、15から18節で、成熟した偽りのブドウの木、偽りの霊、偽りの教会の人々の真実を学びました。「わたしは、あなたの行いを知っています。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしいです。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出します。あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸のものであることを知りません。わたしはあなたに忠告します。豊かの者となるために、火で精錬された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。」これよりも厳しい告発はありません。高ぶって、傲慢ないわゆる敬虔な人こそこれに値します。
 しかし21節ではこう書かれています、「勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。」真のブドウの木、真の霊、真の教会の人々は神の御座に挙げられ、謙虚で忠実で霊的な群れにこれまでにない高い賞賛が与えられます。
バプテスマのヨハネがかつて述べた、キリストと真の教会と偽りの教会の関係についての言葉が今成就されました。
マタイの福音書3:11-12「 私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」
キリスト、偉大な収穫者は今地上の実を収穫されています。主は麦を倉に納め、自分に属する人のために来られ、彼らを永遠に御自分のところへ受け入れられます。そして主は戻られて、悪人を消えることのない火で破壊されます。
マタイの福音書13:24-30に書かれた毒麦と麦の謎は同じく今成就されました。「イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われました。「天の御国は、こういう人に例えることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。麦が芽ばえ、やがて実ったとき、毒麦も現れた。それで、その家の主人のしもべたちが来て言った。『ご主人。畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。』主人は言った。『敵のやったことです。』すると、しもべたちは言った。『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。』だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」
麦と毒麦は一つ目の時代から今まで隣合わせで成長し、同時に収穫されます。ニカイアで達成しようとすることがついに終に成就されようとしています。偽りの教会は組織のすべての力で真理から離れました。そして政治の力を盾にして自分を強くし、真の信者を根絶しようとします。しかし彼女の卑怯な企みが実現しようとするその時、麦は穀倉に集められます。麦はもはや毒麦と一緒に成長しません。毒麦はもはや麦が存在したため受けた神からの祝福を受けられません。なぜなら麦は収穫され、神の御怒りは六つ目のしるしで噴き出され、悪人の徹底的な破壊で終わりを告げます。
先ほど偽りのブドウの木がこの時代で実を結ぶと言いました。彼女の実は成長し、熟します。それは本当です。この悪霊そして罪に満ちた教会はからしの種が樹のようになるまで成長し、空の鳥がそこに巣を作ると黙示されています(マタイの福音書13:31-32)。彼女のかしらはアンチキリストであり、不法の秘密です。これらのすべては真実です。そしてもしこれが真実であれば、花嫁の教会が成熟することも真実です。彼女の成熟は御言葉の力によって、主との一体を示すものとなります。そして彼女のところにくるかしらは敬虔の奥義であり、もちろんキリストです(テモテへの手紙 第一3:16)。そして偽りの教会が政治力、物質の力、そして暗黒の悪魔でできるあらゆるずる賢く極悪非道な手段でこの真のブドウの木に対抗するとき、御霊そして御言葉に満ちた真のブドウの木はイエスがなされた大いなるわざを行います。彼女は自分のかしら石の近くにいるので、御言葉によって徐々に主に近づけたとき、イエスは来られ、花嫁と花婿は永遠に一体となります。
あなたたちに教えた見える働きはすでに私たちの身の回りで見ることができます。毒麦の世界教会運動は事実です。最後の時代の預言者が神から主の二度目の到来の先駆けとなるメッセ-ジを持ってくるのも一つの事実です。なぜなら彼のメッセ-ジは子の心をペンテコステの父たちに向けさせるからです。そして御言葉の復興は力の復興をもたらします。
私たちはなんと重要な時代に生きているのでしょう。この御言葉に忠実に生き、そこから引いたり足したりしないように気をつけなければいけません。なぜなら神が話されていないことを話す者は偽り者だからです。私が特に思っていることがあります:この世紀の初めに、フィラデルフィア時代で生じた神を求める心が神の御霊に対する追求をもたらしました。そしてその追求は神が異言を話すこと、翻訳すること、そして予言をすることを送られたことによって答えられました。あるグル-プは直ちに異言を話すことは聖霊のバプテスマを受けたことの証拠だという御言葉に完全に反する教義を作り上げました。
異言を話すことは証拠ではありません。それらは表れであり、証拠ではありません。その教義はそれを支持する聖書の裏づけはなく、その教義を支持する人はすぐにこの教義に基づいて組織化しました。彼らは人々にそう信じさせたけれども、これは彼らが真理の中にいないことを証明します。それは良いように見えました。それはペンテコステの復帰のように見えました。しかしそれが間違いであることが証明されました。組織化してしまったので、それのはずがありません。それは死であり、いのちではありません。それは本物にあまりにも近く、多くの人が騙されてしまいました。
さて、もしそれは本物ではなければ、それは何でしょうか。それは殻です。それはぬけ殻です。あの青くて柔らかい殻でそれが本物のように見えます。しかし田んぼに降りてその麦のようなものを見ると、殻に過ぎないことが分かります。なぜなら麦の種はまだ熟していなかったからです。だからこれはこれから来る本当の穀物に似た柔らかい殻です。そのペンテコステの元の種は最後の時代に戻ってきます。それはニカイアで埋められ、サルディスで芽生えました。
それはフィラデルフィアで房をつけましたが、ラオディキアで成熟します。しかし御言葉が戻るまでには元の種に戻りません。預言者はまだ登場していません。しかし私たちはすでにラオディキアにいます。ヨハネの黙示録10:7の「預言者兼使者」はすでにこの世にいるはずです。「主はかく仰せられる」は再びここで、絶対に確実な証明で表れようとしています。すなわち真の種子はすでに成熟し、その次に収穫が来ます。
収穫期。はい、収穫の時です。その2本のブドウの木は一緒に成長し、枝が絡み合っていますが、今分けられようとしています。二本の木が実るまったく異なる実は別々の倉庫に分けられます。その二つの霊はそれぞれの目的地まで行きます。今は麦の花嫁にかけられる最後の呼びかけに心を留めるべき時です:「わが民よ、この女から離れなさい。その罪にあずからないため、また、(麦が)その(毒麦の)災害(6つ目のしるしの大いなる災害とマタイ24章に書かれた大いなる迫害)を受けないためです。」
(十一)聖霊より最後の警告
ヨハネの黙示録 3:22耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。
これは最後の警告です。もうほかのはありません。御座の部屋は用意されました。12個の土台石は置かれました。純金の街道は舗装されました。巨大な真珠の門は立てられました。彼女(この建物)はまるでピラミッドのように美しく、栄光に満ちて立っています。彼女を準備する天の御使いはかたずをのんで見ています。なぜなら彼女は超自然的な栄光できらきら輝き、光っているからです。彼女の一つずつの面はあるすばらしき恩寵の物語そしてイエスの愛を物語っています。彼女は用意された人々のために用意された都市です。彼女は彼女の住民のみを待ち、もうすぐ彼らは喜びをもって彼女の街道に群がります。はい、これは最後の呼びかけです。御霊は別の時代で話されません。時代は終わりました。
しかし神に感謝します。今この時点で、この時代はまだ終わっていません。主はまだ呼ばれています。そして主の呼びかけは主の御霊によって人の霊的な耳に対してだけでなく、もう一度ある預言者がこの世に現れます。神はもう一度パウロにされたように真理を明かされます。七つ目の使者の時代、ラオディキア時代では、その使者は神がパウロに明かされたような奥義を明らかにします。彼は話し、そして預言者の名でその預言者を受け入れる人はその預言者の伝道事業の恩恵を受けます。そして彼に従う人は祝福され、ヨハネの黙示録22:17 で言われている最後の日の花嫁の一部になります。「御霊も花嫁も言う。『来てください。』」
ニカイアのときに地に落ちた麦(花嫁の麦)の粒はもう一度もとの御言葉の穀物に戻りました。神を褒め称えよう、永遠に!はい、この最後の時代に現れた神によって証明された預言者の言うことを聞きなさい。彼が神から伝えたことと同じことを花嫁は語ります。御霊と預言者そして花嫁は同じことを言います。そして彼らが言うことはすでに御言葉によって言われています。彼らは今「今彼女から出てきて、離れなさい。」(ヨハネの黙示録 18:4) 呼びかけは出されました。呼びかけは終わろうとしています。その呼びかけはどれくらい続くでしょうか。私たちは知りません。しかし一つだけ知っていることがあります:もう長くはありません。なぜならこれは最後の時代だからです。
耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。御霊は話されました。教会時代は夕日のように、永遠の中に消えようとしています。そうしたらすべてが終わります。その時来るのにはもう遅いです。しかしもしこのシリ-ズのメッセ-ジのどこかで神は御自分の御霊であなたに働きかけられたら、今悔い改めて主に振り向き、そしてあなたの命を主にささげ、そうすれば主に御霊によってあなたに永遠の命が与えられます。