65-0801E 預言によってはっきりさせられた出来事

  • 伝道者:ウィリアム・ブランハム
  • ジェファーソンビル インディアナ州 アメリカ合衆国
  • 録音番号:65-0801E
  • 年:1965
1
さて、頭を垂れて今祈りましょう。親愛なる主である神、偉大な天と地の創造者、イエスを死から蘇らせ私の中に生かしこの2千年前から、神の言葉が各々の世代にとって真実であることを確証させて来られた方。我々は彼の神としてのご臨在をとても感謝して今、これを知れる事で大きな慰めを受けていて、この人生が終わったあと、永遠の命を持ってその世界に行かれることを感謝しています。これを感謝します。主よ。そしてその希望が魂に怒りとして繋がり、嵐の時にもしっかりと保たれるのです。そして嵐がきて、大きな波になっても、我々が信仰によって、すべての波を主と共に居る事によって最高の位置に居られるのです。
神様、今晩私達は病人や必要を抱えている人達に奉仕をしに来ました、どうか助けて下さい。我々は祈ります、神様、今晩ここを去る時誰も病気の人がいない様になりますように。あなたの力により、ここと国全体でつながっている人達も全員が癒されどの建物や集まりから今夜弱い人がだれもいない様になる様に祈ります。あなたの御霊によって彼等が羽の中で癒されますように。義の太陽が彼の羽の中で癒し、信仰の光線が前に進み御言葉を聞くことによって全ての心が聖霊の表れを見る事によって、神が今も生きているという事を彼等に説得する事になりますように。我々はこれらの祝福を求めて祈ります、父よ、イエスの聖名によって。アーメン。(おかけください)
2
我々は間違いなくここに今晩居られることを大きな特権と見做しています、再び、人々に話しをして病人の為に祈れることをです。我々は電話でつながれている国中の皆さんに再び、ご挨拶をしたいです。そして我々は神があなた方一人一人を祝福されますように祈ります、今朝、皆さんがキリストを受け入れ、聖霊に満たされ、忠実に生きて神に対してこの地上の死すべき人生が終わるまでキリストに真実に生きていると信頼しています。そして又、彼等がそうしていることによって、彼等は永遠の命を持っているのです。彼等はその年齢で死ぬ事は無く、またいつまでも、その時代我々が期待している時代迄。。。
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さて、我々が話そうとしていることを考えている間、割り込まない様にしてください。バイル兄弟がここにいます、そして私は彼に会えないかもしれません。原稿を私がツーソンに帰った時あなたに送っても良いですか?それを見ている最中で、すべてをまだ読み終えていませんそして、できる限り早くツーソンに戻り次第、送り返します。
さて、ある通知をしたいのです。これhた特に特に西側にあるどこでもその教会達に対して、どこでも来たい方たちにです。我々の素晴らしい兄弟、ペリーグリーン兄弟が、ある人がこの電話をここにつなげる発起人なのです。主が彼の心にツーソンに我々を訪問するように働きかけられて、ツーソンでリバイバルを始めるにあたって、本当にそれが必要です。そしてペリー兄弟はツーソンに来ます。彼と連絡を取りたいなら、我々の事務所に連絡を取ってください。それは8月10日、11日、12日と13日になります。彼はその事を長い間彼の心に置かれていて、私は彼に思いを無くすにはそれをしてくるしかないと言いました。そして彼はクリスチャンの兄弟で、本物の神の僕です。そしてツーソンの皆さん、彼がそこのどこかで、多分ラマダインあるいはどこでも主が供給される場所で、彼はここでは得られませんでしたので、奉仕しまた説教をする事によって祝福されます。しかし私はグリーン兄弟の神の御言葉を我々に解き明かすのを聞くことによって祝福されます。多分病人の為に祈ったり、何で神がさせるために油注がれた仕事によって。。
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我々は又、オーマン ネビル兄弟と、マン兄弟にこの素晴らしい彼等とのフェローシップの時間を感謝したいです。ネビル兄弟、マン兄弟の様な素晴らしい人達と関係を持つことが出来てドレじょど感謝しているか、そしてこれらの他のここにいる奉仕者、聖職者達皆。彼等は認識されていると思います。もし我々の役員とここの教会にされていないならば、間違いなく神がここで彼の僕として認識していると確信しています。主が今後も祝福しますように。
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さて、小さなことをここで尋ねられました、小さなメモが渡されました。彼等はトラスティ―ミーティングがここで先日の夜あって、トラスティ―役員と執事とそしてその記録書が今朝、教会の皆さんの前で今朝読まれたと思います。それは我々が習慣としてやっている事です。その決定で、その教会のここのトラスティ―とディーコンの役員会が決めたことです、もちろん、彼等は全員を喜ばせることは出来ません。我々はそれは出来ないのです。私はトラスティ―あるいはディーコンの役員カインとは何も一緒にする事は無いのです。同点にならない限り投票もしていません、そしてそうなったらここにいつもいなければなりません、オーマンネヴィル兄弟が2回目の投票を取ります。そして我々がこれらに署名しなければなりませんというのも、我々は教会の一部だからです。しかしトラスティ―役員会と彼ら牡決定は彼等がする事で、我々は100%それを支持しますというのは、彼等がはその為にここにいるからです。そして彼等の決定が彼等と神との間のものだからです。私はその決定に反対する事は絶対にしませんし出来ません。そしてもう一つの事は、アメリカ政府からいかなるそれに関する決定をする事を禁じられているのです、だからどうか私が彼等の決定を直すように尋ねないでください。私には出来ません、そしてそれについて今後一切聞きません、分かりますね。だから彼等の決定を直すように尋ねないでください。役員会に会いに行ってください彼等がその決定を下したのです。分かりますね。
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さて、次の集会のイベントで、もし可能であり、主の御心ならば、4から6週間くらいでここに戻ってきます、多分もう一度日曜日の集会になります。そして今朝通知したように、神の御言葉での神のあらわれについて話したいのです、そしてその時間は今晩はありません、そしてはっきり言って、それについての声を十分に聞いて居ません。そしてその時の、会衆は、、、中に居たのとほとんど同じくらい外側に居たようでした多分、もしかするともっと、バスとトラックを数えてそして人々がそこに座っていたことを考えるとです。小さな放送が動いて、我々はそれを聞くことが出来ます。そして小さな波、短波がタバナクルからでるのでそれを離れても拾う事が出来ます。そして幾つかの街を離れても来るまで拾う事が出来ます、車の行列が昇ったり下りたり、通りの周りを今晩はタバナクルの周りに居ました。今晩以上に人々が教会の周りに居たのを目で見たことはないと信じています。だから我々はたくさんたくさん運転して登ったり離れたり。。。
そしてそれこそが「そこに獲物があると鷲が集まってくる」をあらわしているのです。そしてあなた方に今晩言うかもしれません、この小さなグループの中に、国際委的な集まりなのです。実質的にここに3分の2の州からの代表が居て5つの海外の人々が居ます、ロシアでさえ、そして国中のいろいろなところから、ベネゼエラ、ジャマイカその国の他の所からここに人々は来ています、神への飢え渇きなのです。何と素晴らしい時でしょう!
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さて、私は聖書を読み始める前に、、今私の為に祈ってもらえないでしょうか?小さなメッセージを持って来ようとしていました、御心ならば、神の癒しに充当する意味でです。今朝我々は救いについて話しました。そして今晩我々は数分神の癒しについて話す予定ですそしてプレイヤーラインを読んで、人々の為に祈ります。我々がこれをしている間、外でつながっている人々、バスであれ、タバナクルの2ブロック貼られた車やバスの上であれ、病人の為に祈る時になったら、建物に入る事が出来ないならば、今は間違いなくできないです、現状どこもかしこも入り口はいっぱいになっています、スペースはどこにもありません、だからお互い胃いる場所で手を置きあって祈ってください。そしてお互いに電話でつながっている人達も彼の会衆の為に祈ってください、牧師さん達や聖職者の各人、、癒しの礼拝が続いている間にお願いします。我々は神は遍在の存在でありどこにでもおられると信じています。さて、我々が読むか、、、
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祈る前に、いくつか、御言葉を読みたいのです。そして、しばらく前に今晩の為の聖句をいくつか変えました、というのは今晩の為に考えていたことをその種類の集会によって変えたかったからです、そして少し変えましたそしてだから私は上げるべき聖句をいくつか変えました、彼等を変えたのではないのですが、他の順番にしました、神の癒しのそして人々がそれを理解するように。ルカ書の24章を開いて下さい。そして24章の12節から34節くらいまで読んでいきます。それは主イエスの復活に関するものです。
〔ペテロは立って墓へ走って行き、かがんで中を見ると、亜麻布だけがそこにあったので、事の次第を不思議に思いながら帰って行った。〕
この日、ふたりの弟子が、エルサレムから七マイルばかり離れたエマオという村へ行きながら、
このいっさいの出来事について互に語り合っていた。
語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。
しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった。
イエスは彼らに言われた、「歩きながら互に語り合っているその話は、なんのことなのか」。彼らは悲しそうな顔をして立ちどまった。
そのひとりのクレオパという者が、答えて言った、「あなたはエルサレムに泊まっていながら、あなただけが、この都でこのごろ起ったことをご存じないのですか」。
「それは、どんなことか」
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(さて覚えておいてください、これは蘇られたイエス様が語られているのです)と言われると、彼らは言った、「ナザレのイエスのことです。あのかたは、神とすべての民衆との前で、わざにも言葉にも力ある預言者でしたが、
祭司長たちや役人たちが、死刑に処するために引き渡し、十字架につけたのです。
わたしたちは、イスラエルを救うのはこの人であろうと、望みをかけていました。しかもその上に、この事が起ってから、きょうが三日目なのです。
ところが、わたしたちの仲間である数人の女が、わたしたちを驚かせました。というのは、彼らが朝早く墓に行きますと、
イエスのからだが見当らないので、帰ってきましたが、そのとき御使が現れて、『イエスは生きておられる』と告げたと申すのです。
それで、わたしたちの仲間が数人、墓に行って見ますと、果して女たちが言ったとおりで、イエスは見当りませんでした」。
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(さてしっかり聞いて下さい!)
そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。
キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。
こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。
それから、彼らは行こうとしていた村に近づいたが、イエスがなお先へ進み行かれる様子であった。
そこで、しいて引き止めて言った、「わたしたちと一緒にお泊まり下さい。もう夕暮になっており、日もはや傾いています」。イエスは、彼らと共に泊まるために、家にはいられた。
一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、
彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。
彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。
そして、すぐに立ってエルサレムに帰って見ると、十一弟子とその仲間が集まっていて、
「主は、ほんとうによみがえって、シモンにあらわれなさった」と言っていた。
そこでふたりの者は、途中であったことや、パンをおさきになる様子でイエスだとわかったことなどを話した。
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さて、祈りましょう。親愛なる栄光なる父よ、我々はあなたの御言葉をその真理のゆえに命のゆえに感謝しています。そして主なる方そしてあなたの御言葉は一つです。だから今晩我々は祈ります主よ、あなたが復活の力の中に我々の中に来られ今晩その力をあらわしてください、エマスに来られたように、我々も家に戻って、「我々の心が共に燃えたではないか?」と言います。受け入れて下さい主よ。再び夕刻に向っています。イエスの聖名によっておたずねします。アーメン。
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さて私はこの聖書について話したいのです。そして私の今晩の議題あるいはトピックは、預言によってはっきりとさせられた出来事。預言によってはっきりとさせられた出来事。
さて、聖書は他の全ての聖いと言われるほんとは異なっています。聖書は違う本なのです。それは預言の本であり、将来の出来事が先見されているのです。そしてそれは又、イエスキリストの黙示でもあるのです。すべて創世記から黙示録にいたるまで、彼の全ての事が彼の過去今について書かれているのです。そしてその全体の完全な書が黙示録1章1-3節にかかれている様に、その書はイエスキリストの黙示、つまりは神の御言葉ーイエスキリストの黙示(啓示)神の御言葉。
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さて、すべての他の本、その他の聖典書の数々は、倫理規定、倫理制あるいは神学的な規制などだけなのです。そのような者、コーランを呼んだことがある人は何人いますか、モハメッド聖書そして仏教の本、そしてその他?それらはただ倫理規定でどのように生きるべきか、彼等が守るべき生き方しかしそれには預言はありません、これらの事あるいは、特別な賜物が誰かに与えられたとかそれがどこで行われたなどは書かれていません。ロッジか何かに加わるのと同じようなものです。それ故、教会がその場所に来て彼等の教会を作るとただそこに加入するだけで、そして彼等は神の言葉をゆがめるのです。
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聖書は、生きていて、イエスキリストの先見された証の書なのです。そして地球が完全に成長してその枝が彼等のその時代において完全に成長するものなのです。聖書は、人としてのイエスキリストの完全さをあらわしています。彼は神の御言葉として露わあされ、贖いの書の完全な表れなのです。聖書は神の御言葉であり、将来の出来事を予言しているのです。その信仰者はその著者にそれの書かれている全ての言葉を信じるように命令されているのです、ただ一部ではないのです。一つの言葉も信じないという事は無いのです、その言葉を信じられないなら辞めてしまうかもしれません。全ての言葉は絶対的に全知全能の神の一部であり、神ご自身が顕されたのです、彼の言葉でああり、彼自身がだれであるかを見せて下さるのです。我々は信仰者としてそのすべての言葉を信じるように目入り江を受けています。そして神ご自身が著者として書かれた者なのです。誰のそれに加えたり取り除いたりすることは出来ません。もしそうするならば、神の言葉を乱すのです。という事は6本の指が片手にあるか3本腕があるとか何かを加えて何かを取り出すという事は一方の腕が短いとか一本指が短くなります。そうではなくそれは完全なJesus切との身体なのです。そしてキリストに在って、男性であり、その花婿になる事により、その花嫁は彼自身を代表するものなのです。そしてこれら二つは一つなのです。「その日あなたは、私が父の中に在り、父が私の中に在り、あなた方の内に私が居て、あなたが私の内にいる事を知るであろう」完全な絵となるのです!
そしてこの御言葉への真なる信仰者は、その形で受け入れて信じるのですそして、忍耐を持ってその預言の約束、すべての物がその時代に顕されるのを待つのです。全ての信仰者はそれを見ているのです。全ての信仰者は示されるのをしっかりと見ていて待つのです。
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さて、主イエスの時代についてみてください。なぜその時代人々は、ヨハネについて、聖書がイザヤによってしっかりと話しているのに、「荒野に叫ぶ声がする。主の道を整えよ?」認識しなかったのでしょうか?彼等の最後の預言者として書かれているマラキの3章では、「1 「見よ、わたしはわが使者をつかわす。彼はわたしの前に道を備える。」と言っています。彼等はなぜそれが分からなかったのでしょうか?何故なら彼等はなにか既に行われたことを見ていたからです、彼等はあるメッセージは既に行われたことを基本に見ていたからです、そしてその時代に彼等が生きている時の為の神のあらわれのご臨在を見逃したのでした。
そしてクリスチャンは、どこでも今晩世界中で同じような状態に立っています。矛盾なく、それが事実なのです。ルターが書いたかあるいはウェズリー、サンケー、フィニー、ノックス、カルビンなどが書いた幾つかの倫理規制を見直そうとしているのです、どこに居てもです。我々がそれに対して悪い事は言えないのですが、それは過去の時代の為のものでした。
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パリサイ人達は、モーゼが言った事を見て言いました、彼等は「我々にはモーゼが居る、あなたがどこから来たのかを知らない」
しあk氏覚えていますね、モーゼがここに居た時、彼等は彼がどこから来たかを知りませんでした、分かりますね。そして今、彼等は、、、だからイエス様は彼等に言ったのです「29 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは預言者の墓を建て飾り立て、あなた方が彼等をそこに入れている」彼等のメッセージが出て行ったあと、あるメッセージが成就され人々はそれを見て、彼等はそれを馬鹿にする(世はそうする)そしてその後、使者(メッセンジャー)の時代が終わると、そのメッセージは終わりになるそして彼等はそのメッセージの上に宗派教団を作るのです。そして彼等が死ぬとその後、その命に来る事は無いのです。
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さて、ちょっと待ってください。あなた方の内の何人か、特にカトリックの人々。あなた方は認識していますか?ローマカトリック教会の歴史、実際の歴史を読んだことがありますか?ヒッポの聖アウグスティヌス移行のあなた方の殉教者について教会が何百万人もの無実の人々を殺したことをどのようにした方について知っていますか?はっきりとした数字は忘れましたが何百万以上にはなっていました、ヒッポの聖アウグスティヌス以来、アフリカでは、ローマカトリック教会に敵対するものは誰でも殺すのが絶対的な神の御心だとしました。そのことを皆さんは認識していますか?聖パトリックは彼の死後ローマカトリックとして認識されていません。彼は教皇に敵対し又彼の行動についても、カトリック教会自体が彼の子供達を何千人も殺しているのです。カトリック教会がジャンヌダルクを火車刑にしたもの知っていますか、彼女は小さな聖い女性だったのです、そして彼等は彼女を魔女だとしたのです。2百年後、祭司達の体を掘り起こして、彼等がそれが間違っていると築いたので、彼等を海に投げ入れたのです、聖い地に埋葬する代わりにそれを懺悔としたのです。あなた方の頭の上にこれらの事を越えさせる事がないようにそしてそれは愚かな事です。
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どの様にそれらの祭司たちが今晩来て、イエス様をしたのです。その唯一の事は、彼等はその時代を決して予見していなかったのです。イエス様は言われました、「聖書を調べなさい、あなた方が思う様に」あるいは、「あなたに永遠の命があると要求しなさい、そして聖句があなたに私がだれかを告げる事になる」その時代において。
気が付いて下さい。聖書は決して失敗はしません。神の言葉が失敗する事は絶対にないのです、神はそれをされる前に著者の行動を先に告げられるのです。
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さて、千人に一人くらいの人が、何かが起こる事を告げる事が出来るかもしれません、それは起こる可能性があります。しかし、その時彼はどこでそれが起こるか、彼がそうする事が出来るのは1万分の一位のチャンスになりえます。もし彼が、その日大事それが起こるだろうと、そうなるとそれは百万分の一くらいになるでしょう。そして誰がとなるとそれへあ一億分の一の機会となります。
しかしこの聖書ははっきりと、誰がどこで、何を探すかという事そして一度もそれがなかった事は無いのです。それ故、聖ハート教会の祭司と一緒に最近話し合っていた小さな話し合いの中で、彼は言いました。「ブラナム氏、あなたは聖書と口論しようとしている」と言って、「それは教会の歴史なんだ」
私は「それは歴史ではなく、それは神ご自身が印刷されている」と言いました
彼は言いました「神は彼の教会の中にいる」
私は言いました。「神は彼の事がの中におられる。そしてそれに反対するものは、嘘となる。又k実は、「私の言葉が真実であり、すべての人の言葉は嘘になる様に」と言われています。
彼は言いました。「私達は口論はしません」と言いました。
私は言いました。「私は口論しようとは言いませんでしたが、聖書は、さて我々は互いに論じよう」と言っています。
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著者は彼がされる前にそれを先に宣べられています。それ故、それを言うならば、そしてすべての男性と女性が裁きに会う時には、言い訳はないのです。もしあなたがメソジストがそれを言っている事、バプテストが言っていることについて、カトリックが言っている事、ペンテコステ派が言っている事あるいは他の教会がそうするならば裁きの時にある失望をおぼえることになるでしょう。しかしもしあなたが聖書が起こると言っている事、そしていつ起こるかそしてあなたがそれが起こる事を認識していることを見ているならば起こるのです。
さて、それは単純に全ての人がそれを理解できるようにはなっていません、イエス様が神にそれを感謝されています、それらの事を知恵ある者や賢い者に隠し、幼子に見せて下さいました。全能の神が彼自身の言葉の上に立たれていることを考えて宇田祭、金持ちや認識者や教育を受けた学者たちの目を閉じ、彼等自身の目は神を見る事が出来なくし、貧しい者や無学な者の目を開いて下さいました。
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これらのエマスの人々の事に気が付いて下さい、彼は彼等は彼を見ていながら彼等の理解について話しています。彼等は彼と話していながら彼が誰だか一日中気が付かなかったのです。神にはそれが可能なのです、彼は神ですから。
それが神がそれらの祭司や律法学者にしたことなのです、というのは彼はそうするという事がかかれていたからです。神が彼等の目を閉ジる事によって我々に機会が与えられるのです。気が付いて下さい。彼等は分かりませんでした、どれ程学んでいた学者たちも、どれ程高位の祭司でどんなことをした人たちであったとしても彼等にはそれは分らなかったのです、見えなかったのです彼等は盲目だったからです。彼等の目がたとえ肉体的には完璧な視力を持っていたとしてもです。しかし彼等の霊的な視力は盲目でした。
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同じ事を今朝女性の姦淫について話しているのです、今日の彼等の服装について。彼等は姦淫者達なのです。神の本が彼等は毎回セクシーな服装をする事によって姦淫の罪を犯しているといっています。それは彼等の魂はそれを知らないのです。それらの女性の多くの人たちは、何千もの女性達は姦淫をしようとはしていないと思います、彼rは無実なのです。そして可哀そうな女性達、誰かがその様にさせて、彼等に真理を語ることなく姦淫を犯させているのです。
それは聖書に書かれています。「それから、七つの鉢を持つ七人の御使のひとりがきて、わたしに語って言った、「さあ、きなさい。多くの水の上にすわっている大淫婦(教会達)に対するさばきを、見せよう。
地の王たちはこの女と姦淫を行い、地に住む人々はこの女との(霊的)姦淫のぶどう酒に酔いしれている」ー宗派教団。
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我々は聖書を見ています、神は我々を闇の中に残してはおかれません。彼は聖書を送ってその物事が起こる前に我々に告げられているのですそしてそれこそが今彼等が来るときになっているのです。
さて、それはまるでカレンダーでその火tがいつかを探すような感じです。もし考えてみてください、これは、「この土曜日、日曜日それは?」カレンダーを見ます。そのカレンダーはそれが何日かを告げてくれます。人々の行動を見る時、教会に行くときかもしれませんね。ベルが鳴っている時、その日が何の日か考えますね。カレンダーを見ると、それがあなたに何の日かを告げるのです。
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そして教会が世的になっているのを見る時、それはまさにソドムの時の様で、教会の世界がこの悪い時代の神(小文字)を礼拝するように全てなっているのです、そしてそれが見えるようになり、そして小さな少数派のグループが神(大文字)の御霊の元で集まってイエスキリストの命を再び聖句により起こるべき様に作っているのです、それが我々が生きている時代だという事が分かりますね。
この聖書は預言によって我々が生きている時代そしてその時がいつでありどのような出来事が起こるかを告げているのです。その文書がはっきりと一つの時代も見逃すことなく常に告げているのです。一度も見逃された時代はありません、そしてそうなる事もないのです、誰でもあらかじめ定められた人はそれを火r買いすることになるのです。イエス様は言われました。「誰も私を通らずに父の御許に行くことは出来ないそして父が私に与えた者は殻らず私の下に来る」それは御言葉が御言葉に繋がっているという事です。それ以外にできる事は無いのです。その日を知っていてそれが我々が生きている時代なのです。
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すべての時代にある様に、人々は彼等自身のこの言葉に対する解釈を入れてその時起こっている出来事に対して盲目になる原因となります。同じことがパリサイ人やサドカイ人の時にも起こりました。パウロがそこに立って聖句を放そうとしていた時でさえ、ある人がその面前で彼を殴りつけたのです、何故なら彼は大祭司を白い壁と読んだからでした。そして彼等は神が神の預言した言葉を確証したことを見逃していたのでした。
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分かりますね。聖書はそれ自身と矛盾する事はありません、聖書は神なのです。神の中での矛盾はあり得ません、神は完璧なお方です。
しかしその民は彼等自身の解釈をしていました!さて、気が付いて下さい、皆さんにお見せしますね友の皆さん。その教会達はその解釈を彼等自身でも同意できませんでした。メソジストはバプテストと同意せず、バプテスト派長老派と、長老派はペンテコステ派と。。そしてペンテコステ派には40以上の異なる組織があり、彼等はお互いに合意できません。さて分かりますね、バビロンが再び起こっているのです、混乱です。
しかし神は彼女真の言葉の解釈があります。彼はその約束をされました、そしてそれは神ご自身がなさるのです。彼が(彼ご自身)その解釈を与えるのです、というのは彼ご自身がその時代の事をご存知だからです。キリストの体がどれ程大きくなってもそれは足から頭まで!
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気が付いて下さい、その時、それはこれらの人々がそうするのに失敗した理由なのですというのは彼等は誰かほかの人が言っている人の事を聞いてイエスご自身が彼等にする様に御言葉を読まなかったからなのです。「そして彼等は私の事を告げ知らせる。御言葉を調べて、彼等自身は、あなた方は永遠の命を持っていると思っているそして、彼等は私の事を告げる」別の言葉で言えば、聴いて下さい。「御言葉を読んで救い主が何を実際にするのかを見なさい。いつ救い主が来るのかを見なさい。その救い主の前に誰が前走者になるのかを見なさい。その時代を見なさい。荒野の中で叫ぶ声がする:ヨハネ。そしてあなたはあなた方が一覧としたことを彼に全くその通りしました。見て下さい、私が来るときに何をするのか。そして今あなたは何をしたのか?これを成就するのに私が失敗しましたか?イエス様が言われていることを見て下さい。「私はこれを成就するのに失敗した事があるか?」
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気が付いて下さい。私達はこの午後聖句を読み進めてきました、すべてが彼について預言されていた事がその通りに起こったという事。彼等はこの出来事を知っているべきでした。「この狂信者、若い人が立ちあげられて、33歳位あるいは30歳でそこに来て、すべての光であるといい、そして鳩が下りてくる。そしてなぜそれが不名誉だったのか」彼等は「彼は非合法な両親のもとに生まれた、彼は処女懐胎したと言っている」
イザヤがイザヤ9章6節で言っていることを彼等は知っていなかったのしょう。「 ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、」を彼等は預言者イザヤが言われた「処女が身ごもって」うを知らなかったのでしょうか?彼等はこれらの事を知っているべきでした。しかし分かる様に、そのことは彼等はそれをどこか別の所に当てはめていたのです。
そしてこの人は彼等にとっては、その仕様とみあっていなかったのです。しかし彼は彼等に「聖句を調べて、あなたが永遠の命を持っているならば、彼等は私のメッセージを語る事になる」神学者が言ったのではなく、神ご自身の言葉そういっているのですそしてそれが起こっているのです。
アーメン。
さて、それが今なのです。聖句を調べて、我々が生きている時代に彼等が行っていた事、そのことがこの時代にまさに起こっているのです。それらにあなた方は委ねるべきなのです、彼等がイエスキリストの人として証明しているのです。聖書はこう言っています。「彼は昨日も今日もいつまでも変わる事がない」なぜならば、彼のその言葉の啓示はその時代のものだからです。それが違う事はあり得ません。
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それ故人々の解釈を聞くことによると、彼等は神の言葉の成就を確証する事が分かります、彼等はそれを見逃したのです。というのは、それはいつの時代にも続くのですが、彼等は聞かないから、、、そしてイエス様は言われました「彼等は盲目の指導者たち」そしてめくらがめくらを導く、彼等にそれは起こっていませんか?さて、覚えていてください、聖書はこのラオデキア時代の聖職者たちの時代はめくらだと予言していたのです。彼等は神が教会の外にいるという事さえも。それは他の時代ではありません、他の教会時代にイエス様は外側に居ません。しかし、ラオデキアの時代には彼は外側に居て、中に入ろうとしていたのです。「私は戸の外に立って叩いている」彼は中にいるはずの肩なのです。しかし彼は言われました、「あなたは、自分は富んでいる。豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。」なんという、もしある人が通りでだかで、みじめで、目が見えなくて、そして彼が裸である事をあなたは言う事が出来るのです、そのことについて何かをすることが出来るのです。しかし彼が頭を振って、「私はそれを持ってはいない、あなたは私の何をせよという権利があるのですか?私が立っている場所は分っている」さて、それがみじめな状態でないとしたら私には分かりません。そしてそれがこの聖書の神が教会がそうなっていてこの悪い時代つまりは今の時代最後の教会時代我々が生きている時代がそうなると語っているのです。
気が付いて下さい、然し人々には、「私が愛している者達を私は叱責する」さて、もし主から叱責されているならば、あなたがしていることに対して、そこから出てくるのです、そこから離れるのです、「私は愛する限り私は叱責する」
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さて、神を見る中で、さて、パリサイ人がもし、「ちょっと待ってください」と言ったなら。その人は凄い挑戦を我々に与えている。彼は「聖句を探れと、永遠の命を持っていると思っているならば私を証明する」と言った。私は聖句に戻って彼が何をするのかを見つけよう、彼は誰なのか何が起こるのかをその方がよいだろう」と言っていたら。「その代わりに彼等は祭司の所に行って、彼に尋ねたのです。「それについてはどうでしょう?何が違うのですか?彼等は聖書を呼ぶべきだったのです。
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へブル書の1章1節で聖書は言っています。「1 神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、」気が付いて下さい、彼は聖書を彼自身の選んだ方法で書かれたのです。分かりますね。さて、彼はその方法で書く必要はありませんでした、あるいは彼は地で人を救う必要もありませんでした。彼は人をつかって福音を宣べ伝えさせる必要もなかったのです。彼は太陽か月か星によって福音を伝えさせることが出来ました。彼は風に福音を歌わせることもできたのです。しかし彼は人を選ばれたのです。そして彼はその方法で彼の御言葉を来させ、又彼の預言者を使って先に神の御言葉の中で彼の言葉をその時代と時に対して啓示をすげられて先に予見され先に選ばれていたのです。「神の御言葉は預言者達のみに来た」神学者には来ませんでした、聖句を見せて下さい。預言者だけに来たのです。神は嘘をつくことは出来ません。そして神が彼の選ばれた方法で彼自身の選ばれた預言者によって、人が選んだ預言者達ではなく神ご自身が選ばれた預言者によって書かれたのです。
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そしてその信仰者たちが彼等の預言者が言った事の成就を見ていて、そしてそれが彼等の神の預言者であることの認識となるのです。何故なら、初めに彼等は霊感を受けているからです。次に彼等はその時間の御言葉と全く同じことを言っているのです。そしてそれが彼等の証明になるのです。分かりますね、我々は先週の日曜日にそのことを学びました。沢山の偽預言者が出てくる。そして我々はバラムとモーゼの例を挙げて両方とも同じ御霊によって油注ぎされていた、一人は「我々は皆一つであから一緒になろう、我々の女の子達も一緒になればいい。我々は可愛い女の子がここにいるそして君達男の達もここに来て、素敵な奥さんを選べばいい。それは大丈夫。我々は皆一つの民でとにかく同じ人種なんだから。」神様はその事で彼等を許す事はありませんでした。彼等はそれを聞いて居ました。
わかりますね、その世界とその人々は小さなはけ口、小さな、抜け道、又幾つかの小さな近道を見つけようとしていたのですが、神の御言葉には近道はないのです。一つのパターンしかありません。自分自身を切ってそのパターンに合う様にする必要があるのです、パターンをあなたに会わせるのではないのです。誰でも、それをしなくてはなりません。そしてそれが神がお持ちになっている唯一の道なのです。
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しっかり見て下さい、さて、その信仰者たちはその御言葉が確証されるのを待っていました。それは人によって書かれたものではなかったのですが、主である神によって書かれたので、それは人の本ではないのです。
ある人は言いました、「それはただのヘブライ語の本にすぎない」ヘブライ人は彼自身を批判するために手紙を書くのでしょうか?ユダヤ人は自分たちで作り、磨き上げた国家ではないですか、彼等自身の不法や罪を書いて彼等自身を批判するでしょうか?間違いなくそれはないです。自分自身の罪を言い、偶像崇拝に入っていき、神の御言葉に対して姦淫を犯していることを言うのですか?あり得ません。彼等の様なプライドの高い国家が。。。
それは人の本ではないのです、それは神の本なのです。そして人々はその幻を見てあるいは神の声を聞いて、自分自身を理解する事はありませんでした(多くの時)多くの場合で、分かりますね。人が聖書を書いたのではありません。神が聖書を書かれたのです。それは人の本ではないのです、それは神の本なのです。それは神の思いを人の唇を通して表現したものです。それが聖書を作り上げたのです。思いの表現が言葉です。そして神の思いから始まった居るのです。彼は彼の預言者の唇を通して彼の下毛達を通してそれを表現されたのです。気が付いて下さい。
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神はご自身であらかじめ定められたやり方で選びをされます、各時代の為に預言者達を選ばれます。気が付いて下さい。彼はその時代に合うその性質の預言者を決められます。分かりますね。彼のスタイルに合い、彼がすることが何であれ。彼は彼のやり方でどんな教育を受けていようがいるまいが。彼はその賜物、彼がそれを伝道する方法、彼が持つべき賜物、その特定の時代に対するメッセージを合わせるのです。神のあらかじめ定められた、特定の事が起こるのです、他の事は起らラないのです。それがなんでも官営ないのです、人が作った達成物がどれだけあろと、その場所をとる事が出来る物は他にはないのです。神があらかじめ定められた人は、多分無知な人であることもあります、彼は別の種類の人をあらかじめ定められたかもしれません。彼が何であれ、神が彼に彼の階級を与えられて、彼の賜物、彼の性質、スタイル何であれ、彼自身が表現するもの彼がすることを与えられるのです。神はその時代の人をその時代の人々を捕まえるために起こされます。その通りです。彼はそれをされるのです。
各時代の終わりに、教会は世にそして罪に戻っている時、そして御言葉を人の解釈に頼っている時。それは彼等はいつもその時代の終わりに、いつも神学者や祭司たちがそのような滅茶苦茶な事をするのです。いつも彼等の解釈は間違っています、間違いでなかったことはありません。そして神の御言葉は一度も間違ったり失敗した事は無いのです。それが違いなのです。
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さて、見て下さい。神ご自身が聖書を書かれました。さて、神は話すことが出来るのです。モーゼは神が彼に語ったといっています。エレミヤは「彼が私の口に言葉を入れた」と言っています。そして神は書くこともおできになれます。神は十戒を彼自身の指を使って書かれました。彼はバビロンの壁に描きました。そして覚えていますか、旧約聖書だけでも2千回、預言者が「主がこう仰せになられる」と言っています。神は語られるのです。神はお書きになれるのです。間違いありません。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの殆ど90%がまさに神ご自身の言葉、イエスキリストが語っているのです。だから、もし神が欠け、もし、神が読め、もし神が語れるならば、神は他の人々に同じことをすることが出来ないのでしょうか?彼はモーゼに「人をおしにすることが出来るのは誰で、彼に言葉を与えるのは誰か?」と言われませんでしたか。神は聖書を預言者によって書かれたのです。彼のやり方なのです。
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さて、毎回教会は、まぜこぜになるのです。(そして神はそれが起こる事を前からご存知で、彼は全知全能ですから全ての事を前からご存知です。)それゆえに彼は彼の特定の預言者をその時代為に用意されているのです、彼の選びにより、印と奇跡の言葉い夜彼の指定した物、そしてその彼の言葉を確証させるのです。「御言葉を確証する事のによってこの様な印が伴う」として彼は約束されています。彼は預言者自身が指定された後に本当の解釈を神が与えられるのです。
すべてその選ばれた者、神によって送られた男性によって、彼は憎まれるのです。さて、すべての状況を調べてみてくださいそしてそれが正しいか間違っているかを見て下さい。神に送られた者達だけ!「彼は彼自身の者達に来たのに、彼自身の者達が彼を受け入れなかった、然し彼を受け入れた者、すなわちその名を信じた者には神の子となる力を与えた」気が付いて下さい。その言葉の一つ一つを調べて、すべての状況において、すべての時代の終わりあるいはクライマックスあるいはその次に行く過程において、私はその事を何回も話してきました。
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ノアの時代を見て下さい。そのクライマックスは裁きの前でした。何が起こったのでしょうか?ノア、それは彼自身の家族だけが、その人を信じていました。他の人々は彼を批判しました。そして世界全体が破壊されたのです。
アブラハムの時代、アブラハムのグループは信じていました。その御使いたちがソドムに行って説教している時、ロトト彼の妻と彼等の二人の娘達だけが出て来て、そして妻は振り返ったので塩の柱にされました。
モーゼの時代、イスラエルの選民たちだけが出て来て、パロは彼を憎みました。
エリヤの時代、すべての(ほとんど)しかし7千人いk街全ての人が彼を憎みました、その国全体が。
エレミヤの時代、熟れていない実を彼に彼等はなぜか投げたのです、彼を狂信者と呼びました、というのは、彼の脇には沢山の日々があり、反対側には印があったのです。彼等は彼を憎みました。
預言者イザヤ、彼はその民族を批判しました、彼等は彼を轢き殺し二つにするまで、、その通りなのです。
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バプテスマのヨハネ、「彼は荒野の人でそこから来て、いくつかの叫び声をあげました。」全て教会としてイエスキリストへ弟子として出された人以外。「そこにいる:ヨハネは人々を準備していました。彼には何人いましたか?両手で数えられます。両手、あなたの指、ヨハネはイエスに彼が来た時、その人数をあげました。さて、イエスの再来については?そのことを考えて下さい。
しかし、本物の聖書の信仰者は御言葉を開けてその時代に指定されたものを開けるのです、そして彼等は信じます。信じる事を止める方法はないのです。彼等は彼等の血によって彼等の証を封印する事さえします。彼等はそれを信じているのです。それで、彼等には、そのあらかじめ定められた者達、その特定の時代において、理解し見て、信じているのです。
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他の人達はただそれが分からないのです、彼等は盲目なのです。さて、あなたは「彼等はそれが家間に」と言います。さて、バラムの様に、なぜバラムはそれが見えなかったのでしょうか?彼は油注がれた預言者でした。なぜパロには見えなかったのでしょうか?彼が神の手が下りて来て奇跡をされるとき、それが彼の心をより頑なにさせただけでした。そうではないですか?ダタンはなぜわからなかったのでしょうか、彼自身ユダヤ人でしたね?そこで司会を通って来て、マナを毎晩食べて、新しいものが空から落ちて来て、それでも理解しませんでした。なぜコラはそれが分からなかったのでしょうか?なぜかカヤパは分らなかったのでしょうか?彼はその世界のその時代の宗教家のトップに居たのです。なぜ彼は救い主が見えなかったのでしょうか?なぜユダにはそれが分からなかったのでしょうか?ユダは彼等の中に居たのです、彼等と共に歩んでもいました、彼等と共に奇跡も行いました。しかし御言葉は成就されねばならないのです。聖書は彼等はそれが起こる様にたてられているといっています。彼等は目的の為にたてられたのです。それが真実です。ローマ書の8章がそう言っています。
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さて、その信仰者たちは彼等の世代で御言葉が肉を持ったことを見る事が出来るのです、神が語られることによって。さて、彼等は本当の真の信仰者で7千人或いはエリヤの時代700人でしたか?
7千人が正しいです。エリヤの時代、2,3百万人の中から7千人の人々が正しく見ていました。100分の一もいませんでした。しかし彼等が見ていた物が正しかったのです。彼等は神のあらわれをが理解できたのです。その年寄のやもめにエリヤが送られた年寄のやもめは、彼女は枝を集めてパンを作っていました、ちょうど彼女と彼女の息子に十分な分だけでそのまま彼等は死ぬつもりでした。しかし、エリヤが見ていて言ったのです、「初めに私の為につくりなさい。主がこう仰せられる、そうすれば油も粉も主なる神が地に雨を送られる日まで乾く事は無くなる」疑問もなく、その通りの事を彼女は、したのです、彼にパンを作って渡したのでした。彼は言いました。「まず私のものを作った後で、あなたとあなたの息子の為に創りなさい」彼女は曽於人を見て彼が言っていることを聞いたのです、彼女はあらかじめ定められた種であり子孫でした。
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多くの人々は言っていました「あの年寄りのおかげで、彼のせいで我々は神に呪われている」覚えていますね、エリヤは言いました。「あなた方がイスラエルに問題を起こしている」
彼は言いました。「あなたがイスラエルの問題の原因である」神が誰なのかを知ってください、誰の言葉を神が指定していたのですか?彼自身の言葉です。
さて、聖書は彼等はこの目的の為にたてられたと言っていますが、不信仰者にとってその時。しかし今真の信仰者がその時代の言葉が肉体を取って来られたとき、神は人の唇を使ってそして同じ様に、彼が語られたことを語られた方法で、その様になる様に語られているのです。
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その残りを見てください。印を見ないでください。印を見ていると、世の様に狂わされてしまいます。偽預言者達が起こって奇跡や印を行ってもし出来るなら選民をも惑わそうとするのです。御言葉をしっかり見て下さい。これらの祭司、これらの預言者、そこに立っていた減ブル人の預言者を見て下さい。ゼデキアは二つの大きな角のよって、そして言いました、「私は神に選ばれた預言者である」本当です。「私は399人ここに私と一緒に居て、我々に聖霊が降っていて、その土地は我々のものだと確証している。それを見て行きましょう。そしてこれらの角、アハブ王、我々の土地から敵を押し出した、神がその血を我々に与えた。」
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その宗教的な人を見て下さい、良き人、ヨシャパテ入っています。「もう一人いませんでしたか?」
「もう一人?、400人が賛成している」と彼は言いました。「はい、ここにもう一人いるのですが、私は彼を憎んでいます」こう言ったのです、「彼はいつも我々を叱り、いかに我々はひどい罪びとであるかについて言っているのです。私は彼が憎んでいます。彼はイムラの子ミカヤです」
彼は言いました「王様そのようなことを言わないでください。行って、彼の言っていることを聞きましょう」
そして彼等は彼をそこに連れてきた。彼は言った。「私に今晩下さい、主がそれについて何て仰せられるか見てみましょう」と
アハブは言った。「幾度、あなた方に真実だけを告げてくれるように言ったら告げてくれるのでしょ」
そしてその人は来て言った。「もしよい交流に戻りたいならば、他の人達と同じように言いなさい」と言いました。
ミカヤは「神が仰せになる事だけを私は言います」
そして次の朝、彼等は出かけて行きました。そしてその王たちは、彼等の衣を着て、その門の中に座っていました、すべての偉い人達でした。そして預言者達はそこに立って言いました。「さて、狂信者よ。お前は何というのであろうか?」
言いました。「上がってきなさい」彼は言いました。「イスラエルは牧者のいない羊たちの様にさまよっています」
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彼は彼の手を取ってその口を叩きました。その預言者はその預言者の口の中を叩いたのです。さて、両方の油注がれた預言者立って、そこで預言をしました、400対1、かなり強そうに見えました。さて、多数の助言者が常に安全とは限りません。彼等がどこに居て、何について助言をしているかの夜のです、そして彼等の助言が何であるかにも。王にとって、多数の助言を取ったのですが、それは安全ではありませんでした。しかし彼はただ止まって巻物に戻って、エリヤが言っていたところを見たのでした。
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その時、ミカヤは何もいう事が出来ませんでした、彼は何も知らなかったのですが、神はその事のゆえに彼を許されたのでした。しかし初めに、預言者になるという事は、彼は神のもとに行って神が何て言われているかを見つけるのです。そして彼が神が言われていることが分かりました。彼は、言いました。「神が御座に座られているのを見ました、そして彼は言われました。彼の全ての天の助言者が居て、「誰がそこに降りて行ってkここにアハブを来させる理由となり、我々がその預言を彼について言われたものを成就する事があり得ようか?」
分かりますね、預言、エリヤは既に言っていました。「その犬どもがあなたの血をなめる」
そして彼がその嘘をつく霊をその下に見たので言ったのです、神の御前に上がってきなさい。そして「私は降りて行って、彼の預言者、アハブの預言者に、そして彼等の預言が嘘であるという事の原因となる」
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さて、神様は、人々が誇り高ぶっていたことを知っていました、そして彼等の者は全て正しいと神学という学問でいっぱいになりそう思っていたのです。彼等はその時代の為の御言葉をまったく気が付いていませんでした。「そこに降りて行ったら成功するだろう」と神は言った。そしてミカヤが言った時、それは悪い霊の下で彼等の為に預言をした尾です。彼等は電話の栓を引きちぎり、ラ時をを消して、何でも彼等に敵対する事を聞かない様にして、起き上がって、立ち上がって出て行きました。しかし、何が起こったか見て下さい。今、ミカヤは彼の幻を確認して御言葉を書いたのです、つまり彼は知っていたのです。
彼は言いました。「私が来るとき、その人を刑務所に入れなさい、悲しみの水と悲しみのパンを与えなさい。私が戻った時、彼を取り扱う。
彼は言いました。「もしあなたが戻ってきたら、神は決して私に語らなかった」それは彼が彼の幻はちょうどその時代の為の一つ一つの言葉と同じだった。それがアハブの時代だった。
兄弟、 姉妹、これはその時代、バビロンから呼び出された時代だった。その夕刻の光があるのです。歩みの中での光それが光がある間。気が付いて下さい。その信仰者は御言葉があらわれていてそれを信じたことが分かったのです。イエス様は言われました。「私の羊は私の声、御言葉その時代の私の印を知っている。偽物には彼等は従わない。」
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さて、我々のテキストに入ってきましょう。というのはプレイヤーラインを強調したいと思っているので、それから離れてしまうのが分かるので。テキストに戻って、いつもと同じようにちょっと待ってください、また起こってしまう可能性がありますから。
神は彼の預言者ヨハネを送りました、神の御言葉にマラキ書3章で約束されています、「見よ、わたしはわが使者をつかわす。彼はわたしの前に道を備える。」ヨハネは同じ方法で証されました。そして我々はイザヤ40章3節の中でも又見つけました、イザヤは、「3 呼ばわる者の声がする、「荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ」全てのこれらの預言!そして見て下さい、そしてすぐい彼を御言葉が認定しているに気が付いて下さい。
彼等が「あなたは誰なのか?あなたは救い主か?」という時
彼は言いました「私は違います」
「あなたはエレミヤや?預言者の一人であるのか?」
彼は言いました。「私は違いますが、私は預言者イザヤが言った荒野で呼ばわる声です」
彼等がそれを信じたと思いますか?いいえ、なぜでしょうか?教会から来なかったから。彼等は彼等の、、、者ではなかったのです、、分かりますね。彼は荒野に9歳の時に行きました、30歳になって出てきたのです。彼のメッセージは神学校を通るには偉大過ぎたのです、彼は救い主を紹介するものだったのです。そしてみんながこちらやあちらの道を引っ張っていました。そして神ご自身が彼の父であるゼカリヤの死の後彼(ヨハネ)を荒野に送ったのです。そして彼(ヨハネ)は祭司でしたが、決して父の流れには従いませんでした。
というのは預言者はそのような方法ではあらされないのです。彼等は荒い場所、荒野から出てくるのです。彼等がどのようにその場所に現れたのかは誰も知らないか彼等の履歴も分からないのです。彼等はその時に出て来て御言葉を宣べ伝えたのです、それが神が彼等を起こされて、彼等が行くところを整で、その世代を非難し、神の御言葉を続けて、その偉大なる日を待っているのです。
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教会は彼を信じませんでした、彼は彼等に知られていなかったからです。彼等は彼の按手の記録が彼等の本になかったので彼を拒否したのでした。分かりますね、彼等は神の指定された御言葉、はっきりした文字空文字への事を信じなかったのです。分かりますか?マラキ書3章の2節に彼が指定されたものである事、そしてイザヤ40章3節両方ともある来るべき人について語っています、主の道を整える人。彼はそのすべての指定事実にあっていたのです。
彼は預言者だったのです。「あなた方にエリヤを送る」そして彼がそのすべての荒い方法出来たのです。彼の性質はエリヤとよく合っています。エリヤは荒野の人でした、そしてヨハネも野外に居ました。彼は滑らかな人ではありませんでした、無骨な人でした。
気が付いて下さい、エリヤは女性を嫌っていました、彼はイザベルに彼女の化粧やそして着るもの似ついて話していました。そしてヨハネもでした。イザベルはエリヤを殺しました、彼女の神々の刀を使って、彼の頭を切り落としたのです、又へロディアも同じことをしました。
何時も彼等のメッセージを見て下さい、彼等が何をしたかを気を付けて下さい。さて、我々はもし彼等が振り返り聖書が何と言っているのかを見たかどうかが分かるのです。そしてその人の性質とその時代の聖書と全てがあっているか、彼等は彼について知っているべきでした。6人位の人は知っていました。そうなのです。でもそれ以上の人は認識しなかったのです。彼等は彼の言う事を聞きに行きましたが、彼等はそれを信じませんでした、分かりますね。なぜでしょうか?彼等はその預言を彼等の時代のものという認識を信じなかったのです。
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見て下さい、彼等は彼を笑いました、彼を叫びとか無学な狂信者だとか呼んで学んだのです。「叩くとかなんとかその他諸々」彼等はいつもと同様に教育によって彼を裁いていました。彼等は彼の文法や着る物のによって裁いたのです。彼は羊の革を巻いていて、ラクダの川をベルトにしていて、彼は毛深かかったのです。教会もなく水の中を歩き、椅子もなく何と仲間もいませんでした。彼等はそれを受け入れられませんでした。彼等は世の神(小文字)を礼拝していたのです。分かりますね。
偽預言者が居なかったという意味ではありません、ヤンネとヤンベルの様な。しかしあなたがやりたい方法で、御言葉によってその元々のメッセージを検討するので、そしてそうすると理解します、どの時代にいるのか、預言がその時代に在っているのかをです。
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そしてヨハネの預言は神ご自身の方法で指定されていました。どれ程完璧か見て下さい。聖書は言っています。「神の御言葉は預言者達からくる」そしてイエス様は御言葉でした。そしてヨハネは来たるべき御言葉の成就について預言しましたそして御言葉であるイエス様が預言者の所に来て、水に入られたのです。何と美しいのでしょう。その御言葉は決して敗れませんね?その当時御言葉は少なくなっていました。ここに預言者げ来て言ったのです。「私は御言葉の声である」
彼等は「我々は何をしなければならないのですか?」と言いました。
彼の靴の紐を解く値打ちもないものであるしかしあなた方に間に立っている、彼はあなた方に聖霊と火によってバプテスマを授ける。彼のファンは手の内に在り彼はしっかりとその床を清めて消える事のない火によってその殻を焼いて、その中に在る実をとっていました」なんという預言者なんでしょう!イエス様は言われました、その時に女性から生まれる者の中で彼よりも偉大な者はいない。オー何という荒れ狂った状態なのでしょう!彼は彼が立っている場所をどのように知っていたのでしょう!彼はしっかりと知っていました。彼は神ご自身から聞いて居たのですそれは御言葉そのものでした、そして彼は人びとが何と言おうが気にしませんでした。彼はそれを話しそれを何とかして予言していたのです。そして見て下さい。人が真理の上に立つとき、神にその人を真理に導く義務があるのです。
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モーゼがエジプトに来た時に言いました。「私は荒野の裏に居た、そして気が燃えるのを見たそしてそれは燃えつくすものであって、その木の上にのボttえ、そして私がそうした時、大きな日の柱がそこに在った。そしてある声が言った。「私はあってあるものである」そして彼は私に枝を取ってここに降りてきなさいそしてこれらの奇跡を行う様に言われた、そして神は彼の言葉を指定されたのです」彼は彼の枝を伸ばして、そこにはノミとハエが来ました、そして暗闇も。そしてその時その預言者は指定されたのです、彼は信仰者をその山に連れて行きました、そして神は同じ日の柱として降りてこられたのです、その同じ山のその場所に、それが正しい事を証明したのです。
さて、彼がこの時代にされたことを見てみましょう。その通りです。
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さて、その御言葉が預言者に来て彼が本物の人として指定されるとそのまさにその人がその聖句が言っていた人となるのです。急いで行きます。しかし再び、イエス様は彼等が人間的な預言の解釈であった者とは異なる着方をしました。人はその様に解釈していたのです。間違いなく。長老派は、それが彼等だと思っています。神が何かをされるとき全ての組織が一人と共に立ち上がってくるのを注意深く見て下さい。はい、はい、いつもそのやり方になってきました。彼等にはヤンネとヤンブレが至る所にいるのです。気が付いて下さい。彼等はその御言葉の一部だと言ったのです。しかし預言者の言葉によると、すべての手紙において!
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彼等は又いつも通り、見逃したのです、彼をを占い師、悪魔、ベルゼバブと呼んだのです彼自身が神だと言ったのです、彼等は彼が神だとまさに彼等の聖書が告げているのを知っているはずなのです。気が付いて下さい、彼はイザヤによって預言されていました。イザヤ書9章6節では ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。と書かれていて、それ以降には父はいないのです、ですから彼が初めから父であり唯一の父なのです。「この地上にいる誰をも父と読んではならない、それ以降であれ、、」彼こそが大能の神、とこしえの父、平和の君、霊妙なる技師なのです。それに間違いはありません。
さて、彼等は預言者達が彼に対してそうするであろうと告げていたことをしました、彼等はこのまさにラオデキア時代にソンことをしているのです。神ご自身を教会から締め出したのです。「めくらで裸な事を知らない」ちょうど預言者が言った様に、聖書の預言者です。人の伝統によって目蔵にされていて、彼を御言葉を教会から締め出している、彼等についていつも預言されているのと同様にです。
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気が付いて下さい、今、早く行きますね。これを見逃さないでください。これがそのテキストです、イエス様が彼自身を二人の弟子たちに彼が彼等の救い主だったのを知ったのです!さて、すべてこの方法なのです。そしてその土地を、これを見逃さないでください。我々は聖書が神の御言葉が彼自身が書いていて、道具としての人々と唇を通して語ってきたのです。神は彼のしたい事が何でもできるのですが、彼はその人が神の一部としてその人々が書く為にその人々を選ばれたのです。そして、神がその聖書を書かれたのです。その人々は彼等が書いていたことが何かさえ彼等自身の人間としての考えでは分かっていませんでした。彼等はそれに合意していなかったかもしれませんが、それでも彼等はそれを書いたのです。彼等には出来なかったのです。聖書は言っています。「古の人々、彼等が聖霊によって動かされ、、、」神は彼等の手を彼等の目をその幻の中で動かしておられたのです。彼等は見た者以外何もいう事は出来ませんでした。彼等は神がその舌と、指を完全に制御されていたので又神に全てを全身の全ての器官もなので何もいう事は出来ませんでした。聖書が彼等が神が実だったと、彼等が神の一部だったと言ったのは疑う事もできません。彼が完全な神様でおられたからです。
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気が付いて下さい、御言葉であるイエス様がこれら牡二人の心砕けた弟子たちが彼が彼等の救い主だと知る様にさせたのです。その約束の言葉によってでした。気が付いて下さい、彼がしたこと、預言に現れたこと。気が付いて下さい。「愚かもっもは預言者が書いたことの全てをなかなか信じない:」さて、彼は「それについて教会は何と言ったか?」とは決して言われませんでした。
彼等はその話をしてくれます。彼等は全てのイベントが起こったのを知っていました。彼等は皆悲しかったのです。彼等は彼に言い始めたのです。「ここでは知らない人だったあるいはエルサレムで何が起こったかを知らないのですか?」
彼は言いました。「どんな事?」ー彼が知らないとしたら。彼は時々、彼がそれについて分かるのです。分かりますね?言いました、「どんな事?それは誰?何が起こったの?」
「あなたはただ知らない人ですね?」そしてその人が彼等は3年半住んでいたのです、彼を知らなかったのですね。
「どんな事?なにがおこったの?」
さて、彼等は言いました。「ナザレのイエス、彼は預言者でした。我々の思いは疑いはありませんでした、彼は御言葉の中にそして全ての人々の前でそういう行動をしてきたのです。我々はこの時代の為に神の預言は彼が認定した我々が理解していました。我々はそれをしています。そして我々は彼はイスラエルを贖うために贖い主となると信じていました。
そして彼はひっくり返して言いました。「25 そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。?」彼を見て下さい。預言に戻りましょう。信仰者に対する何という叱責でしょう、彼等は神を信じると言っている人達です。
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気が付いて下さい。彼はその主題に近づい言った方法を。彼は即座にこの様に言う事はありませんでした。「私はあなた方の救い主である」そうする事も出来たでしょう、そうだったのですから。しかし気が付いて下さい。御言葉の中で彼自身を彼等が知っている様に認識sレ他のです。もし彼がそれを言ったならば、彼は言う事もできたのですそして、そうならなかったのですが、彼が出かけて行って全ての預言者達に彼の事について話し始めた時、もし彼等が神の子供達であるならば、彼等はそれを理解して彼等自身で告げられたのです。しかし彼等の関心をその時代の救い主に関して預言者が言った事に見ていて、彼時代にそれをあらわしたのです。ヨハネとして彼は、御言葉が聖書が彼等の御言葉を認識したのです。そして本物の預言者はそうしたのです。その通りですね。彼は出て来てこう言ったのではありません。「私が彼であり、私は、、、」それは本物の神の預言者ではありません。分かりますね。しかし彼は言ったのです、「聖書に戻りなさい」分かりますね。彼は彼のやり方を決して失敗しませんでしたね。
彼は「我々はモーゼを知っている」と言いました。
彼は「もしモーゼを知っていたならば私の事を知っているはずである」彼は言ったのです。「モーゼは私の事を書いていた」こう言われたのです「聖書を探りなさい、あなたが永遠の命を持っているならば、私の事を証言するはずである。行って聖書を見て、それを理解しなさい。」と
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つまり彼は決して彼のやり方をそれについて変えたこともなく変える事のないのです。彼にそれを変えることは出来ません、何故なら彼は変わる事のない神だからですね。気が付いて下さい。彼は戻ってこの二人の弟子の所に行きました、クレオパスと彼の友人で、エマスへの道の途中でした、そして言ったのです、彼等へ聖句の中に現れて言いました。「なぜあなた方は救い主について預言者達が書いた全ての言葉が成就しているのそれを信じようとしないほど愚かなのか?何という時でしょう!
ヨハネは同じことをしました。「御言葉を探り、戻って見なさい、荒野で叫ぶ声がする。私はどこから来たのですか?」彼等はそれをすごく単純にしてあげていたのです。その通りです。
今日もそれは単純になっているのです、それを聖霊をとおして我々は理解しているのです。彼は言いました。「御言葉を探りなさい」そして彼は今日も我々にそれをしてほしいのです。
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気が付いて下さい、彼はモーゼの預言から始めたのです、聖書は言いました。「彼はモーゼと一緒にそしてすべての預言者と共に始めました。しかし彼はモーゼと共に始めたのです。「ある預言者」モーゼは言いました。「主なるあなたの神はあなた方の民殻立ち上げたのです。主である神は預言者を建てたのです。
さて、彼はこう言ったかもしれません、「クレオパスとあなたの友達はここに居て、モーゼがこれらの日々に主である神が預言者を立ち上げたとは言いませんでしたか?そして彼等が従事kにかけたこと人は、その事全てに見合っていませんでしたか?さて、モーゼはこれを予言していました。そして今、難波y九年も何y爆年も前からある預言者が居なかったのですがこの人がここで立ち上がったのです。そしてこの人の前走者としてあなたは行っていませんでしたか?分かりますね?そしてすべての預言者は彼について彼の時代として言われたのでした、彼は彼に言っていました。それは彼から興味を持って聞くことは確かでした。彼から聞くのは好きではないですか?彼から聞きたいのです、聞くのです彼がその預言者に彼について言った事をしかし彼はそれが彼だとは言いませんでした。彼は預言を彼等に見せただけでした。彼はただ言いました、「その預言者達がこれが起こったという事を言いました」分かりますね。
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数分糞戻りましょうそして今、彼自身からの言葉を言うので聞いてみましょう。ここを見て下さい、その御言葉事態、彼自身の言葉を言ったのです。その言葉自身が彼自身の言葉を言ったのです。彼は御言葉をそれ自身そして彼が誰かと知る事を知る事を彼等に言いませんでした。その御言葉の手紙、御言葉が肉体を取ったのです、彼自身の言葉をその御言葉の手紙を言ったのでした。ここを見て下さい、さて彼が言う事を聞いてみましょう。我々は彼等は全ての血に起こる事全てを説明したのでした、十字架、復活の話、そして墓について、私達がちょうど読んだようにです。さて、彼は彼自身についての預言の言葉をただ読んだのでした。さて彼がこれを言った事について考え称。彼はこれ以上にもっと言っていましたが見てみましょう。
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彼が言った事を言って聞いてみましょう。「ゼカリヤ11章12節を開いて下さい. またその預言者によると、救い主は30シケルの銀貨によって売られることになっていませんか?あなたは今ちょうどこの人が30シケルの銀貨によって売られると言いました。開いて下さい。それが聖句で分かりませんか。ゼカリヤ書11章12節ではこう言っています。そして彼は言った、「ダビデが詩篇で、詩篇41章9節?で、9 わたしの信頼した親しい友、わたしのパンを食べた親しい友さえもわたしにそむいてくびすをあげた。彼は友によって売り渡されると書かれています。そして再びゼカリヤ13章で彼は弟子たちによって捨てられると書かれています。そして詩篇35章11では、偽の証人たちに責められるとあります。「11 悪意のある証人が起って、わたしの知らない事をわたしに尋ねる。:日本語口語訳参照)」あなたは彼がそうだったと言いました。イザヤ53章7節で、「7 彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。(日本語口語訳参照の為)」彼を苦しめらる者達の前では耳が聞こえないかのように黙ってた。イザヤ、50章6節では預言者が、彼等は彼を宇打ち付けたと、預言者は言っているのです。詩篇22章では、再び「1 わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。」と十字架上で言っているのです。彼は昨日の午後その話をしましたね。詩篇22編を再び、18 彼らは互にわたしの衣服を分け、わたしの着物をくじ引にする。彼等はそれをしませんでしたか?そして詩篇22章7と8に彼の敵である教会に馬鹿にされたのです。再び22章ですが、「16 まことに、犬はわたしをめぐり、悪を行う者の群れがわたしを囲んで、わたしの手と足を刺し貫いた。
わたしは自分の骨をことごとく数えることができる。彼らは目をとめて、わたしを見る。 わたしは自分の骨をことごとく数えることができる。彼らは目をとめて、わたしを見る。」彼は言ったのです、疑いなくその時に彼の手は縛られていたのです。イザヤ53:12でとがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。詩篇53:9では、悪い者(金持ち)と共に葬られたと書かれています。詩篇16章10では、10 あなたはわたしを陰府に捨ておかれず、あなたの聖者に墓を見させられないからである。そしてマラキ3章ではこの人の前走者だったとありませんでしたか?」オー彼のクォートを聞きたいのです。預言達を見て下さい。気が付いて下さい、彼が通たのと同じ全ての形式だったのです、イサクについて創世記22章では神がイサクの前景となられたのです、父であるアブラハムがどのように息子をその丘の木の中に入れて、彼自身の息子を捧げようとしたことによってその形式なのです。
61
それは今彼らがそこに浸けられ始めています。彼は彼等にその時代の預言を見ない事で愚かであったと言っていました。そして今、それは入り始めています、これら全ての事が成就するのが見え始めているので鵜s、この終わり時代において、最後の2年か3年にその時代の指定された預言によるのです。それは彼等の十字架にかけられた友人であるイエスが、全ての事がにおいて成就したのです。オーそれはそしてその人は間違いなくまさに救い主だったことを知っていたのです、彼は死から読み場得られるべきでした。その墓は彼をとどめてはおけませんでした。あなたの聖者を墓にとどめておく事は無いのです。預言の言葉が失敗した事はありません。そして彼は蘇りました。
62
「そして彼等の使者たちは今朝その墓に下って行きました彼は死から蘇られたのです。彼は生きています。彼こそが預言者なのです」なぜですか?それは失敗しないのです。彼の行動、彼の奉仕御仕事そして全て彼がしたことは御言葉の中に預言者いっがように指定されて今日起こる様にされていたのです。それはされているのです。そして彼等がそれは彼だと知っていたのです、彼等の十字架にかけられた友人であるイエス様がそれをされたのでした。彼等の心は家で燃えないわけがあるでしょうか、彼は彼等に話していたのですから。さて、彼等は6マイル歩いていました、そしてそれは短い時間の様に感じていました。
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そして他の事として彼等がしたのは、彼等は指定された預言についての説教を6時間も聞いて居ました。彼等がその道のりで彼等に彼が話したことでした。彼等がその道を降り始めたとたんから、彼は出て来て、彼はエルサレムに居たのでした。6時間後、彼等はエマスへの6マイルほどの道に向っていました。それがその事だったのです。そして彼は彼等に話し、6時間の預言を確証しました。私の3については批判しないでくださいね。しかし気が付いて下さい、彼等は説教を聞いて居ました、彼等は6時間にわたり預言に関する説教を聞いて居たのは証明され指定されていたのです。
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さてそれは夕刻に近づいている時間でした。分かりますね。彼は昨日も今日もいつまでも変わることの無い方です。それは彼が彼らの目を開いて分からせるために(へブル13章8節)イエスキリストは昨日も今日もいつまでも変わる事がない。夕刻において、出来事が預言によってはっきりさせられています。近代の時代に起こっていたことがもしその時代の預言を信じるならば簡単に認識できるようになるのです。
「お前たち、愚かな者達は、悟りに遅く、信じる遅い、(それについてずっと何度も考え続けている)全ての預言者達が救い主について言った信じるようになったのですそれが起こらなければならないのですよね?さて、彼はこれらのポイントは全て戻って預言者が起こると事が見られるようになるのです。そして彼等は理解し始めるのです。そして彼は言いました、、彼はまるでその様に続くように行動していたと言いました。彼等はこの人が好きでした。彼等は言いました。「あなたは私達が考えたことがない事を与えてくれた、彼はどこかで来ている」彼等は彼と話しているのです、知らなかったのですか?だから彼は彼等を悲しそうに見ていたのは間違いないでしょう、そして彼はその隣で歩き続けていたのですが、彼は彼等が彼を招待してくれるまで待っていたのです。彼は今晩もあなたが彼が招待してくれるのを待っているのです。
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そして弟子たちがそのテーブルの周りでのフェローシップに彼を招待したのに気が付いて下さい、それは彼が何か彼の十字架刑にかかる前にしていた事だったので、彼等の目が開かれたのでした。彼等は彼のやり方スタイルを知っていました。彼は彼がしたことを知っていたので、そして彼が前にしたのと同じ事をしたのでした。そして彼等は言いました。「彼だ!」そしてすぐに立ち上がってさけびだして、彼は消えたのでした。そして彼等が6時間この説教を聞き多分20分くらい彼等は足が軽くなって、他の人々の所に戻って行って言ったのです。「イエスは蘇られた、本当に生きておられる」と
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友よ、これはマラキ4章、ルカ17章、ヨハネ15章、そして沢山の黙示録10章の成就なのです、沢山の預言がこの時代の為にはっきりとピン刺し出来る様に与えられているのです。そして又マルコ伝とマタイ伝の中にも、彼はこれらの印や奇跡が空に起こる事そして人々が空飛ぶ円盤と人々が呼ぶのです力と思考速度で消えられるのです、知性で動くことが出来るのです。彼は書く事が出来、話すことが出来、彼は何でも彼が欲しい事が出来るのです。その偉大な日の橋r、昨日も今日も永遠に変わる事は無いのです。そして地上に見える景色があり、空中に煙が上がってきてそこには30マイルの高さに湿度も何もなかったのです。一年半前にそれが起こる前に見通していました、その様に起こる前にです。そしてその写真を見て下側を見ていたのです。語られた言葉で失敗した物は一つもないのですそしてここに神が書かれた言葉があり、それが真理を確証するのです。そして夕刻が再び来て、恵みにより神が戻られるならば、彼がその時にしたような何かをされると思います。さて祈って主に尋ねましょう。指定された預言によってはっきりさせられた出来事。
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全能の神様、親愛なる神様、悟る事が出来る様に、我々が知るべきことを悟る事が出来る様に、あなたの御言葉を理解できるように助けて下さい。そして今、主よ、2千年近く前の説教を聞きました、書かれた本からです。そしてこの終わりの日に、今間違いなく戻ってきていて、そして今我々は夕刻の時間に入ろうとしています。メソジスト、バプテスト、長老派、時代を通して彼等の多くはあなたと語っていましたそして多分、この偉大な時代が夜或いはヒロではないと、預言者も言っていましたが、それは夕刻の時代で光がそこにはあるという事を。イエス様は墓から蘇られてシモンとその女性達の所にあらわれて、彼等に生きていることを見せられました。それは朝でした。そしてその夕刻に彼は再び戻られます。しかし彼はその日一日歩んでおられたのです、彼等の盲目差を叱責されていましたが彼は彼自身を夕刻に知らせるようにされました。
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神は、我々のフェローシップに今夜来られていて、我々は御言葉の周りにいるのです。神は、今日、信じる人々が殆どいないのですが、私は神が永遠の命をを与え証明して下さり指定してくださることを感謝しています。そしてあなたは言われました。「全て父の所に来る者は私の所に来る」そして今、その夕刻の光が輝いているのです、あなたが主が許可してくだ刺さるならば、一つの預言、(何百もの内から全て)一つも失敗した物はありませんでした。そして、本当にもしそれが指定するならば、それはあなたでなければなりません、何故なら誰もそれほど正確である事はありませんから。聖書の様に、誰も40人もの違う著者によって1600年もの間に誰も書くことが出来なかったのです、それには一つの間違いはないのです。親愛なる神様、祈ります、あなたは今晩ご自身をあらわされますように、へブル13章8節の様にあなたは昨日も今日もいつまでも変わる事がないのです。そしてあなたがその時した業を今日もされます。そしてそれを約束されています、言われました、「この終わりの時には、世はソドムとゴモラの様に倒錯状態の様になる」我々はこれらの少年たちが、女性の様な服装をする様になるのが見えますそして女の子たちが男の子の様な行動をそしてこのくるってしまった時代、セックス、セックスアピールをする事が偶像崇拝になっていたのです。福音は別の側に押されて、ラオデキア教会の裸の状態だったのです。オー神様、何という時代でしょう! 主イエス様来てください、我々にあなたを知らせて下さい。イエスの聖名によってお願いいたします。
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さて、頭を垂れてを閉じている間、おたずねしたい事があります。神がここにいると信じていますか?今日起こっている事は預言が成就したとし信じていますか?イエスキリストは昨日も今日もいつまでも変わる事がないと信じていますか?彼がここに居た時その時代の為に肉体を持って顕れそれをされて再びこの時代に繰り返されていると信じますか?その預言者はそう言いました。聖書もそういっています。全ての聖句は成就されなければなりません、それは失敗することは出来ません。彼は彼自身をどのように認識させたのでしょうか?モーゼが語った預言者となる事によって。人々の心の秘密を知る事。その女性が彼の御衣に触れた時、彼は振り返って言いました。「あなたの信仰があなたを救った」シモンペテロが彼の所に来た時、彼は彼の名前を知っていました、彼が誰だか彼は言いました、彼の父親が誰だかも。同じ素晴らしいイエス様は今も生きておられるのです。彼は永遠に生きておられます。神を賛美sましょう! そして今がこの夕刻の時代だと信じています。彼は再び共に居るように呼んでおられるのです。
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オー主なるイエス様我々の間にお出で下さい。我々を通り過ぎる事がありませんように。一晩中我々と共にこの会合が終わるまで来て一緒に居て下さい、明日もあなたと共に居る事が分かる事が出来ますように、あなたの復活の力の内で、あなたの愛と恵みと憐れみが我々と共にある様に。オー永遠なる神様。これらの事を受け取ってください。我々は神様だけがそれに答えて下さると知っています。
この時代の神聖の内に、この様に言わせてください、神様、天のわが父、我々の肉はあなたにとって貧しい住処です。しかし主よ、あなたの聖い恵み、聖霊をここに来させてください。今いらしてください。全ての疑い、イラつき、疑念、懐疑的な態度の全て、我々の中に在るものを清めて下さい、完全に疑い殻解放されて自由になり、ペテロの様に大胆に、「キリストは昨日も今日もいつまでも変わる事がない」告白できますように。
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我々はあなたの御言葉が真理だと信じています、主よ。このプレイヤーラインを始める前に主よ、あなた自身が我々に知らせて下さるように。そしておっしゃられたように、ロトの時の様に。。アブラハムが約束の子を待っていた呼び出されたグループであった時、ロトはそこにいました、近代のビリーグラハムやオーラルロバーツはそれらの宗派教団としてその国のやり方に入って言った様に聞いたのです。しかしアブラハムは、何の組織もなく一人でただ小さなグループがその血を通してそれが神の子孫だったのです。「そして柔和な人たちが地を受け継ぐであろう」ある日その影の木の下で、彼等が座って休んでいると時に、神が人の形をとって降りてこられたのです。二人の天使(御使い)がソドムに入っていきました。そして人の形をとった神がそれは彼だと証明したのです。彼は言いました。「アグラハム、お前の妻であるサラはどこに居る?」その日の数日前、彼はアブラムとサライでサラ「王女」ではなかったのです。そしてあなたはあの徐を彼女の王女の名で呼ばれました。サラ、王の娘として。あなたはアブラハムを彼の名前で呼ばれました。国々の父として。そして言われました。「私があなたの所に行くであろう」と
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神は、その預言者の心がどれ程飛び跳ねたことでしょう。彼はあなたがそこにおられるのを知っていました。彼はあなたの足を洗ったのは疑いもない事です、その食べ物を最善のものを出して、あなたの御前に置きました。彼は神がそこにおられるのを知っていました。そして言ったのです。「サラはどこに居る?」まるで彼は知らないかのように。
そしてアブラハムは彼に答えました。「彼は天幕の中に居ました、彼女はあなたの後ろの天幕の中にいます」
そしてあなたは、何が起こっているのかと言われました、そして彼女はここの中で疑っていました。そしてあなたはアブラハムに、「なぜサラはここの中で疑っているのだ、これらの事はそうはならないと?神に不可能な事などあろうか?」
オー神様!イエス様は神の御言葉のあらわれでした。言われました「ソドムの日に在ったように」その世の中は今異教徒の時代の混乱の前に起こっている状況なのです、異教徒のあらわれの時代。ここに我々はいます、ソドム人がその核でした。そして又あなたは人の子と言われました、常にそれは「預言者」を見る世に、その時代の事をあらわすのは預言者に、、あなたの御言葉を神様あなたを信じる子供達としての私たちの内で成就してください誠実な心で待っています、信仰を与えて下さい、すよ、プレイヤーラインがある時、人々はそれを信じるのです。それは夕刻の時間なのです、父よ。神の御子の光がその夕刻の時代に輝けますように。(彼はその方であり、それがいずれ来るのです)彼自身を予言によって彼自身が言ったものによってあらわされるのです。イエスキリストの御名によって、アーメン!
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私は病人の為に祈る準備が出来ました。しかしおかしなことは、我々がここに立つとき、公共に対して挑戦し、国中に繋がっている人々に対しても挑戦する事になるのです、神がまだ神であることを証明するためのです。神は失敗することは出来ません、彼が約束された事はされるのです。それを失敗されることはないのです、その約束をされたからです。
それゆえに彼が再来するのを待っているのです、彼がいつ来ても、彼は言いました、「その時はあなたが考える時でも世界が考える時でもないから、そして彼は現れるのです。さて、私が知っている限り、
私は、ここ私のタバナクルの中にいますそして私が知っている人は数人しか座っていません。ブライト兄弟はここに座っている人の数人の一人です、ここにいるのです、わたしは知っています。しかし、あなた方の多くの人を知りません。そしてこれを今晩する神がされるのはどの様にするかは分かりません。我々は過去何年も何年もその様にされてきたのをしみてきましたが、彼は今晩はされないかもしれませんが私には分かりません。彼次第なのです。神は神聖な方です。彼は彼がなさりたい事をされるのです誰も神にこれをせよという事は出来ません。彼はご自身で御心を神のやり方でなさるのです。しかし約束されたので、それをしてくださるように尋ねているのです。我々の為ではないですがそれを必要としていますが知らない方たちの為に聖霊が油注ぎを下さるのです、今我々に下っているのです。さてどれ程私に神が油注がれても、神はあなたに油注がれます、間違いなく信じる事なのです。
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今、プレイヤーラインをしたいです、そして病気の人達の為に出来る限り祈りたいのです。さて、一列作って人々を呼んで彼等をここに連れて来るか、ここにいる病気の方々の為にみんなで祈りあうか、お願いするのは奉仕者(聖職者)の兄弟達がここに私達と一緒に来て、あなた方に手を置くことが出来ます。それをしましょう。あるいは我々は父に祈って、何でもあなたの為に出来る唯一の方ですから、私の手はただあなた方と同じように人にすぎませんから。しかしそのことにおいて人の手が働くのではなく、神の言葉が働くのです。御言葉に対する信仰がそれをなすのです、科学的な事ではないのです、全て非科学的なのです。
クリスチャンが持っている武具の中に科学的な物は一つもありません。知っていましたか?愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、 柔和、自、忍耐、信仰、御霊の実ですね。全ては科学によっては見えないものです。そしてそれが唯一本物であり継続するのです。全てあなたが地上から見る事は地上に戻ってしまいます。しかしあなたが目で見えない事しかしそれ自身が証明する物それが永遠の世界なのです。
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神が彼自身がここに生きているという事をあらわされるという事を信じますか、同じことを初めからなさった事、このメッセージの後、あなたの癒しを受け取りますか?神がそれを受け入れられますように。さて、教会の中にいる皆さんに尋ねます、あなたが誰であれどこから来たとしても、私はこのメッセージが神聖であると信じているかを尋ねます。神がこの時代の為に下さったメッセージなのですイエスキリスト教ここに今晩生きておられます。さて、近くに、、、
私を知っている皆さんは皆、私がどこで成長した街に今いるのをご存知です。私は中学校卒業の教育さえありません。それは全くの事実です。そして私を長く知っている人達は、私が正直で誠実であるという事を生き方で見せてきたと望んでいます。私は偽善者ではありません。私の批判者さえそのことは言いません。彼等は、「あなたは偽善者ではないが、ただたんに間違っている。あなたは無知で間違っている。」というのです。私は無知で間違っているとは思いませんというのは神の言葉が私のメッセージを承認しているからそしてそれが誰だかそれが告げているのです。そしてあなたは私がはっきりとそれは私ではないというのを聞いて居ますそして神でなければならないのです。それは正しいですね?神に信仰を持ちましょう。そしてこちらの方を見て、神を信じています。もし神を信じられるならば、神はあなたの事を受け入れて下さいます。神が以前にしたことがあるならそれをおできになります、まだ神でおられるからです。それを信じますか?
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それを信じますか?私の前に座っている女性が、私を見て、涙が彼女の目に流れています。彼女が誰だかは私は知りません、一度も会った事は今までありません。私はあなたの事を知りません。神がアナt尚心の秘密を知っていると思いますか、あなたの望み、あるいは罪あるいは何であれ?神はそれを知っていると思いますか?神がそれをあなたの罪が何であるかを、過去に何をしたか、またはしなかったかあるいは何であれあなたの思いを明らかにすることが出来ると信じますか?もし彼がそうされたら、彼を信じるようになりますか、それは彼であるに違いないと?神をそうしたら受け入れますか?あなたの罪が邪魔をしているのではなくそれを告白していないからだと。しかしあなたは神の聖霊のバプテスマを望んでいます。あなたはそれを受け入れるでしょう。彼女の所にそれが下りて行っているのを見ています。
あなた方は私がその女性を見ているのを知っているでしょう、彼女は私を見ていました、その聖霊をあなた方に見せたいのです。ここを見て下さい、この小さな女性が私の足元のここに今座っています。私がそれを言った時、それは同じ事彼女が望んでいたのは聖霊のバプテスマです。あなたはそれを受け入れることになると信じていますね、姉妹?あなたの手を挙げて下さい、そして私は人生で一度もその女性に会った事も見たこともありません。
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さて、この男性が彼の頭を垂れて、そこに座っています、彼の襟は彼にあっていませんなどなど。あなたは膀胱障害がありますね。神はあなたを健康にしてくださると信じますか?もしそうならば手を挙げて下さい。大丈夫です。神はあなたのリクエストを受け入れました。
この若者(男性)がここに座っています、聖霊のバプテスマを望んでいます。神があなたにそれを与えて下さると信じますか、白いネクタイして居る人?神はそれを受け入れられるでしょう。
この人は彼の妻の為に祈っています。彼女は病院にいます。あなたは神が彼女を癒されると信じていますか?そう信じますか?そうなります。
あなたの喉に手を当てて、神が心臓の問題を癒されると信じるならば、お腹の問題を持っているならば?そこに座っていその状態にありますね。そうですよね?神があなたを癒されると信じますか?そうすれば癒されます。 アーメン。
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分かりますね、イエスキリストは昨日も今日もいつまでも変わる事がない方なのです。もし彼等を知っているならその人々に尋ねて下さい。私は知りませんが神はご存知です。アーメン。壁の後ろ側に伝統があります、そこのところに座っている人がいます。彼は脊椎の問題を抱えています。彼はここの人ではなく、ジョージア州から来ています。ダンカンさん、心から神がその問題を癒されると信じますか、あなたの心から彼を信じますか?神の祝福がありますように。
ここの後ろ側に座っている人がいます、背中の問題があり、私を見ています。私は彼を知りませんが、トンプソン氏。あなたは信じますか?立ち上がってください、そこで、そして私はあなたを知りません。そうですね。しかしあなたは園に座って祈っています。あなたの腰の問題は今癒されました。イエスキリストがあなたを良くしてくださったのです。
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「夕暮れに光があるようになる」見えますね、彼はここに今晩おられるのです。偉大なあってあるものという彼がおられるのです。彼は(イエスキリストは)昨日も今日もいつまでも変わる事がない。それを信じますか?これはイエスキリスト自身が知られるように彼自身が預言の中に認識されているのです満足して確証しているのです。
目を気にしないでください、神は病や苦しんでいる人々を癒されます。
ここにいる人の何人が病気ですか?あなた方の手を見せて下さい。引張がある様にみえます。何人がプレイヤーカードを持っていますか?どのようにここまであなたに来ていただけるか分かりません。あなたの為に祈りたいのですそしてそれをどうしたらよいか分かりません。壁を見て下さい、そこに彼等をそこに行けるようになるか壁を見て下さいますか?通路をがとても込んでいたら、他の所はブロック、皆そこで止まっていてください。
80
私の言う事を聴いて下さい。主の名によって言った事で起きなかったことがありますか?そうではないですか?すべてがいつも正しいのです。人生で一ペニーでもあなた方に尋ねたことはありませんね?一度もありません。私の人生で一度も献金を取ったことはありません。私はお金の為にここにいるわけではないのです。あなたを欺くためにいるわけでもありません。その時代の為の神の言葉があらわれる為にいるのです。私は真理を話しました。そして神は真理を証明したのです。さて、私は言います。「聖書がこう語っている」それは信じる者は病人に手を置けば癒されると、イエス様は言われました、「彼等は癒される」それを信じますか?そして神のご臨在の中で、彼は今すぐ病気を癒されると信じますか?
81
さて、一分ほどお互いに手を置きましょう。さて、祈らないでください:お互いに手を置いて下さい。その島にいるから、、そして私自身は、これらのハンカチの上に手を置きます。さて、私を一分だけ見て下さい。神が何をしなかったことがありましたか?いかに彼が我々が読んだ御言葉、その預言が彼自身を預言によって証明すると言いましたが見えますね。さてその時代を見て下さい、そしてこれらの最後の3週間、今生きている時代に起こっているその場所なのです。我々が読んだものを見て下さい、偽預言者そして選民をも惑わす奇跡や印について、御言葉がどのように表されているか、この時代の神(小文字)が人々の心を閉じてしまっているか、そして神ご自身っがこれらの事がラオデキア時代に起こる事を彼の預言者を通して語られたかを。何も起こっていない事はありません。神様はここにおられるのです、エマスでその人々に語られたのと同じ神であり、彼について預言で語られたことが彼自身を証明したのです。彼は今晩ここに居て、この時代の為に語られた預言によって彼のご臨在を証明しておられます。イエスキリストは昨日も今日もいつまでも変わる事が無い方なのです。それを信じられますか?お互いに手を置いて下さい。自分自身お為に祈らないで、あなたが手を置いているその人物の為に自分のやり方で祈ってくださいと言うのは、彼等はあなたの為に言っているからです。さて、見て下さい、疑わないで!
82
さて、もしあなたが私が見ているものが分かるならば!そしてあなたが私に嘘をついていないと知って言えるならばここに立ってください。もし見えるならば、そしてあなたの信仰が聖霊を空中から引き寄せて下さることが出来ます、それは化学がその写真を撮る事が出来、それが着地する場所に動くのを見ようとそのいかりの場所を見つけようとしているのです。ただそれを信じて下さい兄弟。彼は聖句とそのほかの事によってそれが正しいと証明されるのです。さて、誠実にそのあなたが手を置いて居る人の為に祈ってください、彼等はあなたの為に祈っています。
83
親愛なる、ナザレのイエス様、我々が意識の中に在る時、主よ御言葉としてあなたはここにおられます、その約束によりあなたはここにおられるのです。「二人または3人が私の名のもとに集まるところに私はいる。そしてこれらの印が信じる者には従う、病のものに手を置けば癒される」この電話の波の上でも、偉大なる聖霊派全ての会衆の下に聞かれます。同じ聖霊がここ教会の中で見ている様にお互いに下り、この時に彼等が皆癒されますように。敵である悪魔をイエスキリストの臨在の中で叱責する、我々は敵に言う、お前は身代わりの捧げものとしてイエスキリストの死によってそして3日目の復活によって負けている。そして彼は証明され顕かで、彼は今晩生きて、1900年後ここにおられるのです。生きる神の御霊が信仰と力と教会のこの偉大な光によって認定された今癒しの力によって満たされているのです。彼のご臨在の中でです。イエスキリストの名によって、神の栄光の為に受け入れて下さい。
これらのハンカチは我々が祈ったものでそれらは病気や苦しんでいる人達の所に行く為に祈っていました。同じ聖霊が彼自身が今証明され、すべての患者がこれらを置くことによって証明されます。神のご臨在が信仰によって病気が完全に癒されて満たされますように。これを神の栄光の為にイエスキリストの臨在の中で、イエスキリストの御名によって、お願いします、イエスキリストの僕としてお願いします。アーメン。
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さて、心から、あなたに何の問題があろうと気にしません、あなたの心から神の言葉があなたのリクエストを受け入れて下さると信じる事が出来ますか?そのすべての上がっている私が見ている手を信じています。あなたが信じるならば、覚えておいてください。それは終わっているのです!
電話線でつながっている人達、もしあなた方が心から信じるならば、奉仕者(聖職者達)があなた方に手を置くならば、愛する人たちが手を置くならば、、もし全身全霊で信じているならば、それは終わっているのです。その偉大な聖霊が、タバナクルに今晩ここにいるのです。人々の上に彼がその壁の反対側で彼自身が泡われていたのです、ここに降りて来て、建物を通って、ここの秘密を見せてくれていたのです、彼の臨在を証明するのです、彼が昨日も今日もいつまでも変わる事がない事を見せるのです。彼は我々の中におられるのです。彼は神なのです、決して失敗する事のない神です。
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そして、我々の心は我々の中で燃えていませんでした、我々は復活のイエスキリストのご臨在の中に今いる事を知るのです、栄光と賛美を永遠に、全能の神エホバの姿を表現するものとして、火の柱の形でシバの中で表れて、預言者の関心を得て、山の上から降りて来て、全ての触った者達はモーゼとヨシュア以外は死にました。それが神がイスラエルのことども達を荒野を通して導き出した方法でした、今日の呼び出された人々と同じ方法なのです。ここに神は折られ、科学的な研究によってですら、科学の前でも彼自身が証明されたのです。そして彼自身の行動と彼の預言がこの時代において彼について預言された事が、イエスキリストは昨日も今日もいつまでも変わる事がないを証明しているのです。完全に指定されているのです。それは私達の心を燃やすのに十分ではありませんか?神の祝福がありますように。
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さて、一つの思いで、ここに立ち上がって言いましょう。(会衆がブラナム兄弟の後に繰り返す)今イエスキリストを救い主及び癒し主として受け入れます。そして彼のめぐに荷より、この時代を通して、オー神様、私の心に二度と不信仰が入る事が無いようにして手ください、この時代の預言が成就するのを見たのです。私はイエスキリストが今生きていてこの時代の彼の御言葉を証明していることを信じます。彼について書かれた預言が我々の中で成就しているのです。彼は私の救い主、神であり、王です、すべての内の全てなのです。
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親愛なる神様、我々の証を聴いて下さい。そして日々の生活の糧をお与えください。そして我々は賛美を捧げます、オー神様、心の底から、あなたを賛美します、力強い方、預言者達の神。イエスキリストの御名によって、アーメン。
なんという瞬間、何という時!
信じれば、
ただ信じれば、
何でもできるただ信じれば、
これを歌いましょう。
さて、今信じます、今信じます。
何でもできる、信じるから、
今信じます、オー信じます。
何でもできる信じるから、
それはあなたの証ですか?今我々は頭を下げて
祈ります。
又会う日まで、 また逢う日まで、
イエスの足元で会う日まで
合う日まで会う日まで
神ともにいますように
また逢う日まで、
'ブラナム兄弟がまた逢う日までをハミングする。
、、、イエス様の足元で
また逢う日まで、また逢う日まで
神の守りまた逢う日まで。
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頭を垂れて、バイル兄弟はここに立って解散の祈りを祈られます。バイルリー兄弟、彼はここタバナクルの文書や本の著者です。とても尊い兄弟、彼は私と一緒に沢山のキャンペーンに行きました。全ての奉仕者、説教師たちに上がってきて話していただく機会が欲しいです。間違いなくお分かりですね。全ての奉仕者、聖職者、我々はここにあなた方が居て下さることを嬉しく思っています。全ての平信徒の皆さん、違う教会の人々皆さんがここに居て下さって嬉しいです。そして本当に我々の祈りとして、神がまた逢う日まで皆さんと一緒にいますように。頭を垂れて手を挙げて、一緒に優しく神に向って歌いましょう。
また逢う日まで、また逢う日まで、
イエスの足元で
また逢う日まで、
また逢う日まで、また逢う日まで
神の御守りが共にまた逢う日まで!