キリストは彼自身の言葉によって顕かにされている

  • 伝道者:ウィリアム・ブランハム
  • ジェファーソンビル インディアナ州 アメリカ合衆国
  • 録音番号:65-0822M
  • 年:1965
1
頭を下げて祈りましょう。主なるイエス様、偉大な群れの羊飼い、我々はあなたに多くの恩義を負っています。主よ、我々はあなたが下さり私達の心に入ってくださった愛に支払いしきれることはあり得ません。あなたのご臨在の中に頭を垂れている我々は相応しくありません。全ての間違いや罪から決めて下さい。私達の肉体を強めて下さるように今日祈ります。多くの病の人々がここに来ています、ハンカチや電話でのリクエストがどこからもかしこからも来ています。
私達は、今、この世の歴史の終わりにある事を信じています、まもなく永遠に入る事によって時が消えていくと信じています、そしてその時の為に準備していたいのです。だから今朝この場所に、その時の為の準備の為に集まっているのです。沢山の電話が今朝国中に繋がっていて、沿岸から沿岸に渡っているのです。私達の声が来るために、小さなグループを祝福されていました。彼等の中で病気の人を癒します。そしてあなたが彼等の魂を全ての悪い者から清めて下さるように祈ります。そして今朝タバナクルで大きな特権を楽しんでいること又、ここにいる私達を助けて下さい。
2
又、書かれた言葉を通して御霊が今日語って下さり知る必要のある事を明らかにしてくださるようにお願いします、今国全体で集まっています、そして小さな民だと感じていますが、贖われた人々の中に場所があるのですというのはイエスキリスト信じた者達だからです。
これらの事を認めて下さい主よ、そして礼拝を閉めるときに異なる家々に国全体で帰ることになりますが、エマウスから来ている人達の様に。「その道で主は我々に語られたとき心が燃えなかっただろうか?」と言えますように。
さて、父よ、私の言う事は間違いなく十分ではないという事は分っています。国全体の素晴らしいクリスチャンを通して、彼等が聞いて居ます、それは十分ではないのです。同じカテゴリーにいるから、我々は何かをより良くできるというようなことではありません。我々は人間であり、死すべきものですが、偉大なる聖霊に語っていただくならば、彼はその御言葉をしっかりと鳥、彼自身をあらわしてくださいます。我々はイエスの名によって待っています。アーメン。ご着席ください。
3
ある意味自分でも驚いているのですが:妻に話しました、もし、ツーソンで聞いて居るならば、戻った時に礼拝をするとは思っていなかったので、洋服を持ってきてさえいませんでした。そして義理の娘にー言ったらー彼女がコートにアイロンをかけてくれていましたーそして言ったのです。「演壇に立っているのだけれど、彼等はズボンが一つの種類でコートは別のもので、それは家で来ていた物であることを知りませんでした」だけど、メダ、彼女がシャツにも全てアイロンをかけてくれたから、心配しないで。全ての事は大丈夫です。
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さて、ここでリクエストがあります、とても親愛なる兄弟がいます。プレスコットは今朝繋がっていると思うのですが、アリゾナ州のプレスコットですね。メルシエル姉妹のお父さんは会合に来る途中に心臓発作で病院に連れていかれたと理解していますーコギンス兄弟です。そして又ジュニアジャクソン兄弟、ラジオの隣にいるかクラークスビルで電話に繋がっているかあるいはーニューアルバニー、そして彼のお父さんも病院にいると理解しています、肝臓がんのかなり厳しい手術の為にです。又私達は間違いなく、これらを祈りの内に覚えたいのです。そして今、ここにも他の方がいますが、時間を取り過ぎたくないのです。神様が彼等について全てご存知です。さて、彼等の為に祈りましょう。
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親愛なる神様、年を取ったしわのある手を持った兄弟、コギンス兄弟は、そのフィールドではベテランの方で、今朝どこかで、心臓発作にかかって病院に寝ておられます。神様、疲れた古い心臓は沢山の苦労がありました。神様祈ります、彼を助けて下さい。この祈りに答えて下さい。彼も私達全てと同様に生きたいのです。人生を愛しているのです。主なる神様。お答えください。国全体でイエスの聖名によって彼の為に祈ります。そしてあなたが彼を癒し、病院から解放してい下さい。あなたががされると信じています。そして彼がその後ミーティングに来られますように。
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ジャクソン兄弟の尊いお父様が死にかけて寝ていますが彼の為に祈ります、そしてジュニアの様な素晴らしい息子を世に出したのです。そして祈ります、親愛なる神様、彼を癒してください。それは不可能なようである事は知っています。医療や医師たちはある症状についてはどうしていいか分からないのです。しかし、ホール兄弟も覚えています、ここにいる最高の医師が言いました(ルイスビルで)「あと数時間の命です」彼は肝臓がんがありました。そして彼は今も生きています。(そしてそれは25年前の事です)何故ならあなたの恵みだからです。だからジャクソン兄弟を今日癒してくださるように祈ります、主よ。あなたの恵みと憐れみが彼と共にありますように。
この大きなハンカチと生地の山は、リクエストによってこの場所に置かれているのです。-あなたが全てをご存知です。父よ。-私は祈りますので、彼等全てを癒してください。イエスキリストの御名によってアーメン。
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さて今朝始めるにあたり、先週の日曜日ここにいるとは思っていませんでした。そして再び、アナウンスした時に、やってきたのです。ネビル兄弟が、私に話すようにとそして今日私が来ると通知していたのです、そして国内全体には伝えられていませんでした。この電話のシステムを今持っているので、とてもとても素晴らしいです。人々は家に集まって彼等の場所で、彼等の教会その他でその礼拝を聞くことが出来ます。そのことを感謝しています。
8
さて、ここに来て、先週からそのメッセージにおいて沢山のリクエストがありました。今そのタイトルは忘れてしまっているのです。しかし、あなたの借金を支払う事について話していたと思います。そして、あなたがどういおうと、多くに誤解をされているのですというのは彼等はそれを誤解したくはないのですが、単純に誤解しているのですン。そして今、ある人が、「車を買うべきですか?」あるいは「私は何をすべきです」さて、それはイエス様について話している事でもあるいは聖書に書かれている物でもありません。聖書は「誰にも借りがあってはならない」とあります。それは払う事が出来る借金についてもです。払うべきなのです。それが誰にも借りがない事。その意味は、私は家賃、電話料金何も借りがないという事ではないのです。我々はそういったものは借りていてそれを払います。しかし古い長引いている借金は払える、払いきることが出来るのだ。そのようなことに何も引き続ける事はいけません。
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子供の時、病気だった時の事をおぼえている。病院を出た時2000ドルくらいの借金になった。そしてここには、薬局が以前あった、スワニガーさん、3百か4百ドルくらい医療関係のお金を借りていた。彼は私の事を知らなかったのだ、そしてその人、私は彼に言った。私は彼を知らなかったので、彼はそこにとにかく送っているのです、決してそれを送るのを拒否する事はありません。そして、私は、「私は借りている」そして信じているのは、すわにがーさんではなく、それはコートアヴェニューアンドスプリングコートのメーソンさんだと思っています。そして、「私は借りていますそしてまだ非常に弱いのですが、仕事に移行としています。今もし払えなかったら。クリスチャンになったのですと言いました。「初めにメーソンさん、私の神への義務として、私の十分の一税を神に借りているのです。まず神様にそれを払いたいのです」そして私は言いました、「次は借金を支払う事です」そして言いました。「父が病気っぽく子供が十人いるんです」でも言いました「給料日に毎回二十五セント以上払えなかったら、もし二十五セントさえ払えなかったら、ここに来て伝えます。伝えます。今回は出来ません。」神の助けにより、すべての物を払い終えました。しかしそういう意味の事を言ったのですね。
ただ 誰かが言ったからと言わないでください。
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オーここの教会にいるあるクリスチャンで一度出かけてここで来るまで何かをした方である人でここに来た人。その人が言いました。「私が払います。土曜日に支払われたので」あるいはその他。そして彼は彼に閲して払いませんでした。そして毎週毎週、伸ばして決して彼に払いませんでした、何も言いませんでした。そしてその人が来て私に尋ねたのです、彼は言いました。「分かりますね、それは教会に敵対する反映になるのです。それはキリストに敵対した反映になります。もし、彼に払う事が出来ないならば、彼の所に行って、「借金をしています、いずれ払います、私はクリスチャンですが、今の状態ではすぐは洗えません。私自身も我々全員でも、払えるように努力します、間のなく何かを受け取る予定です、何かが起こる予定です。だから準備したいのです、主が来られるのが近い時、さて、その大いなる時の為に準備したいのです。
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さて、我々は準備したいのです、ここで小さな主題について話しています。今朝主の助けによって選んだのです。そして我々は出来る限り簡単に話すつもりです、というのは人びとに繋がっているからです。国中に繋がっている様に望みます、ここインディアナは素晴らしい朝です。気分が良く涼しく、晴れています、雨が降っていたのですが、今はとても良く晴れています。
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さて、読んでほしいのはへブル書1章とヨハネ書の1章、へブル書1:1-3そしてヨハネ書1章1節をテキストとします。今朝の議題は聖句からの学びがあります。さて、へブル書1章1節を読んでください。
神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた。3 御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる。そして罪のきよめのわざをなし終えてから、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれたのである。
何と美しいのでしょう読んでください、さて、ヨハネ1章1節。
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
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さて、今朝のテキストは、キリストは彼自身の言葉によって顕かにされている。さて、これいついて結果に至るには何かについてというのは、我々が言うべきでなかったことを知ることによって、なぜならば我々は何でも適当の話す為に集まっているのではなく、人々が安定化するのを助けるためだからです、我々は危険な超危険な水を渡ることになるのです。我々は既にそれを通り抜けてきたのです。そして時々、それは私と共にある様にあなた方共に居る事になると思われます、その様にみえるのです、それは怖そうなのです、、、
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私は数分前まで若い奉仕者と彼の妻とその部屋で話していました。そして彼等は両方とも、世の残りの人と同様、地球上の他の人達と同じく緊張しています。私は言いました。「サタンがあなたを打とうとしていることをおぼえていなさい」あなたが誰であろうかは気にしない、彼は打つ権利を持っているんです。その方が良いのです、そのパンクは目が見えない、関節炎を持ち、椅子に座っているか、緊張しているのですか?分かりますね、彼がパンチする事が出来る場所がありました。彼は空いている場所に入る権利を持っていました。さて、その場所はいつもあなたが持ち続けていたのです。
そして、この我々が生きている緊張している時代を理解するために、、
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そして、先週のテープだと思いますが、私は大いなる隠されていることを顕かにするために我々は近いうちの位置にチン話すつもりです、十分な場所、これらの終わりの時の災害が地上に注ぎ込まれる場所が始まる前に、それらの災害そして7つの嵐が注ぎ込まれるのです。そしてその隠された者が地球に来るのです。
人々は今、そして今日の人々は、極度に恐れを持っている状況にいるのです、世界中がです。
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先月のリーダーズダイジェストを読んだら、そこにかかれていた事、偉大な伝道師ビリーグラハムについてでした。彼は凄く疲れていました、彼は集会を持つことが出来ませんでした、そしてメイヨークリニックに健康診断に行ったのです。彼には何の問題はありませんでした、十分な仕事をしていなかっただけです。そして彼等は走らせたのですー肉体的なエクササイズでした。彼は毎日1マイル走っています。そしてその時、その記事は科学が今日証明されていたのです、これらの小さな少年少女たちが20歳の時彼等が中年の様になっていたのです。そして25歳までには、25歳で更年期障害を多くの少女たちが外れていたのです。
私はもし知っているかどうかは知りませんが、終盤立って、聖霊がここでの集会の中で話されたのです、ここに座っている小さな女の子が、ここにいます。。それが呼び出されたときにその子供が何が間違っていたかが分かったのです。彼女は2度目再び何が問題だったのかが分かったのです。「そうであるに違いない、その子供は若すぎる」と分かったのです。しかしそれは、20歳位で更年期障害だったのです、23歳かそのくらいでしたね。
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私の母とあなたの母親が45歳から50歳位になった時の事でした。私の妻が25歳くらいになった時でした。
さて、20歳に今では下がってきています。人間は今腐ってきているのです。さて、もし我々の体が、ハイブリッドの食事を食べている事で体がおかしくなって腐ってきているから脳細胞おも腐らせているのでしょうか?さて我々は女性が街を裸で歩いている状態であることを見る事があります。我々は時速120マイルで彼等が走っていることなどが分かります。その国全体で全てが怒っているのですこの国だけではなくてどこでもかしこでも精神的におかしくなっています。
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そして主の御心でこの7つの災害やこれらの隠されていたことが示され明らかになっている時、人々はしばらくした後若しくなるのです、彼等は蟻が山の大きさだと想像するようになるのです。彼等は苦しむ女性達の様になり、地上からイナゴが苦しむ情勢の様な長い髪を持っている様になり、獅子の様な長い歯があり、サソリの様な尾を持っていて地上の人々は苦しむようになります。しかしその時それについては既に遅すぎるようになります。今でも、、苦しんでいる状態。
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そして先週の日曜日、その外側の五感についてその周になるのです。それは体からの5つの入り口。五感が唯一体に入っていく方法なのです。分かりますね。視覚、味覚、感覚、臭覚、聴覚。体に繋がるには他に方法はないのです。
人の中には霊と呼ばれるものがあります。そして彼は五感があります。 考えて下さい。考えあるいは思い、そして愛、意識、などなど、分かりますね。
さて、体では考えられない事があります、頭で考えるのです。そして、多くのクリスチャンを辞めているのです。そしてそうできるのです。トウモロコシ畑とその畑の雑草、彼等は同じ聖霊によって油注がれているのです、本当の信仰者と同じものです。しかし内側は次の領域, 第3の領域は魂、そして神によるあらかじめ定められた喪に立ちなのです。それは本当に種でありそこに在るのです。
そして覚えておいてください、もし私がおおなみを取って開けるならば、その麦の中心があり、そこに埋まっていて、その麦がおおなみの外側にあるので、外側が何であれ、それが感情となるのです。
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今日聖霊の現われの証明についてはかなり混乱しています。サタンはある意味神の与えている賜物のなりすましが出来るのですが、彼は御言葉を齎すことは出来ません。言葉によって。それはエデンの園で彼は失敗したのです、常に彼は失敗しているのです。彼等はそこにいるのです、偽の油注ぎあるいは油注がれた者に関するテープ。彼等は御霊によって油注がれることが可能です、異言で語る事、踊る事、叫ぶ事、福音を宣べ伝える事そしてそれでもあくまでありうるのです。それは内側なのです。さて、覚えていてください。イエス様は言われました、「父が私に与えた者は全て、私に来る、誰も父が初めに決めた者以外私に来るものはいない。
さて、我々はそのレッスンを通してあなたのずっと戻って肉的に話すとなると曽祖父にまで戻る事が分かります。そして、あなたは肉的な存在です。時々子供が赤い髪の毛で生まれてきます。それは父親をびっくりさせます、彼の家族でだれも赤い髪の人を又母親もそうではないからです。しかしもし、あなたが数世代戻るとして、誰かが赤い髪であった場合があります。その子孫が引き続きやってきてそして後ろ側にあなた方が自然な人なのです。へブル7章が言っている様に、メルセデック、、アブラハムは彼に10分の一税を払っていました、彼は王を殺したところに戻って来た時、そしてレビ人は十分の一税を受け取り、払っていました、彼はメルセデックの繋がりであり、アブラハムの繋がりであるというよりも、メルセデックにアブラハムが会った時の事でした。
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さて、これも同じ音なのです。:もしあなたが神の子であるならば、そしてもし私が神の息子、娘であるならば、我々は神の内に初めからいたという事なのです。そしてイエス様が御言葉の成就となられたとき、我々は彼の中に居たのです、菌の様な形で。彼が十字架にかけれr他時、我々は彼の体の内で十字架にかけれたのです。彼が死から蘇られたとき我々も彼と共に蘇りました。そして今、我々がそれを認識して以来、今我々はイエスキリストと共に天的な場所で座っているのです。我々は神の息子娘であるならば、我々は神の子供なので、我々は神に属するものなのです。だから永遠の命を得たのです。そして神のみが永遠の命を持つ者です。そして我々は初めから彼の内に居たのです。そしてイエス様が御言葉になられたとき、我々は彼の一部となったのです、アーメン!分かりますね。そこにそれがある時、悪魔も、権力も何ごともそれを動かせるものはいないのです。それが魂としっかりと結びついている柱なのです。
この御霊のうち五油注ぎされることがここで可能なのですそして何でも望む事を、然し御言葉に結びついたならば、そこから動く事は無いのです。しっかりと御言葉に安定して真実で居られるのです。それ以外では、どんなことをしてもまだ失われているのです。
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ラオデキア教会時代はー裸で、目が見えず、みじめな者なのにそれを知らないのです。分かりますね。それはその油注がれた者、本当の御霊で油注がれた者。分かりますね。聖霊は彼の霊の中に人の中に降りる事が出来ますが、彼の魂は発酵菌の様なものです。それが御言葉なのです。そしてどれほど説教しようと、それほどそれを上手にしようがどれ程愛していようが、気にしません。その霊の出口の一つだからです。体で愛することは出来ません、霊で愛するのです。それが出口の一つです。そしてあなたは愛する事が出来神を愛する事さえできますそしてそれでもまだ正しくないのです。悪魔を追い出すこともできますそしてこれらの事を説教する事も出来ますでもまだ正しくないのです。イエス様は言われました、多くの者達がその日に来ると、その御言葉がそれをはっきりさせています。
初めに言葉があった、言葉は神と共にあった、言葉は神であった。
言葉が肉を取って来られて我々の中に住まわれた。
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気が付いて下さい。聖書のこの議題について話していくつもりです。キリストは彼自身の御言葉によって顕かにされた。この結果をもたらした場所は家の中でした。ある親愛なる人(今朝ここに座っていたかもしれません)書斎にある写真を下げています、それは至福の時を描いたホフマンのキリスト像です。そしてそこには髪の毛の部分が必要な場所があり、その場所を超えるように少し強くペンを押した場所でした。そしてそこに彼がいるのです、彼の御言葉を見るのです。キリストは至福の内におられるのです。誰でもかつていた人に関してそのことを感謝しています。そして誰かがその絵を買って私の書斎に置いたのです、エリヤが火の戦車に上がって行ったのです。我々はこれらの事を感謝します。多くの場合、大きな集まりで、私はまだこれらの事を話す機会がありませんが、それを見ているのです、兄弟姉妹。私は分っていて、神もご存知なのです。
さて、このキリストが彼自身の御言葉の中で明らかにされているという議題について話すつもりです。至福がキリストの絵の中に立っておられるその場所に。それがこの議題の思いのある場所です。
さて、キリストとその御言葉は同じなのです。
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彼等は言います「聖書は銅だったんでしょうか?」人々は言います、私は長い間ある人と一緒に乗馬してきた。彼は言いました「それを考えて、我々はここ地上にいる、それが我々の方法で我々だけが出来る、あるいはユダヤ人のおとぎ話である聖書によってのみ救われた」
私は言いました「すみません、あなたがどのように言われるかは知りませんが、それがユダヤ人のおとぎ話とは信じません」と言いました。彼は言いました「さて、あなたは祈る、誰に対して祈るのだ?私は何某と何某の為にそして特定の事を尋ねたがそれを得なかった」と
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私は言いました、「あなたは間違った祈りを祈っている、我々は神の思いを変えるために祈るべきではない、我々の思いを変えるために祈るべきなのです。神の思いは変わる必要はないのです、そうなのです。」私は言いました「あなたが祈った者ではなく」
若いカトリックの少年をある時知っていました、祈りの本を持っていて、お母さんが生きるように祈っていました。彼女は死んだのですそして彼はその祈りの本を火の中に投げました。さて、私は祈りの本にを使いませんが、とにかく、間違った態度をしているのです。神様にこれをせよと言おうとしているのです。祈りは「主よ私をあなたの御言葉に会う様に変えて下さい」であるべきなのです。御言葉を変えてるのではなく「私を私の思いを変えて下さい。分かりますね?あなたの御心に会う様に私の思いを変えて下さい、そしてその書にあなたの御心は書かれているのです。そして主よ、私があなたの思いになるまで行かせないでください。そしてその時私の思いがあなたの思いの様になった時、あなたの書かれた全ての言葉を信じるようになります。そしてそこで言われました、「あなたを愛するものにとって全ての物が益となる事を知っている、主よあなたを愛しています。それは全て良くなるのです。
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私は今週親愛なる友人たちとその田舎に来ていました。食事をしている時に彼らの内の何人かに尋ねました。我々はいつも一緒に座ると少し聖書楽手をします。愛について話していました。そして会う人が私に言ったのです彼は「私はあなたがアンチキリストだと信じている」と
私は言った、「もしそれが私の主を喜ばせているのであればそれをになる、彼がなりたいものに何でも成る。彼を愛している。そしてもし地獄に落とさなければならないならば、それでも神を愛している、もし今と同じ霊の内にい叶えれば成らないならば」彼は変な感じで私を見た。私は4人か5人若い人達とその若い素敵な女性達が居たと思います。彼等がどれ程妻たちを愛しているかを知っていました、そして彼等に言いました、「ここにそれをテストする方法があります、もし君の妻があなたと結婚する前に、さて、あなたは戻ってこの結婚生活について言うのです、あなたは結婚していることを夢見ていた。本当は結婚はしていなかったが、そうしていることを夢見ていた。そしてあなたは起きてそしてそこに行ってあなたのガールフレンドに話して言ったのです、そして言ったのです、「実は、僕らが結婚して子供が居て、幸せに暮らしていて、主の再来帰還を待っていたりしていた!」その後、この彼女は言ったのです、「実は、あなたのよりも他の人を愛しているの、他の人との報がもっと幸せになれる」あなたは彼女を十分に愛しているから、心からこう言えますか?「神の祝福があなたにありますように、この他の人と一緒に行きなさい」さて、お互いの彼氏あるいは彼女の事を死ラテて下さいね?さて、もしあなたの愛が正しければ、そうなるでしょう、彼女の幸せに興味があるでしょう。彼女と共に暮らし、彼女が妻に成れるという事でしょう、彼女はそうなります。彼女はあなたと結婚するでしょうしかし、彼女は幸せではないでしょう、彼女はもっと幸せになりえたのです。そして、もし彼女を愛しているならば、彼女に幸せでいたいはずです。しかしながら、神の御心であるならあ、私が幸せであろうがなかろうが、神の御心がなされるようにするのです。私がする事によって神は喜子バレるように行きたいのです。それ故あなたの動機とあなたの目的をチェックするのです、あなたが髪を愛しているかいないかを知っているのです。
もし彼が「あなたは私に仕えていたが、私が落とし込みましたか?
私はどんなことがあっても神よあなたを愛しています」
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それ故、もし教会がその状態を信じる事が出来たならば、彼がそれと共には知っている時他の人達からサッカー引き出そうとしてはいなかったのです。彼はその人を保護しようとしていました。実際の本当の動機と目的が分かった時、この様には言っていませんでした。「ヘイ、私はこれも得ました、これは私です、これは、、、「分かりますね、神様は人を使う事が出来ない。沢山のなりすましがそれに就いてきていたのです。そしてそれは悪魔なのです、そして人々はそれを認識出来ていません。彼等は誰かからボールを取ろうとしたらそれを与えたのです。神は特定のミニストリーから引き上げているのです、そして多くはその後についていたのです、分かりますよね。
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さて、神への純粋な愛。「私が取るのがどんな問題であったとしても、主よ、もしそれを守るのを助けるためにそのための言葉を助けるために、それをさせて下さい。」あなたの妻についても同じ事だと言えます。もしあなたを本当に彼女を愛していたならば、それはフィレオの愛(兄弟愛)ではないのです、それはアガペーの愛です、純粋な愛。もし彼女が誰かほかの人と幸せに生きられるならば、あなたは今結婚していなかったでしょう、もちろん、あなたには出来ない、、、
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そして、ところで、人々がこれらのテープが聞いて居る。さて多くから手紙が来て
何故、結婚と離婚で、あなたはこれやあれあれを言った。「私は何度牡行ってきました、これらのテープは私の会衆、兄弟に語っているのです。あなた方シェパードに対して神が与えていることに対して責任はありません、これらの人々を養う霊的な食物の関して責任があるのです。このタバナクルだけの為です。さて、もし人々がそのテープを聞きたいならばそれは彼等の望み通りにしてください。しかし、私は神が私に与えたことを語っているだけなのです。それは彼等の罪でそれは取られていたのです。ある人は書いてきて言いました、「さて、私はこれをしたり、あれをしたりして、あなたは我々の罪を、、、こういった。」私はそれを言ってはいません。
私は言いました。「これを見るために、これはこの人々小鬼居る人たちの為です、ここタバナクルにいる人々、私自身の与えられた群デス」さて、もし人々がハイブリッドの食べ物やその他を欲しがるならば、神からあなたに与えた啓示を得ているのです。私も同じことをするでしょうしかし、これらのメッセージはこの教会の為なのです。
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気が付いて下さい、さて、我々は戻って来たのです、何か他の事を得たので我々はそれにしがみつく必要があります。何か一緒に結びついている必要があります、ある意味、それは究極的なのです。そしてすべての人は究極的であるか絶対的であるかを持っていなければなりません。私は一度数年前に究極的な事その最後のことばについて説教しました。球技の審判の様なものです、もし彼がそれをストライクと言えばそれはそうなのです。どのように見えようが、審判がそういえばストライクになるのです。
あなたがたとえ「それはストライクではなかった、私は、、、」と言っても、それがどうであれ、彼が「ストライク」と言えば、それで決まりなのです。ただ彼が究極なのです。
そして信号はある究極なのっです。もしそれが「進め」と言えば、あなたが「私は急いでいる、渡井は、、、」ダメと言っても、「あなたはそこに立ち続けて他の人達が行くのです。それは究極の決め事なのです。
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さて、全ての事には究極があるのです。あなたの妻を選ぶときそれは究極でなければなりません。あなたが選ばなければならに女性がいるはずなのです。
さて、車を買う時がある時、ある究極を決めなければなりません。フォードにするか、シボレーにするかプリムスか会社にするか?何であっても、究極がなければならなないのです。そしてそれはクリスチャン生活にもあるのです。それは究極があるのです。
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さて、もしある人が、別の人の所に行って、言ってある人が聞いたとします。「さて、あなたは洗礼を受けるべきだ」そしてこの人は決して受けない。。多分彼は、、ある教会では洗礼をしていなかった、彼等はただ滴礼をしたのでした。私は例えばこういったとします、メソジスト―彼等はもしそう聞かれたら洗礼をすると理解しています、あるいは多分、、カトリック、私が思うに彼等は適齢だったと思います。そしてその時、もしある人が何か浸礼を水の中でする何かを聞くとしたら彼はそれを理解しなかったのです、彼はカトリックとして成長したからですーそして彼は祭司として視聴して、「父よ、わたしは浸水で洗礼するべきだと理解しています。それについて我々の教会は何と言っていますか?」
「なぜ、滴礼にすると言います」さて、もし教会が彼の究極ならば、そうなるのです。全ての物は終わるのです。教会がそういったら、それだけなのです。
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もし、もし、バプテストの兄弟が我々が浸礼によってバプテスマをする事を信じるという事を聞いたら、彼は言いました、「私はそれを信じている、そしてイエスキリストの御名によって、今、その教会の子のメンバーが牧師の通ろに戻ってきて、言います、「牧師先生、私は浸礼で洗礼するのは良いが、イエスキリストの御名によると言っているのを聞きました」
「さて、彼は言いました、さて見てみよう、なぜ、その書は書いています、我々は「父、子、聖霊」を使うということで。もし教会が究極ならばその通りです。彼は他が何をいおうと気にしないのです、それが彼の究極だったのです。
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さて、すべての教団宗派が彼等の信者にとっての究極なのです。しかし私にとってもまた他の人にとって、私はキリストにキリストによって導いていると望んでいます。我々の究極は聖書なのです。何であろうとも。というのは、神が言われました、「人の言葉が嘘になるのです、そして私の言葉は真理なのです」そして私は聖書が神の究極だと信じています。どんなことがあろうとも他の誰が言おうとも、それが究極なのです。
聖書は体制の本ではありません。いいえ。それは体制の本でもなければ、倫理のコードでもありません。聖書は体制の本でも、多くの体制の物でもありません。いいえ。それは倫理の本でもないのです。いいえ。違うのです。歴史書でもないのです、神学書でもないのです、それはイエスキリストの黙示なのです。さて、もしそれを読みならば、書類があるのです。その様に書かれているのですー黙示録1:1-3でした。聖書はイエスキリストの黙示なのです。
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時間がある間にそれを読みましょう。私はそこから話すノートは持っていないと信じています。もし主が進められるならば、彼等からそれを得ようとします。
イエスキリストの黙示、神は彼に与えたのです、彼の僕たちを通して見せたのです、それが通るのです、そして彼は送りました、彼の僕であるヨハネへ御使いを通して。
神の御言葉の記録をみて、、イエスキリストの証と彼が見た全ての事。
この証しの言葉を聞き、読み、そこに書かれたことを守るものは幸いである、時が近づいているからである。
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さて、聖書はイエスキリストの黙示が全てです、預言者達によって書かれた物です。へブル書1章1節、「1 神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られた、我々に神の御子イエスキリストを通してだった」それは預言者達、彼等全てげ一緒だった。イエスキリストはマラキ、エレミヤ、イザヤ、エリヤだった。彼等は全てだった、彼等の中に彼はいたのだ。全てがあなたであり、全てが私であり、彼があんたがたの中にいるのである。御言葉、御言葉の証人。だから、それは体制の本ではないのであり、倫理道徳上の子度でもなく、又歴史書でも、神学書でもない。それはそうではないのです。しかしイエスキリストの黙示、神ご自身が御言葉から肉体を取って現れたのです。それがそのものなのです。聖書は御言葉であり、神が肉体を取られたのです。神こそが御言葉であり、イエスがその肉体となったのです。そのようにして神を顕れたのです、その御言葉が人間の肉体としてあらわされて我々に顕されたのでした。そしてだからかれは神の御子だったのです。彼は神の一部なのです。分かりますね?
さて、彼は違うのです、その肉体が神の一部だったのです、そしてそれこそが御子だったのです。
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御子、カトリックが「永遠の御子」としたのですーそしてすべての残りの教会もでした。その言葉は全く意味もなさないのです。もし永遠ならばそれは息子にならないのですと言うのは、その御子は何か唯一の息子なのですから。そしてその永遠という言葉、、彼にはなれないのです。彼は御子になれましたが、彼は永遠の御子にはなれません。いいえ。それは永遠の御子にはなれないのです。
さて、しかし彼はその御子その言葉の全ては、エレミヤ、モーゼの中に在ったのです。そしてその言葉は、彼が言った様に、「彼等は私について話していたのです」真実の神の黙示の全てとして御言葉が人間の体になったのです、そして神は肉体を取ったのです。それが理由で、彼は「御子」と呼んだのです、その理由は、彼は「父」とされているのです。単純な理由は、もし神にあなたの心に注がせるならば、となります。神は肉体になって顕されたのです。(気が付いて下さい!)肉体から顕されたあるいは御言葉が肉体となった。それはヨハネ1章14節。 そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。
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さて、この聖書について気が付いて下さい。それらの中で語っています「オーさて、それはこの様になされた、そのようになされた」しかしあなた方に話させてください。聖書の歴史にちょっと入っていきましょう。それがどこから来たかを理解しましょう。それは40人の異なる著者によって書かれているのです。40人の人が聖書を1600年以上かけて描いたのです、異なる時期に、世界の歴史上に起こった最も重要な出来事を先見するためにです、そして多くの時それが起こる何百年前に起こる前にでした。そして66書全体には一つも間違いはないのです。何と素晴らしい。差㏍ははいなくて、神ご自身が書かれたのですからすごく正確なりえたのです。一つの言葉も他の言葉に反していません。覚えていますね1600年もの間に40人もの異なる人々によって聖書は書かれたのです。モーゼからパトモス島でヨハネの島で1600年で、40人の異なる著者です。お互いに知ってもいないのです、彼等はそれを御言葉としては知られていませんでした。その御言葉を見たことさえない何人かもいました。しかし彼等がかいたとき、それは預言者によって理解されていましたそして、彼等は預言を一緒にしたときでした、それら各々を皆しっかりと合わせたのです。
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ペテロが五旬節の日に通知したのを見て下さい。「皆悔い改めて、イエスキリストの名によって贖いの為に洗礼を受けなさい」パウロはそれについて何も聞いたことはありませんでした。彼はアラビアに3年間にわたって、通り上で火の柱、に語り掛けた方について旧約聖書について学ぶために行ったのです、「サウロ、なぜ私を迫害するのか?」どの様にして彼が間違えられたのでしょうか?彼は教会とは全く相談さえもしていなかったのです。そして14年後彼がペテロに会った時、彼等は同じことを伝えていました、御言葉を御言葉によって。それが我々の聖書です。他の人々の言葉を失敗させましょう。誰もそれに追加することは出来ません。あなたは聖書に何も足すことは出来ないのです。いいえ。これは完全な黙示なのです。それだけの事です。
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7つの封印の様なのです。7つの封印。。。誰かが私に言い続けました。「主があなたに話されます、ブラナム兄弟、これらの封印が明らかにされたとき、そしてどのように神に近づくかについて、、そして、、どのようにして、
私は言いました、「いいえ! そうではないのです、聖書の中に7つの封印が書かれているからです、それには7つの奥義が隠されていたのです。それは既に書かれていたのですしかし、彼等はそれが何であるかを理解していませんでした。」彼等が引き続きイエスの名によって聖霊をされたことを見て下さいね?それではなかったのです。主イエスキリストの名前、、分かりますね! これらの事全てがどのようになっていたか、それには沢山のイエスが居たからです、数人の地上にいる友達や聖職者の中にもイエスという名前の人々が居ます。それはそれではないのです、それは我々の主イエスキリストです。著者ではなく神以外に正しい者はいません。
さて、この聖書がどのように書かれてきたかを見てみましょう。
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さて、例えばと言ってみましょう、我々が66の医療書を取ったとして、その本体について40の異なる医療学校によって書かれたとして、1600年にわたって書かれていたとしたら?どんな種類の事が繋がっているかを疑いますね。
ジョージワシントンが我々の大統領だった時、200年ほど前ですが、肺炎のために彼の足の爪を取って、彼の血を取ったことがありました。もし我々が、同じことを少し先に進んでみたとしたら、我々は今日もその化学に魅力を得るでしょう。
我々は40人の異なる科学者を1600年の間に渡ってみたらどんなものが生まれてくるでしょうか?アルフランス人の科学者たちが300年前に科学によって証明しましたが、ぼーーるが回ることによってもしどのようなスピードでも30マイルを1時間で進めるとしたら、地上に残っているものは落ちるのです。科学はそれを戻ってみる事が出来ると思マスか?今もそれが続いているでしょうか、彼等が今日道で運転しているのを見て時速150マイルで動いているのです分かりますね?しかし、彼は科学的にボールが回る圧力によって時速30マイルで何でも落ちるとと証明したのです。
その様なものが継続はしていません:
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しかし聖書の言葉はどの一言も聖書内の他の物と対立しないのです。一人の預言者が他の預言者と対立するものは一つもないのです。彼等は全て完璧でした。そして一つが来て預言されているとそして本物の預言者が建てられ彼等が呼ばれると、それは顕れるのです。分かりますね。だから聖書は全ての本物の信仰者にとって神の言葉なのです。
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さて、博士達が同意するものとしてその正確さを引き出すことは出来ません。今でさえ彼等の正確さを引き出せないのです。科学では正確さを得ることは出来ません。
さて、ご存知のようにしばらく前に我々に彼等は聖書は御使いたちが地球の4隅に立っているのを見たと言いましたが、それはあり得ません、地球は丸いのです。しかし聖書は4すみと言っています。さて、2週間前か3週間前にこの記事に関する紙が包まれていました。彼等は世界は正方形だと言っていたのです。それを見た人達はいますか?分かりますね。私は皆そのコピーを得ましたが、誰かがその事について何かを言うのをただ待っています。
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そして、彼等はいつか1500万年光年を見ているわけではない事が分かるでしょうか彼等はサークルの周りに会ったのでしょう。その通りです。天国に行くようになった時どこかに跳ぶのではない事に気が付く事でしょう。ここにもいるようになります、別の次元に行くのです。この部屋を通して実際が見えてくるでしょう。全ての色のシャツ、ドレス、何でも永遠に記録上に世界中を回っているのです。毎回、瞬きをする度、そこには記録が残るのです。しっかり見て下し、テレビがそれを証明する事になります。
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あなたが生まれた時、神は記録を定めるのです。それは、作っているのではなく、記録を定めるのであり、音もさせませんね、小さな赤ちゃんが分かるようになるまでの事です。そしてその音が始まると、物事を言う様になり、それに答えなければならなくなります。そしてその時、その人生は終わるのです、その記録やテープは神様の大きな偉大な図書館に置かれています。さて、裁判の場所にどの様に行くのでしょうか?あなたの目の前で始まったのです。あなたがする全ての動き、すべての考えです。それが分かりますか?さて、神がどこにおられるか分かりますか?
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先日ここに立っていて、ある人が演壇に居ました、背が高くて頭がマルハゲの人ですが本当にハンサムな人で、強い人でした。そして彼が出て行って、主が彼に沢山の事を彼の家族について彼がすべきことについて語られたのです。そして彼は出て行って座りました。数分の間ここにいて私の前にそのような他に人が居ましたが、彼は頭を垂れていました。私は何もできませんでした、そしてその人をもう一度そこで見て居マシtあ。そしてそれは彼ではなかったのですと言うのはそれは何か別の物でした。そしてこの人、私は彼を見つけられませんでした。見渡しましたが誰も、私の後ろにはいませんでした。私は、「その人はそのカーテンの中に座っている」と言いました。そしてそれはこの教会に来る兄弟でした、「背が高くて、マルハゲで、ハンサムな人、そこに座っていました。そして彼は新名を下げて祈っていましたと言うのは、彼は胃の問題で死にかけていたのです。彼は靴を買おうとしていました。彼の妻が彼の為に新しい靴を得てほしがっていたのでした。彼は言いました「いいえ、私には必要ない、もうそれを履くほど生きる事は無いから」と彼は死にかけていました。そしてそこに座っていたのです、その次元が分かりますね。ハレルヤ!神がそこに動かれて言われたのです。「彼はそこに座っている、ちょうどその場所に。その意味が分かりますか?
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さて、気が付いて下さい。聖句には全く間違いはありません。イエス様、神の御言葉が、その心にある思いを認めているのです。神の御言葉は力があり、鋭い、 へブル4章12節。「 というのは、神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。」人の心にまで生き、それを引き見分ける事が出来る。見分けるとはどういう事でしょう?「知らせる、明らかにする」そしてそれが神の言葉がなす事なのです。今日我々は「カトリック教会は神の言葉であるーバプテスト派、メソジスト派、ペンテコステ派、幕屋」と言っています。それは間違っています。御言葉は啓示であり、神は御言葉によって明らかになっているのです。
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さて、我々は継続しないで医療関係、化学者関係の間、他の人達の間と分かっていなかったのです。もし、アインシュタインが霊的な適用をしていたら、彼は肉的な適用が彼は光の量子学などを学んでいました、彼は我々に話すことも出k他はずです。彼のメッセージを空の上にあるどこかの大きなセンターで聞いた時、そのセンターに連絡を取って、地球を創る事が出来、何かをする、力は限界がありませんね。彼はそれが分かっていました。
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彼等が「ソーサー」などと呼ぶ小さなポケットが空中を通して見えますね。人々がそのようで、、さて、我々はそれを置いておいた方が良いでしょう。「どのようにしてこれらの人々はいなくなったか聞きましたか?」あなた方は、「彼等からは聞かなくてよい、彼等はそこに立っていたそして彼等はそこにはいなかった」といいました。そのようにして携挙が起こるのです。一人がそこにいて残され、この普通の体が神顕体に代わるのです。そして彼等は隠れ、髪の毛や骨は残るでしょう。「瞬間で体が移動して宇宙に移り家に戻るのです。。。我々はこれらの事が続いているが分かりますそしてペンタゴンはこれらの光や奇跡的な光について何だろうと考慮していますそしてすべての彼等が空中に見た全ての事についてです。あなたは彼等がジェファソンビルで今週そしてその後も新聞に書かれていたのを見ましたね。奇跡的光、、「彼等はあれが何かを知らないんだ」と考えていました。しかし子供達聴いて下さい、これらの内にいつか間もなくあなた方も迎えに来られるのです。心配はいりません。
覚えていますね、イエス様は言われました。「ソドムの日の様に、、、」
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ソドムの時の直前に何が起こっていましたか?神が御使いたちと一緒に降りて来て、彼等は裁きを精げていました。行ったのです。「世界中が罪に満ちているという叫びを聞いたので、降りて来てそれが全て真実か否かを見に来たのです」それは真実でしたか?しっかり気を付けて下さい、主要な人はアブラハムと共に居て、サラの心の中に在る思いを後ろで聞いて居て見定めることが出k他のです。さて、少し見回して気が付いて下さい、(ね)何をしているか見て悔い浅井、今日同じことが怒っています。それは裁きの為の調べなのです。教会がしばらくの間、すべての種(子孫)が置かれたときにその位置に、、来た時。彼等はいなくなるのです。彼等に何が起こったのは分かりません。人は一つの方向性に行くのです、牧師の家に行くようにして、人はここからいなくなり、そこにもいるのです、そして初めに分かる事は、彼等はそこにいなくなるのです。エノクが同じ形でした、神が彼を連れて行ったのですそして彼は見えなくなりました。その時も地上に来られたのでした。引き続き、エノクの移行がどのようになったか、イスラエルの方は箱舟の中に連れていかれました。
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こんなにも完璧なのです。神の御言葉は完璧なのです、旧約聖書も新約聖書も二つの半分で一つなのです。その通りです。旧約聖書が半分で、新約聖書が半分なのです。一緒にして、イエスキリストの啓示の全体を得られるのです。そこには預言者の語りがあります、そして彼をここに人として来られたのです、分かりますね、二つの半分が一つとなるのです。
さて、我々はあまり長い時間を取りたくないのです。
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覚えていてください、旧約聖書は新約聖書な死では完璧ではないのです。そして新約聖書は旧約聖書なしでは完全ではないのです。それが理由で、二つの半分だというのですー半分ずつで全体なのです。預言者が言っています、「彼はここに来る、ここに来るであろう、来るであろう。彼等は彼の為にこのことをするのです、彼等はこれを彼の為にするのです。「そしてここに彼は折られるのです、彼はここにおられました、彼は彼等のために何をしているかを、、そして彼等がこれを彼等にしたのです」私はその事を数晩前に説教しました。
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聖句を学んでいくことによって、パウロはテモテに話しました、「学びなさい、神の御言葉は真理であるという事をしっかりと」彼等には3つの絶対が聖句の中に在るのです。神の御言葉を使う時、3つの絶対にしてはいけない事があります。さて、次の10分ほどでそのことに関して万で行きましょう。3つの事をしてはいけないのです。そしてそのどこでも国全体でどこでも、自分の頭の中に在る事、鉛筆をもっていないならば、これらの事をしてはいけません。我々は常にどのようにしなければならないかを語ってきています。今回はしてはいけない事について話します。
さて、御言葉を絶対に間違って解釈してはいけないのです。「さて、私はこれの意味があると信じています」それはただ言っている通りの意味なのです。それには解釈者の必要はないのです。そして御言葉をお吉が得てはいけません。御言葉の位置を変えてはなりません。そしてこれらの事の一つでもするならば、聖書が混乱とカオスの中に入る事になります。
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気が付いて下さい。イエス様が神が人の形になっているという事で3つの神の一人とすると言う間違った解釈をしています。イエスキリストが御言葉であるという事で神が3つの神の一人であるいう間違った解釈をしています。あるいは神の頭の内の二人目の人にしてしまっているのです。そしてそうすることによって全ての聖句をごちゃごちゃにしてしまっているのです。どこにも正しい所に行くことは出来ません。なぜならば間違った解釈をしてはならないからです。
そしてもし、特定の事を言うとしたならば、あなたはそれに関して解釈をしているのですそして別の時にそれを適応しているか他の時にもそれを適応するのです、そのことによって又間違った解釈をする事になります。
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もし、誰でも聖書の中のイエスキリストを間違って解釈していたならば、神ご自身でなく彼を二人目の人にしたりあるいは3人の神の一人にしたりすると、聖書全体の全ての言葉をおかしくしてしまうのです。それは初めの戒めを壊してしまうのです。「私を他に誰も他の神を上においてはならない」分かりました。それによって全てのクリスチャン人口を異教礼拝者達に3つの事なる神を礼拝させたのです。どのような聖書の種類を持っていますか?そしてそれによって我々がユダヤ人が我々の事を言っている物にするのです。「それらの神々の内のどれがあなたの神なのですか?」分かりますか?分かりますね、できないのです、聖書を絶対に間違って解釈してはいけません、イエスご自身が聖書の解釈者で、彼はその時代に彼の体が見せるようにされたのです。もし、それがその手にある時代ならば、それがある手である必要があります、それは頭の時代であってはならないのです。もしそれが声の時代であるならば、脚の時代になってはいけないのですね。そして今、我々は目の時代にあるのです。
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わかりますね、、時代を通して、基礎から始めて、初めの教会時代から種がそのグラウンドに行き、それが完全な種になる様に。そしてそれが脚に行き、ルターが出て、ウェズリーをとおして、ペンテコステ派にきて異言や唇になって行ったのです。さて、その眼の中で、預言的に、マラキ書4章など。そして今、他には何も残って居る物はないのですが、彼自身がそこに入っているのです、その理由は最後の事なのです。次には知性です、そして我々は自分たち自身の知性はありません、それは神の物なのです。我々には自分たち自身の視力はないのです。人がどのようにしてこれらの事を先見できるのでしょうか?人には出来ません、それは神ご自身がなさることなのです。それはある場所となるのです、そして彼は全ての道で本体を治めているのです。そしてキリストの全ての本体が花嫁の姿に明らかにされたのです、彼の側で取られたのです、アダムの様に初めから、、アダムがそうであったようにある意味、初めから。
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はい、神様、これは聖書全体を混乱に陥れるのです、初めの戒めを壊す事、神を作り、異教徒の3つの神を作ったのです。それは聖書の全体の絵を破滅に追い込むのですだから、聖書を間違って解釈してはいけないのです。さて、それは、ただ一つの事です。
聖書の中の全ての聖句は同じ適応をする時、その場所に入る事が出来るのです。そしてそれが間違った場所に置かれると、一つの時代と次の時代に神を置くことによって彼を歴史にして間違った場所に置くことになります。聖句を間違った場所に置いてはいけません。彼は常に神なのです。今日彼を歴史の神にしてしまったならば、戻っても、同じにならなくなってしまいます、へブル13章8をどのようにすることになりますか?分かりますね。彼は昨日も今日もいつまでも変わる事が無い方なのです。
さて、これがあるとして、何がされたのでしょう。それが既に起こったのであれば、彼自身の御言葉でその御言葉を間違った場所に置くことによって否定してしまう事になります。
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聖句を間違った場所に置くと、彼の体全体を全て間違った場所に置くかもしれません、脚が頭の場所になりなど。
同じではないのです、というのは、言い換えれば、イエス様の教えとモーゼのメッセージを持っているかもしれません。ウェズリーの教えをルターの時代に、、、今持っているかもしれない、我々の時代の教えは、ペンテコステ、五旬節(ペンテコステ)のメッセージなのです。もしそうでなければどれ程滅茶苦茶になってしまうか分かりますね?ペンテコステは既にその性格が見えていました。ルターは既に彼自身を見せていました、それが宗派に行ってしまったのです。そこでその本物が死んでしまったのです。その時代にはまってそれが続いたのです。
気が付いて下さい。それが組織化されるや否や、御霊が死ぬのです。さて、もしそれが正しくないならば、歴史をめくってみてください。全ての時、組織化が起こるとそこで御霊は死んでいます、それ以上の事は無いのです。この世の神の崇拝者たちになってしまうのです。それが組織化、組織、そして今日は、そしてイリュージョンとなるのです。沢山のリッキーたちがそこに行って、そして自分たち自身の物をそこに置こうとして、彼等自身の考えを入れ込むのです。そして何が起こりましたか?滅茶苦茶になったのです。この世界の神の頭になって、彼等はサタン自身の場所に行って偉大な彼等の世の指導者として彼等自身が平安を作っていると思い込んでいます。
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先日話したようにーもう一度言いますが、この文明そのものが神に完全に反しているのです。文明は神に反するものです。教育は神から百万マイル離れています。科学も、化学と教育は、神ご自身を神学校と学校そして化学室などを通して否定しようとしているのです。彼等は彼等の場所があります。先日の夜ある人が彼がこれらの科学者がそこに注ぎだしたもの似ついて叫んでいたビジョンはどうなるのでしょう。彼等はただ戻って上を見て続けて行きました。そこにはもう一つ乗り越える物があるだけです。
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気が付いて下さい、オーこれらの3つの絶対になければならないもの。さて、あなたには出来ません、イエス様はノアのメッセージを伝えに来たのではありません。彼はモーゼのメッセージを伝えにも来ませんでした、モーゼも説教に来たのではなかったのです。分かりますね、聖句の位置を間違えないように。その時で名kレばならなかったのです。さて、あなたには適応できないのです、素晴らしい人ジョンウェズリーが来た時あるいは素晴らしい人ルター、ルターは義のメッセージと共にやってきました。さて、それはルターは素晴らしい人でした。彼は闇から出る教会と呼び、そして信仰による正義を置きました。そして彼がそうした時、彼等がその上に組織を建ててしまったのですそしてそれは死にました。その命は、麦の茎の様に動き、ウェズリーの時代に房になったのです。ルターから出た葉は死にました、ズウィンギとカルバンそして全ての他の人足しhが出て来て偉大な改革となったのでした。
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そしてウェズリーと共に他の時代になって房となりましたそして、アスブリーそして他の人達皆、ジョンと彼の兄弟、そして他の人達皆、偉大な神の人達が素晴らしいメッセージでその国を一掃したのです。彼等はそれを組織化してそれは死にました。そして今置いているような状態になってしまったのです、そしてその様に見つけられたのです、それは殻でした、ペンテコステ派。しかしその後ろ前部に戻ると、そこには小さなつぼみがありました。普通気が付くのです、ルターが伝道をしていた3年か4年後にルター派の教会が組織化されました、ウェズリーも同様でした。それは組織化されたのでした。
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ツーソンでウェズリー教会あるいはメソジスト教会がどのように存在するようになったかのプログラムをしました。そして彼等がアメリカに来た時、彼等の多くは、戻ってきて、チャーターとかその他をセットアップしてイギリスに行ったり来たりしてここに持ってきましたそしてすべてがドラマの用意なったのです。私はそこで何が起こっていたかを見たのです。そして彼女(教会)はそこで死んだのでした。
さて、ペンテコステ派から出て、彼等はずっと前に古いシューター派があり、彼等は異言を語るという賜物を初めから得たようにしていました。彼等はそれが聖霊の証明だと言っていました。そして彼等は組織化しました。ある人は彼がこれをすると他の人もそれをする。そして彼等は問題が次々と起こりました。それはどうなったのですか?彼等の各々は葉っぱが出て包まれていなくて、国だけで手、それが房にくっついていたのです、彼等はワンネス、つーねす、すりーねすがあり、そして神の教会、そしてこの様な他の物が、どんどんどんどん、開かれなくなっていきました。しかし今、以前の法則により、完全な霊として、そこから何も教える事は出来ないのです。
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先日、ケンタッキーの私の友人の家族に赤ちゃんが生まれました。そして母親は、彼等が我々の夕食を作って居た時にやってきました。彼女は他の姉妹たちが多くの男たちが狩猟に行ったので我々の為に夕食を料理するのを助けていました。そしてその赤ちゃんが泣きだして、私は話していました。母親は少し恥ずかしく感じていたと思います、そして彼女は橋って言って赤ちゃんを連れて来て、おっぱいをあげ始めました。私は言いました、「分かるよね、それはただ自然な事なんだ」分かりますね、あなた方には出来ないのです、彼等は赤ちゃんが何を欲しがって鳴いているかを知る方法を知らないのです。さて、倫理の本を与えてここに座っているかもしれないそして、「あなたに神学を教えましょう。さt、え他の子供達と一緒にギャーがやー騒いではいけない。あなたは違うんだ。さて、もしお腹がすいたなら、この小さなベルを鳴らしなさい」そんなことは上手く行くわけがありません。いいえ、ただ上手く行かないだけの事です。
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そして自然を見る時、
さて、すべての時代を見て来て、直接、それを作り上げてきたとして我々はその終わりの時代にいるのです。殻は取り去られ、我々は15年ありました、まもなく20年になります、国から国へそのメッセージは一掃してきているのですー今朝この国を通してみてーそしてそこには組織はなないのです。それは組織化できません。それは起こりえないし今後もありません。この時代のメッセージと共にあって問題なのは、彼等の心を御子のご臨在の中に置くことによって実がなるのです。メッセージを拾い上げて御子にあなたの中に在る青い所を焼いてもらうことが出来るのです、そのことによって成熟したクリスチャンになれるのです。どういう意味か分かりますか?神は間もなく彼の教会を連れに来られるのです、そして私達はクリスチャンとして彼に受け入れられる種類を持つ必要があるのです。麦は熟れるのです。分かりますね。
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これらの3つの絶対的な物があります。間違った解釈をしない事、間違った扱いをしない事、間違った解釈あるいはそれを間違った位置に置かない事。神が言われたのと全く同じ状態を守る必要があります。世にはそれはミステリーの書です。人々はそれはミステリアスな本だと信じています。
ある時、私はこの町でとても有名な人と話していました、キリスト教という宗教で大きな位置を持って居る人でした、そして彼は言いました。「黙示録をある夜読もうとした」そして言いました。「ヨハネはきっとおおきな苦しみや悪夢があったに違いない」分かりますよね、ミステリーの本、しかし、
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本当の信仰者にとって、我々が生きている時代において神の啓示が顕かにされているのです。
彼は言いました。「私の言葉は霊であり命である」イエス様は又こうも言われています。「その御言葉は種蒔きによって蒔かれた種である」我々はそれが真実であると分かっています。神が御言葉の形であらまレそしてそれは神ご自身によってのみ解釈する事が可能である事。人は神の思いを解釈する力は持っていないのです。小さな人間の有限の頭で無限の思いを理解し解釈することなど出来るのでしょうか、我々が他の人の思いすら解釈する事が出来ないのに。
気が付いている様に、彼だけが解釈する事がおできになる方なのです、神ご自身だけがそうされる方なのです。それは「神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、
この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた。」神はいろいろな時にいろいろな方法で神自身を彼の預言者に明らかにされていたのです。
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そして気が付いて下さい。彼がそれを顕かにした人たち、、、そして彼はその様に決められて彼自身をその聖句の中にそこにいる最も賢い神学者たちに対して隠すことがおできになったのです。素晴らしい!彼はただ隠されたのです、そこに聖句の中に置かれたのです、そしてあなたは一日中そこを見てもそれが分からないのです、人生ずっと探しても分からないのです。彼はただ彼自身をそこに隠されたのです。
さて、どこに居てもそれに浸ってください、神の御言葉の中に彼は隠れておられるのです、御言葉の中に、神学者や世の学校は彼を決して見つける事は出来ませんでした。そして又、彼はそこには座っておられません。「そうなんですかブラナム兄弟?パリサイ人やサドカイ人はどうなんですか?すべての時代についてはどうですか?彼がそうされました。間違いなく!彼は全ての時代でそうされてきました。さて、我々はそれを確認する事が出来ます。ノアの時代について考えてみましょうー賢く、知的な時代ーどのようにして神は彼自身を約束の言葉の中に隠れておられたか。モーゼの時代、彼はどの様にして隠れておられたか、エリヤの時代、どのように隠れておられたか、イエス様の時代、神はご自身をどのように隠されていたのか。「彼は世の中にいた、そして世は彼によって創られたが、世は彼を知らなかった。彼の地震の人々に来た、彼自身の者達は彼を受け入れなかった」分かりますね。
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彼は彼自身を地上の最も賢く知的な人々から隠されています。
あなたが「えっと、これは神父何某博士の物だ」というとしても。私は、彼が誰であろうと気にしません。神が彼から隠れているのですそして神の子供達、あらかじめ定められた子孫(種)が学ぶように顕かにされるのです。
考えてみてください。全能の神が、彼自身の言葉に座っていて、賢い、教育されたこの時代の代表の様な人達からは隠されているのです、彼等にそれが分かる事は無いのです。彼等はそれは狂信的な者達だと思うのです。彼自身が、彼がペンテコステ派、バプテスト派、メソジスト派、長老派の裏に隠れているのです、彼自身が公式に明らかにされていて、すべての種類の事を見せる事にする、その書類の中にそしてそのようなものがあり又、彼等はそれさえも見ていません。オー我々の神、素晴らしい彼自身を彼を誰でも顕かにされているのです。
「オー」あなたは、「ジョーンズ兄弟あるいは誰それ兄弟、彼は素晴らしい人です。彼はそれが分かるでしょう。「オーいいえ、彼は彼が顕かにしたい人に明かされます。「私の妻はそれが分からないそして彼女はクリスチャンです」彼は彼自身を分る人に顕かにされます。さて、起こっている事を顕かにされています、そしてあなたはちゃんと悟れるのです。
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今、我々はそれに気が付いています、それは神の書として、人の書にはしませんでした。もし、それが人の物であれば、、それ自身を表現してそれをどのように見るか見てみましょう。罪のある人々がそれを書いたことを暴露する方法を見て下さい。気が付いて下さい、その時代に生きていた人々、例えば、アブラハム、彼は信仰の忠実な父と呼ばれていました。気が付いて下さい、どのように、アブラハムが彼自身がこの本を書いたことを考えられますか?彼自身が王に朝、彼の妻を妹だと言ったというような嘘を書いたと思えますか?彼自身の愚かな行動を書いたと思いますか?間違いありません。彼はそんなことはしていないはずです。
ヤコブの彼自身の欺きに関しては?ヤコブがした小さな欺きや。。彼のヘブライ人の兄弟へイスラエルの全てが呼ばれていて、その国全体の欺きの父として書くことがあるでしょうか?ヤコブは愛国者でその愛国的な部族の出身でした。聖書は彼を欺きの物として暴露しています。そうですよね?人自身がそれを書いたと思いますか?いいえ!
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この地上に居た最高の王について書いた人は銅でしょうか、彼は冠を得た王でした、ダビデー彼は姦淫を犯したのでしたね?ユダヤ人たちは彼等の素晴らしい王を姦淫者として書くことがありえたでしょうか?オー我々はジョージワシントンの様な歴史があります、彼は決して嘘をつかなかったようなものがあります。我々はそれを歴史と呼びますが、これは人でー聖書はダビデを姦淫を犯したものと読んでいて、又彼はイスラエルの王でした、姦淫者の息子になるのでしょうかーイエスはダビデの事呼ばれました、その頭石、そして彼の父は肉の上によると姦淫者でした。ユダヤ人はそのような本は書いて居ません。人は彼自身の事をこの様には書かないですよね?決してしません。
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どれ程イスラエルがプライドの高い国だったのでしょう、イスラエルは誇り高き国です、そうなり彼等自身の偶像崇拝について書いていました、彼等の神に敵対し反論したことについて書いていました、彼等がしたきたない汚れたことに敵対して書かれていましたか?彼等はそれを隠していたはずです。彼等は良い物だけを見せていました。しかしこの聖書は何が正しく何が間違っているかを告げています。誰でも、ユダヤ人が彼等のきたないや偶像崇拝や失敗や何か彼等がした全ての事を書いたりはしない事を知っています。彼等がそれを書いたことはありませんでした。いいえそれはないのです。さてそれでは誰がそれを書いたのでしたか?聖書がへブル書1章1節で言っています。「神は昔、預言者達により、いろいろな方法で、先祖たち(父たち)に語られたが、」そしてそれは預言者達ではなかったのです、それは死すべきものではなかったのです。私はある聖句をここに書きました。それが何だったかは知りません、それを参照する事は出来ません。これらの事を私が参照するときは普通、私はある聖句を見ています、1分くらいで見ることになります、もし許して下さるならばです。それは第2テモテ3章16節。覚えていると思っていましたが、すみません。1分ほど止まってそれが何だったかを見つけます。
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「神はいろいろな方法でいろいろな時に、預言者達を通して先祖たちに語られた」さて第2テモテ3章16を見てみましょう。
聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。
神の人は全ての良い業によって常に完全に立てるように準備されていました。
僧であれば、全ての聖句は、霊感によって書かれたのです。イエス様がこの地上におられたときに、言われたのです、天地は滅びても、私の言葉は滅びる事がないと。彼は全ての聖句は必ず成就されなければならないと言われました。だから、人の書いた本ではないのです。それは神ご自身が書かれた本なのです。
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さて、我々は神があらかじめ彼の教会を定めて選ばれたことを知っています、彼の場所、彼の預言者など全ての事をデス。彼があらかじめ定められた彼の預言者達が先に知っていたことによってです。そしてその時代が来るとき、彼は彼の預言者を持って、同じ時に神によって書かれた聖書としてその人を同時に霊感して使われたのです。さて、神は預言者のみを使って書かれましたと言うのはそれが神のやり方だからです。そして分かりますね、それは言葉ではないのです。つまりそれは神の言葉であって人の言葉ではないのです。
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神は人格があります。神は語る事がお出来になり。神は話すことがお出来になり。神は書くこともお出来になります。彼はそのような方法を使う必要はありませんでしたがその方法を使う事を選ばれたのでした。彼はその方法でする必要はなかったのですが、その方法を選ばれたのです。さて、「神が彼の指を使って書いた、魔法の指で、十戒を書かれた」と言います。さて、神は彼自身でもしそうしたければおできになったのです。」さて、しかし神は預言者達を使って書くことを選ばれたのですと言うのは、それが神の属性なのです、彼の言葉でであり、彼等を通して神ご自身が表現されたのです、それを神の一部あるいは全ての部分にすることです。彼自身の指を使って書くこともお出来になりました。彼は又指を取って、バビロンの壁に書かれました。「 テケルは、あなたがはかりで量られて、その量の足りないことがあらわれたことをいうのです。」神ご自身が指を使って書かれたのです。
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神はお話に在れます。神が話されることを信じますか?神はモーゼに燃える藪を通して山の上で語られました。それを信じますか?はい。彼は鳩の形の中で語られました。それを信じますか?「これは私の愛する子、その中に住む事喜んでいる」彼は神ご自身に勝たれたのです。イエス様に変容の山の上で、ペテロ、ヤコブとヨハネの前で語られました。彼は話す事お出来になります。無音ではないのです。神は語られます。神はイエス様に変容の山の上で語られました。そしてイエス様に大勢の人々の前で語られました人々がこう言った時です。「嵐が北」しかしそれは神がイエス様に語られていたのです。そしてそれは、すべてのマタイ、マルコ、ルカ、そしてヨハネ書はイエス様が語られているのです。イエス様は神様です。そして神は話すことがお出来になります。
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彼自身の指を使って、ある日砂の上にかかれています。彼は語られました、説教をされました。彼は彼自身の唇を使って預言されました。神様ご自身がなさったのですー神ご自身が肉体をと垂れて我々の中に住まれたのです、神ご自身が肉体の中に顕されていたのです。もし彼が書き、話すことが出来たならば、何をするべきか他の人々に言う事もおできなれたと思いませんか?もちろんおできになります。人間の声で彼等に語る事がお出来なるのです。彼は人びとに何をするべきかを書き示すことが出来ます。彼はそれをなさったのです。そして神はいろいろな時にいろいろな方法で預言者達を通して先祖たちに語られました。そしてこの書きものの中で言われたのです、よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。しかし御言葉自身が肉体を取られたのです。一点の意味は、小さな印、つまり一つのピリオドや表現さえも全て神の御言葉は失敗する事がないのです。というのはそれが髪だからです。神様は品減の肉体を取って来られました。それが神ご自身で又文字の形で、預言者の形で、肉体を取られたのです。さて、それが理由でイエス様は言われたのです。「あなた方に話す者達を神々と呼ぶ、それは神の言葉をあなた方に語った者だから」そして彼等は神々である」と言われました。これらの預言者が神の御霊によって油注がれたとき、そして神の言葉をそのままもたらした時、彼等は神々となったのです。それは神の言葉が彼等を通して語られたからです。
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彼等は唯一著者として解釈する事が許されています。さて、もしそのことを見つけたいならば、第2ぺテロ1と20と21になります。大丈夫。神がおられるところには、個人的な解き明かしはありません、彼が彼自身の解き明かしをなさいます。神が語られて彼ご自身がそれを解き明かされますそして誰でも彼が他の全ての人から隠。して顕かにされたい方にされるのです。彼はされたくない限り誰にも顕かにする必要もないのです。そして彼は彼自身全ての事を聖句の中に表現されました。ですから、全ての事は既に知らされているのです。彼はそこにただ座りそれが起こるのを見ておられるのです、ただその体が作られるのを見て彼の花嫁が再び形づくられるのです。その通りです。
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信仰者はそれを信じます、アブラハムがそうではないと言われていた事と反対の事をした様に。
それは又、この言葉、心の秘密を識別するのです、へブル4章12節。 というのは、神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。
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預言者達は常に彼等が書いている事や語っている事あるいは彼等がそれを言う必要があるのかどうかについて悟っていたわけではありません、もし彼等がそれを悟っていたとしたら、、しかし聖書には彼等は聖霊によって動かされたと書かれているのです。聖霊があなた方を動かす時、あなたは動くのです、神はいろいろな時にいろいろな方法で預言者達を通して聖霊の寄って動かされて語らせているのです。だからすべての時代で、人々が霊的な相談を預言者達にその時代そして何が起こるかについてしていたのです。その書いていた預言者はその著者である神と継続的な交わりを持っていたに違いありません。著者である神の継続的なご臨在の中に生きていなければその本がどのようになるかをすることは出来ません。その書いていた預言者、彼はペンを持っていつでも準備していたのです、常に著者つまりは神と交信しているのです。神が言われたことを何でもすぐに書くことが出来る様に。それこそが彼の人生がどのような物でなければならないかを見せるのです、、すべての兄弟達から離れた人生。
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さて、だから預言者は神の言われることに常に心を置いておく必要があります、人の思いではなく、その時代の思い出もなく、教会が考えている事、王国が考えている事ー神の思いを持たなければ、、、彼はただ神の思いを言葉にして表現したのですと言うのは、言葉は思いが表現されたものなのです。分かりますね?言葉というのは思いが表現されたものでそれは預言者が神の思い化を待っていたのでした。そして神が彼の思いを預言者に明らかにされたときそれを言葉として表現していたのです。「主がこう仰せになる」(分かりますね、-預言者である私がこう言う
ではないのです-「主がこう仰せになる」分かりますね。
だから御国と教会時代がはっきりしているのです、その時代にそうしたら死刑になっていたからです。誰dも王の所に行って話すとしたらデス。「主がこう仰せになる、、これこれが起こる予定だ」そのようなことを言えば頭を着られていたのです。その教会はすぐにあなたがそうしたらばその様にして殺していました。しかしこれらの預言者達は大胆だったのです。どうしてでしょう?彼等は聖霊によって動かされていたのです。そしてそれが理由で彼等は大胆になれたのです。そして彼等は失敗することの無い神の御言葉を書いたのです。
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沢山の預言者のなりすましをしようとする人々が居ます、祭司達などです。そして彼等はなにをするのでしょうか?ただ滅茶苦茶にするだけなのです。彼等にそれは出来ないのです、神がその時代の為にその人を選んでそのメッセージを選んだのです、人の性質でさえもです、そしてその時代に起きている事、彼はそれを起こす事は出来ないのです、彼に出k瑠方法は特定の人の性質を使うので、人々の目を閉じる事が出来るのです。その言葉を人は良い、その方法で行動し、他の人々が目を見えないようにして他の人々の目を開くのです。彼は素保二兎を特定は服装の形にさせてその自然とその大志そしてそうべ手の事がたた神に彼がならなければならない方法成されていたのです、ただ完璧な特定の人々を選んで彼等を特定の時代に呼び出されたのです。他の人々が立って、彼を見ている間に、、、「さて、私には、、できない、、私には、、、」分かりますね、彼等の目はめくらだったのです。
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イエス様は同じように来られたのです、着せられた状態で、死なない神が人の肉体を着てこられたのです、彼は馬小屋で生まれて、糞が沢山ある様な、馬小屋で、頭を寝かせる場所もない所で生まれたのです、考えて下さい、彼の名前は不正の名前と共にありました。これら全ての事と共に彼はあったのですそして彼が第九の息子として生まれ、彼は学校にも行かず、世的には何もないような物でした、この世の知恵という意味でです。彼はそれに関して何もありませんでした。この世の文明、教育など何も、彼はそれらの物はありませんでした、何故なら神だったからです。そのような者は崩れているのです。彼がもし、神学校にどこか行って、世的な教会でこれらのことwしたらどうなっていたでしょう、彼の理解でそのことを答えたとしたら、彼は神だったのですから。教育、学校、神学校そしてそのような全く神の御心に反している事。全ての教育体制は神に反対しています。全ての教師は常に神から離れているのです。人が博士、Ph.D., L.L.Q などを持っていると聞く時、私にはそれは神から凄く離れていると思わされるのです。彼はただ、彼自身を教育して、彼が本当に呼ばれている物から離れているのです。そうなのです。
気が付いて下さい。彼等が聖霊によって動かされていたかどうかという事に。。
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さて、それは教育を受けた人が入る事がないという意味ではないのです。パウロを見て下さい、彼の時代においてパウロ程賢い人はいなかったと思います、タルシシのサウロ。彼はガマリエルの下で教育を受けていました、その時代の最大の教師の内の一人でした、素晴らしく厳しいヘブライ人で、宗派のパリサイ人でしたーパウロは彼の元で成長したのでした。彼はユダヤ教の宗教の全てを知っていましたが、彼は教会に来た時言ったのです、「教育を受けたものとして来る事は無い何故なら、そうしたらあなた方がそれに信頼してしまうから。しかし私があなたがに来たのは、聖霊の力と現われによって、あなた方の神への信仰の為に来た。そうですね。その通りです。
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多くの人々がこれらの人々のなりすましになろうとしましたが、彼等は全ての面で今日と同様に滅茶苦茶になりました。
イエスの時代の前に一人立ち上げられた人が居ました、400人の人々を導いたのでした。そして聖句がこれらの事についてどのように読まれているか知っています、時が来る前にそのようなことをするとどうなるか。そして彼等の何人かは、彼のなりすましになろうとしました、そして彼等は皆これ、それそして他の事をしていたのです。そして彼は終わりの時に、彼等が偽キリストが立ち上がる、又偽預言者も、印と奇跡を行うと言われました。我々はそれらの全てがありますね。しかしそれは本物殻話す事にはなりませ。もっと輝くようにするだけです、何故なら我々は本物のキリストを持っているから、偽キリストではないからです。
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さてさて、我あれは神が彼の預言者を送ったことを認識しています。それは、その方法が彼の御言葉を人々に齎す方法だったのです、彼の預言者の唇を通すのです。そして気が付いて下さい、モーゼが言った様に、もしそれを読みたいならば、、、出エジプト記4章10節と12節にかかれています。10 モーゼは主に言った、「ああ主よ、わたしは以前にも、またあなたが、しもべに語られてから後も、言葉の人ではありません。わたしは口も重く、舌も重いのです」。
それゆえ行きなさい。わたしは10 モー?は主に言った、「ああ主よ、わたしは以前にも、またあなたが、しもべに語られてから後も、言葉の人ではありません。わたしは口も重く、舌も重いのです」。
そしてエレミヤが言った、もしエレミヤ1章6節で読みたいならば、エレミヤは言いました。「その時わたしは言った、「ああ、主なる神よ、わたしはただ若者にすぎず、どのように語ってよいか知りません」。彼は一人の預言者と他の預言者を通して唇から耳に語っていたのです、彼は彼の唇を通して全て制御をする事はありませんでした。
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彼には御言葉を出す方法を持っています、分かりますよね。はい。
だから分かりますね、聖書は神の言葉で人の言葉ではないのです。モーゼは言いました。「神が私に声を持って語られました、そして私は彼の声を聞き、彼に言われたことを書いていました。」
エレミヤは言いました。「全てを語ることは出来ない、そして初めにあなたの唇が語っていました、そして私は書いていました」神は彼の唇を通して語りましたそして、それは起こったのです。ダニエル、イザヤ、などなど、すべてこれらの預言者達も同じ事を語っていました。
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ご存知のように、旧約聖書だけでも、それは2千回以上預言者達が言っています、「主がこう仰せになられる」さて、もし人が、「主がこう仰せになられるというならば、それは人が言っているのではないのです。もし、彼がそうするなら、かれは預言者ではないのです、彼は偽善者なのです。というのはそれは決してその通りにならないのです。10万回の内の一回位、彼等は当たるかもしれません。しかしもしそれを「主がこう仰せになられる」主である神がそれを言われたのです。もし私が言ったならば、「オーマンネビルが言われる」と言ったら、もし私が、「マン氏が言われる」とも脚私が「バイル兄弟が言われる」と幾つかのここにいる他の兄弟の名前を言ったりします。誰でも、私はあなたが言われた事、、もし私が誠実ならば、というならば、私はあなたが言われた事。。そしてこれらの人々は預言者になられていったのです、「それは私ではない。私はそれ以外に何もないのですが、それは主がこういわれる」そして聖書には預言者によって「主がこういわれる」と
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気が付いて下さい。彼はキリストの御霊を取って彼等自身の絵に、そしてそのイベントが起こる事を見通し居たのです。予報について話すならば、彼等は言いました、彼等はキリストの様に行動していたのです、キリストの御霊と共に立って座って時代を通して居るのでした。そして読者たちはそれをyンで、そしてその預言者達は彼等自身の事も語っていました。覚えていますよね、宦官がイザヤ53章を読んだ時、「彼は私達の しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。」宦官はピリピに言いました。「自分自身の事を語った預言者は誰か、あるいは誰かほかの人だろうか?さて、預言者はそれが彼自身の様に語っていました。
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ダビデが御霊の内で泣いているのを見て下さい、「わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。」彼等は私の足と手にくぎを刺した(ダビデ)彼等は私の足と手に首を刺した、あなたはわたしを陰府に捨ておかれず、あなたの聖者に墓を見させられないからである。ダビデは彼自身を聖者として語っている。それはダビデの子を意味するのである、霊的な種がそこから来ているからである。ダビデ自身を通してオオモミであったのですが、それは麦の種の中にはありませんでした。分かりましたか?つまり聖書全体は人の言葉ではないのです、又人に書かれたものでもないのです、人によってもたらされたのですが、人によって顕かにされたものではないのです。それは、神ご自身によって神の言葉が明らかにされたのです、彼ご自身が解釈者なのです、キリストが彼自身の言葉の中で彼自身を顕かにされたのです。
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キリストがダビデの中にここで下がって立っているのを見て下さい。ダビデは今考える事さえできません。彼の思いは彼自身から出ているのです、それがある様に。そして彼は十字架にかけられていましたーここでの姿勢を見て下さいー十字架にかけられながらー「我が神、我が神、何故私を捨てられるのですか?私の骨の全てが見ている、彼等は私の手と足にくぎをさあして、彼等は私の脇を刺した」分かりますね、なぜ私を捨てられるのですか?すべての雄牛はわたしを取り巻き、バシャンの強い雄牛はわたしを囲み、
かき裂き、ほえたけるししのように、わたしにむかって口を開く。わたしは水のように注ぎ出され、わたしの骨はことごとくはずれ、わたしの心臓は、ろうのように、胸のうちで溶けた。。神はこの地上に居た時、彼は同じダビデの言葉が言われました。分かりましたか?お分かりですね、それは人の言葉ではないのです、それは神の言葉です。それはダビデの中に神は折られました。それはダビデではなかったのです、彼が言った事がありました、彼は知りませんでした、彼は御霊の中に居ました。それがモーゼの取った方法でした。彼は御霊の中でもありました、その次元を離れて彼はその中に生きていました、そこに顔と顔を合わせて立っていた。焼けた藪の中で、神に神自身に話しています。行ったのです、「靴を脱ぎなさい。聖い地にあなた方を立たせなさい。
私はモーゼがそこを離れた時の事を創造しています、彼は思っていました、「何が起こっていたのであろうか?何が起きたのか?それは何だったんだろうか?
彼は言いました。「それは本当に私に向けられていた、行かなければならない」彼は妻と子供達を得ました、そして彼の子供は、彼の手の内にあり、エジプトから人々を解放する事をしました。
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神は預言者達を通して彼自身を語られている。
分かりますね、彼等は間違い二のです。それは預言者達ではないのです、それは神なのです、何故なら預言者自身は、これらの事を言う事は出来ませんでした。「誰が我々の報告を信じましたか?」イザヤは言いました、あなたは、「誰が我々の報告を信じましたか?」誰が主の腕を顕かにされたのでしたか?彼は馬屋にいる子牛として育っていくことになります」そしてどのようにして、「 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。」我々はこの時代にその方法で癒されたのでした、イザヤではキリストが生まれる800年前に語られていました。「打たれた傷によって、既に癒された」オーなんてすばらしい、神の御言葉はどれ程完璧なのでしょう。信頼しましょう。あなたを救われる唯一の方法なのです。
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全ての他の言葉ー彼等がどれ程しっかり置かれていても気にしません、彼等がどこから来たか、どの宗派でどこから来たのかあるいはその人がどれ程賢いか、、それらの事は絶対的に無視しています、その御言葉には全て反発していました。もしあなたが聖句を抑えたいならば、それはガラテヤ1章8節でした。パウロは言いました、「しかし、たといわたしたちであろうと、天からの御使であろうと、わたしたちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その人はのろわるべきである。」つまりは、もし天から来た天使が北ならば、輝く天使そしてそこに立っていたのです。(つまり、この時代において餌がありましたね?)輝く天使がそこに来たのです、そして立っていました、そして御言葉に反する事を言っていました、あなたは言いました、「サタン、立ち去れ」とそれは正しいのです。もし彼が司教ならば、もし彼が何であれ、彼を信じていなかったのですね、もし彼が聖書で語っていたのです、言葉毎にでした。彼を見て下さい、彼は聖書によって彼によって運ばれているのです。彼は特定の場所にあなたを連れて行きそしてそこに正しく下げてきていました。あなたが聖書が語っている一つの事を見る時に、それをほっておくと、彼は正しく見ていたのでした。それが彼がエバに対してしたことでした。彼は全ての事を言いながら彼はそこに来たのです。「神はこのことw言われていました。その通りです、エバ、アーメン、私達はそれを共に信じています。
「さて、神がこれを言われた」
「アーメン、我々は共に信じている」
「神がこれを言われた」
「我々はそれを間違いなく信じています」
「さて、しかし神は我々が死ぬと言われました」
「さて、今、ご存知のように、彼は世記紙です」彼はあなたが知っているとは言いませんでした。「しかし、、間違いなく」オー何という事。彼がおられます。そしてもし彼が欺きぶかい存在だったのです、そして聖書が終末に言いました、彼はもしそれが出来るならば選民さえも欺こうとするのです、我々は今日、友人。。。さて、これは小さな日曜学校のレッスンでかなり近い所に行っていたのでしたね、我々の心に対して、だから、、、我々は物凄く近く聞くことが出来たのですそして、その物事によって欺いたのでした。
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気が付いて下さい、我々には出来ません、ー他の人の言葉を聞か荷でください。我々はどれ程賢くてどれ程教育を受けているかなんて気にしません。聖書の箴言の中で、言っています、我々は理由付けを壊さなければならないとですね。さて、この2番目の層で、初めの層は、あなたの感覚、視覚、味覚、感覚、嗅覚そして聴覚、それはあなたの外郭的な体。内的な体、、御霊は理由付け、そしてその考えなど。我々はそれを全て壊さなければならないのです。理由することは出来ないのです、「今待ってください、もし神が良い神ならば、そして我々は今日沢山の事を告げられました、。もし彼が良い神ならば、そしてもし私が誠実ならば、、聖書の中での正しくしていることが見える事が出来ません。もし救われているならば、」あなたは失われるでしょう。
もし私が教会に行ってそして私が正しいと信じているのです、私は正しいとしんじているものに死が見続けようとしています。さて、「袖もまだあなたは失われています」そこには人の目には正しいと思われるものがありますがその終わりは死に至るのです」分かりますね、あなたは救われないのです、失われるのです。人の内側で制御されている必要があるのです。
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「さて、私は異言を語ります、ブラナム兄弟。さて、あなたは異言を語る事を信じないのですか?もちろん信じます!さて、私は叫びました、信じていないのですか?はい、私は良いクリスチャン生活をしています、それを信じませんか?はい信じます!しかしまだそれはあなたが救われているという事を意味してはいないのです。あなたが良い人出ある事、聖くて、倫理深く、綺麗な、良い人として、それは祭司たちの様な、宗教的な暮らし方をして、その宗教は間違った建て方をしていて、彼等は石を打って死ぬようになっていました。神の言葉を遊ぶのは死刑なのです。
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それが今日の我々の国での問題なのです、その地球上に今日沢山の外れた状態の物がある理由はそれです。その処罰が十分強くなかった。それは人が他の人の妻と跳びだしてみたり、彼等は人びとに見せていたのでしたが、公的に去勢をしたりというような。ゆるゆるになっていました。その通りです。もし人が間違っている事で捕まえられたんラバ、スピードの出し過ぎ、彼は10年以下の、彼は、計画的な殺人、、、それを処罰として、あなたは彼等はゆっくりできたのでしょう。しかし、間違った政治家がいて、ここにいつもいて、それを越えて行きました。そして言いました、「さて、彼は少しお酒を飲んでいたから、彼はそういう意味ではなかった」そして人を殺したり、妻を殺したり、そして罪のない子供達を沢山、、、リッキーにそれをさせていたのですそれが政治なのです。それが世であり、それは悪魔なのです。
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神は言った、もし人が、姦淫や女性につかまった場合、そこから取り出し、石打をして殺しなさい。そう決まっていました、もしあなたが安息日に重いものを持ち上げる事でさえつかまったのです、「彼を連れて来て石打をせよ」彼等はそれによって生きていました。そして今、我々にはそのような種類の律法はありませんが、クリスチャンとして教会に私は今朝話しています、神の律法はあなたの心の中に在りますね。あなたは罪を犯したいという思いはないのです。ここに神がおられるからです。あなたは神の律法を完璧に守りたいのです。それがどんなことであったとしても、神が扉のドアマットを必要としているならば、あなたにそのドアマットになって欲しいとしたら、喜んでそうなるのです。どんなことであっても、そのドアマットになりたいと思うのです。神があなたになって欲しい事なら何でさえも、それをあなたがしたい事なのです、それが神だからです。今、あなたが本物であるという事が見つけられる場所なのです、真実で神への本物の愛がある事。
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今、我々がある御使いはそれ以外の事を宣べ伝える事がない事が分かります、既に聖書の中にかかれています、もしそうでないならば彼は呪われるのです。誰にもそれは出来ないのです、それはその方法でなければならないのですそう書かれています。
そして再び、我々が黙示録22章18と19節を読みましょう。 「この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。命の書から名前が取り去られる
また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる。」それほど神は彼の言葉は失敗しないというのです。分かりますね、教会に加えたり、取り去ったりすることは出来ますが、その言葉に加えたり取り除いたりすることは出来ないのです、なぜならばそうなったら命の書からあなたの名を取り去ることになるからです。そしてあなたはそこで終わるのです。あなたはそれに加えたり取り除いたりすることは出来ません。それがその通りなのです。
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解き明かすものは必要ないのです、神ご自身が聖書を解き明かされると聖書に書かれています。「自分勝手な解き明かしはない」とペテロが語っています。そうです。
そしてすべての聖句は神によってアが得られ、神によって正しい順序でおかれているのです、全ての事がイエスキリストの啓示なのです。そして新約聖書も旧約聖書も彼が来られることを先に告げている場所があるのです、彼がいつここに来られるか何をなさるかこの時代に来ること、、、だからそれが彼を昨日も今日もいつまでも変わることの無い方です。へブル書の様に、ペテロがそれを書いた時、彼は神であり、イエスキリストは旧約聖書の時代の機能、彼はイエスキリストで今日、肉体によって顕されたのです、そして彼はイエスキリストで御霊によって永久に来られるのです。だから昨日も今日もいつまでも変わる事がないのです。そいて彼は彼の御言葉が生きるようにさえなさり、それがその時代ですると言われました。彼は生きておられるのです。
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彼は旧約聖書にも生きていて、顕されていました。
さて、私は小さな何かをここで知らせたいのです、もしあなたがそこに立つことが出来るのです。しっかり見て下さい。イエス様が旧約聖書にその様にされると信じる様な形で顕れたのです。さて、あなたがた説教師はそこにいます、あなた方はそれと口論する事が出来ます、あなた方がしたい事何でもしかし私は私から話します、私が考えていることを、、
イエス様は旧約聖書で神顕体としてあらわされていました、人であるメルセデックとして、祭司ではなく、人としてです、その人は、、、この人は、まだ、生まれていませんでしたが、彼は神顕体だったのですそして、彼には父親も母親もいませんでした。彼は神ご自身だったのです。彼は父も母もなく、初めの日も終わりの日もなかったのです。それは神顕体として人の形で顕されたイエスさまだったのです。それが分かりますか?大丈夫ですね。
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そして、彼は実際人間の形で作られて人としてイエスキリストとして処女マリアから生まれて我々の中に住まわれたのです。彼はその形で来られたのです、だから彼は死ぬことが出来たのです、そして天国に戻られました。さて、この終わりの時に、彼は彼jシンを完全な形で霊を持った彼の肉として顕れると約束されていました。それはソドムの日の様になると、そして人の子が来られるときなのです。さて、ソドムを見て下さい、それがどのようになっていたかそして何が起こっていたか、そしてイエスキリストは肉体的に今日の彼の教会の形で顕されるのです、同じことを同じ業を彼が全ての時に行ってこられたことをされるのです、変わる事は無いのです、永遠なのです。そして今日級で、彼は彼自身を地上の人間の形で顕されました。彼は世バレ、同じことをいろいろな時に彼の肉を地上に来られて顕されたのです。そして今日も同じことが怒っています、何故なら神が預言者を通して先祖の人あt地にいろいろな時に語っていたからですこの終わりの時に、彼の御子イエスキリストを通して、その御子は神が人の日躯体の中で明らかにされるようになる、、それがソドムの破壊が始まる前にです、異邦人の世界の終わりです。分かりますね?3つの現われがあります。
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今、過ぎに起こる事は、一人の人イエスキリストに皆が集まる時、早嫁とその日機体的な体が主イエスの再来に伴って、彼の3回目の、、彼が地球上医来られた時、殺され十字架にかけられ、蘇られました、彼自身が、彼の体の形で来られて、それが彼の花嫁の名あkに女性としてあらわされたのです。分かりますか?彼女は彼の体の一部なのです。そしてその女性と男性は彼等がほどんど一緒になるほど近くなるのです、彼等はそうあるべき様に同じなのです。そこにおられますね。彼等は全く同じように顕されるのです。彼女は彼の一部なのですと言うのは彼女は彼から取られて創られたからです。そして今日の花嫁はキリストの体から取られて、ちょうど彼がこの時代にするのと同じように行動しているのですー花嫁、その女王、王とその女王。
分かりますね。我々は今遅くなってきています、急いで行かなければならなくなります。
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その通りです。
聖書全体が、イエスキリストの啓示なのです、彼自身を全ての時代に知らせる為なのです。彼はルターの時代に基礎として教会の礎足として、彼自身を知らせました、彼がネブカドネザル法にした様に。覚えていますか、彼がどのようにその夢を見たか。。それは頭の下から始まりましたね。今、彼は足から来て上がって行くのです。バビロン王国で、彼は全てのの旧約聖書の中で、頭からくるように梯子の足の所で肉となって神があらわれてこられるまで。さて、ここで新約聖書では、彼は彼自身を再び頭から顕されています。金納として冠を受けたのです。見て下さい、分かりましたか?神は初めから、引き続き預言者達を通してき続けていたのです、神ご自身が我々の様に人間になるまで、梯子の脚のところまで下ろされたのです。赤ちゃんが馬小屋に生まれ、憎まれ拒否され、馬鹿にされていたのです、そして悪い名前で呼ばれ全て彼は受けたのでした。そして彼は上がり始めました、そして足から彼は教会を建てたのです、花嫁が戻って来たのです、そして今、頭石に来ようとしていますその場所は全ての物が繋がって一緒になっているのです、イエスキリストの体大いなる変容なのです。
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神はすべtネオ時代に、彼のその時代に対して約束した御言葉によって明らかにされています。さて、彼の今日に関しての約束の幾つかを見てみましょう、我々がこの最後の御言葉でしめている時にです。
さて、神は彼自身を夕暮れの時間に明らかにされているのです。
今、見てみましょう。我々は分かります、沢山の聖句がここにかかれているのが分かります、そこに行く角聖句がかかれているかが分かります、しかし我々には12時まで15分しかありません。そこまで行きたいのですそして、今朝、話していましたが、ガラガラ声にはなりませんでした。時々、これらのここにあるエアコンが私の声をガラガラ声にさせるのです。だから、もしネビル兄弟がそうならなければ、今晩は何にも得ていないのですね?(ネビル兄弟は言います、「いいえ、もしそれが良いならば、私は何かを得ています。他紙は、煙草のパックを先日見つけました、森の中に置いてあったのですそして、その煙草のパック殻今日メッセージを目ました、主の御心であれば、さて、私はこれらの聖句を得たので、私は時間を越えたくありません、そうすればちゃんと皆さんが家に戻れます。
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煙草の箱が語る。そうですね。
私は、森を通して、降り始めていて、そこに煙草の箱がありました。そして私はそこに歩んでいったのです、私は考えた、「さて、誰かが私の前を進んでいます」
そして何かが語りました、「戻ってそれを拾い上げましょう」
私は考えた、「煙草を拾ってくださいね?私ではない」
何かが言いました、「戻ってその煙草を拾いなさい」そして私は曽於に降りて行き、その古い殻の箱をがありました、私は何かが分かりました。私は、今晩御心であrならばそのことを語ります。大丈夫です。
105
さて、これからしばらくの間夕暮れの光について話すつもりです。聖書では、時の終わりに、太陽が出てくるけれどもその夕暮れになる時の事を預言しています。我々は皆そのことを知っていますね?我々は我々の今日における主イエスからの夕暮れであった人になると信じていることを良く知っています。そしてこの夕暮れの時、もちろん、大きな光はイエスご自身が、この地上で顕していたのです、、天において、彼の花嫁として連れていかれるのですそして至福千年に置かれているのです。
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しかし我々は主の最も恐ろしい時、人間が今まで経験したことの無い物となるのです。そして私はその時を待っていて、そうなった時には、皆仕事から離れて、数日を過ごしている機械がある場所なのですそして、我々はどこかにこの災害とその時代に落ちてくることについて話すことが出来ますそして、2-3週間くらいに渡って、、、もし主がその時まで生きさせてくださり、そのことに霊感してくださるならばです。分かりますね、どれ程、その物事はそこに入り、それが嵐やら、そしてあなたはその人や人々がこれらの事全てが起こる事を夢見ているのです、それは起こるのです。あなた方はそれが顕され大きな嵐が空に昇ってくれば気が付くでしょう。餅路、あなた方の皆が、私が何を意味するかが分かるならば、しかしその時が来るまで待ちましょう。今、もっとその季節に入ってきています。
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今、そして我々はここにあるこれらの聖句の幾つかを読みましょう。さて、夜に光が来たのです。さて、我々はそれが朝に来るのと同じ光ではなければならなくなることに気が付いていました、朝の太陽と午後の他の太陽はないからです。それは同じ太陽、同じ概要が午後に朝に、朝と同じで午後。さて、それはそれ自身の日と言いましたーその日とその時間の間にその表な種類です。オー陰気で暗い日なのです、日或いは夜の間で呼んでいなかったのです。
108
分かりますね、それは脚から体に来た形なのです。
彼が血上に居た時、彼は御子でその様だったのです。そして彼は殺されました。教会は彼の場所を殉教者という形で取り、暗黒時代を超えたのでしたそしてそこから基礎を建て始めたのです。そしてその景色はどこから来たのですか?頭の上から。ビジョンを見てみましょう。ネブカドネザル?さて、彼は異邦人の時代の初めから下がって行ったのです、彼等の為の贖いが血を流す前の事でした。彼等は彼の為の会衆者達でした。しかし気が付いて下さい、それは下に下がって行ったのです、まっすぐに、シンボルの中の一番下に、齎されたのです、それは下から戻って来たのです、教会は脚から戻ってきます。さて、それは頭の時代ー頭の時代。
さて、その光に気が付いて下さい。
109
あなたの手で見ることは出来ません、しかしそれは体の一部です。耳でいる事は出来ませんが、それは聞くことが出来ます。鼻で見ることは出来ませんがにおいをかぐことは出来ます。唇で見ることは出来ませんがそれを通して話す事になりますね。それはペンテコステの時代でした。しかし今は、絵の時代なのです、そのミル理解する事。さて、名城言動くものはないのです。そうではないですか?それは知性の次で、キリスト自身なのです、彼が身体全体を制御しています。それを越えて動くことはありません。それ以外の全ては動きましたね。足も、脚にある筋肉も全て、あなたの目も、あなたの鼻も、唇なども、しかし目の後で、他に動くものはないのです。だから彼等は男性は速く頭が剥げてしまうと言っています、その理由は、髪の毛、頭皮など、そしてそこに血が入る様にクッションはありません。その血はそこから流れないし、上がったり血を変えたりしないのです、というのは髪の毛の根本は血の中に生きているからです。そして今、我あれはその位置(分かります)を見つけるでしょう、、、目をこえる物は何もありません。
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さて、見つけてみましょう。中間の時代に光があるんですよね?又夕暮れにも、さて光は何のために送られるのでしょうか?それはどこにあなたが居て、どのよう動けばいいかですね。どこにあなたがいるかが見えるように。夕暮れの頃に光があるのです。
さて、我々は今、マラキ書4章と比べてみようとしています。彼は夕暮れに光が又来ると約束されましたね。「 5.見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。6 彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる。これはわたしが来て、のろいをもってこの国を撃つことのないようにするためである」。
さて、ヨハネ、あるいはルカ書の17章28-30節を見てみましょう、イエス様がそこで預言されています。「28 ロトの時にも同じようなことが起った。人々は食い、飲み、買い、売り、植え、建てなどしていたが、29 ロトがソドムから出て行った日に、天から火と硫黄とが降ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。30 人の子が現れる日も、ちょうどそれと同様であろう。」さて覚えていますね、気が付いて下さい。これは人の子が明らかにされる時、人の子が顕かに、、さて、人の子は実際、そこで縛らsくの間だけ顕かにされたのです、封土ソドムが焼かれたとき。さて、それはエロヒム、それは神でしたそしてイエスは神です。そして神はそこで明らかにされる可能性がちょうどありました、アブラハムにしばらくの間だけ最後の審判の時に少しだけ話す為に。人の子が現れる。人の子、エロヒム、理解しましたか、教会?人の子、エロヒムは数分だけ明らかにされました庁と次の朝、彼女は焼かれました。いつでしょう?太陽が再び昇る前でした。そして組織は残ることは出来ませんでした、世が開ける直前に焼かれるので、それ以上に昇る事は出来ないのです。リバイバルが国中に拡がっています。もうリバイバルは大きなリバイバルはないのです、この国では、もうそれを受ける事はありません。もしかしたら知的な集まりはあるでしょうしかし、霊的なリバイバルはありません。全てをもう見たからです。分かってくれていると希望します。この様に言うのは皆さんに理解してほしいからです。それはもう終わっているのです。
しばらく前に有名な聖職者が私に言いました、「ブラナム兄弟、もし主の喜びが私の心にありさえすれば。」
私は言いました、「息子よ、そのリバイバルは終わった」分かりますね。
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さて、その安定剤(錨)がその船をとどめておきます。大きな恐ろしい波が我々の前に来るとき、しかし我々はその波の後ろを超える者があるのを知っています、岸に近くなっているのが分かっているのです。我々はその騎士に近くなっています。だから安定し続けましょう。御言葉に留まり続けるのです、神と共にいつも居ましょう。どのように感じていても関係なく、何が起こっていても、御言葉に留まり続けるのです。安定しましょう。大きな古い雲が我々の周りに全て顕れた時でも、そして嵐が来ても、原爆が来ても全て彼等が話していることが起こる時にも、我々の錨は御言葉にしっかりと留まっているのです。神がそういわれているのです、我々はその一つ一つの全てに信頼するのです。はい。その上に行く事になります。はい、間違いなく。我々は沈むことは出来ないのです、彼等が我々の下に行くでしょう。墓の中に入れることは出来ます、我々は再び出てきます。それはそこに全てあるのです。世がそれをそこに置き続けさせる方法は一つもないのです。それらの全ての上に上がるのです、何故なら我々の偉大なチーフキャプテンが反対側でよんでおられるからです。
我われはイエス様の中に錨を置いている。
人生の嵐が来ても強く耐える
私はイエス様の中に錨を置いている
風や闇を恐れる事は無い。
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それがどこであっても、来させるのです、そうあろうとも、何が起ころうとも、違いは持たさせないのです、我々はイエス様の中に怒りを置いているからです。神の栄光の中で生きるのです。もし知るならば神の栄光に向って死ぬのです。私が正したい事欲しいのは神の栄光だけです。全てが終わる時、長く居続けたくはないのです。彼が私に下さる褒賞を受ける場所に行きたいのです、私が稼いだものではなく、神が下さるもの、神が神の恵みによって私に下さるもの。
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だから、我々は、ここで夕暮れの光を見るのです。そしてもし目がないとしたらどのようにして光を持っていても動けるのでしょう。夕暮れの光とは何でしょうか?何かを顕かにする為に来る光なのです。そうですよね?何かがここにあるならばあなたは感じます、そしてそれが暗闇の中に居たら理解できませんそして光を着けます。そうすると顕かになります。マラキ4章がする事は何ですか?分かりますね、それは同じ事です。7つの封印を開くのは何ですか?これら全ての宗派がこの中で、、、すごい事をしようとしているのは何でしょう?それは顕かにしようとしているのです。もしあなたが目を持っていないならば、顕かにしても何の意味もないのです。それを見るには目が必要です。そうですよね?マラキ4章を顕かにする為にも、ルカ17章30節、ヨハネ14:12そしてヨハネ15:2416」13そして又、黙示録10章1-7節、7つの封印の開封と7人の御使いのメッセージが開かれる時に夕暮れの光が来て顕かにされるのです。
さて、もし人が、、、
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ラオデキアの時代に人々はどうしていましたっけ?裸で彼等は?目が見えず。光は目蔵の人にとって良い事があるでしょうか?盲人が盲人を導くならが、溝に落ちてしまいます。裸で目が見えず、それを知らない。彼等の精神的な思いはなくなり、彼等の霊的な精神面も、霊的な悟りも、、ないのです、2 その時、人々は自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、高慢な者、神をそしる者、親に逆らう者、恩を知らぬ者、神聖を汚す者、
無情な者、融和しない者、そしる者、無節制な者、粗暴な者、善を好まない者、
裏切り者、乱暴者、高言をする者、神よりも快楽を愛する者、
信心深い様子をしながらその実(啓示の力)を捨てる者となるであろう。こうした人々を避けなさい。彼等はそれを信じてさえいないのです。彼等は預言者達の様な事を信じていませんそして、彼等はそれを信じません。彼等はマラキ書4章を特定の教会あるいは特定の組織となると信じています。彼が初めて来た時彼は人でした。彼が2度目に来た時2倍の力を持ってきました、彼は人でした。彼はバプテスマの(洗礼者)ヨハネの形で来られた時、彼は人でした、分かりますね、終わりの時に、夕暮れの光が輝き始める時、絵は開かれ、あなた方はどこに行くかを見るよです。そしてその体は既に形作られて、脚の上に立っているのです、動いていて、聖霊によって動いているのです。何ですか?聖書を書くように預言者達を動かした同じ聖霊が身体の中で動いていて、背入れによって満たされて聖霊は全ての組織や、民族や言語や人民を離れて動かれるのです。
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ここに小さな女性がいます、彼女はこの組織に属していません。。この会衆に属しています。彼女は別の所から来ています、阻止t得今朝ここに来て、その絵を理解しました。私の息子にそれを渡しましたとても素晴らしい物でした。彼女が来れを聞いたかどうかは分かりません。彼女は主の御使いの絵が7つの教会時代のー7つの封印がそこで開かれている絵を持っていました。それが渡され時に、「それを通して振り返ってください」そして彼女は夢の中でそれ空中に立っているのを見たのでした。そして彼女はそこを振り返ってそれを見たのです、、、白い着物を着た人がそこに来たのを見たのです。それを見て言いました、、「ブラナム兄弟、それはあなたでした」そしてそこに行進して入って行ったのです。言いました。「その後ろに浸人々はいろいろな色の旗を持っていました^ジョージア、アラバマ、いろいろな場所からーキリストがそのビジョンを顕かにする場所に向って行進していました。」オーハレルヤ!
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我々は週末にいるのです、そしてその時代の最後の時間になっています。
我々の前に神の言葉が表されて見えているのが分かりますか?オー生きる神の教会、あなた方の足に立ち、全身全霊をこめて彼を信じて下さい。小さなタイヤの真ん中にある小さなタイヤをしっかり握り、すべての動きや行動を安定化させましょう。考える全ての事があなた方の中に在る力によってコントロールされるのです、というのは神がこの時代の彼の御言葉お腹に夕暮れの光の中に座っておられて光を前に見せておられるのです。
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コウモリの目が見えない状態。。電気をつけて光を得る事が出来ますそしてコウモリがそれほども目蔵だったら跳ぶことは出来ませんでした。フクロウは、夜の鳥そのようなもの、ゴキブリのような物は、日中の光の中では見えないのです。彼等は全てのことは出来ません。彼等には見えないのです。そして夕暮れの光が来るのです。全てのと問えばなし、我々がどこに行っても、自然のなかにいくとして、聖書にも、その姿勢、、、ダニエルはその時代の王様に会いました、彼あ全ては見ていて、これらの事全てを皆が全ての形、すべての動き、体のどこでも、我々が生きているこの時代の場所を見せてくれているのです。その上に他の動きが来ることは出来ません。手の動きがあり、愛、ウェズリー。。礎石の動きがありました、ルター、チャリティー、「それ以上の物はなかった」と呼ばれました。ウェズリーは動きました、彼等は世界中に宣教師を送りました、その時代の前の最も偉大は働きの一つででした。そしてペンテコステ派の時代が着て、異なる柚木や物事が来ました、異言や花などが起こりました、今、それは目の中に在ります。目が必要であり、光が必要な状態にそれがなかったら見えませんから。見る為には目が必要ですそしてその時、彼は7つの封印を開け夕暮れの光を顕かにされ、奥義をすべて取って、隠されていた物をこれらの教会時代を通して、今、黙示録10章1-7で約束されたように、顕かにされています。今ここで今日われわれは御言葉の真ん中に座っていますそして御言葉がイエスキリストにより我々に顕かにされているのです。そしてこれは神の言葉なのです。
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そして神に仕える物として、我あれはその著者に近く歩み、それを顕かにするためそれを悟る必要があります。「オー主よ、あなたは私に何をさせたいのですか?もし畑に出て行って福音を宣べ伝えるなければならないならばあるいは家に留まっている必要があるのでしょうか?どんなことであれ、もし私が良い主婦であるならば、もしよい母親である必要があるのあらば、もし私がこれやあれやその他、何でもしなければならないならば、もし農民である必要があるのであれば、もし私が何であれ、主よ、私のために何を持っておられるのですか?
そこでサウルが叫んだことはなんでしたか、「主よ、あなたは私の為に何をお持ちですか?」彼は教会の人々すべてを刑務所に入れる為に道を下っていたのですしかしその時彼は泣き叫んだのです、「私の為にあなたは何を持っておられるのですか?大きな火の柱が彼のウエイ来た時、私の為に何があるのですか?
私はそれはこれを閉めるのに良い言葉だと思います。そして言いました、「主よ、私の為に何がありますか?これほども完璧にこの聖句を見れるように顕かにされた今、主よ私の為に何をお持ちですか?
頭を下げて祈りましょう。
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ここにいる皆さんにお願いがあります、心を探って、その質問を今して欲しいのです「主よ、あなたは私の為に何をお持ちなのですか?」そして皆さん、国中で電話でつながっている方々、頭を垂れて尋ねて下さい、「主よ、私がするべき何かを持ちだとしたら何ですか、今が終わりの日々であり、はっきりと私達の前にあります、はっきりと明らかにされています。あなたが私にさせたい事は何ですか?」
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親愛なる神様、彼等があなたに尋ねている間に、自分自身の為にあなたに尋ねたいのです、」主よ、わたしは何をしたら良いのでしょうか、毎日が数えられなければならないと理解しています。そしてあなたの助けを求めて祈ります、主よ、日々、あなたの栄光と栄誉を数えて生きる事が出来ますように。あなたが全てのこの国全体にいる人たちを皆助けて下さいますように祈ります、ここのタバナクルの中にいる人たちそして自分たちの心を探り「主よ、わたしは何をしたら良いのでしょう?何があなたの御国やあなたの目的が広がるために何が出来るのでしょう?」と言いました。受け入れて下さい。神様、神様私達の心を探り、試してください、何か間違ったものきたないものが我々の中に在るならば、利己的さや、悪い動機や目的があるならば、神様、あなたの御子イエスキリストの地によって清めて下さい。彼の死と復活の贖いを謙虚に受け入れます。彼がこれをされたことを信じる事により正義化してください。我々は我々に与えた下さった救いの計画をよろこんで受け入れます。父よ、その時代のメッセージを感謝します、私達が信じる事しがみつくべきこと、あなたの御言葉とあなたのメッセージを信じ知る事ー他の人達からの違ったものでなく、しかしもっと私達の見本であられるイエスキリストの様にもっとなれるように。
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親愛なる神様、ここにハンカチを置きます、そして病気の人々は至る所にいます。そして私自身、主よ、疲れはてています。どうか愛する神様、あなたが私達を助けて下さるように祈ります。あなたか他の強さを求めて祈ります。あなたこそが我々の強さなのです。沢山助けて下さって来られました。親愛なる神様。
先日、森の中に座って考えていました、バンクウッド兄弟と歩き回っていて、医者が、、、彼の心臓が悪くて、歩くのは大変だと言った時の事でした。そして、そのビジョンを見た後、その山々の中で歩いていてどれ程私が知っていることが少ないかを考え知恵ました。「私は獅子を得なければならない。獅子が殺されるのを見なければならない」そしてそこに降りて来て、そこは「ツーソンのファースカフェテリアでした、そして彼の洋服がぶかぶかで目が潤んでいたのを見て言いました。「神様、どこにライオンがいるかを見せて下さるならば、間違いなく、あなたはウッド兄弟についても見せて下さることが出来ます」
そしてその時、来たのが「彼に手を置きなさい」そして彼は今日、ここに座っています、後ろの方で、我々のバンク兄弟と共に、強く走り上ったり下りたりその山でしているのです。どれ程親愛なる神様に感謝しているでしょう。あなたはウッド兄弟の神であられ我々すべての為の同じ神であられます。我々はあなたが彼を愛しているのを知っています、何故なら彼はあなたの僕であり、正直で誠実です。
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又親愛なる神様、我々一人一人を扱い、罪を許し体にある病気を許して下さるように祈り求めます。日々よりあなたの様になれますように、完全なイエスキリストの御岳に来ることが出来るまで助けて下さい。受け入れて下さい主よ。あなたが全ての心を探られた我々は何をするべきか知っていると信頼しています。あなたの祝福を今求めてイエスの聖名によって祈ります。
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頭を垂れている間、ここに居る人あるいは電話千に繋がっている人達で、祈っている時、神に向けて手をただ上げて下さい。今、あなたに出来る全て、今朝ここは込んでいます。あなたの手を神に向けて挙げて言ってください。「神様、イエス様の様にしてください、もっとイエス様のようになりたいです」神の祝福がありますように、国中を通して、手が至る所で上がっています。私自身も手を挙げています。「私もより彼の様になりたいのです。私を探ってください主よ、もし何か悪いものが私の中に見つけられたら取り去ってください。」長い事ここに居ましたしかしあなたが誰であれどれ程金持ちであろうが貧乏であろうが若かろうが年を取ろうが、いずれは去る時が来るのです。
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昨日、小さな貧しい人達と一緒に、ある山のふもとの小川の所で立っていました。そこには小さな家族が居て、ある人がいて、彼に長い事髪について話していまして、降りて来てそして彼の妻と7人か8人の子供達、小さな、子供達が、働こうとしていました、一日2ドルくらいで。そしてある人が小さな掘立小屋に住んでいて、そこに妻が居て、もうすぐ子供が生まれそうでした、彼女はかなり大きくて太い斧を持って木を切って、それを引っ張っていました、赤ちゃんが片方のお尻で気を引っ張って、もう一つ、、、降りて来て気を切って、ブラックベリーになりそうで、冬を通してお腹がすかない様に、、、何という事、彼女に申し訳なくすごく感じました、そしてウッド兄弟と私は言ってトラックを取ってきてそこに行き、彼女の木を切ってそれを持っていきました。とても感謝している小さな女性、彼女はそこに立っていました。彼女が可哀そうだと感じましたそして彼等の為に祈り続けました。
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そして彼女の小さな赤ちゃんがてんかんを起こしました。我々は言ってその小さな加ちゃんの為に祈り、神はそれを癒されました。そして先日彼女の夫がヘルニアがあり、そこに行き、彼に話しました。彼は煙草を吸っていて、彼等は両方ともそうでした。彼女は煙草を使っていて、彼もでした、典型的な山の人々です。そしてその時、ひきつÐ期それについて話しました。そして昨日の朝、昼間にそこに行きました、そして彼は降りて来て、彼の手を結んで言いました。「ビリー兄弟、私は新しい人になった」と言ったのです。彼は「昨日最後の煙草を吸った、そして私は主の側に行きたい」
彼女は言いました。「私も最後のたばこを吸いました」種を蒔いたのです。「主である私は水を、、私は昼も夜も水を撒く、、、私の手から取り去るものはいない」
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オー神様、今憐れみを求めて祈ります。私達の心の願いを与えて下さい、何故なら私達の心の願いはあなたに仕えたいのです。さて、父よ、彼等は皆あなたの手の内にどこでもいるのです。彼等はあなたの子供達です、憐れみにより、彼等を扱ってください、主よ、裁きではなく、憐れみより、イエスの聖名でおたずねします。アーメン。
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彼を愛していますか?全身全霊で、今、ハンカチーフを持っているならそれを得られます。そして今、我々の礼拝を、少し早めに始めると思います、7時かそのくらいに。ネビル兄弟がそれについてアナウンスします、後一分くらいで、いつ始まるかについてです。そして洗礼のサービスもあります、今朝だと思いますが?水は準備されています。誰でもここに居る人で、主イエスキリストの名によってまだ洗礼を受けていない人は、間違いなく水は洗礼サービスの為に準備されています。
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全ての聖職者の兄弟達を感謝しています。兄弟達、、、あなたのミーティングは銅でしたか、上手く行きましたか?パーネル兄弟とマーティン兄弟そしてオー沢山の人達がここにいます、リーバイル兄弟。聖職者の人達が至る所にいます。我々はあなた方がここにおられて我々と交わりを持ち、御言葉と共に居る事を間違いなく感謝しています。
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この事についてもしかしたら完全に私に度おいしないかもしれません。あなたにそうしろとは尋ねません。ただ考え欲しいだけです。あなたが行ってくれることを、私は考えます。もし聖職者の人達がテープを取って、彼等が、「私はそれに同意しない」と言う事、それは大丈夫です兄弟、羊たちを牧師として仕事し、彼等を何でも養いたいもので養ってください。私はこの御言葉に出来る限り最善を尽くして正しくとどまろうとしているのです。神の手から受けたのです、なぜならば、羊は羊の食べ物を得たいのですもちろん。「私の羊は私の声に聴き従う」そしてそれが、、私達は神の口から出る全ての事が、、、全て、、、一つだけではないのです、しかし神の口から出る全ての言葉です。それが聖徒達が生きる方法であるべきです。
立ち上がって、頭を垂れましょう、ネビル兄弟、何か言いたい事がありますか?マン兄弟?分かりました。
皆さん、気分が良ければ、「アーメン」と言いましょう、(会衆たちが繰り返して「アーメン」という)さて、頭を垂れましょう。リーバイル兄弟に出来るならば着て下さるように尋ねます。ここに来られるようならば、バイル兄弟。。。。
バイル兄弟はここにいる我々の兄弟で、それらの本の著者です。そして彼は今その本を出す準備をしています、7つの教会時代と7つの封印と共に働きかけています。そしてすぐにできる限り速く、それらが出る事を期待しています。ありがとう。リーバイル兄弟。神の祝福がありますように。