65-0725M 終わりの時の油注ぎされし者たち

  • 伝道者:ウィリアム・ブランハム
  • ジェファソンビル インディアナ州 アメリカ合衆国
  • 録音番号:65-0725M
  • 年:1965
1
おはようございます、皆さん、我々の主に一緒に話していきましょう。 素晴らしい神、天と地の創造者、このときこの朝あなたを礼拝するために神のやり方で私達を示してくださいました。そして我々が主よ我々の心が完全にあなたの御心に委ねる事が出来ますように、そして我々の中で聖霊の業が齎されあなたが我々に知らせられますように。我々の思いは、より良いクリスチャンになり、あなたのより良い見本となる事なのです。今朝あなたに仕える故にこの祈りを受け入れて下さいますか?イエスの聖名によって、アーメン(おかけください)。
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再び素晴らしい王に礼拝する中に今朝居られる事をとても嬉しく思っています。そして十分にスペースがない事をお許しください、然し出来る限りその状況で最善を作る努力をしていきます。
さて、多くの人々はハンカチを持ってここにおいて祈ってほしいというリクエストを下さいましたそして、私はそれらを一つのサイドに置きました、それらを無視しているわけではありませんが、それは後で祈ります、今晩か、、私は今朝とそして今晩又、神の御霊による癒しの為に祈る事を待って祈っています。そしてその時ハンカチや物を取って祈りたいと思っています。
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そして特別なリクエストとして、ビリーが全部それを私にくれました。それは約300あります、そしてそれを全部部屋に残してきました。分かりますか、私はそれを出来る限り早く全てを得ようとしています。それらを出来る限り早く、、、すべてを取る事は出来ないでしょう、一つを取って、「主よ、これがこれですか?と言います。そのような感じです、というのは、彼等全員が必要を持っていて本当のリクエストで、疑いもなく、我々は一緒にそのことを話すべきなのです。そして、ご存知の様に、時々、聖霊が言われます、特定の物を私が読んで、心に持ち続けて、そこに戻って再び、そこで見つけるならば、そうでなければ、ただそれらをただ普通に取るのです。
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さて、我々は今朝又言いたいのです、国の他の場所にいる皆さんに挨拶を送ります。今朝電話で聞いて居るニューヨーク市、ボーモント、テキサス、プレスコット、アリゾナ、ツーソン、アリゾナ、サンノゼカリフォルニア、コネチカット、ゲインスビル、ジョージア、そしてニューアルバニー、インディアナ、国全体で、皆さんに主イエスの名によってご挨拶を側ります。
今朝、インディアナは良い天気です。昨日の夜は雨が降り涼しい気候になっています。そしてタバナクルは満員で皆が日曜学校のレッスンを大きな期待を持って待っています。そして私は神の豊かな祝福が皆さんに注ぐと信頼しています。
そして我々は知鵜愚にも全員が一緒になれるところがある様に、大きなテントかもしれません、本当に聖書の七つの最後の災害について説教する事を導かれていると感じているのです。
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さて、今、今朝は素晴らしい学びがありますあまり長くならない様に、、、私は主に尋ねて、考えていました。「私は何を言えるのか?」これは我々の主の再臨がこれほども近くなっている、最後の礼拝になるかもしれないと知りながら。。
私は、その予見をカリフォルニアで話してから、そこの家々は1時間に30インチの率で沈んでいました、気が割れて、壊れていたのです。何が起こったのか分かりませんでした。我々は終わりの時にいるのです。
何千万円もする家が沈んでいるのです。新聞の一面でも、写真を見ました、今晩私が話したい事、今晩話したい事があります。
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そして今晩、我々は病人の為に祈ります。午後来てください、5時か6時に、あるいは何時でも(早めに始めるつもりです、早く帰れるように)そして祈りのカードを受け取ってください。そして今晩、御心ならば病人の為に祈ります。
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さて、祈り深く考えていた後、「私は何をしなければならないのか?」いつかここで言ったことについて答えなければならない事を知っているので。そして私は、整理絵の導きを予言について、感じたので、ある意味我々に教えて下さるという事をです、分かりますね。それは何か、もし我々がその事を知らされていなくて、何かがただ起こるとしたら、これについて知るべきです。聖霊派、それを我々に知らせて、人々にそれが来ることを警告するようにされているのです。ご存知の様に、聖書は、神は初めに彼の僕である預言者に見せずに何もすることはなさらない、イエス様は、人々に預言者が人々に何が起こるかを警告されるかを警告されました。そしてそれは我々を今素晴らしい時に生きている、何が起こっているかこの時代に起こる事について、知らせておられたのです。そしてこれらのおかしな問題についての一つは、多分、何度も読んできて、私の心に語り掛けられたのはが今朝の事でした。
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さて、聖書を開きましょう、マタイの福音書24章そして御言葉の一部を読みましょう(すみません、ブラナム兄弟が喉をすっきりさせる)我々のテキストとその議題についての内容を見て行きます。
さて覚えておいてください、聖書のクラスを教える時はゆっくり行きます。鉛筆と神を用意してください。9ここに沢山の聖句を書きます)これらを書いて家に帰ってそれらを勉強する事が出来る様に)これはちょうど日曜学校のクラスの様な形です) そして我々は知り、そして警告され、今生きている時代について準備するようにするためです。
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マタイによる福音書(ごめんなさい、[ブラナム兄弟が喉をすっきりさせる〕)24節、 24章、14節から始めたほうが良いでしょう、神の御言葉の一部を読みたいです。
預言者ダニエルによって言われた荒らす憎むべき者が、聖なる場所に立つのを見たならば(読者よ、悟れ)、
そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。
屋上にいる者は、家からものを取り出そうとして下におりるな。
畑にいる者は、上着を取りにあとへもどるな。
その日には、身重の女と乳飲み子をもつ女とは、不幸である。
あなたがたの逃げるのが、冬または安息日にならないように祈れ。
その時には、世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難が起るからである。
もしその期間が縮められないなら、救われる者はひとりもないであろう。しかし、選民のためには、その期間が縮められるであろう。
そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、また、『あそこにいる』と言っても、それを信じるな。
にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。
見よ、あなたがたに前もって言っておく。
だから、人々が『見よ、彼は荒野にいる』と言っても、出て行くな。また『見よ、へやの中にいる』と言っても、信じるな。
ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。
獲物のあるところには、わしが集まるのである。(口語訳から若干訂正)
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さて、24節を強調して我々の日曜学校の今日の学びをしていきたいと思います。そして私がこれをもう一度読みますからしっかりと聴いて下さい。
にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。
さて、今朝の課題あるいは、テキストは、終わりの時に油注ぎされし者たち年う事にしたいです。そのぎだいについて話したいのです。あるいはテキスト、終わりの時に油注ぎされし者たち。
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私は我々は終わりの時に生きていると信じています。誰でも、その聖句を読んでいて、あるいは世界史の終わりにあると信仰者ならばほとんど全員が知っていると思っています。それについて書く必要はないのです、それについて読む人はいないでしょうから。それは終わりの時にある事なのです。そしていつかは分かりません。どれ程なのか、天の天使ですらその時と時間を知らないのです。しかし我々は主イエスによって告げられたのです、これらの事が過ぎるのを見たならば、目をあげなさい、あなた方の贖いの日は近いのだから、
さて、「近づいている」の意味は分かりません、多分、
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先日、化学shさ達がテレビで話していました、地球の中で何千マイルもブレイクがあると、それは沈むことになると、、、彼は質問に答えていました。「そこは沈む可能性がありますか?(それはロサンゼルス、西海岸))そしてあなた方の多くは、レーダーを見ている出そう、そこに上がって行って、サンノゼの下側が裂けていて、アラスカ全体にアリューシャン列島まで200マイル位海の中に、それが戻ってきてサンディエゴに入り、ロサンゼルス迄上がって行くという大きなポケットになっています。そしてこれらの地震我々が今経験しているのは、この大きなポケットの様な冠というかあなにぶつかっている火山で起こっているのです。彼等が行っていた名前は言えません。しかし揺れが起こるとこれらの地震が何年も西海岸で起こっているのです。さて、いつかは全てが砕かれるのです。
そしてその科学者が言っていたのは、
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その人が他の人に言っていたのは「それは落ちる可能性がありますか?」
彼は「可能性ではないそれは起こる」
そして「私の世代ではないでしょう多分?」
そして「今後5分か5年後か我々にはその時は分らない」と言ったのです。
今週、私の所に、新聞の一面に何千万もする家々が壊れている写真が送られてきました、その人々は引っ越していきました。そして、彼等はどの様にそれを止めたらいいのかわからないのです、それを止める方法などありません。分かりますね。神は彼のしたい事を何でもおできになります、そして誰も彼にどのようにしたらいいかを告げる事の出来る人はいません。
家を建てる時、科学的な事が出来ます、神は科学の創造者です。どのようにして神を止められるのでしょうか?神は今朝、蚤を使って地球を滅ぼしたければおできになります。のみを語る事によっておつくりになる事が出来る事が分かっていますか、そして彼は30分で40マイルの深さに行けるのです?分かります?そこには、、、人々をと力食べる物はいません。彼は神なのです。彼の御心通りになされます。神はご自身が主権者なのです。
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さて、これらの証拠が集まっているのを見て、我々の生きている時代が分かります、私はそれが良い事で、これらの事を練習して、封印が開かれたので、これらの真理を見つける事が出来ることだと思っています、神が我々に忠実で、これらの事を神の恵みによって我々に見せられたからです。
気が付いてほしいのは、ここマタイ24章で、イエスは、キリスト、(小文字の)キリスト達、大文字のキリストではなく、小文字の複数形の単数形ではないキリスト達という言葉を使われました。それ故、キリストの意味は、「油注がれた者」という意味があります。そしてそれから、もしその油注がれた者は一人だけではなく、多くの油注がれた者、その油注がれし者たち、、分かりますね。
そしてそうでないならば、もし彼がそれを良く理解できるように分けたければ。彼は「終わりの時には、偽の油注がれた者、さて、ほとんど不可能の様に見えます、その油注がれた者という言葉。しかしその次の言葉は「偽預言者達」それも複数形です。
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さて、油注がれた者「メッセージを持つ者」そしてその唯一の方法は、油注がれた者によりもたらされたメッセージ。そしてそれが預言者ー油注がれた者。「偽の油注がれた教師がいるであろう」ある預言者は彼のメッセージー油注がれた教師あるいは油注がれた人々と共に偽の教え、油注がれた者、キリスト達、複数形、預言者達、複数形。そしてそのようなものがあるとしたら、キリストとして、単数形そして、これらは油注がれた者でなければならず、その預言は、異なっていなければならないのです、彼は油を注がれているから、油注がれた者。
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さて、それを日曜学校の学びにします、我々はこれを本当の土壇場として聖句によって見せた血と思っています、他の人が何というか関係なく、ただ聖句を読むことによって見て行きます。
あなた方は、「これはどの様に可能なのか?」というかもしれません。その油注がれし者たち、、、彼等は何なのか?キリスト達、、油注がれし小さなキリスト達、そして偽預言者達、油注がれし者達しかし偽預言者達。
イエス様は言われました、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせるさて、誰かが私に言うかもしれません、「その人達への油注ぎという事は聖霊の油注ぎという意味で信じているのですか?」はいそうです。神の純粋な聖霊がある人に下るけれども、彼等が偽であるのです。さて、しっかり聞いて下さい。彼が言う事を「にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。」そして彼等は純粋な聖霊によって油注がれているのです。これはかなり愚かに聞こえるのは分っていますが、我々は時間を取って御言葉からはっきりと「主がこう仰せになる」を説明していきます。つまりは真実をです。
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さて、聖書を開いて、マタイ5章で45節とさて、我々は時間を少し取ってこれらの聖句を読んでいきます。そしてそれから、我々がここに来た後、なぜあなた方にそれを与えるかというと、、、もし我々が全てを読めなかったとしたら、あなた自身が自分の聖書で得る事が出来るのと、又我々がここを去ったとに読めるからそして家に帰ってからもです。そして聖書が何と言っているかについて読んだ方がよいからです。
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さて、時間を取って、基本的な事実を見て行きますというのは、ここで驚かせる様な声明を作っています。どのようにして、聖霊が偽教師に油注ぐことが可能なのか?しかしイエス様はそれは起こると言っています。
今、マタイ5章の45節を読んでみましょう。 その前から44節から始めましょう。
しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。
こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。(雨は悪い者達にも良い者達にも同じように来る)
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さて、これでこれに関して書かれている他の預言を折ってみます、へブル書の6章を次のこれのためのフォローアップの節とします、パウロがイエス様がおっしゃられた事を御暗示事を思い出していたところです。パウロがここで話しています、あなたがそれを探している間に、そしてその放送にあげて、あなたの近くにある聖書を得て、神を取って、これを今見て下さい。へブル書の6章、パウロはヘブライ人に向って書いています、彼等に影とそのタイプについて顕して、彼等にユダヤ教の下からキリスト教に入ってきている、すべての古い事が来ることの前景だという事を彼等に示しているのです、パウロが話しています。へブル書6章
そういうわけだから、わたしたちは、キリストの(単数形のキリスト)教の初歩をあとにして、完成を目ざして進もうではないか。今さら、死んだ行いの悔改めと神への信仰、
洗いごと(洗礼)についての教と手を置くことについて、死人の復活と永遠のさばき、などの基本の教をくりかえし学ぶことをやめようではないか。
神の許しを得て、そうすることにしよう。
いったん、光を受けて天よりの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となり、(ここで注目してほしいのですが、この賜物は複数形ではなくて単数形の物です、天的な賜物は又単数形で複数形ではありません、キリストも単数形、賜物も単数形)
また、神の良きみ言葉と、きたるべき世の力とを味わった者たちが、
そののち堕落した場合には、またもや神の御子を、自ら十字架につけて、さらしものにするわけであるから、ふたたび悔改めにたち帰ることは不可能である。
たとえば、土地が、その上にたびたび降る雨を吸い込んで、耕す人々に役立つ作物を育てるなら、神の祝福にあずかる。
しかし、いばらやあざみをはえさせるなら、それは無用になり、やがてのろわれ、ついには焼かれてしまう。
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さて、これをマタイ5章24節と再び比べてみましょう。気がついて下さい、イエス様は、地上に雨や太陽がくる話をされました、神が地の人々に食べものやその他を準備して送る事も言われました。その雨は食物や野菜の為に送られたのです。しかし、茨やあざみの様なものを生えさせても、同じものを受け取るのです。同じ雨が、麦を成長させるのと同時に雑草も成長させるのです。
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どの様にしてそのような生日をしたかというと、最初にペンテコステ派の人々に会った時の事でした。そしてそれは私にとって大切な学びでした。二人の人を見ました、ひとりは異言を一度も聞いたことがありませんでした。一人は異言を語り、一人は解釈をするのです、行ったり来たりでした。そして真理を話すのです、「ここに居る人たちの多くは今晩悔い改めるべきである。女性も男性も両方要る」そして人々は手を挙げて、祭壇に行きました。
そして私は思ったのです。「なんて素晴らしい!」と
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そしてその時、小さな聖霊の賜物によって、これらの人々に語りました、ただ、ご存知のように、又識別力で、小さな事を見つけたのです。そして彼等の内の一人は、純粋なクリスチャンでした。彼は本当にキリストの僕でした。そしてもう一人は、偽善者だったのです。そしてその偽善者だった方は、黒い頭の女性と一緒に住んでいました、そしてブロンドの女性と遊びまわって、彼女の子供を持っていました。さて、そこでビジョンを見たので、否定派出来ませんでした。そして私はそれについて彼に話したのです。彼は私を見て、建物の周りを歩いていました。
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さて、私は混乱しました、その通りです。天使たちの所に来ると思っていました、そしてもしかして悪魔の周りにいるのかもしれないと思ったのです。そんなことがあり得るでしょうか?私は理解できませんでした。そして数年、私はそれに対して手を外れていました、ある日になるまで、(ジョージスミス、私の娘と一緒になった人のとっころで、我々は昨日古いその場所に祈るために行きました)。そしてそこに2日ほどいた後、聖霊がこの聖句を私に戻してくださったのです、
「雨は地に野菜の為に来るが、茨やあざみも同じ雨によって生きる、最後には焼かれてしまう」同じ命を下さる元は神様なのです。そして私はそれを理解したのです。イエス様は言われました。「その実によって彼等は知られる」
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さて、だから、その雨は地上に自然な野菜の為に落ち、それは霊的な雨を意味します、それが永遠の命を教会に振らせて下さるtことで与えられるのです、我々は前の雨と後の雨と呼びます。そしてそれは雨で神の霊が彼の教会の注がれるのです。
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気がついて下さい、それはとても可笑しなことがここにあります、分かりますね。種が植えられたとき、土に行きました、然しながら彼等がそこに行ったら、彼等は茨だったのです。しかしそこには麦が植えられていたのです。そしてy債は野菜として始まっていました。そして各野菜はそれ自身が再びその始まりをあらわしたわけです。
「そして彼等は出来るならば選民をも惑わそうとするであろう」というのは、彼等は同じ雨、同じ祝福、同じ印、同じ奇跡を、受けたのです、分かりますね。「彼等は惑わすであろう、あるいは出来るならば選民をも惑わすであろう」さて、その茨は茨である事を辞められませんそして麦は麦であることを辞める事も出来ないのです。それは初めから創造主が各々に定められていた事だからです。それが選びなのです。
その同じ雨、
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太陽は朝登り、地球中に拡がり、この我々が生きている時代にもです。そしてその同じ太陽が東から登り西に下るのです。そしてその太陽は、地球にある穀物を熟れさせるために送られるのです、それが我々の体を作るものとなります。
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我々は死んだ物によって生きているのです、それが我々が生きる事が出来る唯一の方法なのです。そしてもし何かが死ななければ私達は日々生きられないのです、自然の状況です、そして肉の命は、死んだ物にによって生きなければならないのは事実ですね、そして何かが霊的に死ななければあなたの霊的命を救う事は出来ないのです。そして神は、肉に物質になり、そして我々が生きるために死なれたのです。教会も他の世にある何物の我々を救う事は出来ません、唯一神だけなのです。それが唯一彼等が生きる方法なのです。
さて、聖句に行きましょう。イエス様は御言葉です。「初めに言葉があった、そして言葉は人となり我々の中に住まれた、初めに言葉あた、そして言葉は神と共にあった。そして神は人となり(肉を持ち)我々の中に住まわれた」「人はパンによってのみ生きる物でなく(肉体の為)しかし神の口から出る言葉一つ一つによって生きる物である」そして分かりますね。私達は御言葉によって生きるのです、そしてそれは神なのです。
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さて、太陽は上がって穀物を熟れさせます。さて、一度に売れる事は出来ません。成熟するにわたって、完全な状態に来るまで継続的に売れ続けるのです。そしてそれは今日の教会もなのです。それは暗黒時代に戻ると赤ちゃんの状態で、土の下に隠れていました。そして今は、成長して成熟してきているのです。そして我々はその完璧さを見る事が出来るのです、どのように神が自然に常になさるかによってです。
あなたは自然を邪魔する事は出来ません。それが今日の問題なのです。我々は爆弾を海に飛ばし、それを壊し、原子爆弾と一緒に爆発させようとしています。ですから、いつもその土を壊そうとして、それらを落としているのです。樹々を切り落とすことで嵐が来るのです。川も水があふれてしまうでしょう。神の方法で物事が落ち着く方法を探さなければなりません。我々は人々を教会や組織の中で独裁しているのです、今我々が得ているものを見て下さい!神のお与えくださった方法に留まらなければなりません。
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しかし見て下さい、神はその雨(もともとの話に戻ります)を正しい人にも正しくない人にも降らさ手くださいます。イエス者今ここで、マタイ24章で終わりの時の印について話されています。さて、もしこの印が、終わりの時にのみ知られていたら、そしてこれらの封印が解かれた後でなければならないならば、それは終わりの時の印になるのです。そしてこれらの事が起こったならばそれは終わりの時となるわけです。そしてそれは印になるのです、さて、選民はこれらの事に混乱しないでしょう。分かりますね?そしてそれは顕かにされ、暴露されなければならないのです。
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気がついて下さい。麦も雑草も天からの同じ油そそぎを受けて生きているのです。それを両方が喜んでいるのです。私はこのことを覚えています、グリーンミルでその日、そのことがあったのを思い出しました。そのビジョンを見たのです、そこには素晴らしい地球がありました、そしてそれは全て魅せられていたのです。そしてまず種蒔きがやってきました。あなた方の前にそれをいじしたいのです。まず何がやっているかに気を付けて下さいそして何がそれに続くかを。そしてこの人が白いものを持って進んできて、地球上全体に種を蒔いていました。。。そして彼の後ろに、黒い衣を着た者見た目とても嫌な感じで、彼の後ろやいろいろなところでその周りに通って雑草を撒いていました。そしてこれが起こったのです。。。そして私は、両方が育って収穫するときが来たのを見ました。そして彼等が来て、一つは麦でもう一つは雑草だったのです。そして飢饉がやってきました、そして両方とも頭を垂れて、雨の為に泣いているかのように見えました。そして、その雑草がやってきて、「主を誉めよ、主を誉めよ」と言ったのです。同じ結果なのです。両方とも死にかかっていて両方とも、だめになりかかっていました。そして麦が上がってきて、飢え乾いていました。そして同じ畑で、同じ庭で、同じ場所で、同じ発芽が、麦にもそして茨(雑草)にも全く同じものによってできてきたのです。
気がついて下さい。その同じ麦に注がれた水が、雑草も育ててしまったのです。
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その同じ聖霊が教会に注がれて、彼等に魂を救いたいという思いを与え、奇跡を起こす力を与えるのです、それは正しくない者にも正しいものと同じものが注がれるのです、それは全く同じ御霊なのです。さて、他の方法でマタイ24章24節を理解する事は出来ないのです。彼は言いました「偽キリスト達」偽の油注がれた者達、油注ぎは純真な者なのですが、にそれの偽預言者であり、偽教師なのです。それが真理から偽教師になりたいと思わせるのでしょうか?さて、数分で獣の刻印について話していきます、そしてそれが宗派だと理解するでしょう。偽教師、偽の油注がれた者、偽キリスト達、然し偽教師達。それが唯一あなたがそれを理解できる方法なのです。
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ここでしばらく前に、ちょうど。。。私はこれを言いました。。。。。。。それをもう一度言うかもしれませんというのは国全体に繋がっているからです。ある日、私は友人と話していました、(これが今朝アリゾナで起こったです)。彼は柑橘系果実園を持っていました。そして帰れはオレンジの木を持っていて、それがグレープフルーツとレモンとみかんとタンジェロがなっていた、そして幾つの異なる果物が一本の木に在ったかは忘れました。そしてその人に行ったのです。私は「どうやってのです?これはどういう木なのですか?
彼は、「その木自体は、オレンジの木なんです。」
私は「どうやってグレープフルーツをならせているんです?なぜレモンがなっているんですか?
彼は言いました「彼等はそれに接ぎ木をしているんです」
私は「分かりました、さて、、さて」私は、「さて翌年、その木で他の果物の収穫があった時(ほぼ同じ時期に全ての物が熟れていました)」私は言いました、「それではその時には皆オレンジになるのですね。もしそれがネーブルオレンジの木ならば、それはネーブルオレンジをならせるのではないのですか?」
彼は言いました。「いいえ違います!全ての接ぎ木された先はその種類のものをならせるんです」
私は「レモンの枝はオレンジの木からレモンをならせるという事ですか?」
彼は「そうなのです」と言いました。
「オレンジの木から、グレープフルーツがをならせることが出来るのですか?
彼は言いました。「そうです、元の枝が接ぎ木されているからです」
私は言いました「神を賛美しましょう!」
彼は言いました。「どういう意味ですか?」
私は「もう一つ質問があります。そのオレンジの木は、再びオレンジをならせることはありますか?」
彼は言いました。「私が他の枝が出てきたときに。」他の枝が出てきたとき、もう一つの接ぎ木をした時ではないのです。しかし彼等は皆柑橘系の果物です、そして彼等は柑橘系の木から柑橘系の命を得て生きていたのです。
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私は言いました。「ほらそうですね!メソジストはメソジストを毎回齎し!バプテストはバプテストを!カトリックはカトリックを毎回。しかし生きる神の教会はキリストを根からその御言葉から毎回生み出すのです。もしそれが他の枝に繋がれてもそれ自身で生まれるのです。」
34
さて、そこに接ぎ木する事は出来ますね?すべてのグレープフルーツ、レモン、タンジェロ、みかん、どんな柑橘系果物でも、皆その木に繋がって生きることは出来ますが、その木は偽の証人その木に縁って生きる事で産んでしまうのです。分かりますか?彼等は純粋な命をその木から得て生きようとするのです! さて、マタイ24章24節、同じ命によって生きているのですが、彼等は初めから正しくなかったのです。彼等はその木の偽の証人を産んでいたのです!それはオレンジの木です!しかしそれは柑橘系の木です。そして彼等h会いうのです。「この教会、この宗派は、キリストの記録を持っている」そして偽の洗礼、偽の御言葉の証、神の力はその弟子だけにあると言おうとしているのですか?イエス様ご自身が言われました。「全世界に出て行って、すべての造られた者に福音をつたえよ、(すべての枝、それがどんな期でも、どのようになっていて、その木に在れば」そしてこれらの印が純粋な枝には伴うのです?どこに?それが木であれば、それが直接枝が繋がっていれば、終わりの時まで。「私の名前によって、悪魔を追い出し、新しい言葉で語り、サーパントを落とし、毒の物を飲んでも、病気の人に手を置けば彼等は癒される」どの様な時代に我々が生きているか分かりますね?イエス様が何を言われたか分かりますか?
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覚えておいてください、これは終わりの時の事なのです、ウェズリーの時代やそこに戻った時ではないのです。さて、終わりの時、これが起こるのです。さて、聖句をしっかり見て下さい、それらに宣言させてください。イエス様は言われました。「聖書を探して、あなたが信じるならば永遠の命を持っているか、そして彼等が私の事を宣言する者達である」言ってみれば、「この木が枝に繋がっていれば、私は葡萄の木である、あなた方は枝である、私を信じるならば、私がする業を彼もするであろう)(ヨハネの福音書14:12を参照)
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さて、「彼が私に繋がっていれば、彼は初めから私の根に居たのである」それが理由でイエス様は、ダビデの根でありそこから出た者なのです!彼はダビデの前に居て、だ実出の中に居て、ダビデの後に居ました。根であり、ダビデから出た者の両方なのです。その明けの明星、シャロンのバラ、谷のユリ、アルファでありオメガである者。父、御子、聖霊。彼にはその神の頂点が全て肉体的に住んでいるのです、ダビデの根であり、生まれた者。「彼は選ばれた命であり、私の中に居てあらかじめ定められた命なのです(そして彼は初めから言葉です)彼が来られるとき、彼は私の実をならせる(ヨハネの14章12節)しかし他の者たちは、同じものによって生き、彼等自身は、クリスチャンで信仰者と呼ぶ。全て、「主よ、主よ」と呼ぶものが入るわけではない。
さて、これが起こるのは、終わりの時に、神の奥義が終わった時に現れるのです。(それについてはもう少し後で話していくつもりです。)
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これらの樹々、その本物の枝と偽の枝、あなた方は、数年前からそれについて話してきたのを聞いて居ます、どのように一緒に成長してきたかをです。個人を一緒に育てて、見ていると、カインとアベルからで、二つの枝は一つの祭壇で会いました、両方とも宗教的で、両方とも油注がれたもので、両方とも命を望み同じ神を崇拝していました、そして一人は拒否され、一人は受け入れられたのです。そして唯一の受け入れられる方法は、彼の兄弟とは違っていたのです。それは彼に明らかにされていたのです、聖書がそう言っています。「信仰によって、(へブル書11章)、 信仰によって、アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ、信仰によって義なる者と認められた。神が、彼の供え物をよしとされたからである。」
イエス様は言われました。(彼がだれかについての霊的な啓示)「人は私を誰だと言っているか、人の子か?」
彼は言った、、、ペテロは言いました「あなたは生きる神の子キリストです」
「17 すると、イエスは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。
そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない」なんですって?その御言葉の本当の啓示! そこに本物の枝が再びあるのです。「アベルは信仰によって、、、」
あなたは言いました。「それは啓示ではない」と
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信仰とは何ですか?信仰とは何かあなたがまだ知らない事を明らかにされることですが、それを信じていることになるのです。信仰が神の御心を掲示するのです。そして啓示によって、
そして今日の教会の数々は、霊的な啓示すら信じていません!彼等はある体制による教理的な教えを信じているのです。
「 神からの啓示の理解によって、アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ、信仰によって義なる者と認められた。神が、彼の供え物をよしとされたからである。」アーメン、皆さんがそれを理解してくれることを望みます。我々がどの時代に生きているかを理解してくださいね?
それほど前ではありませんが、とある紳士と話をしていました、彼はクリスチャン学士で紳士でした。彼は言ったのです。「ブラナム氏、我々は全ての啓示を拒否します」と
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私は、「それではあなたはイエスキリストを拒否しなければなりませんね、彼は神の啓示そのものであり、神が人間の肉体に顕された方ですから」それが分からない限りあなたは失われています! イエス様は言われました、「あなたが私が彼であると信じない限り、あなたはあなたの罪の内に死にであろう」彼は神の啓示であり、神の御霊が人間の形で顕されたのです。もしそれを信じられないならば、あなたは失われています。彼を第3者、第2者あるいは神以外の誰であったとしてもあなたは牛慣れています。「あなたが私が神だと信じないなら、あなたはあなたの罪の内に死ぬであろう」それは啓示なのです。
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彼等が彼を分からないのは仕方がないのです。「誰も父が彼を引き寄せない者は私に来ることは出来ない。そしてちちが私に下さったものは、(根から)私に来るであろう」分かりますか?オーどれ程我々は彼を愛し、彼を慕い、彼を賛美すべきなのでしょう、終わりの日の、花嫁の木に御霊の実を見るためには、その時の上で熟れなければいけないのです。
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その本当の枝と、偽の枝の両方とも同じ油注ぎがあるのです。その水は両方に落ちたのです。だから彼は出来れば彼等は選民さえも欺こうとするという事を警告されたのでした。
気がついて下さい。彼等は同じように見えるのです、彼等は同じ油注ぎがあるのです。しかし気がついて下さい。「彼等の実によって、、」どの様に知るのでしょうか?どのようにそれがオレンジではないと?何故なら、それはその枝は大丈夫で、グレープフルーツをならせたのです、その木に住んでいる最中にですが、それはグレープフルーツだったのです。それは初めの物とは違います。そしてある教会が、彼等はイエスキリストは昨日も今日もいつまでも変わる事がないと信じていると言いながら、神の力、神の業、神の御言葉を否定しているのです。。もしその教会が、イエスキリストを信じているならば、イエスキリストの業をすrのです、それはイエスキリストの命を持っていることになるからです。そしてもしそうでないならば、どれ程、その命がそれに注ぎ込まれても、それはその根からあらかじめ定められたものではなくて、毎回、グレープフルーツを産みように別の何かを打つのです!しかし、もしその根からあらかじめ定められてる命であれば、それはイエスキリストは昨日も今日もいつまでも変わる事がないという実を産み、もしその根から見kとがが来ているならば、彼が初めの時から根なのです。
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気がついて下さい、然し彼等はあなたに違ったものを生み出していると言っているのです。イエス様は「その実によって彼等を知る:と言われました。人は葡萄をあざみから取る事はしない、あざみが葡萄の木に会ったとしてもである。それは出来るかもしれないが、その実が告げるだろう。その実は何なのだろうか?その御言葉は、その時の為に実であり、それは彼等の教えなのです。何の教え?その季節の教え、その時の、人の教義、宗派の教え、あるいはその時期の為に神の御言葉。
さて、その時は凄く速く行ってしみます。そこに長くいる事は出来ますが、私はあなたがここに居て、あなたが国中に居ると確信しています、あなた方に言っているのです、それほど我々はそこに長くとどまる時間はないのです。
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しかし、あなた方はその正しくない人々に油注ぎが行くのを見る可能性があります、そして偽教師たちに、そして神がそうしてはならないと言ったまさにそのことを彼等にさせることになるのです、然しとにかく彼等はそうすることになります。なぜでしょう?彼等はやめる事が出来ないのです!あざみがあざみ以外の何かになれるでしょうか?どれ程良い雨が沢山降ったとしても、それはあざみになるしかないのです。それが理由で、イエス様は、それにあまりに近いので、選民さえも(根にあっても)できれば欺くであろうと。しかしそれは不可能なのです。麦は麦以外の物はでいないのです。それがならせることが出来るのはそれだけなのですから。
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気が付いて、覚えていてください。神はどの組織の著者にもなりません。悪魔が組織の著者なのです。御言葉をしっかりと見て何度も何度も、証明しました、今朝はそれに深くは入る予定はありません。我々は神がその様に人々を組織化させる事は無かったことを知っています。組織を作るようなことをです。その最後の弟子が死んだ何百年もあとに彼等は初めて組織を作ったのです。それはいつも失敗である事を証明しています。もしそうでないならば、今日も共に我々は愛し合っていないのでしょうか、メソジスト、バプテスト、長老派、カトリック、そしてすべての宗派?神の業が我々に従ってこなかったのでしょうか?そしてすべての教会が同じではないのですか、その御言葉は?こういった事が人々を別れさせたのです、兄弟愛も。。。我々は神からいまだかつてないほど離れていますー話しているのはその教会の数々の事です。
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さて、我々は全ての古い事が起こったことについて話されました、例えば、我々の教え、叱責、訓戒は旧約聖書の全て古い事で起こった、それは我々の時の新約聖書で見る事の出来る前景だったのです。ちょうど、もしあなたの手を見ないで、飢えを見てその壁の影をいるならば、(私の手は光に入っているとして)5本指はここに影になっています、物事がネガティブな時、あなたは手をそこに向けます。肯定的になる事を否定的な方向にです。それが5本指に来るのです。聖書が告げている様に、旧約聖書は新しい者の影、タイプになるのですあるいは来ることになっていた事、それその者ではなくて、然しそれは影なのです、そのタイプなのです、今後起こる事に対しての事です。
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さて、他の時代にこの様な事があったかを戻ってみてみましょう。(そうしたいですか?)さて、我々はこれを御言葉を探る事によって証明できるのを知る様になります、人のアイデアでもなく、何かの理念でもなくです。私は彼がだれであろうと気にしません、他の人でも、自分自身でも他の人であっても、もし彼が、律法と預言者によらずに話すなら、彼の中には光はないのです、分かりますね。それが聖書が言っている事です、私の言葉が真実になるためには人の言葉を嘘としよう」それがだれであろうともです。
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さて、戻って、もしこれが過去に起こったことがあって私達にその例を見せてくれているかを見つけてみましょう。出エジプト記に行って、今、見る事が出来ます。モーゼに関してです。彼は油注ぎされた預言者でした、神によって御言葉と共に送られた人でした、そしてそれは彼の世代の為に神の御心でした。神の御言葉はいつも引き続き流れているのです、彼は言いました、神は彼の預言者に始めに顕かにしないで何ごともなさる事は無いのです。そして彼はそうなのです。
さて、神は嘘をつくことは出来ません。神であるためには嘘はつけないのです。あり得ません。神は常に真実である必要があるのです。彼の中には嘘はないのです。そして彼はそれを変えることは出来ないのです。もしそうされるならば彼は神ではくなるのです。彼が間違いを起こすならば、神ではありません。神は無限である必要があります、そして全知全能ですから、間違う事は出来ないのです。分かりますね。さいて神が言う事は、それは永遠なのです。そうですね。彼はその事を約束されました。しっかり見て下さい。聖書にはどこにもそのような事はありません、そうでないならば、それは継続して正しくなくなってしまうのです。
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さて、神はアブラハムに約束しました、彼の子孫は違う土地においても400年間の間強くなると、そして彼はそこから大いなる権威と力の手によって彼を連れ出したのです、彼の印と奇跡を人々の間に見せて、彼等がそこに住んでいる間にでした。その時の約束はなされたのです。人々はその事を忘れてしまいました。彼等はパリサイ人と佐渡会人など、宗派教団を持ったのです、然し突然、神がそこに来られて、彼等から離れたのです。神はいかなる時も、宗派教団から預言者を呼び出されることはありません。いいえありません。彼は凄く曲がってしまっているのです。彼にはそれは出来ません。彼はその宗派教団に留まっていなければならなかったのです。
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モーゼは神が神の言葉と共に送られた人でした。そして彼のイスラエル人を約束の地への旅の上で、神の命令に限定して、彼は他の預言者に会いました、同じ聖霊を受けた真なる聖霊を受けた他の油注ぎを受けたもので、モーゼと同じでした。その通りです。彼は預言者でした。その聖霊派この男性の上にもありました。彼の名前はバラムと言います、我々は皆彼の事を知っています。さて、そのまさに同じもの、そのことが彼が言った事が今もまだ怒っているのです、2800年前の事、「あなた方は野獣の角のようだ、おーイスラエル。あなたを祝福する者は祝福され、あなたをのろう者はのろわれるであろう、あなたは強く、力強い。あなたのテントがどれ程正しくても。おーヤコブ」分かりますね、彼は彼自身を助ける事が出来なかったのです。彼はそこに来た目的は彼の心の中ではその人々を呪う事でした。
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オーあなた方偽教師達よ、これらのテープをこの何年にもわたって聞いて居て、神が言われたことを確証したのを見ていて、そして自分の書斎に座って、それが真理だと知っている。そしてあなたの宗派教団の違いがある故、あなたは彼等と戦って、あなたの人々に彼等はそうではないと言っている。あなた方は災いだ! あなた方の時間はもう終わりに近い。
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バラムはモーゼと同じ御霊によって油注ぎされていました、、その違いは何でしょうか?モーゼの教えは完璧でした。聖書がここ第2ペテロで言っています、バラムの教えをイスラエルが受けたものを神は許される事は無いのです、許されない罪!彼等の誰一人も救われることはありません!しかしながら、彼等は神の恵みから漏れてしまい、神の手がこの力強い預言者によって動き、神に指定されたことを見たのです、そして反対の教えを持つモーゼと紛争していたもう一人の預言者が着て、人々にモーゼは間違っていると証明しようとしました。そしてダタンとコラと多くの人々がバラムに同意して、イスラエルの子らに、色情と肉欲によって姦淫を教え、彼の組織に入らせるようにして言ったのです、「我々は皆同じなのです、メソジストであろうと、バプテストであろうと、長老派であろうと、ペンテコステであろうと、他でも。我々は皆同じです」我々は同じではありません! あなたは異なる人々です、主に聖くある必要があります、御言葉に献身し、神の御霊によって、彼のこの時代に約束された実を実らせなさい。そしてあなた方は彼等とは違います。
私はそれは凄く強い事は分っていますが、真理はただ常に同じなのです。この終わりの時に神への奉仕に献身していく事。その中から出る事が必要なのです。
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さて、バラムの教え、バラムの預言ではありません、それは大丈夫です、それは神の者でした。! 何人がそれを信じますか?バラムの預言は全く正しかったのです、というのも彼はそれ以外語ることは出来なかったからです。神の油注ぎは、他の事を語りません。そして神が指示しそれが真理だと証明したのです。しかしバラムの教えでした。さて、それをマタイ24章24節と比べて行きます。
油注がれた者、然し彼等の教えは偽なのです、三位一体そしてそのような全ての事。間違っています、反キリスト! 私はあなた方の感情を傷つけたくはありません、そして電話を切らないで下さい、立ち上がって出て行ったりもしないでください。ただ静かに座ってください、そしてもし聖霊がそれを我々に顕かにしてそれを証明するかどうかを見て下さい。あなた方は言うでしょう、「しかし私は」あなたが信じている事が何であれ、静かに座って聴いて下さいそして神に心を開いて尋ねて下さいそして何でもあなたは茨なのかあざみなのか、が分かるでしょう。どこにあなたが立っているかを、分かりますね。
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さて、ユダでさえ(イスカリオテ)、彼は有罪が前から決まっていましたが、イエス様の前にそこで座って居ました。そしてイエス様は彼に言ったのです。「あなたがその者だ!何でもしなければならない事を言ってやりなさい、急いで!」彼は彼が何をしているかを知っていましたが、30枚の銀と人気でイエスキリストを撃ってしまったのです。彼の弟子の一人で、教会の会計係ですた、イエス様は彼を彼の友と読んでさえいました。見て下さい。聖書は、彼は滅びの子だと言っています、ちょうどイエスキリストが神の子として生まれてきたのと同じです。「出来るならば選民をも惑わす」
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しっかりと学び続けることによって気がついて下さい。列王記のなかから他の物を見て行きます。ある預言者が居ました、そして彼の名は、ミカヤ。彼はイムラの息子でした、そして彼は預言者でした。彼はそうだったんです。そしてもうお一人の預言者が居ました、預言者達の組織の頭に立っているもので、油注がれた者達でした。聖書は彼等はちょうどバラムが預言者だったと言われたの同じ様に預言者であり油注がれし者たちでした。そしてそのうちの一人のがミカヤという名前で神によって神の言葉と共に送り出された者でした。そこにはゼデキアが居ました、彼は神に送られたと思っていました。彼は神の油注ぎを受けていましたが、彼の教えは神の御言葉と反対だったのです。「偽キリストが起きて、大きな事を行い、出来れば選民をも惑わす」
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気がついて下さい。彼等の両方、両方が油注ぎを受けていました。さて、どのようにして、どちらが正しく何方が間違っていると言えるのでしょうか?御言葉がアハブに約束しているものをしっかりと見て下さい。その預言者は彼の前に居ました、それはエリヤでした、その時代の最大の預言者の内の一人です、それは神の指定していた預言者でした。その指定されていた預言者は、言ったのです、アハブ王はこの悪い事をしたから、犬が彼の血をなめることになる、(ナボテの命を取った)そしてその犬たちは、イザベルと彼の体を食べて、その畑の糞と化した。さて、神が呪ったものをどのようにしてあなたが祝福できるのでしょうか?さてバラムが言ったの同様に神が祝福した物をどのように呪う事が出来るのでしょうか?分かりますね。しかしこれらの預言者達は、誠実でした。彼等は疑っていませんでしたが良い人であり、栄誉を受ける人であると、イスラエルの預言者の一人になる為ならば、あなたは栄誉を受け又、イスラエル部と出なければなりませんでした。もしそうでなければ、石打にされるのです。彼等は栄誉を持った人たちでした。彼等は賢い人達でした。よい教育を受けて居た人達でした。彼等はアハブの国から選ばれた人たちでした。(分かりますよね、ライト姉妹?)国から選ばれた者、良くその、、、
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そして今、ミカヤは彼のビジョンを見て、彼はその御言葉が言っていることについて彼の心にある事が分かったのですが、彼は彼の中にいる御霊が言う事を理解したかったのです、そして行ったのです。だから彼等は彼に言ったのです、彼等は「あなたはこれらの他の預言者達が言っている事と同じ事を言っている。そしてあなたがする時、なぜ、あなたはその交わりに入るようになる、疑いもなく、再び」分かりますね?「我々はあなたを我々の一人にします。我々はあなたを我々の宗派に戻します。あなたが預言者であることは知っていますが、あなたはいつも呪う事ばかり言っています。あなたはアハブ王を呪いました。今、ゼデキアはそのチーフで(教皇かあるいは何であれ)今彼はアハブ王を祝福したのですそして行ったのです、「行ってそれをしてください」さて、あなたは同じことをいいます、イムラ。なぜあなたはただの貧しいものではないです、ほとんど回収もいないではないですか、これらの人々は何百人もいるのです。国全体が彼等に従っています。さて、彼等が居しているのと同じ事を言っています。分かりますね、あなたが何をするかを、あなたは豊かな地から食べるのです」彼はそこで間違った人とと話していました。
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もしそれがこの様に言ったとしたら、「何かゼデキアに間違いを見出せますか、ミカヤ?
「いいえ」
「彼が何か罪を犯しましたか?」
「いいえ」
「彼がだれかを呪っているのを聞いたことがありますか?」
「いいえ」
「彼が酒を飲んで酔っ払っているのを見たことは?」
「いいえ」
「彼の教育と紛争を起こせますか?」
「いいえ」
「彼の博士は偽物ですか?」
「いいえ」
「彼のPh.Dはどうなんでしょうか?信じますか?」
「はい、それはサンヒドリンからの物ですから、大丈夫だと思います。」
「さてそれではなぜ彼に加わらないのですか?」
「彼は御言葉から外れているからです」
「それでは我々はその事で対決をしましょう」
預言者エリヤがその前でした様に。そしてもしあなた方が神の子ならば、この聖書の預言者と共に居るでしょう。それが御言葉なのです。
その時と時代に気がついて下さい。
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さて、もしゼデキアが、「オー預言者が言った事を知っているがそれは将来の世代の為で、それは今からずっと先の事である」と言っていたら。
彼は「神から美女sンを受け取るまで待ってくださいそして私はあなたに告げます」と言いました。
そして「あなたは同じことをいいますか?」
彼は言いました「神が言われた事だけを言います、それだけです、それ以上でもそれ以下でもありません。一言も加えたり、取りだしたりはしません」だからその夜の祈りの中で主は彼に来て美sジョンを与えました。彼は翌朝出て来て、彼は言ったのです。
「そこには、、、
二人の預言者が、、、
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その国の最も偉い人、軍部にも国の側にもそれがゼデキアでした。彼がその王による預言者の頭でした。彼はその組織によって全ての他の預言者の頭だったのです。彼は彼ら全ての組織のによって彼等の頭にされていました。多分、最善の読みが出来、「最善の教育を受けていて、その仕事により良い状態だったのでしょう。そして彼は聖霊の油注ぎを受けていました、彼は預言者として召命されていました。間違いなく。ただの預言者だったわく、彼はヘブライ人の預言者でした。さて、彼を見て行きましょう。
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ゼデキアは言った「主はこう仰せられます、『これらの二つの鉄の角を私に創りなさい』」ある預言者はふつう、印を与えるのです。「彼は言いました、これらの鉄の角を作りなさい」指令は私に言いました。「これらを取って、その油注ぎによって私を祝福しなさい。(それは犠牲的だと思わないで腐サイ、然しポイントはあります)その聖霊が異言を通して私に語り、それが私を指定していました、彼は言いました「これらの角を取って、王に告げなさい、彼はシリアに行って、その国に入りなさい、私は彼にイスラエルに正しく属している土地を返すであろう、その教会」兄弟、それはかなり基本的な事です、ちょうどここでのバラムの様な事。
バラムはちょうど、モーゼといて基本的な事を語りました。。モーゼは、、神の正しい数字は7です。そしてバラムは言ったのです、。
「わたしのために、ここに七つの祭壇を築き、七頭の雄牛と七頭の雄羊とを整えなさい」。それは、来るべき神の御子の到来について話しているのです。基本的に彼はその事については正しかったのです。
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そして、ゼデキアは基本的には正しいのです。「この土地は我々の物である。シリア人とぺレステ人足しhがそこにいて、彼等の事も達のお腹を満たしていたー我々の敵ー我々の子供達には、神が我々にこの土地を与えた時にはなかった。」兄弟、それは良い口論です。きっと彼はイスラエルを出る前に叫ぶでしょう、そして彼等は彼等が出来だけ大きな声で叫ぶことになります。さて、今日の事について話しているのです、私の言っていることについてきている事を望んでいます。叫びや大声を出す全ての事、、、
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デービッド、先週の日曜日の事を覚えていますか?あなたはラジオ後に居ましたね、あるいはこの電話がつながっている所、もし先週の日曜日のメッセージを受け取っていないなら、確実に得て下さい。「神の御心なしに、神の御仕事をしようとする事」どれだけ誠実で良くても、神によって受け入れられません。分かりますね。今、ここでゼデキアが彼は正しいと考えている様に。
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ミカヤは言いました、「神に尋ねさせてください」だから彼は次の朝降りて来て、「主がこう仰せになられる」彼は彼のビジョンを御言葉で調べたのでした。
さて、もし彼がゼデキアに「聖書の預言者にここで言われている事がこの人に起こったことを知っていますか?」と言ったら。。
「しかし、それはこの時ではなかったのです。というのもこの人は栄誉のある人だったからです」彼は努力をしていました(これをしっかり理解してください!)彼は教会に、教会に属するものを返そうとしていました。彼はその施設を返そうとしていたのです、霊的な事ではありません。もしそうならば、彼はエリヤの様に国全体を揺らしたことでしょう。しかし彼等に物質的な物だけを返そうとしたのです。「我々が施設を持っている。我々は偉大な組織だ。我々はそれに属している。我あれは皆、皆あなた方。。プロテスタントは我々に皆加わるべきだ」我々は間もなくその状態なるでしょう。「とにかく皆兄弟姉妹なのだから。」そうではありません!決して今までもこれからも、本当の純粋な神の教会はそうなりません。なりえないのです。
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気がついて下さい。彼はそのビジョンを見ました。そして彼は言ったのです。「神が私に語られた」さて、見て下さい。その人は誠実でした。彼は言いました。「神が言われました、これらの角を作って、そこに行き、王の御前で、西側に(あるいは彼等が立っていた場所のある地)それを押し出し、「主がこう仰せになる」それが彼が勝利を得る予定で、戻ってきて、勝利を教会の為に得ようとした場所でした」彼等を押し出すのです。それはかなり近かったので社内でしょうか?その問題は何でしたか?ミカヤが下りてきて言ったのです。「さて、あなたはあなたの預言者に与えられました、、」
そして言ったのです「上がって行きなさい、しかしイスラエルが羊飼いもなく羊の様に散らされているのを見る」何という事、まったく反対なのです。
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さて、あなた方は会衆です。さて、どちらが正しいのでしょうか?彼等は両方とも預言者でした。あなたがその違いを言える唯一の方法は、御言葉によって調べる事です。
「どのようにこれを得たのでしたか?」と言いました。
彼は「神が御座に座っておられるのを見ました」「彼の周りに評議員が皆座っているのを見ました」と言いました。
さて覚えていますか。ゼデキアは彼が神も見たと言ったのです、同じ御霊の中で。「私は神を見ました。鉄でこの角を作る様に神は私に言いました。行って国々をここから出て行くようにしなさい、「これは我々の物だから。他の者たちはそれを得る権利はないと。彼等は神と共に居れば、彼等はそれを持つデア賞しかし、彼等は神から離れて行ったのです。それが組織、その教会のやり方なのです。これらの事をする権利を得たのですが、それをあなた方は誤魔化されたのです、あなた方が御言葉と御霊から離れたからです。その時代の為指定された御言葉への油注ぎから離れたからです。このメッセージを間違いなく受け取ってください。
66
気がついて下さい。何が起こったかを。彼は言いました。「私は神を見たと」ミカヤは見たのです。「天の御座に座っていて、彼の周りに評議が地が座っていました」彼は言いました。「誰が下りて行って、アハブを欺き、エリアの言葉、私が指定した預言者の言葉を現実化させられるのか」と。私は彼は来ると話したのだ。そしてエリヤは私の言葉を持っていた!そして天と地が滅びても私の言葉は滅びる事は無いのである。どれだけ近代的になろうと、どれだけ良いものを得ようと、どれだけ教育を受けようが、どれだけ大きくなろうが、気にしない、私の言葉は敗れる事は無いのだ!そして嘘をつく霊が地獄から上がってきて、彼に膝まづいて言ったのです。「もしあなたが許可をくれるならば、私の油注ぎを彼等に会が得ましょう、彼等に印と奇跡を行わせる事によって御言葉から離れさせられる限りそれが可能です。彼はそれがあなたの御言葉だとは知らないでしょう。彼は人気のゆえにそれを無視する事でしょう。(兄弟、時は変わっていません! ネビル兄弟、それは事実です!覚えていますね。それは真実なのです!) 私が彼の上に行き、彼を他の彼等と同じようにさせる。彼に預言をさせて、嘘をつかせる。「どうしてそれが嘘だと分かるのですか?」それが御言葉と反対しているからです。
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あなたはこれらの偽の洗礼をいくらもして、偽の何某、と何某、それがいかに本当の様に聞こえたとしても気にしません。どれだけ人まねをしようとしても、それは嘘なのです、この時代の神の言葉に反しているのですから! その通りなのです。あなた方は言うでしょう、「さて私達は、私は地はこれをしました、私達は、これで、我々の教会はこの方法で、そして、」私はそれがこうあれ気にしません、それがこの時代の為にかかれた御言葉に反しているならば、それは嘘なのです!神はそれとはまったく関係がないのです。どれだけ、誠実で、どれだけ教育を受けていて、どれだけ賢くて、どれだけ本当の様に聞こえても、それほど合理的に聞こえても、もしそれがこの時代の御言葉に反しているならば、関係ないのです。我々は数分で時間が許すならばもう少し深く入ってきます。そうしないならば、それを再び今晩話していきます。
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気がついて下さい! 彼は誠実で、良い人でした、疑いもありません。彼は言いました、阻止tえそうでなければ、ミカヤがそう言っていたでしょう。(直接ではなくても、別のやり方で)「あなたは嘘の霊に油注がれている」それを牧師に言うのは何か難しい事ではないですか?しかし彼はそうしました。
そして、この牧師は上がって行き言ったのです。「あなたはもう交わりをしない一切」そして彼に対して直接起こって行ったのです。「あなたは私が指定された人間であることを知っている。私の教会はこのことにおいて私をトップに置いた。神の人々の人気投票が私をそこに置いた。私の組織が私をこうした。そして神がこの地を私にくれたそして彼は我々にそれを持たせるように指示したのだ!」そして私が神がこう仰せになる」を持っている限り」彼は彼に対して言ったのです。「私が離れた時、神の御霊は何方の方向に行きましたか?」と
ミカヤは言いました。「カリフォルニアが海の後ろに落ちた時にこの時代の内にそれを見出すでh層」多くのこれらの事を分かりますね。「あなたがその刑務所の中に座っている時に、どの方向に行ったかを見出すでしょう」と
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そしてアハブ王、あなたは何を言うつもりですか?「私は私の預言者を信じる」彼は言いました。もし彼がただ御言葉を調べていたとしたら?さて、彼は自分自身が呪われるのを見たくありませんでした。聴いて下さい! 自分自身が呪われるのは見たくなかったのです。誰もそんなのは見たくありません。そして私の組織にいる兄弟は、それがあなたにとって大切なのです! あなたは「父と子と聖霊の名」を使って洗礼をする時、心の中で、知りながら、自分は正しいと思いたいのです。あなたは嘘をついているのです! あなたはいつあなたが、、、自分がしている事をいいなさい、分かっているはずです。実際の召命をとttえ、全ての事は、、、あなたが増しhがっている。。。はじめの証拠が、異言で語って、この時間の紙の約束とそれが反する事が出来ましょうか?どうしてそうなれるのでしょう?あなたは呪いは欲しくないですね?でもここにそれは書かれているのです、そうなると。それが獣の印なのです。だからもしできるならば選民をもだまそうとするに近いのです。
70
すべての印、すべての奇跡、油注がれし人々、預言、全ての事が進んでいます、すべての印、すべtネオsh類の奇跡、その違いをどのように言えるのでh草加?この時代の御言葉を気を付けてみて下さい。その様に取るのです。
モーゼをみてください、彼がバラムにどのように言えたか、ここで見ているミカヤがどうして彼が正しいか我々は知っているのか?それはアハブの為だと彼の前の言葉によりよげんされているからです。そしてその御言葉はこれらの時代の為に彼等の組織の為に預言されているのです、そして物事は彼の本当に油注いだ教会によって行われるのです、それは御言葉であり、御言葉の花嫁なのです。我々はここにいるのです。今日がちょうどその様になっているのです。
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聖書は、「二人三人の証人の証言によって全ての言葉は確定する」と言っています。バラムについて語っています。バラムとモーゼについて語っています。そして今ミカヤとゼデキアについて。さて、もう一つ霊をあげます。何百もの人々が居ますが、もう一つで3人の証人となります。私は全てのつながりをここに書き出しました。しかし時間を有効にするために、、、
エレミヤは指定されていた者でしたが、捨てられましたが、神の指定した預言者の一人でした。彼等は彼の事を憎んでいました。彼等は熟れ切った果物を彼に投げました他にもいろいろ。そして彼は彼等に呪いをかけました。そしてそのことが。彼がしたことが。そこに彼の側に置かれて、イスラエルが間違っているという印を与えられたのです。全ての預言者、真の預言者は世に建てられている教会の呪われた宗派教団に嫌われていました。変わらない神がどのようにそれをどのように変える事が出来るのでしょうか?
この時代の預言者は聖霊です。彼は御言葉を指定して、それを証明しています。聖霊は預言者モーゼの時代にもいました。聖霊はミカヤの時代にもいました。聖霊が御言葉が来ることを書き、御言葉を確証したのです。
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さて、ミカヤの時代に何が起こったのでしたか?アハブは殺され、そして犬が彼の血をなめたのです、神の御言葉によるとそうなっています。「オーあなた方偽教師達よ、神はいつかあなた方がまいたものを刈り取るだろうと、あなた方盲人を導く盲人!私は怒ってはいません。ただ真理を告げているだけです。そして聖霊がそういわなければ、そこでその部屋の中であなた方にこれを言ったりはしませんでした。「その様に言いなさい」何か間違った事を言った事がありますか、、然し神がそれを正しいと証明されませんでしたか?目を覚ましてください、兄弟達、遅くなる前に!
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しかしこれを言わせてください:棘があざみになる事がありますでしょうか、それがあらかじめそうなると定められたときに?どのようにして選民がそれを見ないようにされるのでしょうか?あなたはそれを見るように選ばれているからです。「父が私に下さったものは皆私に来る」とイエス様は言われました。「しかし子羊の命の書に彼等の名前が世の初めから書かれている者以外は私の所に誰も来ることは出来ない」教会の記録ではなくて、子羊の命の書です。
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気がついて下さい! エレミヤは立ち上がりました、人々の前に指定差有れていたのです、しかし彼等はそれでも彼を憎んでいました。
そして彼等は出かけて行って、くびきを作りました、彼はそうして、彼の首にかけたのです。そして人々の前に行きました。彼等は言いました。「オー我々は神の偉大な民なのだ。なぜ、我々はイスラエルである!我々は非常に我々の会堂に対して誠実であり、毎週そこに出席している、犠牲も捧げていて、お金も払っている。ネブカドネザルはどうして神の聖いものを持つことが出来るのか?ハーあなたの罪がそれをしたのだ。
神は言われました。「私の戒めを守るならば、私はこれをしないだろうしかしあなた方はしないからそれが来るであろう」それはその通りなのです。今もそれは同じです。彼の戒めを守りなさい。彼のこの時代の為の言葉です、神が約束された事です。
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さて、気がついて下さい。今、エレミヤは神の御心により、指定された預言者であり長r真央にくまれていました。その時代に彼等の全てが憎まれていたのです。その時代の宗派教団とは全く反するおかしいと思われることをしていたのです、皆が彼を憎んでいました、王やその他の人々もでした。そして、彼は彼の首にくびきをかけて、「主がこう仰せになる、彼等はそこに70年間いる事になる、というのは、彼は神の御言葉からくる70年を悟っていたからです。
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そしてハナニア(ハナニア あなた方はハナナイアと発音するのですね)ハナニアはその民の中から出た預言者でした、エレミヤの首からくびきを取る為に出て来て壊したのです。そして言いました、人々の中で大物になったのです、(分かりますね)神の御言葉と反する事を語った時。そして彼は言いました。「彼等は2年後に帰る事になる、主がこう仰せになる」二人の油注がれた預言者達でした。彼等の血が居は何ですか?一人は、御言葉から語り、もう一人はそうしなかったのです。
エレミヤは アーメンと言ったのです。
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すべての長老と会衆と全てのイスラエル人の前で。
分かりますね、彼は彼もエレミヤと同じくらい大きな事が出来る事を見せたかったのです。「分かるだろう彼等はあなたの事をとにかく嫌っているそして私も預言者だ。私は、あなた以上に預言者だ、あなたは嘘を予言したから。あなたは神の民がこの様なことに陥るなどと、言った。」今日も彼等はこの様な事を言いますが、あなた方も教会と同様にそこにいる事になります。あなた方はある呪いによって呪われているのです。あなた方全ての教会、宗派教団で、神の御言葉の代りに人の伝統を守る者は、神により呪われているのです。
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さて、気がついて下さい。ここに彼はやってきます。ハナニアは彼の首からくびきを取って、神の印である物を壊して、言ったのです。「主がこう仰せになる、2年の内に彼等は戻るであろう」ただ見せびらかすためにです。「私は何某です」彼はそこに立っていたからです、彼は組織の為の預言者だったからです。
エレミヤは荒野の人でした、彼自身一人で住んでいました。彼はその時代の悪に敵対して預言していました。というのは彼等は悪かったからです。そしてこの人は彼等にひったのです。「オーあなた方は大丈夫、あなたがイスラエル人であれば、それだけがに必要な事、神はそんなことはしない。私はここで何かが起こったことを知っているが、心配しなくていい、怖れる必要はない」おー兄弟達、彼等は今日も生きています。「心配しないで、全ての事は大丈夫。我々は全て制御されている。我々がその兄弟だ」そんなことを考えないでください。はい。
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さて、彼は言いました。「全ての事は大丈夫です。彼等は2年以内に戻るでしょう。これらの小さなことは起こります。それは普通でない事は何もないのです、我々はそれを持っています。ネブカドネザルがここに上がってきましたが、我々の神はこれを全て世話するでしょう」しかし御言葉は彼等はそこに70年いたと書かれています。その世代は消えかかっていて新しい世代が居ました、40年が一つの世代です。
「これはほぼ2世代で、後ろに下がる事になる」とエレミヤは言いました、神の御言葉によるのです。ハナニアはそれをこわし、エレミヤは言いました。「大丈夫、アーメン。しかしハナニアは、これを覚えましょう、我々は両方共の預言者で、我々は聖職者です。そして、私はこれをあなたに言います、兄弟、我々の前に預言者たちが居ました、彼等は王国に敵対して預言して、特定の事に敵対して預言しました。しかし覚えていてください、そのお現社が何かを言う時、彼の預言はその御言葉によらなければならないのです、ミカヤとモーゼの様に、そして他の彼等全員と同じように。それは神の御言葉によらなければならないのです。もしそうでないならば、何が起こるかを覚えておいてください」
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そして、ハナニアの自分の思うところの義的な怒りが出てきた、「私はハナニアである(疑いはない)主の預言者であり、私は2年と言う」つまりは、「御言葉何といおうと私は気にしない」彼の油注ぎ。「私は言う、2年で彼等は戻ってくる」
エレミヤは彼の前を歩いて、言いました、「主よ、彼が何といおうと私は気にしません、ただ、御言葉がそういう事を信じて知っているのです。だからあなたに従い続けます。私は彼によって欺かれません」
神は言った、「ハナニアに行って告げよ、私は次のくびきを鉄で作るであろう」彼はそうしましたから、彼は地から取られたのです。ハナニアは、同じ年にでした。そこに我々の霊があります。両方とも預言者でした。この時にも沢山のそれに似たものがあります。
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しかし、良く見て下さい。イエス様は言われました。この終わりの時に、再び二つの霊が本当に近く再びあるであろうと。それはそうですね?さて、気がついて下さい。それ以上い近いものとなるのです、これは終わりの時なのです。オー子供達!神は憐れみを我々の上に垂れています。それが本当になるのです、もしできるならば、選民をも欺こうとする。さて、あなたはどの様に、私達がどのようにそれをその時代に彼等に言いましたか?今日どのようにそれを言うのでしょうか?同じ方法で、御言葉と共に、イエスキリストは昨日も今日もいつまでも変わる事のがないのです。さて、このメッセージを全て持っていきましょう。そしてそのテープを聞いたときにー多分、主が私とこの地上で終わった時に、いつか行く事になるでしょう。あなたはこのことを参照することになります。私の声を聴いて下さい、私があなた方に告げている事を聞くのです。もし主の再臨の前に私を連れて行ったとしたら、覚えておいて下さい、私は主の名前で主の御言葉によって、あなた方にそれを話したのです。はい。
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気がついて下さい。すごくお互いに近くなっているから、それによって、もし可能であれば、選民をも欺く。それは同じ印、同じ御霊による同じ奇跡。そうではないですか?ちょうど今我々が話してきた、預言者達と同じなのです。
さて、それは書かれています、開いてみましょう、これを、もしそうしたいならば、第2テモテの3章、これを置いておかない事、そして私はそうしたくない。そこの時計を見て、沢山の事を飛ばしたいのです、そして今それをすべきかどうかは考えていません。
気がついて下さい。ただ、もし私がここに立って汗をかいているような、、、分かりますね。でも私は幸せです。そして、私はこれが真実だと知っています。
第2テモテ3章8「 ちょうど、ヤンネとヤンブレとがモーセに逆らったように、こうした人々も真理に逆らうのである。彼らは知性の腐った、信仰の失格者である。」
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パウロが言ったのです「 しかし、たといわたしたちであろうと、天からの御使であろうと、わたしたちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その人はのろわるべきである。」(ガラテヤ書1章8節口語訳参照)さて、天から天使が下りて来て。。それは第2テサロニケオーごめんんさい。
さて、第2テモテ3章8を見て下さい。パウロが話しています。そこから始めましょう。はじめの節からそしてしっかりと聴いて下さい。ご自身の聖書を持っているから一緒に読みましょう、もし聖書を持っていないならば、しっかりと聴いて下さい。
しかし、このことは知っておかねばならない。終りの時には、(終わりの時に下線を引いて下さい、その時にはこのような事が起こるのです)苦難の時代が来る。(我々はその時にいます)
その時、人々は自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、高慢な者、神をそしる者、親に逆らう者、恩を知らぬ者、神聖を汚す者、
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この様な輩が今の時代沢山いるのを見て下さい。腐った、ストリートにも若い人たちの中にもたくさんいます、彼等の髪の毛を伸ばして、前髪を女性の様に額に流してー変態的な倒錯者達ーソドムの者ども!(ホモセクシャル)
今月のリーダスダイジェストを読みましたか?それにはアメリカ人のその年になったら、20歳から25歳の間だと思っていました、ーそれはもう中年と同じ状態になっている。彼等はもう終わっていて。腐っている。科学者がそう言っています。その人自身は、彼の中年の年でした、そして情勢。彼等が20台前半で。。彼等の体は腐って来ていて、もうきたなくなってしまっているのだそうです。
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オーアメリカ、神様があなた方の上を跳んでいたのに、あなた方の時間はもう来ているのです。あなた方は世界を汚したのです。、神をそしる者、親に逆らう者、恩を知らぬ者、神聖を汚す者、
自然な愛を持たず、(お互いに対して、男性が女性に、女性が男性に、それだけでなく、性的にきたない) 無情な者、融和しない者、そしる者、無節制な者、粗暴な者、善を好まない者、
つまりは、「あなた方ホーリーローラー達」ある人が先日、ここのへきて教会に来ることについて尋ねていました。そして言ったのです。「そこに行ってはいけない、ただ煩い事を続けているだけだ」とこのような人を避けなさい。4 裏切り者、乱暴者、高言をする者、神よりも快楽を愛する者、
あなたは、「ブラナム兄弟、それは共産主義者です。さて次の聖句は何と言っていますか?
信心深い様子をしながらその実を捨てる者となるであろう。こうした人々を避けなさい。
その御言葉、イエスキリストは昨日も今日も、いつまでも変わる事は無いがその時の約束として、実現しています。
ちょうど、ハナニアの様に、ゼデキアの様に、バラムの様に、又他の偽預言者の様にです。
信心深い様子をしながら、(油注ぎ、形式を持ち、聖職者達に按手する)その力を否定する。
(その彼は昨日も今日もいつまでも変わる事がない、、そして彼の御言葉を否定する)
その時代に彼等はどの様にイエス様を否定したのでしょうか?イエス様を否定していた時、彼等は誰を否定していたのでしょうか?御言葉です。彼等は宗教的でした。彼等は彼らの聖書から教えていましたが、その時代の為の言葉を否定していたのです。それは今日の何でしょうか?同じ事、油注ぎ、ペンテコステの福音を宣べ伝える事しかし指定されたこの時代の為のその約束を否定しているのです。イエスキリストは昨日も今日もいつまでも変わる事がないのです。分かりますか?
彼らの中には、人の家にもぐり込み、そして、さまざまの欲に心を奪われて、多くの罪を積み重ねている愚かな女どもを、とりこにしている者がある
「我々は団体をまとめていて我々の何某が」誰かがやってきてその御言葉を間違って解釈しようとするのです、そしてこういうのです。「それは大丈夫、姉妹、短髪でも。そんな細かい事に気を配る必要はないのです」分かりますね?「あなた方はこれを来て。それはしない、それは人の心が彼をあらわすのです」分かりますね。分かりますか、あなたはその悪い者、良く部会、きたない例によって油注がれているのを認識していますか?短髪でクワイアで歌っているかもしれませんが、御言葉に反する悪い霊をえているのです。その通りです。それが聖書が言っている事です。そしてあなたは言うのです。「私は短パンを履きますが、それが私を悪くはしません」誰であっても、もし女性が、男性を手に入れるためにその服装を着ているとしたら、それは神の目には忌み嫌われるものなのです。それは変わることの無い神がそういわれているのです。
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オー凄く沢山の事があります、それをどうやって通る区とが出来るのでしょうか、我々の時間は過ぎ去っていきます。しかしあなた方は何が正しくて何が間違っているかを十分に知っているはずです。そしてどのように、彼等にそれをさせる事が出来るのでしょうか?どのように出来るのでしょう?あなた方は、「何を騒いでいるのですか?」と言います。私はあなたに敵対する証人です!いつか裁きの日に、入る場所がなくなるでしょう。
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ミカヤがどのようにそれを止められましたか?もーーぜが叫んでそれをどのように止められましたか、そしてジョシュアと彼等が人々の中を走って、そしてレビたちが、彼の肩名をぬいって、彼等を殺す事にもなりましたね?彼らは同じことをただ続けていたのです。それは彼等はそれをするだろうという事を予見していたのです、そして彼等はそれをする事になります。それが「主がこう仰せになられる」からです、彼等はそれをする子tになります! あなたは彼等宗派教団が分かれて御言葉に来ると思いますか?それが主がこう仰せになられる」彼等はそうはしません。彼等は反キリストに入っていくのでしょうか?その通りです。それが「主がこう仰せになられる」なのです、彼等はそうします。あなたが何を言っているのですか?私は証人になる必要がありあなた方もです。信じる者全てがです。さまざまの欲に心を奪われて、多くの罪を積み重ねている愚かな女どもを、とりこにしている者がある。気を付けて下さい。
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「すべての残りの女性達がそうします」偽預言者達、さて、聴いて下さい。私が話している偽預言者達の事。さて、終わりの時に彼等は何をするのでしょうか?愚かな女たちを多くの欲や罪に導くのです。
「わて、私は残りの女性達を知っています」分かりました、どうぞ。
ここカリフォルニアでこの大きな事が起こるちょうど前に私は何を言いましたっけ?あなた方、ここロサンゼルスに居る人たち、毎年私はここにきているとき、ボブのヘアスタイルの女性が増え、よわっちろくなった男性が最初からいました、そしてもっと沢山の説教師が組織に行きました。あなた方に言い訳はありません!ソドムとゴモラになされた神の怒りの技があなたがたにされていたなら、まだ、ソドムとゴモラのほうが、ましだったでしょう。オーカペナウム、あなた方は自分の事を天使の名をつけて呼ぶが、ロサンゼルス(天使の街)」何が起こったのでしょう?分かりますね。彼女は海の底に落ちる事になるでしょう。いつ?それはいつになるかは分かりません。でも必ずそうなるのです。若い人達、私の時代に見ないとしても、あなたは見ることになります。彼女は落ちるのです。
彼女たちは、常に学んではいるが、いつになっても真理の知識に達することができない。
さて、ここはかなりショッキングです、ここがショッキングなところです、これを聴いて下さい。
ちょうど、ヤンネとヤンブレとがモーセに逆らったように、こうした人々も真理に逆らうのである。彼らは知性の腐った、信仰の失格者である。(もちろん、聖徒に解放されているのです)
「彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる」
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信仰の失格者。フーン! 失格者の意味が分かりますか?スコフィールドの聖書を持っていたら、そこには、「h」があります。そこに書いてあるのは、「背教」背教者の事です。そういう意味なのです。
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さて、ちょっと待ってください。ここでちょっと見せたいものがあります。正しく書きだしたと思います。でもはっきり分かりませんが、そのことを言いたいのです。そして言う前に見たいのです。さて、ちょっと1分だけ。真理に関しての失格者、信仰に関する失格者。その信仰。信仰とは一つしかありません。その通りです。信仰の失格者。
さて、ルカ18章を読みたいのです。1分だけです。そこを開けなくてもいいです。そこを読む必要はありません。
また、イエスは失望せずに常に祈るべきことを、人々にたとえ話で教えられた。
「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わぬ裁判官がいた。
ところが、その同じ町にひとりのやもめがいて、彼のもとにたびたびきて、『どうぞ、わたしを訴える者をさばいて、わたしを守ってください』と願いつづけた。
彼はしばらくの間きき入れないでいたが、そののち、心のうちで考えた、『わたしは神をも恐れず、人を人とも思わないが、
このやもめがわたしに面倒をかけるから、彼女のためになる裁判をしてやろう。そしたら、絶えずやってきてわたしを悩ますことがなくなるだろう』」。
そこで主は言われた、「この不義な裁判官の言っていることを聞いたか。
まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか。
あなたがたに言っておくが、神はすみやかにさばいてくださるであろう。しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」。
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さて、質問はここにあります。私が得たのはこれです。黙示録の10章、数分でそこに行く前に他の節で、彼は言いました。(黙示録10:7節)第七の御使が吹き鳴らすラッパの音がする時には、神がその僕、預言者たちにお告げになったとおり、神の奥義は成就される」。ここに質問があります。「この時代のに従っているとしたら、それは成就するのでしょうか?」信仰は見られるのでしょうか?マラキ4章がこの時代に成就したとしたら、この信仰が父に戻り、、その元の物に、、御言葉に?分かりますか?と
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信仰からの堕落者達!ヤンネとヤンブレが敵対したように、さて、ここも聴いて下さい。第2テモテ3章8節 ちょうど、ヤンネとヤンブレとがモーセに逆らったように、こうした人々も真理に逆らうのである。彼らは知性の腐った、信仰の失格者である。つまりは週末にも、これらと同じような失格者堕落者が来る(さて、ここで何を言っているか分かりますか?)信心深い様子をしながら、つまり油注がれた者達。さて、もう一度、家に帰ったら、自分で戻って読んでみて下さい。そしてこれをもし出来るならば、今朝の内に終わらせます。
失格者の関して言えば、生き方については失格堕落者ではないのです、彼等は偉い、文化的な人々なのです。
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さて、気がついて下さい。モーゼがエジプトに、「主がこう仰せになられる」というメッセージを持って下った時、そしてそれは指定されていました、イスラエルを呼び出す為、それは一つの民で、一つの教会ではありませんでした。イスラエルは民でした、彼等は決して一つの兄弟ではありませんでした。教会の意味は、「呼び出された者達」だからです。彼等は神の人々でした。そして、彼等が御言葉の下に、油注ぎされた者になった時、呼び出され、彼等は神の教会となったのです、阻止tえそれから背教したのですというのも、彼等は神の御言葉を信じずに、偽預言者の言う事を聞いたのです。それがはっきり皆さんの中に入り込むように望みます。イスラエルは神の民で神の手の下で出て来て、御言葉によって油注がれ、神の力と共に、神の印と奇跡を見て、そして神が彼等の中に移られたのです、ある偽預言者が入り込み、油注がれていましたそして元々の神の御言葉とは反する何かを教えたのです、彼等はそれを聞きました、彼ら全ては荒野で滅びました、3人を除いて!今、しっかりしてください!
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「ノアの時代に、8つの魂が、水から救われたのです、人の子が来るときも同じ様になるであろう、それはロトの人のに、ソドムから3人が来た、そして人の子が現れる時にも」聖句を読んでいるだけです、主の言葉です。天地が滅びても、、、それは少数派になります。
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気がついて下さい。ここで、モーゼはアロンの所に行きました。モーゼは神になったはずでした!神は彼に神なると告げたのです!言われました。「あなたが神になって、あなたの兄アロンをあなた方の預言者とする。彼の口に言葉を渡しなさい、あなたが上手く語れないというならば」言われました。「誰が人をおしにしたのですか?誰が人を話せるようにしたのですか?」主がされました。そして彼はそこに歩いて行きました。彼は何をしましたか?彼は神が彼にする様にと告げた、本当の奇跡を行いました。「あなたの杖を下ろしなさい」と神は彼に言われました。それを拾いなさいそしてそれはサーパントでした。彼は拾いましたそうするとそれは杖に戻りました。言われました。「それをパロの下に行ってやりなさい」そして言ったのです「主がこう仰せになられる」
そしてパロがこれを見た時、「なぜ何て安っぽい手品のようなものだ」と言い「それは何でもない、何か精神的な診療みたいなものだ」「我々の組織にも同じことが出来る物が居る!ここに来てください、司教何某、そしてここに出て来て来なさい。我々も同じことが出来る人がいる」それが悪魔がパロに話しているのです。それは神がモーゼを通して話している事なのです。
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しかしこの出て来ている人を見て下さい。ヤンネとヤンブレはモーゼの前を歩き去りそして公的に人日おtの前を歩いて、モーゼが出来た全ての奇跡を行いました。彼等はもし出来るならば選民をも惑わすのです。そうではないですか?モーゼと同じ事をやるのですから。分かりますか?今覚えていてください。「聖句がこう語っている」終わりの時もそれは繰り返されるのです。モーゼとヤンブレの間に会った違いは何でしたか?
モーゼは言いました「血をその水の中に来させよう!」
そしてこれらの偽預言者達は、「間違いなく、我々のその水の中に血を入れましょう」そしてそれが起こったのでした。
だからモーゼは言ったのです「のみに来させよ!」と彼は何をしようとしていたのでしょうか?神から直接聞いたのです分かりますね。そして彼は何をしたのでしたか?彼は言いました、「さて間違いなく、我々はの実も連れてこられる」おっして彼等はそうしました。モーゼはどんな奇跡もできたのでした、彼等も層でs来たのでした。覚えておいてください。我々はしばらくしたらその話をします。彼等は残りの彼等が出来る事は何でもできるのですが、御言葉に留まる事が出来ないのです。御言葉を守れないのです。
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さて、気がついて下さい。彼等はそれをやりました。しかし神に送られた本物の預言者であったモーゼは、神の命令を受けていました、彼はそれについて文句を言ったり決してしませんでした、「ほらお前にはそれは出来ない」と言ったのです。あなたには出来なかったのです」彼は彼等をただほっておきました、続けさせたのです。彼等は組織の預言者で来たが、続けていたのです。モーゼは新しい事をしました。彼等がそれをしている時、彼等の一人は何かセンセーションがあったのか、ここに彼は来ました。彼等はそうしたのです。間違いなくそれはモーゼがした足跡の様なものです。
98
さて、気がついて下さい。これらの人々は、あらわれていました。皆さんに見逃してほしくありません。これらの人まね、人まねの者たちは、本物のがあらわれた後に、来るのです。彼等はまねるために来るのです。分かりますね。彼等がしなければならない事。悪魔は何も創る事は出来ません、彼はオリジナルをまねておかしくするのです。そして罪とは何ですか?義がおかしくされた者です。姦淫とは何ですか?正しい行為がおかしくされた者です。嘘とは何ですか?真理が間違って解釈された者ー変態的な考え方にです。
ハナニアを見て下さいーもともとの御言葉をおかしくしています。バラムを持て下さい。もともとの御言葉をおかしく変えているのです。ゼデキアを見て下さい。もともとの御言葉を変換しておかしくしています。そして聖書は告げているのです、これらの人々は元々の御言葉を変えるためにつまりは神が指定し真理だと証明されている物の後におかしくするものが出るのです。
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「伝道者の業をなし(遠くの彼方の角に)自分の務めを全うしなさい。時が来ると人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、」彼等は何でも自分たちが欲しい者からやり始める。「同じ印と奇跡を得た」「そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。」-教条。
100
オー聖霊の気づき、その畏敬が人の魂を打ち、彼が我々の前にある本物で単純なものを思う時になるのです。33年前に置かれた、頭石を掘り起こしてそこに置かれた紙を読んでみなさい。神が7番目の通りで彼方に超えてその朝この頭石が置かれたときに何を言ったかを見て下さい。それを機をツk手見て下さい。ここのかをを超えて、主の天使が火の柱の形で降りて来て、何百もの協会あるいは教会の人々がその川岸の周りに立っていました、神は言われました、分かりますね、もしそのことが起こったら。何が起こっているかが分かります。それはそんなにも難しいのです。それは難しく見えるのは分かります、そこにいる兄弟達しかし、聖書を告げています、イエス様ご自身が言われたのです、出来るならば選民をも欺こうとする。それには回り道はないのです、彼等はそれを見る事は出来ません。もし出来るならば、選民もそれに欺かれる可能性があるのです。
101
気がついて下さい、こういう人々は神の本物の油注がれた者が送られた後に現れます、神の本物の預言者モーゼ。そしてモーゼが何かをしたら、彼等はそれをまねたのです。
102
さて、兄弟姉妹、私は、これは私自身の教会です。もし御言葉からである限り、どんなものを説教してもその権利があります。そして皆さんを批判するつもりはありませんが、我々が今生きている時と時間を調べてほしいのです。
ラデル兄弟と、ジュニアジャクソンに挨拶を送ります、そしてそこに彼等が居ると思います、我々の兄弟教会の人達に、彼等の事をしばらく前に忘れていました。彼等は今朝教会にスペースがないので、電話でつながっていると思います。
103
今、そのことをただ考えて下さい。彼等はモーゼがしたのと同じ奇跡をしたのです。モーゼはノミを連れてきました、彼等はそれをまねてノミを連れてきたのです、分かりますか?
神は言われました「それを、食べた日に、その日あなたは死ぬであろう」サタンは回ってきて言います「間違いなくあなたは死なない、より賢くなるだろう。より良い組織を持つようになるであろう。より良い、(分かりますね!)全てがより良くなりますよ、より光を持つようになります」ただの狂わせなのです。そして覚えて下さい。「主がこう仰せになられる」第2テモテ3章18節によると、このヤンネとヤンブレが地上にいるのです。さて、二人いるのに気が付いてほしいのです。-ものまねをする者達。
さて、しばらくしたらソドムに戻りますそして3人の天使が下りてきたのを見つけます、その物まねなど。正しいものと間違っているものを。
104
気がついて下さい。彼等は同じ奇跡を行いました。しかし気がついて下さい。彼等は本物の御言葉を神が送った油注ぎされた預言者をまねしたのです、2番煎じなのです。
もし我々がちょっと考えたらと思いました。その日と火と母それほど前でなく、20年ほど前に、手によって取り上げましたそして印が顕されました。わぉ、もっと多くの印がその事の上に在りました。そしてみんなは、、、彼の右手に浸り手に入っていき、他の一人はにおいを感じました。色々種類の者達、そして思ったのです、神はこの時にあなた方に話しをさせないでしょう、本当の真理が何なのか、然しある日あなた方が見つけることになります。それは彼等が愚かさをあらわしただけでした。それは初めからではなかったのです。主が許されれば、いつかそのことをお話しします。
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気が付いてください。彼等は同じ奇跡をしたのですが、彼等は、オリジナルの御言葉が先にするまではそれをしなかったのです、気がついて下さい。それがサタンがエデンの園でやったことです、それが彼がいつもやるやり方なのです。誰が先に預言しましたか?モーゼが最初のシーンに来ましたか、モーゼでしたかバラムでしたか?初めに来たのは何方でしたか、エレミヤでしたかハナニアでしたか?私の言っている意味が分かりますか?
気がついて下さい。彼等はまねたのでした。肉的な物真似、誠実で、彼等はデービッドが(先週話しました)した様に神への礼拝をしていると思っているのです、然し肉的な物真似かなりすましなのです。私は1分ほど待っています。これらの場所の間で皆さんに考えてほしいのです。もし私が言わなければ、聖霊が特に選民に顕されるのは間違いありません。
106
パロの宗派はこういいます。「我々にも同じことができるひとがいる」そして、彼等はやったのです、分かりますね。どうしてパロはこんなことをしたのでしょうか?神はなぜそれを許されたのでしょうか?神は本物の油注がれた預言者をそこに送り、パロの前で印をさせて、そしてその後宗派の真似事がやってきて民の耐えでそれをやらせたのでしょうか?神はなぜなりすまし物真似が立ち上がり神の純粋な御霊がしたのと同じ事をさせたのでしょうか?分かりますね、聖句は成就しなければならないのです。
107
気がついて下さい。彼がこれをしたのは、パロとエジプト人の心を頑なにして、モーゼだけが御言葉を持っているわけではない事を証明して、彼等は皆モーゼが出来たことが出来ることを証明したのです。そしてなぜ神がこのことを終わりの時に起こらせているのでしょうか?そうすれば、同じことが嘘つきの霊がゼデキアに言った様に。「どのようにしてアハブをそこに連れて行ってこれらの事を起こる様にするのであろう?」「どのようにして神はこれらの人々が彼等の教会を出て、このラオデキア教会時代において神が予言した事が起こる様にして信頼させるのだろうか?「あなたは、自分は富んでいる。豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。
そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金と油を買い、」彼は油と金と言われています。彼はなぜそういわれたのでしたか?この終わりの時にこのもの苗を建てられて、これらの事が本物の神の御言葉を跳ばせて、同じことをして本物の神の言葉を否定するようにさせたのでしょう?モーゼの為に彼はされました、そしてパロはモーゼと他の者達にも反対しました。ヤンネとヤンブレーそれはモーゼに敵対しました。そして聖書は、それは終わりの時に繰り返されるであろうと言っています。今我々はここでそうなっています。さて、もしそうでなければ聖書は成就しません、今我々はどこに居るのでしょうか?
108
さて、モーゼは、彼等に向って「ヘイヘイ、そんなことをするなよ、わたしだけが、それをする様に按手されたんだ。今すぐ辞めるんだ!」と言いましたか?彼はただ彼等にそれを続けさせたのです。覚えていますか、聖書は言っています「9 しかし、彼らはそのまま進んでいけるはずがない。彼らの愚かさは、あのふたりの場合と同じように、終わりの時に多くの人に知れて来るであろう。」花嫁はその時携挙されて空中に連れていかれています。
覚えて下さい。
109
モーゼ、その真理である顕された御言葉は、何も言いませんでした。ただ進ませたのです。しかし彼はパロの心を頑なにしてパロを欺くことが出来る様にしたのです。全く同じことをしてアハブを欺くことが出来ました。そして小さな人がそこに一人で立っていました、ミカヤは彼等に言ったのです。「主がこう仰せになられる」ここで他の油注がれた者が立って、「主はこう仰せになられる」とお互いが反目状態でした。
110
我々は今日ここに「主がこう仰せになる」と共に立っています。終わりの時での水の洗礼をイエスキリストの御名によって施す事、他の人が立って奇跡を行いそれが三位一体信仰者である事。聖書に三位一体という言葉があるならば見せて下さい。3人の神がいる場所があったらそれを見せて下さい。そのような事があるならばそれを見せて下さい。それは神の御言葉ではありません。父と子と聖霊の名によっての洗礼をされたそのタイトルを使って洗礼を受けた者はありません。これら全ての事で「オー大丈夫、姉妹、それは大丈夫、髪の毛が実近いのも、大丈夫。これもあれもそのほかもやらなくていい。オーそれはナンセンスです。古いやり方ですよ」しかし聖書には、そして彼は終わりの時に約束されているのです、神はエリヤの霊を送る、人々を呼ぶ、神の子供達を御言葉が始まった時の初めの信仰に戻す。その御言葉は、終わりの時に、人の事がいる事を確証します、ソドムの時と同じなのです、昨日も今日もいつまでも変わる事がない方です。神がそれを約束されたのです。それが神の約束なのです。「主がこう仰せになる」
111
気がついて下さい。彼らは同じことをしました、モーゼがしたのと同じなのです、神は十分お持ちでした。さて、覚えておいてください、「主が逢瀬になられる」それはこの時代に常住されるのです。さて、世界を見て下さい、すべてのカルト、すべてのクラン、すべての人々、すべての教会を見て下さい、キリストの名前によって、お願いします、あなた方説教師たちへ。新聞を読みあるいはどこに行くかを決めるそして今それが地球上にないならば、お願いします。そしてマタイ24章24節は、間違いなく事実なのです。偽の油注がれた者達が終わりの時に立ち上がり、偽預言者になり沢山の人々を欺くでしょう。今の状況を見て下さい、分かりますよね。多くの人々を欺くであろう。預言者達(複数形、偽キリスト達、偽の油注がれた者達(複数形)。多くの異なる者達、メソジスト派、油注がれたバプテスト派、そしてペンテコステ派、そして他にも。分かりますね。しかしそこに純粋なキリストの御霊が一つあるのです、そしてそれが御言葉が肉にならせた方がそうすると約束されたのです。
さて、我々はもう少し多くの聖句を読んで進んでいきます。
神が十分となるまで、そしてそれは終わります。愚かなものが顕されているのです。
112
気がついて下さい、おぼえていますねからはちょうど麦の実と同じように見えますね。さて、ルターの時代に戻ると言えなかったのです、その茎が麦だとは、まだそれはその中に命を持っていたからです。茎は大丈夫でした。茎にある命は、大丈夫でしたが、覚えていてください、命は上昇して言ったのです、エリアからエリシャへ。その命は引き続き伸びてきています。しかし覚えていてください、それは別の段階にいるのです。同じ段階に居続ける事は出来ません。我々は、他の時代の腐った肉を食べる事は出来ません。ペンテコステの腐った肉を食べる事も、メソジストやバプテストの物をも食べられません。分かりますね。我々は新鮮な食べ物があります、この時代から先への御言葉がです。
113
覚えていますね、殻はちょうど麦の実のようです。それがただの殻の様には見えませんでした。穂の中にいる様には見えませんでしたが、空の様に見えました。それはルターの時には、イエスキリストは昨日と同じようには見えませんでした。ウェズリーの中では同じように見えませんでしたが、ペンテコステ派まさにそうでした。それがもし出来るならば選民をも欺くという事だったのですね。あなた方の時代の事です。
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しかし覚えておいてください、終わりの時のペンテコステ派の教会はラオデキアなのです、キリストはその殻粒を離れられたのです、その麦自身に対して。彼が試されたとき、彼が教会の中に彼自身をあらわそうとされたとき、彼は取り去られてしまったのでした。それは今も一つの教会で死が、油注ぎされていると言っていました。しかし、御言葉がここにあり、キリストご自身が、その油注がれた御言葉は彼の残りの体、その花嫁の所に来るのです。同じ水によって注がれていた、水を貰っていた、麦、前にも話しましたが、同じ水が毒麦にも蒔かれていました、つまりは油注がれた者。選ばれた者かあらかじめ定められたものはその違いをその間で見出すことが出来るようになるのです。さて、エペソ5章1節がそう告げています。それがどういう風であったかについてです。
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彼等は油注がれた者達です。皆言うのです「神に栄光!」我々はここに自由があります、ハレルヤ! オーハレルヤ!異言を語り、飛ぶ。我々は女性としての自由を得ています。あなた方はそれらを使おうとしますオーこの様な種類の事。」分かりますね、どうぞやってください。何もできない事はありません。「さて、我々は異言で語り、叫び、御霊の内に踊り、御言葉を告げ知らせます」間違いなく! それに敵対する事はありません。さて、聖書中のこれらの人々もそうしました。イエス様は言われました、もし出来るならば、選民さえも、そのまさに選民さえも欺こうとする。
116
さて、気がついて下さい。もともとの種からの殻がそのグラウンドに行きました、それは組織ではなかったのです。その種地震でした。しかしそれが上がってきたらそれは実ではなかったのです。それは組織ですね。(分かりますね)葉っぱ、粒。そしてそれは他の段階に入っていきました、それは、穂でした。まだそれは始まってスライ内容でした。それは組織だったのです。殻の中に入っていき、多くの葉っぱをつけました、ペンテコステ派、ほとんど今、形作られている様です。見て下さい、いつもその形はとっていて、ほどんど同じように見えます。麦の実と全く同じように見えるのです。しかし最終的に、それは組織がない事をあらわすのです。運ぶもの持いません。組織はただの運ぶものなのです。運ぶものが居なければ、茎は死ななければならず、空も死ななければならず、全て他の物も死ななければならないのです。彼等は初めであり終わりになるのです、それが復活の体で、来られたらすぐに彼等を連れていかれるのです。終わりの物が先になり、初めのものが終わりになるのです。復活の直前に拾うのです。これについてきていますか?
良いですね。
気がついて下さい。その実は、、、
117
その殻はちょうど実の様に見えます。そしてある人は、小麦農場を立ち上げるか何かその様な事をして。「賛美神様、麦を得ました」というのです。一つの麦も得ていないのに。全く麦と同じように見えますが、それは殻なのです。
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さて、友よ。私と一緒に戻ってください。初めのリバイバルが小麦の為が地に、体、キリストの花嫁に落ちたその後に起こる場所はどこですか?キリストは彼の花嫁を組織化しました彼の教会、(そうですか?)彼は決して組織化はしませんでした、彼がしたのは使徒と預言者などを置いて教会を綺麗に保つことをしただけです。しかし、ローマの理解あで306年後、彼等は組織をそれから作り上げたのでした。そうではなかったですか?そしてそれは死にました。全て、その教会と合意しない者達は殺されたのでした。そしてルターが立ち上がるまでの間何百年もの間その状態が続いて種は土の中に眠っていました。最初の小さな芽が出てきたのです。そしてその後、そこに上がってきて、ツウィングリなどが出て来て、他の組織などが上がってきました。そしてしばらくして、聖公会も出て来て、そしてそれから何が起きたのでしたか?ウェズリーが新しいリバイバルと共にやってきたのです、それが穂でした。それは麦により似ています。そしてそれから何が覆ったのでしたか?それも組織化されて、乾ききり、死にました。その命は殻に行ってしまったのです。そしてその殻はほとんど麦の様に見えたのです。しかしついにその愚かさは最後の8年か10年実は最後の3年間で顕されてk他のです。さて、それはどうしているのですか?麦から放されるのです。
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さて、この大きなリバイバルの過去20年間にわたって、一つの組織が作られていないのは、なぜでしょうか?油注がれた預言者達、油注がれた教師たちなどなどしかし、なぜないのでしょうか?麦を超える物が何もないからです分かりますね?それは組織なしに建てられているのです。オー何と素晴らしい。目蔵が見えるようになるのです!組織化など出来ません、それは凄くそれに反対しているのです。それは麦の実その物なのです。人の子その方が顕されるのです。麦の実はそれ自身が再び戻ってくるのです、終わりの日に人の子が現れるのです。「そして終わりの時には、偽のなりすましがあらわれて、もし出来るならば、選民をも惑わそうとする出去ろう」彼等の組織の殻が今取り去られているのが分かりますね。
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それは唯一麦だけがその選民として知られてその部分になるからなのです。
気がついて下さい、今ここにこれが齎された事の美しい事を。勇逸、気がついて下さい、油注がれた者達が、できる、、、真の選ばれた者、あらかじめ定められたもの(エペソ5;1或いは1;5、)だけなのです。定められ、選ばれた者達、彼等だけが欺かれない者たちなのです。気がついて下さい。その油注がれた預言者達は偽物になるのです。そしてその中に真の油注がれた者がいるようになります。どのようにしてそれが言えるようになるのでしょうか?御言葉によってです。影の中にいるようにです。それが分かりますか?「アーメン」と言ってください。分かりますか?
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気がついて下さい。その油注がれた者、御言葉のみが彼等を分けることにあるのです、印ではありません。いいえ違うのです。彼等は同じ印をする事になります。しかし御言葉が彼等を分けたのです。間違いないです。彼等は皆預言します、彼等はこれやあれやをしましたそして他の事を間違いなく、ただ同じだったのです。イエス様は言われました。彼等は同じことをするであろうと。しかし御言葉が彼等を分れさせるのです、気がついて下さい。印ではありません。
イエス様がここマタイ24章で言われていることに気が付きましたか?「終わりの時には、偽イエスたちが起こるであろう」オー何てこと、彼等は決して落ち着いてはいません。いいえ! ペンテコステ派がありました、本当のペンテコステ派の人は彼自身がイエスだと言います、分かりますね、偽のメソジスト、あるいはバプテストあるいはそういった人々あるいは組織の一つは言います。「我々はイエスである」彼等はもっとよく知っているはずです。彼等はそんなことはしないでしょう。しかし聖書は言っています、彼等が偽キリスト、いいえイエスたちではなく、偽キリスト達になるのです。彼等は「私はイエスだ」と言って認識されることはありませんでした。 いいえ!
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しかし彼等は偽キリストでそれを知らないのです、というのも彼等は御言葉に反しているのです。そして神はそれを同じ様に指定されています。今、私はこれを対決として持っていきますというのは、同じことを人々が実際にやっているのを見たことがあるからです。そしてイエス様はそういわれました。
さて、私が言った様に、今、電話で聞いて居る人たち、あなた方に敵対していませんが、これは私の教会ですそして私のグループで聖霊が私の上におられ、そして彼等に真理を告げる事になっています。その時間はかなり遅くなってきています。
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さて、彼等は我慢がならないのです、然し偽キリスト、偽の油注がれた者達、ほとんどすべtネオ印と御言葉の全ての文字がです。「彼等は聖霊のバプテスマを信じたのですか?」間違いなく!「これらの事全てを信じたのですか?はい!「異言を語る事を信じたのですか?」はい「印や奇跡がある事、印が彼等に従う事?」はい。それはメソジストではありません。それはバプテストでもありません。いいえ。それはペンテコステです。これは終わりの時なのです。さて、その初めの教会時代は、それを気づいていませんでした。メソジスト教会時代はそれを気が付いていませんでした。パブテスト教会時代も、彼等はそれに気が付いていませんでした。恭朗は教会時代も、それに全く気が付いていませんでした。しかしペンテコステ派は、本物にかなり近いのです。それが麦があるばあしょ、その殻はほとんど麦の様にみえるのです。彼等はそれを気が付いていませんでした、分かりますね。彼は気が付きません。しかしそれは終わりの時、この時代なのです。はい!
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気がついて下さい。ちょうど、始まりとのようです、だから終わりもそうなるのです。エバが、一つの言葉を誤解したのです、サタンがエバに言った事で、そして彼女が死んだのです。彼女はそうならない。教会は、彼ではない、分かりますね、教会は偽の言葉を得たのです、分かりますね。アダムではなく、エバです。キリストではなく、教会、花嫁、油注がれた者、そうああるべきもの、彼女自身を花嫁と呼んだもの。彼女は偽の言葉を得たのでした。分かりませんか?なぜ、それが靴紐の様につながったのでしょう、あなたの目のまつ毛の様に。なぜ、全ての事は、聖書を見るのです、ちょうどまつ毛がある様に。エバ、アダムではないのです。エバがそれを信じたのです、アダムではありません。いわゆる今日の花嫁はそれを信じたのです、キリストではないのです。花嫁にはいろいろな種類があります、いわゆる花嫁、同じ印、同じ奇跡、同じすべtネオ物しかし、それは本物ではないのです。もし出来るならば選民をも惑わす。
さて、早く行きます、もし、私たちがこれを15分以内に終えられれば、時間通りです。気がついて下さい、今凄く終わりが近くなっています、さて、誤解がないように。。。
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さて、もちろん、彼等は偽イエスと呼ばれることに我慢しません。彼等は、イエスと呼ばれることにも勿論、それは凄く単純です。誰もがそれを知っています。誰でも彼等がイエスでない事は分っています。油が彼等の後ろにあろうが、彼等の手に血があろうが、目が上がったり下がったりしようが、彼等はまだわかっています、私は気にしません。誰でもよい感覚を持っているならば、それがイエスではない事を分っていますね。彼等はそれに我慢できません。しかし彼等は自分たちを油注がれた者達と呼び印や奇跡を行って選民を惑わそうとするのです。しかし、偽キリスト達、油注がれた者達が、起こり出来れば選民をも惑わそうとするであろう。
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さて、しっかり見て下さい。この声明を見逃さないでください、それは聞くに値するからです。(消えない様に、これをマイクにつないでテープに乗せようとしている、私は汗をかいていてテープに落ちていたから)
そしてそれはちょうど聖書がそう言っている様に、分かりますか?
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気がついて下さい、偽イエスではなく、偽キリスト達。彼等は、油注がれていると信じていますが、彼等は彼等がイエスでない事は分っています。分かりますね?それは単純です。もし人が上がって行って今日、「私の手の傷を見て下さい、私の眉毛を見て下さい。私がイエスです」といったら、我々はそれは間違っていると分かるのです。そして覚えていて下さい、イエスさ派、彼等があらわれるとは言われませんでした。彼が言われたのは、偽キリスト達(キリスト達ー複数形)があらわれる、宗派教団など、油注がれた者達、宗派教団の霊によって油注がれていて御言葉ではありません。それについて行きますか?偽イエスではなく、偽キリスト達、偽の油注がれた者達、分かりますね。オーかなり単純です、我々は間違いなくそれを見逃す事は無いでしょう。
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さて、覚えておいてください。いつもあなた方に話してきました、3種類の人々が居るという事。3つの種族の人日おt、ハム、シャム、ヤペテー3つの民族、3種類。そして私は言いました、それは信仰者、見せかけの信者、そして不信仰者。それはいつもいて、いつもいるようになるのです。モーゼが居ました、信仰者、ヤンネとヤンブレ、不信仰者、分かりますね。バラム、モーゼ、いつも3種類の人々が居るのです。3種類の人々、信仰者、見せかけの信者、そして不信仰者。
さて、覚えておいてください。その不信仰者ー宗派教団の教会ーいかなる印もまったく信じません:冷たく、公的で、カチカチ、世界にある教会、その宗派なのです。しかし、見せかけの信者は殻なのです。
それが見せかけの信者なのです。そして本当の信者が居ます、それが本当の本物です。さて、彼等が行くのでよく気を付けて下さい、ちょっと待ってください。
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そして気がついて下さい、これらの不信仰者達がいかに断端で、あるいはこれらの見せかけの信者と不信仰者達。何てこと、彼等は大胆です。見て下さい、悪魔でさえも、本物の御言葉の臨在の中で、こう言ったのです。「こう書かれている」そうではありませんか?なぜ悪魔はそうしたのでしたか?何故なら、彼はその御言葉が書かれた理由を知らなかったからです、神はその時の言葉だと知っていましたが、悪魔はこの小さな謙虚な方がその御言葉だという事を疑っていました、「あなたが神の御子ならば、私は神の御子が来ることを知っている、というおは、そうすると言っているから、そしてそれは書かれてくる、彼は天使に命令する」分かりますね。「証明しなさい、奇跡を行いなさい、それが出来るか見せて見ろ」ほらほらね?不信仰者、見せかけの信者、物真似のなりすまし。ユダが彼等と同じ時に彼等の中にいたのを見て下さいー見せかけの信者、分かりますね。気がついて下さい。そしてそこには本物の御言葉が居たのです。
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彼等は何と大胆なのでしょう。「そのナンセンスに注意を払う必要はない、何もする事は無い。そこに行ってはいけない。それはうす債だけだから。何もないから、ただのフィクションにすぎない、それはあなたの思いの中になる」ほら、私の言っている事の意味?御言葉の臨在の中に立ちながらそれを言っているのです。
サタンはそこに上がって行って、ユダ所のここに聖書の中にかかれています。大天使がサタンの議論している時でさえ言っているのです「主があなたを叱る」御言葉そのものに敵対しています。そしてここには反キリストが居ます、その油注がれた者が、その時代の純粋なる御言葉に反対して、イエスキリストに敵対して言っているのです。「そう書かれている」
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終わりの時の事を見てみましょう、それはとても良く似ていて近いのです、もし出来るならば選民をも惑わす。何てことでしょう。選民が惑わされない理由を知っていますか?というのは彼等は御言葉だからなのです、分かりますね。根に命が貼っている様に(そのことを前に話しました)それ自身を否定することは出来ないのです。それは御言葉で、その時の御言葉なのです。それが正しい事です。
エレミヤと同様です、彼は知っていました。ハナニアが何をいおうとも、彼はどこに居たかを分っていたのです。それはちょうどモーゼのようです、そして残りの他の人々もでした。彼は知っていました、どれだけ偽預言者が言っても、それは神の御言葉にかかれていると。それが理由で、ミカヤは言う事が出来たのです。「分かったそれではただ待ってみてみよう」
アハブ王は言いました「私は私の預言者達を信じる。私の組織は大丈夫。私が平安の中にいる時。その人を彼方の刑務所に入れておけ、私が彼の世話をする。悲しみのパンを与える、彼を出て行かせる、彼にはもう何の交わりもなくなる。平安の内に私が戻ってくるとき、我々がその男を世話するでしょう。
ミカヤは言いました。「あなたは全くもどらなないなら、主は私に話されなかったでしょう」彼は自分が「主がこう仰せになられる」を持っていたことを知っていましたそして彼のビジョンがまさに「主がこう仰せになられる」でした他の時の為ではなく、その時の為でした。アーメン!ハレルヤ!その時なのです!
大胆に立ち上がり、大天使と口論する。それは愚か者は打たれた靴と共に天使が恐れるところをもあるくと言われています。
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その理由は選民なのです、イエスは言われました、彼等は欺かれない何故なら彼等はその御言葉だから。彼等は他の者にはなれない。彼等は他の事を聞くことは出来ない。他の事は知らない。その通りです。覚えていますね、モーゼは全てのその物まねの者達と一緒に調子に乗る事はありませんでした。そうでしたね?モーゼは言いました。「さて、ちょっと待ってください、パロ、あなたは主が私にこれを言われたことをご存知です。しかし神に栄光。私はあなたの使い立が同じことが出来ることが分かりますさて私が留守事をあなたに言いましょう、あなたと一緒になりましょう」は!それは神の預言者の様ではないですね。いいえそうではありません!彼は強く立ち上がっていったのです、彼は神がどうにかして、彼を世話する事を知っていましたというのは神が約束されていたからです。「私はあなたと共に居てあなたを離れない」
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彼は知っていたのです。だから、彼は彼等に加わりませんでした。オー。彼は彼等から離れていたのです。彼は彼等の宗派教団は欲しくありませんでした。彼は神と共に居続けたのです。彼はこれらの事全てによってはしゃいだりはしませんでした。彼等が一つの事をしたとき、そして彼がシラミを持ってきたら、彼等もシラミを持ってきました、彼が血を持ってきたら、彼等も血を持ってきました。彼が全ての事をしたとき、彼等は彼の物まねをすぐに全ての事でしました。彼はただ静かに立っていました。彼は神が働かれている事を知っていたのです。今分かりましたね?2足す2が4になりますね?あなたはガチガチになりたくないですね。だからあなたは悟りますね。
何故、彼等がそれによって欺かれないのか、その真の信仰者は、彼等はその時代に立てるようにあらかじめ定められた種である子孫だからです。
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ただ、又、イエスはこれも言われました。「その時には、私の名によって、多くのものが来るであろう、「主よ、あなたの名によって悪霊を追い出してのは私ではないですか?」イエス様は言われました、終わりの時には、再び大きな復活がやってきて、多くのものが来てその三組に住むであろう、神の御国はあなた方の中に在る。多くの! その雑草は来て麦と共に座って言うのです、「さて、ちょっと待ってください主よ、私は異言を語り、叫びました。御霊によって踊り、悪霊を追い出しました、異言も語り、これら全ての事をしました」
彼は何と言いましたか?気がついて下さい。「不法を働く者どもよ、私はあなた方をまったく知らない」
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不法とは何でしょうか?誰かに尋ねて下さい。それは何かしなければならない事を知っていながらそれをしない事です。彼等は御言葉を聞いて居たので知っていたのです。あなた方はこのテープを聞いて居ます、このメッセージを聞いて居ます。主である神がそういわれて、神がそれを確証されそれを真実とされたのです。分かりますね。そしてこれは太陽が外に輝いている様に単純な事です分かりますねしかし、それはあなたの宗派はしがみつき続けるのです、それらの偽の事にです、不法を働く者達!
主は言われました「不法を働く者達よ、あなた方をまったく知らない。行ってしまえ」と
「さて、聖霊が私の上におられます」曽於事を疑う事は全くありません。「私は異言で篝、御霊によって歌います、私は、、」私はその事も疑いません。それには疑問はないのです。オー兄弟、姉妹。どんな城代でしょうか?これは揺り動かされている時なのです。我々は今どこに居るのでしょうか?この御言葉に命が来るのです。今なのです。目を覚ましてください。
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はい、神は、彼等がそうすると言われました。「あなた方、不法を働く者達」気がついて下さい。ここに聖句を書いてあります、私はそれがどこにあるかは知りません。時間を取っりました。ちょっとそれを見て行きます、そしてそれが何だったかをただ、見て言のです。マタイ7章21節を、それがどこにあったかを知りませんでした。時々、何かをそれで書いておくのです、さて、この様に伝道をしますーどの聖句を参照していたかを忘れていました。マタイ7章21節。
わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。
その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。
預言者達、油注がれた者達。そうですね?「我々は預言者ではありませんでしたか?我々は油注がれた者ではないのですか?あなたの名によって預言しませんでしたか?また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。どうして、イエスの名前によって洗礼をする事を拒否する事が出来るのか?何とい事、どれ程欺かれているのか?戻ったらはっきりしているものである。彼等は御言葉に行かないのです。さてこれを見て下さい。これについて話していきましょう。ちょっと待ってください。
2その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。(我々は預言者でした、はい、マタイ24章24節について話しましたね)そしてあなたの名前によって、悪霊を追い出した?あなたの名によって多くの業を?
『そしてそのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。
「それがあなた方の前に在り、ソsレを見て、それが動いているのを見て、それが御言葉だと分かっている時、そしてあなた方の宗派がそれにあなた方の為にしがみついている時。私はあなた方を知らない。どれ程沢山の悪霊を追い出したとしても、どれ程これやあれやをしたとしても、あなたについて何も知らない」
バラムは言いました「私はあなたの名によって預言をしそれは成就しました」
「それはその通りであるが、それが御言葉となる時、あなたはそれを拒否した」オー兄弟よ、欺きの部分が分かりますか?預言者というのではないのです、が御言葉であり、本物の御言葉、指定された御言葉が、あらわされるのです。「あなた方不法を働く者達、、、、」
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サタンは全ての時代において本物の御言葉のなり代わりになろうと指摘ましあ。我々はそれを知っていませんか?
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気がついて下さい。ボーダーラインまで来て、そして止めるのです。ここを見て下さい。へブルの6章で、彼は言いました。さて、我々はしばらく前に読んでいました。それに戻る様に言いました、そして次の数分に戻ります。彼は言いました。「しかし、いばらやあざみをはえさせるなら、それは無用になり、やがてのろわれ、ついには焼かれてしまう」ボーダーライン!「あなた方は天の賜物を味わった(味わうというのは、見たという事、口で味わう事は見なければできない)そしてあなた方はそれが真理だと知っていた、それは真理である)天的な賜物を味わうそして聖霊を受け取るものとなる、あなた方に下っている事、予期神の御言葉をアジ会う(アジ会う、それを見てそれが正しい事、そして聖霊が降っていた、その雑草は畑に会った)そしてその後、振り返って、キリストその物あなたを清めた方そして呼び出した方、そしてあなたの上に油注ぎされた方、否定したならば、その罪の為の犠牲はもうない」それは許されない罪なのです!彼等にとって、真の真理の知識にいたる事は不可能なのです。「聖霊を受けた者は不可能であり(雑草に落ちた者、イエス様と共に初めて、主よ、私はそれをしましたが、あなたが御言葉について話した時、あなたは振り返ったのです)聖霊の受け入れ者、そしてそれを味わったもの(あるいは御言葉自身が顕されたのもを見た者それから振り返った者は、完全に不可能なのです、彼等は見てきた者達。それが聖句が言っている事」さて、天地は滅びても私の言葉は滅びないと言ったそれなのです。分かりますね?完全に不可能なのです、聖書がそう言っています。御霊がそれを証しているのです。
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気がついて下さい。小さな例をあげさせてください。これらの人々を見てみましょう、モーゼの預言の下から出て、組織から出て、全て殻出て、預言の下に来て、大きな業と奇跡とその物事を見て、ほーだーラインに入ったのです。さて、リーさん、あなたの名前がその書にかかれています、分かりますね。あなたは直したのでした。あなたはここやらあそこやらに入ませんでしたただ、つながっているのです、リーバイリ博士、ここに座っておられます、彼がこの7つの教会時代のこの本の文法を直されたのです、そして問題が上がってきました、質問はあなたの名前が子羊の命の書から消される事、分かりますね。それは多くの聖職者たちにとって、難しいのですが、その本を読むまで待ってください、もしあなたの中に光を持っているならば、それを理解するでしょう。
気がついて下さい。さて、あなたの頭を回して、もしあなたがそれを欲しいか理解するかが見えないのです。私の母が以前に言った様に、「蕪から血は取れないでしょう、蕪には血はないから」
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気がついて下さい。その光は来なければならないのです、それは闇の中にはありません。その光は闇の中に来て、闇はそれを認めなかった。気がついて下さい。この時代の油注がれた者達。モーゼがイスラエルの子供達を連れて出た時、彼等は聞きました、そして彼等は皆大きな国がある事で混乱していました。さて、イスラエルは、宗派間の状態でした。土地も家もなく、添えれは家になる予定でした。我々は教会はありません、我々は、教会に行っています、その教会は初めて生まれた、栄光の内にある教会、人によって創られた教会ではありません、その教会は栄光の内にあり、呼び出された、永遠の命にあらかじめ定められたものの教会なのです。分かりますね。
彼等の家に行きます、そして彼等が超える場所にあくる時、彼等は御言葉を疑っていました。そしてヨシュアとカレブの後に戻って、彼等は神の御言葉が約束した時が、戻ってみて沢山の葡萄によってそれが彼等の土地だと証明されたのです。「それは良い地で超えた地、乳と蜜の流れる地」そしてこの側に連れて来て、それを彼等に証明したのです、そして彼等はそれを味わったのです、そして言ったのです、「我々にはそれは出来ない」何が起こったのですか?彼等は荒野で死んだのでした。彼等はそこに留まり、組織化して、死んだのです、彼等全員がです、ヨシュアとカレブ、言って戻った者だけが、生きていました。モーゼは連れていかれました、待っている教会の形式なのです、旧約聖書の復活です、新約聖書と携挙される方だ。3つのものがあるのが分かりますね?3つを並べておかなければならないのです、信仰者と不信仰者の中でです。
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気がついて下さい。それが完全な形でどうなっていたかを、、、神は決してその罪を忘れておられませんでした。さて、彼等はどの様に入ってきたのでしたか?それは茨として始まり、茨として終わったのです。あらかじめ定められた者達だけがそれを見るのです。
142
気がついて下さい。今、聖マルティンの時代のようです、ちょど暗黒時代の直前でした、ある信心深い小さな人が、聖マルティンについて読んだことがある人は何人いますか?多くの人が読んでいますね。私は聖マルティンについて書かれた者を得に行ってきました、その祭司は言いました「彼は聖人化されなかった」確かに、彼は彼等にはされなかったが、神によってされたのです。聖霊が我々は彼は3つ目の教会時代においてそこに置かれた人だと。
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小さな信心深い神の人が何だったかを見て下さい;召命され、あらかじめ定められていたのです。彼の両親は、異教徒でした、彼の父親は兵士でした。彼は彼のラインを兵士として従わなければなりませんでした。そして彼がそうした時、彼は常に神が居ると信じていたのです、どこか、森の人でした、神を見る事が出来たのです。ある時、彼はある街を通っていたのです、そしてそこに年寄りの乞食が死にかかって横たわっていました、誰かが訪ねたのです。それは寒い夜の事でした。「オー」「何か私にかける物を下さい」私は今晩死ぬだろうから。
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誰も何もしませんでした。そしてマーティンは彼の反対側に居てしばらく見ていました。誰も何もしなかったのです。彼だけが来^とを持っていました、彼自身も震える程寒かったのですー業務中でした。もしコートを彼にあげたとしたら。。そして彼は考えました、「両方とも生きるチャンスがある、もし私が彼とこれを分ければ」そして彼は自分のコートを取って、二つに分けて、それでその年寄の乞食を巻いて。彼自身も自分のコートで自分を巻いたのでした。
誰もが言いました「おかしな感じの乞食と、変な兵士を見て見ろよ、半分のコートを覆っているよ」
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次の番、彼が業務を終えて、ベッドに寝ているいて、彼が起きた時、その部屋にイエス様が古い布に覆われていて立っているのを見たのです。彼はすぐにわかったのです、「私の小さなものにしたことは私にしたことなのである、私の油注がれた者へ」そこに横たわっていた物。彼は偉大な神の僕でした。教会は彼を馬鹿にし、迫害し、追い出しましたそして全ての事をしましたが彼は神の預言者だったのです。彼の言った事を成就しました。その時代に多くの彼を信じた人々もいました。
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どれ程悪魔が欺いているかを見せたいのです。ある日、彼は彼の書斎に座っていました。大きな天使がやってきて、冠をかぶせ、金の靴を履き、金の衣でレースが周りにありました、そして言ったのです、「マーティン、私を知っていますか?」彼は言った、「私はあなたの主(小文字)であり救い主である。私があなたを救う物である。礼拝せよ、マーティン:しかし、その預言者はそこに何か小さなおかしなものがある事を知っていました、彼をずっと見続けていたのです。彼は言いました。「マーティン、私はあなたの救い主、イエスキリストだ、礼拝せよ、私を知らないのか、マーティン?」
マーティンはずっと見続けていました、聖句が彼の頭にきたのでした、彼は言いました「悪魔よ私から去れ」彼は言いました、「頭に冠をつけている、そして神の言葉は言っている、彼の生徒たちは、終わりの時に、彼に冠をかぶせるであろう」それはペンテコステ派のものですか?御言葉を見て下さい、兄弟。それが本物なのです。
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ある日、再び、修道院の中で、彼等にはそこに年取った聖徒が居ました、若い僧が宅さ似ました。そのうちの一人がある意味イライラしていました。これを見て下さい、ここに今日の為の良いたとえ話があります。彼は他の人よりも上に立ちたいと思っていました、彼は彼自身を見せたいと、主権、より何か大きい者、より良い者、全てオン赤で、何か偉大で大きな何か。伝統的にならなければなりませんでした。いつも、他の兄弟達の様にはなりたくなかったのです。分かりますね、彼は他と子とならなければならなかったのです。彼はどうあれ、何であれ、とても傲慢でした。彼は海岸の小石にすぎんか合ったのです、彼を触れるものは誰もいませんでした。さて、何が起こったかを見てみましょう。彼は何か大きなものを持たねばならなかったのです、大きな社会と比べなければなりませんでした。分かりますか?そして彼は言いました、彼は預言したのです、彼は言いました、「主が私を預言者にしました:」さてその地には認識された預言者が一人いました、それが聖マーティンだったのです。彼は預言者として生まれてきたのです。
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しかしこの子供、若い人は言いました、若い僧、25歳位ー彼は言ったのです、「主が私を預言者にした、それをあなたに証明するでしょう」そして言ったのです、「今夜主は私に大きくて素敵な僧衣を与えるでしょう、私に着せるのです、白い僧衣、そしてあなた方の間に座ります。そしてあなた方は私の所に皆来て、(ほら)そしてあなた方は私から命令を受けるのです。」
さて、今日と比べて、分かりますね、「私が組織の頭になる。私があなた方の僧のの残りを世話する」そして間違いなく、その夜その建物から光が着て、そして聖マーティンが書いたものにかかれています。読んでください! そしてそれは正真正銘のもので、歴史なのです。そして光が来て、そしてすべての残りは見られていました、そしてお子に、彼は白い衣を着ている人が彼等の中に立っていたのです。彼は言いました、「分かりますね、私が言った事?」しかしそれは御言葉とは反していたのです。
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そして彼等が行って、古い大学の学部長に会って、彼は歩いたり降りたり少しして言いました、「息子よ、それは正しくないようだ」と彼は言いました「唯一の道は一つ好かない(ここにあります)我々があ知るには一つの方法しかないのです。それは超自然的に見える」何てこと、ペンテコステ派はその根を掴んで、ライン、つながり全ての他の者を掴むのです。彼は言いました。「その奇跡は良いように見えるが、それは御言葉とは繋がっていない様にみえる。さて、我々にはこの方がいる、ある油注ぎを受けた預言者、マーティンという名前だ。来て彼の前に上りなさい」
その人は言いました。「いや いや マーティンはこれには全く関係がない」
彼は言いました「それでも君は行くのだ!」そして彼等は彼の腕をとってマーティンの所に連れて行きました、そしてその衣は彼から取られてしまいました。
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分かりますね。もし出来るならば選民をも惑わす、分かりますね。彼等は知っているのです。
イエス様は言いました、「私の羊は私の言葉を知っている」「オー」とあなたは言います「私の声を聞く」それは彼の言葉です。「人はパンによってのみ生きるのではなく、一つ一つの言葉によって生きる。分かりますね。あらかじめ定めら得た者はこれを知っています。おかしな言葉あるいはおかしな声に彼等は従わないのです。それがそれらのh地人がその時代に居たのですが、彼等は従いませんでした。彼等はマーティンがいる事を知っていました、その時代の預言者、神が認識し、御言葉によって、選ばれ、御言葉を知るもの。そしてその人は、彼の前に立ちませんでした。
151
彼は又言いました。「餌(あるいは御言葉)がその時期にあるところには、鷲が集まる」さて、それはもしあなたがそれを書きたいならばそれはマタイ24章28節でとちょっと前の24章24節です、4つ前の節です。もしそうしたいならば、「餌があるところには(マナが、その御言葉が)鷲が集まるものである」
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さて、私は急がなければなりません。そこを見て、そして時間も、7分か8分で12時になります。本当に早く急がないと、あるいは今晩終わる事ができるでしょうそうしたい方で、今朝か今晩。
礼拝の後、家に帰らなければならない人は手を挙げて下さい。何てこと、続けたほうが良いですね、電話にツ繋がっている人達ごめんなさい、急ぎます。お金よりも価値があるものです。私はそう信じています。あなたのお金は消えます。これは消える事はありません。御言葉ですから。
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「獲物のあるところには鷲が集まるものである。獲物があるところー殺されたところ、そこには鷲が集まるものである。新鮮な肉があるところ、その時代の為の御言葉があるところに鷲が集まるのである」
しかし、その後、それは腐るので、ハゲタカがそれによって来る。さて、私の意味は?捕獲があると、鷲が来るが、その後寝かして腐ると、ハゲタカがやって来る。鷲はそれとは何もしはしない。分かりますね。イエス様は言われました。「獲物のあるところ、まあが落ちるところ、マナがその夜新鮮な状態で落ちると、鷲がそこに集まるであろう」そのマナはその日の為だけなのです、分かりますね。気がついて下さい。
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しかしそれが腐ると、蛆がやって来るそして、ハゲタカが来るのである。彼等はそれが腐るまでその匂いに気が付かないのです。だからイエス様がそこに立たれて言われたわけです。「エルサレム、お前は全ての預言者を石で殺した」気がついて下さい、人物の複数形になっています。「ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。」 その偉大な教会エルサレム、
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そのエルサレムはここ地上を意味しないのですが、我々はエルサレムの上つまり御言葉が来るところ、あらかじめ定められたものの所(分かりますね)古い死すべくエルサレムではなく、死なない新しいエルサレム、人の手によってたてられた古いエルサレムではなく、しかし神によってたてられた新しいエルサレム:その御言葉がそこに在り、今、あらわされているのです。「 わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから」その創造主が金の通りなどを創られているのです。それは決して滅びる事は無いのです。
156
「エルサレム、エルサレム、行く度、私が、(時の初めから、第3者でもなく、他の人でもなく)私が雌鶏が翼の下でそのひなを集めるように、然しお前は応じなかった。しかし今、あなたの時は来た」分かりますね。獲物があるところには、鷲が集まるのです。しかしその獲物が腐ると、ハゲタカが集まるのです。分かりますね。
157
気がついて下さい。モーゼは神の子供達には与えませんでした、モーゼは鷲だったのです、そして、彼は神の子供達にノアの残り物は与えませんでした、彼は新鮮な神の御言葉を持っていたのです。「主が私に荒野で会われて、彼の言葉を確証された、そしてここにあなた方を呼び出した」そしてなりすましが居たのです、それを物真似していたのです、分かりますね。しかし彼はその時代の御言葉を持っていませんでしたごいうのも、神はアブラハム、神の約束を持っていた人に言ったからです「「あなたはよく心にとめておきなさい。あなたの子孫は他の国に旅びととなって、その人々に仕え、その人々は彼らを四百年の間、悩ますでしょう。しかし私は彼等を尋ね求め、そこから力強い手を持って裁き、多くの財産を携えて帰ってくるでしょう」
158
モーゼは言いました。「さて、主なる神が私に言われ、見せられるであろう、そして何をするかを告げられた。そしてそれをあなたに言うであろう」言われました。「私は送られる」「送られたではなく送られるあるいは送られるであろうでもなく、現在形の送られている」その御言葉をです。その御言葉は北でおこれから来るでもなく、それは今なのです、分かりましたか?「私はあってあるもの」それは御言葉なのです。「初めに言葉があった、言葉は神と共にあった」そうですね。「あってあるもの」「神は私を彼の預言者としてこの時代に指定して送られたこれは真実である:この御言葉の答えは私である、私に来てここに来てこれを行え」
そして彼がそれをしたとき、パロは言いました、「さて、我々のグループにはそれと同じ事が出来る者達が十分にいる」なりすましの物まねども。イエス様は言いました。「さて、終わりの時には同じことが繰り返されるであろう、同じことを要求する者ども」しっかりと見て下さい、誰が先に来たのか。御言葉に誰がとどまっていたのか。それによって知られているのです。 だからしっかり見て下さい。
159
さて、気がついて下さい。モーゼはノアの時代のものを決して彼等に与えませんでした。「我々は今箱舟を建てる、というのはそれが御言葉だからである。分かっている様にノアはある日箱舟を建てた」いいえ、ハゲタカがそれを食べているのです。いいえ、これは約束された御言葉です。
気がついて下さい。彼のメッセージは神から与えられて彼が持っていたのです、彼は純粋なあらかじめ定められたその時代の為の神の御言葉を持っていたのです。イエス様もモーゼの残り物でつかえたわけではありません。モーゼはその時代の為の御言葉を持っていましたしかしモーゼは預言者でもありました。ここに神ご自身がおられます。分かりますね。神は決して彼等にモーゼの残り物をあてがったりはされません。
しかしその組織にいるハゲタカをただ見てみてください、それの周りにぐるぐる回りしているのです。「我々は知っている!我々はモーゼが居る。あなたの必要はない」
彼は言いました。「もしあなたがモーゼを知っているならば、私を知っていただろう、モーゼは私の事を語っていたから」何てことでしょう!分かりますね?獲物が居るところには、鷲が集まる。鷲です! その新鮮な出来立ての御言葉、その御言葉が立ちあげられて強くなりそして表されて、その子供達に与えられた食物となる、古い死んで何百年も置かれた者ではなく、新しくくるものです。今も同じです。ルターは悔い改めのメッセージを持っていましたが、ルター派のハゲタカの軍団、バプテストもメッセージを持っていましたが、今のバプテストのハゲタカたちも。分かりますね。ペンテコステ派もメッセージを持っていました(今家に戻ろう)、ペンテコステ派のハゲタカたち。しかし「新しい死体(獲物)があるところには鷲が集まるであろう」なのです。
160
覚えておいて下さい、その彼等の時代に、ルター派の人々にカトリックの腐肉で養うことは出来ませんでした。(今は出来ます)そんなことはあり得ません!彼は新鮮な肉を持っていたのです。それが教会時代でした。メソジストにルター派のメッセージで養う事もできませんでした。いいえ!彼等はその腐肉は欲しくありませんでした、それは腐っていたから。分かりますね。その命は、去っていて、何か別物が入り込んでいたのです。それは古い茎で、そこに死んで戻っていたのです。命は動き続けます。イエスキリストの花嫁をペンテコステ教義で養うことは出来ないのです。間違いなく!蛆が組織を壊し、何もないのです!いいえ絶対に!約束があります。マラキ書4章「5 見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。6 彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる」これらの全ての約束は聖書で作られた者です。「私はそれをする」そしてそこに鷲が集まるであろう。「父が私に下さったものはみな私の下に来るであろう」分かりますね。
161
イエス様はそれを決して試されませんでした。しかし、イエス様は来られ、彼は彼等を見つけたのです...ハゲタカの群れでした。「我々はモーゼを得たそして律法を」分かりますね。さて、それはそのかなたには食べるに良いものでした、それは殺され彼等に与えられたのです。それはその時は正しかったのですが、彼はモーゼ自身が予言したように、犠牲が殺されると、、言っていました。「主ご自身が神があなた方自身の兄弟の中から預言者を建てる。そしてその預言者に誰も寄って行かないだろう、そして彼の言った事は人々の中で切られるであろうこのことは成就される」そしてそうなりました。
見て下さい、600もの異なる預言がイエスキリストに対して旧約聖書にありそれは成就しているのです。「彼等は私の手と足にくぎで穴をあけるであろう」彼の地上での人生の最後の7、8時間で幾つの預言が成就されたかは忘れました、預言者達が完璧に全てを言っていたのです。
162
もし私が今日、これから1年間に起こる特定の事を予言したとしたら、多分20%の確率で正しいか間違っているかは別として起こるのです。そして、予見した事が起こる事の時期を言わなければ、より少ない割合になりました。もし私がそれが起こる時期を予言したら、小さなはかりになります。私が場所を予言したら、又小さなはかりになります。もし誰がという事もそれが起こる可能性は10000分の一になります、もしそれが真実でないのであればです。そしてすべての言葉(ハレルヤ)それが救い主の書いたものであれば、そのおじをも成就されたのです。ある日聖句を読む日まで、彼はその分の途中で止まって言われました。「神の御霊が私に下り、福音を宣べ伝え、、、、」そしてその文章の途中で止まられたのです、というのは残りは彼の再来の事だったからです。アーメン。「天地は滅びても、私の言葉は滅びる事は無い。」分かりますね。
163
彼は御言葉でした、そしてそれが彼等を養っていたのです。モーゼは彼等に真理を告げていました。しかし分かりますね、彼等はいつも、ハゲタカの為に宗派教会を作ります。鷲が食べ終わって家に帰った後の残り物があります。そしてそれを待って何か別物を見るのです。その御言葉、彼らは言います。「ここにそれは来るはずなのだ。我々は、昨日カリブー(トナカイ)を持っていた、我々は明日羊を持つ」私の言っていることが分かりますか?「古いカリブーの死体がそこに横たわっていましたが、我々は今日羊を得たのです、それはどこにありますか?分かりますか?天使の食べ物!その人々はある日マナを食べるのです、もし彼等がそれを翌日まで取っておくと、それは腐っています。全ての形式が分かりますか?すごく完璧です。今も同じなのです。
164
気がついて下さい。イエスの時代のハゲタカも又悪魔を追い出し、油注ぎされていて、古い獲物を持っていました。そうではないですか?彼等は悪魔を追い出していました。イエス様がそういわれていました。そして覚えていてください、彼等はその時代の預言者を持っていました。大祭司のカヤパも予言していました。そのことを何人が知っていますか?カヤパは預言しました。畑の中の雑草の位置について気が付いていますね。それは同じ水によって油注ぎされていたのです。聖書はなぜ彼が予言したと言っているのでしょうか?彼はその年の大祭司だったのです、腐った腐肉食、雑草や茨も麦と一緒にいたのですが、聖霊が彼の上に居て、純粋な神の御霊でした。その神の御霊が神の上におり、説教し、預言し、そして起こる事を先見していたのです、そしてその時代の為の指定された御言葉を(イエス様)を否定して十字架にかけたのです。オー憐れみを兄弟! これらの事をどれ程言い続けなければ7ら2のでしょうか<後どれだけ聖句がありますか?
私は急ぎます。ここに後10ページ分の聖句があります、全ての事を証明するために。
良い人にも悪い人にも同じ太陽が上がります。
165
イエス様は言われました。ーこれを証明するためにー「もし私が神の指によって、悪霊を追い出したとしたら、あなた方の子供達は誰によって彼等を追い出しているのですか?」さて、彼等は悪霊を追い出していました。彼等は預言をしていました。そうですよね?しかし彼がその時代の御言葉であることを認識しませんでした。なぜですか?何故なら彼等と関係を持っていなかったからです。さて、マタイ24章24節を見てみましょう「偽キリスト達、油注がれた者達が立ち上がる、そして彼等が偽預言者になり、預言するであろう(若いrますね)もし出来るならば選民をも欺こうとする」今分かりますね?
166
さて、その子供達。。「その子供達とは誰ですか、、もし神の御言葉によって、悪霊を私が追い出していたならば(彼自身が神の御言葉でした)あなたの宗派教団の子供達は何によって彼等を追い出すのですか?さて、、、そして神だけが悪霊を追い出すことが出来るのです、我々はそれを知っています。神だけです、強い人は彼の家でより強く成る必要があります。彼等はその力を持っていたのです。黙示録がそう言っているのを知っていますね。反キリストが終わりの時に建てられて、印や奇跡を行い、地上の上に住んで彼等全ての人々を惑わすであろう、木リスちゃんと全て、その名前が子羊の命の書にかかれていなければ、(マタイ24章24節に答えています)世の初めから、子羊の命の書にかかれていない名前。その命は、純粋なオレンジの木から来て、すべての他の柑橘系を通してきた、木の上にある実を通して、すべての宗派的なくさや枝の全て、、分かりましたか?急ぎます。
強い人、、、
167
覚えて下さい、ダビデは彼は正直で誠実で、神がそれをする様に按手していない仕事をしようとしました。彼等は、その油注ぎされた者達。しかしイエスは言われました。「彼等は聖句を人の解釈により作った教義を教えている。それは神の御言葉でもなく、彼が指定したも言葉でもありません。歴史的なキリストを終えしえているのです。(分かりますね)そのようなものが会った事。そして聖書は言っています。彼は「私はあってあるもの、昔居マシ、あるいは来るべきもの、ではなく、今居る物」なのです。彼はこ子に御言葉を通してい生きておられるのです。初めに彼は御言葉の中に在り、彼は葉の中におり、そして穂の中にもいて、彼は殻の中にもいたが今彼は実の中にいるのです。
168
さて、戻ってもう一度生きようとしたら。もしその命が戻って来なければ、その命は決して語らないと考えるでしょう古い殻は乾ききってしまったら、もう一度命が来るのでしょうか?そうはなりません。「一度輝いて、そこから成就された御言葉とともに動かなかったとしたらそれは不可能なのです。彼等は死んでしまって、去ってしまったのです。「そしてその茨や棘は、振り落とされて、最終的には焼かれる。」そうではないですか?出来るだけ早く急ぎますね。
169
さて、その聖句は今。歴史的な神(分かりますね)を教えています、彼等は過去に生きようとしている様に、
「さて、ウェズリーはそれから、何某と何某と」と言った。その時代の約束された御言葉を拒否している、そのマナはその時代の為にはっきりと認識された者です。彼等は古いルター派、バプテスト、ペンテコステのワインを我々の新しいビンに居れようとしているのです。それは上手く行きません。そして我々の新しいワインを彼等の古いビンに入れようとするとそれも上手く行きません。もし彼等がこの新しいワインをその宗派教団に入れようとしたら彼等の愚かさが露呈されます。彼等はそれが出来ないのです、それは彼女をとばしてしまいます。「さて、兄弟、私は御言葉によってその御言葉を完璧に見ました」
「さて、ここを見て下さい、博士、もし、私達がそれを持っていなければ、」ねっど、最近幾つかを持っていたと思います。「我々はここでは持つことは出来ない、今、私は多分ただ続けたほうが良いかも、、」分かりますね、それは上手く行かないのです。それは飛んでしまいます。新しい服に古い服の一部をつけたりはしません、全部おかしくなってしまうから、分かりますね。イエス様はそれを言われていませんでしたか?新しいワインを古いビンに入れることは出来ない、壊れてしまうから。新しいワインはその中に命を持っているから。大丈夫ですね。
170
気がついて下さい、何か本当に早く我々がこの話を終えている間に。。気がついて下さい。黙示録16章13-14.もしそれを書きたいならば、時間がないので、多分そこに行きましょう。皆さんが確実にそれを見てほしいのです。
さて、気がついて下さい。これは6つ目と7つ目の災害の間に起こる音です。さて、後1分くらいで終わらせるつもりです。もし数分待ってもらえるならば、ノートをとってください。
黙示録16章13-14、第6と第7の災害の間、3つの、かえるのような三つの汚れた霊が出てきた。誰かの口から(気が付いていましたか?)今、見て下さい、早く、「アーメン」という準備が出来ていますね?三位一体の霊達!
171
さて、宗派教団の兄弟達、後少し座っていた下さい。立ち上がって部屋から出て行かないでください、このラジオを聞いて居る人たち、電話でつながっている人達。。テープレコーダーを消さないでください、もう1分だけしっかりと座って聴いて下さい。神から生まれた者ならばそうするでしょう。
172
蛙の三位一体。蛙は常に後ろ向きな動物です。彼は彼の行き先を決してみる事はありません:蛙は来たところを見ているのです。分かりますね。分からないですか?三位一体説はどこから来たのですか?覚えていますか、汚れた3つの霊、個人的な霊達。分かってきていますか?
気が付いて下さい。彼等はニカエア会議に三位一体の教義が生まれた所に戻ったのです、それは聖書ではありません、そんなことは聖書にはありません。彼等はローマのニカエアで行われたニカエア会議に戻ったのです、そこで三位一体の教義は生まれたのです。気が付いて下さい。彼等が着た場所。気が付いて下さい、古い三位一体の蛙の三位一体の中で、新しい三位一体、彼等の母親に対する誕生を与えたのです。それはどこから来たのですか?三位一体の一つ 龍から(分かりますね)そして獣、そしてその偽の預言者、一つの三位一体、新しい者、これらの蛙から出てきたのですか?それはいつでしたか?気が付いて下さい。彼等はそこにいつもいたのです、然しそれは6つ目と7つ目の聖愛が居の間まで露わていなかったのです、封印が開かれて顕かにされる直前です。7人目の御使いが神の奥義を知りそのメッセージを知らせる事、これらの全ての三位一体競技の事、偽の洗礼など全ての事があらわれるのです。神が私達を助けて何が真理か見せて下さるのです。
そして誰かが何かを言おうとしているとは考えないで下さい。
173
その御霊が再度送られているのを感じます、分かりますね?私自身が語っているのではないのです、兄弟、主の御使いがその中に居て私は語っているのです。それが正しい事なのです。
気が付いて下さい。龍の三位一体。何人が何が龍だと分かっていますか?それはローマでした。そしてその流派女性の前に立って彼女の子供達を生まれるや否や食べようとしていたのです。そうですね?聖書での獣の意味は何ですか?権力ですね。そうです。
偽預言者、偽預言者、偽の油注がれた者。分かりますね。
174
どこから始まったのですか?これは偽預言者(単数形)偽預言者、初めの教皇。そしてそこから淫婦たちと地の憎むべきもの全ての母。偽の三位一体が建てられ、初期の時代ではなく、初期の時代にはそれは表されません弟子が、それを通してきたのです。しかし7つの封印がこれらの奥義が彼等に開かれようとするときに、その蛙が来て、3つの蛙の様な汚い霊があらわれたのです、そして真理に反する三位一体の教義。それが着た場所を見て下さい?どこに戻っていくのでしょうか?エキュメニカル会議。彼等はとにかく皆同じ霊達で同じ事なのです。そして見て下さい。奇跡を起こして欺いているのです。そしてレ等は地上の全ての神々である悪魔が行ったり来たりして、終わりの時に奇跡を起こして人々を欺くのです、それは成功する事でしょう。神が言われたのですから。その悪霊が言いました。「私が降ってきてこれらの預言者の口に入り、彼等が嘘を予言するようにしてアハブがそこにいてそれを破壊するためである。」
175
神は言われました。「行きなさい、あなたは成功するでしょう。彼等にそれを信じる様にさせられるでしょう。彼等は元々聖書の言葉を信じていませんでした。行って彼を聡正井。あなたが彼等の中で寄せ預言者達を得る時、というのは彼は彼等に信頼しているから。そして彼は何も御言葉を知らないあるいは、学ぼうとしないであろう。彼は出来ないのですというのは、彼は初めから茨だったからです。分かりますね。あなたは成功するであろう」
176
この偽の蛙を見て振り返ります「なぜおまえはニカエアに戻るのだ?私は彼等がそこでニカエアで言ったことなど気にしない:私が言っているのは、彼等がここで神の御座で言った事である、それがどうなったか、それがどうなったか、どうなるかである、彼は私である。分かりますね。
偽。それを見て下さい。彼等がどこから来たかに気が付いて下さい。
177
さて、しっかりと聞いて下さい。我々は7つの封印が開かれた後単純に、それは奥義が開かれ顕されるためだったのです。その三位一体とは何ですか?どこで三位一体と呼ばれたのですか?その三位一体という言葉は聖書のどこで話された事がありましたか?3人の神はどこから来たのでしょう、3人の神を礼拝していて、それは異教ではないのですか?彼が、「私と父は一つである。私が彼であることを信じないならば、あなたは罪の内に死ぬであろう、あなた方の不信仰によって」罪とは不信仰なのです。あなたが不信仰であるうちに死ぬことになるでしょう。
オー誰が私はあってあるものだというのですか?
いつから私が来たと言いましたか?
私の父を知っていますか、
あるいは彼の名前を言えますか?
私はシャロンのバラです。
輝ける明けの明星
(彼がだれだか私に言える人?)
私がモーゼに語った者である。
焼ける藪の中で。
私はアブラハムの神である。
私は輝けるあけの明星である。
私はシャロンのバラである。
オー私がどこから来たと言いましか?
オー私の父がだれか知っていますか?
あるいは彼の名前を教えて下さい。(アーメン)
私は安生らであり、オメガである。
終わりから始まる
私は全ての創造の初めである。
そしてイエスが彼の名前である。
178
その通りです。三位一体ではありません。絶対に。それは偽の事です。第7の封印、開かれたとき以来、これらの奥義は終わるべきものです。対決に来るべきもの。封印は解かれ、並べられ、見せられているのです、これらの時代ずっと隠されていた封印が隠されていた真理を単純にさせたのです。これらの教会や宗派によって全てが隠されていました。その大きな黙示録7章の淫婦:彼女は誰でしたか?しかし彼女は地の神に憎まれている憎むべき者達の母でもあるのです、分かりますね。
179
さて、「あなた方は彼等をハゲタカと呼ぶ」あなたは言います。「ブラナム兄弟」その通りです。しかし覚えておいてください。ハゲタカは鳥なのです。彼は飛ぶようにも油注ぎされているのです。その2つの霊は近いので選民をも欺くのです。あるハゲタカは鷲ほど大きいのです。彼は鷲のように跳ぶこともできます。そして飛ぶように油注ぎされていて、または説教するようにあるいは預言するように(気が付いて下さい)それは鷲と同じなのですが、彼は鷲の高さについて行く事は出来ません。だめです。もし彼が鷲について行こうとすると彼の馬鹿さ加減が露わにされるのです。そうなのです。彼は鷲についていくことは出来ません。「オー」彼はこの様に言う事が出来るでしょう。「私はイエスキリストが神の御子だと信じて、神が父で全知全能で天と地の創造物であると、イエスキリストは彼の御子でありなどを信じている」オー間違いなく彼にそれは出来るでしょう。しかし彼は昨日も今日もいつまでも変わる事は無い?それはどうですか?
180
鷲は特別な創られ方をした鳥なのです。この地上に他には彼の様な鳥はいないのです。もしハゲタカが彼について行こうとしたら、他の鳥が、、、彼は壊れてしまうのです。彼の馬鹿さ加減が間違いなくあわわにされます。彼は彼が新しワインを古いビンに居れたら壊れてしまいます。分かりますね。彼は壊れてしまいます。ぶっ壊れるのです。彼はその様に作られていません、そうです。彼の体は、そこに彼を保つような構造になっていないのです。彼がそこに入ると大きな問題に陥るのです彼方に置かれていくのです、もし彼がその様に作られ、按手され、あらかじめ定められた、鷲として生まれていないならば、彼はぶっ壊れてしまいます。その羽は彼の翼から抜け落ちて、地上に落ちる事でしょう。間違いないです!彼は鷲の高さについていけません。もし試すならば、彼の馬鹿さ加減が暴露されるのです。その通りです。あなたには出来ません。
181
理由ですか?彼は鷲のように見る事が出来ないのです。もし本当に高い所に飛ぼうとしてどこにいつ自分が行った場所を見る事が出来なかったら何か良い事があるでしょうか?そしてもし彼が試そうとするならば、この鷲の高さをまねしようとでもするならば、彼は盲目になるのです、彼は何をしようとしているのかが分からないのです。その通りです。彼は叫び、河合で、続けるでしょうしかし、彼に御言葉だけを語るなら、兄弟、彼の馬鹿さ加減が知らされることになります。
彼にイエスキリストの名による洗礼について話してみなさい、あるいはイエスが昨日も今日もいつまでも変わる事がない方など、そして彼に言うのです。「オーそれではちょっと待ってください」分かりますね。彼の羽が落ちています。分かりますか。彼は飛んだりは萎えたりして預言を死、悪霊を追い出し、異言を語り、叫んで続けて行き、床の上を走って登ったり下りたりしています。しかしそれについて行こう年t内でください、彼は必ず知られることになります。しかし彼は按手され、油注がれていて、彼は飛ぶことが出来ます。そこにバランスを整えげ、行く事も出来るのですが、でも遠くまではいけません。分かりますね。彼は腐食を食べているのですしかし、彼は新鮮な肉を御座からくるものを食べることは出来ないのです。彼は目蔵なのです。彼は全て必死で働いたのですが、彼は何のためにそれをやっているのかを知らないのです。分かりますね、同じ御霊が麦に雨が降る様に、落ちているのです、彼は初めから麦ではないのです。彼は壊れます。「オー私はそこに行くことは出来ない。オー出来ない! 私はジョーンズ博士を知っています」オーそうですね。どうぞ、どうぞ、もしそうしたいなら行ってください。
182
気が付いて下さい。彼はそのような種類の鳥として生まれても、作られてもあらかじめ定められていないのです。彼はレモンがオレンジの木になったのかもしれませんが、彼は根から来たのではありませ。彼は何か付け足された者でした。そして彼等が彼等の宗派の中で地位を得ると、神の指定されたあらかじめ定められた御言葉が分からなくなるのです、そして彼等の愚かさが知らされるのです。「オーその杖は、頭は空っぽで、オーナンセンス」分かりますね、全て知られるのです!
183
彼は遠くを見るようには創られていません。彼は宗派の眼鏡が彼に見せてくれる距離しか見えないのです。しかしその後、彼は蝙蝠の様に目蔵になるのです。そして彼の愚かさが知らされるのです。その時本物の鷲がそこに座って食べている場所なのです。はい、それが本物の選ばれた鷲が見る事が出来る場所で彼が何なのかが分かるのです。彼が御言葉を受ける事が出来ない時、彼等はそこで彼が宗派のハゲタカだと分かるのです。
何故でしょうか?なぜ彼は飛べないのですか?何故なら、彼が食べてきたものを見て下さい。彼等は腐った、宗派の腐肉をたべて彼の霊的な体を養ってきたわけです、彼の霊的な成長は見込めません、というのは、彼は宗派の違いの上に置いてきたわけです。彼は腐ったもので自分をただ養ってきたのです。彼の霊的身体はそれで作られているのです。彼は新しいその鷲が持っている新鮮な肉の場所に上がって行くことは出来ません。彼はただできないのです。
184
それはマタイ24章24節の成就です。彼は空中に飛び、彼の翼を羽ばたかせますが、高さが足らないのです。分かりますね。その通りです、見て下さい、彼はいけないのです。彼は新鮮なマナを得るに十分な高さまで行く事が出来ないのです。彼は古いマナをここで食べることは出来ます、そして古い死んだウサギを1週間前、1か月前あるいは40年前にー腐りきったものを食べるのです。彼はそれは食べられます、そしてただそれで満足して、ガーガー鳴いたり、叫んだりスして続け、他の鷲のように跳ぼうとします。彼は他の鳥と同じように油注がれているのです。そして彼は鷲のようです、あるハゲタカはそうです。我々はそれを知っています。彼は確かにそうです。しかし彼は純粋な鷲についてくることは出来ないのです。彼にはただそれが出来ないのです。彼の体はその様に作られていません。異なる腐肉を食べてきたからです。そしてそれは、、、新鮮な肉ではないのです、そして新鮮なマナでもありません、ルターが言った様な事、ウェズリー、あるいは何某博士が言った。イエス様がこの時代の為に言ったものではないのです。
185
さあ、今行きましょう。近いのです。油注がれた者、終わりの時のキリスト達。しかし偽預言者達としての偽教師達。気が付いて下さい。いかに凄いかを。今私がこれを比べてほしいのです。(我々はそれを読む時間がありません)マタイ24章24節第2テモテ3章8、マタイ24章24節は終わりの時に偽キリスト達、偽の油注がれた者達、偽預言者達が来て印や奇跡を本物と同じように見せ、出来るならば選民をもほぼ欺いてしまう出去ろう。
さて、気が付いて下さい。それがイエス様が語ったことでした。
186
さて、パウロが彼の後ろに居て言いました、「さて、終わりの時には、宗教的な人々が着て(分かりますね)信心深い様子をしながら、おるかな女性達を導き、あらゆる種類の世的な欲に落ちていく。(そして彼等は「どうしてあなたは彼等女性を選ぶのですか?というオー何という事、彼等はそれすら分かっていない。愚かな女性達を欲に導く事(そのような者からはなrなさい)そしてヤンネとヤンブレの様に(マタイ24章24節、偽キリスト達、偽の油注がれた者達が印と奇跡を行い選民をも惑わそうとする)さて、ヤンネとヤンブレはモーゼと一緒に立っていました、そしてこれらの信仰の失格者達。一つの信仰ではなく、その信仰。一つの信仰、一つの主、一つの洗礼。一つの主を信じないで一つの信仰を持つことは出来ません。2つのバプテスマを父と子と聖霊が一つでなければ、持てないのです。それは一つのバプテスマなのです、イエスキリストです。そうです。分かりますね。偽の洗礼。
187
気が付いて下さい。それらを家に帰った時に比べてみてください。気が付いて下さい。マタイ24章24節、イエス様は語っています、パウロは第2テモテ3章8節、他にも沢山。
そして今比べるのは、そして聖句をまとめるのはルカ17章30節、マラキ書4章。ヤンネとヤンブレはモーゼと立っていました、そのじだいの油注がれた御言葉、そしてこれらの人々、一人ではなく複数です、油注がれた者達は、真理を否定したのでした。
人の子が明らかにされたまさにその時代に、(黙示録10章1-7節、家に帰ったら読んでください)7人目の御使いのメッセージ、その封印が開かれる事。それは何ですか?その御使いは人の子ではありませんが、人の子が顕されたメッセンジャーでした。それを別れてみる事が出来ますね?それはかなり難しいように見えます。人の子自身ではなくて7人目の御使い、7人目のメッセンジャーが公的に人の子を明らかにするのです、それは殻の名kに残されていたからです。あなたはそれを組織化することは出来ません。それが自信が実だからです。「そしてヤンネとはんブレの時代に立っていたように、いるだろう(油注がれた者達、見せかけの信仰者、不信仰者、そのカチカチの教会とペンテコステ派)が本物の実に敵対して立ち上がるのです。しかし放っておきなさい。彼等の愚かさが彼等のものとしてあらわされるようになるのです。」今分かりますよね?
188
黙示録10章で、「第7の御使いのラッパの吹き荒らす音がする日に」さておぼえてください、7つ目の教会、ラオデキア教会時代、その御使いの音、教会時代が、宗派が終わり、教会自ぢ亜になった時、それが終わったのは、ペンテコステ派がそのメッセンジャーが、、各々のメッセンジャーは何でしたか?マルチンルターは何でしたか?カトリックへの叱責。ウェズリーは?ルターはへの叱責。ペンテコステ派は?他の者への叱責。その命はどこに今いるのでしょうか?組織から離れることによって、もう殻ではないのです、それは実なのです。それは何ですか?ペンテコステ派への叱責、この時代の為の聖句の成就なのです。
189
気が付いて下さい。その日、このメッセンジャーが、彼が始めた時ではなくて、彼のメッセージを宣言し始めた時。分かりますね。その初めの引き、癒し、2つ目の引き、預言種る事、3つ目の引き、その御言葉を開き、その奥義を顕かにする事。それ以上はないのです。預言者以上に高い形での御言葉を明らかにする方法はないのです。しかし唯一の方法はソン預言者が御言葉によって指定された事を明らかにすることが出来るのです。そして3つ目の引きはそれらを7つの封印を隠された真理を御言葉の中に封印された者を開く事でした。分かりますか?それはそして、その時代には、このことが起こる時、ヤンネとヤンブレ、その物まねのなりすましが、再び現れるのです、ちょうどモーゼがオリジナルの御言葉を言うときに現れたように、彼等はそれをまねたのでした。ちょうど同じように。さて、マタイ24章24節が今分かりますね?油注がれた者達。
190
さて、我々が閉める前に3つ言う事があります。これはそれなのです。しっかりと閉めるにあたって、しっかりと聞いてほしいのです。3つの事、覚えて下さい。3つの事は常住されているのです。その3つの事はあなたの目の前に置かれています。
初めに;世がソドムの状態になっている事。イエス様はそれが起こると言われていました。変態性についてみて下し亜。我々の女性は男性の様に行動しようとしています。我々の男性は女性の様に行動しようと、女の様に弱くなり、腐り、きたなく、悪魔に乗っ取られて、そのことを知りません。聖書はそれが起こると言っています、そしてそれが今起こっているのです。
第2に;聖句によると、ヤンネとヤンブレ、があらわれるというところです。2つ目
第3に:同じ時代に人の子が顕される。
191
あなた方信仰者、あなた方の見せかけの信仰者そして不信仰者が居ます。純粋な御言葉が上がっていて、指定されています。見せかけの信仰者がそれをまねしていて、不信仰者が全てを拒否しています。
しかし夜に光があるのです。
あなたへの栄光の道は間違いなく見つけられるのです。
(そうですよね?)
国々は分れています。
イスラエルは目を覚ましています
我々の聖書でその印は預言されていました。
異邦人の時は数えられています。(ソドム!)
鬱の様な気分と全ての中で
散らされた者達よ戻りなさい
あなた方の贖いの日は近い
人の心は怖れに落ちていく
神の御霊で満たされなさい
あなたの灯を綺麗にはっきりさせなさい。
(そうすることによってその時代の御言葉が分かるようになる)
上を見なさい、あなたの贖いの日は近い
偽預言者は嘘をついている、
(彼等は彼等はここにいるー油注がれた者達)
神の真理は彼等を否定している。
イエスキリストこそが我々の神。
(それを彼等は信じない。聖書は、そのことがここにあると
言っています。その通りです。!)
しかし我々は使徒達が歩んだ道を、
歩く事になります。
(同じ光!そして父の信仰が子たちに
もどり)
贖いの日は近い(凄く近い)
人の心は怖れに落ちていく
(地球が落ちて行っている)
神の御霊によって満たされなさい。
あなたの灯はきれいにされてはっきりと
上を見なさいあなたの贖いの日は近い
そう信じますか?
頭を下げて祈りましょう。
192
このメッセージは東海岸から西海岸、カリフォルニアから、ニューヨークに行き巡り、来たにそしてミッションで他の所にどこでも、、そしてこのタバナクルに出ているのです。我々は貧しいですが、この大きな花の様なものは持っていません又、テレビ放送もありません。我々は最善を尽くしています。「しかし全て父が私に与えて下さったものは私に来る」
193
さて、このことを間違いなく知ってほしいのです。そしてこのテープを聞いて居るあなたに、あなたは今日、自分自身がこのメッセージを閉じるにあたって言おうとしている事について考えがあったかもしれません。私には声を出す以上の事をする事はありません。そして私の声は私のより良い裁きにてきたしている事もありますが、私はラッパに成りたかったのです。しかしそれはch市日の御心でそれを宣言するのです、そしてそれをする事を決めたのです。私がその川の下に現れた者ではありません。私は彼があらわれたときにただそこに立っていただけなのです。私がこれらの事を看破期に彼等がすることを言い当てたり奇跡を行ったものではないのです、私はただ、彼がそれをされるときに近くにいた唯一のものだったのです。私はそれを言われるために神が使われる唯一の声だったのです。それは私ではないのです。それは7人目の御使いではなっ勝ったのです、それは人の子のあらわれだったのです。その御使いは人の子ではありませんでした、彼は人の子からのっメッセンジャーだったのです。人の子とはキリストであり、彼があなた方を養っておられる方なのです。あなたは人からは養われません。人の言葉は失敗しますが、彼は人の子からの言葉によって失敗することの無いからだからの言葉によって養われているのです。
もしあなた方が与えられたすべての言葉によって十分に満たされていないならば、すべてのこれらの宗派と世の物の上に、この時にそうしますか我々が祈っている間に?
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親愛なる父よ、これを言うのは難しいです。それは死ぬべきものがそうするのは簡単ではありません。あなたは全ての事をご存知です。そして私はあなたに祈ります。親愛なる神様、誤解する事がありませ妙に、あなたの御言葉の光の中で、人々が歩むように。
父なる神様、誰が選民なのか私は分かりません、あなたがご存知です。私はあなたがいつ来られるかは知りませんが、これらの事が起こった時、これらの偽の油注がれた者がいる時、すぐではないが、彼等が始めたら。モーゼが放っておいたように、彼は何もそれについて出来ませんでした。彼が唯一家凧後をあなたも言っていました、あなたは彼に「のみを送り、そして彼等を呼びました。彼に水を血に帰る様に言い、そして彼等はそうしました。モーゼは御言葉からのみ続け御言葉によってあなたが言った様にです。しかしそれから、あナタがその愚かさをあらわされた方でした。
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さて、父よ、あなたは神でおられます。この同じ言葉はこれと同じ事が終わりの時に起こるであろうと言っていました。多くの正直な人々(我々は先週の日曜日にそのことを話しました)彼等の手をその箱舟を新しい山車に乗せ、レビ人の肩ではなく押したので、彼等は死に、罪と過ちの中に死に、彼等自身の意識と口論していたのです。
多くの聖職者たちは、彼の書斎に座って、御言葉を読み、そのページを変えてそこから公的な社会的立ち位置を失わないように、教会や宗派から。。神がそのようなことを私達がしないように助けて下さいますように。
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我々の心を清めて下さい、主よ、この世の汚れの全てから。主よ、清められるために準備して立ち上がっています。この教会と共に立ち上がっているのです、そしてその木板全ての事そして誰でもこのテープを将来効く人々の為にも。私は主よ、立ち上がり、清めを求めます。主よ私を陶工士の所に連れて行き、私を壊してください。あなたの欲しい僕となれるように私を作ってください。主イエスの為に。私の口は汚れています、イザヤが泣いたように、人々の汚い言葉の中に住んでいて、私の中にも危険があり、神の啓示があらわれているのです、イザヤがその宮で御使いを見たように。私は終わりの時を見ています、主よ。そして私と私の家族への悲しみもです。私と私の人々への叫び。オー永遠なる神様、憐れみを下さい。私自身とその人々の為にお願いいたします。信じない者達と一緒に殺さないで下さい、我々を信仰者と共に行かして下さい。
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すべての宗派、主よ、すべての男性あるいは女性、私は、あなたに宗派を祝福して下さるように尋ねることは出来ません、というのもあなたがそれに反対されている事を知っているからです。しかし唯一言えるのは、もしあなたの羊が彼等の中にいるのであれば、このテープを聞くことがある様にお願いします。彼等がそれを聞けるように主よ、そして理解できるように、その悟りを持ってあなたが彼等に与えて下さい、そして彼等がそこから出て、あなたを受け取りますように。彼等が目蔵やこの時代の伝統によって欺かれることがありませんように。彼等が何か他の時代の死体から食べようとする事がないように。彼等が御言葉を受け取りますように。その様にして、パリサイ人はあなたを十字架にかけました。彼等はモーゼの時代の死んだ死体から食べてあなたの荒野からの新鮮なマナを毎晩送って各世代に送られているものを受け取らずそれに満足していたのです。そこで彼等は失敗したのです。それで彼等は毒を得てしまいました。腐った食べ物を食べる事によって死んだのです。そして今日霊的にそれと同じ事をしているのです、という事で宗派と共に霊的に彼等は殺されているのです。親愛なる神様我々を助けて下さい。それは全て今あなたの手の内にあるのです。イエスキリストの御名によって。
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頭を垂れtえ、我々はあなたが決められた形で歌います。全部行きますか?
私は救い主の召命が聞ける(そして彼は御言葉である)
私は聞ける(オー私は長い間、さまよっていた、然し本当に今、彼が私に「
私の下に来なさい」と言われているのが聞こえる)
私は聞ける(「あなたの十字架を背を負って日々私に従ってきなさい」
「はい、
たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。」)
そして彼が私を導かれるところには(主その全世界が見えます、その三位一体信者の愚かさが見えます。ぜっそうは至る所に育っています。しかしあなたが私を今導かれるところ。主よ、使徒行伝の19章の様になります。彼等がこれを聞いた時、彼等はイエスキリストの御名によって再洗礼をしました)従って、(私はその道の一部に行きました、主よ、あなたを今受け入れるのに十分です)
私は彼と共に全て行きます。
(ブラナム兄弟がハミングをし始める)
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親愛なる神様、私は私の心から来たものを信頼します。私はみんなの心からこの時に歌う物を信じらいします。多分このテープを聞く多くの人々は、今ここにいないかそれを今聞いて居ないでしょう。主よ、できるように価格にかかわらず、軍隊や兵士や王の様に、人が、そこに座る前に始めに世の物を初めに飽きられなければできないのです。キリストの書かれた御言葉の軍隊に加わるために諦められますか?彼のワシ達と一緒に飛びましょうか?受け入れて下さい。主よ、イエスの聖名によって。
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信じますか?彼を受け入れますか?分かりました。我々はここで今晩皆さんにまた逢います、御心ならば。それが真理だと信じますか?十分に分かりやすかったですか?それなら、
イエスの名を共に受けなさい。
悲しみと苦しみの子よ。
それが喜び慰めを与えるでしょう
それをどこにでも持っていきなさい。(隣に居る人だれでも
握手をしましょう)
尊い名前、何て優しい!
世の希望(世の希望、天の喜び!)
尊い名前、オー何て優しい!
世の希望、そして天の喜び。
イエスの名前によって
彼の足もとに跪きましょう。
天におられる王の王、我々に冠を
(彼は神だから)
我々の旅が終わる時
尊い名 (尊い名)
何て優しい(何て優しい)
地の希望 天の喜び
尊い名 何て優しい!
地の希望 天の喜び
201
思うに全ての主の聖職者たちは今朝知らされたと、そして認識されたと思います。人がその週ずっと考えていて、これらの聖句が理解出来て、彼等があなた方の前に立っていたら。「私は災いだ」とパウロが言った
「もし福音を宣べ伝えないならば」彼の人生の終わりの道でいったのです。「 神のみ旨を皆あますところなく、あなたがたに伝えておいたからである。」
202
時々認識すべきことを忘れていました、赤ちゃんたちの献身を忘れたことさえあります。ビリーが先日、ある人が着て行った「2年前にここに来て赤ちゃんの献身をさせてもらった」と言っていましたと言いました。
ビリーは「それについて悪いとは思わないで、僕に1年前に赤ちゃんが生まれたけど、彼は未だに献身していない、だから僕は彼が歩いて自分自身でそこに行くまで待っていることにした」
だから我々は兄弟姉妹の皆さん、だから、一つの事は我々は子供達を献身するべきです。我々は皆を洗礼するべきです。プールがありここには水があります。もししていないならば何が邪魔しているのですか?ここには水があります今すぐ来てください。夜まで待たないでください。今すぐ来るのです。男性達がここに立って誰かが悔い改めて告白し洗礼を受けるのを待っています。もし何回も洗礼を受けたならば、彼等はイエスキリストの名で罪の許しの為にあなたを洗礼するでしょう。分かりますね。
私達は、、、
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でも、見て下さい、そのメッセージは私の心に在ったのです。だから出さなければなりません。それが私の唯一の目的なのです、私の妻がどういおうと、子供がどういおうと、ぼくしがどういおうと、何でも誰でもどういおうと、それは私の主なのです。それを出す必要があるのです、それが唯一の目的なのです。
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そして今、多くの時、その聖職者達を認識するのを忘れていました。私は多分、兄弟達。。。ネビル兄弟、尊い人、そしてこれらのここにいる他の兄弟達。あなた方いる事はとてもうれしいのです。
あなたに手敵対しているわけではないのです、兄弟、異なろうとしているとなると。あなた方の多くはここにいるのは三位一体を信じている説教師かもしれません。あなた方が怒っていない様に望んでいます。我々はあなたを愛しています。そしてもし我々が、、、していないなあラ、そうしていないと信じています。この教会を出て、私の膝の上で言うでしょう。「網様、正しくさせて下さい。その傲慢さはいりません、利己的な霊が周りにいます。私は聖くてきれいな霊が欲しいのです。兄弟愛、聖霊によって、聖く成る事。「さて、もし誰かが私に何か間違った事をしたならば、「それは大丈夫です」彼等に戻る権利はあるかもしれませんが、そんなことは私の人生にはいらないのです。いいえ、愛を残しておきたいのです。私は愛によってなおsレ体のです。愛によって彼方にいる素晴らしい著者の愛をこめて。
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私は異なる様になろうとしているのではないのです。 メソジスト、バプテスト、カトリック、プレスビタリアン誰であっても。私はこれらの事が異なっているといってはいません。パブテスト派と一緒の人、に何も言いませんでした、もしそうしていたら、然しながら、もし私がそうしていたら、私は偽善者でこの祭壇に居てはいけないのです、神へ祈り続ける、s貸し渡しは言います。それが愛と他に数名が行くところを見たので、これは私にはあわないということにします。でも私はあなた方行くところには愛が触れている事を感じられうのです。私はこのことをお持ちでなくても大丈夫です。私は「主がこう仰せになられる」という物を与える出そう。それが真理です。又私が愛しているのはそれらの理由からです。神の祝福がありますように。
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さて、我々はこの曲のもう一つの節を歌います。行き前に、私達は、出来るならば今日の夜にも来ていただき体温ですもし、できないならば、次に会うまで神があなたとおられますように、我々はただ神にあなた方に神の血の最善を尽くして与えて祝福して下さるように、祈ります。
イエスの名前を取って、、、