預言によってはっきりされた現在の出来事

  • 伝道者:ウィリアム・ブランハム
  • サンバルダルディーノ カリフォルニア州 アメリカ合衆国
  • 録音番号:65-1206
  • 年:1965
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頭を垂れて祈りましょう。親愛なる天のお父様、今晩あなたが我々の祈りに答えて下さったゆえに感謝したいのです。この貧しい親愛なる女性がそこで寝ていました、手術は失敗しました。しかしオー神様、地上で初めてされた手術を覚えています。あなたがあなた自身で行われたのです。アダムのあばら骨を取られてその切られたところを閉じられてそれから彼の妻を創られたのです。オー父よ、今晩あなたの御手が今降りてこられてこの尋ねている偉大な事をしてくださるように祈ります。そしてこれの他に、主よ、この女性は精神的な圧迫に苦しんでいます。他の全て我々が受け取ったリクエストがあります、それらすべてをあなたの御手に委ねます、父よ、誠心誠意を尽くして祈ります。イエスキリストの御名によって、アーメン。
ここにいられることはまさに特権であり又、この素晴らしい会衆を見る事と素晴らしい歌、素晴らしい小さなクワイヤーです。私は違った事を考えていました。彼等少年たちがそこに立っていました、綺麗な見た目の人達、髪もきれいに切られていました。私が昨晩考えていました、私がいる場所には、沢山の不良青年がそこに来て、プールである少年を溺れさせようとしていました、彼等はなにかを呼び出してそこから取り出されたのです。立って福音の音楽を歌っている子供達と何と違うのでしょう。なんという差でしょうか。
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ヘンリ―兄弟がそこにいて言った事を考えています。「その男性達は女性がするべき髪型をしている」分かりますね。そうなんです。この男の子たちがしようとしている事は、その髪型をしてローラーカーラーを顔の周りに付けたりすらしているのです。分かりませんが時々がっかりしてしまいます。それはまるで、事実なのですが、変態の時代にいるという事です。男たちは女性の着るものを着て女たちは男の着るものを着るいう時代です。そして男たちは、髪を女性のようにしていて、女性の髪形は男性のようになっているのです。この人達の問題はどうなっているのだろうか?彼等には一筋でもまともである事やこの国の栄誉が残っているのかそしてこれらの人々やこの世界はどうなってしまったのだ?
これはひどい時代なのですが世界に福音を宣べ伝える為には最も栄誉のある時でもあるのです。そうなる時のちょっと前に立つことが出来たならば、そして父が私を見て「これらの時代の中でいつの時代に伝道したかったかい?」と言われました。私は今であると言えます。イエス様の再来の直前です。
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会衆を見ています、我々の前に、私の友人の説教師の一人が座っています、昨日ツーソンで馬に乗っていました、(この男性について考える時、この女性は彼女の背中にディスクがあります)この馬は彼を振り落としました。もう一人の人は私に1時に今朝ホテルに電話して来て言いました。「ベテラン病院にその人がいます、その人の目はつぶれて、背中も砕けて、彼の腎臓が押されて心臓もダメになりかかっています」そして私はその床に行き膝まづきました、電話を受けながら、彼は反対側に居て彼の為に祈りました。そして彼は今晩ここに座っているのです。それは昨日の夜の事でした、ボブ、そこに立ってもらえますか?神は祈りに答えられます、朝でも夜でも昼までの真夜中でもいつでもなのです。
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さて、私は彼らが呼ぶように私の事を長く話す説教師です。私は今晩この様に始めるのはあまり好きではありません、そして、ただここに来ることだけを考えていました。ある晩の事、我あれがここである特定の場所で話していたのですが、それはそこについて15分くらい後でした人々はお皿をとりながら私の方に動いてきて「やめてください、黙って、ここから出ていかなければいけない」とたばこを吸いながら私を連れて行ったのでした。それはバンケットの間違いではなく、それはそれを借りた人々の間違いでした。そしてその責任者の妻が来てマネージャーに話したのです、
「あなた方はここから9時30分には出ることになっている」というのです。
「その契約を一切していない」と
この女性は今晩、ここに来ています。(本当に素敵な女性です)彼女は言いました、「あなたがそれが欲しい事を理解しました」と「使いたいだけどうぞ」と言ってくれましたそれはとても素晴らしかったです。そしてそのことをとても感謝しています。非常に素敵な事です。
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ヘンリー兄弟、私はここにこのチャプターに招待してくださったご親切を絶対的に感謝しています。
ここのブーン兄弟が牧師をしているアッセンブリーオブゴッドにお呼びいただくという特権も昨晩ありました。
それはそれは素晴らしい時間をグループの人々と過ごしました。そして明日の夜はここの別の場所に行く予定です。(その場所については私は今はわかりません)そしてそれは別のチャプターになります。彼らがそれについて世話してくれています:私はただ祈り、み言葉を読み続けるのです、そしてそれが私が続けることが出来る全てなのです。
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しかし今、今日おかしなことが起こっているのはわかっています。さて、覚えているのは前回私がここにいたときはテントミーティングでした。私は昨晩話しているとき、死んでしまった赤ちゃんを小さな夫婦がつれて連れてきたのを覚えています。このあたりのどこかでした、彼らは一日中と夜運転してきたのです。その小さなお母さんは座って彼女の腕の中に赤ちゃんを抱いて悲しそうでした。さて、彼女は、今ここに座っているはずです、私が知っている限りです。そしてその小さなご主人、あと数組のご夫婦が彼らと一緒にいました。。そして彼女は私に尋ねたのです、その車に来ることが出来るかどうかと、、(その男性が)その小さな赤ちゃんを抱っこしました、小さな、死んで、カチカチになった冷たい体でした。私は祈り始めました。そして私が祈ったとき、その体が暖かくなっていくのを感じ始めました。そして、ただ祈り続けました。動いたり蹴ったりし始めたのを感じたのです、続けていきました。そして赤ちゃんは泣き始めました。お母さんの赤ちゃんを戻し、赤ちゃんと一緒に家に帰りました。又彼らはまだクリスチャンでさえなかったのです、それだけが私の知っている事です。それは素晴らしい事でした。
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しかし今晩私が考えている事は、ある教会が死にかかっている事も分かっています。:それは我々のペンテコステ派の人々です。彼らをゆすり起こさなければならないのです。それだけの事です。そしてそれをする唯一の方法は祈りとみ言葉と正しくつながることだけなのです。それだけを我々はすることにしています。それ以外にぬるい状態を抜け出す方法はありません。イエス様だけが道なのです、イエスキリストは昨日も今日も何時までも変わることが無い方なのです。我々の教会がイギリスの教会のような状態になっていっていると言われたいですか?だからあなた方にこのように言うのは非常に失礼だと思われる事はわかってます。そういう意味ではないのです、しかし私はそのような状態に教会がなっているのを観たくは無いのです。あなたもそのような状態でありたくは無いのです。しっかりとくぎを刺して締め付けてもらいたいのです。
さて、今、今晩、ここにいくつかの聖句をテキストにして暫くお話ししたいのです。ある特定の時間にはなりません。30分以内に終わるかもしれませんというのはあなたが疲れるかもしれないからです、私は常に、聖霊のうちにゆだねるようにしていればただ彼の導かれる方向に何であれ導かれるからです。
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もう一度しばらくの間頭を垂れて我々が彼の御言葉を開く前にその著者である方に話しましょう。
全能の神様、この書の著者であられる方にイエスキリストを通してお祈りします。我々は今晩既に聞いたことに感謝しています。もし我々がこのミーティングを「アーメン」という事で閉じて家に帰るならば、それはここでも素晴らしいのです、つまり我々はあなたが一緒に居て下さることを分っているからです。父よ、我々はこの言葉を開きます、直接この御言葉を通して語ってください、そのことによって今生きているこの時代を知ることが出来るかもしれません。もし生きている時代が分かるならばその時の為に準備する事が出来るのですしかしもし何がどこで起こっているのかをまったく知らなければどのように準備するかを分らないでしょう。だから父よ、我々は、その場所の箱舟を見せてそして扉を開いて下さいそしてそのメッセージが我々を呼んでいることをです。イエスキリストの御名によってそれを受け入れて下さい。アーメン。
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聖句の中で、ここで読みたいのはルカ書の24章です。13節から始めます。そしてその一部を読みます。
この日、ふたりの弟子が、エルサレムから七マイルばかり離れたエマオという村へ行きながら、
このいっさいの出来事について互に語り合っていた。
語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。
しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった。
イエスは彼らに言われた、「歩きながら互に語り合っているその話は、なんのことなのか」。彼らは悲しそうな顔をして立ちどまった。
そのひとりのクレオパという者が、答えて言った、「あなたはエルサレムに泊まっていながら、あなただけが、この都でこのごろ起ったことをご存じないのですか」。
「それは、どんなことか」と言われると、彼らは言った、「ナザレのイエスのことです。あのかたは、神とすべての民衆との前で、わざにも言葉にも力ある預言者でしたが、
祭司長たちや役人たちが、死刑に処するために引き渡し、十字架につけたのです。
わたしたちは、イスラエルを救うのはこの人であろうと、望みをかけていました。しかもその上に、この事が起ってから、きょうが三日目なのです。
ところが、わたしたちの仲間である数人の女が、わたしたちを驚かせました。というのは、彼らが朝早く墓に行きますと、
イエスのからだが見当らないので、帰ってきましたが、そのとき御使が現れて、『イエスは生きておられる』と告げたと申すのです。
それで、わたしたちの仲間が数人、墓に行って見ますと、果して女たちが言ったとおりで、イエスは見当りませんでした」。
そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。
キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。
こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。
主が彼の祝福を彼の御言葉を読み事によって我々に加えて下さいますように。
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さて、もし私がそれを議題と呼ぶならば、これを「預言によってはっきりされた現在の出来事。さて、それはいつも神のやり方、その変わる事のない神のやり方は、彼の人々に特定の出来事が起こる前に先に知らされるのです。
もし主イエスの時代の人々が神のみを見出そうとしていたならばそして何が起こるかを知っていたならば、イエス様を殺すような事は無かったでしょう。しかしそれが起こった理由は、聖句は成就しなければならなかったからです、ユダヤ人は盲目にならなければならなかったからです。我々は皆そのことを知っているはずです。
さて皆さんはこの今我々が生きているまさにその時代に再びその約束がされている事を認識していますか?
ラオデキア教会時代、この我々が今生きている7つ目の教会時代は、裸で、みじめで、見えておらずそのことを知らないのです。選ばれた人々へのメッセージが伝えられる目的で同様にされたのです、神は今日同じことをすると約束されていました。
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そしてもし、私が尊重してこのことを言うならば、キリストにある私の兄弟姉妹の皆さん、これらの時代のある日に、誰かが「それはこれらの事が初めに起こらなければならないと書かれていなかったか?」と言うでしょう。
そしてそれは同じやり方のです、それは「まさにあなた方に言う、彼は既に来ている、そして彼等は彼にする事をしたのです。
彼らが彼に尋ねた時、「なぜ、その律法学者は言っている又、聖句が「エリヤが先に来なければならい」と書かれています。彼等はそれをイエスに行ったのです。
彼は「彼は既に来ているがあなた方は彼を知らない」
分かりますね。そしてそれは多分、その方法で再び終わるのです。
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さて、我々が書きたいのは、今生きているこの時代に何が起こるか知らせるためなのです。神は彼の御言葉を各時代に合わせて分け合われていました、そして我々は各時代が持っていける事が他の時代から持って来られていることを気が付く必要があるのです。そのままでは上手く行きません。例えば、私が、我々は信じているのです、昨晩あるいは、私はずっと話しています、毎晩毎晩、色々な場所で時々、私は同じことを2回目語る時に話します。それは繰り返しているという意味ではないのです。しかし私が言うのは、モーゼがノアのメッセージを離そうとすることは良い事でしたか?あるいはそれがなされたのでしょうか?イエス様がモーゼのメッセージを語りましたか?あるいはマルチンルターがカトリックのメッセージを語り続けたら何か良い事があったでしょうか?ウェズリーがルターのメッセージを語り続けたら?ペンテコステ派がメソジスト派のメッセージを語り続けたら?あるいはペンテコステが花嫁が読みだされていると時に続けていたら?分かりませうね、我々はその種蒔きの時間をしっかり知るべきなのです、我々は今終わりの時に生きています。さて、麦の種が地に落ちて死なないならば、それはただそのままなのです。
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批判として、私はその本が出て以来このあなたの街で得たかもしれません、そのドイツ人の著者は、最も批判的な記事の一つを書きました。彼は勿論、異教徒です。
もちろん、私は彼が私を批判したからと言って彼を批判したりはしません。しかし異教徒として、その本は書店に並ばなければならないからです。そして彼は言いました。「ある神は座っていて彼は公開を開き彼の人々を解放るる事が出来ると言うそしてそれから彼が手を広げて、彼は暗黒時代にクリスチャン達が色々な場所でライオンによって殺されているのを見ているだけの思いさえある、その母親たちはタールの中に髪の毛を付け込まれて十字架にかかり焼かれていた、そして彼らの赤ちゃんたち、、妊娠中の母親たち、彼等は腹を裂いて、子供達のセックスをかけあったりそれらの事が起こらせ人々はそれでもこの神の僕たちだと言う人たちがこの様な事を行っている。
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分かりますね、その聖句は霊感なのです。あなた方は聖句を座って神学的な観点あるいは教育的観点で読んだらそれは決して理解できないし、上手く行きません。
バプテストの聖書者にしばらく前に話しました、彼は「正しいギリシャ語を学ばない限り、我々は、、、
私は言いました、「ニカエア会議で、それが起こる前彼等は聖書のギリシャ語の言葉について口論していました」それを知る事は無いでしょう。
聖書は霊感によって明らかにされるのです。それは啓示によるのみなのです。イエス様はペテロに、「この岩の上に」この啓示の岩、彼に明かされたもの「ヨナの子シモン、あなたは幸いであり、血肉がこれをあなたにこれ尾を明かしたのではなく、天にいる私の父があなたのこのことをあらわされたのである、そしてこの岩の上に、私は私の教会を建てよう」とペテロの上ではありません、彼自身ではなく、霊的な彼自身が誰であるかという啓示の上です。
そして彼は御言葉なのです。!ヨハネの1章に、「初めに言葉があった、言葉は神と共にあった、言葉は神であった。そして言葉は肉体を取って我々の内に住まわれた」とあります。へブル13:8には「イエスキリストは昨日も今日もいつまでも変わる事がない」と
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それゆえ、我々は神の御言葉がペンテコステの時代よりも異なる時代にあらわされる時に生きているのです。そうです。覚えておいてください、あなたがそうなる事を、
私は教育を受けていない人間ですが、神の選びを崩すことは出来ませんというのは神は引き続きそのような形で技をなさるからです。ちょうど私が言った様に、太陽は昇り又下ります、そのことで一日が過ぎて行くのです、ちょうど学校の時の様に、そして夜には死になり死ぬのですが翌朝には又日が昇るのです。その木は冬の時期にはかれますが、根は張っていて、春が来ると芽が出て葉となるのです。
気が付いて下さい、神は麦の粒のようにその花嫁を好んでいますと言うのは、神はその様になさらなければならないからです。素晴らしい本物の純粋な教会はペンテコステの日に創られ、ペンテコステの日からずっとどんどん成長して来てある素晴らしい教会になりました、それは暗黒時代に地に落ちて全ての種が植えられるようになったのです。それは一度死ななければならなかったのです、それによって再び改革の時に上がってきたのです。それは改革の為の人の中に、つまりはマルチンルターでした。そしてそこから、ちょうど麦の茎のように。。初めに上がって行き、二つの芽と葉が出て、葉を加えて行き、マルチンルターそしてツヴィングリそしてその後、カルビン彼等は動き続けたのでした。
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終に、それは房に入るのです。さて、それはウェズリー時代のジョンウェズリーでした。花粉が落ちたのです。
ペンテコステ時代から来てそれはとても近いのです、もし茎を見るのであれば本物の麦の粒の様なのです。しかしもし麦を取る様になりそれが動くのです、まったく粒はなかったのです、それは粒の形の中に在るからでしかありませんでした。しかしそれは目的があったのです、粒を守るものとなり、太陽が当たってそれをだめにしてしまわない様にでした。
それは特定の時までそこにいなければなりませんでした、そしてすべてその命が空を出るまで(それは茎を離れ、花粉も)殻を離れて麦に行きそして再びその様に形作られて地に降りて行くようになるのです。
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さて、我々皆がメッセージが与えられたときはいつでも、3年以内に彼等は組織を作り上げていたことを知っています。彼らがそうするとき、その正しさが失われてしまうのです、ルターの時もそうでした、ウェズリーの時も、アレクサンダーキャンベルの時もそして残りの全ての人々の時もそしてそれはペンテコステ派もそうなっていたのです。その通りなのです!場所を得るとそれぞれがみなカチカチになりそこから離れてしまい、新しい啓示を受けられないのです。彼等は落ち着いてしまっているのですそして彼等はその通りになりそこで死ぬのです。そして命はそこから離れて、麦を作る場所に行くのです。そして麦が来るとき、その命は、麦を通して旅をして、又復活して、全ての事を齎し又、携挙に上がって行くのです。
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さて、覚えておいてください、このメッセージは神の癒し、奇跡が行われることによって始まりました。さて、もし神が普通の教会に既にあった様なものを通してされていたならば、それは神の物ではありませんでした。神は見せびらかす必要はないのです、我々を喜ばせるためにこれらの事を行う必要はないのです、ちょうど我々アメリカ人がそう言った事を今までした様に、しかし神は人々の関心を引く為に何かをする事を決めておられるのです。
神ご自身を彼が来られた時の事を見て下さい。「素晴らしい小さな預言者、ラビ、ガラリアの預言者」さて、彼の御仕事は素晴らしかったです、彼は全ての教会から歓迎されました。
しかしある日彼は座って言ったのです。「私と父は一つである」
「何てこと!」それは異なっていたのです。「そのような人とは離れよ」
「人の子の肉を食べ、彼の血を飲まなければ、あなた方の内には命はない」
「なぜ、彼は人食い人種だ!そのような人から離れよ!」分かりますか?
さて。そこには印が従わなければなりませんでした。何かが従っていたのです。
殻はそれを覆っていましたが、殻がそこから抜き出さなければなりませんでした。そして覚えておいてください、20年間が経ちましたが、そこからは宗派は出来ていませんそしてそうはならないのです。我々は宗派の終わりなのです、その麦は形を取ったのです。しかし今の麦の問題は何でしょうか?あなたにはできません、それは御子のご臨在の中に置かれて引き上げられる前に立ちあげられなければならないのです。
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さて、その出来事が起こっているのを見ているのです、それは間違いなく全ての時代において聖書に示されています。我々は皆全ての事をしていると考えていますがしていません、すべての動いている事はまさに神の言葉と共に動いているのです。
さて、聖書は他の宗教書とは全く異なる本なのです。他には聖書の様な本はありませんなぜならば、聖書は神が言葉の形で表れたものだからです。言葉というのは表現された思いなのです。神の考えがそこで表現されたのです。神の言葉が預言者達を通してそして彼らが聖書を言葉の形として書いたのです。そしてイエス様はそれを「種」と呼ばれました。そしてどの種も正しい状況で正しい環境の中でその種類の物が育つようになるのです。さて、この書は、、、この預言の書は将来の出来事を先に告げているのです。さて、その書にはイエスキリストの啓示の全てが書かれているのです。あなた方はそれからっ取り去ってはいけませんそしてすべての啓示はそれに追って怒らなければならないのです。分かりますね、それは神の言葉でなければならないのです。
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そして人々はいます。「私には啓示がありました」はい、我々はジョセフスミスの事を知っています、そして多くの啓示や物事を持っていましたがそれは御言葉に反していたのです。
もし神からくるものであるならばそれは御言葉(聖書)によらなければなりませんでなければそれは神のご臨在を証明したり指定する事にならないからです。そして彼は先に全ての事をご存知ですから、、、彼の素の先見の知識により、神は決められ、あらかじめ定められたのです。(それは聖書では、あらかじめ定めたとされています)全ての時代そしてその場所そしてすべての人がその場所にあり、そしてすべてのメッセンジャーもその位置に置かれるのです。彼は神であり、悪魔は何も彼から引き出すことはないのです。そしてイエスは神でありそして全ての事が起こる様に定めておられそしてちょうど彼の言葉通りにその様になっているのです。
だからもし我々が彼の言葉により、我々が生きている時代と時が分かるのです、あなたはそれを聖書の中で見ることになります、この時代、、我々はちょうどどのようになるか、この時代にどの様な事が起こることになっているのかをです。
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さて、その他の本、、「聖なる書」と呼ばれる本が沢山ある事を見出しました、そして私はコーランと他の沢山の本を読みました。しかし、分かる様に、それらの聖なる書は倫理や道徳のコードや神学のコードにすぎないのです。
しかしこの書は預言者、それは他の本とは違うのです。聖書は将来を先に告げる神の御言葉なのです。それは先に警告するために先に告げられているのです。
もし神が何かを送られたのならば、彼は聖書の中で言われ約束されたのです、何も地上で起こる事は彼の僕である預言者にあかすことなしに起こる事は無いと(アモス書3:7)そして神は嘘をつくことは出来ません。彼はそれを顕かにされるのです、それが神のやり方で時代を通して同じように全てされてきました。彼はそれをする事について決して変わる事はありません。
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さて、我々は終わりの時にこれが回復されると約束されていたのです。どの教会でも宗派、メソジスト派、バプテスト派、長老派、ペンテコステ派のどれもないのです、彼等は決して(彼らの現状では)花嫁に離れないのです。彼等はそれをする事は出来ません、彼等は失敗したのです。彼等はお互いに差し合い、世的な物が入り込み過ぎていてなどなど、彼等はすぐに彼等自身のやり方で死ぬことになるのです。そして神様は既にそれをご存知です。
そしてこの御言葉に明らかにされて、ある人は言います「さて、これが分った。そして神を祝福しよう。それはその様だ」それがちょうどイエス様がはじめに来られた時と同じなのです、皆が競技を持っています。皆がこれを持っているのです。それは何か神から送られたものでなければなりません。そして神はそれを約束されたのです。そして彼がされる勇逸の方法は、同じパターンを守る事です。彼は我々にそれを送ると約束されました、終わりの時にです、マラキ4章によると、預言者は地上に来て、人々の心、子供達の心を使徒の父たちに再び戻すと。彼は彼の御言葉の中で約束されたのです。ルカ17章と多くの他の場所でも彼はそれを約束されています、彼はこれらの終わりの時にこのことを指定された御言葉として齎すことを約束されていました。
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分かりますね、人は何でも言う事が出来ますが、神がその御言葉を解釈しない限り、、分かりますね。さて、我々は自身の解釈があります、我々はこれだという事を意味します。そしてこれ、メソジストがこれを言います、バプテストはこれと言います、ペンテコステ派これだと言っています、ワンネスはこれだと、ツーネスはこれだと、、そして、オー何という事、そこなのです。しかし神は解釈の必要はありません。彼は彼自身を解釈しているのです。彼は彼自身の言葉をその時代に指定された言葉によってその目的の為にその為に与えられていたことにより解釈するのです。
我々はペンテコステの時代には、生きていません、別の時代に生きているのです。我々はメソジスト時代にも生きていません。他の時代なのです。我々は今、ここまで花嫁の時代に生きています、呼び出された教会が携挙の為に集まるのです。その時代に今我々は生きているのです。正直な意見として、それが全くの真理なのです。
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そしてこれは、預言の書なのです。信仰者は栄誉を与え読むようにまたその著者をしんじそこに書かれた全てが成就されるのが見られなければならない事を求められているのです。全ての事が起こると約束されたのですと言うのはそれは各時代のイエスキリストが居たからです。イエスキリストはノアの中にもモーゼの中にもダビデの中にもヨセフの中もいたのですイエスキリストは昨日も今日もいつまでも変わることの無い方だからです。そしてイエスキリストは今日彼の人々の中に居られるのです、彼がこの時代にすると約束されたことをされているのです。それがイエスキリストなのです。
しかしその教会は固くなり遠くに離れてしまっていますその兄弟がここで言っていたようにです。そして我々の教会も同じ様になっています、何かに揺さぶられて御言葉に戻るまではそうなのです。我々はどの様にしてそうなるかを知っているのでしょうか?それは神ご自身の計画によるからです。それは平信徒からもビジネスマンからも来ることなのです、それは教会によって来ることもないのです。神は神の計画を既に置かれているからです。
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先日私はここシェリーブポートで国全体に放送されたのですが「神の御心なしで神への奉仕をしようとする」ことについて話していました。ダビデは神の約束の箱をその家に持ち帰ろうとしました。彼は油注がれていた王でした。何故、彼は彼の代表者達と相談をしました、彼の千人長、万人長達と。そして彼等は皆こう言ったのです。「それは主の言葉です」そして彼等は祭司と相談して「それは素晴らしかった」
そして彼等は皆凄く霊感されて、叫んでいました、彼等は全て宗教的な行動をとったのです。そしてそれは神のご意志とは完全に反対だったのです、そこにはナタンという名の預言者がその地に居たのですが、そのことについて相談をされていませんでした。そして我々がそれについて分かるのは、彼等はたとえ誠実であって神の御仕事をなそうとしていてもそれだけでは上手く行かない事です。
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そして凄く誠実になる事が出来ますが、我々が何をしているかを知るまで、あなた方は空で戦っているだけなのです。神の御言葉に戻りそれに叶うようにしなさい、そしてその方向に行くのですそうすればあなたは分かります。ちょうど兵士のように、彼は指示を受けるまでは何をするかを知りません。我々はクリスチャン兵士にならなければならないのですそして聖書からその時代の今の為の支持を受けるのです、昨日の物ではなくおとといの物でもなく今日の為に。。その時の物を見つけるのです今生きている時代の物をです。
これらの現在の出来事は凄く速く滑っていきそしてある日我々は何もなく残されてしまっていることを見出すことになりますそして分からないままに獣の印によって封印されてしまってつかまってしまうのです。
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さて、忍耐を持ってこれを待たなければなりません、約束された予言をがその時代の中で成就されなければならないからです。それは先に告げられたのです、その著者はこれを前にして又我あれは彼が再びされるのを待つ必要があるのです。どのような時代に我々は生きているのでしょうか!ちょうどカレンダーのようです、カレンダーを見るとその年のその日に何があるかが分かります、そして神の聖書を見ると我々が生きている時代が分かるのです。我々は、メソジストの時代、バプテストの時代には生きていません。我々は花嫁の時代に生きているのです、神があるチャンネルを通して神に戻すと約束された召しを齎してくださったときです。神はそれをすると約束されていました。
しかしそれは全ての時代に言えるのです、人々は神学によって自分糧tな解き明かしを持っていますそして神の聖なるそれを指定した物を信じないのです、(それは神の霊感です)私が言った事ではなく、誰かほかの人が言った事でもなく、神が約束されそして神がなさり神が神ご自身の言葉を解き明かすことを証明されているのです。
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彼等はペンテコステ派であるあなた方に45年から55年前に言いました。あなたの母親や父親は組織から出て純粋なペンテコステだった時、組織の事を呪いそこから歩き出ました。そして、犬がその吐き出したものに戻るかのように又戻ったのです。同じことをして教会を殺しあなた自身も同じことで殺したのです。そこにいた人々に何も敵対していません、その体制に対してだけです、そのような事をしているからです。、、
家に戻り、これは他の人達のミーティングでは話しません。「サーパントの流れ」について話すつもりです、そしてそれをもしテープを得ているなら聴いて下さい。
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そして彼らが神の御言葉の預言が成就する事が確証をされるのを見落としているのに気が付いて下さい。もしその祭司達が、彼らが救い主が来られる方法をまさに決めていたのです、彼等はそれがどのようになされるかを知っていました。パリサイ人達は彼等自身の考えがあり、又サドカイ人もヘロデの者達も皆、彼等自身の考え方がありました。しかし彼はそのようには来なかったのです、それらすべての物とは反する形で来られました、しかしその御言葉通りだったのです。イエス様はここでも同じことをいわれていました。「もし私を知っていたならば、私の時を知っているべきだった。もし知っていたならば、、あなたは「さて、モーゼが居た、」というしかし「もしあなた方がモーゼを信じていたならば、私を信じる事であろうなぜならば彼は私の事を書いていた。
しかし分かりますね、神が約束された通りの事を確証する時、彼等はイエスが来るべき世的に受け入れられる方法を持っていたのです、つまり、救い主としてです。
救い主は彼らのグループに来なければならなかったのですでなければ彼は救い主ではありませんでした。さて、それがその道で、ほとんど、今日と同様です、「私の眼鏡を通してみないならば、あなたは何も見ていない」分かりませうん、そしてそれがそういう事だったのです、それが真理です。我々はその様に考えたくないけれどもそれが全くの真実なのです。
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へブル書1:1神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、神は決して神学者によって書かせることもなく又神学者によって解き明かされた事もない。神学者が神の言葉を解釈した事は歴史上一度もないのです。解き明かしは預言者によってのみ来るのです。そして唯一この時代の汚れから出る方法は神が我あれに送ってくださった預言者なのです、それ以外にはないのですそれが唯一の方法になるのです。そう信じられ、見られそしてそれは成就されています。
分かりますね、人によって書かれたのではないのですがそれは神によって書かれたのです。それは人の書でもなく、神学者の書でもないのです。それは神の書であり預言者によって書かれ預言者達によって解き明かされた預言の書なのです。聖書はこう告げています。「主の言葉は預言者に来る」その通りです!
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イエス様がこの地上に来られたときの事をどれ程美しく書かれ、実行されたのでしょう、そしてヨハネはその時代の預言者でしたとして彼は預言していました。彼等は言いました、「オーつまり、神は我々の大きな協会をここにあるものを全て壊すと言うのですか?」そし
すか?
神は言われました、神が神の子羊である人を犠牲に捧げる時が来ると書かれていると言いました。そしてイエスが来られるとき彼に知らされるともいわれました。ご存知のように神はここに立っておられるのです、そしてそのことをあなた方は知りません。神は我々の中におられますが、あなた方はそのことを知りません。
ある日、イエス様が出て行かれたころヨハネが上を向いてそして神の上にその印が見えたのです。彼は言いました、「見よ、この世の罪を取り除く神の子羊」同じ時にイエス様は彼が人々の前に指示されていた言葉でした。彼は言いました、同時にイエス様は彼がその時代に指定されていることを知っていました。「初めに言葉があった、言葉が神と共にあった。言葉は神であった。そしてその言葉が肉体を取って来られ我レの中に住まわれた」そしてここに神は居られます、、地上の御言葉(完璧です!)預言者に水を通してきているのです。
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その通りです。その御言葉は常に神の預言者に来るのです。だから我々は神学者に来ることを期待する事は出来ません。宗派に下ってくることも期待できないのです。神のチャンネルでそれについて我々より先に告げるそれ以外の方はないのです。それは憎まれ、嫌われ、拒否されます。それが来るとき、片側に投げられそしてすべて、しかし神は何とかしてそれをなされるのです。それはイエスキリストの中で拒否され又ヨハネでもエレミヤでもモーゼによったものも皆受け入れられませんでした。それはいつもその方法なのです。しかし、神はそうされると約束された方法で動かれるのです。その通りです。神は同じ方法でされることを決して失敗されることはありません。
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神の声を聞いたり幻を見た人は決して完全にはそれを理解しません。多くの場合彼は知りませんというのは、彼は神の道具にすぎないからです。それは神の思いがひとの唇を通して表現されているのです、言葉として表現されていたのです。神は唯一あらかじめ定められたものによってご自身で選ばれるのです。毎時代に神はそれをなされてきていて、毎時代ある人を選ばれるのです。モーゼのように、彼はアブラハムに告げたことを成就しました。モーゼは全き子供として生まれました、その様に彼がする事は出来ません。彼はその形で生まれたのです、目的があったからです。
そしてそれにより我々は神が毎時代にそうされるのを見出しています。神はご自身のあらかじめ定められた方法によって預言者をその時代の為に選ばれるのです。彼の性質によって、人間の性質、人の話すスタイルー賜物そしてすべてその時代の挑戦に見合うように選ばれるのです。神がその人を創られて送られたのです。そして彼ご自身の中で(昨晩そのことを話しましたが)我々は神の細胞の中の種なのです。神はその人が来ることをその時代にまだ分子や光となる前地上がそうなる前からご存知でした。
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あなたは父親の遺伝子の中に在り、あなたは父親の中に居たのですしかしあなたの父親はあなたと交わりは持っていません弟子というのはあなたはそこにいましたがあなたはそれを知りませんでしたし彼もそれを知りませんでしたがあなたが顕されたので彼はあなたと交わったかもしません。そしてあなたが再生されて、永遠の命の内に生まれました。それが唯一永遠の命となる形なのです。それは神の命です、ゾーイ(ギリシャ語ゾーイ、永遠の命の唯一の形)
そしてあなたが神の息子あるいは娘であるならば、あなたは常に神の内に居たのです。しかし彼はいつどこの寝床であなたが植えられたかをご存知でした。又今、あなたは神の子として、神の息子または娘としてあらわれる様に創られており、このじだいの生きとし生ける神の真実の挑戦に合うように指定されているのです、この時にそのメッセージが出る様にです。その通りなのです!あなたは世の初めからその様にされていたのです。もしそうでなければ、、もしその様に選ばれていないのであればどれ程人まね子ザルをしようとも上手くは行きません。そこに血がない時に蕪からどのようにして血を得ることが出来るでしょうか?
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それが理由でそれについて言おうとしているのです、人々は我々は女性が短髪にしていることについて怒り狂って大声をあげているとかそのことについて私に言おうとしていると思っています。「あなたは御仕事をだめにしてしまうだろう」神ご自身がお選びになり示された御仕事をだめにする?そんなことはあり得ない!そして人々が神の御言葉を聞く時、赤ちゃんが母親の胎で創られたとき、一つの細胞がそこに行きもう一つがその上で立ち上げるのです。それは一つが人の細胞で次が犬で次がネコで次が何か別の物という事はあり得ないのです、それはまっすぐに人間なのです。そして人が御霊のうちに生まれる時、彼は彼の命に何かをうつわけではないのです。それはその時代の為に指定された混じり気のない神の御言葉なのです。彼は神の御言葉を完全に受けるのです、信条だのその他ではないのです。それは完璧な混じり気のない神の御言葉が我々の内にあらわされ創られるのです。
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聖書を見て下さい、今どの時代に我々が生きているか、これらの素晴らしい事が顕されている時ですから。神がそれをすると約束されたとき、神はかならずいつも教会が最後の場所になる時にいかなる時代でも、そのことをなさってきました、そして御言葉に世的な事や罪から離れて戻るのです。世的な事は罪です。聖書は言っています、「世を愛するならばあるいは世の物を愛するならば、神の愛はあなた方の内にはない」
昨晩話したのですが、私はその捧げられた犠牲について話していましたそれこそが子羊でした。それは7日間で7つの教会時代を表していました。膨らむパンは人々の中にはありませんでした、7日間にわたってです。その意味は、それには何も混ぜ物がなかったという事です、それは継続的に膨らまなかったのです。そして私達は信条は欲しくありません、膨らんだり、混ぜ物になっている物も欲しくないのです。世が我々と混ざって欲しくありません。神の種入れぬパンでなければならないのです、神の御言葉、混じり気のない神の御言葉、「人は神の口から出る一つ一つの言葉によって生きるのである」
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この時代の宗派体制と違いそして物事は我々の中で種として膨れ上がり、そしてこれやあれや世の物や流行を入れているのです。そしてオー、それはほとんどハリウッドがどこにでもあるかのようです。それは終にイギリスのようになるところまで来ているのです、彼等は祭壇への呼びかけさえ恥じているのです。なんという事!兄弟が言っていたのように「どうやって船に魚を得ることが出来るのか?」その通りです。
我々は福音を完全な形で語らなければ神が指定した力により、その時代の約束に従って、それが御心であるとまさに証明する必要があるのです。それ以外では、ただの教会のメンバーであるだけです、どれ程努力しても、どれ程神に奉仕しようとしてもです。奉仕の集まりに行こうとどれ程教会に忠実であったとしても、永遠の命があらかじめあなたの為に定められてその遺伝子があり、神の息子、娘になる事になっていなければ、何かおかしな形で育つのですが決して本当の神の息子、娘にはなれません。
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しばしば、小さなわしの話をしています。その農民はその雌鶏を置いて、彼はそれが神聖冒涜に聞こえない様に望みます。しかしある農民は、雌鶏を置いて、彼女は一つ卵が足りませんでした。ここにいる誰もが卵を置くと言うのはどういう事が分かっているか分かりません。しかしとにかく、彼は卵が一つ足りなかったのです。そして彼は鷲の巣から盗んだのです、そこには2つ卵がありました。そして彼はその卵を雌鶏の下の置きました。
鷲の卵がかえった時ひよこたちの間で、彼はおかしな見かけでした。彼には雌鶏が泣く方法が分かりませんでした、彼が聞きたい方法で話してくれていませんでした。雌鶏は農家の裏庭で食べ物をついばんでいたのです、それは鷲の食べ物ではありませんでした。彼は彼らの間では醜いアヒルの子だったのです。そして雌鶏は泣きましたが彼には分かりませんでした。雌鶏はこちらへ行ったり、これやあれやを食べましたが、彼には分かりませんでした。そしてある日彼の母親が、南部では、「Mammy」と言います。
さて、とにかく、彼の母親が彼女は二つ卵があった事は分かっていてそして一つしかなくなっていたのです。彼女はもう一つを探していました。国中を飛び回ってそして最後にその農家の裏庭の上を終に飛びました。彼女は年寄の雌鶏に従っているのを見つけたのです。彼女は叫びました。「息子よ、お前は鶏ではない。鷲なんだよ!」その音がちょうど彼が聞きたかったのです。どうしてでしょうか?彼は初めから鷲だったからです。
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そして男性あるいは女性が冷たい宗教の公的な物や信条の下に置かれている時、押し彼が神の息子として定められていたら、そして彼が神の御言葉がその力の内に語られそれが神が指定されたものならば、彼は鷲であるのだから、彼は間違いなく2×2が4であるの同様に間違いなくそこに走って来るでしょう。それを我慢する事は出来ないのです、彼は自然に御言葉を愛しているのです。他の人がどういおうと関係ありません、彼が御言葉が顕されているのが分かると彼が小さな鷲であるからそれに向かって飛んでいくのです。
彼らが言い続けるのは、「ママ、どうしてここから飛べるようなるの?」
彼女は「ただ跳んでご覧、私が捕まえるから」と言ったのです。
そしてそれがあなたがしなければならない唯一の事です、足で神に向って飛ぶのです、1つの約束、、「主イエス様、私は全身であなたを信じます、その時代のメッセージを信じます。その確証が分かります、そしてそれが正しいと分かっています」あなたの足で飛ぶとママが捕まえてくれます。心配しないで、あなたは鷲なのです、彼女はそこにあなたを捕まえるためにいてくれるのです。
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さて、我々は素晴らしい時途轍もない時代に生きていることを認識していますが、聖書の信仰者が指定された真理を見る時、そのまさに神がそこにいる事の証明が分かるのです。その通りなのです!それは約束された言葉です、神が知らされることを約束されたのです。その種は、大きくなりそして彼等はそれを見てそれを信じるのです。他の人達はそれがただ分からないのです、とにかく彼等は座ってそれを見ることになるだけです。
ご存知ですよね、私はこの国を通して、国中に短髪の女性が居なくなるまで語ってきています。しかし毎回戻ってくるともっと短髪の女性がそこにいるのです。どうしてでしょうか?何か間違っているのです!御言葉がそう言っているのを知っていますね!「そこに何の違いもない」とあなたは言うでしょう。そこには大きな違いがあるのです。
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素敵な兄弟が居て言いました、「ブラナム兄弟あなたに手を置きます。あなたを愛しています。あなたはご自身の御仕事をだめにしています」と言いました。「女性達にそれらの事を言うのはあなたの仕事ではないのです」と「牧師にさせなさい」
私は言いました。「彼等はそれをしないから」と「さて、、、
彼は言いました。「さてそれはあなたの仕事ではないただ病人の為に祈りなさい」
私は言いました「それはそうしたら誰の仕事ですか?私は福音を宣べ伝えるために召されています」
彼は「あなたに手を押して神がそれをあなたから取り去られるように」と言ったのです。
私は言いました。「もし私にもあなたに手を置くように許して下さるならば、」分かりますね。そして私は言いました。「私は神があなたの芽を開きそれを理解する事が出来る様に祈ります」そうです。それは正しいのです。
彼は言いました。「あなたは説教をする必要がある、、その人々はあなたが僕だと信じている、神の預言者だと」彼は言いました、「女性達にどの様に素晴らしい賜物を得る方法や預言やその他を教える必要がある」
私は言いました。「彼らにもし彼らがABCすら信じていない時に、台数を教えることがどうしたら出来るのですか?」とその通りです。そんな事あなたには出来ません。全ての事に言えるのです。もしあなたが一般的な事が出来ないなら、霊的な事をどうしてできましょう。その自然な事。間違いない事です!兄弟、姉妹、それは冗談のように聞こえるかもしれませんがそれは福音なのです。福音の真理です。その通りなのです。
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気が付いて下さい、我々は今日この様なそれをとにかく信じない多くの人々、たとえ聖霊に満たされていてもそういった人々が居るのは分かっています。喉がつっかえるような話をしましょう。聖霊のバプテスマの意味はそこに入ると言う意味では全くありません、あなたの魂とは全く関係がないのです。それはバプテスマです。ここの中に魂があります、それは神から来たものです。しかしそしてあなたの外側には五感がありますそして5つの地に着くものとの関係を齎す入口が5つあるわけです。中には霊があり、5つの出口があります。意識、愛、などなど、5つの出口は霊に行くのです。覚えておいてください、御霊の内に、あなたは神の純粋な御霊と共にバプテスマを受けることが出来ますがそれでもまだ失われるのです。それは生きている魂でそれは神が決められているのです。
イエス様は言われませんでしたか、「その日、多くの者達が私の所に来て、多くの業を行い悪霊を追い出し預言を死ましたそれは神の賜物ではないのですか?彼は言いました、「悪行を行う者よ、行ってしまえ、私はあなたを知りもしない。多くの物がその日に来るようになる」
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カイパは預言しませんでしたか?彼は悪魔でした。我々はそこで分かるのです、、そして彼等祭司達、素晴らしい人々は、その時代の素晴らしい指導者であるはずでした、謙虚さと全てを持ち、しかし彼らの前に洗わされた神の御言葉自身を悟る事が出来ませんでした。
我々は沢山それらを取る事が出来ます、ここに書き出しました。バラムはどうでしたか?彼は、、あなたは、「神は彼の心を変えた」神は神の思いを変えられません!
バラムが預言者として出て行き、そこにいる司教、説教師何でも呼びたいように呼んでください、彼は偉大な人でした。しかしそこに行くときに神と相談をしたとき、イスラエルを呪うように(彼はもともと彼等の事が好きではなかった)そして彼は行くように呼ばれたとき、神様は「行くな!」と言われました。
そして彼等は威厳ある人々が沢山送られ何人かは多分、司教とか祭司あるいは何かその様な、より教育を受けた者が彼を説得しに来たのです。彼は戻って神に再び尋ねました。神に2度尋ねてはいけません。神が一度最初に言われたらそれがそれなのです。何も待つ必要はないのです。
リベカは2つ目の勧めを待ちませんでした。彼等は彼女に言ったのです、行きますか?と 「彼女に言わせなさい」
彼女は言いました。「行きます!」彼女は強く神からの勧めを受けたのです。彼女は聖書の中の女王の一人となり、御霊が彼女の中に動き間違いなく真理の中でそれを受け入れてそれを信じたのです。
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さて、我々はバラムについて分かるのは、彼には理解できなかったのです。彼は出て行って、人々を見ましたそして言ったのです。「さて、ちょっと待ってください!我々は偉大な重要な人々がここにいる、あなた方はただの弱い人々です」分かりますね?そして我々は皆同じ神を信じています。
それはそうです。彼等は皆同じ神を信じていました、彼等は皆エホバを拝していました。バラムの捧げものを見て下さい、7つの祭壇、神の完全な数字、7つの教会。分かりますね、7匹の子羊、主の来臨について話しているのです。基本的に、彼はモーゼと同じくらい原理主義者でしたが、分かる様にそれは神からの指定がなかったのです。そこでは彼等は両方とも預言者でした。
しかしモーゼの御仕事の下では、超自然的な火の柱があり、光がキャンプを照らしていました。そこには神の癒しがあり、王の叫び声があり、大きな印、癒し、奇跡が彼らの中で行われました。それが彼の人々の中に生きる神がおられる印なのです。
原理的に、彼等は両方とも正しかったのです。そしてバラムは人々を説得しようとしていましたそして彼らをその中にいれようと。いつ?約束の地に着く直前でした。
あと一日か二日で彼等は約束の地に入る事になっていました。
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しかし今、私が恐れるのは、これをするのは難しい、これらの日々のいつか、私は撃たれるかもしれない。しかしこれを覚えておいてください、それらの教会はこのエキュメニカル協会によってダメにされます、彼はそこにあなたを連れて行きこういうのです。「あなたは同じグループです」あなた方は同じグループではありません。そこから出て別れなさい!その通りなのです。それは真実です。それらの物から離れ続受けるのです出来る限り遠くに。
バラムは言いました。「我々の子供達は結婚しているというのは実際我々は同じ神を信じているから」
「二人が同意していなければどうして共に歩むことが出来ようか?」あなたが神の御言葉に同意していない限りどの様にして神と歩めるのでしょうか?神がそうしない様に定めそれをしない様に命令されている時に信条などを足すことが出来るのでしょうか?そんなことは出来ません。それをする方法はないのです。兄弟姉妹。種入れぬパんと種の入ったパンを混ぜ合わせる事は出来ません。油と水はまざりません。闇と光は重なりません。光は凄く力があるのです、闇を消してしまうのです。
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我々はそれと混ざる事は出来ないのです。又あなたは罪とその世を混ぜることもできません。教会と宗派を一緒にする事もできません。教会と信条を混ぜる事も出来ません。世と福音を混ぜられません。それは混ざらないのです。神は「世から出てそこを離れなさい」と言われたのです。「私は私自身の物としてあなたを受け入れよう。私の息子、娘となる。私はあなたの神となる」これらの事が起こらない限り我々にはそれは出来ません、そしてその時代の為の神の言葉が真理だと証明されない限り。その足跡に従いなさい。
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ペンテコステ、だからルターは彼のメッセージを失ったのです。その様にウェズリーも彼のメッセージを失いました。分かりますね。ウェズリーの教会は続いています、ペンテコステになり、もしルター派が続いて居たら、彼等はメソジストに。。さて、もしペンテコステ派が続いて居たら、それは花嫁になるでしょう。もしあなたが世にまだいてそこに戻り続けていたらあなたは失われます!それはただの殻と茎となり焼かれるのです。それは分かっています。彼は麦だけを取られますが、殻は焼き尽くす火によって焼かれるのです。間違いなくそれは連れてきましたがそこには命はなくなっていたのです。すぐにそれが葉になるやいなや、何か他の物を作るに行き、それの完全な姿になってしまったのです。
そしてだから教会が義化、清め、聖霊のバプテスマを通って(賜物の回復)キリストの姿に正しく創られることによって。キリストは花婿で教会は花嫁そして花嫁は花婿の一部なのです。それは御言葉の教会でなければならないのです、宗派の教会ではないのです。それは御言葉の教会になりその御言葉は神の御言葉と指定指定されていることにより知られるようになっているのです。
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バラムはその違いが分かりませんでした、多くの人々は分かりません。
パロも分かりませんでした、彼の真ん前で指定されていたにもかかわらずです。
ダサンも分かりませんでした。ダサンはそこを出て、そしてモーゼを見て知っていました。彼はそこに行き言いました、「その集まりの中の唯一だと考えようとしている。全会衆は聖い」」神はそのようには決してされません。彼はそれよりも良く知っているはずです。そして彼は言いました。「さて、その全会衆が聖いのです。あなた自身も、、、(もし今日言うならば、)海岸にある唯一の小石?」
そしてモーゼは神が彼をそこに送られたことを知っていました。そして彼は言ったのです。「主よ、」幕屋の戸口に
そして神は言われました「彼から離れよ」そして彼らを飲み込まれたのです。
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そして覚えていますね、イスラエルがした罪(バラムが彼等は皆同じだと言った事によって)イスラエルはその罪の為に許されませんでした。そして見て下さい、その数値を差し上げましょう。エジプトを離れた2百万人のうち約束の地に着いたのは二人だけだったのです。彼等の聖名は同じものを食べ、御霊の内に踊り、共通にしていましたが、分かれる時が来たのです、御言葉が別れさせたのです。それが今日なのです!そうです。御言葉が別れを齎したのです。その時が来たら彼は言いました、「なぜ、ここに我々は、、」
さてしっかり見て下さい、聖書は言っています。「終わりの時には二つの霊が」
マタイ24:24それはあまりにも似ているので、もし出来るならば選民おも惑わす」その殻は麦と全く同じように見えますが、それは麦ではないのです。それは麦ではなく見た目が全く同じなのです。凄くよく似ているのです、それが選民をも惑わすのです。宗派によって分けられているから宗派におちて行き、乾き切って死ぬのです、そして麦は動いてそこから反れます。。分かりますねそうなのです。殻は運びますがそれは麦ではないのです。
覚えておいてください、麦はただ続けて行くのです。その回復の時、麦の強さが、麦に来て、その頭を作り、素晴らしい回復となるのです。
決して許されない罪!
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それではここで止めましょう。心の喉をつかえさせていない様に望みます。しかし見て下さい、あなた方に尋ねさせてください。それをただ取ってみましょう。例えば、この数字は正しいのです。男性と女性が来るとき、その精子、、もし試験管ベビーとかハイブリッド化をする牛とかについて知っているならば、男性が百万の精子を出している事が分るでしょう。そして女性は百万の卵子を。しかしご存知ですか?その中からたった一つだけが生まれるのです。彼らの小さな子牛あるいはそれが何であれ、これらの百万の精子と卵子から上手く働くのは一つでそれが卵子に行きの頃は死んでしまうのです。たった一つだけが生まれる様に決められているのです、他は違うのです、彼等は皆同じなのですが。100万分の1の確率!
さて、今晩も同じだとしたら?5百万人のクリスチャンが世界にいるとされていますそれは数値として。もし携挙が今晩来るとしたら、5百人だけになるのです。さて、多くの人々がいつか、、、彼等は数えられていません。花嫁は連れて行かれます、我々が思っているのはその事だけなのです、そして人々は正しく説教をし続け、彼等はこれやあれやその他を得て、欺きになっていくのです。その様になると言ったとして、私が言ったわけではないのです、私は知りません。それについての権威はありません。神がそれを裁かれる方です。しかしそれがどれ程簡単に起こるかは分かります。全ての数値や物事、それが証明されるかをです。
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なぜコーラはそれを見なかったのでしょうか?なぜダタンにはそれが分らなかったのでしょうか?アハブはなぜそれが分らなかったのでしょうか?アハブに会いにヨサパテが来た時、彼は言いました、「アハブ王、我々は問題に陥っています。神が子の血を我々に与えたことを知らないのですか?ヨシュアがそれを分けたのです。この地はシリア人に取られたのです、我々の土地ではないのですか?
「そうです!」
「我々の子供達は飢えていて、そしてシリア人達(我々の敵)は彼らの子供達をお腹いっぱいになるまで我々の物であるべき麦で養っている」それは聖句的に正しいのです。そして言いました。「私と一緒にそこへ行ってそれを取ってくるのを助けてくれるだろうか?
さて時々良い人は悪い者達の影響かにいる事があります。しっかり気を付ける必要があります。教会飲みなさい、本当にしっかりと見て気をつけましょう。
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さて、ご存知のように初めの事は、ヨサパテは非常に宗教的な人でした、彼は言いました。「さて、我々は上がって行きましょう、間違いなく、我々の教会、我々は皆同じ人々です」しかし彼等は同じ人々ではありませんでした!いいえ、彼は言ったのです、「さて、我々の教会はあなたの教会、我々の人々はあなたの人々。そうですね、我々は行きましょう、」彼は言いました、「しかしまず主に相談しましょう」と
そして彼は言いました、オーアハブ王、「疑いもなく、我々はそれを考える必要があります、さて、、我々は、、」
「主の預言者がいますか?」
そして言ったのです、「神学校いっぱいに。ここに400人います、最高の人々です。彼等は皆博士号や学士号を持っていて、全て他の事はそれに繋がります。彼等は皆、、、」さて覚えておいてください、彼等はヘブライ人の預言者で、預言者学校の出身でした。「彼らを連れて来て下さい、彼らから聞きましょう」と言ったのです。
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そして私が信じているのは、ゼデキアその素晴らしい指導者、司教、彼ら皆はそこに来たのです、彼は霊感がありました。彼は導きが間違いなくありました。彼はそこに来て、彼自身が二つの大きな鉄の角を作ったのです。彼は言いました、「ご存知のように、主がこういわれる、これらの角を取って、シリア人をその国から引き出す」
さて、それらの残りも預言されていました。「それはまさにその通りなのです」彼等全てが、神学校全体が同意していました。そして
アハブは言いました。「分かりますね?」
ヨサパテはある意味霊的になっていましたね。(彼は完全には乾き切っていませんでした」
彼は言いました、「他にもう一人我々が相談できるものが居ませんか?」
「あなたは他の物に何を相談したいのですか、すべてがエキュメニカルになっているのに、、、すべての協議は、それは正しいと言っている時に?(すみません分かりますよね)「全体がこういっているのです、我々はそれをすべきだと」分かりますね?それが我々がすべきことだと」
彼は言いました、「しかし他に誰かもう一人どこかにいませんか?」その変わり者、
彼は言いました。「はい、います。まだ一人います。イムラの子ミカヤがしかし私は彼が嫌いです」いつもそのような形なのです、「私は彼を嫌いですと言うのは彼はいつも我々の人々に激しく非難するからですそして私を呪い私を全て悪く言うのです。私はその人が嫌いです。」
そして言いました。「オー王にその様に言わせないように」
そして言いました「行って彼を連れ来なさい」
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さて、彼はそこに行き、イムラの息子に何人かの司教たちあるいは、長老たちがそこに行って言ったのです。「さて、聞きなさい。あなたは又組織に戻りたいですか?彼等が言ったのと同じことをいえば、彼等があなたを戻してくれるでしょう」
しかし神が持っておられる人が居なければならず彼等名その人に手を置くことは出来なかったのです。神と神の手が彼の上に在ったのです。彼は神の真理の反射板の様なのです。そして言いました。「分かりました」「私は行きますが、神が私に入れてくれた言葉のみを語ります」神の人が居て彼は言いました。「一晩与えて下さい」そしてその夜に来て、主がその預言者に(何でもない小さき者)に語られたのです。そして初めの事、彼は翌朝に来ました。
そして言いました。「イムラ、それはどうなっている?」
彼は言いました、「行き続けます」しかし「イスラエルの民が丘の上の羊のように羊飼いなしに散らされているのを見る」と言ったのです。
彼は言いました。私があなたに言った事!それについて何を言ったか。そして彼は言いました。
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そして偉い司教がやってきて彼の口を叩いて言ったのです、「神の御霊は何方に行くのか?私には御霊がある事が分かっているから、私はそれと踊ったのだ、これらの全ての事をしたのだ。分かりますね。私には御霊がいる。それはどの方向に行った?
さて分かりますね、イムラは神の子であり、本物の神の預言者だったのです、彼は彼の幻を御言葉の内に調べたのです。もしそれが御言葉と叶っていないならばそれは間違っていますね。その時代の為の御言葉です。さて彼は言いました、聖句的にもその土地は彼等に属していてその土地は彼等の物でした。聖句的に見て全ての事は正しく見えたのですがある一つの事を除いて。
覚えていますね、1つの言葉が全ての堕落と汚れを齎したのです、エバが一つの神の言葉を信じなかったからです、聖書の初めに、在る様に一つの言葉が問題を起こしたのです。イエス様は聖書の真ん中で来られます。そして言われます「人は神の口から出る一つ一つの言葉によって生きるのである」そして聖書の最後に、「誰でも一つの言葉を加えたり、、取り去るものは、、、
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それは福音の一部ではないのです、メソジストにも場所があり、バプテストにも長老派その他にもその場所があり、カトリックにもエホバの証人にも残りの全てにも。
しかし御言葉の全て、その時代の御言葉が確認されているのです。そして我々は神がそれを語る為に立ち上がる預言者が神に油注がれるまでそれをする事はありません。そして神が確証され、それが正しいと証明されるまで。人々の中でそれが滑る事もあるでしょうそして彼等はそれを知る事は無いのです、それがちょうどいつもそのようなのです。
あなたがカトリックの人達はちょうどジャンヌダルクを魔女として焼いたように、のちにあなた方は祭司の身体を2百年後に掘り起こしてそれらを川に投げたりしました。あなた方は聖パトリックや残りの人達を知りません。
それは再びあなた方の手の内に入る様になりますまず知ってください。神はそれをなさるのですそしてあなた方はそれがなされたことを知る事さえないのです。分かりますね、神はそこを通り抜けて、彼の花嫁を連れて上がって行くのです、彼女を盗人のように人々の間から連れて行くのです。
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我々は、この小さなミカヤが彼が調べ神が彼の前の本物の預言者を通して語ったことを知っていることが分かります。彼の前の預言者は何と言ったのですか?彼はこう言いました。「アハブ王、あなたは義人の血(ナボス)を流したゆえに、犬があなたの血を舐め又イザベルも同様である」そしてその通りになったのです、神がそう言われたからそうならなければならないのです。預言者が悪い物にあっている時に良い預言など出来るでしょうか?
このラオデキア教会時代に神がそれに敵対しているのに良い事を私が語ることなど出来るでしょうか?あなた方は裸でみじめだ!あなた方は、「私は豊かで良くなり、、、メソジストや、バプテストや長老派の様な教会を持っている。これやあれを持っているこれやあれやそれ以外の最高の物を持っている」そうなのですが、あなた方は裸で目蔵でみじめであることを知らない、神がされている本当の事を知らないのです。あなた方はそこに行き、そこに動きます。遅くなりすぎる前に、どうか皆さん信じて下さい。
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さて、彼がその口を叩いたのが分かりますそして、「神の御霊は何方に行きますか?」と言っていました。
ミカヤは「神が御座に座っているのを見た、そして天の者達を呼び行った、誰が降りて行ってアハブを欺くことが出来るのか?と言っていました」そしてだます霊が降りて来て神の前に行ったのです。欺きの霊。そして覚えていますね、嘘をつく霊はそれらの預言者に入り、彼等は御言葉によらない事を語っていたのを彼等は知っているべきでした。しかし彼等は王の預言者だったから、すべてが良い状態だったのでそれを続けたのでした。
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そしてそれが今日の教会の状態だったのです。あなた方は古臭い経験を数年前に街の角に立って福音を離して居た時の経験から離れて行ってしまっています。組織から出て来てあなた方自身を「自由な人々!」と呼んでいます。いいえ!あなた方は又、霧や犬の履いたもの似戻って行っているからです。それは初めに彼に吐き出させ、それは又彼に吐き出させてしまうでしょう。その通りです。神はあなたを彼の口から吐き出されます。彼は言われました。「あなた方は生温い、熱いか冷たくあって欲しい」いくつかの会合をして音楽を鳴らし少し歌って、時には、、それは最もキリスト教を馬鹿にしたものに成るのです。
私の息子が先日テレビを見ていて電話してきました、それは人々が来て歌うシンギングビーの様なものでした。そこに色々な人たちの集まりが居て、こんな感じでロックンロールのようにして讃美歌を歌っていました、それはイエスキリストに対しての冒涜です。
現在教会には全く厳粛さがありません。まるでロックンロールのように全てがなっていて、ファッションショーのように、生きる神の教会である代りに、イエスキリストが力を持って顕す場所の代りにその様になってしまっているのです。そうであるべきではありません!何かがどこかで間違っていてあなたは外れてしまっているのです。そして聖書は言っています、そうなる時が来ると。あなたがいる場所を見て下さい。遅くなりすぎる前に気を付けて目を覚ましてください。
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さて、彼がこう言っているのが分かります。「誰がそこに行ってアハブを欺き彼の所に行って預言者の言葉を成就させることが出来るか?」分かりますね、もし預言者が一つの言葉を語ったとして、天地が滅びても私の言葉(その言葉)は滅びることは出来ないのです。それは起こらなければならないのです。それは起こらなければならない様に定められているのです。
彼は言いました、「王がこう言います、この者を獄屋に入れ、わずかのパンと水をもって彼を養い、わたしが勝利を得て帰ってくるのを待て私が彼を世話をする」
ミカヤは強くたち、神の御霊を持っていることを知っていました。彼の預言と幻は正しかったのです。彼のメッセージは正しかったのです、何故ならそれはっその幻の中で主がこう語られるだったからです。主が御言葉からこう語られたのです。それは正しくなければならないのです。それは「主がこう言われる」なのです。彼は言いました。「もしあなた方が戻ったのならば、神は私に語られていなかった」そしてご存知の通りそれは間違いなく起こりました。
悟ってください。兄弟。聴いて下さい。
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もちろん、カイパは分かりませんでした。なぜ彼は何を見下ろしていたのでしたか?彼は司教でした、彼は全ての教会の教皇の様な存在でした。何故その人がイエス様がそこに立っているのが分らなかったのでしょうか?彼はなぜ悟れなかったのでしょうか?彼等が詩篇23篇を歌っている時、22個目の詩篇、で紹介、教会で「我が神、我が神、なぜ私を捨てられるのですか?そして彼は十字架にかけられたのです。そのまさにその聖句で、まさに神様が彼等が礼拝する神を彼等は殺し「狂信的として」しまったのです。そうなっていたのです。
それはもし私がもう一度そのことを繰り返して話したら驚かせるでしょう。聖書は彼は外にいてそれを叩いて居たけれども誰も彼を入れてくれなかったのです。「私を愛するものを訓練し叱るとそして私は叱り、彼を揺らすがそれは私が彼を愛しているからです。それを開いて私を入れて下さい」「覚えていてください、私はその教会には入りたくない」それは個人としての神なのです。彼は教会に入れませんでした、彼は神を締め出したのです。彼等の組織すべてで、この教会時代では神はその組織の教会の外にいるのです。締め出されているのです。拒否され、受け取られなかったのです。彼は一時的に他の教会で示されたのです、それは義化された形などで、しかしここではないのです、その時代が今来ています。イエスキリストの指定された完全な表れは昨日も今日もいつまでも変わる事がないのです。オー私は沢山のなりすましを得る事を認めることになりますが、初めの物を調べてみて下さい。そのオリジナルをです。
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モーゼは神の戒めを持ってイスラエルに届けるために降りて行きましたそしてそうした時彼は幾つかの奇跡を行ったのでした。彼のなりすましがついてきました。もし彼等が初めにいたら、彼はなりすましにはならなかったのです。分かりますね。彼は神の御言葉を持っていましたそして神が指定していて彼は静かに留まっていたのです。
そしてご存知のように、終わりの時にも同じことが約束されていますね?ヤネスとヤンブレがモーゼに逆らったようにこれらの人々も、真理に逆らうのである。知性の腐った、信仰の失格者である」続いて行きます。組織。。。ある人をその組織化から取っていてそれは神から来たものではありませんでしたと言うのは神はそのような事で人々の思いに魅惑していたからですそしてそのメッセージはそれに続いたのです。もしそうでなければそれは神の物ではありません。それは神ではないのです。神はいつもそれをされるのです。
ユダはそれを理解できませんでした。彼は彼と共に歩いていました、しかしあれはそれが分らなかったのです。
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しかし実際に神に定められた、本物の遺伝子、本物の細胞、神の魂は世の初めから神の中に在ったのです。覚えておいてください。今晩本当に神の御霊をあなたの内に本当に得たのです、ここでキリストの中にあなたはいたのですと言うのは彼は御言葉の成就の全体だからです。彼は神の頭の全体の現われです。神はキリストの内におられ、世と神が和解するために来られたのです。それを信じますか?見て下さい。神はキリストの内におられました。そしてもしあなたが神の内に居たのであれば、その遺伝子、言葉、が初めからその属性だったのですそしてこの地上で神と共に歩んだのです、地上で彼と話し、彼と共に地上で苦しみ、彼と共にカルバリーで死んで再び彼と共に蘇り今キリストイエスの内に天的な場所に座っていて彼と話しているのです(御言葉)その御言葉があなたを養う時にそうなるのです。「人は神の口から出る一つ一つの言葉によって生きるのである」
メソジストの言葉でも、バプテストの言葉でもないのです。覚えておいてください。もし捧げものの残り物があったとしたら、それは朝になる前に焼かれなければなりませんというのは、将来の別の教会時代があるから。そうですか?出立。それが真実です。そのシンボル。捧げもののタイプ。
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その扉。「私は一つの場所を創ろう。あなたは私を全ての扉の中で礼拝しない、それは私が与えた物であるしかしその扉に入るためにはそこに私の名前を書く事にする」そして主は彼の名前をその場所に置かれたのです、神はあなたの犠牲を受け入れられます。我々は色々な種類の扉を作りましたが神が一つの扉を作られました。神が創られた扉は、ヨハネ10章にある様に。イエス様は言われました。私が、扉である。
神は彼の名前をイエスの中に置かれたのです。それを信じますか?彼は神の御子でした。全ての息子は彼の父の名前を持ってきます。彼は言いました。「私は父の名で来たのにあなたは私を受け入れなかった」私の父の名によって来て、あなたの父の名によって来た。イエスは彼の父の名によって来たそして彼のの父の名前はイエスですその通りなのですと言うのは彼は父の名によって来たからです。
「そしてあなたは私を受け入れなかった。他の物が来るそして彼をあなたは受け入れるであろう」あなたは宗派を取ってそれと共に生き続けるのですね、どうぞ続けて下さい。聖書はこう言っています。「彼等はこの場所で育ち成就することになる。目が見えず、裸でありながらそれを知らない」教会、宗教。アー、カインがつくった犠牲と同様にそれはとても敬虔だったのです。ちょうどアベルがした様に全ての物を作りました。しかし啓示によって何が聖餐になるのかが明らかにされたのです、手で創られた畑の果物ではなかったのです。
信仰者は御言葉が肉になるを見ることが出来ます、他の人には出来ないのです。
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イスラエル人の皆がモーゼがそれをしたのを見た後、彼は大きな会議に連れていかれました、そこで彼ら皆が言いました「バラムと共に生きますと言うのはバラム博士の言う事は正しいと思うからです。彼は賢いし、教育も受けています、すべてにおいて、だから我々はそれを受け取ることになるでしょう。」
そして神は決して彼を許しませんでした彼は彼等を荒野で滅ぼしたのでした。
そしてイエス様はご自身に言いました。「彼等は来ることはないでしょう、誰も救われていない。とイエス様は言われました。
彼らは言いました。「我々の父祖達は、40年の間荒野でマナを食べました。
彼は言ったのです、「彼等は皆死んだ、永遠に神から離れてしまった。彼等は皆死んだ」その通りです!彼等は間違いを聞いて居たからでした。モーゼが神が指定した預言者で約束の地への道を見せた指導者だった時に彼等は遠くまで来たのですが、彼等は彼と共に行かなかったのです。
さて、信者たちはそれを見ることが出来ましたが信じない者達はその立証を見ることが出来なかったのです。
66
どれ程カイパが宗教的だったかを見て下さい。祭司全員が皆どれ程宗教的だったかを見て下さい。そしてイエス様は振り返って言われました。「お前たちの父悪魔と同じ業をする事になるだろう」と言われたのです。
しかしそこには数人の信仰者が座っていただけでした。弟子たちがイエス様が「私と父は一つである」と言った時理解できたと思いますか?彼等には説明が出来ませんでした。彼が「人の子の肉を食べ血を飲まなければ、永遠の命はない」と言ったのです。彼等はそれを説明できましたか?いいえ。しかし彼等はそれを信じたのですと言うのは彼等は神が立証した物が肉を創られたことを見たからです。
67
イエス様は「もし私が父の業をしないならば私を信じなくてもよい。しかし私は父の業をしている、御言葉が私がそうする事を告げていたのだから、そして、、もしあなたが私を信じられないならば私のする業を信じるがよいそうすれば救われるかもしれない。分かりますね。イエス様は、私の羊は私の声を知っている。とも言われました。彼等は私の言葉を知っていて、彼等はその時代の為に指定されたときにそれが分かるのである」
「さて、カイパもその言葉を知っていました!」しかしそれはその時代の為の言葉ではありませんでした。彼はパリサイ人が彼を指さした言葉それはその時代の為の言葉ではなかったのです。
「彼等は私の声を知っている、私の印、奇跡が分かる」さて今、
オーそれでは我々のテキストに戻りましょうと言うのは、この聖句をただ見失るからです、もしそうしないならば、しっかりと次の数分の内にしなければなりませんどうにかして、あと数分で10時になってしまうからです。イエス様を愛しています。アーメン。
68
友たちよ、あなた方はその通路に歩いてきてしばらく前にその献金を入れました。皆さんそれが私の子供達を養い、服を着せているのです、皆さんが皆さんのお金を入れてくれるから(必死で稼いだお金)を献金皿の上に、どこに行くかを知っていますか?それが私を海外の神について何も聞いたことの無い異教徒の所に行かせてくれているのです。それが私がする事です、神が私の裁判官です。ここに行く任官の、私の、、、教会の会計係(トレジャラー)が居ます。私は週に100ドル受け取りますそれだけで、残りは、海外での集会へ来ることが出来ない人たちを助けるためにスポンサーとして贈られます。
協会は私を持っているわけではないのです。彼等は私を欲しがってはいません。いいえ。それは正しいのです。彼等は私を下ろしました。彼等は、「彼はイエスのみ」あるいは彼は何かその様なある意味狂信的の様な。。。イザベラの様な。。」そして私はそれを探し、彼等は私の主を「イザベル」と呼んだのですそして彼等は彼を、、、イザベルではなくベルゼバブと呼びました。」彼等は彼を酷い名前で呼んだのです。「もしその家の主人をベルゼバブと呼んだならば、どれ程彼の弟子たちを悪く呼ぶだろうか?だからそれには何の違いもありません。
そしてあなた自身は神の助けにより、、、大いなる偽善者としてあなた方に何かを告げるために私が立っていると思いますか?それとも、神から来たものと信じることにかなっている事を告げるために来ているのでしょうか?
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いしかし、もし私があなたを愛し、真理がなんであるかを知っているならば、、、私が、主の御名によって、語ったことで起こらなかったkとがありますか?いいえ誰かほかの人に尋ねて下さい。何千もの事を言ったりやったりしてきました。覚えて下さい、サムエルが呼びだされたとき、だとわたしはそして彼(サムエル)は言いました。イスラエルは他の国々と同様になりたがったのです。それがペンテコステがなりかけている事です。他の人々と同じような行動をしたがっているのです。あなた方はそのような人々ではありません。それらから離れていなさい。大きな教会や大きな素敵な事から。オー兄弟。そんなことはしないでください。我々は主のご臨在が近い事を伝えていきます。畑に出て行き異教徒たちにそれを知らせるのです。何が出来るが分かりますよね。
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しかし、お分かりになる様に、サムエルは、「一度でも私の生活の為にあなたのお金を取ったことがありましたか?」と言いました。
彼等は言いました。「いいえ、サムエル、あなたはそのような事は一度もしていません」
そして言いました「主イエスの名によって起こると言った事でおこらなかったことがありましたか?
「オーその通りです、サムエル。私はあなたを神が送られた預言者だと信じています。その通りです。全てあなたが言われた事は起りました、サムエル。しかし、それでもそうしたいのです」何が起こったか分かりますね。兄弟、その聖句は何度も繰り返し、言われていますと言うのはそれが神のやり方だからです、そのような時になっているのです。
我々のテキストに急いで行きましょう。ここまで来ているのに、まだテキストに行ってさえいないのです。
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それは私の心に置かれています!皆さんを愛しています。世と共に死なないでください!もしあなたが世の者ならば、世と共に滅びます。もしあなたが神の者ならば神と共に復活するのです。だから今晩世や世の者を愛する者からあなたの性質を変えなさい、そしてこれらの信条や何やらからそしてまっすぐにあなたの捧げものであるカルバリーを見るのです、主にそこで会うのですと言うのはそれ以外にあなたが彼に会える場所はないからです。
メソジスト派言います、「それは我々の教会の中で」バプテスト派も長老派も、ここで、そしてこれの中でと。
しかし主はこう言われます、「私が彼等の一つの場所である、そこには私の名が記されている場所である」それはイエスキリストの内でなのです。そこに神が彼の名を置かれたのです。そこが唯一の彼があなたに会う場所です。そしてキリストは御言葉です、昨日も今日もいつまでも変わることが無いのです。足から、腿に成長していくのです、そして今それは頭に行くように決められています、完全な形で表れているのです、花嫁が花婿と同じになるのです。
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急いで、テキストに行きましょう、10分くらいで終わらなければなりません。さて、
テキストについて考えたいのです。
それは又起こっています。テキストはいつも。神は彼の預言者を彼の御言葉でマラキの3章で、私は主が帰られる前にあるメッセンジャーを送るであろうと約束されていました。
さて、もしあなたがその指定が欲しいならばそれを証明したいならば、マタイ11章に同じように指定されています。ヨハネの弟子達が来てイエスに会いに来た時、彼等は言いました。「ヨハネは獄にいます」そして「我々はあなたに尋ねに来ました、彼は、、
ヨハネは鷲の目でそれを記録していました。そして彼は獄に居て、彼は殺されることになっていました。「彼に尋ねに行きなさい」と言ったのです。
分かりますね。ヨハネは言ったのです、「オー彼は手に扇を持っている、彼は床をしっかりと分けている」彼は至福千年がそこから始まっていると思いました、彼はその麦の粒は準備されていると思っていたのです。しかしそれは死に茎になり又花嫁になるために上がってくる必要があったのです。そして彼は言いました。「麦を集めて蔵にいれるそして彼はそれ(茎)を火で焼く」その時代におけるキリストの前走者を見て下さい、彼が言った事が起こる事を「その粒は、、、」
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そして皆さんが寝ていない様に望みます。その粒はここにあります!それは貯蔵庫に集められるのです。それは花嫁です、その一部になるのです。しかし彼が言われたのは茎はどうなると?それは焼き尽くされる火で焼かれるのです。さてできる間に救いを見つけて下さい。その粒になるのです茎ではなくて。分かりますね。命に入りましょう、古い死にかけた形ではなく、キリストの命に入るのです、御言葉があらわれ、指定されその通りになるのです。今は集める時で、その時は着ているのです。麦の粒になる方が良いのです、殻は残されてしまうからです。
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さて、我々はそれが起こるのが分かります、、イエス様、、、ここで私のクォートを終わらせるために、このマタイ11章。彼はヨハネに与えていませんでした、主は言われます。「私はヨハネにどの様に生きるべきかの書を与える。国の中にいる信仰者に」いいえ。彼が言ったのは、「そこに立ってそして何が起こるかを見なさい。戻っていき、ヨハネに何が起こったかを見せなさい、足萎えが歩き、盲目の者の目が開かれ、死人が蘇り、貧しい者達に福音が宣べ伝えられた」それが預言者が起こると言った事です。「そして私につまずかない者は幸いである」
そして彼の弟子たちは丘を越え始めました、彼は戻ってきて言いました。「ヨハネに会いに行った時、あなたは何を見ましたか?」ある人が柔らかい服を着て食事をしているのを、回る襟などを見たのですね?彼は言いました。「彼等は王の宮殿にいました、彼等は赤ちゃんにキスをしたり死人を葬っていました、彼は二つの手で刀を持つ方法を知りませんでした」「あなたは何を見に行ったのですか?風邪に揺らぐ葦であるのか?ヨハネ何を言っているのだ、ここに行くrならばもっと金をやろう!」(わて、神を誉めましょう、私はもうメソジスト派ではなく、ペンテコステ派になりましょう、長老派になりましょう、これやあれや彼等がお金がある限り?)と言ったのです。「あなたは風に揺らぐ葦を決してみませんでした」「あなたはそこで預言者を見ましたか?」彼は言ったのです。「はい、そしてそれは預言者以上の方でした」と
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ヨハネがイエス様に出来た最低の賛辞だったのです。それが来なければならなければならいと知っていたのですから、彼はイエス様を紹介した後、彼の上に見た印を見たのです。彼は言いました。「これは救い主である、彼は来て尋ねたのです。「あなたがその肩ですかそれとも他をサバス必要がありますか?」
しかし、見て下さい。イエス様はそのことを知っていました。彼は向き直り賛辞を与えたのです、そして言いました。「あなたは何を見に来たのか、風に揺れる葦か?」と言いました。「女から生まれた人でヨハネよりも偉大な者をこの時代にはいない」とその通りです!人に対するこれほども素晴らしい賛辞がありましょうか!
しかし分かりますか、その通りです、預言は彼の目の前で成就したのです、前走者が来てマラキが言ったのとちょうど同じようにです、さてそれはマラキの3章でありマラキの4章ではありません。
洗礼者ヨハネはマラキの3章です、イエスはそう言いました。彼等は彼に尋ねた時でした、「その書では何と言っているのか?」と。
「彼は酢でい着ている。彼等はそう言っていました」と言ったのです。
しかし覚えていますね、マラキ書の4章、マラキ4の預言者は4回目の洗礼者ヨハネの出現あるいはエリヤ。4回目の出現は黙示録の2章の証人彼が来るときはユダヤ人の残っている人達に来るのです。しかし神は同じ霊を5回使われました、恵み(GRACE-JESUS)それは皆イエスの霊なのです。。信仰(FAITH-GRACE などなど、その5という数字は恵みの数字で神はそれを使われました。3回だけでなく2回だけでも3回だけでも4回だけでもなく5回彼はそれを使われるのです。
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さて、急いでここで終わらせていく中で気が付いて下さい。彼は言いました、「これは話されている人の事である、「私が来る前に私のメッセンジャーを送る」
しかしマラキ4章では、預言者が預言した直後に、全世界は焼かれ、義人は悪人の灰の上を歩くのです。その通りです。それがマラキ4の預言なのです。
そしてルカ17章を見て下さい、彼はこう言っています。「終わりの時はまるでソドムとゴモラの時の様であろう」分かりませんか?我々はソドムとゴモラを再び見る様になるのです。全ての国々を見てみて下さい。彼がちょうどイギリスについて言った事、すべてが乱れ変態化しているのです。食物でさえも、、そしてここで科学がしていることを見て下さい。リーダースダイジェストでも、それは先月だったと思います、「少年少女が中年になるのが20歳か25歳位になるつまりは更年期障害がそれほど早く来るだろう。それはなにが腐っているからでしょうか?食物の変態化ハイブリッド化、それらはまさに乱れて退廃堕落しているという事なのです。それは汚れ以外の何者でもないのです。ちょうどハイブリッド化された植物の様な。。。
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ハイブリッド化された植物を取ってそこに置くと全ての遺伝子がそれに流れるのです。しかし純粋な植物の遺伝子はそれから離れるのです、それと共にはいられ
ないのです。そしてそれがまさに教会の問題になっているのです、我々がハイブリッド化されているのです。
それがペアリーグリーンの古い馬の問題なのです。(彼はその子を先日捨てました)彼はただの古いクオーターの馬なだけなのです。唯一それは、ちょうど騾馬と同じです、騾馬は彼の父親あるいは母親を知らないのです、彼は何も知りません、彼は半分騾馬で半分馬そして半分これで半分ロバなのです、彼は彼がなんであるか知らないのです。彼はあなたをける様になるまでずっと待っているのです。その通りなのです。彼を「お出でお出で、」という事は出来ます。彼は耳を挙げて「ホーホーホー」と分かりますか?
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これらの数人が言っている様に、「奇跡の時代は過去になった、へーい、」これらの半分の者達が教会員やクリスチャンのようになっているのです。それを冗談で言っているわけではありません、それは真実なのです。しかし純粋な者、完全な者達は、兄弟、彼は誰が彼の父であり母であるかを知っています、誰が彼の祖父であり祖母であるか、何かを教えることが出来るのです、彼は穏やかです。
そして聖霊によって生まれ神の力、御言葉に満たされている純粋なクリスチャンは、誰が彼の父であり、母であり、祖父であり、祖母であったかを知っていて、彼は全てそれらの事を知っています。あなたは彼に何かを教えることが出来るのです。
しかし半分の者それが教会に来ているのです。ハイブリッドつまりは世と宗教組織の間に居て、ここそこで小さな言葉を十分欺くだけ受けているのです。そうなのです。本物の神の言葉が洗われている時、ちょうどカイパにあらわされたように、彼等はそれから離れるのです、彼等はそれを知らないからです。ハイブリッド!
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さて、我々はこのメッセージの中で見出しました、イザヤの40:3は又ヨハネの事を立証していました。彼は預言者として声を送っていたのです、荒野に叫ぶ声です。「主の道を整える」その教会は彼を信じていませんでした、彼は彼らのグループにいなかったのです。その預言者は荒野で立ち上げられ誰も知らない所で出てきたのです。彼はまさにエリヤの霊を持っていて彼は荒野の人で、ふしだらな女性達を嫌っていました。
エリヤがどうだったか覚えていますね、彼が殺された理由は?イザベル、イザベルが彼の死をもたらしたのです。それが彼を荒野に走らせました。
洗礼者ヨハネは、荒野を愛する者であり、狩猟者、森の人でした。彼を見て下さい。彼には教育はありませんでした。彼の書いたものを見て下さい、彼は神学者の様ではありませんでした。「オー蝮の子らよ」荒野で見つけられる最もきたない物、最も卑劣なのはヘビなのです。そして彼はそれらの祭司達を「お前たち蝮の子らよ!」と呼んだのです。誰があなたに怒りから離れる様に警告しましたか?この様に言い始めない様に、「我々はこれに属している、これやあれやを持っている;私はあなた方に言います、神はこれらの石から、彼等を起こす事が出来る。そしてその斧をその木の根に起き、すべての木で良い実を実らせない者を切り火にくべるだろう」アーメン。
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彼は自然の説教師だったのです。偉大なる神の人で生きた時間は短かったのですが、間違いなく地上に風を吹かせました。彼はたった6ヶ月の彼のミニストリーでその世代にショックを齎しました。神は30年間彼を育て6か月だけ彼に御仕事をさせました。しかし神は神自身の方法でなさるのです。神は彼の収穫をご存知なのです。
そして我々は今、これはまさに起こっている事だと分かります。彼等は彼を信じませんでしたと言うのは彼は彼等の一員ではなかったからです。彼等は普通、、、彼等はそれが分かりませんでした。彼等は神の言葉であるマラキ書3章を信じていませんでしたあるいは、それを戦争者としてまっすぐに理解していなかったのです。彼等は400年間預言者が居なかったのですそして一人突然に立ち上げられたのです。そしてその人々、信仰者すぐに彼を信じました。彼等はそれを信じなかったのです、彼等は神が言われなさった事の完全な確証だったのですそしてはっきりとその言葉が指定されていて水に預言者が来ることも、、分かったのです。そしてそこに彼等は立っていました。
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さて沢山のヨハネに関するその聖句に関しては口論があります。ヨハネは、「私はあなたに洗礼を受ける必要があります、なぜあなたが私に来られるのですか?
イエス様は言われました「そうさせてくださいと言うのは、あなたが私達になられ、我々は全ての義を成就するのです。ヨハネあなたは預言者なのですから捧げものはそれが捧げられる前に洗われなければならない事を知っています。そして私がその捧げものですそしてあなたは預言者でそれを知っています。だからヨハネはイエスに洗礼を授けました。分かりますね。彼はそれを知っていたのです。
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見て下さい、彼等は彼を笑い呼びました、「荒野で叫ぶ、無学な狂信者」いつもと同様に、その預言者はイエス様が来る前の前走者だったのです。
私は彼等は同じように今日の純粋な者のなりすましが居なかったとは言いません。彼等にもいました、絶対的に。しかし覚えておいてください。偽札があるところには本物があるのです。なりすましのクリスチャンがいるのを見るならばどこかに本物のクリスチャンがいるのですそうでなければ必ず元の者オリジナルがあるからです。あなたはオリジナルを得なければいけません。しかし初めにそれを調べて下さいもしそのオリジナルが約束通りであるならば。もしそうならばそれを信じて下さい、それがその時代の約束なのです。
そしてヨハネの預言は神の秩序の中で指定されていました。御言葉は預言者に来て人として本当に指定されていたのです。
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再び、イエス様は預言の彼らの理解からは違った形で来ました。彼等はその方法では理解していませんでした。(今、我々は終わりの時に向っているのです)。しかし預言者の言葉によって、それはその手紙を成就していました。預言は成就したのですが彼等はそのようになっていたのですそれはそちらには言っていませんでした。さて、彼等はどれ程理解していたのでしょうかそして正しかったか間違っていたか分かったのでしょうか?もしそれが神によって立証されていたことを分るために、もしそれが神が言われたことを解き明かされていたのです。偽のイエスたちが経ちあげられて400人もの人々が荒野の中などに導かれていたのですが彼の御言葉の中で彼自身を証明したのです、彼はそして言いました。
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イエス様、彼が来られたとき、彼は預言者でもあられました。その通りなのです!そして今日、イエス様が再び来られる前、人であるキリストイエスが肉によって現れた方が完全な顕れでした。考えてみて下さい。イエス様は言われました、「その人の子が来る時ソドムの日のようになるだろう、人の子が顕かにされる時である」何が明らかにされたのか?「開かれて知らされる」その秘密は顕かにされるのです。人の子が顕かにされるその日に、その世はソドム状態になるのです。我々はそうなっていないでしょうか?はい!それを何人が信じますか?ソドム状態の中にいますね。その通りですよね。それが設定されている場所を見るのは、今!
覚えていてください、いつも全ての集まる人々には3つのグループがあるのです、信じているふりをしている人、未信者、そして信者です。我々はどのグループにもいるのです。彼等はいつもいる尾です。そこにはソドマイトが居てそこにはロトが居てアブラハムもいたのです。
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アブラハムは呼びだされたグループの中にいました、彼はソドムが始まる時にはいませんでした。さて、彼等のメッセージを見て下さい!彼等は約束の息子を探して今いました、何年もそれを探していたのです。神はアブラハムに多くの偉大な印や奇跡を見せていましたがここで神が人として彼自身が降りてこられたのです。
あなたは「それは天使だった」というのです。
アブラハムは彼を「主よ」と呼んでいます、大文字のLORDです。聖書を読む人ならば誰でも大文字のLORDはエロヒムをさすのです。「初めに神があった、主なる神、エロヒム、全能の方。アブラハムは彼を、「主なる神エロヒム」と呼んだのです。
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さて気が付いて下さい、二人の人々が居てソドムにメッセージを持って降りてきました、そして彼等はソドムの人々に話していました。彼等はなにもしませんでしたが彼等の目を閉じ不信仰者の目を閉じる様な福音を説教していたのです。
しかしアブラハムのグループが受け取っている印の種類を見て下さい。
さて、我々はアブラハムの忠実な種子(子孫)なのです。イサクは自然な子孫でした。しかしその信仰の種、信仰は約束の言葉の中に在るのです、約束の言葉(見失わない様に)は忠実な種だったのです。アブラハムの信仰。「我々はキリストの内に死んだのです、我々はその約束によりアブラハムの子孫なのです。
気が付いてください、全ての事が起こった時、ソドムには素晴らしいメッセージを語る二人の説教師が居たのです。
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アブラハムのグループとともに一つの設定がここにありました、そこにあるグループに馬鹿にされなかったのです。さて、アブラハムのグループとともにいた人たちを居てください、彼が彼らに与えた印の種類に関してです。
彼は言いました、さて、覚えていますね、彼の名前は数日前まではアブラムでしたそしてSARRAはSARAH(王女)ではありませんでした。そしてこの人は、彼の背中を幕屋に向けていました。
その女性たちは今とは違っていました。彼らは夫の仕事や全てほかの事に入りやらなければならなかったのですしかし彼らはそれをせず後ろの居続けていたのでした。
そして天使たちがそこに座っていました。そのメッセンジャー、そして彼は言いました、「アブラハム、あなたの妻、(SARAH サラ)は何処にいますか?彼はどのようにそれを知っていたのでしょうか?どのようにして知ったのでしょうか?
アブラハムは言いました、「彼女はあなたの後ろにある幕屋の中に居ます」
彼は言いました、「私はその時間によって、私があなたに約束したときにあなたを訪問する。あなたに訪れる」そしてサラは、ある種彼女自身に対して笑っていたのでした。
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彼の背中は幕屋に向かっていました、彼は言いました、「何故サラは笑ったのか、どのようにこれらの事が出来るのかと言って?もし彼女がアブラハムの中に居なかったら、その時代の彼の花嫁もおらず神は彼女を殺していたのんです。今日も我々がキリストのうちに居なかったならば、我々の不信仰のすべてがそうさせるのです。だからそこに我々が繋がっていることを理解して下さい。彼はアブラハムを傷つけることなしにサラを選ぶことはできなかったのです。
そして覚えていますね、イエス様は言われました、「ソドムの時代と人の子が来るともきも同じよういなるであろう」我々は今の時代がソドムの状態にあることを皆が同意しているのがわかります。ロサンゼルスの新聞を読んでいた時、そして、(思うに)それはロサンゼルスでホモセクシャルの割合が20~30%毎年増加している。おーなんてひどいのでしょうか!我々の政府そしてどこでもすべての事が狂って倒錯されてきているのです。それは事実なのです!そのすべての事、全ての体制、教会そしてすべての事が狂っているのです。倒錯された時代にいるのです。
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さて、あなた方神学者の皆さんにお尋ねしたいことがあります、兄弟の皆さん。あなた方に敵対して話しているわけではありません、親愛なる京大のっみなさん、あなた方を助けるためにここにおります。私は神の言葉が告げている事が正しいという意味でここに立ち上がり、あなたの手を取りこの集まりの人々の中にそれを告げたいのです。そうなのです。
でも、ここで見ていて、我々は彼の名前が今の時代になる前HAM(ハム)で終わる名前の人がソドムにいたことはありませんでした。今までスパージョン、ウェズリールターそしてほかの色々おられましたが国際的なメッセンジャーで彼の名前がハムで終わる人はいませんでした。そうなのです、わかりますね、G-R-A-H-A-M、ビリーグラハムは有名な伝道師で偉大なる神の技をして神から送られた人でした。彼はそれによって国全体を揺らし正義化に導いたのです。
オーラルロバーツを見てください、ペンテコステ派になりました。それらがそうなったときにはどうでしたか?6文字、7文字ではありません。アブラハムを(ABRAHAM)は7文字で、ビリーグラハム(G-R-A-H-A-M)で6文字です。
さて、そのメッセンジャーを見てください。その我々が居る時代を、歴史上そうあったときは今までなかったのです。各々のグループに彼が下さった同じ印を見てください。彼らがその時何処にいたかを。同じ、ちょうど、その立ち位置が順番になっているのです。自然、世界、全てがちょうどその通りになっています。
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さて、それを見失わないでください、この聖句の残りを広げていく間なのですが!急いでいきますね、何故なら私は皆さんを長くとどめてしまっているから。ここを見てください。その予言者によると、彼はちょうどみ言葉に来たのです、ちょうどその時代にです。
さて、今我々が生きている時代を見てください。我々ははちょうどソドムの時代に生きていないでしょうか?アブラハムのグループにあてられたメッセンジャーをみてください。その数字、文字、彼の名前の数秘術を見て下さい。「名前にな何もない」と言うでしょう。しかし誰にもそのような事を言わせないでください。何故アブラムの名前をアブラハムに、サライをサラに変えたのでしょうか?シモンの名前をペテロにその他諸々。そこには間違いなく理由があるのです。
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だから、私は「リッキー」とか「エルビス」とかそんなように子供を呼ばない様にと言いました。エルビスは「猫」でリッキーは「ネズミ」という意味なのです。分かりますね。あなたがそういう時。そういう意味になるのです。そのようなことになります、あなた方の子供達の一人をその様に呼ばない様に。もしそうならば、すぐに変えて下さい。もし私を神の僕と信じているならば、そのような名前で可哀そうな子供を呼ばないでください。さて、その代わりにに別の名前にしてください。それは私の議題とは外れるので話を変えますが、私は何度もこう言いました。そうあるべきでしょう、そういう時どうしたらいいのかあなたは知りませんね。
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彼を「外人、占い師、悪魔、ベルゼバブ」などと呼び、そして「彼を彼自身を神にした」と言いました。
預言者イザヤは言いませんでしたか?「彼は全能の神と呼びませんでしたか?」イザヤ9章6節『ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。』その通りです。又。ヨハネ1章1節。「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。言葉は肉体を取って我々の中に宿った」あなたをそれを信じますか?彼はただそれだけでなく預言者だったのですが、彼は預言者以上の方だったのです。彼は神であり預言者だったのです。なぜ彼は来なければならなかったのでしょうか?
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覚えていますよね、彼は3つの子の名で来ました。初めに人の子という名で。
彼は彼自身を「神の御子」とは呼びませんでした。それは知っていますね。彼は人の子、預言者、エホバご自身。その父が、エレミアは、「小文字の人の子」と呼んでいました。預言者は人の子で、、彼はその様に来たのです。
さて、彼は五旬節の日の後に来て、彼は聖霊の形で戻って来たのです。超自然的な霊で。さて、彼は神の御子です。
その至福千年で彼はダビデの子となり、ダビデの御座に座るのです。
彼は、神の子、人の子、ダビデの子なのです。
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オー聖書には、このような金が沢山あります。我々は一晩でそれらすべてを見る事は出来ません。しかしそれはこれに今あっているのです。明日はもしかしたら合わないかもしれません。明日の前に出発するかもしれないからです。私は死ぬ朝まである人に話をしているかもしれません。私はその朝より前に行くかもしれません。兄弟、姉妹、それは作り話ではないのです。真実なのです!我々がいつ行くかの時は知りません、あなたの身体から息が絶える迄その機会がないかもしれません。明日の朝まで待たないでください。遅すぎるかもしれませんから。
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今、気がついて下さい。彼は、預言者達が彼等がするだろうと言っていたまさにその通りの事を彼にしたのです。彼等はこのまさにラオデキア教会時代にしているのです。もし見てみたいならば黙示録3章を読みましょう。「目が見えず、裸であるがそのことを知らない。キリストを、、、」彼が彼自身を種の形で再び顕し始めているのです、その同じものが花嫁の中で戻ってきていたのです、ちょうど花嫁が名ナムコとの中に在る様に、同じ肉体と血、同じ御仕事、同じことがされているのです、彼がしたことをそれこそが霊なのです。
そしてここで、彼等は他の全ての事をなりすましまねしているのです、彼の本を得た全ての人々がやっているのです。そして、あなた方は決してこのセンセーションを聞く事は無いでしょう。「そして私は悪魔の匂いを嗅ぐ」そしてこれら全ては、、まったく聖書にかなっていないのです。
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そして純粋なものが彼等の前に置かれていても彼等はそれから歩き去るのです、「彼等は私の組織に属していない、、、など、、」分かりますね、盲が盲を導いているのです!彼等は穴に落ちないでしょうか?人の宗派の人の言い伝えによって盲にされているのです。彼等は神を教会から出しているのです。神がそうしていると言っているのです。黙示録3章で、いつもの様に預言されているのです。
気が付いて下さい、イエス様がこれらの弟子たちをどのように知っていたのでしょう、さて、我々は間もなく閉めます。
これらの二人の弟子達、カヤパ、クレオパスという風が、、そして彼の友人。さて、我々は復活の中にいるのです、その朝復活の後、初めの復活です、何と素晴らしい朝でしょう、イエスは、死から蘇り彼の人々の中にいるのです。何と素晴らしい考えでしょうか!
彼はここにその日と同じように今日もおられるのですと言うのは彼は昨日も今日もいつまでも変わる事がないからです。彼自身がより他の時代読みももっと彼自身をその日以来はっきり明らかにされているのです、麦を通してそして茎と殻(それは全て過去になりました)我々は再び麦の中にいるのです。我々はその麦の粒の中に戻ったのです。
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ご存知のように、彼自身がこれらの人々に知らせている方法を見て下さい。さて、彼等の救い主として、(我々が閉める直前に)その時代の御言葉を約束されていました。気が付いて下さい!彼はその様に来られると預言者を通してかたられたた通りに現れたのでした。「愚か者たちよ、預言者達が彼について書いたことを信じない者達よ、それらは成就されなければならなかったのである」
彼を見て下さい!彼は御言葉として参照されているのです。彼は出て来て彼等に言った事は無いのです。「私を知らないのか?私は救い主で復活したのだ」とは。。彼はそのような事は決して言われませんでした。分かりますね。彼は聖句を示しただけでした。ヨハネがした世に、他の人達がしたのと同様に。彼等は彼等自身を引き上げなければなりませんでした。彼等は彼等自身を裁く必要がありました。さて、眠らないでください、自分自身を裁かない様に。
「預言者が言った事は成就しなければならない。愚か者よ、それを信じない事が無いように」神を知っていると言っていた者達に対する何という叱責でしょう。
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彼はそのことにどの様に近付いて行ったかに気が付いて下さい。彼は数分前に言った様に出てきたことはありませんでした。「私はこの時代のあなたの救い主だと知らないのか?」と言ったりはしませんでした。私が身体と知らなかったのか?」」とも。本当の神の下毛は彼がそうだと認識しないのです、聖句が彼がそうだと理解させるのです。その通りです。彼等の関心を預言者がその救い主の時代を探していたのですよね。すぐ戻って、「愚か者よ、信じない者よ、救い主が来ることについて預言者達が言っていたことを信じない者達」
彼は、、ヨハネは、聖書の言葉が彼を認識させているのです、彼がそれらをしたことによって。それは全くはっきりさせられています。もし尊がが彼を認識させるのはそれは単純です、彼等が見ている約束の方なのです。彼等は誰かがその時代に来なければならない事を知っていました。
ただあなたは言うでしょう。「今、この時代に何が起こるか御言葉言っていることを見せさせてください」
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私は違います、今晩あなた方に言葉から言葉でその位置、場所、名前、数字、全ての事を言おうとしています。そしてすべての印、時、など全てのこと、我々は終末にいるのは間違いないですよね?
間違いなくあなた方は私が話していることが分かりますね。見て下さい。それは認識が要らないほどはっきりしています。彼は言いました、彼が地上に居た時に、「聖句を調べなさい、あなた方が永遠の命を持っていると思うならばそれが私で私が誰かを告げるのです」と
気が付いて下さい。彼は預言者モーゼと共に始めたのでした、申命記18:15ここで聖句を見ています。申命記18:15でモーゼは言っています。「あなたの神、主が、、、
分かりますね。神は山の上で彼に語られたのです。そしてオー、何という事。その嵐が起こり、彼等は行ったのです。「モーゼを語らせよ、神ではなく、そうしなければ、我々は死に行くあろう」
神は言いました、「彼等は良く言った、私は彼等にこの様に語る事は無いだろうが彼等の中から預言者を起こす」そしてそれが全ての時代で神のメッセージはその道になってきたのです。それが終わりの時に全てをはっきりする事になるのです。そうなるのですと言うのは、主の言葉は預言者に来なければならないからです。それだけが出来る事なのです。もしそうじゃないと神の御言葉をやぶることになり、彼がそれは間違った事になるからです。それは神学校に行く事は無いのです。ただ預言者に来るのです。そして預言者は神によって指定されて送られているのです。そしてあなた方がご存知のように、人が言った事ではないのです。
100
我々にはエリヤが居ました、そして外套や全ての事、そして外套と全ての意味のない事が組織や何か他のものに行ったのです。
しかしこの地上に来るのは、神の約束によるのです、純粋な神の僕に、神によって認識されるのです。(この時代の答えが神の言葉によって来るのです)それが花嫁に決められるのです。(小さな本物の教会)そしてそれを取るのです。その通りです!彼は紹介されるのです。「見よ、私が語った方が来られる」
そしてすべて預言者が彼について語ったこと、そしてこの時代に彼について話した興味深い事であることは間違いないです。彼が言われたことを聞きたくないですか?「全ての預言者が語ったこと」
覚えていますね、イエス様は預言者が彼について語ったと言ったのです、彼自身が言われたのでした、彼が言われた事(そして彼こそが御言葉でした)を言われていました。
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さて、彼が言った言葉を聞きましょう。彼が彼等に言った事を聞きたいでしょうか?我々が停まる前にその会話を続けて行きましょう。
さて、彼等は十字架刑の最後に起こったこと全てをはなしていました、墓場での話でした、そして女性達は彼をみていました、そして他の人が彼等を見たりしていたのでした。彼等はそれを彼に話していたのです。そして彼は御言葉を通して彼自身について話していました。
さて、ゼカリヤ書12章の中で見てましょう。(彼はゼカリヤ11:12を告げていたのは違いありません)「30枚の銀貨で彼は売られる」救い主は30枚の銀で売られるはずではありませんでしたか?
詩篇41:9で彼は友達に裏切られますね?
ゼカリヤ13:7で弟子達から捨てられます
詩篇35:11で偽の証人から訴えられ
イザヤ書35:7で彼を訴える者達の前で口をきかず、口をまったく開けなかった(分かりますね、)
イザヤ50:6で彼は苦しめられたのです。
詩篇22章で、彼は十字架で泣き、「我が神、我が神、なぜ私を捨てられるのですか?私の骨を彼等は見ています。彼等は私の手と足にくぎを刺します。
(彼が話している預言を見て下さい。)
イザヤ書9:6  ひとりのみどりごが処女にわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。
そして詩篇22:18 彼らは互にわたしの衣服を分け、わたしの着物をくじ引にする
イザヤ書7:14では おとめが身ごもる
詩篇22:7と8では、彼の友達であるとされる敵たちに馬鹿にされる、彼の敵たちはその教会に居たのです。
又もう一度詩篇22ですが、その骨は数えることが出来又、手と足が刺し抜かれていた。
イザヤ53:12 それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に/物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。
詩篇53:9では 彼は暴虐を行わず、その口には偽りがなかったけれども、その墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は悪をなす者と共にあった。
詩篇の16:10  彼は死から蘇られる。
ダビデはあなたはわたしを陰府に捨ておかれず、あなたの聖者に墓を見させられないからである。
彼は死から蘇られたのです。
マラキ書の3章で、洗礼者ヨハネは彼の戦争者だったのです。
そしてすべての彼がだするだろうとされていた事がタイプとなっているのです。イサクが山で行われた事も主のタイプだったのです、山でアブラハムが彼の父を創世記22章で連れて行く所です。
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それは今これらの聖句がその時代に約束されたように成就され始めているのが分かります。それはその時で、その後ろ側は後程に、それらは見え始めているのです。「オーちょっと待ってください!分かりますね?」彼等はそれを知っていたのです、彼等は十字架にかけられていた友人であるイエスが約束された預言者だったという事をです。彼等は聖句を呼び飛ばしてはいなかったのです。
しかしここで、すべてのこれらの事は十字架上で起こることになっていたのです。「愚か者、心の低い物は預言者の言っていたことを理解する、救い主は苦しんで彼の栄光に入り3日目に蘇る。
彼等は未だに「オーそれはそうですね。私達の心は燃えていませんか?彼等は言いました。だから彼らの心が燃えていたのです。彼が与えていた預言が成就していたからです。
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その時、彼等は彼等の友達、共に食べ話関係を繋ぎ魚釣りをし、木を置いていた人の事を理解し始めたのです、約束されたときの全ての言葉が成就していたのです。それなのです。彼等は6マイル歩いていました(思うにそれは凄く短い時間のように見えます)そして彼等は6時間の説教をその時代に指定されていた預言に関して聞いたのです。(今晩の我々よりももう少し長かったですね)さて夜が遅くなってきていたような感じです、その夕暮れの光が来ていました。
それは今同じ時なのです、教会の皆さん。夕暮れの光はやってきます。へブル13:8に「イエスキリストは昨日も今日もいつまでも変わる事がない」とあります。オー預言によってはっきりさせられている出来事は今日も同じなのです。夕暮れの光が神の預言者によってゼカリヤ14:7で約束されています、再び本物の信者たちの目が開かれて今日その出来事が起こる時その預言により我々が終末にいる事を証明するのです。イエス様はいらしています。それはまさに、、、
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彼は言いました、「その時には、、、(テープに空白がある)
親愛なる天のお父様、あなたが我々の祈りに答えて下さったゆえに今晩あなたに再び感謝します。この可愛そうな女性がそこに寝ていて、手術に失敗しました。しかし神様、初めて地上でされた手術を覚えています。あなたがされました。アダムの脇からあばら骨を取りそれを交えて妻を創られたのです、父なる神さん、今晩あなたの手がここに来て我々がおたずねしている偉大なることをなさってくださるようにい居ります。そしてこれらの鉾の事もです、主よ。この女性は精神的抑圧(うつ病)に苦しんでいます、他の祈りのリクエストをくれている全ての人々に対してもあなたに委ねます。父なる神様、心から祈ります。主イエスキリストの名によってアーメン。
彼は言いました。「もうその時には夜や昼などとは呼ばなくなる」彼は言いました。「しかし夕暮れには光がある様になる」さて、我々は地理的に、太陽は東から昇って東に沈むことを知っています。さて、預言者は言いました。長い時間っ狩り、それは終わる、ある意味、それは昼とか夜とか呼ばれないです。それはある意味暗く、苦しい時になるのです。
さて、どこに御子は昇られてるのでしたか?それは我々が話している 御子についてです。それは自然な太陽は東から西に行くのです。そのまさに同じ神、同じ神と言うべきでしょう。その神の御子が初めに東から昇って東の人々の所に行きます。
そして今、彼が去った後、彼等はなにをしましたか?3百年後の事です、彼等ははじめての組織を作りました、ローマカトリック教会でした。暗黒時代の間中彼等は行き、入ってきました。彼等はなにをしたのですか?同じことです。その時代にも一日は 昼とか夜と呼ばれていませんでした。彼等には十分なやり方があり、そして彼等は彼が神の御子だと信じていました。光の中に歩いていたのです、彼等は教会を作りました、そして病院や学校などを建てたのですそして、神学校があり、彼等の子供達を学校に送ったのでした。
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しかし、その預言者は言いました。「夕暮れの時に再び光がある様になる。その御子が再び現れ、光がある様になるであろう」なんですって?同じ御子が朝の時ににくたいを取って顕れ戻り再び夕暮れの時に顕かにされる。
さて、ルカの17:30と比べてみましょう。
「人の子が現れる時も、ソドムの日のように世の中がなっているであろう」
夕暮れの時には光があるであろう。
その様にして栄光を間違いなく見出す
であろう。
素晴らしい!我々は今どこに居るのでしょうか?
国々は、滅亡仕掛けており、イスラエルが起こり
ました。
その印は預言者が既に話していた事です。
異邦人の日々が苦しくあるのは
数えられていました。
(海に滑り入っていくのを見て下さい!)
離れていた者ヨ、戻りなさい。
あなたの贖いの日は近い、
人の心は怖れに陥りる、
御霊に満たされて、
あなたの灯りを綺麗に
しておきなさい。
上を見ていなさい!
あなたの贖いの日は近い。
(その方が絶対に良いでしょう)
兄弟、姉妹、それは恐ろしい時です。
預言されていたことをしっかりと見て下さい。
起こっている物事を見て下さい。
既に成就された予言を全て見て下さい
そうすると我々はそれが何であるかを
理解するのです。それはただの狂信主義では
ありません。それは神がまさにはっきりと
御言葉で確証している事です。その岩は
砕かれています、友たちよ、できる限り速く
主に逃げるのです。預言は今我々が生きているその時代を
指定しているのです。
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さて、頭を下げて祈りましょう。(ある兄弟が異言で語っていて、ある姉妹がその時証しを与えています。ある兄弟がその演壇で言います、「ちょっとだけしっかりつかまる事が出来ますか?ブラナム兄弟を通して神は我々に語っていますそして、その油注ぎがブラナム兄弟にありますそして彼はそれから逃げる事は無いのです」
オー何という事、あなた方は今生きている時代を認識していますか?神と争うのでしょうか?彼が既に証明されている時に彼は間違っているというのでしょうか?彼は彼自身が解き明かされます。彼に仕えたいですか?
さて、頭を垂れて心も低くしてください、兄弟、姉妹。
これは我々の最後の集会になるかもしれません。私がもし生きていれば、1年後の今日戻ります、その時沢山の人で今ここにいる人がいないでしょう。裁きの場で今日話した全ての事について答えるために会わなければならないでしょう。
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神の御前で、正しい心を持っていたら、このような事を神に向ってするでしょうか?神の眼鏡(聖書)を通して自分自身を見るでしょう、もし分かっているならば、誰であろうと、「私がしている事を考えたら神の娘としてはかなり外れていると分かっています。神の息子としては私のしていることを考えたらかなり離れていると知っていますが、神様、私はそうなりたくないのです、その場所に行きたいのです」神に向って手を挙げてほしいです、あなたが誰でも建物の中のどこに居たとしても。「はい、私は神の息子になりたいです、娘になりたいです、主が命令された全ての事を成就したいのです」さて、神があなたを祝福されますように。思うに90%の会衆ですね。
さてここを見て下さい、友よ。ヨハネが話した時代に生きていたとしたらどうでしょうか?イエス様がここにいた時代に生きていたとしたら?誰の側を取っていたでしょうか?イエス様の中に生きていたら、、、覚えていますね、もし、、彼が、もしあなたがその時代に生きていたら、それはまさに今の様なのです。同じイエス様が彼の御言葉によって知られるようになっているのです。そしてそれはとても人気がありません。
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だけど、言わせてください。私は教会を去りなさいと言おうとしているのではありません、教会に行って欲しいです、「集まる事を辞めてはいけない」しかし私があなたに言っているのは、神の御国に入れるようにまっすぐに進みなさい。これらのことから離れるのです、世、教会、、、
ペンテコステ派の皆さん、あなた方は世的になり過ぎています。世を追いかけすぎています。それは簡単です、テレビを見たりこれら全ての事をし続けそして彼等がするようなやり方で生きているのです、すべてのこれやあれやをはじめにあなたが知っている事。
その神学校、学校はここそこで妥協し始めているのです、その他諸々でもです、初めにする事はそこから離れる事です。そのペンテコステ派の教会は、大きな支援でありました、それに敵対する事を自分として言う事は出来ませんが、私が声を上げることは、「わが兄弟達、そこから出てきなさい!」以前の様な集会を持つことはなくなっています。人々はもう以前の様ではありません。しかしイエスキリストは同じなのです。彼に入って行きましょう。
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さて、手を挙げて。覚えて下さい、そこには岩が荒野で砕かれ、そして泉が今晩も開いています。その岩は砕かれたのです。キリスト。彼こそが砕かれた岩なのです。
そして今晩、私が分かっている限りでは、その教会は、多分。その呼び出されたときは既に終わっているかもしれませんが私には分かりません。それを言う事は出来ません。覚えて下さい、人々は集会を持って同じように十字架のイエスをおっているのです。
そしてすべての人々、彼等は来るでしょう、彼等は、見て下さい!彼等は説教の中に入って、彼等は救われるなど全ての事を言います。「世はその通りに続ける」彼等は言うのです。しかしその時では、もう遅すぎるのです。
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機会があるうちに、私の兄弟、あなた方に機会があるうちに、私の姉妹、神の御国に入りなさい。他の物に入る必要はありません、ただ神の御言葉単純に信じるだけです。彼はその御言葉です。「主イエス様、私は神の御言葉の鏡の中で今自分自身を見ています。オーどれ程かけ離れているでしょう。しかし親愛なる神様、ここで今晩、この月曜日の朝、ここカリフォルニアのサンベルナルディの子の会衆の中でこれが私の持っている全てです、主よ、しかし私はそれを全てあなたに差し出します。このままで受け取ってくださいますか、主よ?十字架へ逃げさせていただけますか?メッセンジャーを見る事さえしました。時が分かります、ソドムから出る事も分かります。印も見ます。アブラハムのグループが光を受け入れているのが分かります。その表れが見えます、イエス様が再び我々の中で表れておられるのです。あなたが約束された全ての事が見えるのです。なりすましを見ています、あなたが言われたことが分かります、「モーゼの日のように、このヤンネとヤンブルがなりすましのように来て、今もちょうど同じようにここにいるのです。
111
彼等は御言葉を通してモーゼに従えませんでしたそして、荒野に行く子供達とは一緒になれませんでした、彼等はエジプトに関係していたからです。彼等にはそれは出来ませんでした。彼がしたのと同じ業はできましたが。しかし彼等の愚かさがあらわれていたのです。そして聖書がこういっています。「主がこう言われる」それは終わりの日には再び起こるのです。
そしてあなた自身の目でそれを見ることになります、もしあなたが霊的ならばです。それを説明する事は出来ません。それを説明する必要がないのです。「私の羊は私の声に聴き従う」今主に行きましょう、我々にまだ機会があるうちに。そうされますか?
112
聖霊のバプテスマが必要ならば、再敬虔が必要ならば、新しい命が必要ならば、あなたの牧師は否定しません、それゆえにあなたを愛します。あなた自身を完全に神に委ねて下さい、我々がここにいるうちに。それは難しくて厳しくおかしく感じるのは分かります。意地悪になってしているのではないのです、正直だからです。あなた方を愛しているからそうしているのです、そして神を愛していて、あなた方を助けたいからです。本当にそれだけなのです、友よ、心から、全信仰によって、私のメッセージは神から来ると信じています。それは何年間もの間にあなた方に証明してきました。
さて聴いて下さい。今晩全てご自身の持っている万尾を必要な物も捧げて下さい。心から委ねた心で本当に、ただ立ち上がり神に手を挙げるならば、そして、「親愛なる神様、私はここに居ります。私を受け入れて下さい。主よ。自分自身の思いや自分自身の解き明かしを使う事は申しません。あなたの言葉は私は「聖く」なければならないと言っています。生まれ変わらなければならないと、御霊に満たされなければならないと、そしてその時御霊が全ての真理に私を導くであろうと。親愛なる神様ここに私はいます、導いて下さい」そこまでしますか?そうするならば、手を挙げて下さいそして、「それをします。それをします」と言ってください。
113
それから、全員立ち上がってください。
何の願いもなくただ私が、
しかしあなたの血は私の為に流された、
そしてあなたが私にあなたの下に来るようにと
神の子羊(唯一の神の扉)私は来ます!
(さて、あなたの全ての仕事、その他諸々、疲れなど、
今死ぬとしたらどうでしょうか?)
ただこのままの私であなたを受け入れます、
許し、清め、解放を歓迎
します。
なぜならば 私は、、
(この説に手を挙げられますか?)
あなたの約束を信じます。
神の子羊、 私は行きます。!
さて、オルガン弾きが引き続き弾き続けて
我々一人一人は...
114
若いティーンたち、このやくざのように街に出て通りに行きたいと思いますか?
姉妹、髪を短くしたいですか?ナザレ人に神が長い髪を持つと言う栄誉を下さっている時に?彼女が髪を切るのは恥なのです。」これらの小さなスカ―トや体を見せるような不倫理的なドレスを着ますか?皆あなたと姦淫を彼等の心におかさせるようになるのです。その様にするならばです。女性達、化粧をするとしたら聖書で化粧をしたのは一つしかない事を知っていますか?そして神は彼女を犬に食べさせました。イザベル、その名前は彼女の時代以来忌み嫌われてきましたと言うのはその彼女の行動の故です。預言者エリアは彼女を呪い、その行動を呪って呼び出したのです。バプテスマのヨハネがへロディアにしたことを知っていますか?世的なハリウッドのようになりたくないですね。「もし世や世の物を愛するならば、神の愛はあなたの内にはない」のです。
115
兄弟、聖職者の人達、友達、、、どうか私はあなた方の兄弟であることを分ってください。あなた方は自分自身やご自身の教会のメンバー達をある教会(メソジスト、バプテストやほかの何であれ)と関係させたいのですか、その宗派にしがみつきたいのですかというのはあなたのお母さんやおじいさんがそこに属していたからですか?彼女は何かから出て来てそれの中に入っていくのです。その時代の光の中にです、ノアの時の様に。これは又別の時代なのです。
あなた方は、「えーっと、私は、、その。。」
今はペンテコステ派の時代ではありません。ペンテコステの時代は過去なのです。もう植わったのです、これは収穫の時ですね。そして収穫はその粒なのです、その水は注がれたのです、その粒は実っているのです。その粒を探しに行きましょう、親愛なる兄弟達。私の言う事を聞き信じて下さい。もし私が神の僕だと信じるならば、皆謙虚に頭を垂れて祈りを捧げましょう。「このままの私を神様、お使いください」
そして、兄弟姉妹の皆さん。今晩私自身も祭壇に捧げます。神様、私を練り、変えて下さい。何かを行ってください、神様、私をあなたのようにしてください。
ここに立って人々を砕くこの様な事が簡単だと思いますか?それは難しいのです。でもそれをしないとしたら、神からの怒りが私に来るのです。
116
親愛なる神様、この会衆は彼等の頭と心を垂れてこのここでこの聖書の学びを閉めると言う謹厳な時のいて、聖霊を指定しこの国を前後左右にゆすり、大いなるリバイバルとその導き、何かがそれに続かなければなりません。
そしてこの7人のむつ海はアリゾナの山の後ろから山頂に来ていました、それは国中にある雑誌にさえ乗りました。イエス様ご自身が空に居られて見下げておられたのですそして、「黙示録10:7にある、7人目の御使いのメッセージ、これらの封印が解かれる時神の奥義が知らされる」改革者たちはそれを得る程長く行きませんでした。そしてここでこの7つ目の封印がこの日に開かれました。そしてこれらの指定されて起こる前に語られていた大いなる印や奇跡が起こりましたそしてあなたは一度も失敗されませんでした全てあなたが語られたことをされてきました。
117
親愛なる神様、イエスキリストが我々の中にいる事を認識しています。我々は彼がここに居られるのが分かります。今晩ここに居られます。目に目ない神が我々とここに居られ彼の御言葉で約束された全てを確証されています。あなたが経ちそれらを証明されたのです、それは初めからなりすましがそこに来る前から、主よ、その競争の中に入っておられたのです。あなたがそれを見せられて証明され、預言されはっきりとそれが起こる方法を語られました。そしてその様に起こっていることが分かります。そして父なる、神様、我々はそれがひとであることは不可能だと分かっていますそれは神でなければなりません。そして分かっているのは、あなたが今晩ここに居られることと
我々の罪を許されている事です。
親愛なる神様、あなたは我々の病をいやし、今、罪を許して下さっています、主よ、我々はあるべきクリスチャンになっていませんが、完全なる福音の男女になる事を告白すべきでありそしてここで我々は宗派の者どものようにならないようにしたいのです。どうか助けて下さい、親愛なる神様、我々を取りあなたの聖霊によってゆすってください。そしてもし何かあなたの様でない何かがあるならばそれを取り去って下さい、主よ。そして神の聖い言葉の上で我々の足元に植えて下さいそして聖霊が我々の心を焼き不信仰やこの時代の眠気から覚ましてください。オー我々自身が立ち上がりゆすられるようにしてください。受け入れて下さい。神様。清めて下さい。作り変えて下さい。神様。受け入れて下さい!
118
もしここで今晩、彼等の心にその種(粒)神自身の細胞を持っている物が世の初めから定められている者がいるならば、分かっている様に主よ、彼等は、この時代にこれを聞くように定められているのです。だから、祈ります、神様、その魂を充満させ、そして彼等に聖霊による新しいバプテスマを与え、喜びと幸せによって彼等の内に送り出してください。
主なる神様、私は彼等をあなたに捧げます。彼等が誰だかは知りませんが、あなたはご存知です。私はあなたの言葉を伝え説教する事にのみ責任があります、主よあなたが明かされたからです。それ以外の事はあなたの責任であり種がどこに置かれているかもです。私はそれを蒔いただけなのです。主なる神様、それが良き、豊かな地に今晩落ちたように祈ります。それを多くの人が見ますように主よ、そしてこの終わりの時に輝くクリスチャンとして立ち上がり、これから来ようとしている大いなることを期待しているのです、来たりませ。
どうか受け入れて下さい。主よ。あなたはあなたの教会を連れて行かれます、あなたの花よ雨そして彼女を家に連れていかれるのです。我々はそれを準備しているだけです。主イエス様来たりませ。全てをあなたに捧げます、イエスキリストの御名によって、その結果の為に。アーメン。
彼を愛す。 彼を愛す。
何故なら初めに私を愛して下さり、
カルバリーの丘で私の救いの為に
支払ってくださった。
119
彼を愛していますか?さて、そうならばお互いに愛し合わなければなりません。再び歌う時に握手をしましょう。
彼を愛す、 彼を愛す、
初めに私を愛して下さり、
救いをカルバリーで
買ってくださったから、
さて、彼に賛美を捧げましょう。その曲を
何人が知っていますか?
彼を賛美しよう。 彼を賛美する。
罪びとの為に死なれた子羊を
賛美しよう。彼に栄光、すべての人々。
彼の血は全てのシミを
洗い流された。
さてこれを歌いましょう。
彼を賛美しよう。 彼を賛美する。
罪びとの為に死なれた子羊を
賛美しよう。彼に栄光、すべての人々。
彼の血は全てのシミを
洗い流された。
綺麗に洗われたと感じませんか?手を挙げて腔言ってください。「気分を良くしてくれた」兄弟。この様な古い曲が好きです。あなたはどうですか?心に染み入りますね。
彼を賛美しよう。 彼を賛美する。
罪びとの為に死なれた子羊を
賛美しよう。彼に栄光、すべての人々。
彼の血は全てのシミを
洗い流された。
120
さて手を今あげて、ここにいる皆が神を賛美しましょう。
主なるイエス様、感謝します。あなたを誉めます。主よ。我々は呼び出されたもの達、バビロンを離れた者達の為にあなたを賛美します。あなたの御子イエスキリストの血を感謝します。あなたがこの時に我々を清めて下さった事であなたを感謝します。我々の街が居や愚かさを許して下さるように求めます。我々は闇の中をさまよっていました。オー神様、立ち上がり輝けるようにしてください、夕暮れの光の中を歩めるようにそしてその木の実となり夕暮れの光によって出てこられますように。受け入れて下さい。親愛なる神様。我々自身の全てをあなたにイエスキリストの御名によって委ねます。頭を垂れ続けて下さい、牧師達に戻します。