CAB-04 七つの教会時代の解説 第四章 スミルナ教会時代

  • 伝道者:ウィリアム・ブランハム
  • 録音番号:CAB-04
  • 年:CAB

An Exposition of the

Seven Church Ages

Chapter Four

七つの教会時代の解説 第四章

スミルナ教会時代

黙示録 2:8-11
また、スミルナにある教会の御使いに書き送れ。
『初めであり、終わりである方、
死んで、また生きた方が言われる。
「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。
―しかしあなたは実際は富んでいる―
またユダヤ人だと自称しているが、
実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、
ののしられていることも知っている。
あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。
見よ。悪魔はあなたがたをためすために、
あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。
あなたがたは十日の間苦しみを受ける。
死に至るまで忠実でありなさい。
そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。
耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。
勝利を得る者は、
決して第二の死によってそこなわれることはない。」』
はじめに
それぞれの教会時代に割り当てられた使者たちの名前を、どうして知ることができたか、おさらいをしましょう。新約時代の教会の歴史は、ひとつも失われることなく、神の強い御意志によって守られています。イスラエルの歴史は ,聖書に収められることによって保存されており、考古学者たちは、たくさんの巻物や土器、そして多くの古代遺物を発見して、聖書の記述の正しさを裏づけしています。 同じように、わたしたちも聖書の歴史事実をよみがえらせる取り組みをしましょう。 神の贖いのご計画に服従した使徒パウロに、各教会時代のどの人物が最も近かったか、歴史を調べることによって知ることができます。神の真実のことばに人々を立ちかえらせるために、神に用いられた人々を吟味します。その中から、神のみことばと力を用いた伝道でいちばん近い人物を探し当てます。それが使者です。 歴史を学ベば、時代の様子がわかります。黙示録の各教会は、教会の歴史と連係しています。神は各教会の状況や問題を予告しておられるので、歴史はそれに従って、聖書の記述に従って起こっていくのです。そういう仕組みになのです。単純でしょう?しかし、その単純さこそが御言葉を解く大切な鍵なのです。 さて、わたしは学者でも歴史家でもありません。ただひたすら神のご意思に従うものとして生きてきました。そしてわたしが選んだのは、その人物を神の霊が裏付けしてくださったという確証に基づいています。これは真実です。神はわたしの心を熟知しておられます。
神の使者
神は各時代の使者を選ぶために、法則を与えてくださいました。その法則にしたがって、エイレナイオスこそが主に選ばれた使者であると、断言します。エイレナイオスは、大聖人であり信仰の戦士であるポリュカルポスの弟子でした。エイレナイオスは偉大な師の膝下で、キリスト者の恵みについて、師の潔い生き方を通して学んだに違いありません。 ポリュカルポスは、非の打ち所もない生き方をしたという観点から、すべての時代の聖人の中でも際立っています。
黙示録の聖ヨハネの弟子であったポリュカルポスが殉教したのは有名な話です。年老いていて逃亡できず、正直すぎてかくまってもらうこともできませんでした。自分のために誰かが犠牲になることが許せず、すすんで死の道を選びました。刑の前に二時間だけ神に祈らせてほしいと頼んで許可された彼は、主にある兄弟たちのため、知事のため、自分を捕らえた人々や敵のために祈りました。古今の聖人たちのように、復活を信じて、主の御名を決して拒まず、何の良心のとがめもなく死んでいきました。彼は火刑台にのぼり(ポリュカルポスは縛られることを拒みました)、火をつけられました。しかし炎は彼の体に触れることなく、しなって逸れました。それで剣で刺し殺されることとなりました。すると彼の脇腹から噴き出した水で炎が消されました。ポリュカルポスの霊が、白い鳩の形をとって胸から離れるのを人々は目撃したといいます。 しかしこの大いなる証しにも関わらず、彼はニコライ派の組織と闘うのに積極的ではありませんでした。それどころかその組織に近づいていったのです。兄弟との親交を望み、神のわざを行うために良いと思う計画を手がけていましたが、実はそれが敵の仕掛けであることに気づかなかったのです。
しかしエイレナイオスは逆に、あらゆる形の組織に反対しました。主に仕えるようになってからのエイレナイオスは、いつも聖霊に満ちていました。彼はみことばを、右にも左にもそれず忠実に、明確に語りました。フランスの彼の教会には、霊の賜物が豊かに与えられていました。人々は異言で語り、預言しました。信仰によって祈ると、病は癒され、死人がよみがえることも稀ではありませんでした。そのような中、エイレナイオスは、長老やリーダーたちが教会を組織化しようとする動きに警戒していました。そして、霊に満たされ賜物に溢れて一致している教会を守るために、エイレナイオスは断固とした態度に出ました。神は力あるみわざを現すことで、彼の働きに報いてくださいました。
エイレナイオスはまた、神格についての確信がありました。ポリュカルポスの弟子だったエイレナイオスが(そのポリュカルポスが聖ヨハネの弟子であったことは先述しましたが)、神格についての完璧な教えをもっていたことは疑いの余地がありません。「初期教会の教父たち」第 1 巻 412 ページに、エイレナイオスが語った神格についての記述があります。「同様に、他のすべての表現もみな、ひとつの称号、ひとつの存在を指しています。力ある主、主、すべてのものの父、全能の神、いと高き方、創造主、等の呼び方はすべて、別個の存在の呼び名ではなく、ただひとつの存在に帰するのです。」エイレナイオスはそれらの称号は、シャロンのばら、明けの明星、だれより優しく美しい方などの呼び名と同じなのだとはっきり言っています。神は唯一です。その御名は主イエス ・ キリストです。
みことばへの忠実さ、聖書の深い理解、そして神の力のわざを証拠として、エイレナイオスがこの教会時代の使者であると言えます。残念なことに、彼ほど聖霊とみことばにおいて、成果と力と指導力のバランスがとれていた使者はこの後の時代には現れませんでした。
スミルナ
スミルナの町はエフェソから少し北、スミルナ湾の入り口にありました。良い港があるため、輸出で賑わう商業の中心地でした。スミルナには、修辞学、哲学、医学、科学の優秀な学校があり、立派な建築物も建っていました。多くのユダヤ人が住んでいましたが、ローマ人より手厳しくキリスト教を憎んでいました。事実、スミルナの最初の司教であったポリュカルポスは、ユダヤ人たちの手によって殉教したのです。ユダヤ人たちは、土曜日であるにもかかわらずポリュカルポスの遺体を焼く薪を運んで、安息日を汚したといわれています。
スミルナという言葉には、「苦い」という意味があります。ミルラがその語源です。ミルラは死者をミイラにするために用いられました。ですからこの時代の名前にはふたつの象徴的な意味があるのです。スミルナの時代は、死に覆われた辛い時代でした。教会の中でぶどうの木が二つに分かれ、両者はどんどん離れてゆき、偽のぶどうの木は、まことのぶどうの木への憎しみをつのらせていきました。死は偽のぶどうを巣喰うだけでなく、まことのぶどうにも忍び込み、弱体化させていきました。聖霊降臨以来教えられてきた、純粋な真理から外れていったからです。真の信者の誰もが、神のことばを識って従っていた頃のようには強くなく、霊的に健康でもなく、生き生きとしていませんでした。旧約聖書には、似たような事例が多く見られます。教会の組織はたちまち大きくなり、死が広まっていきました。聖霊による導きは退けられ、みことばは信条や教義、儀式と差し替えられてしまいました。
イスラエルは律法に背いて異邦人と同盟を結び、異民族との婚姻を繰り返していった結果、異教の影響を大いに受けることとなり、やがてバビロン帝国の捕囚民になってしまいました。囚われて行く際には、彼らには祭司がおり、神殿があり、トーラーがありました。しかし捕囚から戻ってきた後、彼らはラビを師とし、ファリサイの教えを確立し、シナゴグを建て、タルムードを作りました。 イエスが来られた時、教会はとても退廃していました。そこでイエスは、肉的にはアブラハムの子孫である彼らに対し、「あなたたちの父は悪魔だ」と言いました。この時代にも、同じことが起こっています。 しかし、すべてのイスラエルがイスラエルなのではなく、真の霊的イスラエルは少数でした。同様に、真のクリスチャンも常に少数です。キリストがご自分の民のところに戻ってくるというのは、この少数の者、キリストの花嫁のことです。
スミルナには、ふたつの有名な神殿がありました。ひとつはゼウスの神殿で、もうひとつはキュベレを崇める神殿でした。ふたつの神殿の間を、古代で一番美しい街道、黄金の道が通っていました。わたしが思うに、初めの時代からすでに入り込んでいた異教の教えが、ローマの街道を通してさらに影響を増していったことを象徴しています。のちにマリアを神の母と呼び、イエス ・ キリストと対等の称号を与えたマリア神学を生み出す元となったのが、この地のゼウス神とキュベレ女神の神殿の結合です。 ニコライ派の仕掛け人たちが、国家と教会を結びつける誘因となったのが、ゼウスとキュベレをつなげた黄金街道の貪欲の構図です。そうすることで富と権力が手に入ると、彼らが知ったからです。エフェソの教会時代は、のちに訪れる悲劇のペルガモ時代を育む温床でした。このスミルナ時代は、教会が霊的姦淫である偶像礼拝に陥って、確実に堕落していくために雨と日光と栄養分を与えているようなものでした。その後教会は再び起き上がることはできませんでした。根から枝へと、死が浸透していったので、教会に加わる者は、苦さと死を共有しました。
この時代は、紀元 170 年から 312 年まで続きました。
あいさつ
「最初の者にして、最後の者である方、
一度死んだがまた生きた方が、次のように言われる。」(黙示録 2:8)
「最初の者にして、最後の者である方、一度死んだがまた生きた方」 さて、これは人のことではありません。単なる人間ならば(もし墓の中から語ることができるなら)、「わたしは最初で最後の者、一度は生きて今は死んでいる」とでも言うことでしょう。人間はまず生まれ(生きて)、最後に死にます。ですからこれは人のことではないのです。これは神のことです。 人間(アダム)は、いのちを死に替えてしまったからです。
しかしこの人(イエス)は死をいのちに変えてくださいました。アダムは罪穢れのないものとして造られましたが、罪あるものになってしまいました。しかしイエスは、その罪をかぶり、罪ある者を義(ただ)しい者に変えてくださいました。アダムは楽園を任され、美しい園を荒れ野に変えてしまいました。しかしイエスは、音を立てて壊れゆく地球を、新しいエデンの園にするため戻って来られます。アダムは、神と親交し喜びに満ちていたた暮らしを、霊の暗闇に変えてしまいました。それで人の心にあらゆる罪、道徳の衰え、痛みや苦しみ、欺きや腐敗が生じました。しかしイエスは、人類のあらゆる無残な死から、またあらゆる退廃から、義に満ちたいのちと美しさを生じさせてくださいました。一度は罪と死によって支配されていた人類が、義なるお方、キリスト・イエスによって、義の支配下に移ったのです。罪の中にあることは本当に悲惨でしたが、今や何にもまさる神の賜物、永遠のいのちへの道が開けているのです。
そして今、イエスはご自分が贖った人々、神の教会の中を歩いておられます。贖われた人々とはどのような人たちでしょう? その多くはパウロのような人、殺人犯や堕落者、十字架上の泥棒や強盗、人殺しではなかったでしょうか ? すべて神が恵みによって勝ち取られた戦利品です。みな死から贖われ、主であるキリスト・イエスのうちに生かされています。
最初の教会に宛てられた挨拶文と、この時代への挨拶文をつなげてみましょうか。「右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が言われる。初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方が言われる。」 これはただひとりの方のことです。教会はご自分のものであると、教えてくださっています。 果実の中に種があるのと同様、神も高貴な種として教会の中におられます。種の中に生命があるように、神も教会の生命です。神が教会の間を歩いておられるというのは、神が教会を絶えず守り保っておられるということです。神はご自分の羊を守る羊飼いです。ご自分の血によって贖われた教会ですから、当然その権利があります。人の血ではなく、神の血であり、教会の所有者は他ならぬ神ご自身なのです。「初めであり終わりである方、」これが永遠の称号です。死にましたが、今は生きておられます。神だけが神殿の所有者であり、支配者です。神殿では神だけが崇められます。誰でもその地位や権威を犯す者がいれば、神の怒りを買うのです。どの教会時代においてもご自身の神聖を表明しておられるのは、教会をいましめ、慰めるためです。神は偽のぶどうの木に警告を発し、真のぶどうの木に励ましを与えられます。これが唯一全能の神です。この方に耳を傾け、いのちを得ましょう。
スミルナ時代とは
「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。(しかしあなたは実際は富んでいる)またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。」(黙示録 2:9)
この時代の特徴は明らかに艱難です。最初の時代に艱難のようなものがあったとしても、それはこの時代に起こる艱難の予兆にすぎませんでした。次に記すパウロの言葉は、世界中のクリスチャンに、時代を超えて当てはまります。
「あなたがたは、光に照らされて後、苦難に会いながら激しい戦いに耐えた初めのころを、思い起こしなさい。人々の目の前で、そしりと苦しみとを受けた者もあれば、このようなめにあった人々の仲間になった者もありました。あなたがたは、捕らえられている人々を思いやり、また、もっとすぐれた、いつまでも残る財産を持っていることを知っていたので、自分の財産が奪われても、喜んで忍びました。ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。
『もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。』」
(ヘブライ人への手紙 10:32-38)
心優しい人々が真の信者に単なるおつきあいで示す思いやりは、お返しとして死をもたらすかもしれません。
「知っています。」と、全能なる主なる神は言われます。神に属する人々の間を歩いておられるからです。羊飼いの長としてご自分の群の中におられます。しかし神は迫害を阻止されるでしょうか? 艱難を取り除かれるでしょうか? いいえ、そうではなく、「私はあなたの艱難を知っています。あなたの苦しみに無関心ではいられません。」と言われます。このことは多くのクリスチャンにとって、つまずきの石になりかねません。イスラエルが経験したように、神の愛に疑問を持ってしまうかもしれません。愛と正義の神が、なぜ黙って人々の苦しむ様子を眺めていられるのでしょうか。
「託宣。マラキによってイスラエルに臨んだ主の言葉
わたしはあなたたちを愛してきたと主は言われる。しかしあなたたちは言う どのように愛を示してくださったのかと。エサウはヤコブの兄ではないかと主は言われる。しかし、わたしはヤコブを愛しエサウを憎んだ。わたしは彼の山を荒廃させ彼の嗣業を荒れ野のジャッカルのものとした。」
(マラキ書 1:1-3)
神の愛は人々の理解をはるかに超えていました。人々は愛には苦しみが伴わないと思っていたのです。生まれたばかりの児をいたわるように神は愛してくださると思っていたのです。しかし、神の愛は「選び」に基づいた愛だと言われます。神の愛は、「神の選び」を証明します。何があろうと神の民は救われることが決まってている、このことを神は愛によって証明しておられます。聖霊によって清められ、真理を信じている人は、すでに救いに定められています。パウロのように死ななければならないかもしれません。ヨブのように苦しみを受けなければならないかもしれません。神には決定権があります。神は至上のお方ですから。でも神は目的をお持ちです。もしなかったら、神は平和ではなく混乱の創始者になってしまうでしょう。神の目的は、わたしたちがしばらくの間苦しみを受けた後、完全なものとされることなのです。ヨブは言いました、
「神はわたしを力付けてくださるだろう。」(ヨブ 23:6)。
神ご自身も苦しみを受けられました。苦しみを経験して従順を学ばれました。神ご自身が様々な苦しみをとおして、完全なものとされたのです。
「キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従う全ての人々に対して、とこしえの救いを与えるものとなられました。」
(ヘブライ人の手紙 5:8-9)
つまり、イエスのご性質は苦しみをとおして完成されたのです。パウロによれば、イエスは教会に、ある程度の苦しみを残していかれました。彼らもまた、神への信仰によって苦しむことをとおして、完全なものとされるために。なぜ神はこのようなことを求められるのでしょう?
「わが兄弟たち、さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あまたがたはなにひとつ欠けることのない、成長を遂げた、完全な者になります。」
(ヤコブの手紙 1:2-4)
でもなぜ神は黙っておられるのでしょう?その理由は次のとおりです。
「もし子どもであるなら、相続人でもあります。わたしたちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をを共にしているなら、わたしたちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。今の時の色々な苦しみは、将来わたしたちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足らないものだとわたしは考えます。」
(ローマ書 8:17-18)
キリストと共に苦しまなければ、共に統治することはできません。なぜなら、性格というのは苦しみを通して形成されるからです。性格は打ち勝つことによって得るのであり、賜物ではありません。人格の優れた者でなければ神と共に統治することはできません。なぜなら優れた性質の伴わない力はサタンによるものだからです。しかし優れた性質に力が備わるなら、神と共に統治します。キリストは、ご自分が勝利して父の御座に座したように、わたしたちご自身の御座を分かち合うことを望まれます。そのためにわたしたちは苦しみに打ち勝たなければなりません。勝利の座を得るためです。今しばらくの間の苦しみは、キリストが来られるときに明らかにされるとてつもない栄光に比べれば取るに足りません。多くの苦しみをとおして神の国に入ることを望む人々には、想像を絶する宝が待ち受けているのです。
「あなたがたを試みる燃え盛る火の試練を、怪しんではなりません。」 これはペトロが語った言葉です。苦しみによってキリストに似た性質のものとなることを神が望んでおられることは不思議しょうか。いいえ、不思議ではありません。わたしたちはみな試練を受けます。子となるために試みられ、鍛えられます。だれもそれを逃れることはできません。苦しまず、試みられてもいない教会には、神がおられないのです。
「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、鞭を加えられるからである。訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。」
(ヘブライ 12:6-7)
スミルナ時代のこの状況は全ての教会時代に当てはまります。苦しみから逃れられる時代はありません。真の信者も、しかりです。これは神のご意思であり、苦しみは必要なのです。苦しみを通してキリストに似た者に変えられるという真理を、主が教えてくださいますように。「愛は辛抱強く、親切です。」
「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜び踊りなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのようにして迫害したのです。」
(マタイ 5:11-12)
人生に曇り空や嵐が訪れるのは、神が背を向けておられるからではありません。だからといって、青空や鏡のように穏やかな水面が、神の愛とみ顔の輝きのしるしというわけでもないのです。神がわたしたちを承認してくださったというしるしは、唯一「愛する御子」のうちにあるのです。天地創造の前から、神はわたしたちを選び、愛してくださっています。神に愛されているのは確かだとしても、どうやってそれを知ることができるでしょう? それは神がそうおっしゃったからです。そして実行してくださっているからです。神はご自分のもとにわたしたちを近づけ、聖霊を与えて、神の子としてくださいました。 それではどのようにして神の愛に応えたらよいのでしょう。神が語られたことばを信じること。また、試練を受けていても、それが神の叡智によってもたらされたものであると信じ、喜びをもって耐え忍ぶことによってです。
「わたしはあなたの貧しさを知っている(しかしあなたは実際は富んでいるのだ)。」
またもや、「知っている」です。父親が家族を見守るように、神は教会の間を歩いておられます。神は家長です。家族を養う方です。それなのに家族の貧困をじっと見ておられるのです。未熟な信者ならつまづいてしまうでしょう。なぜ神はご自分の民が欠乏しているのに見つめていられるのでしょう。なぜ手を差し伸べて気前よくお与えにならないのでしょう?
ここで再度、神の愛と善と叡智への信頼が試されます。キリストの訓告を思い出してください。「明日のことで思い悩むな。なにを食べようか、なにを着ようかと心配してはならない。あなたの父はあなたに必要なものをみな知っておられるからだ。百合を着飾らせ、雀を養ってくださる神であるから、あなたのためにはそれ以上のことをしてくださる。からだのことは、あなたのいのちのために不可欠というものではない。人のいのちは、物質からできているわけではないからだ。それよりもまず神の国とその義を第一に求めなさい。そうすればそれに加えて、物質的な必要はすべて与えられるだろう。」
神を信じる人は物質指向でなく、キリストに向かっているのです。地上の宝ではなく天の宝を求めています。クリスチャンの大半が裕福ではなく、どちらかといえば貧しいのは事実です。イエスの時代もそうでした。パウロの時代もそうでした。今日でも当然そうです。しかし今の時代、つまりラオデキアの時代というのは、軸がずれています。地上の物質に富んでいることが霊的に祝福されていると勘違いしているのです。今の教会はなんという金持ちでしょう。しかし聖霊に欠乏しています。「貧しいものは幸いです。神の国はあなたがたのものだから。」神の御国は飲み食いのことではないのです。神の国は建物ではなく、わたしたちの内側にあるのです。豊かな人は、神において豊かなのであって、物質的に富んでいる人ではないのです。
「ああ」 と神の霊が叫ぶ声がします。「わたしはあなたの貧しさと欠乏を見ている。あなたは多くを持っていない。何も自慢できるものを所有していない。あなたが持っていたものは奪われた。あなたは永遠の財産を得るために、喜んで持ち物を手放したのだ。物笑いの種となり、虐げられた。最後の頼みの財産もない。それでもあなたは豊かなのだ。あなたの盾であり、途方もなく大きな報酬である神が、あなたの財産なのだ。あなたの王国はまだ到来していない。だが、やがて訪れる。それは永遠に続く王国である。わたしはあなたの試練と苦悩を心に留めている。それに耐えるのがどれだけ辛いか理解している。わたしはそれらすべてを覚えていて、地上に戻り、サタンの手から権利を奪還する日にあなたに報いる。」
裕福が悪というのではありません。神は金持ちも救われます。神の子どもたちの中には金持ちもいます。しかし金銭のことはつまずきの種になりやすいのです。それはもっている人だけでなく、もっていない人にとってもいえます。さかのぼって最初の時代に、ヤコブは裕福な人に重きをおく人たちに対し、こう言いました。「あなたがたは主イエス ・ キリストを信じる信仰をもっているのですから、人をえこひいきしてはなりません。」 貧しい人々は、神に信頼するより金持ちに頼って助けを得ようとしていました。「そんなことをしてはいけない」、とヤコブは言います。「金がすべてではありません。金は答えではありません。」 そして今日でも同様、金が解決してくれるのではありません。かつてないほどの富を持っているにも関わらず、霊的な働きが衰えてきています。神のみわざは金によるのではなく、神の霊によるのです。そしてみことばに忠実に生きている者のところへのみ、聖霊の働きは訪れるのです。
サタンのシナゴーグ(会堂)
「またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンのシナゴグである人たちから、ののしられていることも知っている。」(黙示録 2:9b)
これは考えさせられることばです。とても衝撃的な内容ですし、一千年後の時代にも同じことが繰返されているからです。
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「わたしはあなたの苦しみと貧しさとを知っている。@@しかしあなたは実際は富んでいる。またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンのシナゴグである人たちから、ののしられていることも知っている。」
(黙示録 2:9)
まずここで使われているユダヤ人という言葉ですが、ユダヤ教の信者のことではなく、ユダヤ地方に住んでいる人々を指しています。それは例えば、わたしがアイルランド出身であるというのと同じことです。その人々は自分たちを正真正銘のユダヤ人だと言っていましたが、偽りでした。彼らは生まれつきのユダヤ人でもなければ、ユダヤ教の信者でもなかったのです。それなら、彼らは何者だったのでしょう? 彼らは騙されていることに気づかずに、教会に属していた人々でした。偽のぶどうの木に属していた人たちでした。
神が「彼らはサタンのシナゴグである人たちだ」と語っているので、彼らは真の教会ではなく、偽の教会の人たちでした。ここでいうシナゴグは、教会とは別の意味です。聖書によれば、教会とは「選別された人たち」あるいは「召集された人たち」です。 選ばれた人たちについて、詩篇では、「幸いなことよ。あなたが選び、近寄せられた人、あなたの大庭に住むその人は。」 (詩篇 65:4)と詠っています。それに対し、シナゴグは「集い、集会」という意味です。良くも悪くもとれますが、この場合は悪い方です。彼らは神のためでなく自分たちのために集っていたからです。イザヤは言っています、
「見よ。集いあつまる者があっても、それはわたしから出た者ではない。あなたに逆らい集う者は、あなたによって倒される。」 (イザヤ 54:15)
彼らは真のぶどうの木に逆らって集っていたのですから、いつの日か神に滅ぼされることでしょう。
ではなぜ教会の中に、自らをユダヤ人と名乗る人たちが紛れ込んだのでしょう。理由は、彼らが嘘つきであり、良心のとがめも感じずに偽称することができたからです。事実でないことを事実として語り、その嘘に固執しました。この場合、心の中で嘘を念じてしまったのかもしれません。初期教会はほとんどユダヤ人で構成されていました。十二弟子はみなユダヤ人で、後の使徒たちもユダヤ人か改宗者たちでした。ですから、自らをユダヤ人だと宣言すると箔がつきますし、正統性を主張できたのです。嘘をついて、その嘘に固執する。事実や歴史から目をそらす。あたかも事実であるかのごとく一つのことを主張し続ければ、人々は信じ込んでいくものなのです。
さて、何かお気づきになりましたか? こんにちの教会にも同じ霊が働いていないでしょうか。自分たちが正統な真の教会であり、救いは自分たちの教会を通してのみ与えられると主張するグループがありませんか? 自分たちは天国の鍵を与えられていて、それはペトロから継承した。ペトロは初代教皇であり、彼はローマに住んでいたなどと、ありもしないことを歴史的事実のように主張しているグループが。最高教育を受け、知識のある者でさえ、その教会の嘘を信じています。まさにサタンのシナゴグです。もしサタンがその教会の父であるなら、彼はあらゆる嘘の生みの親ですから、サタンのシナゴグに集うものたちが嘘つきであっても当然なのです。
冒涜について考えてみましょう。サタンのシナゴグの会衆は神をではなく、真の教会をののしっていました(ですから必然的に神をののしったことになりますが)。カインがアベルをいじめ殺害したのは、カインが邪悪な子で
あったからです。また、儀式に凝りかたまり形骸化したユダヤ教信者は(イエスは、「あなたたちの父親は悪魔だ」と言いました)、キリスト教誕生初期の数年間、キリスト信者の撲滅を図りました。そしてこの時代、偽のぶどうの木は、真のキリスト信者を滅ぼそうと圧力を強めています。反キリストの霊は勢力を増してきています。
このグループはゆっくり着実に教会の中に入り込み、ニコライ派という既成事実を作り上げました。もはや隠れることなく堂々と、集会においてグループの組織化を図り、真の教会に対する敵意を露わにし始めました。
これが組織化された反キリストの教会であることは、歴史的事実に基づいています。ローマで創設された初めの教会は(参照:ペルガモ時代の章)すでに神の真理から外れていました。というのは、教会に異教徒の信仰を持ち込み、それをキリストの信仰とすり替えていましたから。彼らは自分たちを真の教会と称していましたが、すでにスミルナの時代にかなり異教化されていました。ポリュカルポスは、教会にもとの教えに戻るよう嘆願するために老齢の身ながら 1500 マイルも旅しましたが、徒労に終わりました。 彼らは堅固な階級組織を作り上げ、完全にみことばから離れていきました。これがサタンのシナゴグ、冒涜の温床です。すでにニコライ派の教義が芽生えようとしています。そして間もなくサタンの王座、サタン宗教の力が台頭してくることになるのです。黙示録2章9節には、彼らは「サタンのシナゴグに属している」とは書かれていません。はっきりと「彼らはサタンのシナゴグである」と書かれているのです。
この反キリストの霊は新しいものではありません。教会時代に突然現れたのではなく、ずっと以前から存在していました。この霊が何をするか、どのように神に反対して教会に入り込むのかを、旧約聖書の例をとって見ていきましょう。イスラエルがエジプトを脱して、荒野で教会となった時、この霊がどのように現れたかを調べます。
初代教会は、純粋に聖霊の働きによって生まれ、しるしや不思議、預言、異言、解釈、知恵、知識、癒しが盛んに行われていました。同様に、イスラエルもエジプトから脱出した時、神の霊の導きに従っていました。神が民の指導者でした。実際のところ神は王、父なる王でした。人間の父親が家族を守るようにイスラエルを守っていました。養い、戦いに勝たせ、困難を解消し、問題を解決させました。神ご自身が骨折りをしてくださったのです。イスラエルは唯一、真実の神を神とする民族でした。しかし、ある時彼らはペリシテや周りの国が王を君臨させているのに目を留めました。そして彼らも人間の指導者が欲しくなり、王を要求しました。神にはご計画があり、のちに神ご自身がひととなり、主イエス・キリストとして君臨することになるのですが、民は神の先回りをしたのです。サタンは神のご計画を知っていて、民の心をそそのかし、神の(みことばの)先回りをさせたのでした。
王を要求して人々が押しかけてきたとき、サムエルは落胆し、心がつぶれそうでした。神はご自分の民を導く者として、彼を聖別し、みことばに裏打ちされた預言者としてきました。今彼は、自分が拒否されたのだと感じていました。サムエルは民に呼びかけて、神こそが、あなたたちを子どものように世話し、繁栄させ、祝福してくださっているのに、その神に背を向けるようなことをするなと嘆願しました。しかし、彼らは主張しました。「サムエルよ、あなたはいつも正しい指導者であった。あなたは金銭のことについても潔癖であり、我々が罪を犯さないように主のことばを取り次いでくれた。あなたのおかげで神の奇跡、知恵、守りを受けてこられたと信じて感謝している。今後もこれらの祝福を期待している。ただ、戦いの指導者として王を立ててほしいのだ。もちろん、戦いに出て行くときには、祭司を先頭に立て、ユダ族が続き、角笛を吹き鳴らして叫び、歌うつもりだ。従来の戦いの仕方をやめるつもりはない。しかし我々の中から王を立てて、指導者としたいのだ。」
神はサムエルに言われました、「彼らはあなたを拒否しているわけではない。わたしが 彼らの上に王として君臨するのを拒否しているのだ。」
悲しいことに、彼らは気づいていなかったのです。他の国と同じように振る舞いたいと願うことが神を拒絶していることを。神の民は、他の国々とは別のものとして定められています。彼らはこの世に属しておらず、この世に似ておらず、この世のようには生きていません。彼らはこの世に対して死んだものであり、この世も彼らにとって死んでいるのです。
「それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ。と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなた方を受け入れ、わたしはあなた方の父となり、あなた方はわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」
(第2コリント 6:17-18)
イスラエルと他の国々との違いはただ一つ、真実の神の存在でした。神を離れたら、イスラエルは他の国と変わりはありません。髪を切り落としたサムソンは、ただの人になってしまいました。同様に、教会が聖霊の導きから離れたなら、神の名を称しているただの世俗集団です。ヤコブとエサウが両親を同じくしているように、この世も教会も同じ穴のむじなです。ただ神の霊が働かれるなら、まったく別ものとなるのです。
誰でも望めば自分をクリスチャンと言うことができます。しかし神の霊が宿っている人だけがクリスチャンなのです。神の霊なしにクリスチャンと称する人は、神に見放されたもの。その人は神のものではありません。アーメン
この前、ある女性にクリスチャンかと尋ねたところ、「わかっていただけますでしょう?わたしは毎晩キャンドルを灯していますのよ。」と、答えが返ってきました。それがクリスチャンと何の関係があるというのでしょう!?わたしはメソジスト、わたしはバプテスト、わたしはペンテコステ・・・・ それらはクリスチャンと全く関係ありません。聖霊と関係のない人は滅びます。
すでにエフェソの教会時代から、人々は教会をいかにして「よりよく」できるか考え始めました。そこでニコライ派が行動を開始し、グループを形成しました。彼らは神のことばから次第に離れていったのです。 ただ一つのことばを変更するという行為が、実は、小さなパン種が練り粉全体を膨らませるように、大きな影響をもたらします。律法の一つを犯すなら、律法全体を犯したことになると言われているとおりです。イヴはひとことを変えてしまっただけでしたが、その影響は大きいのです。
サタンを中心にしたグループが結成されると、侵略者である彼らは、自分たちの方が神の教会だと主張して、真の信者たちを迫害し始めました。
このように、人々が組織を作ると、そこに憎しみが入り込むのです。組織は仲間同士の親交を失わせ、苦々しさを生じさせます。ミルラはそれを示唆していました。そしてスミルナの時代にはそれが充満していました。苦々しさ。苦さの根が多くの心を侵食していき、教会は冒涜されました。それ以降の時代は、ずっとこの傷跡の痛みを味わうことになりました。
スミルナの教会は、起源から遠く離れていきました。雑種(ハイブリッド)となってしまったのです。イブが人類にもたらしたように、教会も雑種になりました。雑種とは、異なるふたつの種が混ざることです。もはや原種の純粋さがありません。イブは獣の種と交わりをもち、カインという生きものを生み出しました。カインは純粋なひとではなく、邪悪を潜ませていました。彼はアベルとも、セトとも異なっていて、神を憎み、みことばに逆らい、正しいひとを殺害しました。そして自分は神のことばを超越しているとみなしたのです。
同様に、教会も誕生当時の教会ではもはやなく、雑種になり果てました。教会とは名ばかりで、雑種です。人は言います、「わたしはバプテストです」と。でも、初めはそうではありませんでした。「わたしはメソジストです」。でも、初めはそうではありませんでした。初めは神のことばが直接語られ、聖霊に満ちた人々が霊の啓示に従っていました。でも、もはやそうではありません。教義や、人の掟や、教養のある人々の威厳ある推測がまかり通るようになってしまいました。教育が霊の啓示にとって代わり、理性が信仰にとって代わりました。もはや聖霊に満ちた自然な賛美が消え、形式的なものになってしまいました。初めはそうではなかったのです。悪貨は正貨を駆逐する、そう、教会は雑種になってしまったのです。
それでは、雑種となってしまった教会から純粋なクリスチャンは生まれるでしょうか? いいえ、不可能です。クリスチャンを生み出すいのちや種は、そのような教会には存在しません。同類のものが生じるのみです。バプテスト教会はバプテスト信者を生み出し、バプテストとして行動します。メソジスト教会はメソジスト信者を生み出し、メソジストとして行動します。そこには神の力が働いていないので、誰も神の力を知らず、得ることもできません。ただ、典礼としての礼拝と信条と教義がその存在意義となっているのみです。
雑種について語りましょうか。世界中で最も知られた雑種は何でしょう? それはずっと昔からわたしたちの生活に欠かせない動物です。そう、騾馬です。ロバと馬とのかけ合わせです。おもしろい生き物で、騾馬と騾馬をかけ合わせても騾馬は生まれません。自身にその種を持っていないからです。仕事をするとなると、馬やロバを凌駕しますが、その性格は頑迷で、信用がおけません。まさしく雑種信仰の典型です。馬が真の信者を表し、ロバが不義を表すとするなら、騾馬は真理と暗闇のかけ合わせと言えます。 真理と暗闇をかけ合わせると、不毛で形式的な宗教が出来上がります。繁殖可能な種が存在しません。死んでいます。真理について語ることはできても、真理を生み出すことはできません。神がおられないにもかかわらず、集会を開いて神について語りますが、実際に神の力が働くとは信じていません。主のみ名を唱えながら、神のみことばを否定している彼らに、希望はありません。組織化された集団からリバイバルが起こったことがありますか? いいえ、一度もありません。組織化するといのちを失って、二度と生き返らないのです。旧約聖書にその例を見ることができます。
「ただし、ろばの初子はみな、羊で贖わなければならない。もし贖わないなら、その首を折らなければならない。あなたの子どもたちのうち、男の初子はみな、贖わなければならない。」
(出エジプト 13:13)
ロバの子は羊によって贖うことができます。あわれな罪びとは誰でも、イエス・キリストの犠牲の血によって贖われます。キリストを拒むなら、キリストも彼を拒みます。騾馬は贖われません。騾馬を贖うための血は存在しないのです。騾馬は教会組織を避けどころとし、ロバは血を避けどころとします。騾馬は繁殖可能な種を持っていませんが、ろばにはそれがあるのです。
数週間前にある記事を読みました。クリスチャンではなく、世俗のビジネスマンが書いた記事です。それには、「教会には、呆気にとられるし理解ができない。神学校は教授たちを抱えて神の言葉を教えているが、その実それを破壊している」と、書いてありました。この著者は、「理解できなくて唖然とした。無神論者や共産党員や自由主義 者なら話はわかるが、教会自らが神のことばを破壊しているとなると、これは計画殺人に等しい」と述べています。さあ、これが雑種(ハイブリッド)の宗教です。アメリカよ、手遅れになる前に目を覚ませ!
一旦神のことばを離れた教会はなんでも信じるようになります。イブもそうでした。カインが生まれた時、イブは、「わたしは主によって一人の男子を得た」と言いました。それは真実でしょうか? 主から男子を得たと、そう思ってしまったのです。神のことばの代わりにサタンの言葉を受け入れて騙されたイブは、自分の言うことは正しいと思い込んでしまいました。だから、神から男子を得たと、そう言えば、そのとおりになると思ったのです。しかし神はすでに法則を作り、宇宙全体に適用しておいででした。良い種は良い実をつけ、悪い種は悪い実を結ぶのが神の法則です。それぞれの種は大地を利用してそこから栄養と水分を受け、日光を浴び育ちます。そしてそれぞれがその種に従った実をつけます。カインの子孫とセトの子孫の行く末を比べてみましょう。ただ一つの違いが行く末を決めるのです。それは他ならぬ「起源となる種」です。
イブの言ったことを分析すると、彼女が意外と深く真理を把握していたことがわかります。というのは、息子をサタンに帰していなかったからです。そうなら、サタンを神と対等の立場に置くことになります。しかし実際は、神のみがイブやマリアの胎内に卵子を造ることができます。サタンにはできません。イブにはそれがわかっていました。サタンにできるのは、ただ、誤った道に陥らせることだけ。だからサタンは彼女を欺いて、誤った種を植えつけたのです。蛇の種からカインは生まれたのでした。そしてアダムの種からアベルとセトは生まれました。どちらの種も同じ過程をたどり形成されましたが、生まれた子どもたちは別ものでした。種が異なっていたからです。
イブはカインが神からのものと信じていました。悪魔の偽りを神の真理として受け入れてしまったからです。まさに同じくして、真理の源泉として立ち上がった教会の中に、もはや真理が存在ししていません。それでも教会の子らは虚ろな真理を宣言し、自分たちの嘘を守るために人殺しさえするようになるのです。
もしこれが誇張だと思うなら、第2テモテの第3章全体と第4章の最初の5節を読んでください。
「終わりの日には困難な時代がやってくることをよく承知しておきなさい。そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。@@こういう人々の中には、家々に入り込み、愚かな女たちをたぶらかしている者がいます。その女たちは、様々の情欲に引き回されて罪に罪を重ね、いつも学んでいるが、いつになっても真理を知ることができない者たちです。」
(2 テモテ 3:1-7)
「神の御前で、また、生きている人と死んだ人とを裁かれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思って、私はおごそかに命じます。みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いを持って、次々と教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。しかし、あなたは、どのような場合にも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。」
(2 テモテ 4:1-5)
アダムとイブが陥ったように、教会も起源からはずれて行ったときに、死が入り込みました。生きる力が失せた教会は、化け物のようになりました。教会は形式と典礼を重んじるようになり、聖職者の制度をつくり、聖霊とみことばの導きから離れ去りました。するとその瞬間に死が入り込み、病いに冒されました。病いが進むにつれ、論争が武器という無力な人々の集まりになってしまい、霊の実りは無くなってしまいました。神のことばの中に希望をおくのではなく、企画内容に希望をおくようになった教会は、計画を立てて新たな企画を得ることを繰り返すのみ。彼らは神のことばから逸脱した行動をとり、神のことばからかけ離れた子どもたちを収穫するようになりました。
神のなさることに不当な干渉をすると、改ざんの後始末をしなければならなくなります。自然がそのことを教えてくれます。人は自然に手を加えます。人は自然を改良できると考えて、物質の分子を改造したりしますが、その結果自然からの罰を受けます。鶏の例を見てみましょう。鶏は改良に改良を重ねた結果、卵(無精)を産む機械となってしまいました。鶏肉は柔らかくてまずくて、健全な食品ではなくなりました。食肉に添加物が入れられるようになった結果、人体にも変化が起こってきました。女性は腰が小さくなり、肩幅が広くなってきました。逆に男性は腰が大きくなり、肩幅が狭くなりました。 さて、人が自然を侮ることによって、異常現象が引き起こされるならば、真理に手を加えて虚偽を混ぜたなら、どうなることでしょう。その結果生み出されるのは反キリストであり、神不在の形式的宗教です。教会は誕生当時の状態から、はるかかけ離れてしまいました。これに対処できるのは唯一、火の池、それを神は用意しておられます。
あわれ、スミルナの時代は死にかけていました。そして死んでしまったあとは、もう元には戻りませんでした。元に戻ることができた時代はありません。リバイバルが終わると、同じ場所で再びリバイバルが起こることはありませんでした。自然に生まれた者は神のいのちを持っていないので、天の介入によって生まれ変わる必要があります。この最後の時代(ラオデキア)は聖霊降臨のリバイバルによって始まりましたが、次第に組織化していきました。神のことばに従う代わりに、自分たちの考えを採用し、他のすべての時代と同じことをしました。生きたみことばに従うはずのところを、人の書いた手引にすり替えたのです。もしあなたが人の手引書に従わなかったらどうなるでしょう? 追い出されて、神のみ名を用いて迫害されてしまうでしょう。教会が神より組織を大事にしているからです。彼らは聖霊降臨を体験した世代の次の世代の者たちですから、直接体験したわけではありません。神には孫はいませんから、彼らは信条や典礼をつくった父たちの子どもたちなのです。昔のことについて語ることはできますが、再現させることはできません。かつては閃(ひらめ)きがありましたが、もう轟(とどろき)しか残っていません。
彼らの言い分を聞いてみましょうか。「ええ、そうです、この働きは人間が始めたものではないのです。突然、霊が世界中に降り注ぎました。そうです、わたしたちは聖霊降臨の時に与えられたものをいただいているのです。これは人の手によるのではなく、神から来たのです。」 では、なぜ神の働かれるままに任せなかったのでしょう? もし神が始められたのなら、なぜ神はそれを維持し、仕上げることができなかったのでしょう? そもそも神が信条や典礼や教義の教本を書かれなかったのなら、どんな権利があってそのようなことをしたのでしょう?
パプテスト、メソジスト、ナザレ派、アドベンティスト、長老派、ブレスレン、チャーチオブゴッドなどなど、各教団教派の上にも、神は聖霊を注がれました。それらに属する兄弟姉妹たちは、それぞれの教義や掟や教会の教本によって養育されて来ましたが、神はすべてを一掃されました。神は聖霊の賜物を復活され、彼らの神学を虚しいものとしました。神が過去、現在、未来永劫に変わらぬお方であることを自ら立証されたのです。 しかし、聖霊降臨のリバイバルから生まれたペンテコステの人たちは、組織化することの恐ろしさを過去から学んだでしょうか? いいえ、残念ながら。彼らもまた組織化し、独自の教本を作り、掟を作り、教会冊子や親睦冊子などを作りました。その主張するところは、ペンテコステだけが真理であり、すべての問題の解決であり、神の選びである。神から任命されて人々を真理の道に導いているのだということです。しかし彼らの中には真理はないのです。抜け出して来た元の組織と同じように彼らも雑種となってしまいました。もし、キリストの花嫁になりたいのなら、初期教会の信徒たちがしたように、組織から離れるべきでした。
リバイバルは終わりました。彼らも過去の教会の過ちを繰り返し、名ばかりの死んだものとなってしまいました。神の霊について語りながらも組織化の道を選んだのです。聖霊の証(あかし)について語りますが、悪魔も異言を語るという事実を忘れています。バベルの塔で起こった言語の混乱が、教会の中でも起こっていることがわからずに、それを聖霊の証だと言っています。神が人に命じるのではなく、人が神に命じているさまをここでも見ます。
ここまで言ったら、わたしに反論したくなるでしょうね。それなら、ペンテコステやフルゴスペルと称している人たちにうかがいます。聖霊降臨の時には火が雲の中から降りて来て、舌のように分かれてひとりひとりの上に留まりました。その火は今どこにありますか? 聖霊降臨の時、彼らは異言を語り、それを聞いた人々は言葉の意味を理解しました。今それはどこにありますか? 信者らはひとつの家族のようになって生活しました。なのにペンテコステの人たちはかつてないほど分裂しているではありませんか。 初代教会には、誰も自分の考えで教会に属するような人はおらず、ただ神が人々を加えてくださっていました。今は多くの山羊が教会に混じっています。彼らはフルゴスペルを唱えていますが、それを立証することができません。彼らの教会には神の力が存在していません。もし彼らがフルゴスペルならば、聖書が間違っていると言わざるを得ません。聖霊降臨の時にフルゴスペルの人たちも加わっていたと聖書には書いてありますから。「わたしのうちに大きな変化が起こった」と彼らは歌いますが、それはもっともです。しかし、良い方向に変化したわけではありません。 今こそ神にたち帰る時です。彼らは生きていると称しているが実は死んでいます。異言はリバイバルの証ではありません。それは死を証ししているのです。異言は、ユダヤ人の儀式的宗教が終わり、新しい時代が訪れたと、宣言していたのです。そして今異言は、異邦人時代の幕が閉じ、福音がユダヤ人に戻っていくことを語っています。異言は著しい霊の働きであると、彼らは布告していますが、それは的を得ていません。人の考えや企画や王国が終焉し、神の王国が到来することを布告しているというのが真実です。さあ、神の民よ、目をさましなさい!目をさましなさい!
もしこれが真実でないというなら、聞いてください。世界中で今、ペンテコステ派とファンダメンタルのグループがビジネスマンを組織化しています。彼らは神の召命なしに説教をし、あたかも人を漁る漁師、あるいは神の運動の創始者であるように働いています。神が教会に委ねた奉仕の働き(エフェソ4:10-13参照)は役立たないので、自分たちがその役を引き受けているのだと言っています。 わたしたちは、コラの反抗という預言の成就の真っ只中にいます。彼らは自分たちが預言の成就に役立っていることがわかっていません。盲目状態で説教を続けています。神が彼らを憐れんでくださいますように。手遅れになる前に目が開きますように。 聞いてください!いつから金の威信や社会での指導的立場や商売の天分や精神の強靱さが霊的指導者の必要資質になったのか。神のことばを伝えるのにそれらは重要なのか。もし、唯一聖霊の働きによっていたのが、とって変わって物質や人の値打ちによって神が働かれるようになってきたというのなら、それならば、神のために働いているのではなく、神と敵対しているのだと言わざるを得ません。
これは記録に残していただきたい。わたしは教会の長老を批判していません。とんでもない誤解です。長老はとても貧しい生活をしているかもしれないし、あるいは、心底長老であって行いも正しければ、世界の長者番付に乗るかもしれません。わたしなら、経済状態や社会的地位とはまったく関係なく、霊的資質がある人なら誰でも長老や執事として任命するでしょう。 しかし教会に経済的社会的構造が入り込むと、格差の問題がおき、分裂してしまいます。神のせいではありません。物質的には豊かであっても霊的に困窮している、これが今の時代、ラオデキアの時代のもうひとつのしるしです。
「わたしはあなたの貧しさを知っている。」 彼らの貧しさとサタンのシナゴグが同じ節の中に記されています。お互いに関係しているのです。常に、富と力のある組織は、神に仕える少数の人々に圧力をかけます。神の霊が人の心に働きかける時、場所や建物から離れていくのは誰ですか? 常に小さな群れが大きな組織に追い出されるのです。そしてどこに行くかというと、彼らは家庭や古い倉庫や地下室で礼拝をします。かつて先祖たちがカタコンベに潜んだように。これらの人々は世間の目から見れば貧しいですが、本当は霊的に豊かに富んでいるのです。
「わたしは彼らのののしりを知っている。」 サタンのシナゴグの嘘つきたちが神を冒涜しているというのは思想上のことではなく、実際に彼らは真の教会をののしっていました。同じことが繰り返されています。エルサレムのユダヤ人たちは初期教会をののしりました。多神教の異邦人も同様のことをしました。もし誰かが誹謗中傷を受けるなら、それは正統な子孫です。ネロの時代、クリスチャンはあらゆる災害の張本人とみなされ、ローマの大火災の放火犯とさえ言われたのです。共産主義国で、一番先に処刑されるのは、取るに足らない数の小さな群れです。クリスチャンは善を行うことだけを心がける善良で誠実な人々ですが、最後まで迫害を受けつづけるでしょう。殉教もあるかもしれません。
クリスチャンの小さな群れの存在は、悪者にとって目障りだというのが、その理由です。邪悪なものにとって、彼らはどうしても鼻につく存在になってしまうのです。正しいものたちは邪悪なものたちに何の危害も加えないばかりか、良いことをしようとしますが、洗礼者ヨハネがヘロデから受けた仕打ちのように、懲らしめられてしまいます。ヘロデと妻に対して、ヨハネには悪意がなく、ただ神の怒りから救われるよう願ったのです。しかし誤解され反対され、ヨハネは処刑されてしまいました。 神の人たちは善を行っているのにかかわらず、嘲られ、処刑されます。善に対して邪悪で報いる良心のかけらもない人々の背後に、邪悪な力が働いているのはいうまでもありません。そのような力が存在しているのです。それはサタンです。
10年間の艱難(かんなん)
「あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。@@あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」
(黙示録 2:10)
主が「恐れるな」と言われるとき、危険や苦しみや損失を引き起こす何かが、すぐにも起こることを示唆しています。主は、冷たく引き離すように「艱難がくる」とは言われません。それでは恐ろしくなってしまいます。そうではなく、灯りを消す時、子どもが怖くないように、母親が優しく言うのと同じです。「怖がらなくていいのよ。灯りを消すと暗くなるけれど、ママが一緒にいるから大丈夫」。このように主も、「人を恐れるな、人に何ができるであろうか。わたしがあなたとともにいる。わたしのめぐみはあなたに十分である。水域を渡る時、その水があなたを溺れせることはない。たとえ死のきわにわたされても、あなたは挫折しない。あなたは圧倒的な勝利を得るものである。」と、言われます。
偉大な使徒パウロも、経験からこの言葉の重さを語っています。
「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。艱難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、劔ですか。
『あなたのために、わたしは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。』
と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」
(ローマ 8:35-39)
主は、「悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている」と語られました。ユダヤ人が当時そのとおりのことをしていました。異教の祭司たちもそれをしました。総督は、大衆の歓心を買うために、競技場にクリスチャンを放り込み、ライオンやグラディエーターを使って何千人も殺しました。
「それが悪魔と何の関係がありますか?」「なぜ悪魔のせいにするのですか?」 だがしかし、これらの出来事の背景には、悪魔の憎しみが存在しているのです。なぜなら、悪魔は神を憎んでいるからです。神がみこころを行おうとされると、サタンは必ず破壊しにかかります。 しかし、このことに注目してください。もしユダヤ人がクリスチャンを裁きの座に引き立てて行った背景にサタンの強い憎しみがあるのなら、そのユダヤ人は神を信仰しているのではなく、サタンを信仰していることになります。彼らの集会もサタンのシナゴグです。そしてもしローマ・カトリック教会が、暗黒時代(加えて、いつの時代にも)、おびただしい数の信者を殺害したのなら、同様に彼らも悪魔のものであって、サタンに属しているのです。
これがショッキングだと思うなら、どうぞ黙示録 13 章の預言の成就をみてください。アメリカ合衆国はまさにこの章の中に登場します。13 というのはこの国の象徴です。この国は 13 の州から始まりました。国旗には 13の星と 13 の横線があります。そして 13 章にこの国の運命が記されているのです。この章に記されている獣の像は、以前いた獣の持っていたあらゆる悪を再現するでしょう。獣はニケア会議の時に頭角をあらわしました。同様に、獣の像も世界教会協議会(WCC)の時に正体をあらわし、あらゆる邪悪で悪魔的な力を駆使して悪魔の憎しみを、神の真のぶどうの上に注ぎ込むことになるでしょう。残忍でずる賢く冷酷非道なおこないが、繰り返されることになるでしょう。
神の小さなものたちに戦いを挑み、嘲り、殺害する者たちは、神のみ名とその信仰をかざして実行します。しかし彼らは偽っています。彼らは神のものではありません。彼らの父は悪魔です。彼らのおこなう残虐な行為が、彼らの正体を暴きます。 勝手に組織化して、神の小さな群れと縁を切るがいい。彼らの正体が悪魔であることは次第におおやけになっていくでしょう。彼らは偽のぶどうの木です。殺人を犯すぶどうです。彼らのいだく憎しみが、彼らの本性を語っています。ニコライ派の反キリスト教会、それが彼らの正体です。
「彼らは牢に投げ入れられるであろう。」そのとおり、彼らは裁きの座に駆り立てられ、偽証によって告発され、牢に閉じ込められました。これらの暴力行為は、宗教の名によって、体裁よく、執行者の立場を守るためになされました。 連想して思い起こされるのは、合衆国最高裁判所のくだした決定です。公立学校において、聖書を読んだり祈ったりする行為が禁止されました。誰が背後で働きかけているのでしょう? サタンです。これも、神に敵対する怒りの噴出のひとつです。
「あなたがたは十日の間苦しみを受ける。」 これは預言の言葉です。スミルナ時代の寿命を意味しています。ディオクレティアヌス帝はローマ皇帝の中でも最も残虐で、恐怖政策をしいて神の聖徒らを苦しめました。もし神の哀れみがなければ、信者は一人残らずこの世から払拭されてしまったことでしょう。歴史上最も残虐な時期が、紀元 302 年から 312 年まで、10 年続きました。
「死に至るまで忠実でありなさい。」 主は、一定の期間忠実であれとは言っておられません。死を超えて忠実であれと言っておられるのです。あなたの証を自らの血で封印することになるかもしれません。何千もの、いえ、何百万もの人々がこの時代に死に渡されました。信仰によって死んだのです。忠実な殉教者アンティパスのように、命を惜しむことなく死んでいきました。 殉教など考えられないと、思う人も多いでしょう。しかし、日常的にキリスト・イエスを信じて勝利する信仰と、ポリュカルポスや殉教者たちが持っていた信仰が同じであることに気づきませんか。究極の信仰は、究極の時に究極のめぐみを与えます。神に永遠に祝福あれ!
「そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」 主のみ名のために一杯の冷たい水を与えるものが確かに報いを受けるならば、主イエスのみ名のために命を投げ出して殉教した人たちが受ける報いはどんなに素晴らしいことでしょう。競技で優勝して受ける冠にたとえれば、少し感じとることができるかもしれません。パウロが語っています。
「競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。」
(1コリント 9:24)
オリンピック競技の優勝者が受けたのはオリーブの枝の冠でした。しかし、殉教者に与えられると、黙示録に記されてのは、王の冠です。イエスはこれをいのちの冠と呼びます。かたや勝ち取った冠であり、かたや与えられた冠なのです。どちらも朽ち果てることのないものですが、この世の競技の勝利者が得る絶賛の喜びはやがて失せていきます。その栄光は長く続きません。しかし神に命を託す者、骨を折り、血を流して命を犠牲としてさし出す者は、いのちの冠を受けます。
ところが、神が用意してくださっている永遠の報いを得るために、あまりにもわずかな時間と努力しかなされていないのが現実です。神の報酬が低く評価されているのです。もし、からだの復活、永遠の王国の実体を現実のものとして信じていれば、宝を天に蓄える努力を怠らないでしょう。それらは忠実な聖徒たちのためにとっておかれているのですから。
勝利を得るものへの報酬
「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。@@勝利を得る者は、決して第二の死によって損なわれることはない。」
(黙示録 2:11)
もう一度言いますが、霊が語られていることはすべての時代に適応されるのです。ですから、このメッセージはわたしたちへの励ましでもあります。第二の死は、わたしたちに害を与えることはありません。
第二の死が火の池であることはご存知ですね。
「それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第2の死である。」
(黙示録 20:14)
ですから死とハデスの中にいた人たちはみな、火の池に投げ込まれたのです。 さて、わたしがこれから申し上げることは、聞いたことのない教えとして物議をかもし出すことでしょう。しかし、神のみことばの権威によって、宣言します。不信者が永遠の地獄に落ち、永遠に焼かれ続けることはありません。まず、地獄とか火の池とか、そういうものは永遠に存在し続けません。始まりのあるものには終わりがあるのです。マタイ 25:41 に、「悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火」と記されています。用意されたのなら、始まりの時点があるのです。始まりがあるのなら永遠ではありません。 「永遠」という言葉にひっかかるかもしれませんが、その言葉の意味は「ある時代からある時代まで」であり、別の意味を含んでいるのです。1サムエル 3:13-14 によると、『神はエリの家を永遠にさばく、エリの家のものは永遠に神の祭司としていけにえを捧げることはできない、』とあります。それから1列王記 2:27 で、ソロモンはエリの子孫を祭司職から罷免しました。それは神のことばが語られてから、4世代かそれ以降の出来事でした。ここで使われている永遠という言葉は、永久、あるいは始まりがなく終わりがない恒常の状態とは違うのです。この場合の永遠は、 「消滅するまで」と期限があります。彼らは消滅したのです。
「そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。」
(2テサロニケ 1:9)
この「滅び」という言葉に注目してください。ギリシャ語では、単に消滅という意味です。したがって、この「滅び」という言葉は、滅ぼす、破壊するという意味ではありません。滅ぼすのには、朽ち果てていくまでに過程があります。では、永遠の消滅とはどういう意味でしょう。消滅し続けるという意味ではありません。その場合は滅びという言葉より、破壊という言葉がふさわしいでしょう。そうではなく、到達点に至るまで滅ぼすということです。終止符を打つのです。
それでは、今まで教えられてきたようには永遠という言葉が使えないのなら、どんなときに「永遠」という言葉を使えるのでしょう。それは簡単です。神に対して用いられる「永遠」は、始まりがなく終わりがなく、未来永劫、常にあり続けるということを意味します。永遠のいのちというとき、それは神のいのちを暗に指しています。「神が永遠のいのちをわたしたちにくださり、そのいのちは御子のうちにあるのです。御子を得るものはそのいのちを得ています。」と記録されています。ならば、神の子たちだけが、終わりのない永遠のいのちを持っていることになるでしょうか? そのとおり、あなたのうちには始まりもなく終わりもない永遠の何かが存在しています。それは神の霊です。それは神ご自身といえます。神のいのちです。
あなたがたが天国で喜びつつ生きつづけるように、もし罪人が地獄に落ち、そこで苦しみつづけるのだとしたら、罪人にもあなたに与えられているのと同じ永遠のいのちがあることになってしまいます。
ある人はこういうかもしれません。永遠のいのちとは、神の子たちの幸福と喜びの状態をさすのだと。一方、罪人は懲らしめを受けるので、第二の死とは懲らしめと場所のことだと。永遠のいのちは天国、永遠の懲らしめは地獄を意味するのだと。そういうことを信じる神学者が高く評価されてきたというのは驚くべきことです。 しかし、そういうことを主張すると、永遠のいのちはひとりのひとを指すのではなく、場所的意味になってしまいます。永遠のいのちは神です。そうです、主イエス・キリストです。どうして永遠のいのちを単に場所的存在に限定できるのでしょう? それを思うとめまいがしてきます。
はっきり言います。永遠のいのちはひとつだけです。それは神だけがもっておられます。もしわたしたちのうちに神がおられるなら、永遠のいのちは神と共に、神によって、わたしたちのうちに存在しています。
ですから、永遠という言葉にはいろいろな使われ方があるのです。神に対して用いられると、神は「わたしはある」のお方ですから、意味はひとつです。他の場合のような意味は、神には適用できません。神おひとりが永遠であり、神が生きておられるので、わたしたちも神とともに生きるのです。
わたしが火の池や懲らしめを信じていないと誤解しないでください。それらは存在すると信じています。ただ、どれだけ長く存在するかはわかりません。やがて取り去られます。黙示録 21:8 に、「これらの者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある」と記されています。しかし、本当の訳は、「分」ではなく「時」です。
ですから、邪悪な者は地獄(ハデスあるいは墓)に下り、そこから火の池に投げ込まれます。神から切り離されるのです。なんと恐ろしいことでしょう。
でも正しい者の場合は違います。恐れる必要はありません。神によって贖われているからです。神の懐で守られています。彼らは勝利者です。勝利者とは、イエスが油注がれた方、キリストであると信じる人です。
ではなぜ勝利者は難を逃れて永遠のいのちと至福の中に入ることができるのでしょう。それはイエスが代価を支払って、わたしたちを罪から救い出してくださったからです。神と切り離されていたわたしたちの距離を埋め、以前は遠く離れていたのに、今はキリストの血によって神に近い者としてくださいました。
彼らはもはや、とがめられることがありません。火の池もありません。イエスがしっかりと守っていてくださるので、誰も迷いでることはありません。贖われたものは、ただイエスのもとに行くのです。
なぜそうなるのでしょう? たとえで説明しましょう。わたしには、ヨセフという息子がいます。何があっても彼はわたしの身内であることに変わりはありません。もしわたしが金持ちだったら、最悪、彼の相続権を排除するかもしれませんが、彼自身を否定することはできません。彼がわたしの血肉だからです。血液検査をしても、血液が一致して、ヨセフがわたしの息子であることが証明されるでしょう。彼はわたしのものです。 血液検査をすれば、あなたが神のものかどうかわかります。
かつてわたしはコロラド州で、ヒアフォードの純血種の牛の群れを、馬に乗って駆り立てていたことがあります。政府の牧場で草を食ませるためには、これらの牛たちを検査に連れていかなければなりませんでした。検査官は、血統を証明するタグが耳に付いていないものは一頭も許可しませんでしたから。タグは純粋種の証明でした。検査官には牛の銘柄はどうでもよく、ただ耳のタグを調べて血統が正しいかどうかチェックしました。ハレルヤ!もし血が正しいのなら、それで十分なのです。
神は地を見下ろして宣言されました、「罪を犯す魂は死ななければならない。彼はわたしから切り離されている。わたしに近づくことはできない」。ひとり残らず誰もが罪を犯し、神の栄光に預かる資格を失いましたから、誰もが皆死んで、神から切り離されたことになります。そしていつか最後の命も死に絶え、すべての終焉が訪れることになってしまいます。 しかし、愛の神によって、動物の命が、罪びとの命と引き換えにされました。
旧約時代には、罪びとは子羊を引いてきました。罪びとが子羊の上に手を置くと、祭司は子羊の喉を切り裂きました。罪びとは子羊の血がとくとくと流れるのをその手で感じ、哀れな鳴き声を聞きました。彼は死んで硬くなっていく羊の体を感じ、ふりかけられた血の煙が神のもとに昇っていくのを見て、子羊が身代わりになってくれたことを自覚しました。子羊の生命が、自分の罪のために失われたことを知ったのです。しかし子羊の命は動物の命であって、いつまでも罪びとを清めることはできませんでした。ですから罪びとはまた同じ罪を繰り返しました。心に罪を抱いて出て行き、次の年また罪の犠牲を捧げるために戻ってきました。
しかし、新約時代はそうではありません。わたしたちに与えられた子羊は神の御子であり、その血は多くの者のための身代金として流されました。信仰によって、わたしたちは御前に進み出て、その子羊に手を置きます。その子羊の血だらけの体と裂傷だらけの背中を見、鋭いとげによって裂かれた額を見、その痛みを感じ、叫びを聞き取ります、「我が神よ、我が神よ、どうしてわたしを見捨てられるのですか!?」。 すると、何が起こるでしょう。破壊された血球から離れていったいのちが、悔い改める者の上に帰ってくるのです。御子のうちにあったいのちが、わたしたちの上に帰ってくるのです。わたしたちはもはや、再び罪を犯すことを望みません。肉の行いや欲望を嫌悪するようになります。
わたしたちの生命とは、いったい何でしょう? 父親から受け継いだたった一つの細胞にすぎません。女性にはヘモグロビンがありませんから、卵子を提供して培養器となるのが女性です。血は男性が提供します。だから女性は男性方の苗字を名乗るのです。子どもも父方の苗字をとります。母親は子を胎内で培養し産むのです。
聖霊がマリアに臨み、彼女は御子を産み、イエスと名付けました。偉大な創造主が、降臨し、わたしたちの罪のいけにえとなられました。その血は神の血です。まさにそのとおりです。神の血が流され、苦しみながら死んだ彼のもとから霊が離れました。それから、そのおなじいのち(霊)が戻ってきて悔い改める罪びとのうちに留まり、罪びとを自由にしました。 罪びとは毎年犠牲を捧げるために戻ってこなくていいのです。その必要がないのです。最初で最後の、一度だけの犠牲で、罪の支配から解放され、キリストのいのちを受けたのです。だから彼は、罪とこの世と肉と悪魔に打ち勝って支配する側に立ったのです。これがわたしたちの救いのために起こったことです。
神は成し遂げられました。神がすべてを成し遂げられました。神は罪の呪いの中にある世界に向かって叫びました、「わたしはあなたたちに一つのしるしを与える。処女が子を持つだろう。処女がみごもり、男の子を産む。それがしるしである。それは永遠のしるしになる。彼女が産む子はインマヌエルと唱えられる。神が共におられるからである。」
神はひとつの血球の中に降りてこられました。人の手によるのではなく、聖霊によってです。処女の子宮に、死ぬために来られた方の幕屋が建てられました。女の子孫(創世記 3:15)は、打たれて、わたしたちに救いをもたらすために来られました。聖霊がマリアに臨んだとき、彼女の子宮内に細胞が創造され、それが細胞分裂して主の体が出来上がりました。その細胞は創造されたものです。それは神の創造の最初のものでした。それがイエスです。その聖なるお方に聖なる血が、神の血が与えられました。そして生まれて、おとなになり、ヨルダンにおもむき、ヨハネによってヨルダン川で洗礼を受けました。いけにえは水で清められなければならないからです。水から上がると、神がイエスに留まりました。彼は際限なく豊かに神の霊を受けました。イエスが死んで、血が流されると、神の完全ないのちは自由になって、キリストを救い主として受け入れる罪びとの上に戻ってくるようになりました。
なんと衝撃的な事実でしょう。イェホヴァは、肥やしの山で産声をあげました。イェホヴァは馬小屋の藁の上で生まれました。自尊心が高く、得意になっている見せかけの教養人たちよ、自分の神学を展開して神の真理を否定する者たちよ!これがあなたがたに与えられている永遠のしるしです。神なるイェホヴァは臭い馬小屋の中で赤子として泣いていました。それなら得意になって、鼻をつまんで非難し、自分の方が偉いと言えるかもしれませんね。しかしこれが、あなたがたへの本当のしるしです。正しいしるしです。イェホヴァは、幼児になって遊びました。イェホヴァは大工小屋で働きました。イェホヴァは漁師の足を洗いました。
「あなたがたにしるしを与えます、」神は言われました。「それは月給取りの祭司のしるしではありません。富や力のしるしでもありません。このしるしをあなたは欲しないし、適してもいないと思うでしょう。しかしこれが永遠のしるしなのです。最高のしるしなのです。」イェホヴァが法廷の中庭で鞭打たれ、いばらの棘により額から血を流しています。顔に唾をかけられ、嘲られ、軽蔑されています。軽蔑され、見捨てられ、裸にされて十字架にかかっています。偽善者から、十字架から降りてこいと野次られています。イェホヴァが死にかけています。イェホヴァが祈っていますが何も起こっていません。そしてイェホヴァが息をひきとりました。これが今、すべての人に与えられているしるしです。他にしるしはありません。これは偉大なしるしです。
それから闇が地上を覆いました。墓に葬られ、三日三晩墓にとどめ置かれていましたが、突然地震が起きて闇が払拭され、彼は起き上がりました。イェホヴァは復活しました。イェホヴァは天に挙げられました。それからイェホヴァは戻ってきて教会に宿りました。イェホヴァは激しい風と炎を携えて戻ってきました。イェホヴァは戻ってきて、教会の中を歩き、信徒らを力づけました。またもう一度、イェホヴァは来られました。今度は信徒のうちに宿っておられます。そしてかつてのように病気を癒し、死人を生き返らせ、霊によってご自身を明らかにしておられます。イェホヴァは戻って来られ、異言を語り、異言の解釈を与えておられます。
イェホヴァは戻ってこられ、再び罪を犯さないように売春婦を励ましました。意識を失って排水口に寝ている汚れた呑んだくれのもとにも戻ってこられました。そうです、イェホヴァは肉体をもって現れ、また、肉体を通してご自身を現されます。イェホヴァは来られました。神がわたしたちのうちにおられる、これこそ栄光の希望です。
イエスは来られ、ご自分の血を流され、囚われ人を自由にしました。来て、失われていた羊を贖われたのです。永遠のいのちを与えてくださったので、信徒は消滅しません。イエスは彼らのうちの誰も失うことなく、終わりの日に復活させてくださいます。ハレルヤ、第二の死が彼らに害を及ぼすことはありません。第二の死は彼らにとって何の意味もないのです。彼らが子羊のものであり、子羊が行くところにはどこにでもついて行くからです。
すべての時代における聖霊のはたらき
「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」
(黙示録 2:11)
上の言葉は、どの教会時代にも語られました。どの時代にも、同じ忠告です。「耳のある者は御霊の言われることを聞きなさい。」しかし、すべての人が、別の教会時代に霊の語られる言葉を聞くのは実際は不可能です。
「しかし私たちは、聖人の間で、知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でもなく、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。
まさしく、聖書に書いてあるとおりです。
『目が見たことのないもの、 耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。 神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。』
神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。
いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。
ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜ったものを、私たちが知るためです。
この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。
その御霊のことばを持って御霊のことを解くのです。生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです
。御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。いったい、『だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか。』ところが、私たちには、キリストの心があるのです。」
(1コリント 2:6-16)
「わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、
聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。
こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。
『あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである。』
しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。」
(マタイ13:13-16)
「イエスは言われた。
『神がもしあなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。なぜなら、わたしは神から出て来てここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わしたのです。あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう。それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです。あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。』」
(ヨハネ 8:42-44)
これらの聖書箇所から、だれも自分自身の能力で、神のことばを聞くことができないことがわかります。その能力は神から与えられるのです。
「するとイエスは、彼に答えて言われた。
『バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。
このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。』」
(マタイ 16:17)
以上の聖書箇所をまとめると、唯一の特別なグループの人びとが各時代に存在して、神の霊を聞き分けることができることがわかります。唯一の特別なグループが、各時代に与えられた啓示を受け取ります。そのグループは神からのものです。ヨハネ 8:42-44 によれば、神からのものでなければ神のことばを受け入れることができないからです。神の霊が語られることを聞き、啓示を受け取るグループは、1コリント 2:6-16 に記されている人たちです。彼らは神の霊を受け、神から生まれた人たちです。洗礼を受け、聖霊によって、主イエスキリストのからだになった人たちです。聖霊のバプテスマを受けた人たちです。
これまで語って来たことと、聖書のことばを心に留めて、では、いったい、聖霊のバプテスマをうけた人とは誰なのか調べましょう。イエスはこう言われました、
「預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる』と書いてある」
(ヨハネ 6:45)
そしてイザヤ書を読むと、
「あなたの子どもたちはみな、主の教えを受ける」
(イザヤ 54:13)
とあり、神によって教えられる人はみな、神の子どもであることがわかります。御霊が降ってその人のうちに宿っている、聖霊によって神のことばを教えられる、これが神の子どもの証拠です。
なぜ異言が聖霊のバプテスマの証拠でないのか、少しわかって来ましたか。どの時代にも、「異言を語るものは御霊が諸教会に言われることを語りなさい」とは書かれていません。異言や異言の解釈や預言などは、証拠として挙げられていません。聞くこと、御霊の言うことを聞くこと、それが証拠なのです。御霊は語っています。御霊は教えています。これこそまさに、聖霊が来れば、聖霊が行うとイエスが教えられたとおりのことなのです。
「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、
あなたがたにすべてのことを教え、
また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」
(ヨハネ 14:26)
このことはまさに実現しました。福音書が書かれたのもこれによります。福音の書記たちは、聖霊によって、イエスが語られたことばを正確に思い出すことができたのです。だから福音は正確なのです。完全なのです。聖霊は思い出させるだけでなく、彼らがすでにいただいている真理をさらに追求して明らかにしています。パウロが啓示をうけたのは、このようにしてでした。
「兄弟たちよ。私はあなたがたに知らせましょう。
私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。
私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。
ただイエス・キリストの啓示によっって受けたのです。」
(ガラテヤ 1:11-12)
そうです。パウロは聖霊から教えられたのでした。
イエスが地上におられたとき、ある晩著名な人がやって来ました。彼は、「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。」と言いました。しかしイエスはそれ以上言わせず、ニコデモに向かってこのように言い換えられました。「わたしは教師ではありません。わたしは罪のいけにえの子羊です。わたしはわたしの霊によって、あらたに生まれ変わることができるようにします。しかしあとから来られる方があります。その方が教師で、それは聖霊です。」イエスは神の子羊として、預言者として地上に来られました。それからイエスが霊によって教会に戻って来られたとき、彼は教師となられたのです。
「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」
すべての時代がこの真理を聞きます。しかし実際には聖霊に満ちた人だけがその時代の啓示を聞くことができます。
他の人にはできません。パウロが1コリント 2:6-16 で言ったとおりです。
これを聞いたら、安心する人もいるかもしれません。ちまたには、ひどく誤解を招くような奇妙な教えが行き交っています。それは、ペンテコステ派の人たちが言う、異言を語らなければ聖霊のバプテスマを受けたことにならないということです。彼らの判断基準によると、ノックスやムーディやテイラーやゴーフォースらの偉大な人たちは聖霊を受けていないことになるか、あるいは、誰にも知られずに異言を語っていてそれを説明できないでいると言っているようなものです。それは大きな間違いです。 異言は、聖霊に満たされていることの証拠にはなりません。それは、1コリント 12 に記されている9つの賜物のうちのひとつです。聖書のどこにも、異言を語っているうちに聖霊に満たされた、あるいは、異言を語ったので聖霊に満たされたとは書いてありません。そうではなく、「彼らがみな聖霊に満たされたあと、異言を語り出した」それからのちに、彼らは預言し始めたのです。
こんにち、異言を語ったので聖霊を受けたと主張している人たちがいます。本物の霊の異言を受けたのだと彼らは思っていますが、そうではありません。多くの人々は悪い霊の影響を受けて言語を語っているからです。ある集会に参加して、そこで人々がみな異言を語っているとしましょう。どの異言が聖霊からのものでどれが悪霊からのものかどうやってわかるでしょう? わたしは異教徒のところに行って、魔女たちがドクロから血を飲んでいるのを見ました。彼女らは異言を語り、それを解釈し、預言し、異言を自動書記さえしたのです。さて、異言が聖霊を受けた証拠であるなら、すべての異言は神からのものであるはずです。しかし、それを主張する人たちも、本物と偽物の異言があり、本物は神から、偽物はサタンからくることを認めています。 では質問します、「どれが本物か、誰が知っていますか? 誰が語られた言語を理解しますか? 誰にそれを知る識別の賜物が与えられていますか?」 これらの答えを出すために、もう少し調べなければなりません。しかしそれまでの間、異言の出所について考えてみましょう。 もしあなたが、異言証拠説を支持していて、異言で何が語られているのかわからないなら、すべての異言は神からくると言う立場をとらざる得ないでしょう。すると、悪魔は異言が語れないと信じることになる。でもそうではありません。外国の奥地まで入っていく宣教師なら、悪魔も異言を語ることをよく知っています。また経験から、わたしも知っています。
ペンテコステ派の神学者は、聖霊のバプテスマを受けるとき人々が異言を語るという記述が、聖書にないことを認めています。彼らは、使徒の働きに記されている聖霊のバプテスマの場面で、5回のうち3回、異言の記述があることから推測したと認めています。さらに彼らは、聖書には書いてありませんが、二種類の異言があるといいます。 ひとつは聖霊を受けている間に語る異言で、それがバプテスマの証拠となります。もうひとつは、もし信じるならば賜物として与えられる異言で、その異言はずっと語られていきます。一方、証拠の異言は、バプテスマの際に語られたあと一切語られることはありません。これが彼らの言い分ですが、神はどこでそのようなことを語られたのでしょう。聖書にその記述がないなら、神は語っておられないのです。災いだ、みことばに付け加える者は。 しかし彼らが見落としている(無視している)ことばがあります。1コリント 13 によると、異言には、人の言語と天使の言語があると書かれています。理解できる言語と理解できない言語です。ペンテコステ派の人たちは、聖霊を受けるときには理解できない言葉あるいは天使の言語を語ると言って、墓穴を掘っています。なぜなら、使徒の働き2章によれば、聖霊降臨の時に人々は完璧な方言を語ったので、未信者でさえそれを聞いて理解したと書かれているからです。
神が沈黙されるとき、わたしたちも沈黙しましょう。神が語られたなら、わたしたちも口を開いて、神が語られたことを語りましょう。神は、聖霊のバプテスマを受けた証拠、あるいは、受けたあと何が起きるかを語られました。教師が来て、真理について全て明らかにしてくれるのです。でも、その教師はわたしたちの内側に存在するのであって、姿形を持った教師ではないのです。もし、御霊が内側におられないなら、いくら毎日まい時間真理が語られていても、それを聞くことができず、啓示を受けて理解することができないのです。それがパウロの時代に御霊が宿っているしるしでした。聖霊に満たされた人たちは、みことばを聞き、理解し、それに従って生きました。御霊を受けていない人たちは、肉の人としてみことばを聞き、間違った解釈をし、罪から離れませんでした。
真の信者にとっては、すべての時代が聖霊の時代であり、どの時代でも、聖霊が真の信者に与えられている証拠は同じです。教師である御霊を受けている人たちがみことばを聞くと、内なる御霊がみことばを取り上げ、彼らにわかるように教えてくれるのです。彼らこそが、その時代の使者のメッセージを聞き、理解し、そのとおりに生きた人たちです。
聖霊降臨の時やコルネリアスの家に聖霊が降った時を引き合いに出して、異言が聖霊のバプテスマの証拠であると主張したい衝動にかられるかもしれません。しかし、その時に語られた異言は、聞いている人が理解できる言語でした。ペンテコステ集会で聞かれる現代版バベルの混乱とはまったく違うものです。 これでもまだ納得できないのなら、もうひとつ、事実をお話しします。一度も異言を語ったことがなくても、他の八つの賜物を持っている人たちがいるのが事実です。知恵のことば、霊の識別、知識のことば、信仰、癒し、それに奇跡を起こすことなどの賜物です。これらの賜物に比べると異言は軽いのです。実際に異言を語らない人たちがもっと重要な賜物を用いているのですから、そのような証拠説は支持すべきではないでしょう。
聖書が語っていないことを、わたしたちが語ることはできないのです。聖書が聖霊の働きを教え、祝福されたお方の姿を示すのは、各時代に明かされた真理を、その時代の正統な子孫に与えるためです。ですから、御霊がその人の内に宿っていなければ、誰もその時代に与えられた真理を理解することができないのです。アーメン。そして各時代が何かを生み出すとすれば、この真理を生み出し、実をつけるのです。
つぎに移るまえに、聖霊のバプテスマとは何かをはっきりさせたいと思います。わたしの見解ではなく、あなたの見解でもあってはなりません。それは、はっきり神から「主がこう言われる」と裏付けを得たものでなくてはなりません。そうでなければ、道から迷い出てしまいます。アーメン。
わたしの集会では、説教や教えが終わったあとに、神のもとに来るよう呼びかけます。そして応じた人たちに、前に来て聖霊を受けるように勧めます。ペンテコステ派の友よ、こう話すと、すでに生まれ変わった人たちを前に来させて聖霊のバプテスマを受けるよう勧めていると思うかもしれません。つまり、わたしが聖霊に満たされた人たちを招いて聖霊を受けるように勧めると、応じた人たちが押しかけてきて、人々を神に委ね、異言が語れると信じるよう勧めているのだと。これはとんでもない思い違いです。事実は全く別です。わたしは罪びとを招いて生まれ変わるよう勧めているのです。生まれ変わるとは、聖霊によって、バプテスマを受けてキリストのからだに組み込まれることです。あの聖霊降臨の時にまさに起こったことがそれです。言い換えれば、聖霊によって生まれるということは、聖霊によってバプテスマを受けることと同じです。
聖霊を受けるタイミングについても、混乱がおこっています。わたしがかつてバプテスト派の宣教師であったことをご存知の方は多いと思います。バプテスト派の人たちは、信じた時に聖霊を受けると言っていますが、断固として言いますが、それは間違っています。真実は、「信じてから(後)」に聖霊を受けるのです。
『信じたとき、聖霊を受けましたか」と尋ねると、
彼らは、「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした』と答えた。
『では、どんなバプテスマを受けたのですか』と言うと、
『ヨハネのバプテスマです』と答えた。
そこで、パウロは、
『ヨハネは、自分のあとに来られるイエスを信じるように人々に告げて、
悔い改めのバプテスマを授けたのです。』
これを聞いたその人々は、主イエスキリストの御名によってバプテスマを受けた。
パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、
彼らは異言を語ったり、預言したりした。」
(使徒行伝19:2-6)
パウロは「信じたとき、聖霊を受けましたか」と尋ねましたが (日本語の聖書ではこの時制の表記が曖昧なのですが)、信じた時という意味ではありません。とても大きな違いです。信じてから後に、聖霊を受けたのです。エぺソの信徒たちに起こったことが、追認となっています。
「この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、
またそれを信じたことにより、約束の聖霊を持って証印を押されました。」
(エペソ 1:13)
わたしが言いたいのはこうです。現代人の多くが、また、原理主義者(自称)さえもが、救いということを、「決意した」時点に限定しており、その時点でキリストを受け、あるいは、生まれ変わったと信じています。キリストを受けるというのは、キリストの霊を受けることです。キリストの霊を受けるというのは、生まれ変わるということです。キリストの霊を受けるというのは、聖霊のバプテスマを受けることです。アーメン。素晴らしいことに、ここまでは、多くの人も信じています。しかし、そこで止まってしまいます。あなたは信じた。、それから聖霊を受けるのです。今までずっとそうだったし、これからもすっとそうです。五旬祭(ペンテコステ)の時、ペトロが出した最初の指示はこうです。
「悔い改めなさい。
そして、それぞれ罪を赦していただくために、
イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。
そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」
(使徒の働き 2:38)
五旬祭に実際に起こったことを説明して、ペトロが答えた指示でした。実際起こったこととは、神がヨエルの預言どおりに、約束された聖霊をすべての肉に注いだということです。聖霊はこれ以前に注がれたのではなく、これ以前に与えられたのでもありません。しかし、このことが起こってから以降は、神は、悔い改めて主イエスキリストの名によって洗礼を受ける人を聖霊で満たすという約束を果たされています。ペトロも、他の使徒たちも、「生まれ変わりなさい、そうすれば聖霊で満たされます」とは言っていません。
聖書には聖霊を受ける経験の行動様式が書かれています。これからは、聖霊が降ったときには、注意してみてください。
「ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。
群衆はピリポの話を聞き、その行なっていたしるしを見て、みなそろって、
彼の語ることに耳を傾けた。 汚れた霊につかれた多くの人たちからは、
その霊が大声で叫んで出て行くし、多くの中風の者や足のなえた者は直ったからである。
それでその町に大きな喜びが起こった。ところが、この町にシモンという人がいた。
彼は以前からこの町で魔術を行なって、サマリヤの人々を驚かし、自分は偉大な者だと話していた。
小さな者から大きな者に至るまで、あらゆる人々が彼に関心を抱き、
『この人こそ、大能と呼ばれる、神の力だ』と言っていた。
人々が彼に関心を抱いたのは、長い間、その魔術に驚かされていたからである。
しかし、ピリポが神の国とイエス・キリストの御名について宣べるのを信じた彼らは、男も女もバプテスマを受けた。
シモン自身も信じてバプテスマを受け、いつもピリポについていた。
そして、しるしとすばらしい奇跡が行われるのを見て、驚いていた。
さて、エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、
ペテロとヨハネを彼らのところへ遣わした。
ふたりは下って行って、人々が聖霊を受けるように祈った。
彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、
聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。
ふたりが手を置くと、彼らは聖霊を受けた。」
(使徒の働き 8:5-17)
節によると、彼らは神のことばを信じ、それから主イエスキリストの名において洗礼を受けました。しかし、16節によると、信じて受洗してもまだ、彼らは聖霊を受けていなかったのです。ですから、信じて、正しい御名によって洗礼を受けたあと、聖霊を受けるのです。これが聖霊を受ける行動様式であり、ペトロが言ったとおりです。
「そこでペトロは彼らに答えた。
『悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、
イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。
そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。
なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、
すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。』」
(使徒の働き 2:38-39)
このことに関して、驚くべき光を放っている別の箇所があります。
「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、
私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。
なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである』と書いてあるからです。
このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、
その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。」
(ガラテヤ 3:13-14)
さて、「アブラハムに与えられた祝福」にあずかれば、生まれ変りの体験をしたことになるとは決して言えません。それに、「聖霊の約束」と聖霊のバプテスマとは別の出来事です。この聖書箇所はこう伝えているのです、「イエスは十字架にかかって死んでくださいました。イエスの死と復活によって、アブラハムに与えられた祝福が、ユダヤ人から異邦人に移ったのです。これにより、聖霊が異邦人に与えられる道が拓けたのです。」
パウロはどこの箇所でも、「生まれ変わって、それから聖霊で満たされなさい」と言っていません。そのことをどうして聖書を学んでいる人たちが、気づかないのか、それを明らかにしましょう。彼らは自分たちの推測に従って、自分たちの解釈を勝手に付け加えているのです。しかし、聖書にはそう書いてありません。イエスもそう言いませんでした。
「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。
『誰でも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
わたしを信じる者は、聖書が言っているように、
その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』
これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。
イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」
(ヨハネ 7:37-39)
おわかりになりましたか。信じる者がイエスのもとに来て飲むと、後になってイエスから注がれる生きた水の川を受けると、強調して書かれています。その時期は五旬祭まで待たなければなりませんでした。さて、このことを念頭において、次の箇所を読んでみましょう。
「もしあなたが神の賜物を知り、
また、あなたに水を飲ませてくれと言う者が誰であるかを知っていたなら、
あなたのほうでその人に求めたでしょう。
そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」
(ヨハネ 4:10)
「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。
わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出します。」
(ヨハネ 4:14)
同じ生ける水について語られています。しかしこの場合は、川でなくて泉です。ここでつまずく人があるのです。川と泉は別ものだと考えてしまうのです。ひとつは聖霊によって与えられる永遠のいのちのことで、川のほうは、そのちから強さから、御霊による力の賦与であると、このように区別してしまっています。でもそうではありません。どちらも同じ、ひとつのものです。それはいのちと力を与える御霊のことで、聖霊降臨の時に注がれたのです。
どうしてこのような誤解が生じるのでしょう? 答えは「経験」です。経験に頼って、みことばに頼っていないからです。経験を自分の物差しにしていると、真実から離れてしまいます。基軸はただひとつ、みことばです。もう一度、注意深く、読んでください。ペテロは、「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」と言いました。そしてパウロは、「信じてから、聖霊を受けましたか?」と尋ねました。ここに問題のすべてがあるのです。人々はそれぞれの罪を悔い改めます。そして水で洗礼を受けます。しかしそれで終わりではないのです。それだけではまだ聖霊を受けていないのです。信じ続けて聖霊を受けるのです。 イエスを信じることは、聖霊を受けるための大切なステップです。でもそれだけで満足して止まってしまう人がいます。信じて洗礼を受ける人々がいます。でもそこで満足して止まってしまいます。聖書は信じた時に聖霊を受けるとは言っていません。「信じてから、聖霊を受けましたか?」です。文字通り言うなら、「以前信仰に入ってのち、聖霊を受けましたか?」となります。悔い改めて、イエスを信じる信仰に入っただけでは、まだ聖霊を受けていないのです。もっと求め続けて聖霊を受けるのです。理解していただけましたか。ここが原理主義の人たちの間違っている点なのです。彼らの聖霊降臨の理解がじゅうぶんでないため、彼らには力がありません。
彼らは、エジプトを脱出したのに約束の地にたどり着けなかったイスラエルに似ています。エジプトを出たとき、彼らは2百万人超の大群でした。皆で神の奇跡を目の当たりにし、共にマナを食べ、共に岩からほとばしり出た水を飲みました。昼は雲の柱、夜は火の柱に導かれて皆いっしょに旅をしたのです。しかし約束の地にたどり着いたのはたった二人でした。ただ二人だけが真の信者だったのです。聖書に、他の者たちは不信仰のために死んだ、不信仰のために彼らは約束の地に入ることができなかった(ヘブル 3:19)と書いてあるからです。だから、ただ二人だけが約束の地に入り、あとの者たちは真の信者ではなかったことになります。その二人は神の約束を信じていたのです。カデシュバルネアで、10人のスパイが落胆していたとき、ヨシュアとカレブは動揺せず、「わたしたちはかならず土地を手に入れることができる」と言いました。彼らが、神が語られた「あなたたちにこの土地を与えた。」ということばを信じていたからです。他の者たちは神の力と好意と救いを体験しながらも、安息に入ることができませんでした。この安息は、聖霊のたとえです。ですから、ほんの少数が、神の霊を受けるに至るまで信じ尽くすようになるのです。
さらに進めていきましょう。もし感情を害する人がいても、わたしにはどうすることもできません。わたしは神に仕え、神のことばに仕え、神から与えられた人々に仕えています。わたしは神から託された言葉に、忠実でなければなりません。
「父がわたしにお与えになる者は皆、わたしのところにきます。
そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」
(ヨハネ 6:37)
「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。
わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。」
(ヨハネ 6:44)
「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、
神の子どもとされる特権をお与えになった。
この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、
ただ、神によって生まれたのである。」
(ヨハネ 1:12-13)
「神は私たちを世界の基が置かれる前から彼にあって選び、
御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、
愛をもってあらかじめ定めておられました。」
(エペソ 1:4-5)
神の主権についてはさておいて、(これを取り上げたら、本一冊分になってしまいますから)これらの聖書箇所からわかることは、男性が花嫁を選ぶように、イエス・キリストはご自分の花嫁を選んでいるということです。花嫁がだれを花婿にするか決めるのではありません。花婿が決断し、特定の女性を花嫁に選ぶのです。
「あなたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたを選び、あなたを任命したのです。」
(ヨハネ 15:16)
神のことばによれば、花嫁は世界の基が築かれる前から選ばれていました。ご自分のために花嫁の選びは行われたのです。
「神の選びの計画の確かさは、行いにはよらず、召してくださる方による」 (ローマ 9:11)
このことばに、別の解釈をすることは不可能でしょう。神の永遠の目的はご自身のために花嫁を選ぶことだったのです。そしてその選びは、世界が築かれる以前にすでに定められていたのです。
さて、星屑ひとつ存在しない頃、神が神である以前(神は崇拝されるから神なのであって、だれも存在していない状態では、潜在的神であったと言えます)、ただ永遠の霊であった頃、花嫁はすでに神の思考の中にいました。花嫁は神の思考のうちに存在していたのです。神の思考とは何でしょう。それは永遠です。
「神の思考は永遠ですか?」これがわかれば、多くのことがわかります。神は本質的に不変です。そのふるまいのパターンも不変です。そのことはすでに立証済みです。神の可能性は無限なので、神は全知です。神が全知なら、学ぶ必要もないし、自分にカウンセリングをする必要もないし、新たな知識を加える必要もありません。もし神が知識を増し加えるなら、全知とは言えません。時々はそうすることもできるかもしれないと言うとしても、それは聖書的ではありません。神は全知なのです。新しい思考を持つことはありません。神の思考は昔も今も未来もずっと変わらないのです。神であられるので、初めから終わりのことまで全てご存知です。ですから、神の思考は永遠であり、実在するものなのです。ある人が青写真を描き、それをいつか実物にするというのとはわけが違います。神の思考はすでに現実であり、永遠に存在し続け、神の一部なのです。
神のうちにはいつもアダムへの思いがありました。神の思考の中のアダムはまだ表現されていませんでした。
「私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、
私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。
あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書き記されました。
私のために造られた日々が、しかも、その一日もないうちに。」
(詩篇 139:15-16)
これはアダムについて書かれたものではありませんが、神の思考のうちにすべてが計画されて、組み立てられていたことをはかり知ることができます。その思考は永遠ですから、表現されなければなりませんでした。アダムが大地のちりから造られ、神によっていのちあるものとなったとき、初めてアダムは、神の思考が、永遠の思いが、具現化したものとなったのです。
モーゼもエレミヤも洗礼者ヨハネも、それぞれ神の永遠の思考が、それぞれの時代に具現化して登場しました。それから、ことばであるイエスが登場しました。イエスは、神の思考が完全無欠で現れた、そしてみことばとして知られることとなったお方でした。そして今もそうです。そしてこれからもそうあり続けます。
「神はイエスにおいて、私たちを世界の基が築かれる前からお選びになった」とありますが、それはわたしたちがすでに、イエスと共にそこに存在していたということです。わたしたちは、世界の基が築かれる前から神の思考の中に存在していたのです。すると、選びということに永遠の価値が生じているのです。これを無視することはできません。
人間の誕生にも、選びの原理が働いています。女性の子宮はたくさんの卵子を出しますが、どうして、ある特定のときに特定の卵子が出てくるのでしょう? どうして他の卵子ではないのでしょう? そして男性の精子も、どうしてかはわかりませんが、ある特定の精子が卵子に結びつきます。他の精子はもっとたやすくその卵子に到達できたかもしれないし、もっとそのチャンスがあったかもしれないのに、そうはならず消滅しました。そこにはある知能が働いていると言えます。そうでなければ、どうやって、赤子が男か女か、ブロンドか茶色か、青い目か黒い目かなど、決定されるのでしょう? このことを念頭において、ヨシュアとカレブについて考えてみましょう。イエスは、
「あなたがたの父祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました。」
(ヨハネ 6:49)
と言いませんでしたか? 荒野で死んだのは、イエスが話しかけている人たちの先祖であったのでしょう。荒れ野で滅びたのは、神の「自然の選び」の人たちでした。一方、ヨシュアとカレブは、神の「霊的選び」でした。
さて、選びというのは、時が満ちて神の永遠の思考がこの世に現れることだけではありません。同じ選びが、別の呼び方をされることもあります。
「そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。
それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、
すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、
アブラハムの信仰に習う人々にも保証されるためなのです。
『わたしはあなたをあらゆる国の人々の父とした』と書いてあるとおりに、
アブラハムは私たちすべての者の父なのです。」
(ローマ 4:16)
「アブラハムから出たからといって、すべてが子どもなのではなく、『イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる』のだからです。
すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもではなく、約束の子どもが子孫とみなされるのです。
約束のみことばはこうです。『私は来年の今ごろ来ます。そして、サラは男の子を産みます。』 このことだけでなく、私たちの父、イサクひとりによってみごもったリベカのこともあります。
その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行われないうちに、神の選びのご計画の確かさが、行いにはよらず、召してくださる方によるようにと、『兄は弟に使える』と彼女に告げられたのです。
『わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ』と書いてあるとおりです。」
(ローマ 9:7-13)
「ところで、約束は、アブラハムとそのひとりの子孫に告げられました。
神は『子孫たちに』と言って、多数をさすことはせず、
ひとりをさして、『あなたの子孫に』と言っておられます。その方はキリストです。」
(ガラテア 3:16)
「もしあなたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、
約束による相続人なのです。」
(ガラテア 3:29)
ローマ 4:16 によれば、神はアブラハムのすべての子孫に確かな約束をされています。「アブラハムは私たちすべての者の父です」とあるとおり、パウロ自身も、すべての信者も当該者となります。そこからパウロは定義づけをはっきりさせていき、ガラテア3章では、単数形の子孫をキリストに、「子孫たち」を約束の子どもたちに限定しました。また約束とは「神の選び」に関わることとしました。正統な血筋となるものは、神の選びによってあらかじめ決められていた人たちであり、神の思考の中に存在していた人たちです。はっきり言えば、真のキリストの花嫁は、それぞれ定められた時が来てこの世に出現するまでは永遠の神の思考の中にいました。この花嫁とは、神の仰せの子孫である花嫁です。花嫁ですから女性形ですが、「キリストのからだ」とも呼ばれています。彼女はキリストによって前もって定められていたので、そう呼ばれるのは妥当です。彼女はキリストから出て、永遠にキリストとともにいて、そして今は、多くの構成員からなるキリストのからだの一員として、神を明らかにしています。わたしたちの主イエスキリストも、かつてからだの一員として、神を明らかにされました。
結論に近づいていきました。永遠のロゴス(神)は御子のうちに出現しました。イエスのうちには神性が余すところなく満ちあふれていました。この永遠のお方は、御父が肉の体を持って出現されたので、御子と言われました。わたしたちは、永遠に神の思考の中に存在していたが、定められた時に世に生まれて、神の仰せの子孫となりました。永遠の思考が肉の体を持って現れたので、神の子どもとなり、わたしたちはそう呼ばれるのです。生まれ変わることによって子孫になったのではなく、もともと子孫だったので生まれ変わることができたのです。選ばれたものだけが生まれ変わることができるのです。わたしたちは子孫だったので、時期を経ていのちを得ることができました。種を持たないものは、いのちを得ることができません。
このことを念頭に置いて、次に移りましょう。贖いとは、買い戻すことです。最初の持ち主のもとに戻ることです。神は死によって、血を流すことによって、ご自分のものを買い戻されました。神の仰せの子孫である花嫁は、神によって買い戻されました。「わたしの羊はわたしの声(ことば)を聞く、そしてわたしに従う。」あなたはずっと羊でした。豚や犬から羊に変わったのではありません。すべていのちあるものは、同じ種類を生じさせるのであって、異種を生じさせないからです。 わたしたちは神の思考の中にあったのが、肉体を持ってこの世に生まれました。やがて神の声(ことば)を聞く日がやってくるに違いありません。その声を聞いたら、御父が呼んでおられることに気づき、神の子としての自覚をもつことになります。わたしたちは神の声を聞くと、放蕩息子のように叫びました、「お父さん、わたしを救ってください。あなたのもとに帰ります。」
神の子は、自覚する前からずっと神の子であることに変わりはないのです。真のクリスチャンは、鶏小屋で生まれた鷲のひなにたとえることができます。鷲は真の信者のたとえです。ある農家が鷲の巣から卵を取ってきてめんどりに温めさせました。時が来てめんどりの卵がすべて孵化しました。鶏のひなたちはめんどりとうまくやっていましたが、鷲のひなは地面の餌をつついて食べることができずに苦労しました。なんとか生きてはいましたが、何もかもがこんがらがっていました。 しかしある日、空高く飛んでいた母鷲が、地面にいる自分のひなを見つけ出しました。ものすごい速さで急降下して、自分のひなに鋭い叫び声を上げ、飛び上がるよう促しました。小さな鷲は今まで鷲の声を聞いたことがありませんでしたが、その声を聞いた途端、内側から何か込み上げてくるものがあって、それに答えたいと強く願いました。でも怖くてできません。再度母鷲は叫び、風に乗って舞い上がってついて来るよう促しました。小さな鷲は、怖くてできないと叫び返しました。母鷲は、いいからやってみなさいと叫びました。小さな鷲は翼をばたつかせ、空に向かって自分を投げ出しました。そうやって母鷲の叫びに答え、青空に舞い上がっていきました。彼はいっとき鶏のように振る舞いましたが、満足できずにいました。彼は最初からずっと鷲だったからです。でも大きな鷲の声を聞いた時、自分が何者であるか気づきました。真の神の子であったものは、霊の叫びのことばを聞くと、自分が何ものであるか気づいて偉大な鷲のもとに駆けていくのです。そしてイエスキリストにおいて、天の御座に、永遠に神とともにいることになります。
さて、とうとう勝利の頭石が、聖霊によるバプテスマというかたちでやってきます。
「しかし定めの時がきたので、神はご自分の御子を遣わし、
この方を女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。
これは律法の下にある者を贖い出すためで、
その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。
そして、あなたがたは子であるゆえに、神は『アバ、父』と呼ぶ、
御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。
ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。」
(ガラテヤ 4:4-7)
イエスが来られ、十字架で死なれ、贖い(代価を支払うことにより、もとの持ち主のところに戻ること)を成就してくださいました。そしてわたしたちを子どもの身分にしてくださったのです。わたしたちはすでに子どもですから、子どもにしてもらったのではありません。子どもの身分を与えてもらったのです。この世に肉体をともなって生きているうちは、神の子どもとしての自覚を持つことができません。以前は悪魔に捕らわれていました。しかしそのような状態にあってもわたしたちは子どもでした。あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。 「誰の上に、五旬祭の日に聖霊が注がれましたか?」 子どもたちにです。「コリントにおいては?」 みことばを聞いているうちに、子どもたちの上に聖霊が注がれました。
聖霊によるバプテスマとは何ですか? 聖霊によって清められ、キリストのからだの一部になることです。それは新しい誕生です。神のことばを聞いて、悔い改め、神への誠意を示すために水による洗礼を受けたあなたのうちに、神の霊が入って、あなたを満たすことです。
さて、神はおひとりであるという理解の上にたって、話を進めてきました。神は三位一体ではなく、おひとりです。ですから、わたしたちはイエスのいのちの霊を受けて生まれ変わり、その結果聖霊が降って、力を受けたのではありません。もしそうなら、御父に対して失礼を働いてしまうことになります。御父なしで救いを完成させてしまうのですから。もし救いが主によるのであって、主が三人おられるのなら、御父にも何かの出番がなくてはなりません。しかし、そのような混乱が起きないよう、イエスははっきりと言われました。神は神おひとりであって、その唯一の神が信じるもののところに来るのだと。
ヨハネ 14:16 で、イエスは、「父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります」と言っています。しかし、17 節では、「その方(イエス)はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられる」と言っています。18 節では、「わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。」と言っています。
節では、イエスは弟子たちに対して、「わたしたちは(御父と御子)その人のところに来て、その人とともに住みます。」と言っています。 ですから、父と子と聖霊が同時に来られるのです。なぜなら、神格を形成しているのはおひとりの神だからです。イエスが弟子たちに約束した助け主の到来は、五旬祭の時でした。霊は二度降って来たのではなく、一度です。残念なことに、真理を理解していない人たちがいて、罪の赦しのためにイエスを信じても、その先に進んで聖霊を受けようとしないのです。
この章を終わる前に、もうひとつ、はっきりさせておくことがあります。わたしが霊魂先在(Preexistence)の教義を信じているか知りたいと思っている人がいますが、わたしはモルモン教の教義、すなわち肉体と合致する以前から霊魂が先在するという教えを信じていません。もとより、輪廻転生も魂の変容も信じていません。注意していただきたいのは、永遠の神から前もって定められていたのはヒトではなく、みことばあるいは子孫(種)であるということです。そうです。はるか昔、人間の理解をはるかに超えた遠い昔に、永遠の神は永遠の思考を口に出して、こう宣言しました、
「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」
(ローマ 9:13)
その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪もおこなわないうちに、すでに神の思考のうちに存在していたのです。それからその思考が出現して、彼らがこの世に誕生すると、神はヤコブだけを贖いました。ヤコブには子孫の種が内在していたからです。だからヤコブは長子の権利にこだわり、神の契約を尊重しました。もしあなたが真の子孫なら、神のことばを心にとどめるでしょう。御霊はあなたを清め、キリストのからだの一部に組み込み、あなたを満たし、力を与えます。あなたは時代の最新の啓示のことばを受け入れます。みことばの啓示を受けた時、真の証がどれほど明らかになるかを体験するでしょう。 イエスは高貴な種でした。人間の肉体をもってこの世に生まれ、霊に呼びかけられたとき、ヨルダンにいき、みことばに従って水の洗礼を受けました。すると聖霊がイエスの上に臨み、声がしました、「これはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」と。声は「これはわたしの子となった」とは言いませんでした。イエスは前から子でしたから。
聖霊が彼を神に認証された子の身分にかえました。イエスはこのようにして満たしを受けたあと、約束されていた力が備わり、神から示されたことを余すところなくすべて受け、あかししました。聖霊降臨のときとそれ以降、聖霊が信者に与えられる過程もこれと同じです。
聖霊のバプテスマを受けた真の証拠は、現時代に啓示されていることばを信じて、それに従って生きるようになることです。もっとはっきりお話ししましょう。
黙示録2- 3章の七つの教会時代は、異邦人の時代をさします。この七つの教会時代が、異邦人に割り当てられている神の救いの期間です。どの時代にも、始まりとおしまいに、必ず言づてが記されています。 「(エフェソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤ)にある教会の御使いに書き送れ、」
「耳のある者(単数形)は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」イエスが(霊によって)各時代のひとりの人に向かってご自身を証ししているのです。ひとつの時代にひとりの人が、その時代に必要なみことばを聖霊から受け取りました。教会の使者(単数)は、真の教会に遣わされた使者です。彼は神から啓示されたことを教会(真のぶどうと偽のぶどう両方)に伝えます。そのメッセージは伝達され拡散します。それは何らかの方法で、なにがしかの基準にあったグループだけに個々に受け取られます。使者を通して霊が語ることばを聞く耳を持っているのは、そのグループの各個人です。聞く耳を持っているものは、個人的啓示にしてしまったり、グループ独自の啓示にしてしまうのではなく、各人が、教会の使者が神から授かったみことばそのものを受け取るのです。
神のみ手により、パウロがこの形式を作ったと言ったらおかしいでしょうか。パウロだけが彼の時代の啓示を余すところなく受けていました。他の弟子たちが、パウロは異邦人のための預言的メッセンジャーであると認めたことから、それを立証することができます。聖書に記された具体的な事例によると、パウロはアジア州に行きたいと望んでいましたが、神がそれを禁じました。理由は、マケドニアには神の羊がいて、彼ら(マケドニア人)はパウロを通して聖霊が語ることばを聞く準備ができているが、アジア州の人々は聞かないということでした。
どの時代にも、同じことが繰り返されています。 ある地域で、神に遣わされた使者を通して、光が輝き出ます。その使者から光が拡散して、忠実に教えを受ける人たちのミニストリーに光があたります。しかし、光を受けた人たちは、必ずしも使者が語ったことだけを語ることの重要性を学んでいません。 パウロは、彼が語ったことだけを語るようにと、警告しました。
「自分を預言者、あるいは、御霊の人と思う者は、私があなたがたに書くことが主の命令であることを認めなさい。」
(1コリント 14:37)
「神のことばは、あなたがたのところから出たのでしょうか。あるいはまた、あなたがたにだけ伝わったのでしょうか。」
(1コリント 14:36)
彼らは受け取ったことばにひと言加え、ひと言抜き取ります。そうすることでメッセージは純粋でなくなり、リバイバルは終了します。 どんなに注意を払ってひとつの声を聞かなければならないことでしょう。御霊にはひとつの声しかないからです。それは神の声です。パウロは彼が言ったとおりに言うようにと、教会の人々に警告しました。ペトロも同じです。ペトロは、彼(パウロ)でさえも、受けた啓示のひと文字も変えることができなかったと言って、人々に警告しています。どれほど心を尽くして注意して、使者を通して語られた神の声を聞かなければならないことでしょう。そして忠実にそれを教会に語らなければならないことでしょう。
これで、わたしが原理主義やペンテコステ派の教えに賛同しない理由がわかっていただけたでしょうか。わたしには主が明らかにしてくださったみことばを守る義務があります。すべてをここで分かち合うことはできません。それをしたら、本一冊分になってしまいます。しかし主の助けによって多くの集会やテープやメッセージでこれらのことを教え、すべての聖書と照合して、あなたがたに納得して理解してほしいと思います。
「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」すべての時代にこの同じ呼びかけがあります。御霊が言われることを聞きなさい。あなたがクリスチャンなら、御霊の教えに戻りなさい。それはこの時代に与えられているみことばです。各時代の各使者がみことばを伝えました。人々がその時代のみことばに立ちもどると、新しい真のリバイバルが起こることでしょう。すべての時代に対する呼びかけは、お叱りのことばです。「あなたがたは神のことばから離れてしまった。悔い改めてみことばに立ちかえりなさい。」聖書の初めの書(創世記)から終わりの書(黙示録)まで、ただ一つ、神を悲しませる理由は、みことばから離れることです。神の好意を得るための方法はただ一つ、みことばに立ちもどることです。
エフェソの時代もこの時代も、そしてすべての時代をとおして、これが事実であることがわかります。そして最後の時代、それはわたしたちの時代ですが、みことばが消えかかっています。異邦人から完全にみことばが消えてしまうと、大艱難がやってきます。もしあなたが真の子孫なら、もしあなたが正真正銘の聖霊のバプテスマを受けたなら、日常の糧にも増して神のことばの必要を感じることでしょう。そして神の口から発するすべてのことばに信頼をおいて生きていきたいと望むことでしょう。 これがわたしの切実な祈りです。どうぞ、わたしたちがこんにち生きるのに必要なことばを、聖霊をとおして聞くことができますように。