七つの教会時代の解説 第七章 サルディス教会時代

  • 伝道者:ウィリアム・ブランハム
  • 録音番号:CAB-07
  • 年:CAB
黙示録3:1-6
「また、サルディスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊と七つの星を持つ方が、こう言われる──。わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。
目を覚まし、死にかけている残りの者たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行いがわたしの神の御前に完了したとは見ていない。
だから、どのように受け、聞いたのか思い起こし、それを守り、悔い改めなさい。目を覚まさないなら、わたしは盗人のように来る。わたしがいつあなたのところに来るか、あなたには決して分からない。
しかし、サルディスには、わずかだが、その衣を汚さなかった者たちがいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らがそれにふさわしい者たちだからである。
勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。またわたしは、その者の名をいのちの書から決して消しはしない。わたしはその名を、わたしの父の御前と御使いたちの前で言い表す。
耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。』」
サルディス
サルディスは古代リュディアの首都でした。それはリュディアの王の統治の下にあったが、それからペルシア人、そしてアレクサンドロス大王の治世へと変わりました。それはアンティオコス大王に略奪されました。その後ローマに征服されるまでペルガモスの王たちに引き継がれました。ティベリウス帝の時代にそれは多くの地震と災害で荒廃としていました。今日それは廃墟となって誰も住んでいません。
この町一度は商業的にとても重要な場所でした。ここから羊毛の染色技術が発展したとプリニウスは言っていました。そこにはかなりの量の銀と金があり、金貨がそこから始まったと言われています。それは奴隷市場も持っていました。
この町の宗教は女神キュベレーに対する不道徳な崇拝でした。多数の寺院の廃墟を今だに見ることができます。
私がペルガモ時代の伝道で述べたバビロンの「母と息子」のコンセプト、すなわちセミラミスとニヌスとして知られている者たちがアジアのキュベレーとディオウスになったことをあなたがたは思い出すと思います。これらを隣同士で並べて見るととても啓発的です。
彼は太陽神で、彼女は月の女神です。
彼は天の王、彼女は天の女王です。
彼は善良と真理の黙示者、彼女は優しさと慈悲の黙示者です。
彼は仲介者、彼女は女仲介者です。
彼は肉眼で見えない世界に通じる門を開け閉めできる鍵を持っていて、彼女も同じ鍵を持っていて、同様のことができます。
彼は死者の審判官で、彼女は彼の隣に立ちます。
彼は殺され、復活して天に昇ったが、彼女の身体は息子によって天に連れて行かれました。
今ローマでこの同じ神に私たちの主にあたる称号が与えられ、彼は神の息子と呼ばれ、彼女は神の母と呼ばれています。
今までの2つの時代を振り返ると、この「母と息子」の概念はあまりにも広範囲に広まりました。しかし、バビロンの時でさえ、息子に対する崇拝が母に対する崇拝に入れ替わろうとしていたのでした。したがって、彼女は事実上息子の地位に取って代わろうとしました。この時代においてサルディスの異教の崇拝は女性への崇拝でした。それはキュベレーのみに対するもので、キュベレーとディオウスに対するものではありませんでした。母は事実上御子の地位に取って代わり、神格を賦与されました。彼女の様々の呼び名を調べ、ローマ・カトリック教会がマリアに賦与した愛らしい属性たちを思い出せば、この時代の宗教はどこから来たものかを理解することができる。
キュベレーへの崇拝を研究した時、2つのことが私をとても震撼させました。一つは彼女はヤヌスと同じような鍵を所持していることで、彼女はヤヌスと同じ権利(天と地と奥義の鍵)を持ちます。もう一つは崇拝者たちが鞭で血が出るまで自分自身の体を打っていたことで、これは今日カトリック教徒によっても行われ、彼らは自分たちが主と同じように苦しみを受けていると感じています。
この時代はローマ・カトリックから初めて真に分離することができた時代です。このことは疑いもなく女預言者イゼベルに彼女のマリア崇拝の教義を固めさせ、強調させたと同時に、プロテスタントたちに敵対する決心をさせました。なぜならプロテスタントたちはマリアは神が御子を産むために選ばれた処女であることは認めるが、救いの計画の中で役割を持つことについては否定するからです。ルターが信仰による義認の教義を定めたとき、カトリック教徒らは行い、苦行、告解そしてその他の聖書に基づかない作法にこだわっていました。自由になったクリスチャンたちが御子に栄光を捧げたとき、ローマ・カトリックはマリアの神性を増加させ、20世紀にはピウス教皇がマリアを持ち上げ、彼女が復活した身体で栄光の中に入ったと主張しました(これはほとんどの多くのローマ・カトリックの高等の神学者の教えに反するものでした)。その教義は絶対にバビロンのもの一つで、すなわち子が肉親の母を天国に連れて行くというものです。
この五つ目の時代が他の時代と同じ方向に向かうのは疑いもなく、そしてそれは火の湖まで続き、淫婦とその子らは第二の死で殺されます。これがマリア崇拝、キュベレーに対する崇拝の結末です。ところで、キュベレーとはアスタルテのことで、イゼベルは彼女の女預言者であり、イスラエルを自分の不道徳な儀式につまずかせたのを知っていますか。はい、それが彼女が聖書の中での役です。
時代
サルディスもしくは5つ目の教会時代は1520年から1750年までです。それは通常宗教改革の時代と呼ばれています。
使者
この時代の使者は全ての時代において最も著名な使者です。彼はマーティン・ルターです。マーティン・ルターは穏やかな性格を持つ優秀な学者でした。彼が弁護士となるために勉学していた時、長引く病気を患った親友の死がきっかけで彼は自分の命の霊的な状態を真剣に考えさせるようになりました。彼は1505年にエルフルトにある聖アウグスティヌス修道院に入りました。そこで彼は哲学と神の御言葉について勉強しました。
彼は厳格な苦行を行う生活を送っていたが、あらゆる外的な行いは彼の罪の意識を消すことができませんでした。彼はこう言いました、「私は神と和解するために自分自身を苦しめたが、私は暗闇の中にそれを見つけることができませんでした。」司教総代理シュタウピッツの助けのもと、彼は自分の救いは儀式よりも内在的な働きの経験であるべきだと悟りました。この激励により、彼はさらに神を探し求めました。のちに彼は司祭になりました。しかし彼はやはり救われませんでした。
彼は御言葉と現存するすべての神学の著作を熱心に深く研究しました。彼の深い知識と大きな誠意のために、彼は教師と宣教師とみなされました。昔自分に立てた誓いを成就させるために、彼はローマに行きました。そこで彼は教会が救いをもたらすために課せられた働きの虚しさを見て、そして神の御言葉は彼の心深くに響きました、「義人は信仰によって生きる」[ヘブル10:38]。
家への帰り道で、この聖句がもたらした福音の真理は彼の心に満ち、彼は罪から自由になり、神の御国に新しく生まれ入りました。このことの後、彼はすぐに神学博士に昇進し、「一生のすべてを研究に捧げ、聖書を忠実に解釈し守る」称号を与えられました。彼は確かにそうしました、そしてこのことが彼と彼の周りの人々の心を御言葉の真理の上に深くはめさせました。その御言葉はすぐに公において教会の信条と教義の濫用と衝突しました。
したがってレオ10世が教皇となり、ヨハン・テッツェルが免罪符を売り出したとき、ルターは立ち上がってこの聖書に反する教えに対抗せざるおえませんでした。まず、彼は講壇の上でそれを強く批判し、次に、彼は有名な95か条の論題を書き、1517年10月31日に城付属聖堂の門にそれをくぎ付けました。
短い期間でドイツに宗教改革の炎が燃え広がりました。マーティン・ルターが唯一ローマ・カトリック教会に挑んだ者ではないことを覚えておいてください。彼は多くの人々の中の一人です。他の人々は教皇の独断な現世的そして霊的な力を否定してきました、そして教皇の間でさえ小さな一時的な改革がありました。はい、多くの人々が問題提起しました。しかしルターの場合、神の時が熟し、あるはっきりとした教会の復興運動が起きました。この運動はずっと後に起こる御霊の降り注ぎの起点となりました。
マーティン・ルター自身が機敏で聖霊に満たされたクリスチャンでした。彼は絶対に御言葉に属する人でした、なぜなら彼は御言葉を勉強する深い情熱を持っているだけでなく、人々がそれによって生きることができるように普及させました。彼は新約聖書を翻訳し、人々に与えました。彼はひとりでこの決して容易ではない仕事を引き受け、時に20回も同じ段落を修正しました。彼はユダヤ人も何人かいるヘブライ語の学者たちのチームを集め、旧約聖書を翻訳しました。
ルターのこの不朽な仕事はいまだにその後の全ての成功したドイツ語聖書翻訳の基礎となっています。
彼は御言葉の力がある伝道師そして教師で、特に彼の名が知れ渡る最初の何年で、御言葉が唯一の基準であると強調しました。したがって彼は行いによって救われる教え、そして洗礼によって新しく生まれるという教えに反対しました。彼はキリストが私たちの唯一の仲介者で、他の人を介してではないと教えました、これはペンテコステの元々のコンセプトでした。彼は多くの時間をかけて祈る人で、やるべきことが多く、時間が差し迫っているほど、満足できる結果が得られるように神に多く祈らなければならないことを彼は学びました。彼は悪魔と闘うとはどういうことかを知っています、ある日サタンが彼のところに現れたが、彼はインクをサタンにまき、去るように命じました。別の時2人の狂信者が彼に自分たちと一緒に全ての祭司と聖書を撲滅するよう説得しようとしました。彼は彼らの霊を判別し、帰らせました。
「ザウエルの歴史書」第3巻406ページにてマーティン・ルター博士についてこう記しています、「預言者、宣教師、異言を話せる者、異言を翻訳する者、一人の人間の中に、御霊のすべての9つの賜物が集まりました。」
聖霊が彼の心にインスピレーションを与えた結果、義認の教義、すなわち救いは恵によってであり、行いによってではないという教えが芽生えました。これはペンテコステの頃の真理が教会の中に戻ってくる象徴となりました。ルター博士は義認のみ信じたり、それのみ教えたりはしなかったことに私は気づきました。しかしそれは彼の主なテーマで、そうあるべきでした。なぜならそれは御言葉の真理の基礎だからです。彼はこの真理を復興させた神の器として永遠に知られることになります。彼は5人目の使者で、そのメッセージは、「義人は信仰によって生きる」です。もちろん、彼は、信徒は信仰から信仰へ行くことを知っていて、かつ指導したことを私たちは認めます。彼の神の主権、選び、先決、そしてその他の真理に対する驚くべき理解は、彼が御言葉の中において偉大な人であることを示しています。しかしもう一度言います、歴史学者が言ったように、神は彼を人々に御自分のスタンダードをもたらすように使われました、すなわち行いに反して、「義人は信仰によって生きる」なのです。
すでに言及したように、この時代は歴史学者たちによって宗教改革の時代と呼ばれています。まさにその通りです。それが起こったことです。そうあるべきです。なぜならマーティン・ルターは宗教改革者であり、預言者ではないです。歴史書では彼が預言者だと書かれていることは知っています。しかし歴史書は正しいという意味ではありません。なぜならマーティン・ルターは神の預言者という偉大な霊的な意味を持つ称号に値する仕事をしたという記録がないのです。彼は良き教師で、彼のいのちにいくつかの御霊の表れがあり、そのために神を賛美します。しかし、彼は使徒であり預言者である使徒パウロのように教会を完全な真理の中に導くことはできませんでした。
時が経つのに連れ彼の問題の取り扱い方に変化が起きたことに気づきました。最初、彼は温厚で、恐れることなく、忍耐を持って神が問題を解決されるのを待ちました。しかし大勢の信者が彼のところに集まるようになりました。彼らの目的は完全に霊的なものではなく、政治的な動機がありました。彼らは教皇の管轄から離れたかったのです。彼らはローマに金銭を送りたくなかったのです。狂信者が出ました。すぐに彼は政治的問題そして選択に巻き込まれました。しかしそれは教会が関与する領域以外のことであり、教会は祈りをし、御言葉を教え、そして品行において気をつけるべきことを定めることしかできないのです。これらの政治的問題は日に日にひどくなり、彼は地主と小百姓の間に挟まれるポジションにならざるをえませんでした。彼の決断はあまりにも間違ったもので、暴動が起き、何千もの人々が殺されました。彼は良い動機があったが、彼は自分自身が政治と教会の福音の中に巻き込まれることを許した途端、つむじ風を刈り取ることになりました[ホセア8:7]。
しかしそれにも関わらず、神はマーティン・ルターを使われました。彼が故意に誤ったことをしたと言うことはできません。彼が判断を誤ったとしか言うことができません。もしルター派の信徒が彼の教えに戻り、この善良の兄弟のように神に仕えるようになれば、彼らは偉大な神そして救い主であるイエス・キリストの栄誉そして称賛となるに違いありません。
挨拶
黙示録3:1、
「神の七つの御霊と七つの星を持つ方が、こう言われる──。」
これまでの4つの時代と同様に、御霊は主の素晴らしい特性を示すことで恵み深い主を私たちに明かしてくださいます。この時、主が教会の真ん中に立たれていることで、私たちは主を神の七つの御霊と七つの星を持つ方として見ています。七つの星とは誰なのかを知っているが、七つの御霊が指していることを見つけなければなりません。
同じフレーズは黙示録で4回見かけることができます。
黙示録1:4、
「その御座の前におられる七つの御霊から、」
黙示録3:1、
「神の七つの御霊と七つの星を持つ方が、こう言われる──。」
黙示録4:5、
「御座からは稲妻がひらめき、声と雷鳴がとどろいていた。御座の前では、火のついた七つのともしびが燃えていた。神の七つの御霊である。」
黙示録5:6、
「また私は、御座と四つの生き物の真ん中、長老たちの真ん中に、屠られた姿で子羊が立っているのを見た。それは七つの角と七つの目を持っていた。その目は、全地に遣わされた神の七つの御霊であった。」
まず、これらの聖句はもちろんヨハネ4:24a にある、「神は(ひとつの)霊ですから」に反する新しい教義を教えているわけではないということを知っています。しかしこれは1コリント12:8-11に書かれているように、主のひとつの御霊が9つの方式で御自分を表されているのです。したがって神の七つの御霊はひとつの同じものを指していて、七重の方式来ているのです。黙示録4:5でこれらの同じ七つの御霊は主の御前で「火のついた七つのともしび」とも呼ばれています。ヨハネは黙示録でほかのものを使わずに、旧約聖書のシンボルを使うので、旧約聖書の箴言20:27を見てみると、「人間の息は主のともしび」と書かれています。これらの七つの御霊は人と関係あるのが分かります。ヨハネ5:35にバプテスマのヨハネは「燃えて輝く光」と呼ばれて、これは実に「燃えて輝くともしび」と訳されるべきところです(編注:日本語聖書では「ともしび」と訳されているが、英語では「光」と訳されている)。再び黙示録5:6にて、七つの御霊は七つの目として認識されています。
ゼカリヤ4:10でこう書かれています、
「だれが、その日を小さなこととして蔑むのか。人々はゼルバベルの手にある重り縄を見て喜ぶ。これら七つは、全地を行き巡る主の目である。』」
とても明らかに、「七つの目」は人々のことを指しています。したがってこの例えの中の主の七つの目は人を指していて、もちろん油注ぎがあり、聖霊に満ちている人々で、なぜなら神の伝道事業は人の力によってではなく、聖霊によるものだからです。聖句の発見を合わせると、神の七つの御霊は同じ聖霊が七人のいのちを通して継続するミニストリーに関するものであるのは明らかで、神は彼らと関係がとても近しく、彼らの中で御自分を表されています。彼らは神の目で、神のともしびです。これらの七人は誰なのかは簡単に見つけることができます、なぜなら次のフレーズで彼らは七つの星と呼ばれ、七つの星は七つの教会時代の七人の使者として知られています。それはなんと美しいことでしょう。星は夜に光を反射するものです。なぜなら太陽が沈んだからです。そのためそれぞれの時代の使者(星として例えられ)は神の御子の光を反射します。彼らは皆聖霊によってこのことをします。
パウロはひとり目の使者で、彼はガラテヤ1:8で、いかなる天使、使者、主教、誰であれ、もしパウロの教えた福音と異なるものを教えたら、呪われるべきだと言いました。パウロは自分が去った後、凶暴な狼が来ることを知っていました[使徒20:29]。彼はサタン自身が光の御使いに変装することを知っています、ですからその伝道者たちは言うまでもありません[2コリント11:14-15]。そのため彼はこの福音はいつまでも同じものだと警告しました。パウロはイエスの御名で洗礼を授け、そのような浸水礼を受けなかった者たちにもう一度洗礼し直しました。彼は教会に秩序を設け、御霊の賜物を正しく使う方法を教え、これらの賜物はイエスが来られるまで教会にとどまることを確かめました。したがってその後の残りの6人使者たちは同じ御霊によって、同じ火によって燃え、同じイエス・キリストの福音の光を与え、そしてしるしは彼らについて来ます。エイレナイオスはそれに値しましたか。はい。マーティンは?はい。コルンバは?はい。マーティン・ルターは?もちろん。ウェスレーは?そうです、彼は偉大な伝道事業があり、自分の馬が癒されるようにお祈りし、その馬が癒されました。これらが、7つの教会時代と7人の相似している使者たちで、パウロはもし自分が使者だと言っているが違う福音を伝え[ガラテア1:6-9]、違う光の下で生きるのならその者は呪われるべきだと言いました。
以上の私の言ったことは御言葉の他の部分と一致しますか。はい。御言葉でこの書に何かを加えたりもしくはそこから何かを取り除くなら、その者は災害が加えられ、神によって罪を定められると書かれています。
神はこう言われました、
「わたしはその者に、この書に書かれている災害を加えます、もしくはいのちの書からその者の受ける分を取り除きます。」
[黙示録22:18-19]
そのため7つの霊は実は神のひとつの御霊が異なる世代で神の御心と御言葉が働くことを指しているのがわかります。私は御言葉からそれを説明したいと思います。神の力強い御霊はエリヤに降りました。その後同じ御霊はエリシャに2倍になって降りました。何世紀後、同じ御霊でそのミニストリーを説明するために我々がエリヤの霊と呼ぶものが戻ってきてバプテスマのヨハネに降りました。いつか同じ形式のミニストリーで判別できるその同じ霊は異邦人の教会時代の終わりのためにある人に降りて来ます。
再び:聖書は神はナザレのイエスを御霊と力によって油注がれ、そして彼は良い事を行うために出て行かれ、悪魔によって迫害を受けているすべての人々を癒されました。イエスが離れられる時、彼は御自分の弟子たちにペンテコステまで待つように言われました。その時御自分に降りた同じ御霊は彼らに降りて彼らを満たされます。そしてその「召された」身体(教会)は主が地上におられる位置を継承します。その主におられた同じ御霊が彼らにおられるため、彼らは同じ働きをします。そしてイエスキリストの身体(真の教会)の本当の一員は同じ働きを表し、そしてイエスとペンテコステの教会と同じ働きをします。なぜなら彼らの中に同じ御霊がおられるからです。御霊とその表しを持たないその他の教会は神につけを払うことになります。
ここでこれらの7つの星、もしくは7人の使者は主の御手にいると書かれています[黙示録1:16]。主は彼らを持たれています。もし彼らは主の御手にいるなら彼らは主の御力とつながっていることがすぐわかります。それは神の力を象徴しています!そして神の主権を象徴しています。彼らの中で自分の力と主権で来る者はいません。それがパウロが言ったことです。あえてそうしようと思う者なんていません。神の主権と聖霊の力が必要です。福音は聖霊の力のもとで神の主権によって宣べ伝えられます。これらの人々は皆聖霊の力に満ちています。皆世界に立ち向かいました。彼らはそれができました。彼らは神に満ちていました。彼らは自分もしくは他人によってではなく、神によって遣われもしくは権限を授けられました。
彼らはこの世の人が持つことができない物を持っています。イエスは御自分が行かれた後、この世の人が受け取ることができない御自分の御霊を送られると言われました[ヨハネ14:17]。まさにそうです。この世、もしくは世俗の体制は主を受け入れることができません。それが組織です、世俗の体制です。聖霊に満たされている世俗の体制の教会があれば教えてください。見てみたいです。もし見つけられれば御言葉の中で誤りを見つけることになります。できません。これらの使者は誰も組織化しませんでした。彼らは組織から追い出されたか、出て行ったかどっちかでした。なぜなら彼らは組織の罪を確信したからです。組織が御霊の位置に取って代わり、宗派が御言葉の位置に取って代わる時、聖霊はその中におられることはできるのでしょうか。覚えてください、「組織」は「」です。他に解釈のしようがありません。もし世界が主権を握るなら、御霊は離れられます。
はい、御霊は7つではなくひとつです。彼はいつまでも同じであり、同じように働かれます。そして7人の使者は同じ御霊を持ち、同じ御言葉を教え、そして同じ力を持ちます。もし教会は真の教会ならまさにペンテコステの時の教会と同じ御霊と御言葉、そして力があるわざを持ちます。経験によってそれはペンテコステの教会となり、異言を話し、翻訳し、そして予言と癒しがあります。神はその中におられ、そしていつものように御自分を表されます。ハレルヤ!そして彼女は組織を持ちません。それを忘れないでください。
イエス・キリストが各時代で、使者たちの中におられるご自分の御霊を通してご自身を明かされているのが見えます。彼らはイスラエルの子どもたちにとってのモーセのような存在です。彼は彼の日についての啓示を持っていたように、それぞれの使者は神から送られる自分たちの時代のための啓示とミニストリーを持っていました。
したがって使者たちが主の手にいるのを見たとき、主が彼らの中で御自分を示され、さらにご自分の力を与えられていることがわかります。七つの金の燭台の真ん中に主が立っておられるのが見えただけでは、主と教会全体との繋がりは不十分です。エペソ4章に書かれている五種のミニストリー(使徒、預言者、伝道者、牧師、教師)が見えるだけでも不十分です。なぜならそれぞれの時代は道を誤り、それは平信者だけでなく聖職者たちも同じで、羊使いと羊はともに誤りがあります。そして神ご自身がこれらの7人のミニストリーの中に羊飼いの長として登場され、ご自分の民を真理と真理の豊富な力の中に戻るように導かれます。
神はご自分の民の中におられる、ご自分のすべての民の中におられます。なぜならキリストの御霊を持たない人はキリストのものではないからです[ローマ8:9]。そして神は御言葉です。人々の中から認識される御言葉です。しかし神はご自分の御心で定めて選ばれたこれらの人々に、特別な指導権を与えられました。彼らはそれぞれの時代に一度現れ、同じ御霊を持っています。これは異教ローマとなんと大違いなことでしょう。後者は自分たちが選んだ人を持っていて、ひとりの後にまたひとり、神の御力を現さず、神の御言葉の中に止まらず、皆各々の前任者とは異なり、まるで神のように自分の願望を付け加えます。神はその中におられません。神はご自分の使者の中におられます。使者が主の御言葉によって主について行くのと同じように、神の満ち満ちた豊かさを持つ者は使者について行きます。
「神の七つの御霊と七つの星を持つ方が」
黙示録3:1
この同じ主が人の肉身の中でご自分を現されたように、ご自分の御霊が人の中におられることで再び人の中でご自分を現そうとされています。「これらはわたしの人々です」、主はこう言われました。七つの御霊に満たされた使者たちは主のものです。彼らは拒絶されたかもしれません。質問されたかもしれません。もちろん、人から見ると彼らは値するように見えないかもしれません。しかしながら、彼らは彼らの時代の使者たちです。神はアブラハム(彼は嘘をついた)、モーセ(彼は反逆した)、ヨナ(彼は不従順でした)、サムソン(彼は罪を犯した)、ダビデ(彼は人を殺した)を使われました。主はヨシュア、ヨセフをも使われました。そして彼らの中にひどい欠点を持つ人の数は歴史上完璧に見える人の数よりもはるかに多いです。しかし彼らはすべて神のものです。それを否定できる人は誰もいません。神は聖霊を彼らの中に入れることで、聖霊を通して彼らを使われました。彼らは立とうと転ぼうと、彼らのご主人はおられます。そして彼らの中のすべてで神の至高な御心が成就されたのです。この世の歴史がこれを否定しても、事実はそうです。永遠の神はまだ金の燭台の真ん中で歩かれ、そしてそれぞれの時代の人々に御言葉をもたらすように、ご自分の御霊によってご自分の使者たちを遣わされます。
非難
黙示録3:1b、
「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。」
黙示録3:2b
「わたしは、あなたの行いがわたしの神の御前に完了したとは見ていない。」
これは確かにとても変わっていることです。ここまでのすべての時代で、御霊はまずすべての真の信者たちを称賛してから、偽のブドウの木を非難しました。しかしこの時代での主と主の御言葉に対する理由のない無視が原因で主のこの5つ目の時代に対するメッセージのすべてが咎めの言葉となりました。
「わたしはあなたの行いを知っている。」
主の御前でどのような行いが主を不快にさせたのでしょうか。さて、それぞれの時代は次の時代と重なり合います。そのため4つ目の時代の行いは5つ目の時代でも続きます。これらのすでに知られている行いは:
聖霊によるリーダーシップは人の階級制度によって取って代わられました。
神の純粋な御言葉とその全ての人々への無償な利益は排除され、信条、教義、そして教則などに取って代わられました。
御霊の中での崇拝と御霊の賜物、そして聖徒たちの真の交わりは儀式と偶像崇拝、そして異教の祭りなどに取って代わられました。
マリアに対する崇拝はクリスチャンの崇拝の中でより大きい位置を占めるようになり、彼女は実質上神格に取って代わりました。そして御子はその至上の地位から教皇という人より低い地位に降ろされ、教皇は自分のことをキリストの代理と呼びました。
この恐ろしいアンチキリストの教会に反抗する人々は殺されました。その中に留めた人々は平民であろうと、王であろうと、自分たちが教会の人質になっていることに気づきました。彼らの命は自分のものでもなく、キリストのものでもない、彼らの身体、魂、そして霊はローマ・カトリック教会に属しているのです。彼らはキリストの御血について話しているが、自分たちの贖いを金銭で支払い、そして罪の赦しを金もしくは苦行で買います。より裕福な人々はレオ10世教皇がまだ犯していない罪のために免罪符を買うことを許したことに喜んだ、なぜなら彼らは教皇が彼らの罪をすでに許したと知っているので、何の良心の呵責もなく彼らの恐ろしい犯罪を計画して実行することができるからです。神の御言葉は彼らから隠されたため、真理を知る人などいるのですか、いやいません。真理は御言葉からのみ来るため、人々はローマ・カトリックの地下牢に閉ざされ、死を待ち、そして死後の裁きを待っていました。しかしその大淫婦は殉教者たちの血で酔い、裁きのことを思いよぎることなく、その残虐な悪行を続け、霊的な死と肉体的な死両方で人々を殺しました。
4つ目の時代の終わり、すなわち5つ目の時代の始まりの時、トルコによるコンスタンチノープルの侵略で、知識のある学者はギリシア語の書物を持って西側に逃げました。その結果、純正の御言葉と真の信者の教えが広められました。大きい影響をもたらしたのはこれらの良い教師たちだけでなく、私たちの現代の印刷技術の基礎にもなった技術が発明され、本の生産を容易にしました。したがって聖書に対する大いなる渇きと願望が答えられることができたのです。
神はたくさんの力のある人をおこされ、ルターはその中の一人にすぎないのです。カルヴァンとツヴィングリはもう二人の卓越した人物で、それ以外にも多くの人々がいて、名前がそこまで知れ渡っていない人々もいます。しかし、これらのことは徒労に終わってなかったが、神の力のある働きは事実上まさにこれらの人々に阻まれました。その中の一つとして、彼らはニカイア公会議での教会と政府の結婚を反対せず、むしろその連合を促進しました。
御言葉による支持がないにも関わらず、政府による福音の保護は歓迎されました。ヘンリー8世による宗教改革の支持と教皇の権利に対する反抗から、「人の憤りまでも神をたたえる」[詩篇76:10]ということを見ることができるが、これはペンテコステの真理と全能の神からの保護に全く及ぶことができません。
ルターが常に当地教会に対する外的な干渉に反対する教えをしていたにも関わらず、彼は人々の心から「司教、大司教」のような教会政府の概念を消すことができませんでした。したがって教会は正しい方向へ1歩進んだが、依然と束縛されているため、まもなくすると彼女は逃れようとしていた牢屋に再び禁固されてしまいました。
忌まわしい行いの杯がまだ満たされていませんでした。ルターの誤った判断で闘争が扇動され、多くの群衆の死につながってしまっただけでなく、ツヴィングリ一派が敬虔なフーブマイヤー博士を迫害して牢屋に入らせ、直接彼を火刑柱に送らなかったとしても、彼が最終的に火あぶりにされたことに対する責任は大きかったです。カルヴァンも例外ではなく、なぜなら彼は一つの神格を理解し教えるセルウェトスの逮捕を命じたからです。政府はその後この兄弟を審問し、火刑柱で火あぶりにした、このことはカルヴァンを狼狽させました。
宗派に熱心な時代があったならば、それはこの悲劇的な時代です。コメニウスのこの時代に対する描写ははっきりとしたものです。彼は「ひとつ必要なこと」という本を書きました。彼は世界を迷宮にたとえ、そこから出る方法は必要ないものから離れ、ひとつ必要なこと、すなわちキリストを選ぶことだと示しています。多数の指導者が多くの宗派を生み出した原因だと彼は言っていて、もうすぐ使える名前がなくなってしまうくらい宗派が多いのです。それぞれの教会が自分こそ本物だと考え、少なくとも最も純粋な、最も真実な部分だと言っています。一方で彼らは最も苦い増悪でもって互いに迫害し合いました。彼らの間で和解の望みはなく、彼らは和解できない恨みで敵対します。
彼らは聖書からそれぞれの信条を作り出し、これらは彼らの砦と要塞となり、それらの後ろで彼らは塹壕で自分たちを固め、あらゆる攻撃を抵抗します。これらの信仰の告白(ほとんどの場合そうだと認めます)のそれ自身は悪いものだと言いません。しかし彼らは敵対の炎を助長します。これらのものを横に置くことのみが教会の傷を癒すことができます。「宗派の迷宮と様々な信仰告白以外、討論への情熱もあり...」この種の討論によって何が得られるのですか。今までに解決された学術的な論争はあるのですか。一つもありません。それらの数は増える一方です。
サタンは最も優れた討論家です。彼は文字上の論争において一度も負けたことがありません。礼拝において、人の言葉は往々にして神の御言葉よりも多く聞かれます。皆それぞれ好きなように話し、学術的な研究で時間を費やし、そしてそれでもって他人の見解を否定します。しかし、新しく生まれること、及び人がキリストに似るように変わり、神のご性質にあずかる者となること[2ペテロ1:4]については誰も言及しません。「鍵」の力については、教会は「つなぐ」力をほとんど失い、「解く」力のみが残されています... 聖なる儀式は連合、愛、そしてキリストの中の私たちのいのちの象徴であるべきだが、それが苦々しい論争の場、互いに憎しみ合う原因、派閥主義の中心となってしまいました...
簡単に言えば、キリスト教は迷宮となってしまったのです。信仰は何千もの小さなパーツに割かれてしまい、その中のひとつを受け入れないとあなたは異端とみなされてしまいます...何が助けになるのでしょうか。必要なことはただ一つ、キリストに戻り、キリストを唯一のリーダーとして見なし、主の歩みの中で歩み、ゴールにたどり着くまで他の道を絶ち、信仰において一つになるのです[エペソ4:13]。天の主があらゆることを聖書の上に建てられたのと同じように、私たちはおのおのの特別な宗派を離れ、私たち皆に与えられた、神の明かされた御言葉に満足すべきです。聖書を手に持ってこう叫ぶべきです:私は神がこの本の中で明かされたことを信じます、私は従順に主の命令に従います、私は主が約束されたことを待ち望みます。クリスチャンよ、聞きなさい。いのちの形はひとつだが、死は何千もの様式で私たちのところにやってきます。キリストはひとつだが、アンチキリストは何千もいます...だから知っておくべきです、クリスチャンよ、唯一必要なことは何なのかを。あなたはキリストのところに戻るか、アンチキリストのように破壊に向かうか、どちらかを歩むことになります。もしあなたは賢く、いのちを望むならば、いのちのリーダーに従いなさい。
しかし、あなたがたクリスチャンたち、携挙のために喜びなさい、天におられますリーダーの話、「わたしのところに来なさい」を聞いて...声そろってこう答えてください、「主よ、行きます」。
ただいまこの時代が宗派の霊が大きく成長させたと言いました。もしコリント人の、「私はパウロにつく、私はケファに」という態度が現れたことがあるならば、それはこの時です。ルター派、フス派、ツヴィングリ派などなどがありました。主の身体がこのように分割されたのは惨めなことです。彼らは名乗って生きているが、死んだものです。彼らは確かに死にました。彼らは組織化した途端死にました。大きいグループたちは組織化し、政府との結婚に自分たちを縛りつけました。それが原因です。彼らは終わってしまいました。ローマ・カトリック教会を批判したルター派の信者もその中にいました。彼らは政治と霊的なことが連合するのは正しくないのを知っていたが、しかしルターは(ペテロがユダヤ人たちのことでつまずいたのと同じように)戻って神の代わりに政府を信仰の防護具にしてしまいました。それはあの淫婦から出た初めての名の知れた宗派で、しかしルターが亡くなってからまもなくそれは昔反抗してきたのと同じような聖職階級制度を持つようになりました。この神の運動は、第二世代目になると彼女の母親の羽の下に戻ってしまいました。彼女は知らず知らずそこに戻りました。彼らは自分たちの名を主の御名よりも高く掲げました。彼らは自分たちの名によっても生きています。
そして今日全ての宗派はまったく同じことをしています。彼らは主イエス・キリストの御名ではなく、自分たちの名で生きています。それはそれぞれの教会が各々の礼拝の仕方によって知られていて、神の力によって知られている教会はないのです。それこそが教会を試すものです。そしてこの時代に人々の間にしるしと奇跡がなかったことに気づいてほしいです。彼らは政府の力のために神の力をあきらめました。彼らは自分たちの名前に執着し、それらを偉大なものにしました。それはあのいつもの霊がみんなを自分の羊おりの中に入れようとしていたのです。今日バプテスト派の信者はメソジスト派の信者が自分たちのところに入るように望みます。メソジスト派の信者は長老派の信者たちを変えようとします。そしてペンテコステ派の信者は他の全ての宗派に入って欲しいと望みます。皆それぞれが自分こそが最も多く提供でき、最も偉大な希望を差し出すことができると主張します。つまり天国に通じるドア、少なくともより豊かな所への入り口に通じる道を提供できると言います。なんたる悲劇でしょう。
この宗派の霊はすべての宗派に自分たちの規則を書かせ、自分たちの信条を教えさせ、自分たちの事務所と教会体制を設立させ、そしてそれぞれが自分のみが神を代表して話す資格があると主張させています。これはまさに教皇とローマカトリックが行なっていることではないのですか!彼らは知らず知らず彼らの母、その淫婦のところに戻ってしまったのです。
この聖句の節の「あなたは、生きているとは名ばかりで、実は死んでいる」に対するコメントをまとめます。この時代に対して言いすぎることはないです。それは宗教改革をもたらしたが、称賛される代わりに神から最も厳しい譴責を受けました。なぜなら、神は逃げるためのドアを開けてくださったのに、それは直ちに淫婦のところに戻る宗派主義の種を撒いてしまったのです。カトリック教会から離れる運動が始まった時、それは完全に霊的なものではなく、むしろ政治的なものでした。言ったように、多くの人々がプロテスタント側に入ったのはローマカトリックの政治そして金融体制の束縛をひどく嫌っていたからです。したがって、神がペンテコステの終わりの時に純粋な御霊の方式を用いてご自分の働きを成就されたように、この運動は聖霊の特徴を伴った偉大な霊的なものになるべきだったが、それどころかこれは人の憤りまでも神をたたえる働きとなってしまいました。そしてこれはイスラエルがエジプトを出た後、カナンの地に入ることができず、荒野でさまよった歴史と重ね合わせることができます。しかしながらそれでも多くのことが成し遂げられた。少なくともローマ・カトリックのくびきは部分的はずされ、人々は昔のように大いなる恐怖を抱かずに神の御言葉を受け入れることができ、御霊の影響に身を委ねることができます。このことはこれ以降の偉大な宣教時代へのドアを開けました。
ティアティラのイゼベルは人々に対する支配をあきらめる気配を見せていません。したがって私たちは彼女の娘であるアタルヤがサルディス時代で頭を上げ、彼女の組織のたくらみで真の種子を締めつけることができると希望を抱いていたことを見ることができます。
警告
黙示録3:2、
「目を覚まし、死にかけている残りの者たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行いがわたしの神の御前に完了したとは見ていない。」
サルディス時代は復興の時代であり、宗教改革の時代ではないと言えたら良いが、そう言うことはできないのです。御言葉はそれを復興の時代ではなく、それを宗教改革の時代だと確かに呼ばれました。もし復興があったならば、あの時代はもう一つのペンテコステ時代になるべきでした。しかしそうではありませんでした。それに対して最も言えることは、「死にかけている残りの者たちを力づけなさい」です。何かが欠けているのです。おお、はい。もちろん何かが欠けています。この時代は義認がありました。しかしそれは聖別と聖霊によって満たされることを欠けていました。それが神の元のプランでした。それがペンテコステの信者たちが持っていたものです。彼らは義とされ、聖別され、聖霊に満たされました。なぜでしょう。聞いてください、義とされ、聖別されるのは最後に聖霊による洗礼を受けるためです。
それは教会がある理由です。それは神の神殿で、神によって、つまり聖霊によって満たされます。御霊はイエスが地上におられた時に主の中におられ、力のある働きをイエスを通して行われたが、同じ御霊はペンテコステの教会に戻り、そこの信者はイエスがされたのと同じ働きを行いました。この時代はそのような働きがありませんでした。ああ、彼らは記された御言葉を持っているが、(啓示された御言葉を持ちません)。これが宗教改革の時期でした。しかし、小さな群れよ、恐るな、神はこう言われました、「わたしは償う」。そしてこの改革はその始まりとなります。(主の約束によると)主は暗黒時代のサタンの深みから教会を取り戻され、ペンテコステの時、最初の頃の教会にあったような神の深みの中に連れて行かれます。
気をつけてください、そしてこれをわかってください。私が読んだこの2節目でこう書かれています、「わたしは、あなたの行いがわたしの神の御前に完了したとは見ていない。」「完了していない」の本当の意味をわかっていますか。それは「成就されていない」という意味です。この時代は成就されていない時代でした。それは回復の始まりに過ぎないのです。それが聖書がこの時代を復興ではなく改革と呼んだと私が言った理由です。それは義認、つまり救いはすべて神によるものを意味する教義で始まりました。ああ、ルターはいかに神の主権そして選びを教えたのでしょう。彼はそれはすべて恵によるものだと知っていました。彼は教会を聖職階級制度による統治から分離させました。彼は偶像を倒しました。祭司に罪の告白をすることを撤廃しました。教皇を否定しました。始まりはすごく良かったが、神はその1500年前にすでにこう言われました、「ルター、あなたは物事を始めようとしているが、あなたの時代では成就されず、わたしはそれを後にとっておきます。」ハレルヤ!私たちの神はすべてを掌握されています。主は最初から結末をご存知です。はい、ルターは主の使者でした。ルターの欠点を調べるとそのように見えません。しかしヨナという人がいて、彼のいのちにも欠点がありました。彼の行いから私たちはそうだと認めたくないが、彼は預言者でした。しかし神は彼らは御自分のものだとご存知で、ヨナに対してされたように、神はご自分の方法をお持ちです。主はあの時代のルターに対してご自分の方法をお持ちであり、万物の結末までご自分の方法をお持ちです。
これは成就されなかった時代でした。改革の時代でした。しかしそれが神が望まれることでした。この点について、非常に素晴らしいルター派の兄弟で西部のとても良い神学校の校長だった方に過去にしたのと同じ方法で説明したいと思います。私は一緒にディナーをとり、聖霊について話しするように彼のところに招待されました。彼は多くのことについて困惑し、そして私に言いました、「私たちルター派の人々は何を得たのでしょうか。」
私は言いました、「まあ、あなたがたはキリストを持っています。」
彼は言いました、「私たちは聖霊がほしいです。私たちはそれを手に入れたと思いますか。」
私は言いました、「潜在的に、あなたがたはそこへ向かって信じています。」
彼は言いました、「潜在的にとおっしゃいましたが、どういう意味ですか。私たちは神を渇望しています。ペンテコステと御霊の賜物についての本を読み、私たちの中の何人かが著者に会うためにカリフォルニアに飛びました。そこに着いた時、彼は自分はその本を書いたけれども、賜物を持っていないと私たちに言いました。今あなたの伝道事業の中での賜物の働きを見た時、あなたと話したいと思いました、なぜならあなたならきっとそれらについて何かをご存知だからです。」
この兄弟の神学校は郊外にあり、何エーカーものの農地に囲まれ、学生たちはそこで働いて学費を稼ぐことができます。彼自身も工場と農場を持っていて、雇用を提供しています。そのため、彼の農場を例えに使って私の観点を説明しました、「ある時、ある人が畑にトウモロコシを植えるために自分の農場に行きました。彼は切り株を掘り出し、石を除き、土地を耕し、鋤を引き、そして自分のトウモロコシを植えました。毎朝彼は畑の様子を見て、ある朝彼は何もない土地から無数の小さな葉っぱが出て来たのを見ました。彼は言いました、『神を賛美します、神は私にトウモロコシ畑を与えてくださいました。』」そして私は彼に聞きました、「その人はトウモロコシを手に入れましたか。」
彼は言いました、「ええ、ある意味では彼は得ました。」
私は言いました、「潜在的に、そうです。そしてそれが改革時代にいたあなたがたルター派の人々です、あなたがたは葉っぱを伸ばそうとしていました。わかりますか。トウモロコシは成長し始めました。(暗黒時代の間土の中で腐った後です)。」何個かの節を伸ばした後、大きい茎になりました、そしてある日ひげを生やした房が現れました。あのひげを生やした房が葉っぱを見下ろして言いました、「あなたたち古臭くて型式ばったルター派の人々は何も持っていません。私たちを見てください。私たちは育成者、偉大な宣教師たちです。」あの房の時代はウェスレーの時代です。彼らは最も偉大な宣教師たちで、私たちのこの時代をさえ超えました。あの時代は何を行なったのでしょう。それは風の中での花粉のように色々な場所へ撒かれました。
「次のステップはなんでしょう。理論的には穀物が形成され、収穫される時期、完成の時期だと考えるでしょう。しかしそうではないのです。もう一つの時期があります。それは種子を包む外皮あるいはもみ殻が形成される時期です。」そしてそれがまさにこの霊的なサイクルで起きたことです。20世紀になり、ラオディキア時代が始まると、聖霊はペンテコステの時と同じように降りて来られたと広く信じられました。人々は異言を話し、異言を話すのは聖霊による洗礼を受けた証拠だと主張しました。私は穀物の畑に何回も行ったことがあり、夏の終わりに小麦を採って手に擦り、麦粒を得ようとしました。しかし驚いたことに、その外皮の中には麦粒が入っているように見えるのに、その中には麦粒が全くなかったです。これはいわゆるペンテコステ運動についての完璧な描写です。
そしてこれは証明された事実で、これらの人々はある教義のもとで組織化され、そしてそれ以前の組織と同じように彼ら自身を縛りました。これは彼らは本当の種子ではなく、これから来るべき本当の種子の外皮もしくは保護層であることを証明しています。この外皮の時期はマタイ24:24で、「できれば選ばれた者たちをさえ惑わそうと」と言われた危険な時期です。ああ、人はこのもみ殻、いわゆるペンテコステ時代は本当の種だと感じました。しかしそれは単にこれからやってくる本当の復興が来る時代へいのちをつなぐための輸送器にすぎないことが証明されました。その時代には麦の花嫁がエゼキエル47:2-5で言われた力で表されます。
「次に、彼は私を北の門から連れ出し、外を回らせ、東向きの外門に行かせた。見ると、水は右側から流れ出ていた。
その人は手に測り縄を持って東の方に出て行き、千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、それは足首まであった。
彼がさらに千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、水は膝に達した。彼がさらに千キュビトを測り、私を渡らせると、水は腰に達した。
彼がさらに千キュビトを測ると、水かさが増して渡ることのできない川となった。川は泳げるほどになり、渡ることのできない川となった。」
「そして完成するためには神の完璧な御心と御計画が必要です。ルター派信者は義認のもとで潜在的に聖霊を持ちました、メソジストたちは聖別のもとで潜在的に持ち、今日聖霊は戻って来られ、復興がありました、聖霊はここにおられます。」
「目を覚まし、死にかけている残りの者たちを力づけなさい。」
この聖句が言いたいことは2つの言葉「目を覚ます」そして「力づける」にあります。目を覚ますことはただ起きているのを指すだけではなく、警戒することをも指します。さもないと危険と損失が来るのをほのめかしています。力づけるというのは単に力を与えることだけでなく、永久に存在するために整えて設立することを意味します。この二つの命令は残された真理そのものに関することで、真理そのものは死にかけている、もしくは「あと少し」で死のうとしています。この御霊の表現は次のような説明を描いてくださいます。肉体的にそして精神的に完全に束縛されていたある奴隷の集団が立ち上がって彼らを捕らえる者から逃げました(もちろんこれはサルディスという言葉の意味で、逃亡者という意味です)。彼らは追いつかれ、あらゆる偉大で栄光な成果が失われました。彼らは再び捕らえられていないが、唯一言えるのは、彼らは逃亡したということです。御言葉によると彼らはきれいさっぱり逃げられたわけではないのですが。彼らは一度多くの自由を失ってしまったのです。
主はこう言われます、「あなたは再び捕らえられるかもしれない。戻らないように気をつけなさい。戻らないようにするためには警戒して、あなたを捉えようとしている物事に気をつけなさい。さもないとあなたはすべてを失います。今永久に存続するために、残されているものを固め、これ以上失わないように自分自身を力づけなさい。これはあなたがまだ成就していないことを成就する機会です。」しかし彼らは続けましたか。いいえ。彼らは御霊の声を心に留めることなく、もう一つの時代が捕虜になったのです。したがって神は御自分の御心を続けられるように他の人々を起こされました。神は他のすべての宗派にされたのと同じように、ルターの宗派を迂回されました。そして彼らは二度と戻ることはできません。神はさらに前進され、そして新しい時代でさらに多くの真理と少し多くの回復をもたらされなければならなかったのです。
審判
黙示録3:3、
「だから、どのように受け、聞いたのか思い起こし、それを守り、悔い改めなさい。目を覚まさないなら、わたしは盗人のように来る。わたしがいつあなたのところに来るか、あなたには決して分からない。」
この節についての別の翻訳のバージョン(ウェスト訳)を見てほしいです、
「そのためどのように受けたのか(永久な預金としての真理)、そして(真理を)どのように聞いたのかを思い出し、それ(真理)を守り、いますぐ心を変えなさい。」
この節とても明らかなのは、神は彼らに永久な預金として真理を与えられたということです。それは受け入れられ、永久に彼らのものです。彼らはそれをどう扱ったかを見てみよう、彼らはそれを尊重しましたか。彼らは尊重しました。彼らは福音全体についての基本的な真理、「義人は進行によって生きる」、「贖いは主によるもの」を与えられました。彼らは聖書の真理を聞き、それはローマの教義を撤廃して教皇の権限をなくしました。彼らは教会は贖うことはできないという真理を知りました。主の晩餐について理解しました。水による洗礼についての光を持ちました。偶像を撤廃しました。真理?これまでこれほど多くの光が人々を照らした時代はありませんでした。彼らは古い体制を完全に分解し、新しく始まり、神に自分たちを導かせ、教訓に教訓、規則に規則を加えられる十分な光を持ちました[イザヤ28:13]。彼らは真理を受けました。それを望みそして聞きました。
しかし問題は、彼らはどのようにそれを聞いたのでしょうか。彼らはそれを聞いてその上に建設したのか、それとも多くのギリシア人のようにそれを討論そして理論化の対象にしたのでしょうか[使徒17:21]。明らかに、人々は学術的な態度で神の豊かな御言葉を聞き、それを実践することはありませんでした。なぜなら真理を受けた後、神は私たちに心を新たにするように命じられました[ローマ12:2]。もしこれは神の御言葉ならば、もちろんそうなのだが、それに従わなければなりません。従わないと裁きがやって来ます。神殿の守衛が寝ているのが見つかったら、彼らは叩かれ、服は焼かれます。主はこの時代で自分たちのガードをゆめてしまった人々をどう扱われるのでしょうか。
「わたしは盗人のように来る。」
古代のサルディスでは山から急に降りて来て人々を略奪する山賊たちに悩まされました。したがって彼らは御霊が主の到来は盗人のようだと言われている意味を十分によく知りました。警戒そして準備は主の到来に備えるのに必須なことです。これは偽のブドウの木へのメッセージであることをわかっています、なぜなら主の到来はノアの日と同じように実現するからです[マタイ24:37]。助かった8人は差し迫る洪水に警戒し、そして警戒して準備したので助かりました[ヘブル11:7]。しかし不敬虔な世は押し流されました。彼らは日々義人とやりとりし、真理を聞いたが、時がすでに遅すぎるまでそれを傍に置きました。古代にいたそれらの完全に肉に属する人々は今日の名ばかりのクリスチャンたちを象徴します。彼らの生活は世のもので満ち、霊的なことを追い求める願望がなくなるまでそれらを楽しみ、まったく警戒せず、主の到来に対してまったく準備しませんでした。
称賛
黙示録3:4、
「しかし、サルディスには、わずかだが、その衣を汚さなかった者たちがいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らがそれにふさわしい者たちだからである。」
(編者注:
英文: Thou has a few names even in Sardis which have not defiled their garments; and they shall walk with Me in white; for they are worthy.)
もちろん、(編者注:英文の)「names(名)」は「people(人々)」を意味します。なぜなら使徒1:15では屋上の部屋にいた人々を、(編者注:英文の)「the number of names together were about 120 (百二十人ほどの人々が一つになって集まっていた)」と言っていました。しかし私にとって、これは人以外のことも指しているように思えます。この聖句はそれぞれの時代にすべて置かれている、私たちの主が私たちに強調して言われている真理を示しています。それは、これらの時代の教会システムは2つのブドウの木、真のブドウの木と偽のブドウの木を形成していることです。神の至高の御心でそれらは一緒に置かれ、共に教会と呼ばれます。
この時代で神は彼らを叱ってこう言われているのに注意してください、「サルディスにある教会(編者注:英文では単数形)」。「教会たち」ではなく、彼らを一緒に、「サルディスにある教会」、「私はあなたの行いを知っている...あなたは死んでいる...あなたの行いは完了していない...」と扱われていました。そして神は続けられました、「あなた(このサルディスにある教会)のところに大多数の人と違って、わずかだが正しい人々がいます。これらの人々は清潔な衣を着て歩んでいて、そして彼らは値します。」これらの人々は「完全に主を喜ばせる」歩みで生きる神の真の聖徒たちです。彼らの衣は清潔です。あの時代で人々が歩くとき、服は地面で引きずられ、ゴミと汚れをつけました。これらの人々は世の不道徳をつけないように歩き方に注意しました。彼らは御霊の中にいて、御霊の中で歩きました。彼らは聖なるもので、主の御前では傷がない者です。したがって彼らは自分たちの目的を実現し、なぜならそれはエペソ1:4で神が私たちに言われた目的なのです、「御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです」。
このはっきりと神の選民は「わずか」と示している節から、この時代について教えてきたことをはっきりと見ることができます。それは混乱した時代でした。成就されなかった時代でした。多くの方面から見ると裂かれたもので、神にほとんど完全に責められました。それは弱っていて、病気で、死にそうでした。それは肉の心を持ったプロテスタントの歴史学者たちが作り上げようとした輝かしい時代ではありませんでした。ひと目で見ればこの木は腐って枯れていて、葉っぱがすべて落ち、果実を実らず、形がいびつな、あるいは虫に食べられた実が少し地面に落ちているだけでした。しかしちょっと待ってください!よく見てみてください。その木のてっぺんに、太陽の光の中で、いくつかの「初穂」[ヤコブ1:18]、すなわち「わずか」な者たちがいて、彼らは神から生まれたので、神の御前で完全な者だとみなされます。神に満たされ、神の御言葉によって神とともに歩みます。
それらの「わずか」な者たちのために神に感謝いたします。
「彼らはわたしとともに歩む。」
それは神が言われることです。彼らの凛とした歩みに神はこの約束を与えられます。それは神が彼らのためにとっておかれた財産の一部です。もし彼らは人生の労苦と罠を神とともに歩み、栄光を神に捧げることを望むならば、神は彼らにほうびを与えられるつもりでした。神は私たちの愛の労苦を忘れられません。神は私たちが神を喜ばせようとする努力をいつも報いてくださいます。
はい、彼らは世界の中を歩いたが、その中に交じりませんでした。彼らは世界のシステムに自分たちに対して勝たせようとしたことがありませんでした。あの時代の著名な人々が政府のご機嫌を取るために御霊の意思ではなく政治の意思を選んで世界に戻ってしまったとき、これらのわずかな者たちは神の御言葉を守り、主に栄光を捧げました。今神はその見返りに彼らに栄光を与えられます。彼らは白い衣を着て、主とともに歩みます。彼らは世で主と同一視したため、今主は新エルサレムで彼らと同一視されます。そしてその同一視はなんと素晴らしいものでしょう!それは私に喜びを与え、それと同時に主の謙遜を考えたときに涙を浮かべさせます。なぜなら主はこの世のリーダーたちがしているのと同じように、聖徒たちとは異なる色の衣を召されておらず、同じものを身に纏われるのに気付く殻です。いいえ、彼らは主に似て、主も彼ら似ておられます。彼らは主に似て、ヨハネが言ったように、「彼らは主をありのまま見ます」[1ヨハネ3:2]。
彼らがそれにふさわしい者たちだからである。」これを仰られたのがどの方かに気づきましたか。それはイエス、栄光に値する方が自ら言われました。イエスは唯一御座に着いておられる方から巻物を受け取るのにふさわしい方です[黙示録5:1-10]。そして今このふさわしい方はご自分の聖徒たちに「あなたがたはふさわしい者たちだ」と言われました。ここにこの方、唯一裁くのにふさわしい方、(そしてもちろん全ての裁きは主に委ねられた[ヨハネ5:22])、そして主は言われました、「あなたがたはふさわしい者たちです」。
これらの言葉はローマ8:33bでの言葉と同じくらい驚くべきものです、
「神が私を義と認めてくださるのです。」
(ウェイ訳バージョン)その神の義の白い光の中で、イエスが甘い声でこう言われるのが聞こえます、「彼らはわたしのものです。彼らは義の者たちです。彼らはふさわしい者たちです。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩みます。」
勝利を得る者への約束
黙示録3:5、
「勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。またわたしは、その者の名をいのちの書から決して消しはしない。わたしはその名を、わたしの父の御前と御使いたちの前で言い表す。」
「勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。」これは実際は4節の繰り返しで、自分たちの衣を汚さなかったわずかな者たちについて言っています。何年か前にある格言がありましたが、この節からとったに違いありません。それは、「服を清潔に保ちなさい。」その意味は、いかがわしいことに関わってはいけないという意味で、他人は関わり、あなたは誘惑され巻き込まれる、もしくは誰かはあなたを巻き込もうとするかもしれません。しかしそれから方向を反らして遠ざけてください。今神はこのアドバイスに従った人々にほうびを与えられるつもりです。彼らは主と同じように白い衣を着せられます。ペテロ、ヤコブ、そしてヨハネは変容の山で主の衣は白く光り輝いたのを見ました[ルカ9:28-29, マルコ9:2-3, マタイ17:1-2]。それは聖徒たちが着せられる衣です。彼らの衣は輝き、とてつもなく白いものになります。
私たちは終わりの時に生きていることをあなたがたは知っています。この時代で教会たちは連合することになります。そして彼らは今でさえ世界の政治を支配していて、すぐに世界の金融をも支配することになります。もし教会の世界組織に属さなければ、売買をすることはできません。すべてを失うことになります。神に忠実でこの教会の世界的なシステムの団体の汚れにつけないように自分たちの衣を清潔に保つ者たちは物質において奪われることになります。彼らは大きい誘惑に直面し、屈せざるをえません。伝道者たちはアンチキリストの獣の組織の枠組みの中で神に仕えるのを口実に屈することになります。彼らは聖職階級制度のお世辞と甘言に屈します。そしてこれらの偽物の羊飼いに付いて行った人たちは屠殺場に入ることになります。しかし裁きの時彼らは皆裸です。それらの白い衣を与えられません。主と歩むこともできません。あなたは世界の汚れた衣を着て、悪魔と手をつなぎ、その時になって神といることを期待することはできません。今こそ目を覚まし、神がこう叫ばれる声に耳を傾ける時です、「わたしの民は、この女(組織化された宗教)の罪に関わらないように、その災害に巻き込まれないように、彼女のところから出て行きなさい。」アーメン。神は話しておられます。災害から避けるように、世界の宗教から避けなさい。世界と歩むのをやめ、悔い改めと子羊の血によって自分の衣を白くしなさい。今すぐそうしなさい、明日になるともう遅すぎるかもしれないからです。
「勝利を得る者は、その者の名をいのちの書から決して消しはしない。」
ここでふたたび御言葉のもっとも難しい部分に来ました。この聖句に対する表面的な理解はアルミニウム主義とカルヴィン主義の人たちにつけ込む余地を与えます。
アルミニウム主義者はこの聖句はヨハネ6:37-44に書かれたことを排除すると主張します、
「父がわたしに与えてくださる者はみな、わたしのもとに来ます。そして、わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはしません。
わたしが天から下って来たのは、自分の思いを行うためではなく、わたしを遣わされた方のみこころを行うためです。
わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。
わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」
ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から下って来たパンです」と言われたので、イエスについて小声で文句を言い始めた。
彼らは言った。「あれは、ヨセフの子イエスではないか。私たちは父親と母親を知っている。どうして今、『わたしは天から下って来た』と言ったりするのか。」
イエスは彼らに答えられた。「自分たちの間で小声で文句を言うのはやめなさい。
わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません。わたしはその人を終わりの日によみがえらせます。」
アルミニウム主義者は父の御心を至高なものではないものとして見なし、単なる願望の自己満足で、神は側で立っておられ、全ての人々がご自分の良きそして慈しみにあふれる賜物、そして永遠のいのちでさえもどう扱うのかを見守られる方だと思っています。
カルヴィン主義者はそのように見ません。彼らにはこの聖句は苦しみと重荷を受けている聖徒たちに大きい慰めを与えているのが見え、時がどう険悪であろうと、迫害がいかに恐ろしいものであろうと、勝利を得るものは「イエスがキリストである」ことを信じるもので、いのちの書から名前を消されることはないと思っています。この「いのちの書」は「子羊のいのちの書」のことではないと言っている人たちがいます。しかしいつものように、表面的に聖句を見ると、表面的な理解しか得られません。
神の記録からある名前が消される可能性については簡単な研究よりも多く必要とします。なぜなら今に至るまでほとんどの学者はこう結論づけている、神は新しく生まれた人々の名前を彼らが新しく生まれた時に子羊のいのちの書に入れられ、その名が除かれなければならないことがあった時、その名前のあった場所は入れられる前のように白くなります。これは実際の御言葉の教えと100パーセント真逆なものです。
これついて研究する前に、神は今現在名前が記されている記録を編集されていると教えている聖句は一つもないことを知っておいてください。これは世界が創造される前に全て完成したのです。もうすぐそれを指し示します。そして、それは永遠のいのちを受けるチャンスがあって、片方はそれを受入れそして名前が記録されたのに対して、もう片方は拒否したため名前が記録されなかった2つのグループに私たちが関わっているという話でもありません。実際、多くの人々は新しく生まれなかったにもかかわらず、永遠のいのちに入ることになると聖書は教えています。これは変に聞こえるかもしれないが、真実であることは確かです。世界が創造される前に名前がそこに記録され、何があっても名前が消されることはないグループがあるということについても示します。一方で、世界が創造される前に名前がそこに記録されたが、名前が取り除かれるというグループもあることを示します。
まず、「子羊のいのちの書」と「いのちの書」は違うものだという主張は根拠がないものです。いのちの書は子羊のいのちの書、もしくはキリストのいのちの書、さらにはあなたの書、生きる人の書(編者注:Book of the Living、新改訳聖書ではいのちの書と訳された)とも呼ばれます。名前のみがそこに記されます。
黙示録13:8、
「地に住む者たちで、世界の基が据えられたときから、屠られた子羊のいのちの書にその名が書き記されていない者はみな、この獣を拝むようになる。」
黙示録17:8、
「あなたが見た獣は、昔はいたが、今はいません。やがて底知れぬ所から上って来ますが、滅びることになります。地に住む者たちで、世界の基が据えられたときからいのちの書に名が書き記されていない者たちは、その獣が昔はいたが今はおらず、やがて現れるのを見て驚くでしょう。」
黙示録20:12-15、
「また私は、死んだ人々が大きい者も小さい者も御座の前に立っているのを見た。数々の書物が開かれた。書物がもう一つ開かれたが、それはいのちの書であった。死んだ者たちは、これらの書物に書かれていることにしたがい、自分の行いに応じてさばかれた。
海はその中にいる死者を出した。死とよみも、その中にいる死者を出した。彼らはそれぞれ自分の行いに応じてさばかれた。
それから、死とよみは火の池に投げ込まれた。これが、すなわち火の池が、第二の死である。
いのちの書に記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた。」
他の書物も言及されたが、名前が書かれている本についてはひとつしか言及されていないのが分かります。黙示録では「子羊のいのちの書」もしくは「いのちの書」と呼ばれます。
さてこの書物はどこにあるのですか。
ルカ10:17-24、
「さて、七十二人(編者注:英語では70人)が喜んで帰って来て言った。『主よ。あなたの御名を用いると、悪霊どもでさえ私たちに服従します。』
イエスは彼らに言われた。『サタンが稲妻のように天から落ちるのを、わたしは見ました。
確かにわたしはあなたがたに、蛇やサソリを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けました。ですから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。
しかし、霊どもがあなたがたに服従することを喜ぶのではなく、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。』
 ちょうどそのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。『天地の主であられる父よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そうです、父よ、これはみこころにかなったことでした。
 すべてのことが、わたしの父からわたしに渡されています。子がだれであるかは、父のほかはだれも知りません。また父がだれであるかは、子と、子が父を現そうと心に定めた者のほかは、だれも知りません。』
それからイエスは、弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。『あなたがたが見ているものを見る目は幸いです。あなたがたに言います。多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たいと願ったのに、見られず、あなたがたが聞いていることを聞きたいと願ったのに、聞けませんでした。」
いのちの書は天にあり、そして大きな白い御座の裁きの時に現れるに違いありません。それらの聖句で、イエスは彼らのは天に記されたと言われました。彼らはいのちの書に記され、なぜならそこが名前が記される場所です。イエスは70人に言われたが(17節)、それと同時に12人使徒にも言われました(23節)。彼らは皆悪魔がイエスの御名に屈したことに喜びました。キリストの返答は、「霊どもがあなたがたに服従することを喜ぶのではなく、あなたがたの名が天(いのちの書)に書き記されていることを喜びなさい。」ここでユダもイエスの御名で悪魔を追い払っていた人々の中の一員であることに気づきます。しかし私たちは彼は悪魔で、滅びの子であることを知っています。
ヨハネ6:70-71、
「イエスは彼らに答えられた。「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかし、あなたがたのうちの一人は悪魔です。」
イエスはイスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのであった。このユダは十二人の一人であったが、イエスを裏切ろうとしていた。」
ヨハネ17:12、
「彼らとともにいたとき、わたしはあなたが下さったあなたの御名によって、彼らを守りました。わたしが彼らを保ったので、彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。それは、聖書が成就するためでした。」
ヨハネ13:10-11, 18、
「イエスは彼に言われた。『水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです。あなたがたはきよいのですが、皆がきよいわけではありません。』
イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、『皆がきよいわけではない』と言われたのである。わたしは、あなたがたすべてについて言っているのではありません。わたしは、自分が選んだ者たちを知っています。けれども、聖書に『わたしのパンを食べている者が、わたしに向かって、かかとを上げます』と書いてあることは成就するのです。」
 もし言葉に意味があるのならば、私たちはユダはイエスによって選ばれたが(ヨハネ13:18)、きよい者ではなかった(ヨハネ13:10-11)ということを認めなければなりません。ユダも父なる神がイエスに与えられた者でした[ヨハネ17:12]。(「選ぶ」と「与える」はモーセとファラオ、ヤコブとエサウについて描写した時、全く平行なものだったことに注意してください。エサウとファラオは予知された者たちだったが、御怒りを受けるようにあらかじめ定められ、その一方モーセとヤコブの結末は栄光を得ることでした。1ペテロ2:8-9aでは堕落者と選民の両方についてこう言及しています、「彼らがつまずくのは、みことばに従わないからであり、また、そうなるように定められていたのです。しかし、あなたがたは選ばれた種族」。)ペンテコステの前、ユダは12人の中の一員であり、彼らのミニストリーにも加わっていました。
使徒1:16-17、
「『兄弟たち。イエスを捕らえた者たちを手引きしたユダについては、聖霊がダビデの口を通して前もって語った聖書のことばが、成就しなければなりませんでした。ユダは私たちの仲間として数えられていて、その務めを割り当てられていました。」
ユダが12人の中で得てそして失った務めは他の11人のミニストリーに劣るものではなく、異なった悪魔のミニストリーが他のミニストリーの中に混ざったものでもありません。
使徒1:25、
「ユダが自分の場所へ行くために離れてしまった、この奉仕の場、使徒職に就くためです。」
 ユダ、ひとりの悪魔が、神が与えられた御霊のミニストリーを失い、自殺して自分の場所に行きました。彼の名はいのちの書にさえありました。しかし彼の名は消されました。
ユダについて語り続ける前に、旧約聖書に戻って神がそこで同様なことをなさったのを見てみましょう。創世記35:23-26で、ヤコブの息子は12人で彼らの名前は以下です:ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ゼブルン、ヨセフとベニヤミン、ダンとナフタリ、ガドとアシェル。これらの12人の息子の子孫はイスラエルの12部族となり、ヨセフのみが部族の名前を与えられず、それは13の部族になることは神の御心であるからで、ヨセフの2人の息子たちに部族の名前が与えられ、13の部族となりました。もちろん、こうすることは必要だとあなたがたはわかっていて、レビは神の祭司となるために分別されたからです。したがって、イスラエルがエジプトを離れ、荒野で神は彼らに幕屋を与えられた時、レビ部族はルベン、シメオン、イッサカル、ユダ、ゼブルン、ベニヤミン、ダン、ナフタリ、ガド、アシェル、エフライム、マナセといった12部族に奉仕していました。彼らの軍団長の名前の順番は民数記10:11-28に記されています。ヨセフとレビについては言及されていません。しかし黙示録7:4-8を見てみましょう、そこには「それは十四万四千人で、イスラエルの子らのあらゆる部族の者が印を押されていた」と書かれていて、それらをこう呼んでいます:ユダ、ルベン、ガド、アシェル、ナフタリ、マナセ、シメオン、レビ、イッサカル、ゼブルン、ヨセフ、ベニヤミン。レビとヨセフの名前がついた部族のが戻ってきたが、ダンとエフライムは見つかりませんでした。
問題は、なぜその2つの部族は消されてしまったのでしょうか。答えは申命記29:16-20にありました、
「事実、あなたがた自身、私たちがエジプトの地に住んでいたこと、また私たちが異邦の民の中を通って来たことをよく知っている。
また、あなたがたは、彼らのところにあった忌むべきもの、すなわち木や石や銀や金の偶像を見た。
万が一にも、今日その心が私たちの神、主を離れて、これらの異邦の民の神々のもとに行って仕えるような男、女、氏族、部族があなたがたのうちにあってはならない。あなたがたのうちに、毒草や苦よもぎを生じる根があってはならない。
こののろいの誓いのことばを聞いたとき、心の中で自分を祝福し、『私は自分の頑なな心のままに歩んでも大丈夫だ』と言うなら、潤った者も渇いた者も等しく滅びることになる。主はその者を決して赦そうとはされない。むしろ、そのとき、主の怒りとねたみがその者に対して燃え上がり、この書に記されている、すべてののろいの誓いがその者の上にのしかかり、主はその者の名を天の下から消し去られる。」
 ここで偶像崇拝と霊的な淫行への呪いが述べられました。偶像崇拝を行った部族の名は消されることになります。そして偶像崇拝によって名が消されたその2つの部族の歴史は1列王12:25-30にあります、
「ヤロブアムはエフライムの山地にシェケムを築き直し、そこに住んだ。さらに、彼はそこから出て、ペヌエルを築き直した。
ヤロブアムは心に思った。「今のままなら、この王国はダビデの家に帰るだろう。
この民が、エルサレムにある主の宮でいけにえを献げるために上ることになっているなら、この民の心は彼らの主君、ユダの王レハブアムに再び帰り、彼らは私を殺して、ユダの王レハブアムのもとに帰るだろう。」
そこで王は相談して金の子牛を二つ造り、彼らに言った。「もうエルサレムに上る必要はない。イスラエルよ。ここに、あなたをエジプトから連れ上った、あなたの神々がおられる。」
それから彼は一つをベテルに据え、もう一つをダンに置いた。
このことは罪となった。民はこの一つを礼拝するためダンまで行った。」
 ホセア4:17、
「エフライムは偶像にくみしている。そのなすに任せるがよい。」
偶像崇拝への罰はその部族の名が「天の下から消し去られる」に特に注意してください。それは「天で」消されると言っておらず、天の下から消し去られると言っています。実にその通りで、なぜなら今イスラエルはパレスチナに戻り、そしてすぐに主は144000人に印を押されます。しかしその数字の中にダンとエフライムはありません。
黙示録7:4-8、
「私は、印を押された者たちの数を耳にした。それは十四万四千人で、イスラエルの子らのあらゆる部族の者が印を押されていた。
ユダ族から一万二千人が印を押され、ルベン族から一万二千人、ガド族から一万二千人、
アシェル族から一万二千人、ナフタリ族から一万二千人、マナセ族から一万二千人、
シメオン族から一万二千人、レビ族から一万二千人、イッサカル族から一万二千人、ゼブルン族から一万二千人、ヨセフ族から一万二千人、ベニヤミン族から一万二千人が印を押されていた」
(ダンとエフライムがないのに注意してください。)
これとダニエル12:1を見てください、そこでは第六の封印と大艱難もしくはヤコブの苦難の間、印を押されるこれらの十四万四千人を指しています。
「その時、あなたの国の人々を守る大いなる君ミカエルが立ち上がる。国が始まって以来その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。しかしその時、あなたの民で、あの書に記されている者はみな救われる。」
しかし、この迫害の期間が終わると、(至福千年の間、)エゼキエル48:1-8、そして22-29にあるように、部族は再び神の順序に戻ったのが見えます。しかし、エフライムとダンが偶像崇拝を始めた時、彼らは死に、そしてそれらの部族は再び認識されることはありませんでした。エルサレムが破壊された時、全ての部族に関する記録が失われ、誰もが自分がどの部族に属しているのかを確信して言うことはできないことは認識しています、しかし神はご存知です。イスラエルをパレスチナに連れ戻されているあの偉大なる神はすべての真のイスラエル人の部族をご存知で、集まった十四万四千人の中に、ダンとエフライムはその中にありません。
ここでイスラエルの部族が記されています。
エゼキエル48:1-8,22-29、
「部族の名は次のとおりである。北の端からヘテロンの道を経てレボ・ハマテに至り、北にハマテを望む、ダマスコの境界のハツァル・エナンまで──東側から西側まで──これがダンの分である。
ダンの地域に接して、東側から西側までがアシェルの分。
アシェルの地域に接して、東側から西側までがナフタリの分。
ナフタリの地域に接して、東側から西側までがマナセの分。
マナセの地域に接して、東側から西側までがエフライムの分。
エフライムの地域に接して、東側から西側までがルベンの分。
ルベンの地域に接して、東側から西側までがユダの分である。
ユダの地域に接して、東側から西側までが...
君主の所有する地区の中にあるレビ人の所有地と、町の所有地を除いて、ユダの地域とベニヤミンの地域との間にある部分は、君主のものである。
なお、残りの部族は、東側から西側までがベニヤミンの分。
ベニヤミンの地域に接して、東側から西側までがシメオンの分。
シメオンの地域に接して、東側から西側までがイッサカルの分。
イッサカルの地域に接して、東側から西側までがゼブルンの分。
ゼブルンの地域に接して、東側から西側までがガドの分。
その境界線は、ガドの地域の南側を延び、タマルからメリバテ・カデシュの水、さらにエジプト川に沿って大海に至る。...」
もう一つの例としてあげられるのが、イスラエルがエジプトを離れカナンの地に向かう時です。神がその時代での目的はイスラエルが御自分に仕えられるように、彼らを連れ出され、そして入るのを導かれることです。したがって彼らがエジプトを離れた時、彼らはいけにえの子羊の血の下から出て、紅海の水による洗礼を経験し、全能の奇跡を享受し、マナを食べ、岩から出た水を飲み、そして明らかな外的の祝福と表しを平等に受けました。しかし、モアブにきた時、バアル・ペオルの祭りに加わった者たちは死にました。彼らのしかばねは荒野で倒れました、なぜならそこで彼らは神の御言葉を拒絶し、そして離れたのです。さて、ヘブル6:1-9で言われたことはペルガモ時代でも注意深く言われました。あなたは一部の御言葉にのみ従うことはできません、すべての御言葉を受け入れるべきです。神の様々なことにほぼ百パーセント加わっているように見える人々はいます。彼らはユダのようです。イエス以外誰もユダはどのような人なのかを知る人がいませんでした。したがって、時が来るとユダはイスラエルがバアル・ペオルで行ったのと同じことをしました。彼は偽のブドウの木、すなわち御言葉に反し、キリストに反する宗教の金銭的、政治的組織に加わることを決め、そしてそうしました。彼は騙されました!他の十一人は騙されませんでした。彼らは騙されることはありません、なぜなら彼らは選民だからです。したがってユダが離れて主に背いた時、彼の名はいのちの書から消されました。[黙示録22:19]。
いのちの書に記された名前たちは真の神と真の神に対する崇拝を中心とする当時の宗教団体の一部分だったことに気づきます。しかしながら彼らは真理(御言葉)の通りに崇拝を行いませんでした。ユダのように彼らはずっとついていきませんでした。ユダはどのように神に選ばれたのかをみてください。彼は真理のもとで教えられました。彼は奥義の知識を分けられました。力のあるミニストリーを持ち、イエスの御名によって病人を癒し、悪魔を追い払いました。しかし、決着をつける時になると、彼は金銭と政治的な力のために主を裏切りました。彼はペンテコステで神の御霊を受けませんでした。彼は御霊が欠けていました。間違えないでください。真に聖霊による洗礼を受け、キリストの身体に入り、満ち満ちた聖霊を受けた者はいつまでも御言葉の中にいます。それが聖霊の洗礼を受けた証拠です。ユダは失敗しました。多くの人々はそこで失敗しました。そして彼らが御言葉の中にい続けることができなくなった時、彼らの名前はいのちの書から消されます。
この名前をいのちの書から消すことをさらにはっきりさせるために、モーセの時代のイスラエルに遡ってみるべきです。
出エジプト32:30-34、
「翌日になって、モーセは民に言った。『あなたがたは大きな罪を犯した。だから今、私は主のところに上って行く。もしかすると、あなたがたの罪のために宥めをすることができるかもしれない。』
そこでモーセは主のところに戻って言った。『ああ、この民は大きな罪を犯しました。自分たちのために金の神を造ったのです。
今、もしあなたが彼らの罪を赦してくださるなら──。しかし、もし、かなわないなら、どうかあなたがお書きになった書物から私の名を消し去ってください。』
主はモーセに言われた。『わたしの前に罪ある者はだれであれ、わたしの書物から消し去る。しかし、今は行って、わたしがあなたに告げた場所に民を導け。見よ、わたしの使いがあなたの前を行く。だが、わたしが報いる日に、わたしは彼らの上にその罪の報いをする。』」
ここではっきりと、時がなくなろうとするとき、いのちの書からすでにもしくはこれから名前が消されると書かれています。この特別な例では偶像崇拝が原因でしたが、ダンとエフライムも同じように金の子牛を崇拝認め部族としての権利を失いました。偶像を崇拝した者は皆いのちの書から名前が消されました。
イスラエルが火の柱の中の神の導きを拒絶し、そして金の子牛を崇拝するようになったとき、彼らの名前はいのちの書から消されました。出エジプト32:33 (わたしの前に罪ある者はだれであれ、わたしの書物から消し去る。) 偶像崇拝に振り向くといのちの書から名前が消される罰を受けるなら、イスラエルがイエス・キリストをメサイアとして受け入れることを拒否したとき、確実に同様な厳しい処罰を受けます。絶対にそうです。
詩篇69においてイエスが屈辱を受けることについて書かれました、21-28、
「彼らは私の食べ物の代わりに毒を与え私が渇いたときには酢を飲ませました。
彼らの前の食卓は罠となり栄えるときに落とし穴となりますように。
彼らの目が暗くなり見えなくなりますように。その腰がいつもよろけますように。
あなたの憤りを彼らの上に注いでください。燃える怒りを彼らに追いつかせてください。
彼らの宿営が荒れ果てその天幕から住む者が絶えますように。
彼らはあなたが打たれた者を迫害しあなたに刺し貫かれた者の痛みを言いふらします。
どうか彼らの咎に咎を加え彼らをあなたの義のうちに入れないでください。彼らがいのちの書から消し去られますように。正しい者と並べて彼らが書き記されることがありませんように。」
ユダヤ人がイエスを拒絶すると神は文字通り彼らから異邦人に振り向かれました。
使徒13:46-48、
「そこで、パウロとバルナバは大胆に語った。「神のことばは、まずあなたがたに語られなければなりませんでした。しかし、あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者にしています。ですから、見なさい、私たちはこれから異邦人たちの方に向かいます。
主が私たちに、こう命じておられるからです。『わたしはあなたを異邦人の光とし、地の果てにまで救いをもたらす者とする。』」異邦人たちはこれを聞いて喜び、主のことばを賛美した。そして、永遠のいのちにあずかるように定められていた人たちはみな、信仰に入った。」
これはイスラエルの部族からはいのちの書に名前が留まる者がもはやいないと行っているわけではありません。なぜなら彼らの多くは(大勢ではないが)異邦人の教会時代の中で、選びの原則の元にイエス・キリストの身体の中に入り、彼らの名前はいのちの書に確実に留まっていることを示します。また、これから示すが、第五つ目の封印によると、大勢の殉教したユダヤ人は主から白い衣と永遠のいのちを与えられます。さらに、十四万四千人は主が来られる時に印を受け、彼らの名前も消されていないことを示します。しかし、詩篇69章でははっきりとキリストの邪悪なあるいは罪深い拒絶者及び主の民の破壊者の名前が消されると言っています。
イスラエル(神の選民)の大部分はイエスを拒絶したことによっていのちの書の中における権利を失ってしまうのと同じように、大部分の異邦人教会も御言葉を拒絶し、世界教会一致促進運動、すなわち獣のために建てられた像に加わると、罪の咎めを受けて結果的に名前がいのちの書から消されることになります。
ここでもう一点見るものがあります。大きな白い御座の裁きの時、人々の分別が行われます。いのちの書は開かれ、もう一つの書も開かれます。
マタイ25:31-46、
「人の子は、その栄光を帯びてすべての御使いたちを伴って来るとき、その栄光の座に着きます。
そして、すべての国の人々が御前に集められます。人の子は、羊飼いが羊をやぎからより分けるように彼らをより分け、
羊を自分の右に、やぎを左に置きます。
それから王は右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。
あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、
わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。』
すると、その正しい人たちは答えます。『主よ。いつ私たちはあなたが空腹なのを見て食べさせ、渇いているのを見て飲ませて差し上げたでしょうか。
いつ、旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せて差し上げたでしょうか。
いつ私たちは、あなたが病気をしたり牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』
それから、王は左にいる者たちにも言います。『のろわれた者ども。わたしから離れ、悪魔とその使いのために用意された永遠の火に入れ。
おまえたちはわたしが空腹であったときに食べ物をくれず、渇いていたときに飲ませず、
わたしが旅人であったときに宿を貸さず、裸のときに服を着せず、病気のときや牢にいたときに訪ねてくれなかった。』
すると、彼らも答えます。『主よ。いつ私たちは、あなたが空腹であったり、渇いていたり、旅人であったり、裸でいたり、病気をしていたり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』
すると、王は彼らに答えます。『まことに、おまえたちに言う。おまえたちがこの最も小さい者たちの一人にしなかったのは、わたしにしなかったのだ。』
こうして、この者たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」」
黙示録20:11-15、
「また私は、大きな白い御座と、そこに着いておられる方を見た。地と天はその御前から逃げ去り、跡形もなくなった。
また私は、死んだ人々が大きい者も小さい者も御座の前に立っているのを見た。数々の書物が開かれた。書物がもう一つ開かれたが、それはいのちの書であった。死んだ者たちは、これらの書物に書かれていることにしたがい、自分の行いに応じてさばかれた。
海はその中にいる死者を出した。死とよみも、その中にいる死者を出した。彼らはそれぞれ自分の行いに応じてさばかれた。
それから、死とよみは火の池に投げ込まれた。これが、すなわち火の池が、第二の死である。
いのちの書に記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた。」
正しい人々と正しくない人々がこの裁きに入ります。そのように書かれています。これらの正しい人々は花嫁ではありません、なぜなら花嫁は主と共に座って裁きを行うからです。
1コリント6:2-3、
「聖徒たちが世界をさばくようになることを、あなたがたは知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるのに、あなたがたには、ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか。
あなたがたは知らないのですか。私たちは御使いたちをさばくようになります。それなら、日常の事柄は言うまでもないではありませんか。」
黙示録3:21、
「勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせる。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。」
見てください、花嫁は主と共に御座の中にいます。彼女は世界を裁くならば、彼女は裁きで主と共に座らなければなりません。それは実にダニエルが見たことです。
ダニエル7:9-10、
「私が見ていると、やがていくつかの御座が備えられ、『年を経た方』が座に着かれた。その衣は雪のように白く、頭髪は混じりけのない羊の毛のよう。御座は火の炎、その車輪は燃える火で、
火の流れがこの方の前から出ていた。幾千もの者がこの方に仕え、幾万もの者がその前に立っていた。さばきが始まり、いくつかの文書が開かれた。」
見てください、これは同じ場面です、主に仕える幾千もの者は花嫁です、なぜなら夫に仕えるのは妻以外に誰がいるのですか。
すると疑問が生じるのだが、なぜこれらの正しい人々は裁きの中で現れるのですか。それはその他に出現できるところがないからです。なぜなら復活は2回しかなく、第1回の復活に加わるのに十分値しないため、彼らは第2回の復活、すなわち復活して裁かれる時に現れなければなりません。第1回の復活に値する人々(花嫁)は裁きの中に入りません。ヨハネ5:24、「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち(信じる者はすでに永遠のいのちを受け取っていて、すでにその人の財産となっていることを意味します)、さばきにあうことがなく(裁きの中に入ることはない、というのが真意です)、死からいのちに移っています(永遠に)。」しかし注意してください、イエスはもう一つのグループの人々はある特定の復活で永遠のいのちを受け取ることを既にご存知のはずです。彼らは復活でそれを受け取ります、花嫁の一員としてあらかじめ受け取っていません
ヨハネ5:28-29、
「このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。」
私たち皆ヨハネ5:28-29は携挙ではないことを知っています。なぜならキリストの中で死んだ者のみがその時墓から蘇り、まだ地上にいる生きている花嫁に加わります。
1テサ 4:16-17、
「すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」
しかしヨハネ5:28-29ではすべての者は墓から蘇ると言っています。これは黙示録20:11-15で言われているのとまさに同じ復活で、死んだ者たちは主の前に連れて行かれ、自分たちの行いによって裁かれ、そして名前がいのちの書に書かれていない者たちは火の湖に投げ込まれます。
ここでなぜ彼らは裁きで永遠のいのちを与えられなければならないのかという問題に直面します。なぜなら使徒書簡ではキリストの御霊を持たないと滅亡するとはっきりと指し示しているように見えるからです。そのように見えるが、私たちはイエスの言葉を疑うべきではなく、主はいのちの書の中には全体的な復活の前もしくは後に永遠のいのちを受け取る者がいると明白に示されています。
パウロはこの真理を避けておらず、なぜなら彼はピリピ3:11ではっきりこう言いました、
「何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」
この声明はとても独特です。望んでいようといまいと、私たちはみんな一度復活するのは私たちみんな知っていることです。皆復活します。そのためパウロは、「何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」と言っているはずがありません。事実上、彼はそう言っているのではありません。その意味は、「何とかして死者の中からの復活より前の復活に達したいのです。」これは普遍的なもしくは2回目の復活に達したいのではなく、第1回目の復活に達したいということです。この点についてはこう言及されています、「この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対して、第二の死は何の力も持っていない。彼らは神とキリストの祭司となり、キリストとともに千年の間、王として治める。」[黙示録20:6] 第一の復活は第二の死と関わりがありません。それは何千年もの末に残りの死んだ者たちがみなよみがえった時のことです。その日、永遠のいのちを得る者もいれば、第二の死に落ちる者もいます。第二の復活で永遠のいのちを与えられる者をあてる必要はありません。彼らは親切と善良を持って「兄弟たち」に接していた人々だと私たちは教わりました[マタイ25:40]。復活して火の湖に投げ込まれるのは「兄弟たち」をひどく扱った人々です。これは神のみ言葉であるため、単にこれを受け入れるだけで良いのです。ここで論争すべき点はなく、単に事実が述べられただけです。
さらにはっきりさせるために、マタイ25:31-46の言葉に特に注意してください。それは羊飼いが文字通り羊をやぎより分けると言っているのではなく、羊飼いは羊をやぎより分けるようにと言っています。白い御座の裁きのこの特別な時、羊はそこにいません。羊は主の囲いの中にいて、彼らは主の声(御言葉)を聞きそして主について行きました。彼らは既に永遠のいのちを持っているため裁きに入ることはできません。しかし永遠のいのちを持たない者は裁きの中にいます。彼らは永遠のいのちの中に入ることを許されます。しかし何をもって永遠のいのちの中に入ることを許されるのでしょう。決して花嫁のように既に主のいのちを持っているからではなく、彼らは主の兄弟たちに親切をしたため受取ったのです。彼らは主の兄弟たちではありません。主の兄弟たちはイエスとともに共同相続します。彼らは何も相続せず、いのちのみ受け取ります。主とともに御座などもともに享受しません。彼らの名前はいのちの書にあるはずで、消されません。今彼らの神の人々への愛のために彼らは承認され救われました。彼らは神の子たちに仕え、助けたに違いありません。ニコデモやガマリエルのように困難な時に子たちを支持したかもしれません。
もしこれが「復興」のように見えるならば、気をつけてください、悪人に復興はなく、火の湖に投げ込まれます。破壊される人々の名前は一度はいのちの書に名前が記された者も多かったが、彼らは自分たちの時代における生ける御言葉の表し(生ける書信)である神の人々を尊敬しなかったため名前を消されました。
この点についてはっきりと理解すべきです。それらはユダヤ人を保護して助けたことで裁きの後に至福千年に入った国家を指しているのではありません。それはとても明白で、なぜならこれらの聖句の結論こうだからです。「こうして、この者たち(悪人)は永遠の刑罰(火の湖)に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。二つの裁きが開かれ、悪人が火の湖に投げ込まれると記載されているところはありません。獣と偽預言者のみが大患難の末に裁かれます。いいえ、これは白い御座の裁きで、彼らは本に書かれたことに基づいて裁かれます。
第二の復活で、第五の封印が示している「祭壇の下の魂たち」[黙示録6:9-11]は白い衣を与えられ、そしてもちろん永遠のいのちも与えられる、でないと白い衣の意味がないのです。
「子羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てた証しのゆえに殺された者たちのたましいが、祭壇の下にいるのを見た。
彼らは大声で叫んだ。『聖なるまことの主よ。いつまでさばきを行わず、地に住む者たちに私たちの血の復讐をなさらないのですか。』
すると、彼ら一人ひとりに白い衣が与えられた。そして、彼らのしもべ仲間で、彼らと同じように殺されようとしている兄弟たちの数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいるように言い渡された。」
祭壇の下にいる魂にイエスのために証ししたことで殺された人はいないのに特に気をとめてください。彼らはアンチパスのように主の御名をしっかり守ることで殺された訳ではありませんでした。彼らは新しく生まれ、永遠のいのちを自分たちの財産にしたた者ではありません。彼らは復活していのちを受け取るのは彼らが御言葉を守ったからです。また、彼らは復讐を叫び求めることに注意してください。彼らは花嫁として選ばれる人員であるはずがありません。花嫁は振り向いて、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」と叫びます。彼らはユダヤ人です。そのはずで、なぜなら彼らは五つ目の封印にいて、四つ目の封印で異邦人の花嫁は携挙の中に入って去ったからです。したがってこれらのユダヤ人は主の御霊から生まれていません。彼らはイエスはメサイアであることすら信じていません。しかし彼らは異邦人のために神によって盲目とされました[ローマ11:7-11, 25; 使徒15:14]。彼らはイエスを受け入れなかったが、神は彼らに永遠のいのちを与えられました。なぜなら彼らは自分たちが知っているすべての御言葉に忠実で、そのために命を捧げたためです。ヒトラー、スターリンなどの手によって多くの人々が亡くなり、これからも同様に亡くなる人が現れます。
第二の復活で5人の愚かな処女たちが現れます(新改訳2017では「娘たち」と訳しています)[マタイ25:1-12]。彼女たちは処女であることに気づいてください。彼女たちは聖霊を持たないので、花嫁に加わることができないが、一方で5人の油を持つ賢い処女たちは花嫁に加わりました。しかしこれらの人々は自らを分別し、神を愛する人々で、彼女たちは知っている範囲内の御言葉の中にとどまることを努め、主の働きを助けたので、最後の時に現れます。彼女たちは至福千年を逃すのだが、これらのことから、至福千年は私たちが考えるもしくは信じるのよりもはるかに重要で素晴らしいことであるのを分かり始めることができます。
これらの人々はいのちの書に名前が記され、そこに留めました。しかし留めなかったのはどんな者たちでしょうか。彼らは世界教会組織に属し、花嫁に敵対する者で、名前が除かれます。彼らは手放されます。彼らは火の湖の中に投げ込まれます。
これまでの総括をする前に、さらに一歩進んで討論しましょう。まず第一に神が選びにおける御心を私たちは確信しています。それは神御自身の御心です。神の御心はご自分に似る人造られることで、すなわち御言葉の花嫁です。彼女は世界の基が据えられる前から神の中で選ばれました[エペソ1:4]。彼女は地上の各時代で現れる前にあらかじめ知られ、そして愛されました[ローマ8:29-30, 2テサ2:13-14]。彼女は主の御血によって贖われ、罪に定められることは決してありません[ローマ8:1, ヨハネ3:18, 5:24]。彼女は決して裁きに現れることはなく、なぜなら彼女は罪を負うことはできないからです。
ローマ4:8、
「幸いなことよ、主が罪をお認めにならない人。」
しかし実際に彼女は主とともに主の裁きの御座に座り、世界そして御使いたちでさえ裁くのです[1コリント6:2-3]。彼女の名前(彼女の中のメンバーのひとりひとり)は世界の基が据えられる前から子羊のいのちの書の一章に記されました。2番目に、もうひとつのグループがあります。彼らの名前もいのちの書にあり、第二回目の復活で現れます。そのような人々はマタイ25章で言われているような愚かな処女たちと義人たちです。このグループは獣を拝まず、もしくはアンチキリストの組織に関与せずに、花嫁ではなく、新しく生まれてさえいないが、信仰のために亡くなります。しかし彼らは第二の復活で現れ、そして永遠のいのちの中に入ります。3番目はエジプトから出るイスラエル人たちで見られたような境界をさまようクリスチャンたちです。彼らの名はいのちの書に記され、働きは書物に書かれます。彼らは御言葉に従わず、御霊を持たないため、彼らの間でしるしと奇跡があるにも関わらず、いのちの書から名前が除かれます。このグループの中にはユダのような御霊を全く持たないが、敬虔で、いのちの中で表しがあり、書物に記されるが主の中に選ばれない者たちがいます。バラムのような人もそのグループにいます。4番目、そして最後は、初めからもしくは決っしてその名前が書物に記されない者たちです。
そのような人々は黙示録13:8そして17:8で見つけることができます、
「地に住む者たちで、世界の基が据えられたときから、屠られた子羊のいのちの書にその名が書き記されていない者はみな、この獣を拝むようになる。
あなたが見た獣は、昔はいたが、今はいません。やがて底知れぬ所から上って来ますが、滅びることになります。地に住む者たちで、世界の基が据えられたときからいのちの書に名が書き記されていない者たちは、その獣が昔はいたが今はおらず、やがて現れるのを見て驚くでしょう。」
イエスはある特定なグループの人々はとある自分の名前のもとで来ている者を受け入れると言われました。その者こそがアンチキリストです。そしてそれは実に黙示録13:8そして17:8で言われていることです。これらの人々は神によってあらかじめ定められているが、選びのためではありません。そしてこのグループの中にファラオのような人がいます。
ファラオについては、こう言われています、
「このことのために、わたしはあなたを立てておいた。滅ぼされるはずの怒りの器」
ローマ9:17,22
これらの人の中にいのちの記録の中には記されていません。彼らには記録が記されないとは言っていません。彼らには何らかの記録が記されているのは確かだが、いのちの記録の中には記されていません。彼らの存在意義はこの本の他の部分でも少し言及したが、2つの聖句をさらに加えましょう。
箴言16:4、
「すべてのものを、主はご自分の目的のために造り、悪しき者さえ、わざわいの日のために造られた。」
ヨブ21:30、
「悪人がわざわいの日を免れ、激しい怒りの日から連れ出されるというのか。」
この部分の御言葉は人の心では意味を掴むのが難しいため、信仰によって受け入れそして信じられるなければなりません。私が話したことで傷つく人は現れます。なぜなら彼らは神を神にする神の主権を理解することができず、そして主は神であるため、誰もが主の忠告を無効にしたり、主の御心と目的を撤廃したりすることはできません。しかし、主は全能であるため、万物を管理され、そして御自分の全ての創造物で御自分の御心を行われます。なぜなら万物が主の御心のゆえに創造されたのです[黙示録4:11]。したがって、パウロが話したように、「人よ。神に言い返すあなたは、いったい何者ですか。造られた者が造った者に「どうして私をこのように造ったのか」と言えるでしょうか。陶器師は同じ土のかたまりから、あるものは尊いことに用いる器に、別のものは普通の器に作る権利を持っていないのでしょうか。」主は創造という土台の元だけでこのようにされることができ、私たちは否定することはできません。しかし主はさらに一歩進まれ、ローマ14:7-9において私たちはイエスが全世界の代価を支払われた動かぬ証拠を見つけました。したがって主はご自分の御心で御自分の人を扱われることができます。
「私たちの中でだれ一人、自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もいないからです。
私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。
キリストが死んでよみがえられたのは、死んだ人にも生きている人にも、主となるためです。」
(ここでは相互の関係ではなく、所有権について言っています。)
このことはヨハネ17:2でも言われています、
「あなたは子に、すべての人を支配する権威を下さいました。それは、あなたが下さったすべての人に、子が永遠のいのちを与えるためです。」
もし神は全てのことをご存知であると認識できるなら、主は知恵と正義において完全な方であると受け入れなければなりません。この選びと叱責の計画は神が全ての時代において表される知恵であり、エペソ1:3-11で言われているように、
「私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。
神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。
それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。
このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。
この恵みを、神はあらゆる知恵と思慮をもって私たちの上にあふれさせ、
みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。その奥義とは、キリストにあって神があらかじめお立てになったみむねにしたがい、
時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです。
またキリストにあって、私たちは御国を受け継ぐ者となりました。すべてをみこころによる計画のままに行う方の目的にしたがい、あらかじめそのように定められていたのです。」
したがってもし神はご自分の花嫁の名前であるため消すことができない名前を子羊のいのちの書の1章に置かれることを計画されたならば、私たちはそれを受け入れなければなりません。もしいのちの書の記録に名前が記されるが、神の予知において彼らは堕落しそして名前が除かれるとも言うなら私たちはそれを受け入れなければなりません。もし名前が一度もいのちの記録の中に記されたことがないのならば、私たちもそれを受け入れなければなりません。そしてもし神の選民で御自分の兄弟たちに対して善良と優しさそして正義をもって接したことだけで白い御座の裁きの後に永遠のいのちを得られる人がいるなら、私たちは受け入れるべきです。だれが主の心を知り、主に助言するというのですか[1コリント2:16]。むしろ信仰を持って私たちの父なる主に従順に生きるべきです。
このテーマをさらにはっきり理解するためには各時代の教会の立場からそれに接するのが賢いやり方です。これまでに私たちは名前が消されるという角度から考えてきました。今個人ではなく教会にいる各宗派が象徴するものを考えていきたいです。そうするために、各時代の教会を小麦と照らし合わせていきたいと思います。一粒の麦の種子はある一定な過程を経て、そして一定な期間を経てから何倍も実るために植えられます。あの一粒の麦は死ぬが、死ぬ過程でその中の命は1本の植物となり、その植物は何倍もなった本来の形に戻すためにその命を背負うもしくは運ぶ者となります。イエスという偉大な王室の種子は亡くなられました。あの教会のいのちである無比な方は全ての7つの教会時代の間教会の真ん中に立たれ、最後の復活の時に御自分のいのちが御自分に似る身体たちの中に現れることができるように、御自分のいのちを教会(運搬者もしくは背負う者)に与えられました。復活の時にその王室の種子は多くの御自分に似る王室の種子をご覧になり、そして彼らは主にそっくりです。ヨハネが言うように、「私たちはキリストに似た者になる」[1ヨハネ3:2]。これはバプテスマのヨハネがイエスは麦を倉に収められると言った時に指していたことです[マタイ3:12]。それは永遠のいのちに入るのに選ばれた贖われた者たちが現れる復活の時のことでした。
この本来の種を最後には何倍も実る小麦の植物についての記録こそがいのちの書です。もう一度言います、この小麦の植物の歴史もしくは記録はいのちの書で、いのちの書の一部は永遠のいのちの記録です。(いのちの書の1部分がそうです。)その小麦の植物をよく調べると確信することができます。一粒の種子は撒かれます。すぐしたら葉っぱが見えます。しかしそれはまだ麦粒ではありません。次に茎が生えます。これもまだ麦粒ではありません。いのちはそこにいるが、麦粒ではありません。そうしたら茎の先端に小さな穂が生え、1本の花穂が伸びてきます。まだ麦の植物の状態で麦粒ではありません。次にその植物に受粉が起こり、もみ殻が形づくられるのが見えます。これは非常に麦粒らしく見えてきたが、まだそこに種はありません。その後殻の中に麦粒が形成されます。それは今元の姿に戻りました。今成熟した麦は収穫されます。
イエス・キリストは亡くなられました。主は御自分のいのちを捧げられました。そのいのちは教会に戻って復活の時に栄光の中で御自分に似る大勢な息子たちを生み出すようにしなければなりません。しかし小麦の種子が倍化された小麦の種子を生み出すために運搬者が必要のと同じように、キリストのいのちの運搬者となる教会が必要です。葉っぱ、茎、花穂、そして殻は種子の運搬者であり、種子自身ではないのと同じように、時代を通して教会全体は真の種子の運搬者として働いてきたが種子自身ではないのです。それがいのちの書は麦の植物全体であると言える理由です。
もう一度繰り返しましょう。ここにあの本来の種子が植えられていました。それは葉っぱを出しました。その葉っぱは種子ではありません。茎を伸ばしました。それも種子ではありません。麦粒が形成される殻が現れます。それは種子ではありません。花穂は現れます。そうしたら花粉は雌蕊に落ちます。あの植物の一部が奮い起こされます。あの本来の種子からの何かが植物の他の部分からやってきて種子を形成しました。なぜ植物全体が種子にならないのでしょうか。なぜならそれはあの最後のもののために造られたからです。あの植物の一部のみが種子に変わることができます。なぜならあの小麦の植物の一部のみが永遠のいのちを持つ麦粒だからです
イスラエルがエジプトを離れる時のことからそのことの完璧な象徴を得ることができます。彼らは二百万人余りそこから出ました。全員いけにえの血の元で逃げました。全員紅海で洗礼を受け、水から出て聖霊の表れと祝福を享受し、天使の食べ物を食べ、彼らについてくる岩から水を飲みました。しかしごく少数名を除いて、彼らはカナンの地に入る彼らについてきた子孫の運搬者にすぎないのでした。イスラエルから出た者が皆、イスラエルではないからです[ローマ9:6]。ごく少数以外全ての人はいのちの書から名前が消されました。
今日の教会の中でも同様なことが起きています。いくつかの名前はいのちの書から消されます。永遠のいのちの書はいのちの書の中に含まれるもう一つの記録であるが、その中にある名前は消されることはありません。これがその記録です:神は私たちに永遠のいのちを与えられ、そしてこのいのちは御子のなかにあります。御子を持つ者は(永遠の)いのちを持ち、御子を持たない者は(永遠の)いのちを持ちません。そのいのちを持つ者は世界の基が据えられる前にの中にいました。彼らは世界の基が据えられる前に主の中で選ばれました。その偉大な王室の種子、イエス・キリストは植えられ(主は死にました)、そして主にいたいのちは小麦の植物を通ってやってきて、同じいのちを持ち、元の種子に似た小麦の種を何倍も実ります。なぜなら御霊によってそれらは元のものだからです。
ここで贖われた(元の所有者によって買い戻された)花嫁(彼女はエバがアダムの中にいたように主の中いた)の「会員名」が決して記録の中から消されることがないの理由がわかります。彼女は主の一部です。彼女は御座の中にいます。決して裁かれることはありません。花嫁の中の全ての者は主の一員で、主は一人も失うことはありません[ヨハネ6:39]。しかしいのちの書にいる「すべて」のメンバーがそれに当てはまるとは言っていません。なぜなら彼らの中にはユダのような者がいるからです。最後の日に現れた者が、奇妙な働きをしたあと、イエスは彼らのことを全く知らないと言われるのを見ることができます[マタイ7:21-23]。これは主が彼らの存在を知らないと言っているのではありません。主は全知の方で彼らを知らないはずがないが、彼らは花嫁の一員として予め知られておらず、第二の復活の中の義人としても予め知られていないのです。彼らは果実を実らないため(彼らは御言葉の外にいて、その中に住んでいないため)、死刑を宣告されます。そして先ほど示した花嫁のために立ち、彼女を援助して慰める者がいます。彼らの名前はいのちの書に留まり、永遠のいのちを得ます。最後にファラオのようないのちの書に一度も名前を記されたことがない者がいて、彼らも火の湖の中に投げ込まれます。
したがって麦粒が収穫のための植物に成長するのが教会の記録です。そして小麦の植物の全ての部位が麦の種子ではないのと同じように、教会もそうで、全ての教会が花嫁であるわけではなく、全てが永遠のいのちを与えられるのでもなく、その一部は集められて穀倉の中に入れられ、一部は第二の復活で永遠のいのちを与えられるために集められ、そしてもみ殻として呼ばれる部分は火の湖の中で焼かれます。
これはまさにバプテスマのヨハネとイエスが言われたことで、なぜならヨハネは麦は集められて倉に納められ、殻は焼かれると言いました[マタイ3:12]。イエスは言われました、「まず毒麦を束ねてから、麦を集めなさい。」[マタイ13:30,39]。エキュメニカル運動は毒麦の教会を束ねる、なぜなら毒麦は先に束ねられなければならず、その結末は焼かれることであるが、彼らは束ねられた時に焼かれるのではなく、後のためにとっておかれるのです。すなわち何千年もの後、もしくは第二の復活の時です。しかし一旦毒麦が束ねられると携挙は起き、そして束ねることとアンチキリストの表れの間にそのように起きます。そしてダニエル書に記されているように全ての者が立って集まる時が来ます。王は御自分の花嫁とともにそこにおられ、彼らの前には裁かれる大勢な人々がいます。はい、全ての者がそこにいます。全ての書物が開かれます。全てのものに対する最終判決が下されます。収穫は本当に終わります。一度開かれた書物は閉ざされます。
この話題に結論を下す前に、最初に話したことに言及させてください、すなわち主は現在名前の記録を編集されていると言っている聖句はどこにもないということです。それは確かです。しかし未来に行われる編集について言及している聖句があります。それは詩篇第87編にあります。この詩篇は主はシオンで生まれた者の名前を記録されることについて話しています。ああ、神は時代の終わりもしくはシオンに対応される期間が終了するまで待たないとシオンに生まれる者は誰なのかをご存知でないと思い込んではいけません。それは再び全知を否定することになります。神はもちろんそれを構成するメンバーをご存知です。それは単なる編集段階で、神は第二の復活のあとに残り、シオンに属する者たちの名前を単に新しい記録に置かれるだけのことではありませんか。もちろん、そうです。
「そしてわたしは、わたしの父と父の御使いの前でその人を認めます。」[マタイ10:32, ルカ12:8]
天で点呼するときです!「人は死ぬと、また生きるでしょうか。私は苦役の日の限り、待ちます。私の代わりがやって来るまで。あなたがお呼びになれば、お答えします。」[ヨブ14:14-15]偉大なる羊飼いは名前で御自分の羊を呼ばれています。神の創造なる声は彼らをちりの中から呼び出される、あるいはまだ眠りに入っていない人も彼らを原子レベルから変えられます。それが携挙です。それが子羊と彼の花嫁の偉大な披露宴です。
しかし携挙は唯一の点呼ではありません。第二の復活の時、白い御座の裁きで、父と父の天使の前で認められる名前があります。人にとって最も愛おしい音は自分の名前が呼ばれる声だとある人から教わりました。人々は自分たちの名が公に知れ渡るのがなんと好きでしょう。称賛をなんと愛していることでしょう。しかしもしあなたの名前がいのちの書にあってそこにとどまり、聖なる天使たちの前に明かされるなら、あなたの名前を呼ぶ神の声よりも愛おしい地上の声なんてありません。「父よ、彼らは世の旅で人々の前でわたしの名前を認めました。今わたしは彼らの名前をあなたとすべての天使の前で認めます。」[マタイ10:32, ルカ12:8]
「耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。」[黙示録3:6]
御霊はもう一度語られました。再び私たちは御霊が別の時代に語られる記録を熟読しました。そしてその記録は正しいとわかりました。もう一つの時代は過ぎ、そして神が預言されていたことをまさに成就しました。終わりの日の花嫁になることを望む私たちにとってそれはなんという慰めでしょうか、なぜなら私たちの心は神は真実ですべての約束を果たされる方であるために喜びで飛び跳ねるからです[1テサ5:24]。もし神はサルディス時代の人々に真実で信頼できる方なら、私たちのこの時代にも同じく信頼できる方です。もし彼らは神の恵みと御力で神に受け入れられ褒められるなら、私たちも同じです。したがって、完全なるところへ向かい、そして空中で主と会い、いつまでも主とともにいるまで邁進しましょう[1テサ4:13-17]。