そうあるべき物事

  • 伝道者:ウィリアム・ブランハム
  • リアルト カリフォルニア州、アメリカ合衆国
  • 録音番号:65-1205
  • 年:1965
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ブーン兄弟と会衆の皆さん、サンバディーノへ戻って来れたのは間違いなく素晴らしい特権です。この場所にはその素晴らしい思い出の日々があります。そしてここへの訪問がまだ生きる影響があり間違いなく主が我々を何年か前に導いて下さったことがどれ程良い事だったかを聞く事を感謝しています。
私はそこの駐車場に座っていました、ちょうどいま、そこで行われた行事の一つを思い出そうとしています。アイザックサン夫人はフィンランドで私の通訳者で彼女がそこにいました、私が去ろうとしていた時に車に来られました。そして言われたのです「あなたはフィンランドの声」です。そして私はもしアイザックサン夫人がこの辺りに住んでいたらと思っていたのです。ここに今晩いらっしゃるかは分かりませんーメイアイザックサン夫人?フィンランドの方です
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そしてもう一つの傑出した思い出は、あるレストランでの小さなウェイトレスの事でした、私はどこか近くで食事をしていました、それはアントレスホテルだったと思います。それはちょうど今だったと思います。そしてその小さな女性は、、、彼女と祈っていました。彼女は素敵な小さな女性でしたが、クリスチャンではありませんでした。私は彼女を集会に招待しました。そして彼女は赤ちゃんが死んでしまった事があり彼女のご主人とは別れてしまっていたと思います。そして私達は祈って彼女の夫と上手く戻れるようにあるいはともに上手く行くようにと祈りました。そしてもしその小さな女性がここにいたらと思っています。
そしてその時他の事が怒っていました、そこには小さな赤ちゃんをどこかから(一日運転してかかるところ)から連れてきたのですその赤ちゃんは神ていて、そのお母さんの腕に抱かれていたのですそしてその命を吹き返したのでした。その人はいますか?そしてこの方向から来たと信じています、それはここの上でした。そしてその小さなお母さんは一晩中運電子てきたのですそしてそのお父さんもでした。そしてその小さなお母さんは、そこで悲しそうに彼等の死んでしまっている赤ちゃんを抱いて座っていましたそして思ったのです、「何という信仰!もし私が世界最大の偽善者だとしても、神はその母の信仰に栄誉を下さるのです。」小さな赤ちゃんを私の手に抱いて、祈ると、暖かさをえて動き始めその小さな芽が開いたのです。私はお母さんに赤ちゃんを返しました。そして彼等はどこから来たのですがペンテコステではないと思います、彼等はどこかの教会から来たと信じています、クリスチャンだったかどうかさえ分かりません。彼らに尋ねはしなかったのです。ただ小さな赤ちゃんに命が戻ったことを見て凄く嬉しくなったのは間違いがないのです。
それ以来、ブーン兄弟は、川の深い水の中に行きましたが、我々は同じ神につまり昨日も今日もいつまでも変わらない方に今だ仕え続けているのです。
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さて、周りを見渡すとリロイコップ兄弟がここに座っているのが見えます。長い間彼に会っていなかったのでここでは初めてです。ポール、その通りです。リロイはあなたのお父さんでした、そうですね。ああ何という事、ロシア、、さて、この素晴らしい兵士がもしそこにいたと知っているならば、彼はビジネスの王です。さて私は間違いなくここにいてこの若い説教師がここに我々がいる間にした御仕事において霊感されたという事を言ってくれたのを聞いてうれしく思っています。そして今信頼しているのは、私達は、人々がここに立っているので長くなりたくないと思っています。そしてそれらの素晴らしい癒しの礼拝についても覚えています。
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さて、この近隣で癒しのキャンペーンをリロイジェンキンス兄弟が開いていると理解しています。それは正しいと信じています。さてとても感謝していて主が彼を祝福し素晴らしい礼拝を与えて下さっていると信頼しています。
というのは、私は本当に今晩この様な教会に入る事が出来て栄誉に感じていたのです。私はいつも大きな会堂にいるよりも教会にいる方がいつも気分が良いのです。さて、別に大きな会堂に反対しているわけではありません。でもご存知のように、それは迷信かもしれませんが、あるいは私には真理のようにみえるのです。分かりますか、彼等やあなたがこれらの会堂では試合やらレスリングやら寸劇など、その他何でも行われていて悪い霊がその場所にいる可能性がある様にみえるのです。さて、まあそれは迷信のように感じるかもしれませんがそうではないのです。しかし教会に入る時、一般的に普通、間違いなく霊的な会衆なのです、ある意味より自由があると感じられるのです特にここの様な場所ではです。それは何か、そこに神のご臨在がある様にそれは違うように感じるのです。その建物にどの様な効果があるかは分かりませんが、それは人々が集まる場所なのです。もちろんその同じ人々は別の場所にもいますがそれは悪い物のいた場所になるのです。多分、私がその様に考えているのです、しかしながら、今晩はここにいられてとても幸せです。
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そして今、あまり長い間皆さんをとどめたくないのですと言うのは立っている会衆がいるからです。そして我々は明日の夜、ここの別の場所にいる予定です。それがどこになるかさえ今は分かりません。それはここの近くです、明日の夜の礼拝の集まる場所はオレンジショー会堂になる予定です。これはビジネスマン(全福音ビジネスマンのグループ)の為のツアーで話すのですそれは世界中で彼らの為に話すと言う特権を持っているからです。そしてそこにはとても近しい友達が私達をここに招待してくれましたそして我あれは今晩の集まりにいられることをとても感謝しています。
さて、聖書を開く前に、今、皆さんこの状態で肉体的に力がある皆さんは開いて下さいしかし、それには聖霊が私達の為に御言葉を開いてくれる必要があるのです、聖句を我々の悟りを平井て明らかにしていただくのです。私は聖書を信じています。それが神の言葉だと信じています。そして地球も地上の人々もいつかこの御言葉によって裁かれると信じています。今、それはある意味奇妙に見えるかもしれません。さて、それには異なる多くのアイデアがあるからです。
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私はとても忠実なカトリックの友人としばらく前に話していましたそして彼は、「神は世をカトリック教会によって裁くであろう」と言ったのです。もしそうならば、どのカトリック教会ですか?分かりますね?もし神がメソジストによってあるいはバプテスト?分かりますか?そしてももし彼が一つによって裁かれるとしたら他は失われるのです。さて、そこにはあまりにも多くの混乱があります。しかし我々は本当の声明を見つける必要があります。そして聖書は、神は世をイエスキリストによって裁くと言っています、そして彼こそが御言葉なのです。ヨハネの1章には、「初めに言葉があった、言葉は神と共にあった、言葉は神であった、そして言葉は肉体を取って我々と共に住まわれた。」とありそしてへブル13:8では、「イエスキリストは昨日も今日もいつまでも変わる事がない」とあります。そして私はそれが真理だと信じています。
そして私は、それを信じているのです。
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初めから、神は無限の神であられ、神は有限であるか無限であるかどちらかと言えばそしてむしろ私達は有限なのです。神の思いは我々の小さな限界のある思いでは大きすぎて彼の偉大さ無限の知恵を理解する事は出来ません。しかしそれ故、彼は聖句の中で言われている特定の事を聞くとある意味我々にはとても奇妙に見えるかもしれませんがそれは起こらなければならない事なのです。私は神の御言葉がなされるようになると信じています、だから、私達の小さな限界のある思いでは神の大きな思いを解き明かす事は出来ない事をご存知だったのです、神ご自身が神ご自身の言葉を解き明かされるのです。神には通訳者や解き明かしをする人間は必要ないのです。その時代の為に与えられ立証されたご自身の言葉を解き明かされるのです。
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私は初めから神を信じていますーノアがその時代の言葉となったのですそれが彼のメッセージだったのです。さて、それに伴いその後モーゼが来ました。さて、今、モーゼはノアの言葉を取る音は出来ませんでした。彼はエジプトに船を作ってナイル川に浮かべて約束の地に行くという事は出来なかったのです。彼のメッセージはノアの時代には上手く行かなかったのです、それは神の御言葉の一部はモーゼによって立証されていた真理だったからです。又イエスもモーゼの言葉を持つことは出来ませんでした。そしてルターはカトリック教会の言葉を維持する事は出来なかったのです。ウェズリーもルターの言葉を維持する事は出来ませんでした。そしてペンテコステ派も彼等はメソジストの言葉を取る事は出来ませんでした。分かりますね、教会は各時代において成長しているのです、ここにその為の聖句が分け与えられているのです。そして神は聖霊を通して彼の御言葉が表れることにより明らかになりそれは神ご自身が指定され、それがや拘束されたその時代に起こる様にもたらされているのです。
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イエス様は、「もし私を信じないならば、私がした業を信じるがよい」と言われました、彼等は彼が誰であったかを言い表したのです、分かりますね?もし誰かがその聖句を知っっていたならば、さて、彼は可笑しな形で来られました、凄く奇妙な、人々は彼を信じたがりませんでしたと言うのは、彼は火と自信が神になったからでした。そして彼は人間の形を取った神だったのです。神はキリストの中に居られて世と仲裁をしに来られたのです、誰もこれらの言葉を神が共におられないなら上手く働かせることなど出来ません、ニコデモが言った様に、サンヒドリンはそれを信じたのです。
さて、我々はその御言葉を知っているのです、もし彼らがその御言葉を知っていたならば、彼は言いました、「もしあなた方がモーゼを知っていると言うならば、私を知っていたはずなのだ、なぜならばモーゼは私について書いていたからだ」そしてもし彼らば聖句に戻ってみていたならば、目地アがどのようにするかが分かったはずなのですそして彼自身が指定されてきたことが分かったはずなのです、キリストを通して神が彼自身が救い主となる全ての約束を果たされたのです、彼はそれをなさったのです。イエス様ご自身がその御言葉であられたのです、その時代の為の御言葉が生きる様にされたのでした。
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そして私は同じ言葉、こんにち私達の生きている時代にも同じ事になると信じています。神が彼がされたのを指定されている言葉をお持ちなのです。
さて、我々はこれは救いの日だと知っています、神が世から呼び出された神がおられた場所だと、罪の命から神への奉仕の命になると。そしてその時代に、神は彼の御霊を上から大いなる印と奇跡がこの時代の御仕事の為に注ぎ込まれたのでした。これは前の雨も後の雨も同時に降った時の事です。そして我々はそれは大きな印や奇跡がある事を知っているのです、多くの偉大な宗派はそのことを信じていません。しかし私はここのあなた方の牧師の様な若い人々にその霊感が与えられ扉が開かれたことを感謝しています。というのは、彼らのおかげで、、私は年を取り始めているので、私の日々は数えられ始めていますそしてこれらの若い人達がこのメッセージを取る事が出来主の来られるときにもし主が私の世代の内に戻られなかったらまき続けてくれるからです。彼が戻られることを期待しています、毎日その日を待っていますそして気を付けてその時の為に自分自身を守り準備してきているのです。
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さて彼の本を読む前に頭を垂れて彼に話しかけましょう。天のお父様、我々はあなたが今晩も生きておられこの素晴らしい街に戻れるようにしてくださったことを感謝しています。このパノラマのように見える山々のある場所に座り雪やオレンジの花が同時に咲いているのを見上げてこの地上の偉大な美しさの中に住まわせて下さっている事を感じています。そしてこの地上で人ば我々自身を恥じる様にさせようとしている人々を見るにつけ、父よ、我々はここに今晩居て我々が神様あなたがされたそしてそれ以上のより素晴らしいものがある事を見せる努力を先に進めようとしているのです。我々が今晩あなたを見上げ、あなたの御言葉を開いてそれを読むにあたって人々があなたに向いますように、父よ、どうか聖霊が啓示を通してそれを我々に顕かにしてくださいますように。イエスの聖名によってお祈りします。アーメン。
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さて、多分聖句をその説教師と共に読むためにノートを取りたいでしょう、普段にそれを読みますから。そして何年も前はそれらの物をかき取っておく必要もありませんでしたが、少し年を取ってきたのでそれ以来そうするようになりました。さて、25年前に25歳でした。それはかなり悪いようですね。でも私はまだ彼が呼ばれるまで御言葉の中で私がするべき全ての事にしがみつこう
としています。
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さて、ヨハネ書の14章を開きましょう、非常によく
知っている聖句を今晩読みこれを御心としてテキストとしてお話ししていきます。ほとんど全員がこれを知っています。それは多くの時に葬式の礼拝で使ってきたようです。もしそのような時があった時、葬式の礼拝でそれを話したいのです、それはこの世になる事です。それはこの世で死に再び生まれる様にしてもらうのです。ヨハネ14:1から7節までです、私はここに印をつけていたと思います。
「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。
わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。
そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。
わたしがどこへ行くのか、その道はあなたがたにわかっている」。
トマスはイエスに言った、「主よ、どこへおいでになるのか、わたしたちにはわかりません。どうしてその道がわかるでしょう」。
イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。
もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである」。
主が彼の御言葉を読む事によって再び我々が生きている時代を参照しその教会への学びを話している間に祝福を加えられますように。
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昨晩、私はアリゾナのユマにいました、それは私が今住んでいる場所です、ここに前に来た時私はインディアナのジェファソンビルに住んでいました。そして今、私は数年前にそこに行くように神が下さった幻によってアリゾナに行きました。そして我々はそれ以来そこに住んでいます。そこには教会は持っていません。グリーン兄弟、ここにいる我々の兄弟が一緒にいて、アッセンブリーオブゴッド教会の一つの場所にタバナクルを設営しました。ダウンタウンのアッセンブリーと統合して又思うに彼等は皆ブロック兄弟とギルモア兄弟と一緒に行ってこの教会が開いたままにして又テキサスのペアリーグリーン兄弟が移動してその場所を取り又我々と関連を結んでいます。我々はグリーン兄弟が閉められていたこの教会を再度開けて下さったことを知り嬉しく思います。
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そして昨晩、クリスチャンビジネスマンたちの為にユマで「携挙」について話していました。さて、それはバンケットで話すには奇妙な議題だったように感じましたがほとんど全員がクリスチャンでした。そしてこれらのキャンペーンの内でこれや教会と同様の形で行えたのです。私は「さて何人がクリスチャンですか?」という事さえできました。多分ほとんどの手が上がっていました。あなた方はクリスチャンです。そしてもし我々がクリスチャンならば、私達はある意味先にそれが分かるべきだと思います。それを想像する必要さえないのです、我々の目的地がどこになるかを知っているべきなのです。
そして私が今晩それについて話したいのです。そしてその議題は「そうあるべき事」となります。そして今昨晩話した「携挙」についても今晩この議題上で話したいのです、それは昨晩のメッセージと結びついていくからです。さて、携挙がある様になります、我々はそのことを知っています。それは将来的な物です。
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さて、イエス様はここで話しているのは、先に行って私達の為に場所を準備するという事です。「心を騒がせないがよい」さて、彼はユダヤ人に対して話していました。彼は言いました。「今、あなた方は神を信じている、私も信じなさい。神を信じていたように私を信じなさいなぜならば私は神の御子であるから」と分かりますね?そして神、つまり、「私と父は火等である、私の父は私の中に住まわれている。そして私がしていることを見た、それは私ではなく私の内に住まわれている父がされた事である、父の業である。神は彼と世とを和解させるためにキリストの中におられたのでした。
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時代を通して偉大な超自然的な神がいる事を信じる様に教えられてきたユダヤ人には簡単でした。しかし神が降りて来て御子である人の中にあらわれるという事を考える事、イエスキリストー神が肉体を取ってそこに住まわれるという事を理解するのはかなり厳しい事でした。しかし彼は言いました、「さて、あなた方は神を信じてきました、私をも信じなさい。父の家には多くの住まいがある、あなた方の為に行って整えておこう」イエス様の人生はこの地上では終わりが決まっていたのです。彼は人々にそれを証明するのを見せたのです、彼が肉体を取ったエホバ自身であり、聖書を参照する通り、大きな印や奇跡を行ったのでした。そして彼は神ご自身だったことを証明しました。さて、彼は言われました、「私が死ぬのを見る時、ある目的はそこで終わりを告げる。そして私はここを離れてあなた方の為に私のいる場所にいられるように準備をしに行く。」イエス様はそれ故、彼の弟子たちに、この命は死によっては終わらないと告げられたのです。
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さて、これが葬式のテキストだとしましょう、覚えて下さい、死は我々の前に置かれていますそして我々はこの建物の中で今晩この肉体が生きて出られるかどうかは分からないのです。それははっきりしていません。5分後に若くて健康的な若い人々がこの建物中で棺桶の中にいる可能性が全くないとは言えないのです。それは事実なのです。そして又、今から5分後に、我々が皆、栄光の内にいるようになる可能性もあります。ただ知らないだけなのです。それは神の御手の内にあるのです。イエス様は彼自身がそれがいつになるのか知らないただ父だけが知っておられると言われました。
さて、しかし彼が彼らに死んだ後にも命がある事を話しておられました。というのは、「私はその場所を準備しに行く」と言われたからです。そうなんです、彼らを受け入れるために、そこに在る事を見せられたのです(彼は彼等に話しておられました)この人生が終わった後に人生がある事を示されていたのです。そして我々皆が次に行くべく命があると言う事を知ることは素晴らしい慰めになるのです。そして年を取って聞くと、それはより実感になるのです。あなたの人生が終わりかけて行く日々を数えるようになると、より近く閉じ初めて、より大きな事に準備をするのです。それは同じ人生が別の世界、別の場所で続くからなのです。
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あなたの誕生はもともと定められていました。思うに、あなたもそれを信じていますよね。ここにいる皆さんは我々の誕生はもともと定められていたと知っています。あなたがここにいるという事実は神話やら思いの中に決まっていただけではないのを知っていますか?すべては神によって世が始まる前からあなたがここにいるようになることもあらかじめ定められていたのです。その無限の神は全てをご存知でした、、無限になるには、神は全てのノミが世界中に居て何回彼等がまばたきをするかさえもご存知であられるのです。それこそが全知全能無限の神なのです。分かりますよね?我々の小さな頭ではその無限の意味を深く知ることなど出来ません。その無限の神様。彼は全ての事をご存知です、できないことなど何もないのです。
もし我々が神の御言葉を知っているならば、我あれはどこに我々が生きているかを知っているのです。我々が生きている時代すら知ることが出来るのです。何が起こるかすら知っています。何が起こったかも分かります。そして神の書というのはイエスキリストの啓示なのです。彼の技は時代を通して黙示録の書に書かれていて、彼の約束は守られてきています。だから彼の約束の全ては真実なのです。神は確証されていない言葉を語る事は出来ないのです。彼が言われた事の全ては起るのです。  世の始まる前から、、、
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ある人々は彼等は「神は彼自身が繰り返される」と言いう時、創世記とまぜこぜにしているのです。いいえ、それはただあなたの誤解なのです。分かりますね、神は初めからおられたのです。彼は、「そこに在れ、そこに在れ、そこに在れ!と言われました。世は真っ暗で混沌としていました。彼が「光あれ」と言われたときでさえ、光がそこに在るまでに何百年もかかったかもしれません、しかし彼はそれを語られたのでそれは起こったのです。その方法しかないのです、そして彼は彼の言葉を語られました。その種は水の中に入ったのです。彼が血を乾かされたとき、その種は上がってきて、彼が言われたことが起こらなければならなったのです。
彼は、預言者を通して語られました、、、昨晩それについても話しました。我々はイザヤ書を使って話したした、彼は言われました、「処女が身ごもる」とそのような言葉を人が考えて言う事があるでしょうか。「処女が身ごもる」しかし預言者は神の反射鏡の様なものです。彼は自身の言葉を話すことは出来ないのです、彼が語る事は神の言葉である必要があったのです。彼はちょうど反射鏡の様なものでした。そして彼は神の口だったのです。そしてだから、彼は、「処女が身ごもる」と言ったのです。彼は多分それを理解できなかったのですが神が彼を通して勝たれたのですと言うのは神は彼は神の僕預言者を通して顕かにするまで何もしないと約束されたからです。そして彼がそれを言った時、それはそれが起こるちょうど800年前でしたがそれは起こったのです。
終に神の言葉が処女の子宮に響いた時彼女は身ごもりインマヌエルを産んだのでした。「6 ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。」(イザヤ書9:6参照)それはその通りでなければならなかったのです、神が彼の預言者の口を通して語られたからです。そして神の言葉は全て成就されなければならないのです、だからこそ我々はイエスが彼自身の人々を受け入れる場所を準備に行かれたことを知っているのです。今晩ここにいる人々が皆私達も鵜f組めてその一部である事を望んでいます。もしそうでなければ、神が道を作られ、条件を創られたのです、あなたはそうなりたいならその条件に含まれ事が出来ます、あなたは自由に決められるのです、好きな様に行動する事が出来ます。
しかし気が付いて下さい、今、この世はその時代は来ています、、、来ようとしているその世界があるのです。
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ここでのあなたの誕生と同様に。あなたは準備されていたのです、神はあなたがここに来ることを知っていました。そして今、あなたはあなたの漁師がしたことさえも知っています。、、さて人々は世代から世代にそれが来られたとは思っていませんが、そうなのです。
へブル書の中で確か7章だったと思います(パウロがそこにいて、それを書いたのが彼だったと信じています)アブラハムと共に起こった大きな出来事について話していました、彼はメルキセデクに王の虐殺から来て会い、アブラハムの腰に在った10分の一税をレビ人に払うように推奨されていたのです、彼の曽祖父になるにとがアブラハムでした。そして彼は神の言葉を守らない彼らの子供達に何世代も罪のある人々の所に尋ねて下さっています。
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分かりますね、あなた方は皆神によってあらかじめ計画されていたのです。何も神なしに起こる事は無いのです。神はそれについて全てをご存知です。それは全てあらかじめ全ての世界において今日今晩ここに至るまで計画されていたのです。ご存知でしたか?考えてみて下さい!ある時それはあなたなのです、(繰り返します)ある時あなたは父親の中にいました、あなたの父親の遺伝子の中にです。さて、彼はその時あなたの事は知りませんでした、あなたもその時は彼のことを知りませんでした。しかし分かる様に、母親の子宮の中に彼らが床に入ったことの結果また聖い結婚によって人としてあなたの父親に似せたものとして人となったのです。そしてそこには交わりがあったのです。
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さて、神の娘あるいは息子になる唯一の方法は。。。そうならなければならないので、あなたは永遠の命を持たなければなりません。そして永遠の命を持つ唯一の形は、神の命なのです。永遠の命の唯一の形は神だったからです。神の子になるのです、そして常にあなたは彼の内にいなければならなかったのです。あなたの人生の遺伝子、今晩の霊的な命は分子になる前でさえも父なる神の内に在ったのです。分かりますね?そして神の子として神の中に在るその命の遺伝子のあらわれ以外の何者でもないのがあなたなのです。さて、あなたはk実の御言葉によってあなたの内にあらわれこの時代に光をあてられたのです。あなたの中に神の命が顕されているのですと言うのはあなたは神の娘か息子であるからです。さて、私の言っていることが分かりますよね?そうですよね貴女はこの教会の中に今晩座っているというのは、神がこの国に表現されてこの人々にあらわされると言うのがあなたの仕事だからなのです、そしてあなたが関連している隣人たちもです。
あなたがどこに居ようと、神はあなたがここに来ることを知っていました、何故ならあなたは神の遺伝子あるいは属性を持っている一人だからなのです。そうでないわけはないのです。もし、あなたが永遠の命を持っているならば、そしてそれはいつも永遠の命なのです。そして神はこの世界が始まる前からここにあなたが来るのを知っておられたのです。そしてその御言葉、あるいは水、御言葉の水の浄めがある時、それはその中で表現されるのです。さてあなたは今父親と交わっています、そして神である方とまるで地上の父親と交わるのと同様にです。あなたはその王の市民なのです、いいえ市民ではなくあなたは子供なのです、もしあなたの中に永遠の命が宿っているならば、生きる神の娘、息子なのです。
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さて、そしてもしそうだったら、イエス様は神の完全な表れだったのです。彼は神の肉体的な顕れの完全成就でした、だから彼は地上に来られて肉体を取られたのです、ここであなたは彼の内にいるのです、何故なら彼は御言葉だからです。
初めに言葉があった、言葉は神と共にあった、言葉は神であった、
そして言葉は肉体を取られて我々の内に住まわれた。
御言葉は肉体を創られたのですだから、あなたは神と共に歩ん出来たのです。あなたは彼の中に居たのです、彼が地上におられたときにです。あなたは彼と共に苦しみ、彼と共にしに、共に埋葬されそして今、あなたは神と共に蘇ったのです。そして天の場所に座っておられ既に蘇られた神の属性を表しているのです、新しい命に蘇られてキリストイエスとして天に座っておられる方です。今教会でそれは大きな意味を持ちます。それは我々にとって大きな意味があります、つまり我々がキリストイエスにおける場所が分かるわけですから。
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さて、もし我々が神の属性を持っているならば、信条によって生きることは出来ません、宗派によって生きることは出来ないのです、御言葉によって生きなければなりませんというのは、花嫁は花婿の一部なっているからです、妻が夫の一部になるのと同様ですだから、我々は御言葉ー花嫁にならなければならないのです。そして御言葉―花嫁とは何でしょうか?この時代における花嫁の現われです。信条や宗派でなないのです、生きる神の現われなのです、神の属性を生きる物であり、神の属性を花嫁の形で世にあらわすものとなるのです、今生きているこの時代にあらわされるのです。
マルチンルターは我々が表現している属性を表すことが出来ませんでしたと言うのは、それは初めから、その復活つまりは、地に落ちた麦の一粒の様なものだからです。
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さて、もう一度これを見て行きます。我々は多分その本を読んだことがあります、ドイツ人は私を狂信者中の狂信者だと言って馬鹿にします。彼は多分全て神と呼ばれるものに絶対的に敵対していました神さえも馬鹿にするほどでした。「神は公開を開くことが出来た」と言うと、そして「彼の人々は神のお腹を渡って手を取って暗黒時代を通して、これらの人は皆死に又苦しみ小さな子供達さえもライオンに食べられていました。
分かる様に、すべてのプログラムで教会は神からの黙示によってたてられていたのです。イエス様はマタイ書の16章で言われました、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。」それは何だったのでしょうか、彼が誰であるかという黙示だったのです。「この岩の上に私の教会を建てよう、黄泉の力さえもそれに打ち勝つことは出来ない。この時代の為のイエスキリストの黙示は他の時代の物ではないのです、彼が今あるべき形になるには。聖書はその花嫁の中に完全な身の丈となって顕れると表現されていますですから、もしキリストの麦の粒がその地に押したならば、その花嫁は暗黒時代にその地に落ちていなければなりませんでした。全ての麦の粒は地に落ちて死ななければなら名のですそうでなければそれ自身が出来る事は無いのです、再生もしません。そして偉大な教会をペンテコステ(五旬節)の時代に聖霊を送られることによって殉教者にならなければならなかったのですそして土の中に入られたのです暗黒時代に地に在ったのです、そしてルターの時代に出て来てこの終わりの時にイエスキリストの花嫁の完全な身の丈としてあらわれるのです。他には方法はないのです。
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それゆえ、携挙に花嫁が神にあらかじめ定められて全て来るようになるのです。全てが支えられているのです。初めから、彼実は全ての人を知っていたのです、すべての場所にいる全てについてご存知なのです。それは全てあらかじめ定められていました。神はそれがここにある様になることを知っていて又彼はそこに行くようになる時になる方法を作られていたのでした。彼は我々の為に場所を準備されるために行かれたのでしたそして我々がそこに着いた時には今晩準備されたいたのと同様に全て準備されているようになるのです。この時代が準備されていたようにです。
神の偉大なる先見の明がこれら全ての事を告げているのです。
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彼は全知全能なので偏在されるのです、偏在されるから全知全能なのです。それ故、彼の先見の明により、、さて、彼は地上全体に風を送る事は出来ません、何故なら存在されているからです。彼は、作り話ではないからなのです。彼は、実際に存在されているのです。彼は住んでいるのです。家の中にさえ住んでいるのです。彼は天と呼ばれる場所に居られるのです、そしてそれ故彼の偏在であり全知全能だから全ての事を知っておられるのですから彼は偏在されているのですと言うのは彼は全てをご存知なのです。
さて、あなたは誕生から成長しました、あなたが生まれた時、この地上にあらわれた時、神はあなたが地上にいるようになることを知っていました、そしてあなたは生まれた時から成熟するように成長してきました。若い女性の中にはものごおてゃ奇妙に見えたかもしれません、あるいは男の子だった時子供として、さて、それは今とても真実に見えるのです。子供の時には理解できなかったのですが今、大人になって悟り始めているのですそしてすべてが正しく定められていたことを見出すのです。それは本当にあなたにとって何か大きな意味を持つことになります。
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つまりあなたの霊的な誕生の中に在るのです。あなたは小さな赤ちゃんだった時には何も理解はしていませんでした、あなたの命は祭壇に来た時にキリストに与えられていたのです。あなたはこんな奇妙な事をするのです。あなたはそんなことを何でしたのかと思っています。しかししばらく後、あなたが成熟した時、成熟したクリスチャンとして、そしてあなたがそれを悟るのです分かりますね?何か選ぶものがあるのです又、なぜそれをしなければならなかったかがわかるのです。あなたの霊的な誕生、、あるいは自然な誕生の形式はあなたの霊的さにあっているのです。それはあなたにあっていたのです。あなたが成長している中であなたの人生の中で全ての事が正しくふさわしくなったのですと言うのはその為にあなたは創られたのです。説教師がちょうど特定な議題を話していた時にちょうど祭壇にあなたが来たのでしたか?分かりますよね?神は世の初めからご存知だったのですよ。あなたにはそれをどうしてしたのかという事で不思議に見えたかもしれませんが、今羽分かりますよね。あなた方はなにが起こったかを知っていたのです。それはこの人生に凄くぴったりで又これから来る命にも又ぴったりなのです。この世そしてその命はあなたが成熟するにとれて上達したように見えます。あなたと共にあるものは全て正しく行くようにみえるのです。
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私はここに誰かが偶然に居合わせたとは信じていません。さて、考えてみて下さい、世にあなたが来た時全ての事はあなたの為にあらかじめ準備されていなければならなかったのです。もし神様がこれらの良い物を我々の為に準備する事が出来る方法を理解する事は出来ません、もし神様が我々を今この混乱状態に連れて来て、人生の良い事をここで我々の為にされていなかったら信頼する事は出来ません。又どれ程我々がこれから来ることについての準備を神い信頼する事が出来るのでしょうか、永遠の物事です。それは、、ある意味とても可笑しな感じだと言えます。
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そして天国は母が以前話していてくれていたような場所ではないと思います。教会はそこから育っていると信じています。考えることにそれは100年か200年前、、、には古い人達は死んだ人は皆天国に行ってハープを持っていて雲の上でハープを弾いていると考えていたという事があります。さて、彼等は天国という場所がある事は知っていましたが、彼等は、、、もしそうならば、我々と共に居るミュージシャンたちは皆それを持っているはずです。分かりますよね?でもそれはそんなような場所ではありません。そこではハープを弾くことは全くないのです。私は聖書がそんなことを教えているとは信じていません。しかしそれは7つの封印が解かれるか御言葉がこの時代に約束されたものが分かる成就の前にあった概念だったのです。その様に理解しています。
私が信じる天国はこれと同様に実際の場所で、神様がこの場所の中で我々の霊的成長を始められた場所と同様だと信じています。そして天国はこれと同様に本物であるのです、そこで雲の上に座って永遠にいる場所ではないのです。ただハープを弾いているだけではなく、本当にそこでやるべきことがありそこに住むのです。働くことになり、又楽しみ生きるのです、実際の永遠の命を生きる場補になるのです。天国、パラダイスに行くのです。アダムとエバが働いたのと同様に、そして行き、食べエデンの園で罪が入り込む前に楽しんでいたようにです、我々はそこで再び正しい道を行くようになるのです。その通りです。正しい場所に戻るのです。初めのアダムが罪によって我々をそこから引き出しました、二人目のアダムが義によってその場所に私達を戻してくださるのですー我々を義化し、そこに戻してくださるのです。
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今テープで義化のメッセージを聞いて居るあなた方に、私が言いたいのは、もしテープを取って聞いて居るならばそれを理解してほしいのです。ここでしばらく前に話しました。ここに来る前のあなたの地上の両親がどのような状態だったかを見て下さい、彼らがあなたがここに来ることを知る前、あなたが来るのを準備するために。その事を考えて下さい、あなたの地上の両親は天の両親の形式にすぎないのです。「もし我々が子供達に良い贈り物を与えることを知っているならば、天の父が彼の子供達に良い贈り物を下さる事をもっと知っているのではあるまいか」イエス様がそこの言葉を語っておられたのです。
分かりますね、彼等はあなたが来るのを準備していました。彼等は小さなベッドや服などを作っていました。彼等はあなたが生まれてくるために全てを準備していたのです。
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イエス様は我々がそこに行く為に準備をしに行かれました。
さて、気が付いて下さい。「私の父の家には多くの住まいがある」あるいは、私はそこに言葉を加えたり取り去ったりするつもりはありませんというのは、我々はそうすべきではないからです。黙示録22章で言っています。「この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。
また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる」加えるのではないのです。ただポイントをそこからはっきりさせたいのです。「私の父の家には多くの住まいがある」天国に行った時、我々は皆同じようになるとは信じていません。皆が同じようになるわけではないのです。皆がブロンドでもブルネットあるいは小さかったり全員が大きかったり全員が巨人になるわけではないと信じています。私は神は多種の神だと信じています。世界がそれを証明しています。彼は大きな山も小さな山も創られました。彼は平野も砂漠も創られました、異なるものを得ておられたのです何故ならその様にされたかたったからです。そして神は季節を作られました、夏、冬、春、秋。彼は四季を創られたのでした。それは主が多種の神であることを示しています。神は色々な形にあなた方を作られました。ある人達は、非常に偉そうで、ある人は本当に教義的で、他の人達は穏やかで、又親切です。そして神の御国にも全て異なるタイプの人々を見出すことになります。
分かりますね。
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アンデレによってペテロが裁かれているのを見てみましょう。アンデレは祈りの戦士でした、常ににひざまづいて祈っていました。そして使徒ペテロは火のついた説教師の一人でしたそしてその様にしていたのです。パウロはある意味より学士的でした、預言者あるいはそのような形で、
さて、モーゼは旧約聖書の初めの4書を書きました。残りは律法そして王そして詩篇などなど、そして誰か他の人が預言者達についてか買いました。しかしモーゼは律法を書いたのです、初めの4書、つまりは創世記、出エジプト記、レビ記、そして申命記です。そしてそれから、パウロは新約聖書を書きました。それは真実です。
マタイ、マルコ、ルカ、そしてヨハネでは何が起こったかの行動などが書かれていました。しかしパウロは律法と恵みを別々にしてその入るべき場所をはっきりさせました。彼は新約聖書の著者でした。彼は新約聖書を神の御言葉を順序正しくするために与えてくれた人でした。
今、気が付いて下さい、多くの住まい、、多くの種類の住まいです。
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多くの種類の丘、多くの種類の河川、 泉、湖のようにそれらはあなたが初めに来られたときにありましたと言うのは天の父の親切によってここにそれらは置かれたのです、何故ならある人達は山が好きで、ある人達は水が好きで、ある人達は砂漠が好きなのです。分かりますね、あなたが来るとき、彼はあなたの性質やどんなふうになるかをご存知で、それを楽しむことが出来る様にそれを作られていたのです。オーその素晴らしい父について考えています。彼はこの様に創られたのですから、、彼が山を作ってくださったことをよろこんでいます、私は山が好きですから。それはうれしい事なのです、他の人が、こういうのは我慢ならない、この様なものは殻にするべきだと言っている場所があります」さて、彼はそれを殻にしてくださいますそうすればそれを楽しむことが出来るのです。
さて、私は長い道を見られる平野が好きだと言うとします。さて、2つの異なる性質があります、両方とも我々はクリスチャンです。しかし父はあなたがここにいて全て事をあなたがここに来る前に準備されていたのです。アーメン!あなたが初めにここに来た時、彼はあなたがここに来るに合わせて準備されていたのです。神がなさったことを考えるとその素晴らしさを感じられませんか?
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さて、さて、しかしこれらは単に一時的な賜物の形にすぎません。さて、我々はモーゼが荒野の中に幕屋を建てたことを知っています、それを準備したのでした、彼は彼が天国で見たものと同じように全てを作ると言ったのです。さて、地上の物は永遠の者を表現する事しか出来ません。そしてもし今日我々が生きているこの地球が、我々が愛して楽しく生きて空気を吸いそして花やその他をめでているとしたら、もしここの物がただの表現だとしたら、死は永遠に向けてのただの表現にすぎないのです。木が引っ張られて苦しんでいき続けようとしているのを見る時、それは木は何かするべきことがある事を示しているのです。ここにいるある人が生きるのに苦しんでいるのを見る時、病院にいる人や病気で床について居る人や事故にあっている人や苦しんでいて、彼らの喉の所に死に至るヘビがいるようなとき、生きるために泣き叫んでいるというのはどういう意味なのでしょうか?どこにその場所があり、そのために苦しんだり叫んだりしない場所があるのです。それはただそういう事は無くなるのです。
さて、それらは我々への一時的な贈り物にすぎません、-これらの事ー永遠の物の為に対する単なる表現なのです。それがイエス様が来られて我々の永遠の命の為に準備しに行かれたのです。さて、それらは同じ種類のより偉大な事の表現なのです、何故ならこれらは同じ種類だからです。
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さて、覚えて下さい、聖書には「この我々の地上の住まいが壊されても、我々には既に待っている者がある」ちょうど小さな赤ちゃんが、その小さな筋肉はお母さんの中で曲がったりひねったりしているそして、、しかし、、、そして気が付いている様に、あなたは女性を取る事が出来るのです、もし彼女がとても臭い物であったならば、しかし彼女が母親になる時、赤ちゃんが生まれる直線ぐらいに、その女性には優しさが芽生えるのです。彼女の側に行ってみて下さい。いつもそこには何かがあるのです。より優しくなるのです。どうしてでしょうか?自然な体に小さな天使の霊が待っているからです。赤ちゃんが生まれるやいなや、命の息がそこに宿ります阻止t得神もそれに気をくれるのですそして生きる魂となるわけです。さて、この赤ちゃんが生まれたとして、霊的な体はそれを受けます。そして今、この身体が地上に降りて、赤感が生まれたようにそしてそこにはそれ自身に再び戻る霊が待っているのと同様に死なないからだがあるのです。何と素晴らしい事でしょう。我々は今、キリストイエスの中にいるのです。(アーメン)赤ちゃんたち、キリストにある赤ちゃん。神の子供達が我々の主イエスの再来に関して完全に開放されるのをそして我々を彼の中に受け入れるのを待っているのです、この死すべき体から死なない身体に入るのです。
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その似たもの、彼が来られるために表現された全ての事。ちょうどそのあなたにここで与えた体、、この身体を彼はまだ来ていない素晴らしい物を表現するためにだけ与えて下さったのです。もし地上の似たものを持っていて耐えたならば、我々は天的な物も持っているのです、それは来るべきものでこの中には何も悪い物はないのです。さて、今は悪い物を持っています、病気、死、悲しみなどです。
私はただここで最近にそれを話しました、(御言葉によって変えられる の中で)そのこの身体は悪い物を持っていますそしてすべて今我々が生きている現在の文明は悪魔からの物です。それを信じませんか?聖書がそう言っているのです。この世、すべての政府(我々はそれを信じたくはありません)しかし聖書がはっきりとタンジュンにその事を記しているのです、そのすべての政府、すべての地上の王国は悪魔によって所有され、悪魔によって支配されているのです。イエス様は、サタンに連れられて、この世の王国の全てを見せられました、それ以上何があるでしょう、そしてサタンは、それは彼のだと言ったのです、そしてイエスはそのことについて口論しませんでした。というのは彼はこの世の小さな神だからです。分かりますね?そしてサタンは言いました、「もし私に膝まづいて拝むならば、それらをお前に上げよう」と分かりますね、彼は犠牲もなしにイエス様にそれらをあげようとしたのです。分かりますね?それは神ご自身と交渉しようとしたのです。しかし世は罪を犯したのです、そして罪の報酬は死だったのですそして彼は死ななければなりませんでした。だから神は肉体を取ったのでしたそして彼がその報酬を支払うために死なれたのでした。戻されるものは何もありませんでした、それは印をつけられていませんでした。それは全く完全に自由に払われたのでした。全ての負債は払われたのです。それが主の物になっているのです。そして我々は神の御国の代表として今晩イエスキリストの名の上にここに集まっているのです、天的な場所にお座りなっておられる我々の王であられる方のです。
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さて、今我々が生きているこの世、その教育の中で、私はあなた方に証明したいのです、教育、科学、文明そしてすべてこれらの事で我々がとても楽しんでいる様に見える物は皆サタンの物でそしていずれ破壊されるのです。あなたは「ブラナム兄弟、文明もですか?」と言います。その通りなのです。この文明はサタンから来たものです。創世記4章がそれを証明します。カインの息子(分かりますね)がこの文明を初めて、都市を作ったのです、その細胞そしてその他諸々。そして文明は知識から来たものでしあt。知識は悪魔がエデンの園でエバに売った物でしたと言うのは彼女は神の戒めをやぶらせるためでした。だから世には文明がある様になります、しかしそれはこの様な文明ではありません。この文明の中で今、我々には病気、悲しみ、性欲、死、すべてこの文明にあるものは間違っているのです。しかし我々が行く事になる新しい文明にはこれらの物は何もなくなるのです。我々には科学が必要なくなります。科学というのはその元々の物に対しての変態化したものにすぎません。分かりますね?あなたは原子から粒子になっていたのです、あなたを爆発させるように、、、あなたが火薬を取る時、そしてそれが爆発すると何かを殺すことになります。車を取る時、そして地球からガソリンを取りそして地球からその物資を得てそれを燃やすのです、そしてそれが降っていくのです、その道を行くとき時速90マイルで走って、誰かを殺すのです。分かりますね?オー何てナーバスな事、握りしめて、そして急いでいるのです、我々は押したり取ったりしなければならなかった、、オー分かった、それは皆悪魔なのです。神の御国には児童やや科学的な物は何もありません。いいえ!それには何も教育など全くないのです。それはこうなるための神の究極な教育になるだけです。教育、文明そしてこれら全ての者はサタンから来るのです。 さて、もしあなたが、「ブラナム兄弟、どうしてそれを読むのですか?というかもしれません
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さて、ただどうして私は今洋服を着ているのでしょうか?文明の中でその様になり、彼らには何も洋服が必要ないのです彼等は初め、ベールがかけられていたのです。彼等は服を着ている理由はありませんでした、彼等が裸であることをしらなかったからです。さて、あなた方はそれを見つけています、さて、我々は裸なのを知っているのです、ここで罪を持っているのです、そして我々は服を着なければならなかったのです。しかしそれは初めからではありませんでした、そこには罪はなかったからです。分かりますね?
さて、文明の道にも同じことがあります。皆一緒に、我々は読み、書き、これをしているのですが、それにしっくりする事はあり得なかったのです、あなたの神(小さい)を共産主義の神にする事は無いですね?それはイエスキリストではないのです。
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信仰によるイエスキリストは科学的に証明は出来ないですがそれはあなたが信じる事なのです。
今晩科学的に証明する事は出来ません、この建物の中には神がいます、又私は彼がここにいる事を知っています私の信仰がそれを立証しているのです。アブラハムは科学的に赤ん坊をその女性によって持つことを証明する事は出来ませんでした、、彼女は100歳近くになっていました、、しかし彼の信仰がそれを証明したのです。分かりますね?科学的な証明は必要としません。何故、医者はこの様に言ったのでしょうか、「その年寄は狂っている、ここで彼がその女性、100歳あるいは90歳になっています」しかし神がそう言われたのを知っています、又それが科学を必要としないから、神の御言葉を信じると言う信仰を必要とするのです、科学ではありません。
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そして我々の学校や物事はパンクするのです。神は、「行って学校を作れ」とは言われませんでした、あるいは聖書学校を持てとさえ言われなかったのです。その事はご存知でしたか?彼が言われたのは、「御言葉を宣べ伝えよ」でした。その通りです。我々の教育体制は私が知る何よりも我々を神から遠くへ引き離したのです。神から遠くへです。学校、病院その他を建てる事ではなく、世の為にそのグループの為にたてることがです。しかし、それに何も反対しているわけではないのです、彼等はその場所を演じています、しかしそれはそれではないのです。我々は病院を今迄で最高の物を建てますそして最高の医療をそこで実施します、そして1日に何千もの人々は死んでいくのです。しかし素晴らしい事に神の御国には死はなく、悲しみもないのです。アーメン!世的なこれらの物は必要ないのです。しかし、神の実際に入るためにこの様な事を取ってきたのです。我あれは科学を通して必死でそれを見つけようと苦労してきています、そして我あれはより多くの死を齎していることを発見したのです。我々は、負ける戦いをとたかっているのです、そして信仰により、イエスキリストが神の御子tであると今晩受け入れ信仰により戦っているのです。彼は神なのです。
科学が何をあなたの為に準備していますか?人工衛星スプートニクやこれら全ての者がありますそしてこれら全ての者は死を齎し全ての者は地上に拡がっているのです。それを見ないでください、頭を天に向けて高めにして回してください。上を見上げるのです。神の右の手にイエス様は今晩座っておられます。全て命を受けた者は我々の告白の上でとりなしているのです、我々が神の御言葉と真理もなる様に話しています。
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さて、我々はこの命が全ての悪い種類のものを持っていると分かりました、来ようとしている命を持っていないのです。この人は欲望、病気、死がありますね、それは何でしょうか?彼が行くのに準備をしているのは住まいではありません。これはペストハウスです。ペストハウスが何だかを知っているのは何人いますか?間違いないですね。さて、それはあなた方が住んでいる物です。ペストハウスとは病気に人々が居る場所なのです。さて、それは罪が地上のペストハウスに置くことになったのです。彼等はある種の細菌がそこに飛び回っているから、そして人々はこれらの細菌を得て彼等自身が病気になっていたのです。そしてついが我々を悪魔のペストハウスに連れてきたのです。
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オーしかしもう一つは父の家と呼ばれるものです。「私はあなた方の為に場所を準備しに行く、このペストハウスからあなた方を連れ出して、父の家にあなた方他を連れて行く」アーメン!そういう事。この冷たい地上のペストハウスから連れ出されるのです。神は完璧な場所を準備しに行ったのです、そこには悪い事も病気も年を取ることも死もないのです。それは完璧な場所です、完ぺきな場所ですそして、完ぺきにならなければならないのです。聖書はこう言っています、イエス様は言われました、「完璧になりなさいなぜならば天に居られるあなた方の父は完璧だからです」それは完璧な王国なのですそしてそれには完璧な人々が来る必要があるのですと言うのは、あなた方は立って完璧な神の御子に嫁ぐのです;あなたは完璧な花嫁にならなければならないのです。そしてどのように何かを通してそれが出来るのでしょうかしかし完璧な神の御言葉、我々の罪から離れた水によって我々を洗ったのです。アーメン!その通りです。イエスキリストの血です。考えてみて下さい!血が流れ、血の付いた御言葉!アーメン!その血、その神の御言葉が血が流されていて花嫁なのです。アーメン!はい分かっています!彼女は完璧に立っています、処女、混ぜ物のない、彼女は全く罪を犯したことはありません。アーメン!彼女はそこに入って行きました。分かりました!彼は準備をしに父の家を準備しに行きました。
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この人はセックスによって生まれそして堕落からそして堕落があるのです。彼女は堕落したので、どんなことをしても、、、彼女は神がそう言っているから運命の定めになっていたのです。彼女は終わったのです!神はそれを破戒します。彼はそう言いました。全ての事を作り変えられるのです。それを信じますか?初めに世が生まれた時、神は水を引っ張って地上から無くしました、母の胎の水に入り世が生まれたのです。そうです!そして人々はそれに住み始めたのです神がそこに彼等をおいたからでした。そしてその後、彼等は罪を犯し始めます。そしてそれはノアの時代に浸水させて洗礼されました。そしてその後救い主の血がそこに落ちて清められたのです。
そして今、その様にしてあなたは来ました、神を信じることにより義に定められたのです。悔い改めを通して洗礼を受けて、罪に対する許しを受け取りました。罪を神のみ前に告白してそしてあなたの罪を神が許されたのです。そして許されたことを人々に見せるために洗礼を受けました、つまりあなたがイエスキリストがあなたの為に死んでくださったことを信じているという事を世界にあらわす為でした、そして神があなたの代りに、死んでくださったから、今あなたは彼の場所に立っているのです。彼はあなたにになりあなたが彼になれるのです。そして神の力によって清められ過去のあなたの生活の全ての習慣から清められるのです。かつてあなたは煙草を吸い、お酒を飲みその他正しくない事をしていました、嘘をついたりそういった全ての事です。そしてイエスキリストの血の力によって清められたのです、それは全てあなたの者を取り去るのです。何か間違った事を言ってしまったとしたら、「ちょっと待って、ごめんなさい、そういうつもりで言ったのではないのです」分かりますね?悪魔はそこに入ってくるのですが、あなたは本当のクリスチャンならば恵みを得て戻ってくるのです。そして言うのです「私が間違っていた」そうです。だから
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さて、その次にあなたが受け取るのは、聖霊によるバプテスマとその火なのです。さて、神様はこの一世紀が終わる時、世に火のバプテスマを与える予定です。全ての事を燃やし尽くすのです。天と地は燃えることになります。ペテロは言いました、そして物事は火のバプテスマを持ち、すべてが作り変えられるのですそいてそれから新しい天と新しい地となるのです。そこには義人が住むことになります。そこには我々が、、、死すべき存在から永遠の存在になるのです、神の御言葉が我々の魂に火をつけた時に、神の娘息子となりその属性を持ち、神の遺伝子が我々の中に父なる天に居られる神の娘息子となる様に与えられるのです、そして「父なる神、我が神」と叫ぶのです。私の父の家には、、、
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さて、この古い世は落ちなければなりません、というのは、それはセックスを通してきたからです、そして初めから不従順を通してきたからです。そして我々はここにセックスを通して生まれました、それは堕落を取ったからです、そしてそれは堕落と同じ方法になっていたのです。しかし神が堕落できない様にあなた方の為に整えて下さったのです、何故ならそれを神が創られたからです。もし我々がこの様な体に住み続けなければならないとしたら、、、?死というのものがある事を感謝しませんか?さて、それは奇妙ですか?しかし今、例えば、数年前に、私は小さな男のでしたそして今は中年ですと言う事が出来ます。私はここに座っている友人がいます、彼は93歳に数日前になられました、ダウチ氏です。彼を今見て下さい、わたしよりも40年か45年長く生きておられます。さて、彼に後40年足してみたら、、、あなたはどこに行きますか?唯一、、、
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このペストハウスを抜け出すために場所がある事を感謝します。そこには開かれた扉がありそれを死と呼ぶのです。イエス様は扉の中に立っておられます。アーメン!その川を越える様に私を導いて下さるでしょう。その扉を越えて連れて行ってくださるでしょう。
死という物の後ろにその偉大な扉はあるのです。そして毎回あなたの心音がなる時、それに近づいていくのです。そしていつか、その扉に来るにが必ず来るのです。そこに行かなればならなくなるのです。しかし、私がそこに行くとき、私はおじけづきたくありません。叫んで後ろに下がろうとしたくないのです。その扉に来て、神の義の衣を着せられた状態でその鳥場に行きたいです。神の義の衣です!この時までに、神の復活の力の中で彼を知っているのです、神が私をキリストのにあって死んだ物の内から呼ばれる時、一緒になるために呼ばれる時このペストハウスから完全に出るのです。この肉体は堕落するとしてもどこでも、それはその地にいたとしてどこでも、私はいつか、神が私に約束されたから、そこから出るのです、そして私達はそれを信じています。そうなんです!堕落できないからだを我々の為に神がつくってくださっているのです。
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今日の地上で妊娠中の女性達が、特定の物をどれ程欲しがるか気が付いて下さい。私が話しているのは、すべての大人はそれを理解してくれると思います。赤ちゃんの誕生の中でそのお母さんがもし、何か体の中で不足している者があれば、特定の物を物凄く欲しがり始めるのです。見て下さい、父がどのようにして、、、私が覚えているのは、我々は、そのような貧しい家族で育てられましたので食べる物が子供の頃殆どありませんでした。あなた方の多くがそのような事を苦労されたはずです。
さて、赤ちゃんが生まれる前に、母親はあるものを欲しがるのです、そして父親は、何とかして全て彼女の為に得ようとするのです。分かりますね、それは肉体、彼女の肉体が、、、カルシウムやそういった体の必要の為にビタミンなどを必要とするのです。ジュニーは出来たものを来るべき赤ちゃんの為に欲しがっていました。そして両親は赤ちゃんが生まれるのに完璧で出来るだけ幸せでいられるように準備しようとします。分かりますね、あなたの両親がどのようにするかを。。必要なものがある時、その母親はそれを与えるのです。彼女のシステムはその様に創られているのです。何が生まれてくる子供がこの地上で必要なのが何なのかをそして母親はそれを深く求める様になるのです。
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さて、一分だけ止まりましょう。何故リバイバルがあるのでしょうか?なぜ我々は集まるのでしょうか?なぜ私は人々をいつも叱責しているのでしょうか?なぜペンテコステ派の女性たちに、化粧を辞め、髪の毛をボブスタイルなどにするのをやめる様になどというのでしょうか?なぜそのような事を言うのでしょうか?というのは古いペンテコステの人々はそのような事をしていなかったのす。本当の聖書のやり方はそのような事はしないのです。あなた方はこの様な短パンやら男性を魅惑するような服装を着ています、それは神の忌み嫌われるものだと聖書に書かれているのを知っていますか?しかし我々はそれを許可しているのです。何故聖霊がいつも泣いているのでしょうか?彼はそこに何か不足がある事をご存知だからです。我々はイエスキリストの完全な身の丈にならなければならないのです。我々は神の息子、娘になる必要があるのです。神の子供の様な行動を取る必要があります。
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昔、小さな話を聞きました。ある黒人兄弟が座っているのに気が付きました。南部では彼等は以前この様に奴隷を撃ったりしてました、そこでは奴隷を使っていました、まだ奴隷制度があった時です、解放宣言の前の事です。そして彼等はまるで車を買うかのように言って人々を狩っていたのです。彼等は請求書があったりして人々の売買をしていました、まるで中古車のようにです。彼らの販売番号などを得ました。
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ある時、売人や仲買人がやってきました。そして彼はこの大きなプランテーション農園の周りに行ってそして奴隷を買いました。そして彼はある沢山の奴隷のいる大きなプランテーション農園にやってきました。そして彼は彼らが何院奴隷を持っているのかを見たかったのです。そして彼等は皆外に出て働いていました。そして彼等は悲しかったのです、彼等は家から離れていました。彼等はアフリカの人々でした。彼等はここに連れてこられていました。荷物を運んだりする者達が彼らを狩って連れて来て、奴隷として売っていたのです。だから彼等は悲しかったのです。彼等もう二度と家に帰られない事を知っていました。彼等はその土地で生きて死ななければならなかったのです、彼等は、、、多くの時、鞭で打たれていました。彼等は所有者の持ち物だったのです、そして彼は彼等と一緒にいたのです、そしてただ、もし彼が彼を殺しましあた、何でも、そのようなこと牡をしていたのです。それが奴隷制度です。イスラエルが多くの国々に対して奴隷制を引いたのと同様です。
そして彼等はそれをするしかなかったのです、、、かわいそうな奴隷たち、
彼等はただ、、、常に泣いていました、又、常に、悲しかったのでした。
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しかし、彼らが一人の若い人で奴隷の一人が気が付いていたのです、彼は胸を戦い頭を上げてこの様にしていました。彼等は彼を鞭うつ必要は一切図ったのです。彼にこれをせよあれをせよと言う必要がありませんでした。そしてその仲買人は言いました、「私はその奴隷を買いたい」と 彼は言いました、「彼は売り物ではない」
彼は言いました、「私は彼を買いたい」
彼は言いました、「いいえ、彼は売れません」
言いました「彼は他の物たちのボスなのか?」
言いました「いいえ」「彼はボスではありません、奴隷です」
彼は言いました「さて、多分彼には他の野のと違う物を食べさせているのだろう」
言いました「いいえ、彼等は皆同じ場所で同じように食べています」
彼は言った、「何がその子を他の者達とこうも違うようにさせるんだろうか?」
彼は言いました、「一つ言えるのは、私もしばらくそのことを考えていましたが、その少年ーアフリカからの外国人ですーしかし彼の父はアフリカでその部族の長でした。そして又、彼は家から遠く離れているのですが彼自身を王の息子として行動しているのです。彼はその土地で彼の父が部族の王であることを知っているのです。そして今、彼は彼自身をその様に行動しているのですと言うのは彼は王の息子だと自分の事を知っているからです。
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さて、兄弟、姉妹の皆さん、あなたや私は、この様に生きるべきなのです、我々は神の娘息子として生きる必要があります。我々はここでは寄留者で外国人なのですが、我々の態度は神の戒めによるものであるべきです、我々は神の息子、娘なのですから!我々の行動基準、どうすべきか、そしてすべてが神が置かれた律法によるべきなのです。そしてそれは女性が男性の服装をする事を忌み嫌っているのです。それは女性が髪を切る事はまちがっていて罪深いのです。聖書がそう言っているからです。その祈りさえも嫌われるのです。あなたは「これはどうなんでしょう」と言いますね。
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ある人が、私についてきました(偉大なるよく知られた聖職者)それほど前ではありませんでしたが、こう言いました「ブラナム兄弟、来て下さい、あなたに手を置きたいのです」こう言いました「あなたはあなたのミニストリーをだめにすることになります」
私は言いました「何と?」
言いました「あのように人々に叫んでいるから:
私は言いました「真理を言っている、、、」
彼は「それは信じています」と言い、「私はペンテコステ派でもあります。女性の短い髪は正しくない又、ズボンも穿くべきではない、そしてこれらの事は彼等はしています、化粧をした顔をあげて、」「彼等はそれをすべきではない、しかし」と言いました、「神はあなたを病の人々の為に祈るために呼ばれた」と
私は言いました「彼は私に福音を伝えさせるために呼ばれた」分かりますね?
そして彼は言いました、「私はそれを信じている」しかし言いました、、「あなたはそれを知っている」
私は言いました、「はい、あなたが得たものを見て下さい、あなたは全てのこれらの大きなプログラム、テレビなどなどを得ました。私には何もありませんが、神は答えて下さるのです。」その通りなのです。「何も持ってはいないが神はそれにこたえられる」彼は言いました、「あなたは自分のミニストリーをだめにするであろう」私は言いました「どんなミニストリーでも神の言葉をだめにするものはダメになるだろう」その通りです!間違いなく。それは絶対なのです。彼は言いました。
「えっと、あなたはそれをだめにするでしょう」
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私は言いました、「誰がそれをその時言うのでしょうか?(分かりますね?)誰かがそれを言わなければならないのです。たとえ傷つけたとしても、何であれ真理の為に立たなければならないのです。」そして友よ、クリスチャンとして、人々が我々は天国に行くと信じている、聖霊自身が御言葉の中で我々を示している。
彼は言いました「あなたはすべきことを知っているのですか?」「人々はあなたが預言者だと信じています」と言いました。「あなたはこれらの女性達にどの様に預言の賜物を得たらいいかを教えるべきなのです、そしてそのような事は、そして小さなことの代りにそのより高い事を教えるべきなのです」
私は言いました、「もし、彼らがABCも分かっていないのに代数を教えることがどのように出来るのですか、彼等はまだ一般的な事自然な事すら知らないのです。初めの事も知らない時にそれよりも高いことをどのように語れば良いのでしょう。。。」初めの段に昇る前に梯子の上に行きたいと言っているのです。それが理由であなたは落ちてしまいます。分かりますね?下から始めて、神があなたを上に導いて登っていくのです。分かりますね?すべての人が、神があなたを呼び出し定められたように神の御言葉の全てに従い協力すべきなのです。
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さて、考えて下さい、神がどのようにされるのかを、、、我々はクリスチャンとして行動をするべきです、我々の行動基盤はクリスチャンらしく、あるべきです、というのは、我々はここでは寄留者だからです。これは我々の家ではないのです。いいえ、我々はここに一時的に置かれただけなのです、我々は皆ここを去るのです。
さて、考えて下さい、もし神の憐れみの中にその母が居たならば、その小さな赤ん坊が生まれる前に、何かビタミンを欲しがるように、そして母の言葉が話す時「父よ、メロンかスイカが欲しい」何か他の、ある意味、、、、」なぜ彼は出来る全てをしてそれを得ようとするのでしょうか、というのは彼は彼の子供が出来る限り完全に生まれてほしいからですね。そして彼は彼の出来る全てをしてそれを得るのです。神は創造主です。どれ程簡単に彼はそれを得られるでしょうか?
さて、彼が彼自身の栄光の身体のように生きる身体を整えることがどのようにできるか考えて下さい。もし私達が行きたいならば、我々の中の何かが生きる様に呼んでいるのです。そしてその何かが正しい事をする様に呼んでいるのです。そして神が誰か演壇あるいは舞台に完全な真理を話す為に呼ばれるのです!どうして?分かりますね?それがあなたに見せるのです、もしあなたが本物の神の子供であるならば、あなたはこう泣き始めます、「神様私を擦れて行ってください、これから割礼してこれらの事を私から取り去って下さい」なぜですか?それはあなたの行こうとしている天の家に必要なのです、そこに神様は準備しておられるのです。あなたは本物のキリストの花嫁、御言葉にならなければならないのです。
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贖いの日における捧げものについて数晩前に話していました。神が唯一神がひとに会う場所に関して話していました。。そしてそれは、、、神は言われました。その場所には彼の名前が付けられると。神は言われました。「私の名前が付けられた門以外の場所で彼等に会う事は無い」と。さて、彼はメソジストの門、バプテストの門、ペンテコステの門あるいは他のどこでもしかし彼の名、彼の御子のの中でのみお会いになると言われたのです。「私は父の名によって来た」誰でも、彼の血氏の兄酔って子供は来るのです。私はブラナムの名によってきましたと言うのは私の父はブラナムだからです。そしてあなたの名前はあなたの父親の名前なのです。そしてイエス様、その御子は父の名によって来られたのです。そして彼は言われました、彼の名をつけると「私の名をつけたその門こそが捧げものである」そしてイエスキリストにおいてのみ、あなた方は神との交わりと礼拝をみつけることができるのです。
あなたは、「私はその教会に属している」と言うでしょう。それでは何も変わりません。あなたはキリストの内にいなければならないのです。
特定の宗派の聖職者が先日の夜私に言いました「ブラナムさん、ここを見て下さい。イエス者言われ正板、「誰でも信じるならば」聖書はこう言っています「誰でもイエスキリストが神の御霊の内に生まれた御子だと信じるならば誰でも」
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私は言いました「聖書に、誰でも聖霊によらなければイエスをキリストと呼ぶことは出来ないと書かれていませんか?」分かりますよね?聖書に偽りを言わせることは出来ないのです。それははっきりとそこに入る必要がありますそして証をする為に聖霊によって完全に再び生まれる必要があるのです、あなた自身から離れて彼が神の御子であることを知るのです。そしてそれからもしあなたがその位置にあるならば、もしあなたが神の御言葉の内で神の子供であるならば、どうしてその御言葉を否定する事が出来るのでしょうか?聖霊が聖書が言っている事と違う時信条を信じさせることが出来るのでしょうか。「我々はこれやそれやをする為に、教会に加わらなければならない」聖書が単純にあなたがすべきことを言っている時に。。分かりますね?そしてその時あなたがそれを見てそこに入っていくならばあなたはそこで正しく正しい方向に上がり続けるのです。そして精子が女性の子宮の中で卵の中で育つように育つのです。そしてその時小さな卵が精子を受けて育ち始める様に人の精子と犬の精子や牛の精子を一緒にして人間にする事は出来ないのです。
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そして神の子供があらかじめ定められるとき、それは神の聖書の言葉を使わなければならないのです、悪い言葉を使う事は出来ないのです。神の先見は神の栄誉に全てが働くようになるためにあらかじめ定めることが出来たのです。そのあらかじめ定められた子孫はあなたがそうだったようにそして神に召されて神の言葉を小さなわしの種がそこで聞くのですそれがあなたを育てた手させ一つの言葉が他の言葉の上に立っていくのです、それはいかなる信条ともまざる事は無いのです。
気が付いて下さい、これらの門で毎日、彼等は、新しいコーシャ(ユダヤの聖い食べ物)を食べなければならないのです、彼らの中で7日間を通して膨らませたパンはみつかりませんでした。そうでしたよね?7つの教会時代そして膨らまないパンはなく、信条もなく、他に何も付け加えられていません。それは全く膨らまないパンでなければならないのです。膨らんだパンはあなた方の中で全く見出されませんただ、御言葉そのものによって膨らまされたもの。それだけなのです。そしてその御言葉は神で、神がひととしてのキリストイエスの肉体を取られてそれが門なのです。「神の戒めを守る時私はあなた方にその門で会う」という物です。
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それゆえ、もしあなた方が今晩来て言ったとしたら、私はイエスキリストに人生を捧げました、そしてあなたはまだ聖霊を受け入れていません、その中に入るのです!それをしなければなりません!そこに在って育たなければならないのです!神に御言葉から御言葉を神の息子、娘としての完全な身の丈となるまで重ねていく必要があるのです。世の物を取り去るのです、第一ヨハネにこう書かれています、「 世と世にあるものとを、愛してはいけない。もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない。」あなた方は欺かれているのです。世への愛を持っているからあなたは欺かれているのです、悪魔がそこに物を積み上げて見せているのです。。。分かりますね、あなたは、聖書から一つの言葉も取り去ることは出来ません!何が初めの罪の原因でしたか?大きな空っぽの嘘によるものではなかったのですががエバが一つの言葉を誤解したのです(悪魔がそうさせたのです)一つの言葉がその鎖を壊したのです、そしてエバは一つの言葉を受け取るのを拒んだのです。それが聖書の初めにあります。イエス様は聖書の中心で来られて言いました「人はパンによって生きる物ではなく神の口から出る一つ一つの言葉によって生きるものである」それが神の言葉の全体なのです。彼の啓示を信じますか?それこそが神の御言葉全体です。
そして黙示録22章で、イエス様はヨハネがパトモス島にいる時に来られて言われました、「私イエスは、これらの事を告げるために私の御使いを送った。誰でもここから一つの言葉を取ったり足したりしたならば、彼を命の書から消し去ることとする」と
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沢山の人達がこういいます「さて、私はイエスキリストが神の御子だと信じています」それは良いです。そしてそれに他の残りを足していくのです。
あなたは言います「私は義とされている。私の手を聖職者に渡した。私はイエスキリストを信じている」そしてあなたは再び生まれていなければならないのです!聖霊に満たされている必要があります!分かりますか?続けて行く中で加えて行くのです。完全な神の息子、娘の身の丈に成長しているのです!神は我々を準備して何かをしたいという思いにさせる事がお出来になる方です。神をもっと欲しい人達はここに何人いますか?さて、もっとたくさんいるのが分かり政畝?それを心から求めているのです。あなたの産みの苦しみが来ていますね?我々が幸せで自由で完璧なるためにもっと必要なのです。そうなるべきなのです。
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ちょうど小さな命が母の胸の中にいるのと同様に小さな命が神の御旨の中にいるのです。
神が成長させておられ、我々の場所を準備しに行かれたのです、彼自身と共に永遠にいる場所に、そこにはペストハウスはもうありません、死も、罪も、姦淫もこの世にある汚れもないのです。あなたの思いがそこに在るならば、神に繋がる事はありません。あなたはそれでいっぱいなのです。精神的な幻想の中にいるのです。教会に加わるだけで、「さて、私はこれに属している、母もそれに属していた」お母さんの時代ではそれで大丈夫だったかもしれませんが、我々は別の時代に生きているのです。
ウェズリーのメッセージは決して、、彼はルターの物を取りませんでした、ルター派、義になる事は信じていましたが、ウェズリーは聖く生きることを信じていました。ペンテコステも来て、義化と聖く生きる事だけを取る事は出来ませんでした、賜物の回復の時となっていたからです。さて、我々はそこから進んでいますね?葡萄畑の3つの段階が来ているのです。初めに、小さな芽、ルターは改革をはじめました。大丈夫。それは茎でした。自然を見てみましょう。神と自然は継続的に動いています、神は自然の中に居られるからです。そして次の段階では、房が着て、花粉、メソジストの時代です。そしてペンテコステ派の時代が来ました。なんという事、本当にただ完璧なのですね?麦の一粒がちょうど完全な麦の粒のように、、それが開いて、麦はそこにはありません。それは殻なのですただ運ぶものですが、その命はそれを通して働いていたのです。分かりますね?
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そしてそれからルターの時代にはルターを受け入れてその人生はそれを越えて行きましたがその後宗派をそこから作り上げたのです、初めにあなたがそれを知るのは、もう燃え尽きたものを宗派にしただけの事ですね?茎はからからになったのです、それは運ぶにすぎません。彼等自身は古い運びものである茎に留まろうとしていました、何も神の物ではなかったのを知っていました。死んでいたのです。彼等は「我々はルター派であると言います。」その通りですしかし、それが今ある位置を見て下さい。分かりますね?「我々はメソジスト派である」そして「我々はペンテコステ派だった」とさえも、しかし、ペンテコステ派を見て下さサイ、どれ程冷たく公的になってしまったかを、彼らが皆どのように出て行ったか?それは何ですか?それは本物の子孫(種)を運ぶものだったのです。全てこれらの他の物は運ぶものであり宗派に行ってしまいました。
もしあなたが、「私はペンテコステ派だ」というならば。それは神にとって、ローマカトリックあるいはユダヤ教であれ何であれ、何の意味もないのです。あなたは新しく生まれていなければならないのです。その命は、運ばれてくるのですが、茎に留まってはいないのです、種に留まってはいけません、完全な部分に成るまで出てこなければならないのです。
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さて、覚えておいてください、すべての改革において、我々は全てのルター派などがありました、3年間で彼等は組織化しました。その通りです。全てのリバイバルは3年以内に組織化されていたのです。これがどれ程長く続いているかを考えて下さい、20年以上そして組織化されてはいません!その理由は?それは種が来て、そのハスクの下にこの様に創られたのです。今そこにまかれて、太陽のあるところに置かれて栄光の粒になる様に初めに出来たのです。そして本物の教会が初めにそこに行き、茎を通して他の教会が出来たのです。拾いながら組み合わされた時、ルターの所に命が来たのです、その命はメソジストに来てペンテコステを通して粒になり粒が来て完全なイエスキリストの身体を形作るのです。
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ちょうど太陽が朝に昇る様に。あなた方はその裸眼では見ることが出来ませんが、神の創造を超える事は無いのです。聖書を知らなくても神がいる事を知ることは出来ます。その小さな太陽が小さな弱い赤ちゃんを産みます。7時くらいに学校に行くのです、10時か11時ころ大人になりつつあり、12時ころには強くなり午後2時には年を取り、7時か8時、午後5時か6時に彼女は肩が萎れて来て死ぬのです。それがその終わりでしょうか?いいえ!翌朝には又復活するのです。-命、死、埋葬、復活!
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葉っぱが木に出来る時の事を見て下さい。綺麗な葉っぱになると、影を作り、それが実になります。その次に、初めにあなたは秋が来ることを知っています、死を迎えます、再び地に根が入っていくようになります。それがその終わりでしょうか?次の春には、再び生きていることを証明するのです。あー何という永遠の命、しかし兄弟、姉妹、我々は永遠の命を得たのです。我々の身体を整えるために来られて行かれた偉大な方を通して我々は永遠の位置を得たのです。そしてこれらの成長痛を感じ、女性があなたがしたことを見下されたように感じる時、そして男性がその他の宗派の教義にしがみついているなど、あなた方は皆「私はこの信条を言う事が出来る」と言いたいのです。。しかしここでちょうど何かが盲目の人の目が開かれたのを見る時、耳の聞こえない人が聞こえる様になったりなど全てこれらの事は御言葉がその力を持って語られた事は約束されていたのです、通りにいる売春婦を見て下さい、その人が女性になり、そして酒飲みがそこから救い出されて神の聖徒に本当になるのです。感謝!分かりますね、そこには命があるのです。そしてそれを感じ始めるのです。「さて、多分、それをしなければならない」でも分かりますよね、それが何なのか、あなたの身体の後ろ側で必要としている物。分かるでしょう。神はここに体の中に全ての正しいビタミンを与えているのです。イエス様は神の御旨の中に場所を用意しに戻られたのです。はい!小さな精子、神の息子、神の小さな息子、娘の為に。
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イエス様が父への祈りの中で尋ねられたことは一つだけでした。それが何だか知っていますか?一つの事。この地上で彼がされた全ての犠牲の上で一つの事、彼が行きたい後、歩いた道、それについて一つの事だけを尋ねられました。「私の行くところに彼等も来るように」彼は我々との交わりを尋ねられたのです。それだけが彼が父に祈りの内で尋ねられたことでした。あなたとの関係は永遠なのです。もしヨハネの17章の24節を読みたければ、そしてどれほど我々が彼を求めるべきなのでしょうか?もし彼が、、さて聴いて下さい、もし、あなたが本当に神の御霊の中で生まれているならば、それがあなたにとって全てを意味しますね?本のルールではないのです。あなた方はいかなる律法において生きているのではなく、神の恵み、神の御霊によって生きているのです。
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私はしばしばこれを言ってきました。宣教師として、海外に行くときに私の妻、子供達を連れて行ったとしたら、「さて、ここを見て下さい、子供達、ここで聴いて下さい、ブラナム夫人、私はあなたの夫です。あなたは他の夫を私が出かけている間に持つことはありません。もしそうするならば、私が家に戻った時にどうするか覚悟しておきなさい!足踏みをする事でしょう!子供達私が言った事を聞きましたね?
「はい、パパ、はい、パパ」
「何か違反をしたことがあったら話しなさい。。」分かりますね?さて、それは家庭になるでしょうか?
今、彼女がもし、「あなたは行かれましたね?」さて私は言いたい事があります。ブラナム氏、私はあなたの公的な妻です。出かけている間、他のガールフレンドを持つことはあり得ません」さて、それは家庭でしょうか?さて、何かがあるのです。我々はそのような事はしません。私は彼女を愛し、彼女は私を愛しています。彼女は私が出かける時、彼女は神が私を呼ぶように言われない限り出かけない事を知っています。我々は床に膝まづき共に集まって子供達と一緒に祈るのです。私は「親愛なる神様、私の小さな家族と妻と子供達を守ってください」と言います。彼等は「神様、私達が、、彼が出かけている間、お父さんを世話し守ってください」と言います。そしてそれから我々は出かけるのです。
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さて、もし私がそこで何か間違った事をしたとしたら?もし何かに違反したり間違った事をしたら、家に戻って、小さな妻にそこで立って彼女のしわのある顔と白くなりつつある髪の毛を見るのです、そこへ歩いて行き言うのです、「ハニー、言いたい事があるんだけど、君は私があなたを愛しているのは知っているね」
「もちろんビリー、あなたが私を愛してくれているのは分かっています」
「私がしたことを話すね、ある女の子を家に連れてきた」「それについて許してくれるかい?」と言います。私は彼女が許してくれると信じています。本当に。でもそんなことを私はするのでしょうか?そこに立ってみて居た時、彼らの髪が白くなりつつあるのを見て、彼女と私の間に公的に立っているのを知る時、彼女がいかに本物の妻である続けているかをしていてそんなことを出来るのでしょうか?彼女を傷つけるくらいなら死にたいのです。そうです。そしてももし妻に対する兄弟愛的な愛にいたならば、神の聖い愛はどれ程もっといだいなのでしょうか。アー神を傷つけるようなことは何もしません。絶対に。私は神を愛しているのです。神が私に支えたい全ての事ををしたいのです。神の言われた全ての言葉に合わせたいのです。世がどのように言おうとも、彼等は銅慕って信じる事は無いのです。私は神が私にする様にと言われたことをしたいのです。そしてもし何かに欠けているならば、神に私にそれを与えていただきたいのです。彼の為に生きたいのです、世から我々を離し続けたいのです。
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この地に着くここにある古い体、言わせていただきたいのです、この地上の身体は、、そのことを常に沢山考えています、ハリウッドの様なパターンで、それに凄く近いのです、それはそれほど長い期間にはならにでしょう。覚えておいてください、あなたはその預言を聞きましたね(分かりますか?主が私に与えて下さったのです、それは起こります!ハイ!気が付いて下さい!それは起こります。しっかり見ていてください。今、彼は何も今迄間違った事を言われた事はありません。そして私は話したい人だれの所にもそれを持っていきます。いつなのかどこなのかは分かりませんが、彼女がしたのです。裁きはそこに繋がれています、それに対する贖いはないのです。それは終わったのです。分かりますね?
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さて、これに気が付いて下さい、彼の為に生きる、世から我々自身を離し続ける事。しっかり見て下さい。あなたはテレビを見ていますね、ここにいる何人かの姉妹達は、ここから降りて五ttえ、あなた方はそうしたいのですね、若い女性達、あなたは若いです、それは分かりますが、あなたはクリスチャンです。分かりますね?あなたは違うのです。世の様にはなりたくないのです。世を愛していますー若い人達だけではく年長の人達の何人かも。分かりますか?それは何をするのでしょうか?あなたはテレビを見て、買い物に待ちに行き、小さな神の物にふさわしくない女性の服を見るのです。裁きの日に何が起こるか分かっていますか?出来る限り夫に対して純潔かもしれませんが、裁きの日には姦淫をしていたことに対した事への言い開きをしなければなりません。イエス様は言われました、「しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。」誰が罪がありますか?あなたもです。分かりますね?あなた自身が、短パンやズボンを穿いて見せているならば。先日ある女性が私に言いました、「私は短パンははきません、ブラナム兄弟。その事を主に感謝しています。でも私はズボンは穿きます」
私は言いました、「それは最悪だ、最悪」その通りです。
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ある女性にはドレスを買ってあげることさえできません。
彼女は言いました、、ある女性が言いました、、「さて、あなたは真理を言いました、あなたはそれを買えません」しかし彼等はモノやミシンを買って持っていますね?そしてそれには全く言い訳がありませんね?それを見せて下さい、姉妹。私はあなたの兄弟です。そして私はキリストの僕で今晩ここで裁きの場で言うべきことを得ているのです。分かりますね。あなたは姦淫の罪を持って立つことになりますと言うのは神の愛があなたの心の外にあるからです。あなたはまだ教会に行っていますが霊の内でまだ踊っていて、異言を語るかもしれません。そしてそれらの事は良いのです、しかしまだそれではすべてではないのです。
聖書が言っていることを覚えて下さい、「終わりの時には、偽キリストが来る」偽イエスではないのです。彼等はまだそこに立ってはいませ。しかし偽キリスト、偽の油注がれた者達。彼等は御霊によって間違いなく油注がれています、聖霊によってそしてそれでもまだ偽物なのです。分かりますね?
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あなた方の中には3つの種類の人々が居ます、身体の外にです。五感を持っています、地上とつながるためにです。内側の物は霊です。そこにも5つの感覚があります。愛、意識、など、繋がり、しかしその中に在んるのは魂なのです。
覚えて下さい。雨は正しい者にも不義な者にも降ります。同じ雨が降って麦を成長させ又、茨も成長させrますね?それは何でしょうか?種の中には性質があり、その性質それ自体が見せるのです。それは同じ畑の中に立っています、そこには雑草もあります。その雑草と麦は一緒に立っていて、同じように喜んでいます。それは両方とも頭を垂れて、飲み物を求めています。雨が来ると、麦がするのと同様に茨も叫ぶのです。しかし彼らの実によって彼等は知られるのです。分かりますね?
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クリスチャン達、二度と会わないかもしれません。ここに来て以来何年も経っています。もう二度と会わないかもしれません。神の御言葉に繋がりそれに合わせて生きて下さい。鏡を見て下さい。ある時小さな男の子が、その田舎を出た時の様に、彼は鏡を見たことがありませんでした。彼の叔母の家に来ました。彼はその階段を上り始めました。彼は鏡を見て、小さな男の子がいるのを見ました。彼はずっと歩き続きて見続けたのです。そして彼は手を振るとその男の子も手を振りました。彼はそれを見続けていました。彼は今まで鏡を見たことがありませんでした。そして彼がそれに十分近くなった時に、彼は振り返って行ったのです、「どうしてママ、それは僕だ!」
神の鏡の中でどのようにあなた自身を見るのですか?それは神の娘あるいは息子を反射していますか?あなたがある人を憎んだりして言う事を聞いたことがありますか、それは、引っ張って「彼は正しい事は分かっている、それは聖句の中になるから」とそしてそのビタミンがこの身体には必要なのです。それがそこに在る様に定められていたのです、その家はあなたがそこにいる時に必要だったのですね?この家、、もし我々が地上に生まれたならば、。。
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さて、覚えておいてください、我々はこの身体の事を物凄くよく考えます。我々はそれに多くの服を着せます。必要でない事を沢山するのです、着替えて、履き替えてこれら全ての事をするのです、、そしてなぜなのでしょう。それはちょうど皆同じなのです。誰かが何かをはじめたとします。あなたが階段を赤に塗って、そして見ていてください、隣の山田さんも(ジョーンズさん)も彼等のを赤に塗ります。あなたの教会で特定の帽子をかぶるとしましょう、見て下さい、女性達が皆そうします、特に牧師の妻がそうするとそうなりますね?何が起こるか見て下さい。さて、それは事実なのです。それは絶対的な真実です。それは合わせている時なのです。兄弟、それは合わせるべき時なのです。全ての物の目的は一つなのです。私はズボンとコートがマッチしているかどうかは気にしません。そして時々厳しい時があります。私の妻或いは息子の嫁あるいは誰かが、私にそれに合わせたネクタイについて言う必要があるのです。私はそれがあっているかどうかも気にしません。私は神の御言葉にかなう経験が欲しいだけなのです。それが私の最も重要な事ですと言うのは、私が生きる目的がそこに在るからです、近所の山田さん(ジョーンズさん)と合わせる事ではないのです、イエスが私達の為に用意しに行った場所の栄光に会うかどうかが最も重要です。はい、我々がそれが欲しいのです。はい。 これらすべての物から離れていてください。。。。
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この古い地上に着く幕屋(タバナクル)それが何だか分かりますか?この身体はあなたの着ている古いコートの様なのです。あなたが一度着たコート。しかし今、もっといいのを持っている、もう古いのは使わない。それをどうしますか?洋服ダンスにかけておきますね、より良いのを持っているから。より良いコートを得たから。以前着ていた、古くなってしまったのよりも新しい物。何ですか?それは衣装ですね。あなたはその中にいるのです。その衣装は何をしたのですか?あなたの印象を着ていたのですね?もうそれはいらなくなったのです。だからそれをかけておきました。それは雑巾の様なものです。そしてそれはこの古いからだと同様なのです。それは天的なイメージを持っていますが、それはまだあなたではないのです。あなたはその体の内側にいるのです。あなた、神の御霊はその体の内側にあるのです。それが内側が引っ張り神の御言葉と兼ねあっているから外側にその議題を齎すのです。あなたの内側、あなた、あなた自身、あなたの存在。
この身体はただの古いコートの様なものです、いずれあなたはそれをどうしますか?あなたにとってそれはしばらくの間の衣装にすぎませんでした。それは地上の衣装の様なものなのです、この身体、あなたの本当の身体、あなたの本当の自信は、古いコートの中にいるのです、ウィリアムブラナムとあなたが読んだりあるいはスージージョーンズ誰々分かりますね?ある時地上のあなたの思い出のホールに欠けられるようになります。あなたはそれを墓の中に置くかもしれません、誰かが墓石の上に「ここに牧師誰それ、あるいはジョン何某、あるいは何某が眠る」と書かれることになります。そこにあなたの思い出が眠る様になるのです。人々はただこれの中にあなたを見ているのですそしてあなたがどうであったから本当のあなたが内側がどうであったかを。しかし古いコート自身は天的なイメージを持っているにすぎません。アー人々、コートを着替えるために予約をしましたか?天国の為に予約をしましたか?覚えておいてください、あなたは予約を持っている必要があります。それなしに入る事は出来ません。現在用語でその話をしています。それは分かっているはずです、ホテルに行くとしたら、「私は、予約をしていました。。」と言いますよね。
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「ご予約されていますか?申し訳ありませんが予約でいっぱいです。」そうすると予約をしていなかったがゆえに寒い中に出されてしまいます。そしてもしあなたの人生の終わりに近くなり予約なしであったら、そこであなたに会う人は誰もいないのです。あなたは暗い場所に永遠に降りて行き、そこで叫んだり泣いたり、歯噛みをしたりすることになります。あなたは絶対に:予約なしにはこの町に入る事は出来ません、予約をしていないと入れないのです。この町に入るにはイエス様があなたの為に準備されている場所に入らなければならないのです。覚えて下さい。予約と救いの衣を持っていなければなりません。そうでなければ、、、
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マタイ書で私はここである聖句を得ました。(今聖句を見ています)マタイ22:1-4.それを全部読む時間がありませんというのは、遅くなっているからです。長く話し過ぎました。でも覚えておいてください、王は送られて食事を作ったのです。彼は牡牛を殺して全ての物を作って、素晴らしい食卓を準備ました。そして彼はそれを送り出して多くに人々を呼んだのです。ある人は言いました。「さて、あなたが知っている様に全ての後で、これに属していて、そしてこれを得たのです。そして私は牧場に行かないといけない」そして人は多くの事をしました。そして再び送ったのです、そして彼等は彼らを非常に悪く扱ったのでした。
そして終に、それはイエス様が話していたユダヤ人の世代でした;彼等は他に何かする事があったのです。して終に彼はそこに送られて「行きなさい、そして彼らに来るように通りや藪に行ってどこでもすすめてくるのです」そしてその後、彼の家は、決められていました、彼の婚宴は準備されていました。そこにはお客さんがいる予定でした。そしてそれから彼は婚宴の服装をしていない人を見つけました。彼はその古いコートを持ち続けたかったのです。そして見て彼は言いました、「友よ、あなたを婚宴に呼んだのに、そして来るように招待状すら送ったのに」と
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そしてもしあなたが問うように居たことがあれば、私はそこで何度も話したことがあります、結婚の婚宴はその様に続けられています。花婿、彼には沢山のお客様がいます、彼はそうあるべきなのです。コップ兄弟、多分インドでの婚宴を見たことがありますよね?彼等は沢山のお客に来るように尋ねるのです。30人のお客さんに来るように尋ねます。さて、花婿はその衣装を作らなければなりません。くる人たちの為にです。ですから、その扉の所にある人が立っていて、そしてあなたは招待状と共に来ると、彼は招待状を調べてその衣装を着せるのです。ある人達は金持ちである人達は貧しいのですそしてある人達は違っていますが彼等は皆この衣装を着ることで似たものとなるのです。皆似たようになります。そして皆似たようになる必要があるのです。あなたは、「私はここでメソジストですとかここは長老派です」などとは言えないのです。いいえちがうのです!初めの場所に行く事もないのですね?ドアに初めに来る必要があります。イエス様は言われました「私は羊の群れへの扉である」と
「私はペンテコステ派である」「私はあれや、これや」と、、、それは全く意味がありません。扉に来るのです。そしてもし扉によって来るならばその衣装を得るのです。
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そしてこの人、彼がこう言った時「ここにどの様に来たのですか?分かりますね?彼が別の方法を取ってきたことが分かるのです、窓を問うってか後ろ側か扉からではないのです、扉を通ってきませんでした、イエス様が来られた自己犠牲を通しての道、神にあなた自身の宇部手を捧げそしてカルバリーに歩き、彼のと共に十字架に付けられて、犠牲の衣を共に来て蘇り世の物に対して死ぬのです。
世の物や世を愛しているならば、神の愛はあなたの中に在りさえしません。ね?もし世への愛を持っていて、世的に行動し世の様にふるまいその様にするならば、教会にいるでしょうがその道には麦と一緒に毒麦(茨)となっているのです。彼らの残りの人々と共に喜びをもって叫びましょう。霊的な祝福があなたに下ります。こう言うでしょう「私は預言をした」とカヤパもまたバラムもそうしました。それには何もないのです。。。
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「聖霊のバプテスマを得ました」それでさえも何も関係はないのです。それは一時的なあなたへの賜物にすぎません。本当の賜物はそこに在るあなたの魂の内にあり神によって生まれそれが神の御言葉として全てを制御して御心を行いそこで育つのです。分かりますね?そしてあなた方神の息子娘達。あなた方は髪の子供なのです。そしてこれらの事、あなたが考える事。。例えば今母親のように、あなたは地球の内に居て前に進もうとしています。あなたは神の息子でありそして御言葉が分かるのです、こういうべきだと言っています、「新しく生まれなければならない。「さて、私は教会に属しています」それには何にも意味がありません。分かりますね?
「私はメソジスト、母も、、、」お母さんには良いでしょう。
「さて私はペンテコステです:私は、、、に属しています。御言葉にかなっていないならば、何か間違っているのです。そしてあなたは本当の父(神ではない)を見るのです、何故なら始まりは魂の中で起こるからです、そこには霊さえあるのです、それがあなたの魂でした。その魂は神から来たものではないのですそしてそれは初めは神の精子ではありませんでした。あなたは欺かれていました。雑草の所に居て世的な雑草の記録をつけていて世的な行動をし、世を愛していましたと言うのはあなたの中には神の愛がなかったからです。
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そして今、終わりの時には偽の油注がれた者達がいるのようになるのです、偽イエスたちです。彼等は御言葉に立っていませんが偽の油注ぎを得ているのです。彼等は油注がれているのです。そうなのです。しかし彼等は反キリストはナノです。彼等は御霊によって油注がれてキリストがした印や奇跡を行いますが、彼の御言葉に沿っていないのです。分かりますね?「その日に多くの者達が私に来て言うであろう、「主よ、主よ、あなたの名によって預言をし悪霊を追い出しました」
彼は言うであろう「悪事を行う者どもよ、わたしから離れよ、あなたを知らない」と
「私はペンテコステでした、主よ。主に栄光!と叫びました。異言を語りました。病の人に手を置いたら、彼等は癒され、悪霊を追い出しました。「悪事を行う者どもよ、わたしから離れよ。私はあなたを知らない」
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私の言う事が分かりましたか?
オー小さな子供達、今晩ビタミンの必要を何かの為に感じますか?体がそれを待っているのです、彼だが受け入れられることを。皆さん、欺かれないでください!欺かれないで!悪魔は欺くものです。婚宴の衣装でさえ、着なければならないのです。それは絶対なのです。
さて、我々は夕暮れの時にあります。肉体的な体は今溶けようとしていますそして天的な物に入る準備をしているのです。そして我々は今、この偉大なエデンに行く神の奇妙な呼びかけを感じています。そして我々がこの地上に生まれる前、我々の小さな身体は何かの為に泣いていましたそれはもし私達がそうでなかったのならば、ここで病の者であった何かの供給を受けなければならなかったのです。神はそこでは病気はないのです。彼等は皆完全にされていて花嫁はちょうど花婿のように御言葉がしっかりとあらわされるのです。神様今晩ここにいるあなたの子供達全てを受け入れて下さい。行くべき天国があります、だから地獄から離れましょう。
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さて、多くの皆さんは、主が何千も私に幻を与えて下さっているのをご存知です。最高な事は、私は以前は死を恐れていました。3年位前、クリスチャンビジネスマンで、、、「カーテンを超える時」私はその夜を越えられないかもしれないと実感しました。この人生でもう一度あなたに会う事はないかもしれません。しかしこれは事実なのです。これを幻と呼ぶか否かそれが何であったかは分かりません。最近のある朝、私はちょうど起きた所でした:ミーティングに行くところで、妻と寝ていました。私は、「ハニーあなたは起きているの?」彼女はまだ寝ていました。私は起きて、子供達を学校行かせなければならない事は分かっていました。そしてこの様に手をあげて、言いました。「さて、ビルブラナム、もう50代を越えたと分かっているね?主の為に何かをするならば、急いだほうが良い。何故ならそれほど時間がないから」私は思いました「何という事、主イエスが戻られるのを息て見ることが出来るのが私の希望です」私はいつも我々が死ぬとき、、、ここにいる兄弟と同じように、、、と言えるでしょう。
「ヘイ、あなたは私の教会である晩、地上で話していましたね、ブラナム兄弟。」しかし彼は霊です。彼と握手する事は出来ませんでしたと言うのは彼の手は墓にあって腐っていました。私のも同じでした。私はその様に以前考えていました。
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しかしその朝、何かが私に来ていると感じたのです、そして私は思いましたー普通幻が来るとーそして私は見ていました、そして見て、考えたのです。「さて、これは何であろう?」そして大きな緑の丘を見て又若い女性達が何万も何千万もが至る所からやってきたのです。
そして彼等は皆やってきました、長い髪が腰の方に流れていました、白い衣を着て、はだしで、「私達の兄弟」と叫び、鳴いていたのです!
私は思いました「さて、これは奇妙だ」そして振り返って、そして見ると、そこに私は横たわっていて、そこに私の妻も横たわっていました。そして言ったのです「さて、知っているかい私は死んだんだ」「そういう事だったんだ。私は死んだ」そして言いました「多分心臓発作か何かそういう感じの事で。私は死んでいた。そこに体が横たえられている」私の手はその様にして横たわっていました、ただカチカチ状態でした:私は思いました、「妻が居て、何もかもある、私のシャツがベッドの柱にかけられている」そして思ったのは「私はここにいる」でした。
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そしてもう一度見回すと、これらの女性達が皆やってきたのですそして、彼等はそこにいました。。そしてこちらの方向に来るのを見てそして私の兄弟達、皆純粋な、、彼等は皆若い人たちのように見えました。彼等は叫んでいました「私達の尊い兄弟!」さてどう考えて言いか分かりませんでした。
思ったのは「これは奇妙だ」でした。振り返ってそして私はもう年寄ではありませんでした。若かったのです。そして思ったのです。「これはおかしなことだ」思ったのは「これは幻ですか?」指をかみましたそして思ったのは、「違うこれは今まで会った幻とは違う種類の物だ」
そしてその時、何かが私にここで語りかけ始めて行ったのです。「あなたの人々と共に入ったのです」
そして思ったのです「私の人々?これは皆ブラナム家の人々?
彼は言いました「彼等はあなたがキリストに改修させた人達です」そしてこれらの女性達、、私はいつもある種の物と見做されているのを知っていますね。彼等を私を女性を憎む者と呼んでいます。さて、実際は違いますね?何故なら信じているから、、、ね?私は非倫理的な事や下劣で低俗な者は嫌いです、私はキリストにおける純粋な姉妹達が好きです。もしそういう風であれば大丈夫なのです。
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子供の時、いくつかひっかき傷がありました。そのような種類の事が起こったのである種その方向に行ったのだと知っています。しかしそれは神様がなさっているのです、この時代の為に私を作り変えて下さっているのです。分かりますね?
さて、本物の純粋なる姉妹以上に素敵な物はないと思います。もし神が男性に救いを他にして何か良いものを与えるとしたら彼は妻を与えるでしょう。分かりますね?そしてそうするならば、もし神がより良い事を与えられるならば、彼はそうされています。そして、彼らの中の何人かは妻のように行動する事さえしません、結婚の誓いに忠実でないのですそして、彼らの夫も同じです。覚えていますね、あなたは一緒に生きる様に結び合ったのです。神が地上で結ばれたものは天でも結ばれているのです。分かりますね?
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そしてそれから、それを見たのです。そしてこれらの女性達が駆け上がってきて、彼らの腕を私の周りに回してハグをしていました、そして兄弟と私を呼んでいたのです。さて、彼等は女性でしたが、その場所には罪は決してないのです。分かりますね?彼等は女性でしたが、我々を今作っているものは、、ある女性は女性の分泌腺により、そして男性は男性の分泌腺によってしかし彼等はその形ではありますが、彼等はそこにいても地上での形を持っているのですがそこに罪はないのです。あなた方は皆同じです。もう子供達が育つことはなくなりますね?その通りです。その様に全てがなるのです。
そして私は見ていました、、、そしてこれらの女性達、、そして
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彼等、これらの兄弟達が私を抱き上げて、ある場所に私を連れておきました。私は「なぜこんなことをするのか?」と言いました。
彼は「地上であなたは指導者だった」と言いました。そして「これらはその人々です」と
そしてある女性が上がってきていました。彼女は言いました。「我々の尊い兄弟」最高に美しい女性、彼女が通って言いました、この声が言ったのです「彼女を覚えていないのかい?」
私は言いました「いいえ!」
その声は「あなたが彼女を彼女が90歳を超えた時にキリストに導いた人だよ。分かりますね?どうして彼女が尊い兄弟と言ったのかが分かりませんか?
そして言いました「はい、あなたは、、、」
彼等は言いました。「いいえ、我々はここで待っています」
私は言いました「さて、もし私がそこを越えたらイエス様に会いたい」
その声は言いました「今は彼に会う事は出来ない。御言葉がこういっている、祭壇の下にある魂。彼は少しまだ高い所に居られる。いつか、彼が戻られる、我々は地上に戻る。ここでは食べたり飲んだりはしない。
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私は言いました「あなたが言われるのは私はこれを恐れているという事ですか?なぜこれを。。。」その事を語る言葉はありませんでした。それは、「完璧」でさえそれに触れられていません。「荘厳」ある意味私の知っている英語の単語では表現しきれないのです。私の知っている物をはるかに超えていました。彼はそこにいて、病も悲しみもないのです。死ぬことは出来ません、罪を犯すこともできません。それはただ完璧なのです。友よ、絶対にそれを見逃さないでください。
覚えておいてください。そして私が子供の頃、地獄の幻を見ました、子供としてでした。そしてご存知のように、今日の女性達(あるいはある女性がその様にしている)目をオオカミか何かのように化粧して、目の下に青いものをつけたりしています。それを見ました。私は沈んで行っていました。小さな子供の時です、注射を打たれて、病院に死にかけて横たえられていました。そしていつも神がいると知っていました。これをまだ話したことはないのですが、初めて行った祈り、祈ろうとしたことで唯一言ったのは、今言おうと思っています。私は打たれて、そこに死にかけて寝ていました、それは唯一願った事でした、神様でなければなりませんでした。こう言ったのです「神様私は姦淫は犯したことはありません、あなたがご存知です」分かりますか?小さな子供でした、確か15歳位でした、正しく生きようとしていました。そして言ったのです。「聖く生きてきました」そしてそれだけが私が言った事でした。彼に差し出せたのはそれだけだったのです。
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そしてそこに横たわり、、、私がその医者が居なくなった時に、感じたのは暗闇の中に永遠に沈んでいく感じでしたそしてその様に見えたのです。私はパパに叫んだのです。「オーパパ、助けて!」そこにはパパはいませんでした。「ママ助けて!」ママもそこにはいませんでした。「神様助けて。」そこには神様はいませんでした。それはエンドレスのひどい状態でした、悪夢でした。火が点いて焼けている地獄、そこにいるには喜びはないのです。そこに落ちていました。思ったのは「何度も何度もどうしよう!」という感じでした。そしてその煙がいっぱいで暗い場所そして病気がいっぱいある感覚の場所に入って行ったのです。そしてそれは私にとって死だったのです。そしてそれらの女性達が目に化粧をした感じの女性達がやってきたのです。さて覚えて下さい、それは45年前か50年前の事です、とにかく。彼等は行きました。「アー、アー、うー」と私は言いました。「そこに永遠にいる事になるのですか?と
「永遠」
私は言いました。「オー神様、もしここを出してくださるならば、二度とあなたを恥じる事はありません。絶対にです。神様もう一度チャンスを下さい」と
そして初めて感じたのは、又昇ってきたのでした。そして医者は警告されていました。私の心臓は1分間に17回しか心音を建てていなかったからです。そしてすべてから血が出ていたからです。私は自分の血の上に横たわっていました。そしてそれがいつか起こるのかと考えていました。
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2年ほど前、ツーソンに引っ越した時、妻と一緒にJ.C.ペニーにいました。そしてその様に座って頭を傾けて待っていました。何故なら女性達が買い物をする時は時間がかかるのです。そして私はそこに頭をこの様において座っていました。そしてエスカレーターが上がってきましたそしてそこにはおかしな頭ををした女性達が上がってきましたそして目に化粧をを塗りたくった人たちでした、彼等はスペイン語を話していました。そして皆、その幻が再び来たのです。そうでした。
「オー、オー」
兄弟、姉妹、言わせてもらいたいのです、今はおかしく見えるかもしれませんが、そこに一度言ったら。それは真剣な事なのです。その方向には絶対に行かない様に!
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年長者で、説教師として、世界中で説教をしてきました、何百万もの友人を得ましたが、あなた方と共に立っていたの事が分かっています。世の物から離れなさい。そしてもし何かあなたの内でその様に鼓動したいという物がまだあるならば、世の物があなたの内にあるならば、神の物ではないという事を覚えておきなさい、あなたはただの教会員にすぎません。その召しが来るまで、深い深い、召しがです。分かりますね?
魚の背にはひれがありましたね、まず初めに水の中で泳がなければならなかったからですあるいはそうでなければひれはありませんでした。地上に木が育つ前、地球はなかったのですあるいは育つ木もありませんでした。木がある理由がなかったのです。そしてこの様に近くするために、、、
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何か創造物がある前には創造主が居なければなりません。
「義に飢え渇いている者は幸いである」
我々の中には何かがあるのです。手をしばらく前に挙げて「もっと神の物が欲しい」と分かりますね。必要を抱えているのです。そしてもし、あなたが世を愛しているならば(そしてその方向に行くならば)世の物なのです、世の旅に行くのですそしてあなたは堕落します。分かりますね?そこから出てきなさい。あなたは王の王の息子娘なのです。淑女、紳士、になるのです。クリスチャンとして歩み、クリスチャンとして生き、クリスチャンとして行動するのです。覚えておいてください、あなたはこれらの印の中で裁きに合うようになってしまいます。分かりますね?
今晩眼鏡をかけてみて下さい。「私の進んでいく道は何方ですか、イエス様が私の為に準備している場所ですか?その体は完璧で、その体は正しい方向そうで歩みますあ、それは神のみ前で息子、娘となるのです。そして私は今、その体に入るための産みの苦しみの中にいるのです。もしまだ私が世を愛しているならば、それが分かります、私はそうではないのです。そこには何もありません。教会員にすぎません。私は神の細胞ではないのです。いいえ違います。彼(神様)は私の父ではありません。
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彼は言いました、「もしあなたが叱責に我慢できないならば(今あなたが得ている物です)あなたは私生児であって神の子ではない」それは正しかったのでしょうか?聖書がこういっているのですか?もし神の叱責に耐えられないならば、神が聖句に沿っていないと分かるならば、そして「オー私はそのようなことは聞きたくありません。私はクリスチャンです。私がする事」分かりました。進みましょう。分かりますね?それがあなたが神の子ではないと言う事を確実に証明する事になります。しかし本物の神の子供は飢え渇きでいっぱいなのです。何故?もしあなたの心の中に在る何かがあなたに言う事、そこに必要があるのです、そこに脈動する何かがあるのです。そこに引っ張るようになったのです。ここにこれと同じような体があるのです。これを何のために使っているのですか?悪魔と世界そしてファッションなどに栄光を与えいるまたは、天国を見上げていますか?そこに何かがありますか、あなたはあなたの人生に栄光を与えています。
「私の父の家には多くの住まいがある、もしなければ、あなたに言っていることになる。そしてそこに行って準備をして私自身であなたを受け入れるためにいるところにする。これらの事は唯一可能性が今あったのです、そうなる様に。
祈りましょう。
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真剣に考えましょう、親愛なるクリスチャンの友人達?本当に真剣に考える事をちょっと考えて下さい。その時の為に静かにしましょう。聖霊に語っていただきましょう。
さて、主なるイエス様が私をあなた、ペンテコステ派の人々にだいぶ前に送られました。ここにあなた方の男の子たちの一人があなた方の牧師になりに上がってきました、ミニストリーから出た結果と言っていました。彼は盲目を主イエスに開かれたのが分かりました、彼はそのおかしな頭になっていたと。私はまだ、癒しの礼拝をしていますが、私は多くの病気の人々の為に祈りました。彼等は癒されました、主は祈りに答えて病気は癒されました。しかしあなたは癒された人の何人かは既に死んでいたのを知っています。そしてどれほど病気であろうとも、もしあなたが癒されるならば、あなたはいつかは死ぬようになるのです。しかしその魂、私の尊い兄弟、その魂、私の尊い姉妹、今そのことを考えられるでしょうか?それは永遠なのです。もしその神の愛はありません、神に尋ねたのです、引くことはないのです、「オー神様、今晩私を始めたのです。私はあなたを愛しています、主よ。私はあなたを愛したいのです、そして私の心は何か私はあなたに近くならなければならないのです。私は今あなたのようになりたいのです、主よ、そうしてください。」もしこの建物の中か外にいる人々、あなた方にキリストの僕としてイエスキリストの名によって、頭を垂れて神に手をあげてこう言っていただけるようにお願いしたいのです、「神様、私を近く近くに導いて下さい、親愛なる神様、全てあなたが神の御言葉の中にあるものにかなう事が出来る様にしてください」今手を挙げて下さい。本当に正直になってください。 ただ考えて下さい。
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さて、あなたは言うでしょう、「オー私はこれをしました、御霊の中で叫んだのです;私は異言で語りましたが、何か私の人生の中でかけている何かがあります。神の御言葉の鏡の中で見たのです、私は何かがあるのを知っています。教会に行きましたが、何をすべきなのかを知りません」分かりますね?それが何かを示しています。さて、もしあなた自身を見てそしてあなたは神の御言葉にかなうようにしていました、そしてそこには何もありませんでした、あなたの手を挙げている理由でしたそして、何かが違うのを知っています。あなたは、母は以前言っていました「あなたは蕪から血を取る事は出来ませんというのはそこには血はなかったのです」分かりますね?本当に真剣に考えていました。これは最後の機会かもしれません。30か40の手がこの小さなグループの中から挙がりました、聖職者さえもいました。
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本当に静粛になってください。さて、本当にまっすぐ考えて下さい「親愛なる神様、私は今晩事故によって殺られるかもしれません。心臓発作で死ぬかもしれません。これらの朝の一日で、私は医師を呼ぶかもしれず又、彼は来て、私の袖の下での心拍が上がっていました。私は死んでいました。私の頬を枕に対して押して言いました、「オー神様、オー神様、オー神様!」分かりますね?その心臓は最後の心拍をして、その大きな扉に来たのです。あなたは神の御霊の中で生まれ変わっていない限り出る事は無いでしょう。何かがあなたの中にない限り出る事は無いのです、あなたが神の御霊の中で生まれた後で、神と共に行くと言う飢えと渇きがなければ、成らないのです。そうでなければならないのです。分かりますね?あなたは地の子供で、地上に生まれたのです、神の御霊の中生まれるのをまだ待っています、彼はあなたの為に完全な体を準備する必要があります。さて、深く考えて下さいそして、一緒に祈りましょう。
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親愛なる神様、これはその本の中に大きな記録として何ページも書かれていることを知っています。我々は科学の中に間違えて入って言った事がありました、主よ、我々を目覚めさせてください。世が何度も回っている全ての動きについての実際を同時に我々もそれが出来る様にしてください。我々は、テレビから知りました。そして父よ、テレビは、写真を作らない事が分かっています。それはただチャンネルがあるチューブを通して、バイブレーションによって映しているのです。服の色でさえも空気の波長を通してみているのです、世界中にそのバイブレーションが送られているわけです。そして我々の姉妹達がそのような服を着てそのような鼓動をして化粧をしたいという思いや髪を切りたいという思いになってしまうのです。
聖職者達は神学をまなびに神学校に行きそして人々の言葉を取って物事を学びそれを彼らの伝統によって神の戒めを人々に対して効果のない物としてしまっているのです。彼らの言い伝えや伝統では、彼等は教会に属しているべきでそれだけというのです。オー神様、彼等は我々の言う言葉の全てが科学的に証明されていると気が付いています、それは記録にあるのですそして、それは我々が地上に住み始めた時に始まりました、それは我々が死ぬ他時に終わるのです、そしてそれは神のアルバムに置かれて裁きの時に再生されるので、どのようにその神の裁きや怒りから逃げられるのでしょう、もし我々の目の前にそれほども物事がはっきりとされているのに、それを我々が受け入れないとしたら。オー親愛なる神様、これらの言葉は決して敗れる事はありません、それらは永遠に続いていくのです。その記録は裁きの日に再生されるでしょう。あなたはその手が挙がっているのをご覧になりました、乳牡。それは裁きの日にそこに在る様になります。又、彼らの心は、裁きの日にそこにいると言う事を考えていたのです。
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さて、父なる神様、あなたの僕としておたずねします、あなたの民から全ての汚れ不義を取り去って下さるように祈ります。不義ー「我々がすべきでありながらしなかった何か」ダビデは言っています、「もし私が心に不義を抱いたならば、神は私の祈りに答えてはくださらない」神様、我々の不義を全て取り去って下さるように祈ります。なぜならば、その言葉はあなたがガラスの様にご覧になっているからです、どれ程王の息子娘である期間が短かったとしても。神様、あなたが今晩それをなさるように祈ります。
そしてその祭壇を作っています、何故なら人々が祭壇に沢山座っているからです。そしてその祭壇には椅子があり彼等は座っていて、彼らの心を神の祭壇としようとしているのです。この世を全てのここにいる兄弟姉妹から取り去り動かしてくださいますように。そして命の小さな細胞が神の細胞となり、ただ我々がその事を話す時、神様からの属性として来て神の栄誉と栄光を表すことになりますように。神様そこから世を動かして取り去って下さい。
他には、私は祈れません、主よ、というのは病は死に行くものだからです、そしてそれを動かす理由が何もないのです。しかし誰でもそれが間違っていると知っている人達は動かし彼等の心を清め彼等の魂を今晩清めて下さいそして父よ、彼らをあなたの御霊によって満たし、あなたの光の内を歩む者としてください。
102
この親愛なる、健康で強く見えるここにいる牧師を祝福してください。主よ、この若い人は、影響力を持っています、彼は、彼はあなたのされることを見たと言いました。この素晴らしい若い人、オー神様、彼の魂に火をつけて下さい。その祈りを受け入れて下さい。主よ。彼を真の羊飼い(牧師)として常に継続して使い、その群れを養い聖霊が彼の監督をしてくださるようい祈り求めます。受け入れて下さい。彼が右や左を向くことなく、他の道や信条やそのほかのいかなるものにも向かない様に、ただ混じり気のない神の御言葉が彼の口からそれのみが出る様にしてください。神様彼を祝福してください、そして彼の愛する者達そして彼のここにある小さな教会を祝福してください。彼等全員と共に居て下さい。父よ。
これをあなたの御手に委ねます。種はまかれました。その命として指定された種が落ち強く大いなるクリスチャンにここの集まりの為にそして彼らが来ている他の集まりの為にも育つようにしてください。主よ、受け入れて下さい。イエスキリスト、神の御子の名によってそれをゆだねて祈ります。
そして父よ、「 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。」
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扉を通ってちょっと前に可哀そうな女性が動いていたのを見ました。そしてオー神様、彼女自身の家族に素晴らしい事がなされたのです。あなたがその様にして顕されたのです。神様その女性の為に祈ります。彼女の過去の人生を全て取り去って下さい、主よそして彼女を今晩癒してください。そうされますよね、主よ。彼女をあなたの為に取ってください。私は小さな子供達がここに座っているのを見ています、主よ、癒しを必要としています。他の人達。私はあなたが彼らを癒してくださるように祈ります。父よ。受け入れて下さい。あなたの偉大なる癒しの力が来て、我々の魂と体の両方を癒してください。
104
そして今、教会の中に居る人も外にいる人でも、癒しを必要としている人達へ、手を挙げてほしいのです。そして「癒しが必要です、ブラナム兄弟」と言ってください。まるで皆がその様に見えます。分かりました。私をキリストの僕と信じていますね、そうならば「アーメン」と言ってください。そしてお互いに手を置いてほしいのです。お互いに近い人達に手を置いて下さい。あなたの挙げた手(中でも外でも)あなたの挙げた手は神を信じているという事です。イエスキリストは言われました。(教会への最後の命令)「全世界に出て行って、すべての創られたものに福音を宣べ伝えよ。誰でも信じるならば、彼は信じて洗礼を受けるならば救われる、信じれば死ぬことはない。そしてこれらの印が信じる者には伴う、私の名前によって悪霊を追い出し、彼等は新しい言葉を語るようになる、もし彼らが蛇や死に至るものと言われるものを飲んでも彼らには問題がない。そしてもし彼らが病の人に手を置けば彼等は癒される。さてイエス様は言われました。覚えておいてください、彼がそう言ったのです。それならばその通りにならなければならないのです。彼は誰かが御言葉を得るようになる人々はどんどん減るようになるであろう」とは言われませんでした。
105
ちょうどマリアの子宮で精子を捕まえたように「処女が身ごもる」とあり、それはヤシの木が丘の上に松の木を作るようです。神はそうされたのです。神の御言葉はあなたの心を今捕まえることが出来るのです。「私は信者で巣主よ、この男性あるいは女性に手を置きます、彼等は苦しんでいます。私の為に祈っているのではありません、彼らが私の為に祈っているからです。彼女彼等の為に私は祈っています。そして主よ、彼を、彼女を癒してください。そして私は信仰者です、我々は集まっているのです。我々は彼が地上を歩かれた時キリストは我あれと十に居て彼等は私のも言いました。私は祈り続けています。彼と彼女が両方癒されますように。そしてオー神様、彼女を癒し、彼も癒してください。私は信者でそして今我々は集まっています。我々はキリストと重荷いると教えられてきました。彼が地上を歩かれたとき、我々は彼の御言葉の一一部なのです。我々は彼と共に苦しみ、血を流し、共に死んだのです。彼と共に蘇り、天的な場所にイエスキリストの内で(偉大なる王)彼はここに我々と共に座っていると言えます。そして私は、この王の息子あるいは娘です、そして偉大なる王はここで我々の中央におられます。王の娘を主よ、今、彼の為に祈ってもらったお返しに祈ります。さて、主よ、私の祈りに答え、このあなたの息子あるいは娘を今日癒してください。一緒にお互いの為に今祈りましょう。
106
主なるイエス様、謙虚に来て我々の間違いを告白します。我々は病や死や悲しみにふさわしいものであることを来て告白しています、しかし我々はあなたの贖いを我々の罪や病の為に下さるものを受けています。そして今晩これらの神の息子や娘達がここにいて御言葉による戒めや懲らしめを得て、彼らの手を挙げて、よりあなたと近く歩むことを求めています、彼等は今お互いに手を置いているのですと言うのは彼等はあなたの御言葉が真実であると信じているからです。彼等は我々はキリストと共に蘇り彼と共に天的な場所に座っていると信じているからです。彼等は彼らの手をお互いにおいてお互いの為に祈っているのです。あなたは信仰による祈りは病んでいる物を救い、神は彼らを立ち上がらせてください。そしてもし罪を犯している者がそこにいるならば彼は許される。お互いに自分の罪を告白しあいお互いの為に祈るのならば癒される。義人の祈りは大いに力あるものだからである。
オー永遠なる神様、あなたの僕の祈りを聞いて下さい。そして今、それは再び書かれているのです。「もしその人々が私の名によって呼ばれ彼等自身が集まって祈るならば、そして私はそれを天から聞くであろう!」オー神様、あなたの子供達の祈りを天から聞いて下さい。聖霊を送りこの会衆に力強い風のように送ってください。
そして我々はこれらの人々を神のみ前に連れて行きます。
107
サタンよ、お前は打ち負かされたのである。打ち負かされたものである。イエスキリストはお前をカルバリーの丘で打ち破ったのである。お前には何の力もない。お前はただの騒ぎにすぎない。我々は今場の前をイエスキリストの御名によって追い出す、これらの人々から出てきなさい、病気や病からそして彼らがイエスキリスト、神の御子の名によって自由になるのです。
ハレルヤ!神の栄光を感じなさい。あなたの祈りが答えられたことを知りなさい!あなたの隣に座っている人の祈りを神が答えられたと信じますか?何人が信じますか、手を挙げて下さいますか?すごいですね。素晴らしい。
愛しています 愛していますあ(手を挙げて心から彼に
歌いましょう)
何故なら初めに彼が私を
愛して下さったから(心からそう信じていますね?)
カルバリーの木の上で
私の救いの為に支払われた。
108
あなた方の内の何人が神様があなたの不義を許して下ったと感じていますか、あなたが今までしたことに関して?そして今晩から、「オー神の子羊、私は正しく歩んでいくと約束します。私が召された何栄誉を持ち歩みます、クリスチャンとして、キリストに似せたものとして。手を挙げます、神よ。私は自身をあなたによって新たにされて検診しますあ。光の内を歩みます。」アーメン!
光の内を、美しい光の内を歩みます。
憐れみの露がある場所が輝き
我々の周りで昼も夜も輝くのです。
イエス様、世の光
我々は光の中を歩みます。
それはそれは美しい光。
憐れみの露が落ちる場所は
眩しくなるほど輝く
(彼が我々の為に用意しに行く場所)
我々の周りは昼も夜も輝く。
イエス様、世の光。
光の聖徒達よ皆来て、宣言せよ。
イエス、世の光。
真理と憐れみは彼の名の中に在る、
イエス、世の光
(我々は何をするのでしょうか?)
我々は光の中をそれはそれは美しい光の中を
あゆむのです。
憐れみの露が落ちる場所は眩しく輝く
我々の周りは昼も夜も輝く、
イエス、世の光。
清められ罪を全て取り去られたように感じていませんか、気分は良いでしょう?オー素晴らしい。
又一緒に歌いながら、握手をしましょう。
我々はそれはそれは美しい光の中を歩むのです。
憐れみの落ちる場所は輝く。
我々の周りは昼も夜も輝く
イエス、世の光。
目を閉じて、それをハミングしましょう。(会衆がハミングをしている)
(我々は子供のように動く、我々は子供達である)
オーそれはそれは美しい光、
そして憐れみの露が落ちるところは眩しく輝く
我々の周りは昼も夜も輝く
イエス、世の光。
彼を愛していますか?
私の信仰はあなたを仰ぎ見ます。
カルバリーの子羊
(目を閉じて歌いましょう、御霊の内で
賛美しましょう!)
神なる救い主!
今、私が祈る時
聴いて下さい。
私の全ての罪を取り去って下さい。
この日から完全にあなたの者としてください。
私が歩む人生に暗闇や泳い道がある時、
私の周りに苦しみが広がり、
オー、あなたが私の道を導いて下さい。
暗闇を光に変えて下さい。
悲しみを拭いサリ、怖れを取り去って下さい。
私を迷わせないでください。
隣にいさせてください。
オー何と、あなたは私は古臭い人間であることをご存知です。
例えば、私は全て新しくなった音も負うのです、ロックンロールや、ファングや物真似は何百マイルもやって来たけど。
そして古い詩人はそれらの歌を書いたのです、聖霊がそのペンに触れて彼等は書き始めたのです。何と素晴らしい。私が言っているのは、エディーペロネットや全ての素晴らしい人達、ファニークロスビー:
優しい救い主、私から離れないでください。
私の穏かな祈りを聴いて下さい。
109
一度、彼女に来てもらおうと彼等はしました。彼女はペンテコステ派のエルビスプレスリーの様な人は好きではなかったのです、キャデラックの為に彼女は長子の権を売りませんでした、彼女に来てもらって、彼女に世的な歌を歌わせたかったのです。彼女は、「そのような事は一切しない」と言いました。
そして「さてあなたは、盲目です。天国に行った時、どのようにするのです。。。」
彼女は霊感の内で振り返り、こう言い始めました。
私は彼を知るでしょう。私は彼を知るでしょう。
贖われたものは彼の隣に私はそこに立つのです。
私は彼を知るのです。私は彼を知るのです。(どのように?)
彼の手の釘の痕によって
そうでなければ、「もし彼を見ないならば、彼の手を感じる事でしょう」
私は彼を知るでしょう。私は彼を知るでしょう。
贖われたものは彼の隣に私もそこに立つのです。
私は彼を知るでしょう。私は彼を知るでしょう。
彼の手の釘の痕によって、
それは彼を愛するようにさせませんか?あなたの為に場所を用意しに行かれたのです。そしてもし私が行くならば場所を用意し、私自身があなたを受け入れるために戻って来るであろう。」
110
小さな子供達が今苦しんでいる、神の戒めに従う事において。そしてここにいる牧師さん、もしあなた方の内に洗礼を受けていない人がいるならば、水は用意されているのです、教会の会員制あるいは何でもあなたがしたい事、、もし聖霊のバプテスマを得ていないならば、今晩はそれを受け入れる為の時です。それを信じ飛鳥?
「オー」とあなたは言い、「ブラナム兄弟、もう遅すぎます、長い時間説教をし過ぎました」パウロは一晩中説教をこのおないようなメッセージをそして小さな、若い人達は壁に居て彼自身が死んでいました。そしてパウロは同じ種類のメッセージで油注がれ、彼の身体に命が戻って来たのです。彼は今もイエスキリストであられます。昨日も今日もいつまでも変わることの無いからです。彼を愛していませんか?もう一度手を挙げて、
愛してる。愛してる。
ピアニストはどこに居ますか?もしいるならば姉妹、誰でも小さなコードを下さい、
何人が彼を愛していますか?ただ手を挙げて下さい。そして「本当に彼を愛している、心からただ全身全霊で彼を愛している。私は彼を愛している」と言ってください。
111
さて、ただ栄光の神に目を閉じて手を天に向けて挙げて歌いましょう。
愛してる。 愛してる。我々は神を礼拝しましょう。あなた方が説教するときそして、止めて、涙を流し、それを引くのです、これは神が注がれた油で、癒すものです。ギリアドにそのバームが魂の為のバームがあります。さてそれを歌いましょう。そのコードを下さい。
愛してる。 愛してる。
彼が初めに私を愛してくれたから。
そしてカルバリーの木の上で
私の救いを買って下さった。
そしてもし、「あなた方が互いに愛し合うならば、すべての人があなた方が私の弟子である事を知るであろう」その通りです。もし目に見えるお互いを愛し合えないならば、目で見る事の出来ない神をどのように愛する事が出来ようか。
愛してる。 愛してる。
彼が初めに私を愛してくれたから、
そしてカルバリーの木の上で
私の救いを買って下さった。