CAB-03 七つの教会時代の解説 第三章 エペソ教会時代

  • 伝道者:ウィリアム・ブランハム
  • 録音番号:CAB-03
  • 年:CAB

An Exposition of the

Seven Church Ages

Chapter Three

七つの教会時代の解説 第三章 エペソ教会時代

教会時代への序言
あなたがたに完全に教会時代のメッセージを分からせるために、私が各使者の名前、各時代の期間、およびその中で関連する他の要因を判断した際の様々な原則を説明しましょう。
このトピックは私が聖書の勉強の中で受けた最もシリアスなものですので、何日も神に聖霊の啓示を求めました。私は教会時代の聖句を読み、出来る限り、偏見のない歴史家たちに書かれた多くの教会歴史の本を探究しました。神は、私の祈りに答えてくださいました。御言葉と歴史を読んだ時に、展開されたパターンを見る力を聖霊から与えられました。これらのパターンは数世紀間に経って現在最後の時代まで続きました。
主は私に聖書に最も一致している「カギ」を与えてくださり、これで私は各時代の使者を決められるようになりました。実は、これは聖書のかなめ石と呼ばれるかもしれません。これは、神は変わらないお方で、神の行いは同じく不変なものであることの啓示です。
ヘブル13:8こう述べられています、
「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」
伝道者の書3:14,15
「私は知った。神のなさることはみな永遠に変わらないことを。それに何かをつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない。神がこのことをされたのだ。人は神を恐れなければならない。
今あることは、すでにあったこと。これからあることも、すでにあったこと。神は、すでに追い求められたことをこれからも捜し求められる。」
このように、変わらない方法で御わざを行う変わらない神です。最初に神がある方法でわざを行われると、この方法で最後まで継続されなければなりません。決して変わりません。それは各教会時代に適用されます。神が最初の教会時代のために特定な一人を選んだ方法及びこの人に現わされたミニストリーは、他の全ての教会時代の見本です。神は御自分が最初の教会の時代になされたことを、同じように他の全ての時代にされたいです。
聖霊を通して記録された神の御言葉から、私たちは初めての教会或は元祖の教会がどのように設立され、神はどのように不思議にそのうちに現われていたことについて、すでに正確に知っています。神の御言葉は神御自身であるため、神の御言葉は変わらないあるいは変えられないのです。ヨハネ 1:1、
「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」
エバがしたように、一つの言葉を変えるだけで、罪と死がもたらされます。さらにヨハネの黙示録22:18-19でこう書かれているように、
「…もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。
また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。」
このように、ペンテコステの時の教会は標準です。それはパターンです。他のパターンはありません。学者がたとえ何を言おうと、神はそのパターンを変えられませんでした。教会時代が閉じるまで、神はペンテコステでなさったことを続けなければなりません。
貴方たちは使徒の時代が終わったと学者に告げられているかもしれないが、それを信じていないでください。そのような声明は、2つの間違いがあります。まず、最初の12使徒が世から去ってから、使徒がもはやいないと考えるのは間違っています。使徒は、『遣わされた者』を意味します; そして、多くの遣わされた者が今日にもいます、しかし、彼らは宣教師と呼ばれています。いのちの御言葉を伝えるために遣わされる人がいるかぎり、ある使徒時代が続いていることを示します。次、彼らは、聖書が完成されたので、『聖霊の力が明らかにされる』の時代がもはや終わりましたと主張します、それは違います。その提案を支える聖句は1つもありません、逆に沢山の聖句は決定的にこの考えを論破しています。以上両方とも間違っているということを証明できるのはこれです。
使徒の働き2:38,39
「そこでペテロは彼らに答えた。『悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。
なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。』」
使者がペンテコステで授けられた力は、「あなたがた(ユダヤ人)と、その子どもたち(ユダヤ人)、ならびにすべての遠くにいる人々(異邦人)、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々。(ユダヤ人と異邦人)」に与えられているからです。主の呼びかけが停止するまで、ペンテコステのメッセージと力は終わりません
教会はペンテコステで持っていたのは、奪われることができない権利です。元々、教会は神の純粋な御言葉を持っていました。様々なしるしと不思議、そして聖霊の賜物で明らかにされた聖霊の力を持っていました。ヘブル人への手紙2:1-4、
「ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。
もし、御使いたちを通して語られたみことばでさえ、堅く立てられて動くことがなく、すべての違反と不従順が当然の処罰を受けたとすれば、
私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、どうしてのがれることができましょう。この救いは最初主によって語られ、それを聞いた人たちが、確かなものとしてこれを私たちに示し、
そのうえ神も、しるしと不思議とさまざまの力あるわざにより、また、みこころに従って聖霊が分け与えてくださる賜物によってあかしされました」
その元の教会は人によって組織されていなく、聖霊によって導かれ、そこまで大きくありませんでした。嫌われ、抑圧され、死に至るまで迫害されました。しかし、神に忠実でした。元の御言葉のパータンを守りました。
この点で正道からそれてはいけません。私は神と神のやり方決して変わらないと言った時に、教会とその使者が変わることはできないとは言っていません。教会は神ではありません。そこで彼女は変わることができます。しかし、私が言ったのは、不変の神は不変の方法でなさるので、我々が初めに戻って、神の最初の完璧な行いを参照すれば、その標準で判断することができるということでした。これこそは私たちのやり方です。真の教会はいつもペンテコステの教会を見習おうとします。真の教会は早期の最初の教会に近づこうとします。諸教会に与えられる使者たちは、神と同じ霊を持ちます。彼らは必ず使徒パウロを近づこうとします。しかし、真の使者は、パウロとまったく同じになることはありませんが、パウロに最も近い人となります。パウロは、すべての人に左右されることなく、神に自分のすべてを売り、神の御言葉のみ伝え、力で聖霊を表しました。そういうことができる人は他にいません。一番最初から行わなければなりません。子は親に似るのと同じように、真の教会はいつもペンテコステの創設者のステップ に従おうとします、彼女の使者は、最初の教会の時代へ遣わされる最初の使者である使徒パウロに続きます。それはシンプルであり、素晴らしいことです。
それはとても素晴らしくてシンプルです、聖霊の助けによって、このカギを用い、私は黙示録と歴史を読み取ることができました。それで、ペンテコステからこれらの年代の終焉まで各年代と各年代の期間を見つけて、さらに、使者たち、および神の御心の中におけるそれぞれの役を見つけます。
今、我々は真の教会はどのようなものであったことを判断する方法が分かっているので (使徒の働きに書かれているように、真の教会はペンテコステおよび使徒の時代にあったあの教会のようです。) 私たちは同じ基準を適用して教会がどうやって失敗したかを示すことができます。 最初の教会に忍び込んだ根本的な間違い、あるいは多くの間違いは使徒の働きおよび黙示録、そして他の多くの手紙で明らかにされました。これらの間違いはこれから続く各時代で徐々に目立ち、最後の時代、つまりラオデキア時代で真理は完全に遮られます。
主から得られた一番目のかぎから、私たちはもう一つのより普遍的な真理を得ました。先ほど、真の教会は使徒の働きの教会を見習うように努めると言いましたが、これは全く正確です。でも、これから誤りが侵入し、やがって真理は完全に遮られることを御言葉が教えているのを発見しました。そうするとこういう疑問が浮かびます:神は御自分の人を捨てて、完全に惑わされる状態の中に落ち込ませられましたか?決してそうではありません、なぜなら、マタイ24:24の聖句では「選民」は惑わされないと書かれています。
「にせキリスト、にせ預言者たちが現れて、できれば選民をも惑わそうとして@@、大きなしるしや不思議なことをして見せます。」
どうしてですか?答えははっきりしています。 真の教会と偽の教会がいます。真のぶどうの木と偽のぶどうの木があります。もちろん、偽の教会、ぶどうの木の枝はいつも真の教会のポジションを奪おうとします、 選民ではなく自分こそ本物かつ真正なものと主張しています。 偽りのものは真のものを殺そうとしています。使徒の働きの中でそうであったのが、七つの教会時代の中にもそうなります、そして新約各書簡の中にもそう書かれています。昔はそう、現在もそう、将来も必ずそうです、これは変わることはありません。
この点で混乱しないように気をつけましょう。したがって、この主張を検証するために御言葉を求めましょう。最初の本、創世記に行きましょう。エデンの園の2本の木があり、1本が善なるもので、もう1本つは悪のものでした。1本は命を産み、もう1本は死を生みました。もともと神に供え物をささげる子供が二人いました。繰り返します、二人とも神に犠牲をささげました。創世記4:3-5、
 「ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。
また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。
だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。」
一方(カイン)は悪い者で、彼の父親(あの悪い者)から出た者、もう一方のアベルは主の前に正しいものです[Iヨハネ3:12; ヨハネ8:44]。また、同じ肉体の親から二人の子供が生まれました、彼らはイサクとリベカのふたごでした[創世記 25:21-26]。一人は神の選民であり、もう一人は堕落者でした[ローマ9:10-13; ヘブル12:16-17]。どちらも、神を礼拝していました。どのケースにも神への礼拝がありました。すべてのケースにおいて悪い者は正しい者を憎み、迫害しました。場合によっては、悪い者は正しい者を殺しました。しかし、注意してください。彼らは一緒に植えられました。彼らは一緒に住んでいました。二人とも神とのつながりを主張し、神を礼拝していました。
これらの説明は主イエス・キリストの例えと完璧に一致しています。主は、天の御国はまるである人が自分の畑に良い種を蒔いた後に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行ったようなものと言われました[マタイ13:24-30,36-43]。神は毒麦を植えられませんでした。悪魔は神の良い種の間にそれらの毒麦を植えました。これらの違う種から二種類の植物(人)は一緒に成長しました。同じ土から栄養を取ります、同じ太陽、雨とほかの利点を共有しました、両方とも順番に収穫されました。分かりますか?教会時代のお勉強とその後の七つの印の勉強の際に、これを忘れないようにして下さい。そして特に、最後の時代に毒麦は束にされた時に、麦のほうも、集めされて神の倉に納められることを忘れないでください。
私は終わりまでずっとこの考えを保持したいので、さらに一歩先に行きましょう。あなたは、これまでに信仰復興の歴史を勉強しましたか?信仰復興は神が御力で働かれることを表しています。そして、神が働かれるたびに、サタンもそこで働きます。それは、決して失敗しません。これに外れることがありません。大きなウェールズの信仰復興(そして、大部分の人々はこれを知りません)の時代に、精神病院はすぐに満員になりました、人々の注意を神から外らせるための悪魔力の大きな誇示がありました。ウェスレーの時代に、人々は、悪魔から来た最も変わったことを行うことで神の善と力をあざ笑おうとした、と記録されています。ルターの日には、彼の伝道事業中では、ローマカトリック教会にうまく抗議したという事実が奇跡であるよりも、誤りの霊に満たされ、導かれた狂信者たちに囲まれてもしっかりしていたという事実が奇跡だと言われました。この最後日の伝道事業を知っていたならば、同じ虚偽と邪悪な霊の侵入に気付くでしょう。必ずそうです。今、私はあなたがたがこれを理解し、そこから益を得るために、十分な霊的の心を持っていることを願い、そして信じています。
混じって育った真実のブドウの木と偽りブドウの木をはっきり分かるために、下記の聖句を検討しましょう。1ヨハネ4:1-4とユダ3,4,12を見てみましょう。
「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。
人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。
イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです
子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして彼らに勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。」
ユダ3,4,12
「愛する人々。私はあなたがたに、私たちがともに受けている救いについて手紙を書こうとして、あらゆる努力をしていましたが、聖徒にひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました。
というのは、ある人々が(聖徒ではない)、ひそかに忍び込んで来たからですドアを通らずに羊の囲いに入って来た者はすなわち強盗です)。彼らは、このようなさばきに会うと昔から前もってしるされている人々で、不敬虔な者であり、私たちの神の恵みを放縦に変えて、私たちの唯一の支配者であり主であるイエス・キリストを否定する人たちです。
彼らは、あなたがたの愛餐のしみです。恐れげもなくともに宴を張りますが…」
これらの聖句を目の前にして、真の教会と偽の教会は絡み合い、一緒に植えられているが、違う種からのものだということを否定することはできません。
さて、あなたがたが知らなければならないものが、まだあると思います。ヨハネによって書かれた7つの教会宛名への手紙は、すべて小アジアにある異邦人の教会です。彼はユダヤ人が多数いて、異邦人がわずかしかいないエルサレムの教会には発言しませんでした。その理由は、神がすでにユダヤ人から、異邦人の教会へ向けられているだからです。このように、教会時代を通して、神はご自身で異邦人を扱い、異邦人の花嫁を呼び出されるのです。『教会時代』と『異邦人の完成のなる時』は同じことを指しています。使徒13:44-48、
「次の安息日には、ほとんど町中の人が、神のことばを聞きに集まって来た。
しかし、この群衆を見たユダヤ人たちは、ねたみに燃え、パウロの話に反対して、口ぎたなくののしった。
そこでパウロとバルナバは、はっきりとこう宣言した。「神のことばは、まずあなたがたに語られなければならなかったのです。しかし、あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者と決めたのです。見なさい。私たちは、これからは異邦人のほうへ向かいます。
なぜなら、主は私たちに、こう命じておられるからです。『わたしはあなたを立てて、異邦人の光とした。あなたが地の果てまでも救いをもたらすためである。』」
異邦人たちは、それを聞いて喜び、主のみことばを賛美した。そして、永遠のいのちに定められていた人たちは、みな、信仰に入った。」
ローマ11:1-8、
「すると、神はご自分の民を退けてしまわれたのですか。絶対にそんなことはありません。この私もイスラエル人で、アブラハムの子孫に属し、ベニヤミン族の出身です。
神は、あらかじめ知っておられたご自分の民を退けてしまわれたのではありません。それともあなたがたは、聖書がエリヤに関する個所で言っていることを、知らないのですか。彼はイスラエルを神に訴えてこう言いました。
『主よ。彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇をこわし、私だけが残されました。彼らはいま私のいのちを取ろうとしています。』
ところが彼に対して何とお答えになりましたか。『バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある。』
それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。
もし恵みによるのであれば、もはや行いによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります。
では、どうなるのでしょう。イスラエルは追い求めていたものを獲得できませんでした。選ばれた者は獲得しましたが、他の者は、かたくなにされたのです。
こう書かれているとおりです。『神は、彼らに鈍い心と見えない目と聞こえない耳を与えられた。今日に至るまで。』」
ローマ11:25-29
「兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、
こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。『救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である。』
彼らは、福音によれば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びによれば、父祖たちのゆえに、愛されている者なのです。
神の賜物と召命とは変わることがありません。」
古代の小アジアにあるこれらの7つの教会はそれぞれ特徴を持っていました、それは後の年代に熟成した実になります。その時にただの種子でしたが、その後の時代に、成熟した収穫をもたらしました。まさにイエスが言われたように、
「彼らが生木にこのようなことをするのなら、枯れ木には、いったい、何が起こるでしょう。」
ルカ23:31
エペソ教会時代へのメッセージ
黙示録2:1-7
「エペソにある教会の御使いに書き送れ。『右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が言われる。
「わたしは、あなたの行いとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。
あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。
しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。
しかし、あなたにはこのことがある。あなたはニコライ派の人々の行いを憎んでいる。わたしもそれを憎んでいる。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」』」
使者
エペソ教会の使者(天使)は使徒パウロで、彼は異邦人時代の最初の使者であるは否認できません。ペテロに異邦人への扉を開く権限を付与されましたが、パウロは異邦人の使徒と預言者になる権限を与えられました。彼は異邦人の使徒かつ預言者です。彼は預言者の職務をつけられたので、神が異邦人に与えられた御言葉の完全な啓示を受けました。エルサレムの使徒たちも同様にこの点に賛成します。ガラテヤ1:12-19、
「私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。
以前ユダヤ教徒であったころの私の行動は、あなたがたがすでに聞いているところです。私は激しく神の教会を迫害し、これを滅ぼそうとしました。
また私は、自分と同族で同年輩の多くの者たちに比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖からの伝承に人一倍熱心でした。
けれども、生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださった方が、
異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子を私のうちに啓示することをよしとされたとき、私はすぐに、人には相談せず、
先輩の使徒たちに会うためにエルサレムにも上らず、アラビヤに出て行き、またダマスコに戻りました。
それから三年後に、私はケパをたずねてエルサレムに上り、彼のもとに十五日間滞在しました。しかし、主の兄弟ヤコブは別として、ほかの使徒にはだれにも会いませんでした。」
ガラテヤ2:2、
「それは啓示によって上ったのです。そして、異邦人の間で私の宣べている福音を、人々の前に示し、おもだった人たちには個人的にそうしました。それは、私が力を尽くしていま走っていること、またすでに走ったことが、むだにならないためでした。」
ガラテヤ2:6-9、
「そして、おもだった者と見られていた人たちからは、──彼らがどれほどの人たちであるにしても、私には問題ではありません。神は人を分け隔てなさいません──そのおもだった人たちは、私に対して、何もつけ加えることをしませんでした。
それどころか、ペテロが割礼を受けた者への福音をゆだねられているように、私が割礼を受けない者への福音をゆだねられていることを理解してくれました。
ペテロにみわざをなして、割礼を受けた者への使徒となさった方が、私にもみわざをなして、異邦人への使徒としてくださったのです。
そして、私に与えられたこの恵みを認め、柱として重んじられているヤコブとケパとヨハネが、私とバルナバに、交わりのしるしとして右手を差し伸べました。それは、私たちが異邦人のところへ行き、彼らが割礼を受けた人々のところへ行くためです。」
ローマ11:13 、
「そこで、異邦人の方々に言いますが、私は異邦人の使徒ですから、自分の務めを重んじています。」
パウロは最初の世紀の中頃ぐらいにエペソの教会を設立しました。これで私たちはエペソの教会時代の始まりを確定ことができます、およそ西暦53年です。
パウロの奉仕の仕方はその後の使者が熱心に見習う手本となりました。使者たちはパウロの預言的領域のような高さまで到達できなかったが、パウロは本格的な伝道者のいいお手本となりました。パウロの宣教は、以下の三重の性質を持っていました:
まず、パウロが御言葉に絶対に忠実でした。彼はどんな対償を払っても、御言葉から外れたことはありませんでした。
ガラテヤ1:8-9
「しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。
私たちが前に言ったように、今もう一度私は言います。もしだれかが、あなたがたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者はのろわれるべきです。」
ガラテヤ2:11,14
「ところが、ケパがアンテオケに来たとき、彼に非難すべきことがあったので、私は面と向かって抗議しました。」
「しかし、彼らが福音の真理についてまっすぐに歩んでいないのを見て、私はみなの面前でケパにこう言いました。「あなたは、自分がユダヤ人でありながらユダヤ人のようには生活せず、異邦人のように生活していたのに、どうして異邦人に対して、ユダヤ人の生活を強いるのですか。」
1 コリント14:36-37
「神のことばは、あなたがたのところから出たのでしょうか。あるいはまた、あなたがたにだけ伝わったのでしょうか。自分を預言者、あるいは、御霊の人と思う者は、私があなたがたに書くことが主の命令であることを認めなさい」
神がモーセの中で働かれエジプトからイスラエルを導かれた時と同じように、パウロは組織に支配されなく、御霊に導かれていたことに注意してください。エルサレムの評議会は、パウロを派遣したことはなく、彼に対して管轄権も持っていませんでした。神こそ、しかも神しか彼を派遣されませんでした。パウロは、人間から出たものではなく、神から出たものです。
ガラテヤ1:1
「使徒となったパウロ──私が使徒となったのは、人間から出たことでなく、また人間の手を通したことでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によったのです──」
ガラテヤ2:3-5
「しかし、私といっしょにいたテトスでさえ、ギリシヤ人であったのに、割礼を強いられませんでした。
実は、忍び込んだにせ兄弟たちがいたので、強いられる恐れがあったのです。彼らは私たちを奴隷に引き落とそうとして、キリスト・イエスにあって私たちの持つ自由をうかがうために忍び込んでいたのです。
私たちは彼らに一時も譲歩しませんでした。それは福音の真理があなたがたの間で常に保たれるためです。」
2番目に、彼の伝道事業は御霊の力の中にありました、それによって、口頭と書面での御言葉を表しました。
1コリント2:1-5
「さて兄弟たち。私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。
なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。
あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。
そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現れでした。
それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。」
使徒14:8-10
「ルステラでのことであるが、ある足のきかない人がすわっていた。彼は生まれつき足のなえた人で、歩いたことがなかった。
この人がパウロの話すことに耳を傾けていた。パウロは彼に目を留め、いやされる信仰があるのを見て、
大声で、『自分の足で、まっすぐに立ちなさい』と言った。すると彼は飛び上がって、歩き出した。」
使徒20:9-12
「ユテコというひとりの青年が窓のところに腰を掛けていたが、ひどく眠けがさし、パウロの話が長く続くので、とうとう眠り込んでしまって、三階から下に落ちた。抱き起こしてみると、もう死んでいた。
パウロは降りて来て、彼の上に身をかがめ、彼を抱きかかえて、『心配することはない。まだいのちがあります』と言った。
そして、また上がって行き、パンを裂いて食べてから、明け方まで長く話し合って、それから出発した。
人々は生き返った青年を家に連れて行き、ひとかたならず慰められた。」
使徒28:7-9  
「さて、その場所の近くに、島の首長でポプリオという人の領地があった。彼はそこに私たちを招待して、三日間手厚くもてなしてくれた。
たまたまポプリオの父が、熱病と下痢とで床に着いていた。そこでパウロは、その人のもとに行き、祈ってから、彼の上に手を置いて直してやった。
このことがあってから、島のほかの病人たちも来て、直してもらった。」
2 コリント12:12
「使徒としてのしるしは、忍耐を尽くしてあなたがたの間で行われた、しるしと不思議と力あるわざです。」
第三に、パウロは神に与えられた伝道事業においてはっきりした実を結びました。
2コリント12:11
「私は愚か者になりました。あなたがたが無理に私をそうしたのです。私は当然あなたがたの推薦を受けてよかったはずです。たとい私は取るに足りない者であっても、私はあの大使徒たちにどのような点でも劣るところはありませんでした。」
1コリント9:2
「たとい私がほかの人々に対しては使徒でなくても、少なくともあなたがたに対しては使徒です。あなたがたは、主にあって、私が使徒であることの証印です。」
2コリント11:2
「というのも、私は神の熱心をもって、熱心にあなたがたのことを思っているからです。私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。」
パウロは器として、異邦人の羊の多数を神に導きました。パウロは彼らを養い、彼らが正義の実を結び、異邦人の花嫁の一部として主に会う用意できるまで彼らを気にかけていました。
黙示録が与えられた時点で、いわれによれば、パウロはすでに殉教者になって亡くなったが、ヨハネはパウロの代わりになって、パウロとまったく同じ聖職を続けました。黙示録が与えられる前にパウロが亡くなったことは、パウロがエペソ教会時代への使者であったという事実を変えません。なぜならば、各時代の使者は、いつに現れるか、いつに去るか関係なく、御言葉を表したミニストリーでその時代の人々に影響を与えます。パウロはそのような人でした。
エペソの町
エペソ市は、アジアの三大都市のうちの1つで、キリスト信仰の3番目の都市としばしば呼ばれました、1番目はエルサレムで、2番目はアンティオキア市でした。エペソ市は非常に裕福な都市でした。エペソ市を支配している政府はローマ人だが、言語はギリシア語でした。歴史家はヨハネ、マリア、ペテロ、アンドリューとフィリップは全員この美しい都市に葬られたと主張しています。この都市で真の信仰を創立したパウロはここで教会の牧師としておよそ3年間しか務めなかったが、彼らから離れた時も、続いて祈りの心で彼らを心に留めていました。テモテは最初の司教でした。
1テモテ1:1-3(編注:英語と日本語訳の語順の違いの関係で、4節の途中まで入れています。)
「私たちの救い主なる神と私たちの望みなるキリスト・イエスとの命令による、キリスト・イエスの使徒パウロから、
信仰による真実のわが子テモテへ。父なる神と私たちの主なるキリスト・イエスから、恵みとあわれみと平安とがありますように。
私がマケドニヤに出発するとき、あなたにお願いしたように、あなたは、エペソにずっととどまっていて、ある人たちが違った教えを説いたり、果てしのない空想話と系図とに心を奪われたりしないように命じてください。」
エペソという名前は奇妙な意味を持っています、「目指すこと」、そして「ゆるくなること」です。この教会時代の高い目標は御霊の豊かさ、すなわち「神の深いところ」から始まりました。彼らは神の至上の呼び掛けを目標としたが、いい加減な態度を許容し始めたのです。イエス・キリストについていく熱心が冷めていくことは将来、教会という器が恐ろしい「サタンの深いところ」に沈んでいくことを象徴します。教会は緩んで神から離れてしまったのです。この時代においてすでに教会は御言葉から離れ始めました。初めの愛から離れました。エペソ時代に植え付けられたその小さな種はいつか誤った霊のもとに大きくなり、空のすべての憎むべき鳥どもがその枝に巣を作ってしまいます。人の推理に基づいて考えると、この第二のエバ(早期教会)の前にその小さな木は再びあのように現れ、彼女は再びサタンに騙されたのでした。エペソ時代は教会が神から与えられたもっともいい機会だったにもかかわらず、彼女は少し勝ったあとにゆるくなり、そのすきに悪魔は壊滅の種を植え付けたのでした。[マタイ13:31-32, 黙示録18:2]
当時エペソにおいて信じられている宗教はこの一つ目の教会時代をよく表しており、後から来る一連の教会時代に方向を定めました。まず、その輝くアルテミス神殿だが、それは何年もの歳月で建てられたものでした。その神殿の中に置かれたのはまったく光沢のない、地味なアルテミスの像でした。このアルテミスの像はその他の彼女に仕える像と大きく異なりました。彼女は木のブロックを彫刻してできた、ほとんど形のない女性の像でした。彼女の両腕は二本のシンプルな鉄の棒でできていました。これは適切に一つ目の教会で放たれたアンチキリストの霊を描写しています。当時アンチキリストの霊はすでに人々の間に放たれたが、はっきりとした形を持たないため、人々は警戒心を抱きませんでした。しかし、二本の鉄の腕はそれが侵入して神の働きを壊そうとしていることを示していました。そして誰もそれがしようとしていることに気付かなかったようでした。だがいずれ、それの鉄の両腕が「行動」から「教義」になり、その教義がある帝国の法律になったとき、彼らは気づきます。
神殿の崇拝の方式も意味するものがあります。まず、その中の祭司はみな宦官でした。この子孫を残すことができない祭司は、神の道から離れ、実を結べなくなった人の予示でした。なぜなら神を知っていると言いながら神の御言葉から離れた人のいのちはまるで子孫を残すことができない宦官のように貧弱だからです。次に、神殿の決められた範囲内では処女の女祭司によって宗教儀式が行われました。これはいつか、儀式と形式、しきたりと行為が聖霊にとって代わり、聖霊の賜物による表しはもはや神の聖殿にはないことを予示していました。女祭司たちの上には大祭司がいて、彼は政治的な力と影響力のある人です。これは人目を引かないが、すでに起きていることを予示していて、すなわち教会は主導権を計画と野心を持つ人に渡し、「聖霊がこう仰せられる」がもはや存在しなくなるということです。彼らの下には神殿の奴隷がいて、彼らには選択する余地もなく、神殿の宗教の階級制度に従わなければなりませんでした。これはいつか、指定された聖職者たちが政治の手段と国の支持を得て、御言葉と聖霊の代わりに教義と信条、そして人の主導を取り入れ、普通の信者を酷使し、その一方でリーダーたちは不正の富を得てみだらな喜びを楽しみ、神の御言葉によれば奉仕を受けるべき貧しい人々はしもべになってしまうことの予示でした。
イエス、主の使者、そして教会
黙示録2:1
「…『右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が言われる。」
 これはその方のことです、聖書はこの方について、「イエスは主でありキリストである」と書かれています[使徒2:36]。これは主のことです、ひとりの、そして唯一の主、全能の神です。主以外ほかに神はありません[イザヤ43:10-11; 44:6,8; 45:5,22]。そこで主は救い主(「...救いは主のものです。」ヨナ書2:9)として七つの時代を通して教会の中で歩いておられます。主が一つ目の教会で働かれることは、全部の教会時代で同じように働かれます。すべての信者にとって、主はイエス・キリスト、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。主が一度されたことは、いまだに行われ、これからも行われ続けます。
ここで、イエスはごひとりで御自分の教会の中で歩かれていることに気づくでしょう。主と同行する者はいません。ほかの者がいるはずはない、なぜなら主はごひとりで彼女(編注:教会)を贖われ、御自分の血によって彼女を買い戻されたからです。主は彼女の主、そして主人です。彼女は栄光を主にすべて捧げ、主はその栄光を他人に分けられることはありません。教皇は主とともにはいません。大司教は主とともにはいません。マリア、主の地上の体の母親は主とともにはいません。主は父に向かってお話しするようことはありません。なぜなら主は父だからです。主は振り向いて聖霊に命令されることもありません。なぜなら主は神であり、永遠なる御霊だからです。主のいのちは教会の中で流れ、教会にいのちを与えられます。主がおられなければいのちはありません。贖いは主のからのものです。
主が神の激しい怒りが燃え盛る火の炉に踏み入れた時、誰も主とともにいませんでした。他の人ではなく、主御自身が十字架にかけられ、血を流されました。主は私たちの信仰の創始者であり、完成者です[ヘブライ12:2]。主は私たちの贖いのアルファとオメガです。私たちは主の花嫁として定められたのであり、他人のでは ありません[II コリント11:2]。私たちは教会には属していません。私たちは主に属しています。主の御言葉は律法です。信条、教義、法則そして組織は私たちに影響を与えません。そうです、イエスはごひとりで教会の中で歩かれています。神が教会の中にいらっしゃるのです。考えを定められ、御自分の喜ばれることを行われます。忘れてはいけません。あなたは神とだけ関係があって、神もあなたとだけ関係をお持ちです。それはイエスですイエスだけです
そこで主は右手に七つの星を持っておられます。右の手または腕は神の御力と権威を象徴しています。詩篇44:3 、
「彼らは、自分の剣によって地を得たのでもなく、自分の腕が彼らを救ったのでもありません。ただあなたの右の手、あなたの腕、あなたの御顔の光が、そうしたのです。あなたが彼らを愛されたからです。」
その御力のある右手には七つの星があります。それらは黙示録1:20によれば、七つの教会の使者たちです。これは神の御力と権力はそれぞれの時代に御自身の使者の後ろについていることを象徴します。彼らは聖霊の火と御力によって伝道を行います。彼らは星です。なぜなら彼らは光を反射するからです。彼らが反射している光は主の光なのです。彼ら自身は光を持ちません。彼らがつけたのは自分たち自身の火ではありません、人々は彼らの火花について行くかもしれないので。[イザヤ書50:11]それは夜です、なぜなら星が出るのは夜だからです。それは罪の闇に満ちた夜です。すべての人は(全世界でさえ)、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができません。[ローマ3:23]
それらの七人の使者は神を人々に知らしめています。彼らを受け入れる者は、彼らを遣わした主を受け入れるのです。[ヨハネ13:20]彼らは主の権威のもとで話をし、行動をする。主は御自分の神性の全能をもって彼らを支持されます。
マタイ28:18-20
「イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。『わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで(教会時代の終わりまで)いつも、あなたがたとともにいます。』」
そのため、使者たちは聖霊と信仰に満ち、神の火で燃えており、真理の御言葉を守り、それでもって主は彼らを支持します。考えてみてください、どの時代の信者も心の中で、「ああ、使徒たちが初めて遣わされた最初の時代にいたら良かったのに。」と叫ばなくてよいのです。後ろに振り向く必要はありません上を見てください!すべての時代で教会の中で歩かれ、今でも歩いておられる主を見てください。昨日も今日も、いつまでも同じで、本質と行い方を決して変えられない主を見てください。ふたりでも三人でも、主の御名において集まる所には、主もその中におられるのです!そこで独りよがりの傍観者、または記録をとるための天使としてではなく、主はそこで御自分の身分、すなわちいのち、維持者、そして教会にすべての良い賜物を与えられ方を表されるのです。ハレルヤ!
37「七つの金の燭台の間を歩く方」聖句の光でこれらの御言葉を読むと、なんて深い意味があるのでしょうか。この聖句は主を「私たちのいのちであるキリスト」と描写しています。なぜならキリストは確かに教会のいのちです。教会はほかのいのちを持ちません。主がおられなければ教会はただの宗教組織、クラブ、意味のない集会です。着飾った死体は死体でしかないのです。それと同じように、ある教会のプログラムや慈善活動がどれだけ成果をあげようと、キリストがおられなければ死体と同じです。しかし主がその中におられ、彼女に動機を与えられると、彼女は驚くべき「主のからだ、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところ」となるのです。そしてまさに今この時に、主は最後の時代の金の燭台の間を歩いておられます。主は最初の時代で歩かれたのと同じ身分で今この最後の時代で歩かれています。イエス・キリストは、昨日も今日もいつまでも同じです
「七つの金の燭台」。出エジプト記25:3でこう書かれています。
「また、純金の燭台を作る。その燭台は槌で打って作らなければならない。それには、台座と支柱と、がくと節と花弁がなければならない。」
イエス・キリストの真の教会である花嫁はまるで純金のようです。彼女の義は主の義のことなのです。彼女の特性は御自分の栄光の特性です。主の中で彼女の身分を見つけることができます。主がどういう方なのかを彼女は反映します。主が持っておられるものを彼女は表します。彼女には欠点がありません。彼女の内外はすべて栄光なものである。初めから最後まで彼女は主の作品であり、主の作品は完璧なものです。実際、神のとこしえの知恵と御心は彼女に集約して表されています。それを十分に理解することなんてできるのでしょうか。それを分かることなんてできるのでしょうか。私たちは分かることはできないが、信仰で受け入れることはできます。なぜなら神がそうおっしゃったからです。
燭台は金でできているだけではなく、それは槌で打たれた金でできているのです。手作りの槌で打たれた金は聖霊が彼女に与えた青図面に基づいて作られたのです。彼女の主、主人であるイエス・キリスト以外、イエス・キリストの花嫁のように打たれて清められた者はいるのでしょうか。確かに彼女はキリストのあとをついで苦しみで満たされています。彼女の財産は略奪され、彼女の命は危険にさらされています。彼女は屠殺のためのひつじとして見られ、殺され続け、苦難に満ちています。しかし彼女は一度も復讐せず、他人を苦しめもしません。キリストのこのいとおしい花嫁は福音に値します。金は打ち延ばされることができます。銅は打たれると割れてしまうのに対して、この神の金は主のために苦しみに耐えます。屈せず、割れず、破壊されず、このいのちの試練と試験によって永遠に美しく喜びのある器となります。
キリストが自分に属する人を称賛される
黙示録2:2-3
「わたしは、あなたの行いとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。
あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。」
贖い主が御自分の子どもを称賛そして褒めることはなんと美しいことでしょう。主は彼らのすべての良い霊的の態度と振る舞いをご存知です。主は彼らには弱さがあるのをご存知であるが、厳しくお叱りすることはありません。それは主らしいことではありませんか。主はどのように私たちが正しいことを行うのを激励し、正しくないことを行うのを阻止することをご存知です。私たちはここで教会と家庭にどのように接するかをここで学ぶことができます。そしてさらに良いことに、私たちは神が私たちそれぞれに対してこの方法とまったく同じように接されていることを学ぶことができます。神の聖徒たちよ、落胆してはいけません。神はあなたがたの愛の働きを忘れられるような無愛想な方ではありません[ヘブライ6:10]。私たちがなにをしても、誰かに冷たい水を一杯飲ませることでさえ主から報いと祝福があります[マタイ10:42]。
「わたしは、あなたの行いとあなたの労苦と忍耐を知っている。」主が教会の中で歩かれると、御自分の民の苦しみに気づかれ、気にかけられます。当時エジプトでイスラエル人がとらわれた身になったときに主が彼らの声を聴かれたのと同じように、決して変わることのない主は圧迫を受けている民の間で歩かれてるときに彼らの声に耳を傾けます。「労苦」という言葉は圧迫されることによる疲労を意味します。神の民は主を愛するがために労苦するだけでなく、喜びをもって主のために苦しみます。彼らは忍耐をもってくびきを背負います。この最初の時代は大いなる迫害に苦しみました。彼らは福音を伝道し、真理を述べ伝えるのに苦労しました。彼らの命における至高の呼びかけは神に仕えることです。彼らが生活の中で困難にあった時、彼らは辛抱強くすべてを主にゆだねます、すなわち、地上で何かを主のために諦めると天において報いがあると約束された主です。
ここで止まって、神の人々はずっと迫害を受けてきたことについて話したいと思います。創世記は起源についての本であることをあなたがたは知っています、ここで始まったと見つけたことは黙示録までずっと続き、決して変わりません。そこで私たちは、アベルが神を喜ばせたためにカインは彼を殺したのを見ました。その後私たちはアブラハムの肉身の息子であるイシュマエルが約束された子であるイサクをからかって戦ったことを見ました。そしてエサウ、彼はヤコブを憎み、もし神が阻止しなかったら殺したかもしれませんでした。新約聖書において私たちはユダがイエスを裏切り、そして第1世紀の宗教団体が早期の信者を滅ぼそうとしたことを見ました。この世の子たちは悪魔によってコントロールされ、御霊によってコントロールされている神の子たちを憎みました。
あるクリスチャンが民衆の前でどんなに正しく、他人にどんなにやさしく振舞おうと、良いことだけ行い、キリストを自分の贖い主として告白し、異言、予言、癒し、そして奇跡といった聖霊の賜物を行うことを認めようと、彼は批判されます。この世の霊は神の御霊がを憎みます。それが主の御霊に打ち勝つことができないので、真理の御霊が住む器を破壊しようとします。
迫害と試練はクリスチャンの生活の中でよくある普通なことです。それらについてできることはただ一つです。それらをすべて神に委ね、断定せず、それらの成り行きと最後の審判を主に委ねることです。
46「あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。」[黙示録2:2]これらのエペソ人は神の人々は聖なるものであるべきだと信じています。この一節から彼らは罪に染まらないように気をつけていることを見ることができます。背教が始まっていることが明らかです。罪が教会に入りました。しかし彼らはパウロの言うことに従い、悪者を彼らの間から追い出しました。彼らは世から分別された人々です。彼らは世から出て、そして今世が自分たちの中に入ることをもゆるしませんでした。彼らは教会において罪を我慢することができません。聖潔は彼らにとってはただのフレーズや例えではなく、彼らの生き方になっていました。
47「使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。」
おお、なんて単刀直入な一言でしょう。「使徒と自称している者たちをためして」おこがましく聞こえませんか。使徒と自称している者たちをためす権力はあるのでしょうか。そしてどのようにしたのでしょうか。ああ、私はここが好きです。
ガラテヤ1:8でこう書かれています。
「しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。」
使徒たちが元の御言葉を人々に伝えました。その元の御言葉は変わることはありません。一点も一筆でさえも変わりません。パウロは自分に話したのは神だと知っていたため、このように言った、「もし私が来て二個目の啓示を伝えようとしたら、私が最初に伝えた啓示を少しでも変えようとしたら、私は呪われるべきです。」パウロは一番最初の啓示は正しいことを知っています。神最初の啓示を与えられてから、二個目の啓示を与えられることはおできになりません。もしそうされたなら、御心を変えられたことになります。神は啓示を与えられてから付け加えられることはあります。神がエデンの園にて女に種を約束され、その後その種はアブラハムを通さなければならないと言われ、その後さらにその血筋を持つダビデを通して来られると言われたようにです。しかしそれは同じ啓示です。それはただ人々が受け入れて理解できるようにより多くの情報を与えられただけです。しかし神の御言葉は変わることはありません。その種は啓示通りに来られました。ハレルヤ。そしてそれらの偽の使徒たちのすることを見てください。彼らは自分たちの理論を伝えに来ました。それらのエペソ人はパウロが伝えた御言葉を知っていました。彼らはパウロが手を置いてお祈りしたことによって聖霊に満たされました。彼らはそれらの偽使徒たちをにらみつけてこう言いました、「あなたたちはパウロが伝えたことを伝えていません。あなたたちはすなわち、偽者なのです。」ああ、それは私の心に火をつけました。御言葉に戻ってください。使徒や預言者や指導者を試すのはあなたではありません。御言葉が彼らを試されるのです。いつかラオディキア教会時代にある預言者がやってきて、そしてあなたたちは彼が神のところから来た本物かどうかがわかります。そうです、もし彼が神から来た者なら、神がパウロに与えられたのと同じ御言葉にとどまるからです。彼はその御言葉から一瞬たりとも、みじんとも離れません。その最後の時代に、たくさんの偽預言者が現れます。彼らがどのようにあなたたちに、もし自分たちの言うことを聞かないなら堕落してしまうと言うのかをよく見てください。しかしあの末世の預言者が来ると、もし彼が本当にあの預言者ならば、彼は叫びます、「御言葉に戻りなさい、でないとあなたがたは堕落してしまいます。」彼は自分の理論と解釈の上にものを建てません。彼は御言葉の上に建てます。アーメン、再びアーメン!
これらの偽預言者はパウロの言う狂暴の狼です。彼はこう言いました、「私が去ると、彼らは来て同じ啓示を持っていると主張しますが、彼らの目的はあなたがたを助けるのではなく、破壊することなのです。」
使徒20:27-30
「私は、神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいたからです。
あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。
私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中に入り込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。
あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。
ですから、目をさましていなさい。私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがたひとりひとりを訓戒し続けて来たことを、思い出してください。
いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。」
ヨハネも彼らのことを知っています。なぜなら彼はヨハネの手紙4:1でこう言っています、
「…にせ預言者が(すでに)たくさん世に出て来たからです。」
そのアンチキリストの霊はすでに御言葉に抵抗することで教会に浸透していました。それはここで始まったのです、まさにこの一つ目の教会なのです。彼らはすでに御言葉を否定していて、そして自分たちの信条と哲学を設立し、御言葉にとって代わりました。それがアンチキリストです。なぜならイエスは御言葉だからです。御言葉に反するものはイエスに反するものなのです。御言葉に反するものはキリストに反するものなのです。なぜから御霊と御言葉は一つだからです。もしあなたが御言葉に反しているなら、キリストに反することになります。もしそれが一つ目の教会で始まったならば、それは終わりまで成長して、キリストの場所をとって代わります。すべての時代について話し終えるとわかります。それはエペソ時代においてとても小さなものとして始まったが、すべての時代を通して成長して、御言葉に反した、アンチキリストの組織が完全に掌握するまでになり、絶対に誤りのない御言葉が偽物の教会の偽使徒たちに否定されます。
ここを非常に強調したため、みなさんは間違った印象を抱きやすいです。御言葉に反したアンチキリストの霊は御言葉を完全否定し、猛烈に聖書を反対するものに聞こえたかもしれません。いいえ。そうではありません。
それはなんなのか、ヨハネの黙示録22:18,19にこう書かれています。
「私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。
また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。」
ただ一つの言葉を付け加えたり取り除いたりするだけの変化なのです。これは悪魔がエデンの園でのもとからのたくらみなのです。彼は神がおっしゃったことにただ一文字を加えました。そうしたことで、死と破壊をもたらしました。そしてエペソにおいても同じでした。言葉を一つ付け加えたり、一つ取り除いたりすることで、御言葉に反した、アンチキリストの霊が繁盛し始めました。
わかりましたか。再び双子です。再び二本の樹があり、同じ土に隣り合って生えており、同じ栄養を吸収し、同じ雨水を飲んでいて、同じ太陽から利益を得ています。しかし彼らは異なる種から来ています。一つは神の御言葉を支持し、神が与えられた御言葉を完全に愛し、従います。もう一つは神の御言葉を反する種から来ており、自分が望むように自分の解釈でそれを変えます。それは自分の信条と教義を生ける真実の御言葉の代わりに置きました。カインとまったく同じで、最後にアベルを殺しました。しかし、小さな群れよ、恐れるな。御言葉に従いなさい。その御言葉をあなたたちと悪魔の間に置きなさい。エバはそうしなかったがために失敗しました。そして教会が御言葉を置き去ったときにサタンの深い闇の中に入ってしまいます。
「あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。」
これは第2節に似ています。しかし第2節では渡された聖なる御言葉を守るために働きと労苦、そして忍耐をしました。彼らは敵を撃退し、彼らはパウロの誇りです。しかしこの節において、彼らの受けた迫害と試練、そして忍耐はイエスの祝福された御名のためです。
ええ、まったく奇妙なことではありません。神の御言葉と御名が原因で敵が洪水のように私たちに向かってきます。癒し、しるし、奇跡や他の様々なことでお現われになった全能の御言葉が原因で、パリサイ人たちは真の信者たちを死に追いやろうと叫びました。そしてその御名はユダヤ人たちに憎まれそして見下され、教養のある人たちにあざ笑われました。なぜなら彼らはある人が亡くなってまた復活し、今天に座っていると信じる人はとても愚かと思っており、笑ってしまうのでした。そのためこれらの敬虔な迫害者、すなわちユダヤ人たちは自分たちにとっては偽メシアであるこちらのイエスをののしり、その他の人々は新しい神の名前に皮肉に笑ってあざけました。彼らにとってイエスは神ではなかったのでした。
その時代で始まり、その後の時代で徐々に深く闇に入っていくことがもう一つあります。それは、人々がその御名を拒むようになることです。そうしたのは真のエペソ教会ではありませんでした。いいえ。そうしたのは偽使徒でした。それは部外者が入って信者たちを汚そうとしたのでした。エペソ教会の人々はその御名を知っていて、愛していました。あのエペソ教会の起源を思い出してください。小さなグループの人々がメシアを探していて、パレスチナの砂漠に現れた、自分のことをメシアの先駆者だと呼び、人々に罪の悔い改めのバプテスマを授けていた預言者の言うことを聞きました。そしてこれらの人々はヨハネのバプテスマを受けました。しかしパウロが彼らのところにやってきて彼らに、その預言者は亡くなり、イエスが来られてご自分のいのちを罪のいけにえとして成就され、そして今聖霊は来られ、メシアであるイエスの中にいるすべての真の信者を満たすことを示しました。彼らがこのことを聞いたとき、彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受け、そしてパウロが彼らの上に手を置いたとき、彼らはみな聖霊に満たされました。彼らは御言葉に従うのはどういうことなのかを知っていた、すなわち主の御名(主イエス・キリスト)でバプテスマを受けることであり、その方法で彼らは自分たちが聖霊に満たされることを知っていました。その人々を変えることはできません。彼らは真理を知っていました[使徒 19:1-17]。
彼らはその御名の御力を知っていました。その御名があまりにも力強いので、パウロの身からとった前掛けを、イエスの御名によって苦しんでいる人のもとに送ると、その人をあらゆる病気から解放し、悪霊を追い出すことができました。その御名の働きがあまりにも力強かったため、エペソにいる堕落したユダヤ人たちがその御名を使って悪魔を追い出そうとしました。
使徒の働き19:11-17
「神はパウロの手によって驚くべき奇蹟を行われた。
パウロの身に着けている手ぬぐいや前掛けをはずして病人に当てると、その病気は去り、悪霊は出て行った。
ところが、諸国を巡回しているユダヤ人の魔よけ祈祷師の中のある者たちも、ためしに、悪霊につかれている者に向かって主イエスの御名をとなえ、『パウロの宣べ伝えているイエスによって、おまえたちに命じる』と言ってみた。
そういうことをしたのは、ユダヤの祭司長スケワという人の七人の息子たちであった。すると悪霊が答えて、『自分はイエスを知っているし、パウロもよく知っている。けれどおまえたちは何者だ』と言った。
そして悪霊につかれている人は、彼らに飛びかかり、ふたりの者を押さえつけて、みなを打ち負かしたので、彼らは裸にされ、傷を負ってその家を逃げ出した。
このことがエペソに住むユダヤ人とギリシヤ人の全部に知れ渡ったので、みな恐れを感じて、主イエスの御名をあがめるようになった。」
彼らはその御名を背負うには正しい生活をしなければならないことを知っていました。なぜなら主の御名を呼ぶ者なら誰でも罪から離れなければなりません。身を清めよ。主の器をになう者たち[イザヤ52:11]。主の御名をみだりに唱えてはならない[出エジプト20:7]。これらのエペソ人はクリスチャンでした。彼らはある御名を背負っており、その御名はキリスト、すなわち彼らの間にいる神の御霊で、彼らの主の三重の御名の中の一つでした。
57「...わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。」[黙示録 2:3]
これらの信徒たちが耐え忍んだのはパウロのためではなく、ある組織のためでもありません。彼らは富を集めるために計画や組織に身をゆだねません。彼らは主のために働きました。彼らは主のしもべであり、組織の犬ではありません。彼らは日曜日に教会に行き、その御名について話し、それ以降忘れてしまうような人ではありません。彼らは口を捧げてその御名に仕えていませんでした。いいえ。彼らは神から与えられた命を捧げ、仕えていました。
彼らの行いはすべてその御名のもとで行いました。彼らはその御名で行動し、もしそうすることができない時は行動を控えました。彼らは天に置かれたクリスチャンであり、行いはすべて主の中にありました。
しかしその御名をよごそうとする偽のブドウの木たちは闇の中に潜伏する狼のように接近し、その中に入って破壊しようとしました。しかし聖徒は試練に耐え、御言葉と御名を守りました。
神のお叱り
黙示録2:4
「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。」
この点を理解するためには、聖霊はエペソのもともとの真の聖徒たちにだけ話しているわけではないことに気づかなければなりません。このメッセージは120年間続いた時代全体に対するメッセージです。それはあの期間のすべての世代に対するメッセージです。今歴史は繰り返されます。イスラエルの歴史を通して、復興が一つの世代に起これば、次の世代でその火が消えつつあるのが見えてきます。三つ目の世代でわずかに燃え、四つ目の世代ではもはや復興の火が見えなくなりました。そうしたら神が再び火を起こして、同じ過程が繰り返されます。それは、神は孫を持たれないことを端的に表します。贖いは自然の誕生で受け継がれることではなく、使徒の伝承によるものでも決してありません。そんなことは御言葉の中にありません。真の生まれ変わった信徒で始まったのだが、次の世代ではもはや普通のクリスチャンではなく、バプテスト、メソジストなどといった宗派の名前を名乗ります。それも実際に彼らそのものです。彼らはクリスチャンではありません。あなたはもし救われたいなら、神の御心で生まれるべきであって、人の意志によるべきではありません。しかし彼らは今人の意志で集まっています。私は彼らの何人かが神の御前で正しくないことを言っているわけではありません。これぽっちも言っていません。しかしもともとの火はすでに消えました。彼らはもはや同じではありません。
神を喜ばせようとする熱い願望、主の御言葉を知ろうとする情熱、御霊を求めようとする叫びはみな徐々に消え始め、神の炎で燃えるかわりに、その教会は冷えていき、形式ばったものになってしまいました。それがエペソ時代の人々に起こったことでした。彼らは形式ばった人々となってしまいました。神のために我を捨てる心がなくなっていき、人々は神が自分たちのことをどう思っていらっしゃるのかをあまり気にかけなくなり、世の中が自分たちのことをどう思っているのかを気にするようになりました。第二世代はイスラエル人と同じようになりました。彼らはほかの国と同じようなれるように王を要求しました。彼らがそうした時、神を拒絶しました。それは教会の歴史でもありました。教会が神に従うよりも、世の中に従おうとしたとき、すぐに彼らがこれまでの行いをやめ、最初に行うことがなかったことを行い始めるのが見えてきます。彼らは服装、態度、そして行動の仕方を変えました。彼らはゆるくなりました。それは「エペソ」という言葉の意味で、ゆるむこと、流されることを意味します。
復興と死の循環は止まったことはありませんでした。神が最後に聖霊をとおして働かれたとき、男女みなクリスチャンのように着こなし、教会に行き、夜通しでお祈りをし、町の隅まで福音を伝え、聖霊の表れを恥としませんでした。彼らは自分たちの古くて死んだ教会を離れ、家の中、あるいは古い倉庫の中で礼拝をしました。彼らは真実なものを持っていました。しかし時間がたたないうちに彼らはよい新しい教会を建てられるのに十分なお金を得始めました。彼らは自分たちが神に歌う代わりに聖歌隊を設立しました。聖歌隊にガウンを着させました。運動を組織し、人によって運営しました。すぐに彼らは読むべきでない本を読み始めました。柵を下し、山羊が入り、支配権を握りました。喜びの叫びが消えました。聖霊の自由が消えました。ああ、彼らの行いの形式はそのままだが、火は消え、残ったのは黒い灰のみでした。
先ほど私はヨハネが神を愛するとはなにかを知っていたと言いました。 教会が神に対する初めの愛を失おうとしているとき、その偉大な愛の使徒はきっと見ていました。
彼はIヨハネ5:3でこう言っていました、
「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。」
 御言葉から少し逸れただけでキリストから一歩大きく遠ざかります。人々は自分たちは神を愛し、教会に行き、叫んで喜んで大きく興奮した時でさえあったと言います。しかし、それが過ぎたとき、彼らがその御言葉の中にいて、その中で歩き、その中で生活しているかどうかをよく見てください。彼らはそれらを経験したのに御言葉の中で歩まなかったら、彼らは自分たちは神を愛していると言っているにもかかわらず、彼らのいのちはほかのことを語っています。ヨハネは亡くなられる前にそういうことを多く見たのではないかと思います。すなわち人々は自分たちは神を愛していると言っているが、神の御言葉に従わないことです。ああ、エペソ教会、あなたになにかが起こりました。その御言葉になにか加えたり、取り除いたりしようとしている者がいます。しかし彼らは精巧に行うので、気づくことができません。彼らはあなたがはっきりとわかるように大ぴらに行うことはしません。彼らは人の理解でそれをこっそり行い、それを拒絶しないとそれはあなたを支配します。遅すぎないうちにペンテコステに戻りなさい。
しかし、いつものように、人々は神の警告を心に留めません。神聖の御言葉のうえでたてられた復興の火はあまりにも素晴らしく、御霊の表れはとても祝福されたもので、人々は心に少し恐れを抱いてこうささやきます、「私たちはどのように自分たちが持っている真理を守ることができるのでしょうか。この復興が続くためには何をすればよいのでしょうか。その時「アンチキリストの霊」が入ってきて、こうつぶやきます、「見よ、あなたは真理を持っている、それが失われないように。組織を作り、信じていることを信条として作りなさい。それらすべてを教会のマニュアルに入れなさい。」そして彼らはそうしました。彼らは組織しました。御言葉に他のものを加えました。そして彼らはエバのように間違った一文字を受け入れたがために死にました。神の御言葉がいのちをもたらすのです。私たちが神の御言葉はああだこうだと言うのが正しいではなく、神が言われることが正しいのです。
神の警告
黙示録2:5
「それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。」
神は彼らに思い出すようにと言われました。明らかに何かが彼らの心から離れました。彼らは何かを忘れました。神は彼らに自分たちの始まりの時を思い出すようにと言われました。一つ目の時代の始まりはペンテコステでした。彼らはそこから落ちました。彼らはその栄光と奇妙を忘れました。今は昔のことを思い出し、現実に戻るときです。彼らが「私にとっては、生きることはキリスト[ピリピ1:21]」と言うことができた時に戻る時です。アナニアとサッピラが処罰された純潔な時代に戻る時です[使徒5:1-11]。美しの門に戻る時です[使徒3:1-16]。神から離れ、主の御名を否定するそれらの行いを支持することはなんと非難されるべきことでしょう。主の御名を呼ぶ者がみな罪から離れ、神のために器を清潔に保てるように。あなたが頭、心、そして生活でどうであったかを見返し、そしてそれに戻りなさい。
どの道に戻ればいいのでしょうか。悔い改めの道です。もし罪人が神の御前に来るために悔い改めなければならないならば、生ぬるい人もしくは後戻りした人はもっと悔い改めなければなりません。悔い改めなさい!悔い改めにふさわしい実を結びなさい[マタイ3:8]。あなたのいのちでそれを証明しなさい。「もし悔い改めなければ、わたしはあなたの灯台を取り除くでしょう。」と神は言われました。もちろん。あのような状態にある教会は世界に光をもたらしことはできません。その光は闇に変わってしまったのです。神は御自分の忠実な使者や忠実な羊飼いを連れ去られ、彼らを残されます。彼らはキリスト教について話し続けますが、そのもの本質を失ってしまいます。
はやく悔い改めなさい!ためらわないでください!エペソは明らかにためらったのです。なぜなら彼女の寿命は長く続きませんでした。神の栄光はあまりにも早く消えました。その街はすぐに廃墟になってしまいました。その栄光のある神殿は廃墟になったのです。その土地は水鳥が暮らす沼になり、住民は離れ、わずかな非信者の人たちが汚い村に残りました。クリスチャンは一人も残りませんでした。ランプは元の場所から移動されました。
彼女が悔い改めることができなかったというわけではありません。私たちが悔い改めることができないというわけではありません。私たちはできるのです。しかし早く行うべきです。誠意のある心で神に悲嘆しなければいけません、そうしたら神は元に戻してくださいます。栄光が再び来ます。
ニコライ主義の種
黙示録2:6 、
「しかし、あなたにはこのことがある。あなたはニコライ派の人々の行いを憎んでいる。わたしもそれを憎んでいる。」
今ニコライ派の人々とは何かについては2通りの考え方があります。ある人たちは、彼らは背教者のグループであり、創始者はアンテオケの町のニコラスで、彼は改宗し、エルサレムの7人の執事の一人になった人だと言っています。彼らは異教の祭日があり、行いがみだらなものでした。彼らは欲を制するためには初めひと通り経験する必要があると言っていました。彼らは自然と欲に従い、完全に堕落しました。したがって、人々はそのような途方もない言行を形容するために旧約聖書にある2つの名前、バラムとイゼベルで彼らを呼びました。バラムは人々を堕落させ、征服したのと同じように、ニコラスも同じことをしたと言われました。このグループはエペソから追い出され、ペルガモンで住み着いたようでした。
しかし問題は、この考え方は真実ではないのです。歴史に少しも記録されていません。言い伝えにすぎないのです。このような考え方ではエペソの教会時代は完全に歴史となり、今日とのつながりを少しももたないのです。これは真実ではありません、なぜなら早期の教会で始まったことはそれぞれの時代で継続し、最終的に神によって祝福され高く挙げられるか、火の湖の中で汚れたものとして破壊されるかのどっちかです。この言い伝えは聖書とは実際一致せず、黙示録2:2において、エペソ教会は悪いものたちを我慢することができないと書かれています。したがって彼らはその人たちを追い出さなければならなかった、でないとその人たちを我慢することができないと書かれることが無意味になってしまいます。もしその人たちを追い出さなければ、彼らは我慢することになるのです。6節において、彼らはその人たちの行いを憎んでいると書かれています。そのためこのニコライ派の人々は一つ目の時代で一部残り、彼らの行いをしました。その行いは憎まれたが、それで彼らは無能になることはありませんでした。したがって、私たちはエペソに撒かれた種が教義になるまで成長し、徐々に上にのぼり、そして火の湖の中に入るのを見ることになります。
ニコライはなんでしょうか。その言葉は2つのギリシア語から来ています。征服を意味する「ニカ」と、一般の信者を意味する「ラス」です。簡潔に言いますと、早期教会において誰かが一般信者を征服するようなことを行なったということです。もし一般信者が征服されたのでしたら、それを行ったのは「権力者」に違いありません。
その教会で神が嫌われるようなことで何が起きたのでしょうか。その時に起きたこと、そして今でも起きていること、それこそニコライという言葉の意味です。人々は何かの神の御言葉に完全に反する方式で征服されたのでした。
私たちが調べようとしているこのことの本当の意味を追求する前に、宗教(霊的なこととも言う)は2つの入り組んでいるが黒と白のような反対な部分から成っていることをあなた方に心に留めさせなければなりません。宗教と霊的な世界はエデンに根ざしているあれらの2本の木から成っています。いのちの木と善悪の知恵の木は園の真ん中に立っており、それらの枝は疑いもなく互いに交差していました。したがってエペソ教会はその同じような矛盾の中にあります。その教会は善と悪から成っています。2本のぶどうの木が教会を作っています。それらは麦と毒麦のように隣り合わせで成長しています。しかし片方は真理で、もう片方は偽りです。今神はそれぞれにお声かけになり、それぞれについて話されます。神は彼らを教会と呼ばれます。そして選民のみがどっちが真の御霊かを本当に知っています。選民しか惑わされることはありません。マタイ24:24、
「にせキリスト、にせ預言者たちが現れて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。」
そのため、初期教会(ペンテコステ後のわずかな短い期間)に戻ると、偽りのぶどうの木は真実のぶどうの木の周りに絡みつこうとしており、これらはニコライ派の人々の仕業だと分かりました。そしてその霊は神に破壊されるまで真実のぶどうの木に対抗して戦い続けようとしている。今わかりましたか。
ではその教会の霊的の状態はどのようなものでしたか。それは初めの愛から離れました。神が初めに私たちに明かしてくださった御言葉に対する愛から離れ、その原点、すなわちペンテコステから堕落しました。簡単に言いますと、それはこの教会が聖霊の導き、御霊の支配から離れてしまう危険に立っているということです。これはまさにモーセがイスラエル人をエジプトから導き出した後に起きたことです。神が彼らを導かれる方法は火の柱、予言、奇跡そしてしるし、さらに神由来の幻を通されたものです。これは「神が選ばれた」、「神が定められた」、そして「神が用意された」、さらに「神が遣わされた」人を通して、群衆全体が聖霊の働きに支配されることで成就されます。彼らは反抗して一式のルールと教義に従って行動するのを望みました。そして彼らは王を望みました。そして彼らは世界と同じようになりたく、完全に背教で神のことを忘れた状態になりました。それがまさに一つ目の教会時代の始まり方で、それは徐々に悪くなり、聖霊が完全に拒否され、神が人々を破壊されなければならないところまで進みます。
それが初期の教会でどうやって始まったかをみてください。それは「行い」と呼ばれました。次にそれは教義となりました(黙示録2:15)。それは基準になり、変えられない方法となりました。ついにそれは神の代わりとなり、神はわきに押しのけられました。ああ、それが始まった時は本当に小さく、静かで、あたりさわりのない状態でした。それは本当によく見えました。筋が通ったように見えました。その後ニシキヘビのように巻きつけ教会を締めて窒息させ、その中の全ての霊的なことを殺しました。ああ、あの偽りのぶどうの木は巧妙なものです。それはあなたを捕まえるまでは光の御使いのように振る舞います。今私はリーダーシップを信じることを言いたいです。しかし信じるのは人によるリーダーシップではありません。私は御言葉を通して来られる聖霊のリーダーシップを信じます。神が教会に御霊の賜物のある人を設立され、彼らは教会を秩序正しいものに保つことも信じます。私はそう信じます。教会が神が遣わされる人によって管理されるべきことも信じます。しかしそのルールは御言葉によるもので、人が実際に管理しているのではなく神の御霊が管理される、なぜなら御言葉と御霊は一つなのです。ヘブライ13:7 、
「神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。」
しかしそこに何が起きたのかを振り返ってみましょう。あの偽りのぶどうの木は存在が強くなり、人による支配は正しいと教えました。それは教会が支配されなければならないと話しました。人々を支配すると話したが、神の方法で行う代わりに、彼らはただ権威をとり、全ての霊的な権力を自分たちの手の中で握り、「神聖」な聖職者制度を作って神と人々の間に立ちました。彼らは昔のアロンの制度に戻りました。彼らはアンチキリストとなりました、なぜなら彼らは主の仲介者の身分を廃止し、自分たちのものを取り入れました。神はそれを憎みました。エペソはそれを憎み、そして真の信者なら誰でもそれを憎みます。もし同じことが歴史を通して働き、今が今までで一番悪い状態であることが見えないなら、私たちはどうしようもない盲目な人となります。それは何でしたか、それは組織でした。それが人々を引き裂きました。神の人々は一つとされるのです。彼らは一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が聖霊によって働き、すべての者が神の礼拝の中に参加します[コリントI 12:13]。しかし人は優位に立ちたかったので、支配権をとり、監督が大司教となり、称号をつけることで彼らは神の御言葉を無視して自分たちの教義を教え始めました。彼らは人々を従わせ、次第に彼らの礼拝の仕方はペンテコステ後の初期の時代に少しも似つかないものとなりました。これらの行いは使徒継承の始まりです。使徒継承から容易に発展し、教会会員が贖いの恵みの意味になってしまいます。御言葉は信条になったのです。アンチキリストはその霊によって教会を支配していました。
今日を見てください。何人かのように使徒の働き2:4を読むと、このように読んでしまうかもしれません、「ペンテコステの日が来た時、司祭がひとかけらの種無しパンを持って来てこう言った、『舌を出してください。』そして彼は種無しパンを舌の上に乗せ、自分がワインを少し飲み、『あなたは今聖霊を受けました。』と言った。」信じられません?これはまさにニコライ主義が行うことです。彼らはこう言います、「神の御言葉で言われていることを気にしなくていいです。あなたは理解できません。私たちはあなたのためにそれを解釈しなければなりません。さらに、聖書は完成されていません。それは時と共に変化しなければならず、どこが変わったのかを教えてあげましょう。」これは何と真逆なことでしょう、真理と衝突があるいかなる時でも、神の御言葉の中ではこう強く述べている「たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。」[ローマ3:4]。この天地は滅び去ります。しかし、神のことばは決して滅びることがありません。[マタイ24:35]そのため人々は偽装している人たちによって導かれます。彼らは自分たちはキリストを代表する者だと言っていますが、実際はアンチキリストなのです。
もう一つ悲しい物語があります。それは水の洗礼の話です。イエスの時代及びペンテコステの時代において、彼らは水に浸されました。それを否定できる者は誰もいません。教育された人は多くのところで水の洞穴が見つけやすかったので、昔の信徒は水をかけていたと言っています。そして水をかけた時、彼らはそれらの称号が本当の名前であるかのように、そして神は一つではなく、三つであるかのように、父、子、そして聖霊の御名で行いました。しかしあの組織の中にいて、主イエス・キリストの御名による浸礼の真理を伝道すると、追い出されます。神に導かれていながら、そこの中にいるのはできません。不可能なのです。
さて、パウロは預言者で、聖霊によって指導されました。もしパウロは主イエス・キリストの御名によってバプテスマを受け、そして自分が教えたのと異なることを行った者は呪われると言ったのであれば、今は目覚めて、教会はもはや聖霊によってではなく、ニコライ派の人々によってコントロールされていることに気づく時です。使徒の働き20:27-30、
「私は、神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいたからです。あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。
聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。
私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中に入り込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。
あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。」
パウロはそれがやってくるのを見ました。しかし彼は彼らにこのずるい祭司制度がやってきて偽の教義で支配すると彼らに警告しました。彼はその人たちは聖霊のミニストリーに参加する人たちを排除するような礼拝の仕方を設立することを知っていました。そして今日でさえ、自由で御霊に満たされたと主張する人々の中で、一般信者ではそこまで自由ではなく、もっとも良い時でもわずかな伝道者が激励する伝道を行い、聴衆はそこに座って吸収しようと努めているのが見えます。これはパウロの心底からの叫びで、彼は人々が集まる時、皆聖霊の導きがあり、霊的な礼拝に参加するべきだと言っていました。[コリントI 14:26]
そして教会の団体は一度も聖書の中あるいは歴史の中からこの教訓を学んだことがありません。毎回神が聖霊による訪れを下さった時に人々は自由になるが、少し経ったら彼らは自分たちを縛り、出てきたところに戻ってしまうのです。ルターがカトリックから出た時、人々は少しの間自由になりました。しかし彼が亡くなると、人々はただ彼らがルターが信じていたと思っていることをまとめ、自分たちの信条とアイディアを設立し、自分たちのいうことと反対する者を皆拒みました。彼らは少し違った形でカトリック主義に戻りました。今日多くのルター派の人々は完全に戻れるように準備しようとしています。
ああ、そうです!黙示録12章において、あの大淫婦は多くの娘を持っていました。これらの娘は母親と同じようでした。彼らは御言葉を脇にやり、神の御霊の働きを否定し、普通の信者を服従させ、そして普通の信者が自分たちを通さないと、もしくは自分たちのやり方に従わないと神の礼拝ができないようにし、これは悪魔の不信仰の計画の他にありません。
どこ、ああ私たちのどこが霊的なものでしょうか。私たちは暗闇の荒野にいます。私たちは最初の教会からどれほど遠くまでさまよい回ったことでしょう。見渡す限りペンテコステはなく、御言葉も見つかりません。使徒継承だと今日に伝わった者は御言葉の中で見つかりません。これは人によって作られたからくりなのです。それは人ではなく神は教会の中で御自分のリーダーを任命されるという真理を不法に超えました[コリントI 12:28]。ペテロはローマにさえ行ったことがないのです。しかし彼らは彼は行ったと嘘をついたのです。歴史は彼は行っていないと証明したのです。人々は歴史を読んだのに、肩をすくめて戻って嘘を信じます[テサロニケ2:11]。
御言葉の中で「キリストの代理」をどこで見つけることができるのでしょうか。誰も主の位置に取って代わることができないが、それが行われ、人々はそれを受け入れました。「付け加えられた啓示」、特にすでに与えられた啓示に反する啓示が神に受け入れられると見つけることができるのでしょうか。しかし彼らはそれを受け入れ、それに依存します[黙示録22:18-19]。「煉獄」を見つけることができるのでしょうか。「ミサ」を見つけることができるのでしょうか。「地獄から出るためにお金を支払うこと」を見つけることができるのでしょうか[ペテロ1:18]。それは御言葉の中にないが、人はそれを自分たちの本に入れ、それによって人々を支配し、恐怖によって彼らを管理する。「人は神のように赦しの力を持つ」ということをどこで見つけることができるのでしょうか。「狂暴な狼」彼らを描写するのに強さが足りなくなりそうなくらいです。ニコライ主義。組織。人が人を支配する。
神のところに戻ってください。遅すぎないうちに悔い改めなさい。壁の上の手書きの文字を見てください[ダニエル5章]。それは審判について書いています。神聖な器が俗用に供されたことで神の御怒りを招いたように、神聖な御言葉は俗用に供され、そして聖霊が深く悲しまれ、裁きは来たのです、ドアの前です。悔い改めなさい!悔い改めなさい!ペンテコステに戻りなさい。聖霊の導きに戻りなさい。神様の御言葉に戻りなさい、あなたがたはなぜ死のうとするのですか[エゼキエル18:31; 33:11]。
御霊の声
黙示録2:7
「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」
「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」何百万の人々はこれらの言葉を聞いたり読んだりします。しかしそれらに心を留める人はどのくらいいるのでしょうか。私たちはわかりません。しかし聞く耳を持って真理の言葉を知りたい人は神の御霊が自分を照らしていることを見つけるでしょう。もしあなたの耳が御言葉に開けているなら、神の御霊は御言葉があなたにとって真実であるようにさせるます。今それが御霊の働きです。私はあなたに真理を教えることができるが、もしあなたが耳を開けてそれ聞き、心を開けてそれを受け入れられないなら、啓示を受けることはできません。
注意してください、御霊が諸教会に話しかけていると言っています。それは複数であり、単数ではありません。御霊はヨハネに当地のエペソ教会に向けて、もしくは一つ目の時代に向けてのみ書かせませんでした。それは全ての教会へのものです。しかしこれは教会の始まりです。そしてしたがって創世記のようなものです。創世記で始まったことは御言葉全体を通した真理を持っており、最後に黙示録で終わりを告げます。したがって使徒の働きで始まったこの教会は終わりのラオデキア教会までの神の全ての時代における青写真です。それをよく見てください。全ての時代に心を留めさせてください、なぜならここで起きようとしていることはただの始まりなだけなのです。植えられたその小さな木はこれから成長しようとしています。それは時代を通して成長しようとしています。これは、すなわち、イエスが来られるまでのすべての時代にいるすべてのクリスチャンに向けてのメッセージなのです。はい、そうです、なぜなら御霊がそう言われたからです。アーメン。
約束された奨励
黙示録2:7「...勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」
これは将来すべての時代で勝利を得た者に与える奨励です。戦いの最後の笛がなった時、私たちの鎧が降ろされた時、そうしたら私たちは神のパラダイスで休み、いのちの木は私たちの分となります、いつまでも。
91「いのちの木」なんという美しい例えでしょうか。創世記においてそれは三回言及され、黙示録においても三回言及されました。六ヶ所すべてにおいてそれは同じ木であり、同じことの象徴です。
しかしいのちの木とはなんでしょう。さて、まず私たちはみな木自身はなんの象徴なのかを知らなければなりません。民数記24:6において、バラムがイスラエルを描写しました、彼は彼らが「主が植えられた沈香樹のよう(編注:口語訳聖書引用)」と言いました。聖書を通して木は詩篇第1章のように人を指します。したがっていのちの木はいのちの人でなければなりません、そしてそれはイエスなのです。
さてエデンの園の真ん中には二本の木が立っています。一つはいのちの木、もう一つは善悪の知識の木です。人はいのちの木によって生きなければならないが、もう一本の木に触れてはならない、さもないと彼は死んでしまいます。しかし人はもう一本の木の実を食べると、そうした時、死は彼の罪によって彼に入り、そして彼は神から分離されました。
さてエデンの園の木は、その木はいのちの源、すなわちイエスでした。ヨハネの福音書の6章から8章まで、イエスは御自身を永遠の命の源だと言われました。主は御自身を天からのパンだと言われました[ヨハネ6:33,48,51]。主は御自身を捧げられること、そしてもし主を食べる者は決して死ぬことはないと言われました[ヨハネ6:58]。主は御自分はアブラハムをご存知で、アブラハムが生まれる前から、「わたしはある」と宣言されました[ヨハネ8:58]。主は御自身が彼らに活ける水を与えられ、飲んだものは決してまた渇くことはなく[ヨハネ6:35]、永遠に生きると予言されました。主は御自身のことを偉大なわたしはいるとして示されました。主はいのちのパン、いのちの井戸、永遠の方、いのちの木なのです。主はエデンの園の真ん中におられたように、将来神の楽園の真ん中におられます。
その中にあるその2本の木は神が置かれた他の木となんら変わらないものだと考えている方はいます。しかし注意深い学生はそうでないことを知っています。バプテスマのヨハネが斧はすべての木の根の上に置かれたと叫んだ時、彼は自然な木ではなく、霊的な原則について話していました。
さてヨハネI 5:11でこう書かれています。
「そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。」
イエスはヨハネ5:40でこう言われています。
「それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」
したがって記録は、神の御言葉は、簡潔かつはっきりといのち、永遠のいのちは御子の中にあると言っています。他のところにはありません。
ヨハネI 5:12
「御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。」
では記録は変えられず、取り除かれたり付け加えられたりするることができないものなら、記録はいのちは御子の中にあると支持しています...そうであれば、園の中の木はイエスでなければなりません。
はい。もしいのちの木は人なら、善悪の知識の木人なのです。他のもののはずはありません。したがって良い者と悪い者はエデンの園の真ん中に隣り合わせに立っていました。エゼキエル書28:13
「あなた(サタン)は神の園、エデンにいて、」
ここから「サーパント(Serpent)の種」の真の啓示が得られます。これがエデンの園の中で起きたことです。エバはサーパントにだまされたと御言葉に書かれています。彼女は実際にサーパントによって誘惑されました。創世記3:1においてこう書かれています、
「さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。」
この獣はあまりにも人間に近かったので(しかしやはり獣だったが)、理解し、話すことができました。彼は直立する生き物で、チンパンジーと人間の間くらいであったが、人間に近かったのでした。彼はあまりにも人間に近かったので、彼の種は女の卵子と交わることができ、女を妊娠させることができました。これが起きたとき、神はサーパントを呪いました。神はサーパントの体の全ての骨を変えられたので、サーパントは今日のヘビのように這わなければなりませんでした。科学がどれだけ努力しようと、その失われた環を見つけられません。神はそのことに心に留められました。人は賢く、人間と動物の間に関連があることを見出すことができ、それを進化として証明しようとします。進化などはありません。しかし人と動物は交わったのです。それが神が隠して来られた秘密の一つだが、ここで啓示されました。そのことはエデンの園の中でエバがいのちから離れ、死を受け入れたときに起きました。
神が園の中ので彼らに言われたことに注意してください。創世記3:15 、
「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」
もし女に子孫があるという御言葉を受け入れるなら、サーパントも子孫を持つはずです。もし女の子孫は男を通さずに生まれる男児なら、サーパントの子孫も同じ方式で生まれることになります。つまり、もう一人の男児は人間の男性を通さずに生まれるということです。女の子孫はキリストであり、彼は人間の交わりではなく、神を通して生まれた方であるということを知らない学者はいません。サーパントの頭を踏み砕くという予言はキリストは十字架で悪魔を徹底的に破る予言を指しているのもよく知られています。十字架において、キリストは悪魔の頭を踏み砕かれ、悪魔は主のかかとに噛みつきます。
この部分の聖句はサーパントの種はどのように地上に撒かれたかの啓示で、同じようにルカ1:26-35においては、女の子孫はどのように人間の男性を通さずに肉身として表されたかを記しています。
「ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。
この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。
御使いは、入って来ると、マリヤに言った。『おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。』
しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。
すると御使いが言った。『こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。
ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。
その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。
彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。』
そこで、マリヤは御使いに言った。『どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。』
御使いは答えて言った。『聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。」
女の子孫は文字通り神が御自身を肉に表された方であると同様に、サーパントの子孫も文字通りサタンが人間の血筋に入るドアを開けられる道筋を見つけたものでした。サタンは神のように自分自身のために肉体を創ることができないため(なぜなら彼は創られた霊だから)、創世記は彼がどのように自分の子孫を繁殖し、人間の血筋の中に導入もしくは注入したかを記録しています。サタンが「サーパント(serpent)」と呼ばれていたことを思い出してください。私たちが話しているのは彼の子孫もしくは人間の血筋に注入された種のことです。
アダムがまだエバに対して肉の欲に対する知識がない前に、サーパントは彼より先に知識がありました。そうして生まれたのがカインでした。カインは「悪い者」から出た(生まれた、もうけられた)者です[ヨハネ I 3:12]。ヨハネの中におられた聖霊は同じところでアダムを「悪い者」とは呼ばずに(さもないと彼はカインの父となってしまうのです)、別のところではアダムのことを「神の子」と呼んでいて、彼は創造された者でした[ルカ3:38]。カインは自分の父親と同じ性格を持っていて、死をもたらす者、殺人者でした。彼が創世記4:5,9,13,14,において全能の方と向き合ったとき、その神に対して徹底的に公然と反抗する態度は、彼が決して人間らしくない性格を持っていることを示し、それは聖書の中で悪魔が神と対面した時よりもさらにひどいように見えました。
「だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。
主はカインに、『あなたの弟アベルは、どこにいるのか』と問われた。カインは答えた。『知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。』
カインは主に申し上げた。「私の咎は、大きすぎて、にないきれません。
ああ、あなたはきょう私をこの土地から追い出されたので、私はあなたの御顔から隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人とならなければなりません。それで、私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう。』」
神が実際にカイン、アベル、そしてセツの出生について記録されたものに注意してください。
創世記4:1
「4:1 人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た」と言った。彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。」
創世記4:25
「アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名付けて…」
2回のアダムの肉の欲に対する知識の行為で3人の息子が生まれました。聖書は精確で完璧な神の御言葉であることから、これは間違いではなく私たちを啓発するための記録です。3人の息子がアダムの2回の行為から生まれたことから、その3人の中の1人はアダムの息子ではないことを容易にわかります。神は私たちに何かを示されるために、このことをこのような精確な方式で記録されました。ことの真実は、エバは別々の受精で子宮にふたりの息子(双子)をみごもりました。彼女は双子をみごもり、カインの受胎はアベルよりも少し早かったのです。もう一度その双子をみてください。いつものように完璧な比喩です。これは不可能だと思っている人たちに、女性が異なる卵子で数日隔てた2つの異なる受精によって双子をみごもるという医学の記録は十分にあり、それだけでなく、いくつかの例では双子がそれぞれ異なる男性から生まれたことを示したのでした。この頃よく知られている表紙に載ったニュースは、ノルウェー人の母親が裁判を起こして自分の夫に自分と自分の双子を養うように訴えたもので、その双子の一人は白人で、もう一人は黒人でした。彼女は自分は黒人の愛人を持っていたことを認めました。2つ受胎は3週間も隔てていました。1963年テキサス州バーモントにおいて、何日か離れた複数の受胎での多胎出産の記録がさらにあり、実際多かったため女性が出産の際にその中のひとりの子と共にあと少しで命を落とすところでした。
なぜこのことが起きなければならなかったのでしょうか。なぜサーパントの種がこの方法で来なければならなかったのでしょうか。人は神のために造られました。人は神の神殿であるべきでした。神(聖霊)の休まれるところは人、神殿でした。
「ダビデは神の前に恵みをいただき、ヤコブの神のために御住まいを得たいと願い求めました。けれども、神のために家を建てたのはソロモンでした。
しかし、いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません。預言者が語っているとおりです。『主は言われる。天はわたしの王座、地はわたしの足の足台である。あなたがたは、どのような家をわたしのために建てようとするのか。わたしの休む所とは、どこか。
わたしの手が、これらのものをみな、造ったのではないか。』
かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、父祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。」
悪魔はこのことをずっとわかってきました。彼も神と同じように人の中に住みたかったです。しかし神は御自身にその権利を保留されました。悪魔はそうすることができません。神のみが人の肉体に表れることができます。悪魔はそうすることが不可能で、できません。彼には創造する力がないのです。悪魔が自分のやりたいことを達成するための唯一の方法として、ガダラのブダの群れの中に悪霊として入ったのと同じように、エデンの中でサーパントの中に入らなければなりませんでした。神は動物の中に入られませんが、悪魔はそうすることができ、目的を達成するためにそうしました。彼は神がマリアを通されたように、直接エバを通して子を持つことができないので、サーパントに入ってエバをだましました。彼は彼女を誘惑し、彼女によって悪魔は間接的に子を得ました。カインは悪魔のすべての霊的な特徴とサーパントの動物的欲望(性的な、肉体的な)の特徴を受け継ぎました。聖霊がカインは悪い者から出たと言われてもっともです[ヨハネI 3:12]。彼はそうです。
今いくつかの証明されたことをあげて、人間と動物の間には絶対的な密接な関係があることを示したいです。それは肉体的なことです。まだ生まれていない動物から胚の細胞を取り出して人間に注入できることを知っていますか。そうしたらそれらの甲状腺の細胞は人の甲状腺にまっすぐ向かうし、腎臓の細胞はまっすぐ人の腎臓に向かいます。これはなんと驚くべきことかに気づいていますか。何かの知恵がこれらの動物の細胞をぴったりと正しい場所に導きます。あの知恵がそれらの細胞を受け入れそしてぴったりに正しい場所に置くのです。人と動物の間には密接な関係があります。彼らは交雑して産むことはできません。それは試されました。しかし園に戻ると、その交雑は起き、今でも存在する化学的親和力がそれを証明しています。エデンではサーパントは直立する動物でした。彼は人間に近かったです。ほとんど人間でした。悪魔はサーパントの肉体的特徴を利用してエバを欺きました。そして神はサーパントのその形を破壊されました。他の獣は人と交雑することはできません。でも親和性は存在します。
さてここまで深く入ったならば、この問題についての考えをスッキリさせ、私がかつてそうであったのと同じように「サーパントの種の教義」に入る必要性を見えるようにしましょう。このことを園の真ん中に2本の木があるという事実から始めました。いのちの木はイエスでした。もう1本の木は絶対に悪魔である、なぜならその木から出た実からそれがわかるのです。そしたら、私たちはそれらの木は両方ともに人と関わりがあることを知っています、さもないとそれらはそこに決して置かれることはないでしょう。それらは神の至高の計画と目的の中に、人そして神御自身と関係があるに違いない、でないと神は全知な方だと言うことはできません。これまでの全てのことは真実です、そうではありませんか。今御言葉は地球が創造される前から神の目的は御自分の永遠な命を人と共有されることだと断定されました。エペソ 1:4-11、
「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。
それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。
この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。
この恵みを、神は私たちの上にあふれさせ、
あらゆる知恵と思慮深さをもって、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、この方にあって神があらかじめお立てになったみむねによることであり、時がついに満ちて、実現します。いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。
この方にあって私たちは御国を受け継ぐ者ともなりました。みこころによりご計画のままをみな行う方の目的に従って、私たちはあらかじめこのように定められていたのです。」
黙示録13:8
「地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名の書きしるされていない者はみな、彼(悪魔)を拝むようになる。」
しかしそのいのちは「神が肉において現れる」方法以外のいかなる方法においても共有されることはできない、共有されることはないのです[Iテモテ 3:16]。これは神の永遠の、そしてあらかじめ定められた目的の一部でした。この計画は神の恵みの栄光を賛美するためのものでした。これは贖いの計画でした。これは救いの計画でした。よく聞いてください。「神が救い主とかられるためには御自分が救いを必要とする人をあらかじめ定められる必要があり、そうすることで御自身が救い主となられる理由と目的を得られるます。」それは百パーセント正しいことで、それを支持する聖句は何箇所もあります、ローマ 11:36 、
「というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」
人は園の真ん中のあのいのちの木のところに直接来て食べることはできません。あの永遠のいのちの木はまず肉身とならなければならないのです。しかし神が罪人を救われる前に、救われるべき罪人がいなければなりません。人は堕落しなければなりません。その堕落は悪魔によって引き起こされることができるが、悪魔は堕落させるために肉身を持たなければなりません。悪魔も肉身となって来なければなりません。しかしキリストが肉身となって堕落を修復されたように、悪魔は人の肉身を通して来ることができませんでした。しかし、サーパントという動物があり、それがあまりにも人間に近かったので、悪魔はその獣の中に入り、その獣を通して人の肉体に入って堕落を引き起こすことができ、自分自身を人類の中に入れることができました。これはいつかイエスが来られて御自身を人類の中に、人の体の中に注入され、復活の時に私たちも主のような栄光の身体を持つことができるということと同じなのです。したがって神が園の中でなされたことは神のあらかじめ定められたプランだったのでした。悪魔が神の目的に必要なことをもたらした時、人は園の中のいのちの木に近づくことができなくなりました。もちろんできません。まだその時でないからです。しかしある動物は殺され(動物がその堕落を引き起こしたのではありませんか。そのため動物の命をささげなければなりません)、その血は流れ、そうしたら神は人と再び交流することができました。そうしたらある日、神が肉身にお現われになり、神は御自身の身分を低くされることによって堕落した人を取り戻され、彼に永遠のいのちを享受させることがおできになるのです。このポイントを見たとき、あなたはサーパントの種を理解することができ、エバが食べたのはリンゴではないことがわかるのです。いいえ、それは種を交雑したことによってもたらした人の堕落でした。
さて、ある質問に答えたところで新たな疑問が浮かんでくることは知っています、人々は私に、「もしエバがそのように堕落したのであれば、アダムは何を行なったでしょう、なぜ神はアダムを責められだのでしょうか。」それは簡単なことです。神の御言葉は永遠に天の上に確立されています[詩篇119:89]。一点の宇宙塵が造られる前に、御言葉(神の法律)は私たちの聖書に書かれているのと全く同じようにそこにあったのでした。さて聖書にはもしある女性が自分の夫を離れ、他の男性と駆け落ちすると、彼女は姦婦となってもはや夫を持つ女性でなくなり、その夫は彼女を連れ戻すことはできません。その御言葉はエデンの中ではモーセが律法書の中に書いたのと同じように真実でした。御言葉は変わることはありません。アダムは彼女を連れ戻しました。彼は自分が実際何をしているのかはわかっていたが[テモテI 2:14]、彼はそれにもかかわらずそうしたのでした。彼女は彼の一部でした、そして彼は彼女の責任を担おうとしました。彼は彼女を行かせませんでした。そのためエバは彼からみごもったのでした。彼は彼女はそうなると知っていました。彼は人類に実際に何が起こるのかは知っていたが、彼は人類を罪に売りだすことでエバを得ることができました、なぜなら彼女を愛していたからです。
そしてそのふたりの息子は生まれました。人類の祖先となる息子たちで、人類は今日でも汚染されています。聖書は彼らについてなんと言いましたか。聖書を読んでください。ユダ 14、
「アダムから七代目のエノクも、彼らについて預言してこう言っています…」
創世記5章はエノクの家系についての章です。それは家系についてこのように記録しています、1.アダム、2.セツ、3.エノシュ、4.ケナン、5.マハラルエル、6.エレデ、7.エノク。カインは言及されていないことに注意してください。アダムの家系はセツを通っています。もしカインがアダムの子であれば、生得権の律法によってカインは長子の権利を得るはずです。また創世記5:3でそれについて注意深く書かれているはずです、こう書かれています、
「アダムは、百三十年生きて、彼に似た、彼のかたちどおりの子を生んだ。彼はその子をセツと名づけた。」
カインはアダムに似たとはどこにも書かれていない、もし彼はアダムの息子であればそう書かれるのです、なぜなら生産の法則は子供は両親に似ると強調しています。私たちも創世記とルカの福音書にある二つの家系の中でカインは書かれていないことに気づいています。もしカインはアダムの息子ならばどこかで、「カインはアダムの息子で、アダムは神の息子」と書かれるはずです。そう書かれてはいない、なぜならそう書くことができないからです。
もちろん、長い間学者は人の二つの家系を明らかにしました、一つはセツから出た敬虔な家系で、もう一つはカインから出た不敬虔な家系です。そしてそれは変だが、真実です、これらの学者は一度もなぜカインはそのような人で、アベルとセツは霊的で敬虔な家系なのかを教えてくれませんでした。普通な考えに基づくと、カインは敬虔で、アベルは少し敬虔さを失い、そしてセツはさらに不敬虔になって、その後どんどん不敬虔にしまうはず、なぜなら世代が増えれば増えるほど神から遠ざかってしまったからです。しかし違いました、カインは現れると悪の本性が表れ、彼のように神と御言葉にひどく反抗する人は今までなかったのです。
さてこのことをわかっておいてください:聖句で言葉の遊びはありません。聖書に書き記されたものは皆聖油を塗られた目が見えるようにそこに書かれたのです。そこにあるのはある目的のためです。御言葉がこう言われました、創世記3:20、
「さて、人は、その妻の名をエバと呼んだ。それは、彼女がすべて生きているものの母であったからである。」
でもアダムがすべて生きているものの父であったと書かれた聖句はどこにもありません。もし創世記3:20に何かの暗示がなければ、なぜエバがすべて生きているものの母であったと書かれておきながら、アダムについて何も記されなかったのですか。事実はエバがすべて生きているものの母であったが、アダムはすべて生きているものの父でないということです。
創世記4:1においてエバはこう言いました、「私は、主によってひとりの男子を得た」彼女はのことはアダムに由来するもので、アダムはカインの父だと言いません。しかし創世記4:25において彼女はこう言っています、
「カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。」
彼女は神が自分にもうひとりの子を授けられたとは言っていません、もし授けられるのでしたら、それはキリストのことです。この息子セツはアベルの代わりに聖別され選ばれました。彼女はアダムから来た息子を認めたが、ここでカインのことを認めず、なぜなら彼はサーパントから来たからです。彼女はアベルの代わりの別の子と言ったとき、彼女はカインはアベルとは違うと言っているのです、もし同じ父親なら彼女はこう言ったはずです、「私はさらにひとりの子を授けられた」。
私は自分が読んだすべてのものを信じるわけではないのですが、実に好奇心を感じさせられたことに、1963年3月1日の「LIFE」誌において私たちが討論しているのと同じことが心理学者たちが話していたことが報じられました。今心理学者たちは皆お互いを賛成しているわけではないのだが、ここでは意見が一致しました。ヘビに対する恐怖は意識的な反感ではなく、無意識なものです。もし自然な恐怖なら人々はただ喜んでゴリラやライオンのケージの前に立ってそれらに魅了されます。彼らの無意識な考えが彼らをじっとヘビを眺めさせているのです。ヘビの誘惑は無意識な性的なものです。今まで続いて来た世代での人々は同じことを見てきました。ヘビはずっとぞっと感じさせるが、魅了させられるものでした。ヘビはいつも善と悪の象徴であり続けました。それは時代を通して男根のシンボルであり続けました。エデンの園での描写のように、サーパントは邪悪な感情の化身であることがわかります。
ほとんどの世界各地の様々な文明が開けていない種族において、ヘビは性とつなげられていて、崇拝の対象となっています。性科学の研究で多くの例が出されています。今これらの人々は教育も受けておらず、聖書も読んだことがないのに、どこからそれを知ったのかを知りたいです。しかし洪水のことでさえ世界中で周知され、人の堕落の真実も知られてました。彼らはエデンで何が起きたのかを知っていました。
さてここで誰かが私にこういう質問をするでしょう:神はエバにサーパントに気をつけないとサーパントは彼女を誘惑すると言われましたか。よく聞いてください、神は何かが起きようとしていると言われる必要はありませんでした。ただこの話のポイントを掴みましょう。神はシンプルに御言葉をくださったのです。神は知識を持たないように、いのちを持つようにと言われました。いのちは神の御言葉です。死は神の御言葉以外の全てです。エバは一つの言葉を変えることを許しただけですぐに悪魔は彼女を占有しました。神は、「自分が食べられる以上の量の実を木から取ってはいけない。」とおっしゃることができたかもしれません。そうしたら悪魔は、「見よ、それは絶対正しいことです。採りすぎると腐ってしまいます。しかし実を保存する方法があって、あなたは採りたいだけ採れるのです。なので見てください、あなたは自分のやり方と神のやり方を同時に持つことができるのです。」と言うができます。悪魔はすぐに彼女を占有することができます。律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです[ヤコブ 2:10]。その御言葉をもてあそんではいけません。それは実にエペソ時代が終わる前、紀元後170年ごろに起きたことです。
あの木は何を生み出したのですか。善悪の知識の木は死を生み出しました。カインは自分の兄弟アベルを殺しました。悪人は義人を殺しました。これが先例を設立しました。こういうことは預言者たちが言ったように、万物が復興されるまで継続されます。
善悪の知識の木からは知識人、著名人が生み出されました。しかし彼らの道は死の道です。神の人々はシンプルだが霊的な心を持っていて、神と自然を愛し、土を静かに耕し、富よりも真理を大事にします。サーパントの子は一流の商業、素晴らしい発明をもたらしたが、それらのすべてとともに死がやってきます。彼らの火薬そして原子爆弾は戦争で殺し、そして平和な時に彼らの機械の発明、例えば車は、平和な時に戦争の時の発明よりも多くの人を殺しました。死と破壊は彼女の苦労の実です。
しかし彼らは敬虔です。彼らは神を信じています。彼らは自分たちの父、悪魔、そして自分たちの先祖、カインに似ています。彼らは両方とも神を信じていました。彼らは教会に行きます。彼らは毒麦が麦と混ざっているように義人の中に混ざっています。堕落のために彼らはニコライの教義を作ります。彼らは毒を撒き、カインがアベルを殺したようにできる限り神の子を破壊しようとします。彼らの目には神に対する恐れはありません[ローマ3:18;詩篇36:1]。
しかし神は御自分の人を一人も見捨てられません。神は死の中でさえ彼らを見守られ、そして最後の日に彼らを復活させると約束されました。
結論
「...勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」
なんとワクワクさせる考えでしょう。そのエデンの園のいのちの木はアダムの堕落によって近づくことができなかったのが、今勝利を得た者に与えられるのです。守衛のセルビムの炎の剣は鞘に収められました。しかし剣の刃に子羊の血が塗られないとそれは鞘に収められません。この真理について瞑想してみてください、それと同時に、アダムと彼の子孫がこの木に近づくことができなかったのに、今もう一度許されたのかについて考えてみてください。
神が人を造られた意図は御自分の御言葉を表されるためです。創世記において、アダムは生きるのに御言葉を与えられました。御言葉によって生かされているいのちは御言葉の表れです。そうではありませんか。しかしアダムはその御言葉によって生かされたのでしょうか。いいえ、なぜなら彼はすべての御言葉で生きるべきなのに、すべての御言葉に気を留めることができませんでした。そうしたらモーセが来ました。なんと偉大で力のある人だったのでしょう。しかし彼もすべての御言葉で生きることができず、そしてその預言者はこれから来る偉大な預言者の象徴であったが、怒りの中で御言葉に従うことに失敗しました[民数記20:7-8,11-12]。そしてダビデもです、イスラエルの偉大な王で、神の御心にかなう人でした。彼は試された時に、姦通に敗れました[サムエルII 12:9]。しかしその後、時が満たされた時に、ある方が来られ、頭であるイエスでさえ[ガラテヤ4:4]、神の御口からでたすべての御言葉で生きているかどうかを試されなければなりませんでした[マタイ4:1]。その時悪魔は敗れました[マタイ4:1-11, ルカ4:11-13]。なぜならここに「…と書いてある」によって生きる方がおられ、そしてその神の傑作は神の御言葉を反射することによって勝利を得られました。そしてこの表された完璧な方は十字架につけられ、神の完璧な子羊として完璧なささげ物として捧げられました。そして「木」の上で主は傷を負って亡くなられ、そうのことで私たちは主によって、主がおられるため、いのちの木の実を食べることができ、ただで与えられたそのいのちで私たちは勝利を得て、そして神の御言葉を表すことができるのです。
そして今神によって勝利を得たこれらの神の息子たちは神の楽園の特権、そしてイエス・キリストとの途切れない交流を与えられました。彼らは決して主から離れることはありません。主はとこに行かれても。主の花嫁は行きます。主が持っておられるものは何でも共同相続の関係として御自分の愛する人に共有されます。秘密なことは明かされます。隠されたことは明らかにされます。私たちは知られているのと同じように、知ることになります[コリントI 13:12]。そして私たちは主に似る者となります。これは小羊の血と、イエス・キリストへのあかしの御言葉で勝利した者の財産です[黙示録12:11]。
あの日が来ることを私たちはいかに待ち望んでいることでしょう、その時曲がりくねった道が全部まっすぐになり、そして私たちはいつまでも主とともにいます。あの日が早く来ますように、そして私たちが主の栄光を共有することに値する証拠として、早く主の御言葉に従いますように。
「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」一つ目の教会が御霊の言われることを聞く代わりに人の言うことを聞いたのはなんと痛ましいことでしょう。しかし神に感謝いたします。最後の時代にあるグループ、最後の日の真の花嫁が起こされ、そして彼女は御霊の言われることを聞きます。あの暗闇に満ちた日に光は純粋な御言葉によって戻り、そして私たちは再びペンテコステの力を持ち、主イエス・キリストの再来を歓迎します。