65-0418M 日が昇る事

  • 伝道者:ウィリアム・ブランハム
  • インディアナ州 ジェファーソンビル アメリカ合衆国
  • 録音番号:65-0418M
  • 年:1965
1
1それでは、頭を垂れて祈りましょう。主よ、復活祭の素晴らしい朝、集まっています、小さなつぼみが膨らみ、
蜂が飛び、彼等の物を得ており、鳥達も喜びにあふれて歌っています。なぜならば、あなたがイエス様を何年も前の今日、死から蘇らされたと信じているからです、そして我々はこの記念すべき日を祝っています。
そして、今日私たち全員がイースターに来られますように。彼の僕として彼の言葉を理解し、彼とのフェローシップが取れ、彼と共に天国的な場所で再び座り蘇りますように。
ここタバナクルでの礼拝を祝福し、又電話でつながっている全ての人々も祝福してください。
病気や苦しみのある人々を癒してください。彼等のイースターとなり、病気から飛び出して力に入る事が出来ますように祈ります。そして罪の内に間違いの内に死んでいる人がキリストを通して今日生きる事が出来ますように。そしてあなたを賛美していきます、このすべてをイエスの名によって祈ります。アーメン
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私はこの素晴らしい特権に入り今朝インディアナ州のジェファーソンビルにこの素晴らしい会衆と教会いっぱいで立っている人々もいるところにいて外にも駐車場そしていろいろな場所にいる皆さんの事を間違いなく考えています。又国全体で電話でつながっている皆さんへ。素晴らしい朝です。
今朝5時に小さな赤い胸の私のお友達が飛んできて起こしてくれました。
彼の小さな心が溢れて「イエス様が蘇られた」と言いたかったようでした。この小さな鳥はが友達になってくれているといつも思っていますと言うのも彼の事が好きだからです。
彼の伝説について言えば「ある小さな茶色の鳥が彼が罪の為に十字架を負われている時に見ていた。もちろんその小さな鳥には罪はなかった。神は小さな鳥の為に死ぬ必要はなかった。しかし彼は十字架に飛んで行って、小さなくちばしで釘を抜こうとしていたそしてそのことで彼の胸が真っ赤になった。」私もその様になりたい、彼が死んでくださったのは、胸当てとして守ってくださるためだから。
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ここでの時間に限界がある事を認識しています、特に電話でつながっている友人たちは、、今朝あなた方の関心をある絵に留めてもらいたいのです。それはしばらく前にカメラで撮られたものです、ここのタバナクルでみた幻でして、インディアナからアリゾナにミーティングの為に出かけていくときでピラミッドの様な形の中で、7人の御使いが居ました。そこに行った後に何が起こるかは知りませんでした、それが私の人生の最後だと考えていました、そのような素晴らしい場所に誰も経つことは出来ません。そして間違いなく皆さんこの話をよく知っていると思います。そしてその時、サビーノキャニオンである朝、この様に祈っている間に、私の手の中には剣がありましたそして、言いました。「これは御言葉ー御言葉の剣」
その後、天使が顕れて預言をしました。そして同時に偉大な光が私が立っている場所に下ってきて、空中30マイルのところまで回って動いていました、天使の羽の様で又、ピラミッドの形になっていて、天使座と同じように表れて描かれたようでした。
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科学が絵を描いていてそれはメキシコからずっと北アリゾナに移動してきていました、私が立っている場所で聖霊が居たのです。ツーソンの40マイル北東でした。それは空中に上がり、ライフの雑誌がその写真を撮り載せました、-ミステリーな何かが湿気も何もない場所で何も雲になるようなものは30マイルも空中にはないのです、そして27マイルもの長さで天使たちが居た場所その物だったのです。
さて、彼等は科学者に尋ねましたツーソンにいる一人の科学者で、彼はその素晴らしい現象を知りたがっていました、しかし私は彼等には言いませんでした。皆さん全員がご存知ですね、前に話しましたから。しかし彼等には話されていませんでしたそれはあなた方の為だったからです。
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そして、神が私に話して言いました「7つの封印が解かれる。7つの奥義、聖書の奥義で世の初めから閉じられていた物が顕かにされる」そして我々は大きな世界と比べるとまだ小さなグループでした、このような奥義を聞く祝福を楽しんでいました。結婚、離婚、サーパントの種(子孫)そしてこれらの全ての事なる質問が、完全に我々に顕かにされたのです、人によってではなく、神ご自身によってです、今日かいと何かという角奥義を開き、キリストが初めからどのような方で、終末にどのように明らかにされるかについてです。
そして今、これが昇っていくのを、額に入れた写真があります。しかしそれから、私はここにその写真を持っています。もし気が付いているとしたらここにライフマガジンもあります。しかしもし、私の会衆がここで見えたとしたら、本当に写真を見てみましょう、ある意味そうあるべきなのです。
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覚えていますね、私は、この幻が来た時に黙示録書について話をしていました、獅子の所でした、イエス様が黙示録1章で7つの封印を解き始める時あるいは教会時代だったと、7つの封印を開ける前でした。キリストが真っ白い毛糸の様な神で立っていました。そしてそれを説明していました、古い英語の裁判官の様な、昔の裁判官は主権を与えられてその位置に行くときにかぶってきたのです。つまりは白い鬘(かつら)を被ってそれが主権を持っていることを示していたのです。
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さて、この写真を回してみると(会衆側から多分見れる)それはキリストです。彼の目がここに見えます、完ぺきに、白い鬘(かつら)全天国と地上の主権を持っているのです。
彼の目、鼻、彼の口が見えますね?彼は、主権のある裁判官です。他にはいません、そして完全な認証なのです、このメッセージが真理であるという定義になります。これは真理です。真理は彼によって創られた物であり、他の第3者ではないのです、つまり神のみなのです。
その白い色と共に、暗いものも見えますー彼の顔、ひげ、そしてメデス。そして気がついて下さい、彼は見ているのです、右手の側からこの輝く光が彼の方から来ていて見ています。そしてその十字架の上で彼は見ているのです。右手側に、そこで彼は罪びとを許されたのです。彼の名によって彼の復活の光の中で我々は前に進むのです。
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今朝私が望むのは、川で同じ光がここジェファーソンビルで1933年にそしてこの言葉「バプテスマのヨハネが初めのキリストの為の先導者として贈られた、あなたのメッセージはその再来の為の先導となる」が語られてから、これらの現象において時間が時間があったら、疑いもなく、過去30年あるいは35年にあたって、証明されてきました。我々は週末にあり、それを見ています。いつかなぜまだ地上に広がらないのか時々関あげます。多分、いつか神のご意志であれば、それを説明するチャンスがあるでしょう。
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今、聖書を開いていだきたいのです、我々は常に、御言葉が先に来なければならないと信じています。御言葉を読み込とがです。私はいつも読むのです、というのは私の言葉は人の言葉であり、失敗するでしょうが、神の言葉は決して敗れる事がないのです。
さて、我々は聖句を読んでいきます。そして聖書を開けていただきたいのです、まず3か所です。読む食べに選んだのは、黙示録の第1章の17と18節です。これは彼が神が白く又、足が銅の様になって顕れた場所です。そして皆さんご自身の聖書で見ていただきたいのは、ローマ人への手紙8:11です、今朝3か所読むために選んだのは私の今日のメッセージを主が私の心に復活に関しておいてくださったところからの聖句です。そして皆さんにもうひとつ読んでいただきたいのは、マルコ16:1と2.そこから内容を引いていきます。
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さて、黙示録1:18これらの言葉を17と18節から読みます。
わたしは彼を見たとき、その足もとに倒れて死人のようになった。すると、彼は右手をわたしの上において言った、「恐れるな。わたしは初めであり、終りであり、
また、生きている者である。わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。そして、死と黄泉とのかぎを持っている。
そして、ローマ人への手紙8章11節にはこのように書かれています:
もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。
そして、さて、マルコの福音書16章は、復活の章で、16章の1と2節では、
さて、安息日が終ったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとが、行ってイエスに塗るために、香料を買い求めた。
そして週の初めの日に、早朝、日の出のころ墓に行った。
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さて、今日の私のテキストは、取りたいのです。それは、「日のいずる所」そしてその季題について使いたいのは、働かせる力です。
さて、たぶん、ラジオで異なるミニスター達が話すのを聞いて居たことでしょう、我々の素晴らしいネビル兄弟は、今朝、彼の復活に関するイースターに関して話していました。そして多分少し違った道をとろうかと考えました、-違うようにするためではなく、ただ少し足そうと、多分他の角度から皆さんに見ていただくために。聖句はその聖句と全ての角度から見られます、そしていつもイエスキリストを宣言しています。そこから離れることは出来ません。それはいつも彼を宣言しています。
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さて、今日の世界でのメモリアル礼拝少なくともアメリカで又、地球のこちら側の今朝、教会は皆、その方が言えた最大の勝利を覚えて祝っています。
思うに、救い主として彼が死なれたときあるいは、赤子として生まれた時、地上に来萎えればなれなかったのです。そして彼が死なれたときに、私達の罪の贖いに間違いなく成られました。しかしそれでも、多くの素晴らしい小さな赤ちゃんが生まれ、多くの素晴らしいに人々が素晴らしい理由で苦しみ亡くなられましたが、誰も今日まで他には誰も死んで蘇られた方はいません。
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さて、歴史上それは最大の週で、最大のお祝いなのです、子のイースターは彼が言ったと売りの人であることを証明したところです。人はいろいろなことを言えますが、それは全く全てを信じる事が出来ないのです、それが真理だと証明されるまではです。そして神として、「全ての事を証明する、良いものにしがみつきなさい」彼がしない事は何も言われませんでした。彼は我々の罪の為に死なれた事でこれを証明したのでした。
そして今、これらの素晴らしいイースターの花や、ボンネットやピンクのウサギとかその他に入り来ぬだけでなく、そして聖なる祝賀、それは大丈夫です。でもこれは本当の事ではないのです。
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人々は、今日、この様に言おうとしています。「我々は一年に一度木曜日に洗足式をします、金曜日には聖餐式をします」そして全ての事なる教義の、彼等はこの日或いはあの日にすべきかどうか口論しますあるいは安息日か週の最初の日かなど、全てこれらの事は、人の伝統にすぎません。四旬節があろうがなかろうがもし命がなかったら?それはただの思い出になってしまいます。何にも敵対しません、しかし最も重要なことを離れて彼等の伝統を間違いなく続けて行くのです。
サタンは、あなた方がどれ程宗教的であろうと気にしません、あなたの教義がどれ程正しいかもです。もし、命を失ったら、どうにもならないでしょう。どれ程宗教的で、素晴らしく、いくつもの協会に所属していてもあるいは所属しようと、生まれ変わっていなければ何の問題にもなりません。
それ故、もし神がイエス様を死から蘇らされたら、彼はメモリーから蘇らせるのですか?この復活の朝は一年に一日だけ決まった日に祝うのでしょうか?あるいは我々彼の復活を受け取る者たち?それは私にとってどういう意味を持つのでしょう。信仰によって彼が死から蘇られたと信じていますが、それが自分にとって何だ問うのでしょう?それは2千年も前の事でした。
このテキストについて見ていきましょう。
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疲れて来て、私の腕は看護婦が注射したから痛くなっています。皆さんご存知の様に、数日後に海外に行くのです。そしてこれらの注射を受けなければなりませんでした、息子と私がです。そしてこれら、黄熱病などなど。病気になる事に関してかなり心配していました。カイザル(政府)が他の国に行く前にうつことを要求していました。そして彼は言いました「カイザルの物はカイザルに与えなさい、しかし神の物は神に!」と
そしてそこに座りながら、今朝この待っている会衆に話すことを考えていたのです(とても感謝しています、ここの男性達も女性達も彼等の人生を捧げています)私はどの様にすべきなのか?どのテキストをどのように取るべきなのか?
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そして、そこに座っている間、ほとんど寝てしまっていました、家の前側の扉が鳴っていました。知っている限り、誰も私以外にはいませんでした、正しくなかったのです。しばらくすると、居間の扉、私の書斎に変えた場所でそれが鳴りましたそして、誰かが扉をゆすり続けていたのです。そして、扉に行って開けると、驚いたことに、可愛い小さな、金髪で青い目の女の子が立っていました。まるで、イースターの花の様に見えました。(ちょうどここにあって私を見ている)
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彼女はカードを手渡しました。そしてそれは勿論、家に帰ったらイースターカードなどがあるでしょうしかし唯一家に置いて行かれた私が受けとったものでした。そして彼女は言いました「ブラナム兄弟、これは父と私からです」彼女は、私が家にいるのを確認したかったのです。そしては車いすに座っている、脚の悪い父親から送られたのがこのカードでした。それを受け取って、彼女に感謝をしたら、彼女は、扉から離れて帰ってきました。私はカードを開きました。
そこのカードの中には私のテキストが書かれていました。マルコの16章1と2節の、日の出、日が昇る事。
そして、それを考えた時、イエスキリストが死から呼びが得られた事に移管する議題をそして力を下さった事となり、私の議題となりました。
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さて、太陽、この日のいずる時、さて、時には世の中は真っ暗な時がありました。形も何もなかったのです。そして水に覆われていて、真っ暗で、何もない環境状態でした。そして神の霊が水の上で動いて、言われたのでした「光あれ」と。神にはそうされる理由がありました。水の下には、彼が植えられた種があったからです。そして、それが生きるためには陽光が必要だったのです。
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そして初めの光は神の語った言葉によって地に与えられました。初めの光が地に来た時は神の語られる言葉からでした。神は言われました「光よあれ」そして光が来たのでした。暗闇が光を得ました、喜びや命という創造物が地上にあふれるためには光が必要でした。
神の霊は、愛と思いやりによって動かれるのです、その素晴らしい火、地上に創造物が起こった初めての日にー太陽が上がり、地上の水が乾くように陽光の光があり、環境がその上に創られたのでした。そしてその時初めて、喜びと命が地上に種によってもたらされたのでした。それは素晴らしい時代でした。
しかし、オー何もなかったのです、日昇ーちょうどイースターの朝の日昇の様です。この時、太陽は、空を駆け巡り、より大きな太陽の今までない、偉大な知らせをこの日昇によって、持ってきたのです。この日昇は、「彼は蘇られた、死から蘇られた約束された通りに。彼は死から蘇られた」という知らせでした。
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初めて太陽が昇った時(創世記)地上に命が来るというメッセージが齎されたのですー死ぬ命。
しかしこの時、太陽が昇り、二つの日昇がありました。もう一つは御子が昇られたのです。ただの日昇ではなく、それは永遠の命を全ての神の約束された子孫に齎す、地上に彼が送られたという先見の知識によるものでした。
もう何も植物の命が太陽によって命を貰って戻ることは出来ません。今日と変わりません。神の御子が貴重に来られたのです神の御子(SON)の光が永遠の命を彼の選ばれた、世の始まる前から紙の知っている人々の為に。彼は彼等を彼自身が世の始まる前に選ばれていました。
そして、イースターの朝、この塵は我々の体の中にその時置かれ、我々は血の塵から創られたのです。阻止tえ天国は記憶の書の中に会いr、彼の属性は彼の中に在りましたー神の御子が蘇られたからそれを知っていることによって、全ての既に定められた者たちの命も蘇るのです。彼はそれをご存知でした。そして何と素晴らしい日昇となるのでしょう、初めの時から、それが初めての日昇でした。
さて、この偉大なイースターの封印が解かれて—-
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さて、今日、我々は結核の様なイースターの封印を持っています。人々はお互いにこの大きなお金やドライブをサポートするためにメッセージを送り、医者や医学者が結核をいやすために何か働きかけています。彼等は封印されています、我々がイースターの封印と呼ぶものです、お互いにメッセージを我々が送る時にです。しかしそのメッセージを受け取った時、その封印は解かれた尾ですと言うのはその中に入っていた物を受け取ったからです。
そして今、本物のイースターの封印はこの日昇により解かれました、死んだ後の命の秘密が明かされたのです。その時より前、我々は知りませんでした。世の中話真っ暗で、人は疑っていました。人々の心の中にいろいろな説がありました、伝統や創られた物。人々は偶像を崇拝していました、又彼等は太陽を崇拝し、全ての種類の神々を崇拝していました。そして全ての人々が、墓に行き、墓に居続けると宣言していました。
しかし本当の封印は解かれていて、一度我々が生きていたように生きたならば、同じようにしに、死からよみがえったのです。何という朝でしょう!世の中にこの様な歴史は他にはありません。その秘密は彼は復活であり命であることが知らされたのです。
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そして、彼はその朝やってきて言いました。「私の住むところに、貴方がたも住むであろう」と。彼だけがその復活の受け取り主でなく、神が約束された、これらの全ての子孫たちが、命の復活の受け取り主なのです。と言うのも、彼が「私の住むところにあなた方も住むであろう」と言われたからです。それこそが封印の時証しでした。彼がそこに行かれたから、キリストにある物全てが彼と共に引き上げられるでしょう。
この偉大なる日昇を下さる神が証明され指示され、彼の御言葉によってそうされました。全ての暗さや疑いのあった人々の心は取り去られたのです、何故なら彼は一度ここに来て人々の内に住み、食べ、飲み、フェローシップをされました。
そして、言われました。「私には、命を倒し再び蘇らせる力を持っている。」そして今、その宣言を作っただけでなく、それが真理であることを証明されました。何と素晴らしい事でしょう!
確実に今朝、信じていても理解できないかもしれませんがある偉大なことが行われたのです。と言うのは彼は死から蘇られて、我々も既に死から蘇っているのです、何故なら、我われは彼と共にある為です。
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気がついて下さい。地上は、何もなくそして種も太陽の日昇なしでは、生きることは出来ず、そしてそのどんよりしたものが地を覆っていました。そして今、御子(SON)が蘇られたので、この光によって全てのどんよりしたものが、消えたのです、世界中に広がっていました。「彼はここにはいないが、蘇られた!」何という宣言でしょうか!彼はご自身の言葉が真実であることを証明したのです、彼は死、地獄そして墓を克服したのでした。
悪魔の三位一体は、死、地獄と墓です。悪魔は死の主権を持っており、地獄を持っていますそして、墓も所有しています。それが悪魔の三位一体であり、一つの事により起こったのです。それは死でした。死によりあなたは墓に気、罪びととなり、地獄に行くのです。そのはっきりとして一つの事、悪魔(サタン)の三位一体それこそが死でした。これらの時代全ての間、人を捕まえていたのです。
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しかし今、その真理の神の三位一体は一つなのです、キリストの中に現れています、命があり、封印を解き又、敵を克服して、蘇られた方ー一つの真実、そして生きる神「死んだことはあるが世よ限りなく生きており、死と地獄への鍵を持っている」神は一人で、人となり、我あれの中に住まわれ、全ての敵を克服されました。そして悪魔の三位一体を克服し、神の三位一体つまりは神が一人であることを知らせたのです。神は唯一であられ、蘇らせる力をお持ちなのです。彼はインマヌエルです。神は肉体を持って顕れたのでした。
彼がそれらの事を宣言するのは疑いの余地もありません'(マタイ27章)天と地の全ての力は私の手に与えられている。私はあなた方を私の証人とするべく全世界に送った。彼は死も地獄も墓も克服した。それをしただけではなく、勝利を持って天と地の全ての力を持って、全て父であり、聖霊であり、全てが彼の中に在りました。「天と地の全ての力が私に与えられた」他の全ては力がない。彼がそれを克服したから。
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さて、それからそれだけでなく、彼は御言葉を彼の弟子、信仰者に送った。「恐れるな、私は彼であり、死んだこともあるが生きていて永遠に生き続けている。そして死と地獄への鍵を持っている;私は既にそれを克服した。もう何も恐れる必要はない。全てがあらかじめ定められていて、神があらかじめ定められた子孫は、生きて地上に広げられた、光によって広がった素晴らしい福音によって生かされるのです。
オー 何て素晴らしい事でしょう。「私は生きていて(あるいは生き返って)「その言葉の意味は、言葉によって生き返るというのは、ギリシャ語では、何か死からよみがえった。
地球において子孫の様に、死ななければならず、その子孫の全てにおいてだった。腐らなければならない全ての種がそしてその命が子孫が前に再び進み成長しなければならないのです。
彼は蘇ったのです。それだけでない、「同じ命を与えられて私を蘇らせた力が、墓から私を齎した力を私がそれをあなたに送ってよみがえらせたのです、私はそこにいる様になりあなたもそうなるでしょう。
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ルカ書の24章49節で、彼は、「 見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」と言っています。-つまりは彼自身だけが全ての利点を得るのでなくそれらの利点を分けあっているのです。
彼は贖うためにあらかじめ定められた神が世の初めから命の書に書き記された子孫に命を齎すために来ました。そしてここ地上に彼等は希望なくいたのです。彼は祝福になる為だけでなく、全てのあらかじめ定められた子孫にその祝福を分け合うために来られたのでした。さて、もし、その子孫が地上に居なければ、生きることは出来なかったでしょう。それは地上に居なければなりませんでした又、生まれていなければならなかったのです。どんなに長くそれが闇の中に置かれていても、御子の輝きが前に出れば生まれるのです。気がついて下さい。彼はそれを我々に分け合うために来られたのです。
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福音がよい知らせであるのは疑いもありません。福音の意味は「その良い知らせ」ですから。よい知らせとは何でしょう?もし人が我々の為に死んだらそれは良い知らせです。もしキリストが生きているそれは良い知らせです。しかしこのような知らせはニュースは他には決して決してありませんでした。彼が約束を確約にした方だからです。彼は永遠に生き、死と地獄の鍵の両方を手に持っている方なのです。全ての陰りは取り去られました。もう陰りは見えません。御子が墓から蘇られたからです。「彼は来られる」とか「彼は来るであろう」ではなく彼は既に来られたのですー福音、良い知らせです。
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その福音自身が人々に彼がよみがえらせたという事を証明する事に気が付いて下さい。「私の弟子たちの所に行って、私は詩から蘇ったと、そして彼等の会うという事伝えて下さい」オー神よ、この終わりの時に地上に光が再びあるでしょう。「私の弟子たちに証明するー行って告げなさい。私は死んでいない、私は伝統ではなく、生きているキリストである。彼等に会う。このメッセージを私の弟子たちに持っていきなさい。私は死から蘇った。」ー福音、良い知らせ。
あなた方は「その通りでしょうか?」と言う
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へブル13:8で、彼は昨日も今日もいつまでも変わる事がないと言っています。私達は彼を受け継ぐ者たちであり、彼の命が私達の中に在る事を証明し、この命の受け継ぎ主となっています。その命は、その様に生きた者はかつてなかったのです。彼は神の御子です。そして彼は死にそれでしめられましたが。彼が再び死から蘇った時、それが復活祭の朝(イースター)で、我々は彼の僕たちとして、世に行ってこの良い知らせを全ての人々の告げ知らすという命令を受けています。そしてその方法は御言葉によるだけなのでしょう?そのように書かれています。「福音は言葉によってのみ来たのではなく、聖霊の力と働きによるものであるというのは彼が生きていることを証明する為なのです。」
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さて、もし他に福音があるとしたら、パウロがグループの一つに語っている様に「私は驚いている、既にあなた方が別の福音に目を向けている」それは他でもなく、信じさせる福音ー宗派教団にお話し、それが福音に代わってしまっているのです。
「そして私が住むところにあなた方も住むことになる、そしてあなた方の内に私は生きているから、私のした働きをあなたがたもするであろう、私自身があなた方の中で認識されるであろう(ヨハネ14:12)」何というメッセージでしょう!我々は神学の暗い世界に居ましたが、夜の時間となり、光が再び来たのです。夜の時間に復活があるでしょう。光はいつも輝くからです。
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さて、そのメッセージの主要部分が送られました、彼が死から蘇り、我々彼を受け継ぐ者たちは彼と共に復活を分け合るのです、この利点を彼が生きているという事を世に証明するのです。我々は言葉だけではそれをする事は出来ません。人の伝統によってもできません。我々は指し示している事その通りに反映するしかないのです。
今日残念ながら、私達の多くは人々をキリストに導いていません。教会や考え方に導いてしまっています。しかし、我々は彼等をキリストに導く必要があります。彼が唯一の方であり唯一命をお持ちなのです。「彼は御子の内に命を持っておられる」
そしてもし死んだ人の命があなたがの中に在るとしたら、彼が生きたのと同じ人生を生きるでしょう。
ある人の血液型があり、別の人の血をあげるとしたら同じ血液型になるはずなのです。
そしてもし、あなたの霊が死んだとしたら、あなたはキリストに内にキリストの油注ぎを得るのです。
ローマ8:11では、「1もし、イエスを死人の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせた方は、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。」同じ命、同じ力、彼等はこの地上で神から同じものを受け継ぐ者たちです。彼はあなたを子孫を神が先見している種を贖ってくださったのです、世の初めから子羊の命の書に名を記されているの者たちだからです。
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そして復活、御言葉の各章の福音の光、、、どのようにして彼がキリストだと知るのでしょう?と言うのは、彼は話したことを証明したのです。それが時代の為のメッセージだと知るのでしょうか?神は八子測したこと、話されたことを証明されます。それが認証なのでしょう。それが復活の受け継ぎ者達であることwです。彼は彼が語られたことを証明されます。
キリストの中ですると約束した事、彼は復活で証明されました。彼がモーゼの時代に約束したことを、証明されました。エノクの時代に約束されたことをも証明されました。使徒の時代の全ても証明しました。
さて、この時代に彼が言われたことを証明されています、それらは神として再び戻ってきて贖う命の書にかかれた者たちの一部の子孫があると言われたのです。何というメッセージでしょう!
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イースターの朝において、彼は蘇られただけでなく、彼を受け継ぐ者たちも彼と共に引き上げられたのです。彼等は十字架刑においてキリストの内にあった者たちでした。彼の復活においてもです、我々は彼を受け継ぐ者たちで、闇の中で死んでおり、暗くされた不信仰の世に居て力を受けて蘇ったのです、その余と言うのは宗派教団などです、そこから我々を引き出してくださったのです。
そして、我々の召命の中には何かがあります。「オー神が欲しい!我々は神に対して飢え乾いているのです」我々はメソジスト、バプテスト、長老派、などその他に加わったそしてそこにも間違ったことがあります。我々はそれがいまだに何か見つけられなかった。そして突然、闇の中であえいでいた間に、我々の中に神の御言葉の約束があr話われの大きな復活が我々の来たのです。
彼が神の言葉の約束の中で顕された様に」「私は彼の魂を地獄に残す事は無い、又私の聖いものが堕落するのを見る事ははい。彼はそれを神の御言葉を彼に約束された全ての事を顕したのです。彼はイースターの朝に蘇られたときにそれを証明したのでした。
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さて、彼等闇の中に居たり迷っていた者たちーもし彼らが今日足を洗うかもし彼らがそれを守るべきことを守っているか特定のルールを守っているならばーーそういった事は過去のものになりました。偉大な復活が人の作った全ての事をしたことを人が作った理由付けを壊したのです。
その時まではそう言った事はありませんでした、人が彼の命を捨ててその後復活する事。彼等が科学的証明などを復活によって破ったのです。
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彼等がイエスキリストは昨日も今日もいつまでも変わる事がない事は無いという時、彼の力も同じでなく、彼の福音も同じではないのです、聖書は言っています。それは同じだと。神は全ての宗派、全ての信条を破り怖し、そして彼の聖霊と共に彼の約束として、前に進み我々に彼は生きていることを証明したのです。
彼の復活の受け継ぎ者である我々は、世での氏の後蘇り、罪や罰から離れる力を得たのです。我々に彼は彼と共に蘇らせ、キリストイエスと共に天的な場所に座っているのです。
彼の霊は彼と同じ人生を再び地上に生きる様にもたらしたのです。「もし神の御霊がキリストを蘇らせたなら、」その体、その油注ぎを受けた体、、、もし神の御霊がそのような形でその体に油注ぎをアが得たならば、地上に種が落ちた時に、彼はただそこに休み様にさせたであろう。いいえ。彼は彼を蘇らせ力を与えたのです。その同じ御霊(同じ働き、同じ力、同じ印によって)があなた方にいるのですそれは、あなたをも蘇らせるでしょう。
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ここで短い聖句を読みたいです。聖書を開いてここに書いてほしいです。少し助けることになる可能性があります。レビ記の23章にあります、9節から11章までです。しっかり聞いて下さい、律法の中で、レビ人の律法の中で、神はモーゼに語っています、聴いて下さい。全てこれらの事は形式なのです、そして我々はここでしばらく止まってこの形式について話していきます。
主はまたモーセに言われた、
「イスラエルの人々に言いなさい、『わたしが与える地にはいって穀物を刈り入れるとき、あなたがたは穀物の初穂の束を、祭司のところへ携えてこなければならない。
彼はあなたがたの受け入れられるように、その束を主の前に揺り動かすであろう。すなわち、祭司は安息日の翌日に、これを揺り動かすであろう。
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もし聖い祭祀があったならば、それは安息日となるべきです、それは週の7日目で土曜日となります。しかし気づいておられるでしょう、この記念は週の初めの日に移されていますね?
「 彼はあなたがたの受け入れられるように、その束を主の前に揺り動かすであろう。すなわち、祭祀が安息日の翌日に、これを揺り動かすであろう。」
安息日は7日目ではなく、初めの日につまり我々が日曜日と呼ぶところの 太陽の日 (SUNDAY)
勿論、それはローマの言葉で、太陽の日つまり太陽神の為。しかしどのように変えられたのでしょう!
それはもう太陽ではないのです。それは御子の日(SON)その御子の日は、麦の種でした(神は死からそれを初めに生み出す)それが動かされたのです、会衆に向けて、我々は彼の子孫です(種)です。それは眠っていた最初の種で、週の最初の日に動かされたのです。
日曜日に、彼は蘇り、さよならと手を振り、天高く人々のいる中で引き上げられていったのでした。
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気が付いて下さい、神の麦の最初の種は、死から蘇られたのです、神の最初の麦の種です。神の生き返らせる力により、神が彼の命を吹き返らせ彼を死から蘇らせたのです。彼は眠っていた者たちの最初の実なのです。初穂の実ー彼はその種だったのです。
だから、彼等はそれを揺り動かしたのです、成熟させるために。そしてそれは神への感謝の記念として動かされたのです。いずれ信じる者の残りが来るためにです。それは印でした。
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そして今日、彼が神の最初の御子だったので、神になる様に完全に成熟して、著から引き上げられ、人々に手を振って別れたのです。オー何というすがすがしく素晴らしい学びでしょう!蘇らせる力により、初めての御子が!彼は既に何度も形作られていました、それについては後に見ていきましょう。彼は創られていましたーしかしこれは本当に眠っていた物の初穂だったのです。彼は約束の命を約束の種(子孫)に動かされたのでした。
彼は五旬節(ペンテコステ)の日に天国からの波の様な力強い、強い風が人々の上に動かされたのです、ペンテコステの人々はペンテコステの日に祝福が来るのを待っていました。
そしてその波が再び来て、我々は認識したのです、終わりの日に、ルカの17章30節によると、再び御子の日にー30 人の子が現れる日も、ちょうどそれと同様であろう。再びに人々の上に、、、
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さて、この人の子とは誰でしょう?「初めに言葉があった、言葉は神と共に会った、言葉は神であった、、、そして言葉は肉体となり我々の内に住まわれた」我々の持っている全ての教えは神の御言葉によって確認されます。神の言葉の確証なのです、印により奇跡により、我々が今日見ているのは、ルカの17章の30節を読みましたが、ここにかかれているのです、そしてマラキ書4章、そして異なる聖句の数々が我々が関連していて、その御言葉が再び人人々に流れてきているのです、死んだ人の伝統的な物ではなく、神の御子が聖霊のバプテスマにより、再び我々の中に入り命を下さっているのです。
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キリストが全ての預言者や多くの場所での形式のある中初めに蘇った方として、彼がその眠っている、花嫁たちの初補なのです。キリストに来るもの、教会から出たもの、終わりの時に間違いなく、再び動かされるものがいるのです。何と素晴らしい!
種である束を動かす!束とは何でしょうか?初めの物が来て成熟する、初めの物がそれが麦だと証明し、その束を証明したのです。ハレルヤ!間違いなく私の行っていることが分かると思います。人々の中に動かされたのです。初めてそこに来たのは花嫁の時代の為で、暗い教団宗派主義から復活する為、そしてそれがメッセージとなり、御言葉が完全に満たされて再び完全な力が同じ印と奇跡によって人々の上に注がれて、彼がそこに戻ってくるようにしたのです。
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「私が住むところにあなたも住むようになるから」彼の妻に話しているのです。「私の住むところにあなたのも住むようになる」何という復活だったのでしょう!そしてこの復活が死んだ者を蘇らせる力、神の力によってキリストイエスを生き返らせたのでした。
彼は彼等に動いたのです。その御言葉彼がペンテコステの日に戻って来たのです、御言葉が表されたのです、
さて、そして私が言った様に再び終わりの時に動かされるのです、さて例えば、
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あなた方は「さて、まあ、ちょっと待ってください、ブラナム兄弟、私はある教会を知っています。」さて、私も分かりますね?
しかし今例えば、我々が今日の午後ツーソンに戻ったとして、そして我々人一人が大きな新品のキャデラックで行くとか?そして全ての席は死かの川で柔らかい皮で凄く座りやすくて床は実が開きあげられていて、タイヤはダイヤモンドスレッドでなどなど、エンジンは完璧に素晴らしく技術的に試験されていて、タイヤもベアリングもグリースがされていてパンクにもならない様な全てが科学的にテストされていたとしたら。
それらは部品部門のラインで共にシッカリ組み合わされて、ガソリンも満タンになっていました。それが走る力でガソリンはオクタンだったからです。でも今、あなた方それらを始めるとしたら、全て同じように見えても、輝きがなく、火をつける力がないとしたら。
さて、あなた方は言うでしょう。「その力はガソリンにあります、ブラナム兄弟、」しかしどれ程ガソリンに力があろうと気にしません、その力に光を灯す力がないのならば、そこに画素論があるという力を証明できないのなら、それでは水と同じなのです....
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どれ程、神学者が、あなたの教会がどれ程素晴らしく設定され、どれ程の教育を持っていて、どれ程聖書の知識があっても、聖霊がその人に来て御言葉によってよみがえらされ、その種の束がよみがえらせあられない限り、ガソリンは、御言葉を意味します。それが真理なのですが、御霊がなければそれは動きません。
我々はメカニズムに集中しすぎていてダイナミックに触れていません。神の力のダイナミズムを必要とするのです、イエスキリストの復活の力が必要なのです、それが表されることによりこれがガソリンとなるのです。ガソリンの中に在るかもしれませんが、もしその中に命がある事が証明されなければ、それがガソリンであるか否かを証明されるまでは力とはなりません。
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そして聖霊を出来る限り宗派教団に置こうと努力するとき、嘆きを得るでしょう。混ぜられた状態になってエンジンをおかしくすることになります。
しかし、ここに1万ものオクタンの力、神の御言葉、があり、聖霊が神の力によって、男性や女性のあるいは教会の命に力を与え光を着けることになる事を嬉しく思います。それはキャデラックを走らせる聖霊の力のダイナミックな力を使い、人々を五旬節(ペンテコステ)の時代と同じように動かすのです、それが彼を昨日も今日もいつまでも変わらない方にした力です。
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初めに、全ての預言者の上に、その種が来ました、それこそが全ての預言者達の王である、神の御子でした。
教会があり教会が又あり、花嫁、花嫁、教会、花嫁、花嫁がありました。しかし新しいものが来る必要があります、本物の花嫁が来る必要があるのです。(ハレルヤ!)メカニックだけではなく、ダイナミックもです、教会を行かし、復活の力に入るのです。我々がその場ソニ車で、我々がその場所を見つけるまで、その場所を磨くのに何の意味があるのでしょうか?フェースリフトやら艶出しをする意味があるのでしょうかもしそこにダイナミックがないのだとしたら?どれ程メカニックが正しいと証明しても、ダイナミックがなければ働かないのです。
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それを彼は証明しました! ハレルヤ!それこそがイースターが証明したものです。彼はただ言葉だけではなく、彼自身が神だったのです、そのダイナミズム(動かす力)が御言葉の中に在りました。それがイエスキリストの体(肉体)を作ったのです、そして墓での死から蘇り、再び命を得て、墓石を転がしたのです。「私が死んでいた者である」だから日が昇るまで彼は死んでいたと言いました、月は彼は死んだ星は彼は死んだ全ての自然は彼は死んだと。そして今、世界中が彼は再び生きていると認識しなければならないのです。彼はただメカニック、神の御言葉であっただけでなく、彼はダイナミック(動かす力)であることも証明したのです。
そして彼は花婿となり、花嫁が来なければなりませんと言うのはそれが彼の一部になるのです。そして他の全ての人々が語った花嫁についての啓示の成就として顕れる事になるだけです。それはただ顕れるのですもしそれが花婿と違っていたならば、花嫁ではありません。彼女は彼の肉の肉、骨の骨、命の命、力の力なのです、彼女が彼なのです!男性と女性が一つになって、女性は彼の側を取り、彼女は彼の霊を受け取り、彼の肉を持ち、一緒になります、それがメカニックとダイナミックを生み出すのです、
教会あるいは人々が、、、そうなるまで、
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全てのイースターバニーやらお祝いやら大きな教会や装飾品は、だめになり、消えていきます。
教会がダイナミックとメカニックの両方になるまで、そして神の霊が動かして物事が彼がしたこと居成るまで。彼が16のシリンダーを打ったとしたら、花嫁もそうなります。 アーメン! ヨハネの14章12節で彼が言っています。「12 よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである。」つまりは、彼に私のダイナミックを与えてチャージアップするから、世はそれに耐えられないであろう、そして私が再び終わりの時に、彼を蘇らせるであろう」それがイースターのメッセージなのです。そのダイナミックとメカニックが一緒になっているのです。ダイナミックのないメカニックは良くありません。又メカニックのないダイナミックも良くないのです。
好きなだけ叫んだり騒いだり飛び跳ねたりすることが出来ませすそしてこの御言葉を否定したら、それは全く良くないのです。それはただ落ち込みになるだけです。ピストンにスパークを得なければ火は尽きませんがガソリンがそれを続けさせるのです。
ただ一緒になって初めて働くのです。アーメン!片方が静かに座っていてもうひとつが上がっていくのです。それだけの事です。しかし、彼等は両方とも同じように見えます、両方とも教会だと言います、両方とも花嫁だと言います。しかし片方だけがメカニックとダイナミックを持っているのです。それは起こる事ですと言うのは彼がそれが真理だと言ったからです。
ダイナミックが来るまでどれ程メカニックがよくても動きません。ダイナミックが来るとき、ガソリンの中に在るオクタンに繋がって日が付くのです。そしてそれが燃焼を起こさせるのです。そしてその燃焼は動きます、全ての動き、全ての活動、彼は昨日も今日もいつまでも変わることの無い方だからです。それが復活なのです。それが神の本当の力です、ダイナミックとメカニックとが伴うのです。気が付いて下さい、その御霊が力をくれるのです。そのスパークが火を産むのです。それはガソリンではないのです、そのスパークがそのガソリンに火をつけるのです。分かりますね?
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「私なしでは何もすることが出来ないが、私と共に居れば何でも出来る」彼は御言葉でありそれが父の住むところです。
「父は私を送ったので私はあなたを送り出す、父が私に火をつけて全ての事をさせた、私は父を喜ばす事のみ行う。さて、彼は私を送り出した、だから私もあなた方を同じメカニックで送り又、同じダイナミックでのみ動かされる。そしてこれらの印がメカニックを持つという者には従う。ダイナミックがそこで動くようになるであろう。
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パウロは言いました、「福音は御言葉によってのみ我々に来たのではなく(ガソリンだけで)スパークを通しても来た、それによって動く為。だからあなた方が居るのです。我々にその形で来たのです。
それは彼を蘇らせた同じ御霊が真の信仰者が永遠の命を持つために力を与えられるのです。さて覚えておいてください、可能性として
さて、しっかり見て下さい(時間が無くなってきているのです)気が付いて下さい。その同じ御霊 さて、ローマの8章の1です、さて、そこをもう一度読みましょう。ローマの8章の1とそして何と言っているでしょう。 大丈夫、ごめんなさい。8章の11でした「11 もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。」
オーそうあなた方の中に、もし花婿の御霊が花嫁に、宿っているならば!
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神が彼の最初の花婿を作った時、彼は花婿を最初に創りましたそして彼は男性と女性の両方でした、御霊の内で彼は血の塵から彼を作ったのです、材料としてでした。そして気が付いて下さい、彼がエバを作った時はアダムからでした、彼は土の一部を取ったのではなく、彼は同じ土から撮ったのです。その同じ御言葉、アダムの為の語られた言葉です。彼は彼から撮って、、、作ったのでした。彼には、男性的な物と女性的な霊の両方を持っていました。そして彼は女性的な霊をアダムから撮って、それをエバの上に置いたのです、だからそれはまだアダムの霊の一部です。それはアダムの肉でありそれはアダムの霊でした、そのダイナミックが彼の肉体のメカニックに力を与えたのです。
だから、その花嫁は彼の肉の肉であり骨の骨である必要があります。そしてどのようにしてこの偉大な移行がなされたのでしょうか?気が付いて下さい。
さて、もし彼の御霊(神様の)イエス様を死んだあなたの内から蘇らせるならば、彼はキリストを死から蘇らせたので、あなたの死すべき体も彼の御霊があなた方に住まわる事によって力を与えることになるのです。
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オー何と素晴らしい!そのあらかじめ定められたもの、もちろん、地に植えられた種の様に、そこに命を持っている者。多くの物は死んでいました。腐った種だったのです。水やその他の物が彼等を焼いてしまいました。しかしご存知の様に、種はそこにあり、生きる準備がされていたのです。神はご存知でした、それはそこに在ったのです。
さて、あらかじめ定められた者たちが聖霊によって初めよみがえらされ、聖霊がそれを自分の物として請求するのです。(さて、これは本当に理解するのは深いです、素晴らしいので理解してください)
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さて、太陽が地球を通して送られたとき、岩は送られませんでした。」(塵もありました)命を与えるために、全ての塵に命を与えたのではなく、命の周りにいた塵の一部だけが命を得られたのでした。
全ての人がキリストを受け入れはしません。オー違います。しかし神があらかじめ定められた命は、その地の塵の近くにいるのです。それに神が来て命を蘇らせるのです。彼等だけです。
さて、その塵は、太陽に下にあり、「オーこの古い太陽光は熱すぎる!」その岩は言うでしょう。「この太陽は凄く暑い!」としかしその小さな種(子孫)は言ったのです。「これがちょうど探していた事」そして命が前に進み始めたのです。それは塵の一部として命を受けたのです、何故なら、岩ではなく塵にでもなくその命の種を蘇らせるように太陽は送られていたからです。
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さて、聖霊が今来ています。もちろんそれは送られてはいませんでした。なぜすべての人が受け取らないのでしょうか?それは彼等に送られていなかったからです。
ある人は私に言いました「私は信じない、あなたが何を言おうと気にしない。たとえ死人を蘇らせようが何であれ、病人を癒して証明してもとにかく私は信じない」と
私は「間違いなくそうでしょう、あなたは不信仰者です。それはあなたには意味がないのです。それはあなたに送られていないのです。信じる者の為に送られているのです。
そのメッセージは信仰者の為の物です。死ぬものにとってはそれは愚かなものですが、キリストにあるものにとって子孫の一部である者にはそれは命なのです。
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私の小さな雌鶏の下に置かれた鷲が居たの農民の卵の物語です、分かりますね。その小さなわしは本当におかしな小さな生き物でした。この農民がこのことをしたとき、彼はこの鷲の卵を年寄りの雌鶏の下に置いたのです。彼女がそれを返した時おかしな見た目の鶏でした、それは変な小さなやつでした。彼は彼等とは全く違っていたのです。彼の羽は他の日よ子たちとは違っていました。彼はおかしな小さなやつだったのです、他の鶏たちも彼がおかしな奴だと分かっていました。そしてその雌鶏が出かけて行きました。
彼は彼女がくれる餌も嫌いでした。その農家の庭からくる食べ物が嫌いでした。彼はそれと何も関係がなかったのです。さて、彼はなぜ他と違っていなければならないのかと考えました、分かりますね?そして彼は他の物を味わった事はありませんでした。ただ生きるに十分なものを食べていました、その味は嫌いだったのです、というのも彼は初めから鶏ではなかったからです。
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そしてその雌鶏はこの様に言います、「奇跡の日々は終わった、そのような事は無い。教会に加わりなさい」その小さなやつにはそれは正しいと思えませんでした。彼はある日彼の母親が来るまでその雌鶏に従っていました。
そして年取ったわしは彼女は沢山卵を産んだうちの一つがなくなっていたことに気が付いていました。彼女はその鷲がどこかにいる事も知っていましたので彼を探しに出かけたのです。彼女は三兆の上を跳びまわり、谷におり、彼がいるかもしれない所どこもかしこも行きました。この時までには彼は産まれているはずでした。彼が帰っている時間だったはずだからです。「多分、カラスが来て私の卵を取ったかも、ハゲタカだったかもしれない。分からない。何かが私の卵を取っていた。でも、分かっているのは、その卵が思いの中にいる。息子がどこかにいる。彼を探さなければ。
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それを神もなさるのです。彼は偉大な鷲でした。思いの中で、教会があると知っていました。人々がいる事も分かっていました。どれ程彼等が集まっていても、どこで生まれていたとしても、彼は探しているのです。彼は彼自身の者たちを探しているのです。
そしてある日、その物語は続きます。この鷲がその農家のい上を跳んでいました。彼女はどこもかしこも探していましたそして彼を見つけました。オーそれこそが復活であり、彼は本当は鶏ではない事がやっとわかったのです、彼は鷲でした。そして彼はいつも、下を向けと教えられていました、虫を探すか何か農家の内庭の中を探せと教えられていました。しかし彼が彼がある声を聞いたのです。「上をこちらを向いて!」そして彼は上を向いたら14フィートの羽をもつ力強い生き物がそこにいました、全てのそこにいる鶏がそして彼を彼女の息子だと言ったのです。
彼は言いました。「ママ、どうやってそこに行けるの?」
ママは「ただ跳んで羽を羽ばたかせるのあなたは鷲なのよ」
分かりますね、彼女は息子がどこかにいるのを知っていました。どのように育てられたとしていても、息子を見つける事が出来るのです。
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又、神はご存知です!ハレルヤ! 彼はあらかじめ定めらたものであり先見されていた教会でした。彼は息子達や娘達そして花嫁がどこかで待っているのをご存知でした。聖霊がその種の動かされたところに飛び始めると、何と素晴らしい!彼は昨日も今日もいつまでも変わることの無い方なのです。それは作り話ではなくて、真実なのです。!
彼に退散に人が告げようとも、、、鷲は、彼は鷲が何かすら知りませんでした。しかし彼は鷲だったのです。彼は彼自身を反映するものを見るまで分かりませんでした。彼が反映している者、、
そして私達が見る時、宗派教団でもなく、Ph.D. でも LLDでもなく、良い隣人でもなく、それは神の御子だったのですー神に似せてつくられた、神の力とダイナミックを持ち、この時代に要求された答えを持っていました、彼は昨日も今日もいつまでも変わることの無い方です、だから雌鶏はあなたを持ち続けられません。彼は彼の母親を探すのです。彼は鷲だったのです初めから。彼はこの本物の鷲が神の御言葉の召命だと認識します。なぜでしょうか?彼が鷲だからです。鷲から鷲へ、その御言葉は世の初めから、御言葉であり、あらかじめ定められた御言葉として、その時代の為にかかれていたのです。あなた自身の位置が分かりますか?彼はそれを探しているのです。
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そして、この地につく肉体は神の御霊により神の御言葉への従順となる様に蘇らされたのです。
(急いで) 彼がどのように彼女と一緒に行けるかを知りたがった時、彼は出来ないと教えられていたのです。「お前は鶏だからそれ以上高く飛べない。と
しかしこの鷲は言いました。そうではないはず
ほら鶏たちを見てごらんよ。
鶏がどうあれ、お前は鷲だから。その羽を広げればちょっと練習するならば、飢えに上がり始めるんだよ。
御言葉から御言葉へ「私がしたことを私を信じるならば彼も同じ様にするようになる。
「私が住むところに彼も住むようにやるから」「もしもし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。」分かりますね。
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それはどうなっているのでしょう?さて聴いて下さい。知る様になります。このイースターが今までのイースターとは地あう意味を齎せたいと思っています。分かってほしいのです。我々は彼によって何がなされたかを知っていますが、将来ではなく、同じようにあなたにもなされていることを知ってほしいのです。それはどうなっているのでしょう。死すべき力を生かす。この死すべき肉体我々が生きている者を生かす、つまりは命を与えられるという事でしょう。
さて、あなたは大きな煙草や何でもあるいは沢山のたばこをくわえて歩んでいたかもしれません、あるいは女性イタチは髪が短く、化粧をしその他の事をしたり、短パンを履いたり、そのようなことをやっていたのにある時突然何かが、叫んで、ここを見たのです。それは御言葉でした。分かりますね、それがあなたに命を齎したのです。あなたは言いました。「もう短パンは履かない、お酒も嘘もつかない、盗むこともこれもあれももうしない」分かりますね。もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。」
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さて、「えっと、」あなたは、「言わせてもらいたいのですが、私の牧師は、」あなたの牧師が何といおうと気にしません。それが御言葉が行っている事だから、もしあなたが鶏になりたいなら彼等ともに行きなさい。しかしもし牧師がこの御言葉と違う事を言うならば、彼は鷲を養うものではありません、彼は鶏を雌鶏を養う者なのですね。鷲の者でなないのです。鷲は鷲の食べ物を食べます。それが命をくれるのです。
聖書では、それは間違っていると言っています。そして人々やその他あなた方がする事全てが間違っていると。もし、「奇跡の時代は終わった」とこの聖書は、彼は昨日も今日もいつまでも変わる事がない。と言っています。もし彼等が、それは精神的な神顕体、そしてそれはある意味読心術だとか、この識別力であり、そしてこれらの幻やこういった事はナンセンスだというならば、彼等は鶏なのです。彼等は、わしの食べ物が何だかを知らないのです。
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しかし兄弟、その叫び声を聞いたとき、あなた方の中何かが気が付いたのですーあなたは初めから鷲だったのです。どうして?あなたは御子が地上に巻いていた種で復活されるために揺るがしたもので、あなたは鷲で、宗派教団の鶏ではないのです。分かりますね?
さて、もしその彼を死から蘇らせた霊が(御言葉その御言葉のダイナミックさ)があなた方に住んでいたならば、あなたの死すべき体も生かしてくださるのです。さて、我々がどのようにして彼の肉の肉骨の骨になれるのでしょう?何故なら、我々がまだ死すべき罪びとであった間に(死すべき、死ぬ準備が出来ているこれらの肉体)その体を生きる物としてくださったのです。何がでしょう?命を齎したのです。その御霊は酒を飲んだり、あほをやったり、姦淫をしたりそういったものを、辞めさせ生き返らラ瀬田のです。なぜでしょう、そういった事は死んだのです、あなたは復活したのです。それこそがあなたの死すべき体を生かしたという事です。
ですからあなたの体はその神のダイナミックの宮となったのです。と言うのは初めからあなたはそのメカニックのいz日歩だったのです。あなたの復活があったのです。彼ともに復活にあずかるその教会があるのです。これらの肉体はちょうど今生かされているのです。あなたは聞きました、信じて、御言葉に宗派教団から変わったのです。分かりますね?
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そのダイナミックは、もし水の上に来たらそれはただはじくだけです。「奇跡の時代は終わった。ポンポンポン」オー私は聖書を信じているが、そこにはない。分かりますね?
しかし彼が千オクタンを叩いたら「ワォ―」彼女は離れます。分かりますね、何てこと、そのダイナミックがそれを叩いたのです、
しかしそれは鶏にはストライクしないのです、良いものにはなりません。しかしもし鷲にストライクしたら、彼は動くのです。アーメン。そのメカニックとダイナミックが一緒になるのです。どういう意味でしょう?それだけです、もし彼が本物の鷲ならば彼は理解するでしょう。
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ここで小さな聖句をはっきり説明させて下さい。(電話は切れたと思いますがまだ私達はここにいます)ヨハネ5章24で
イエス様は言っています。24 よくよくあなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである。さて、見て下さい、私がストリートを歩いて行って、その話をそのまま受け取ってください、というのは、霊的な理解は関係なく、他の事は言いませんがただそれだけを言っているのです。分かりますね。ギリシャ語が原本でその正しい言葉では、「私の言葉を理解した人は」とあります。
さて、それア正しいと証明するために、ここに来たのです、そして酔っ払いが別の人の妻と腕組みをして歩いてきましたそして悪口戯言を語り、神の名前を無駄に語り、そしてその他路もろ言っていました。「その説教師が言った事を聞いたか言ってみて下さい?聞きましたか?
「はい、聞きました」彼が永遠の命を得たと意味ではないのですね、?
「私の御言葉を理解したもの」彼とは鷲を意味します!
「さてブラナム兄弟、もっとそれについて多くの聖句が欲しいです」
分かりました「私の必日は私の声に聴き従う、知らないものに彼等は従わない」
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先日話した結婚と離婚の場合でもそうです。聖霊が降ってきて私に話しましたそしてそれをその通り私は来て話したのです。彼は言いました。
ある聖職者の女性が正しい形の血さなボーリングをくれました。彼女は言いました「あなたは神の場所をとるのですね?
私は言いました「いいえ違います」
そして言いました「あなたは言いました彼等の罪は許されたと」「神のみがその力を持っているのに、、、:」他のパリサイ人も、、、
私は言いました「あなたはイエスがペテロや使徒たちに行った事を知っているかもしれない、ペテロがイエスが誰なのかと言う啓示を受けた後に、ペテロはイエスに言いました「あなたは神の子キリストです」
イエスは言いました「幸いなもの、ヨナスの息子、肉や血がこれをあなた明らかにしたのではなく、天におられる私の父がそれを顕したのである。 そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。あなたが地上で願ったものは何でも天につなごう地上で、
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それは御言葉が肉体を取ったという神の啓示です。もし御子であり花婿である方がその肉体におられたならば、今日その方への花嫁が肉体となっているのです。
「何でも罪を犯しているならば告白しなさい、許される、何でも罪をおかしつづけるなら罪の内に居続ける。」
さて、カトリック教会はこれを取ってそれを祭司(神父)の所に持っていきましたがそれは地につくものです。
見て下さい、それは御言葉の中でそれが何かを霊的に明らかにしたものです!それが理由で彼は彼等に父と子と聖霊の名(一つ)によって洗礼をしなさいと言われました。彼は彼等が彼を誰だかを知っていることを知っていたからです。
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ある日、若い説教師に話していました、彼は私に言いました「さて、ブラナム兄弟、私は出て来て、ある教会に行きました、ペンテコステ派の教会で、、、
そのペンテコステ派の教会は今、丸いウェファースを取り始めているのですね。 聞いたことがあると思います、-コシャー その月の神ですね。そして彼らはそれを受け入れて取っているのです。この人は言いました。。彼の会衆が彼にやってきました。彼はこう言いました。「私が祝福したものは祝福されている」さて、それを祭司が言った事ではないですか?彼はキリストの体に戻る力を持っていますか?分かりますね、そこには6人しかいませんでした、12人の半分、ちょうど同じです。
そして彼は言いました。「あなたに尋ねたい事があります」彼はイエスの名前での洗礼についての問題に触れないようにしていました、これはそれはアンチキリストだとその人が言ったからでした。彼は言いました。「人がイエスキリストの名前で洗礼する必要があると思っていますか?」と
私は「はい勿論」と言いました。
彼は言いました。「父と子と聖霊との名によって洗礼した後で?」
私は「はい、彼は全く洗礼をしていませんでした。全くです。名前ではなくそのタイトルで。私は言いました。「それは認識されていません」私は言いました「なぜペテロは?」
彼は「さて、言いたい事があります」彼は言いました「さて使徒行伝10:49です」「これらの言葉をペテロが語ったときに聖霊が彼等の上に下ったのです。
しかし、私は言いました。「彼は正しい方向に行った」そして「水があるところで洗礼を受けるべき人を止める事が出来る人がいますか?
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彼は言いました「さてしばらく前に使徒行伝19章で、エフェソスの海岸の上部を通っていくときに弟子たちを見つけて言いました。「なぜ?「彼等は父と子と聖霊の名によって洗礼していないのだ?」と
私は言いました。「彼等は罪の許しの為ではなく、悔い改めの為に洗礼を受けていたのです、悔い改めに関しては、イエス様はまだ知られていませんでした。まだ犠牲は殺されていたなかったのです」
彼は言いました「さて、ではなぜ彼らは洗礼をしなければならなかったんだい?」
私は言いました「その人は鍵がありました、これを言いました「 この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」
救いはイエスキリストの名前だけによるものなのです、「することも言う事でも何でもイエスキリストの名の下でするなら」他には名前はないのです、どの教会もどの階層も、どのタイトルも何もかも他にはないのです。しかし、彼はシャロンのバラ、谷のユリ、明けの明星、アルファ、オメガ、初めであり終わりである方、エホバジャイラ、エホバラファ、エホバマナシェ、これら全てです。彼はこれらすべのも物です、しかしこれらのタイトルでは救いはないのです。エホバ、救いはない、シャロンのバラ(彼ではあるが)救いはない、父、子、聖霊、では救いはないのです。「イエスキリスト」の名前のみです。そしてそれが聖書が行っている事です。
「悔い改め、罪の許しは、彼の名によって教えられなければならない、エルサレムで始まり、地の果てまでも広がっていく」
彼は言いました「それに違いがあると思うんですか?」
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私は言いました、「もちろん、何かを尋ねる事を期待しています」彼と私と私の妻がテーブルについていました。彼はただ私の事が理解できるように動いたのです。「僕らは両方ともアリゾナ人です。ここに住んでいますそして我々の規律を知っていて、そして我々の地区とかその他も、市長も知事も全て」
彼は言いました「はい」
私は言いました「さて、もし兄弟、ここに行ってアリゾナ州の知事の名前で我々のディナーの為に署名をしたら、どうでしょうか?デスクで彼らはをそれを受け入れると思いますか?
「なぜですか?」彼は言いました。「だめだと思います」と彼は言いました「なぜイエス様はそれを言ったのですか?」
私は「これだけだとね?なぜか?もし私がこのディナーをアリゾナ州の州知事の名前で署名してきてと言ったら、アリゾナの州民として、知事の名前を知っていますね、サムゴッダードという名前は知っているから署名する方法を知っているでしょう。ね?」私は言いました「それは州の知事で、疑問はないです、誰が知事である事、、、彼は言いました「父と、子と聖霊、彼はどの様に精励する事になるかを知っていました。彼等は彼が誰かを知っていました。「私の羊は私の声を知っている」
彼は言いました。「オーなるほど」「でも、居間、次の事、あなたは信じますか?彼は私の言葉を聞いて彼を私を送った方を信じる者は永遠の命を持つ」そしてこの新しい命があなたの内に住むとき、それは可能性があります。
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あなたがたが聖霊を受けた時、彼等は五旬祭(ペンテコステ)の時だったのです、、彼等はメカニックで、ダイナミックが来る必要があったのです。彼等は信じていました。ご存知ですよね、我々の良きバプテスト派の友人たちは私達に言います、信じる時既に持っているのだと。しかし、彼等は持っていませんでした、しかし彼らは信じていたのです。
使徒行伝19章、彼等は信じていたが、持っていいなかった。「信じて以来聖霊を持っていたのか?」分かりますね?
彼等はメカニックはありました、そうですが、使徒たちは、、あるいはアポロが彼等に教えた音は聖書を提供して、そのメカニックを教えたという意味です、イエスがキリストでありましたが、彼等にはそのダイナミックがまだなかったのです。それだけの事です。大丈夫です。
(テープに空白の区間)メカニック、可能性があり、真摯に待っている。
さて、ダイナミックを得ると、死すべき体が死ななくなる力を得るのです。それが全身が御言葉に属し従うものとなるのです。行動が変わり、見た目も変わり、生き方も変わるのです。それはあなたを変えるのです。
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さて見て下さい(テープの空白区間)生きる力を得ると「 罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし」 どのようにして?彼の御霊がイエス様をイースターの朝死から蘇らせたのです。そしてもしあなた方の死すべき体の中に(しっかり見ておいてください)住んでいるのだからそれも生き返らせ命を与え、御言葉に従う様にされるのです。
さて、その御霊があるとどのように宣言できるのでしょうか、そして御言葉からあなたが離れていたら?あなたは何か他の物によって生かされている。あなたの死すべき体は御言葉に対して行かされるでしょう。その通りそうなります。
それなしで走ることは出来ません。滅茶苦茶になるでしょう、もしそれを全て信じないならば、もしガソリンと水をの一部をを持っていたとしても、どこにも行けません。あなたは100%ガソリンでなければ動かないのです。そうじゃなければ火を後ろ向きにさせ、力を得る事は無いのです。「これは信じるけどあれは信じない、、、」ポンポンポン。どこにも行くことは出来ません。
しかしオー完全に信じる時! それに光を灯しましょう。全ての御言葉は真理です。
72
さてここで気が付いて下さい、閉めるとして、これに気が付いて下さい。それは小さな種が植えられただけの様な事です。さて、あなたが復活した可能性があります。聖霊をあなたの内に受け取った時あなたは復活したのです。その時すぐに復活したのです。あなたの体も復活している可能性があります。
小さな種を見て下さい、それは地に植えられています。泉から飲み、水が注がれている必要があります。そしてそれを飲むと彼に勧められていくのです、その種に似たものが地から上がって育つのです。ね
教会はその方法で出てくるのです、正義化、聖め、 聖霊のバプテスマ、それによって花が咲くのです。
神の御霊がそれを通ってくるのです。
そして世の霊は反キリストを通してきます、同じ方法で、偉大な教会の統一 分かりますね、すべての事です。
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そしてその個人もその方法出来ます。全ての事が神の同じはかりで働きかけられるのです、何故ならイエスは昨日も今日もいつまでも変わることの無い方だからです。完全な復活に近づくのは御霊によるのです。
太陽として、小さな植物が神の泉から飲むと、ただ維持します。。さてそれは一つの物からだけ飲むのです。もし油を小さな種に注いだとしたらー死んでしまいます。その通りです。腐った様な水を、古い水を灌いだら、それもよくないのです、それは腐っています、成長を止めてしますのです。それでは実はなりません。そうですね?しかし本当に良い雨の実zを灌いだら、アーメン 人口の科学的な物は入っていません、天国から直接来るのです、その小さな植物を見て下さい。
雨水の様に育たせる水はありません。クロロフィンなどを入れます、我々に飲ませようとして、そして初めにあなたが知っている事は、 それは植物を殺してしまいます。
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今日の問題はそこに在ります。彼等は水を宗派教団の泉から与えようとします、それは成長を止めてしまうのです。しかし彼は
憐れみのしずくが来るところは輝いていて;
昼も夜も私の周りには輝いている
イエス様は世の光
(だからあなたはそれを得ているそして。)
我々は光、美しい光の中を歩くでしょう
輝く憐れみのしずくあくるところに
それが私の周りにただ輝く、
私から全てこれらの人口の泉を取り去ってください!イエスの血塩以外の泉は知りたくないのです!私が知りたいのはそれだけです。私の内に御言葉が住みますように。あなたの御霊とともに水を与えて下さい。
75
気が付いて下さい、さて、その御霊は墓からイエスをよみがえらせてそれがあなたの中に住んでいるのだから命を持っているのです、御霊によって御言葉が生きて信じる様になりそれに導かれるのです。小さな芽は成長と共に押し上げられ続けるのです。
気が付いて下さい、ペンテコステの時に、彼等の体は新しい命に生まれ変わったのでした。小さな臆病者の集まりを見て下さい。(長すぎるかな?見て下さい、まだ始まったばかりで、気分が良くなり始めた、何て素晴らしい!)
76
気が付いて下さい、彼等は臆病な卑怯者でした。気が付いて下さい、しかし彼等にはメカニックがありました、ね。しかし彼等はそこにただ座っていただけでした。こういいながらです。
「オー、僕はそれが怖い、出かけて行って宣言するのは怖い、オーあの凄い司教とかああそこにいる。オー恐怖だ。あの祭司とかいろいろ、このことを宣言するのは怖い、神を信じているというのア怖い。オーただできない分かるかな?」と
しかし、突然、そのダイナミックがやってきます。そうです。それは何でしたか?彼等の霊に包まれただけでなく、彼等のメカニックに命を与えたのです。彼等の体に命を与えたのです。彼等はもう臆病な卑怯者ではなくなったのです。人々の前に出て行ったのでした。その通りです。「エルサレムに住むユダ族の人々! そのダイナミックが来ると彼等はただメカニックなだけですね、エルサレムに住む人々、あなた方に知らせる、私の言葉に心を止めよ!これらは酒を飲んできたわkではないのです、分かっていますよね。
「私も彼等の一人です。これがその通りです!それが何だか未戦勝。それは聖句です。これがそれなのです!
そして私はいつも言いました「それがそうでないなら、それが来るまで守らせてください」
「いいえ、それは預言者ヨエルによって語られたものです。それは終わりの時になされることに成ると神は言われる。私の霊を全ての者に注ごう」見て下さい、ダイナミックはメカニックに来るのです。彼等はもう恐れてはいませんでした。
77
あなた方の内の何人かはある女性達は人にあなたの長い髪や化粧を辞めたことを笑われることを恐れているかもしれません;あなた方の何人かは聖書にあった洗礼をしたがゆえに組織に投げ出されることを恐れています;ダイナミックが来るまで上の部屋で自分自身を閉めている必要があります。それは大丈夫です。
それが彼等を変えました。命をくれたのです。彼等を変えました。それ以降彼等は変えられた人々となったのです。
古い命の卑怯な臆病者からユダ族の獅子の様に命を与えられたのです。彼等は実際に殉教に会う事になりました。十字架にくぎ付けにされ、逆さ十字架に貼りつけられ、焼かれライオンの穴に投げられたのです。彼等はもう全く臆病者ではありませ。死は彼等の上に全く勝利を得ませんでした。メカニックの中にダイナミックああったのです。彼等の死すべき体に命を与えたのです。
78
さて、聴いて下さい、ここに他の証明があります。彼等がそのようなやり方で命を与えられたとあなたがそれを知るまで?彼等は天的な場所に引き上げられ、言語が変えられ死すべき体に命が与えられたのです。彼の言語にも力を与えたのです。そう聖書が言っています。彼等の死すべき殻そして彼等の言語も力を与えられた。彼等の思いも彼等の例も彼等の命全てが行きあsレ他のです。つまり彼等は全ての面で行かされたのです!彼等が話そうとすると、もう人間の言葉では離せませんでした。神のご臨在の中に居たので、新しい言語、天的な新しい言葉を話すところまで力を与えられたのです。何という生きさせる力でしょうか!
79
「 もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。そして以前にしなかったことを出来る様にしてくださるであろう。彼等は生き返られた力を全て持っているのだから。
あなたの体はもう罪には属していないのです、あなたの思いは
彼が「ここに行きなさい」と言ったら
あなたは「口を閉じなさい」と言います
「オー我々が最大のを得た」
「口を閉じなさい」
アーあなたは鷲なのです! どれだけ年を取ったわしが独立的だか見たことがありますか?彼等はハゲタカの様に全ての死んだ獲物に飛びまわったりしません。彼はプライドを持って歩いているのです。
「口を閉じなさい」
「オーここに良い夕食がある」
「私の為ではない。私の望みは変わった。私の食欲は違っている。人は世の獲物だけで生きる物ではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる物である」純粋なるわしはそれによって生きるのである。アーメン!
80
オーキリストを死から蘇らせた方があなた方の中に住んでおり、彼の臨在の中に死すべき体を生かしてくださっているのです。それをあなたは認識しています。もうゴミをあさるハゲタカではないのです。あなたは鷲なのです。もう世の物を欲しくないのです。あなたは神の息子と娘です。あなたは世あ真ったく知らない泉からごちそうを得ているのです。あなたは世が全く知る由もない誰かから飲んでいるのです。あなたが食べているのは、世には知りえない隠されたマナを食べているのですと言うのもあなたが鷲打からです。あなたはそれを得られる場所で生き返らされたのです。ここへ来ることは出来ませんでしたが来なければならなかったのです。そして生き返らされる必要がありました、そこへ引き上げられたのです。だから命を与えられるでしょう。
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彼等は何をしたのでしたか?彼等は異なる言語を語っていました。聖書は、彼等は天の下にある全ての言語で語っていたとあります。
想像できますか?死すべき体ででした、そこには「さてこれを信じられるかどうかはわからない」
全く一度で、彼等はユダ族の獅子の強さになるまで命を与えられた殻が取り去られたのです。オー、わしはそれ自身の呼ばれてきたのです。「そして彼は死ぬまで彼等の命を愛した」アーメン。
そしてそこには彼等の命の血を与える者がもっといる事になるのです。
この聖霊の福音とその業火の為にです。
そしてその御子は再び明らかにされる必要があるのです、終わりの時の花嫁の中にです。生き返らされる力が来るのです、これらの死んだ宗派教団や信条から出して生きる生きた神の言葉に行く為です。
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いいえ、彼等らを新しい命に生き返らせるのです。それは我々には同じことです。気が付いて下さい。彼等は凄く強い生き返らせる力によって生き返っています。(しっかり聞いて下さい。皆さんに今見せようとしています。)生き返らせる力は彼等の魂だけでなく、彼等全体にあるのです。ダイナミックは生き返らせに来ただけでなくそのメカニックも生き返らせに来たのです。私の行っていることが分かりますか?
彼等は彼等の舌が他の言語を語り始めるまで力付け生き返らせたのです。
彼等はキリストの蘇りの力によって彼等の手を置くところになるまで生き返らせたのです。生き返らせる力によってそれほども生き返ったのです。病の人々に手を置くと彼等が癒されたのです。それはあなたの死すべき体を生き返らせたのです。彼等は彼等の手を置くことによって癒されたのです。
83
そしてその御霊が神とのフェローシップを彼等とすることによって神のご臨在の中にいて人が死んで魂が抜けたようになった時に再び彼を生き返らせ呼び起こす力を与えるのです。アーメン!栄光!さて敬虔な気分になっています。
その通りです。命を受けたのです。彼自身を蘇らせるだけでなく、このあらかじめ定められた種を受けられたすべての人達をもです。生き返らせたのです。死すべき体に命を与えたのです!
彼等は病の人々に手を置くと良くなったのです。彼等は御霊の内で祈ったのです、彼等は幻を見ました、死すべき体が命に戻るというビジョンです。その通りです。彼等の死すべき体を生き返らせたのです。
もしあなたがにそれが来るならば、さて、そうなるというならば、これらの印が伴ふ、分かりますね。あなたの死すべき体が生き返るのです。それがあなたを生き返らせるのです。
さて神の臨在の中で生き返るのです。どうして?それは神の霊が墓からイエスを生き返らせたのです。そして神の御霊「彼等に私が与えるのは永遠の命」ギリシャ語の言葉から来ているのです、Zoeです。もし上を見るならば、彼等の思いにも力を与える様に動くのです。
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さて、見て下さい、御霊があなたの中に住んでいるとどうして言えるのですか?たとえ全て思っている正しい事をしたとてあなたの証明があろうがなかろうが。
もし、キリストにあったその御霊があなた方に住んでいるならば、あなた自身も御言葉に導き命を与えるのですと言うのも彼は御言葉だからです。そしてもしそうなら反対に、御言葉から離れさせるようにしたとしたら、それはキリストの例ではないのです。あなたが今まで何をしようと御言葉の中で動くまで気にしません。「私の羊は私の声に従い、彼等はその一つ一つの言葉によって生きる」全ての言葉によって!先日私はその事について話していました。
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私の年を取った母親は今生き続けています、彼女はとても変わった女性です。そして彼女が、ハーフインディアンと彼女は変わっていることについて皆さんよくご存知です。でも彼女に4つか5しか彼女の人生でなかったとは思いません。しかし毎回夢を見るといつもそれは真実でした。彼女が見た一つの夢がありそれは真実でした。
覚えている事があるのですが、何年も前私が初めて伝道し始めた時の事でした。我々はここの道のすぐそばに住んでいました、ここのちょうど上のあたりです。私達はこの教会で伝道していました。彼女の夢は、3つの階段の脇に私が立っている夢でした。そして私がそのハイウェイに来る前にこれらの3つの階段を歩かなければならない場所に立っていました。そしてハイウェイには小さな真珠の様な白い線がありました、天国への扉にまっすぐ繋がっていたのです、真珠の門へです。そしてその真珠はこれらの階段の一番上に繋がっていたのです。もし私のメッセージが今日その通りでないとしたら、つまり正義化、聖くされること、聖霊によるバプテスマ。そして私はこれら3つのステップを通らなければそのハイウェイを歩く事は出来ないと言ってきたのです。
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そしてある女性がそこに来て言いました。さて35年前に人々がどの負うな靴を履いて居たか知っていますね。その女性は大きな今吐くような、スパイクヒールの靴を履いていました。そして彼女は来て、私は言いました。「ちょっと待ってください。姉妹、それでハイウェイを歩くことは出来ません。」そして又言いました。「それは出来ません」
そして彼女は言いました「は?」と言いました。他の女性達を見回して言いました。
「彼の言う事を信じてはいけない、彼は狂っている、彼を信じてはいけない。私が正義化して、清められ、聖霊に満たされることが出来るのを見せていあげる、そしてそれを履いて歩く事が出来るから」そして彼女は。。。私はただ彼女を行かせました。それ以上何もできませんでした、彼女を止めることは出来ませんでした。ハイウェイに飛び上がったのでした。そしてその姉妹を振り返って言いました。「ほらね、言ったでしょう、彼女は走って上がっていき、、、
ご存知の様に、聖書は言っています、イザヤ書5章、「手を指し伸ばす首」彼等は伸ばして、踏み散らかす、彼等自身が出かけて行って、かかとで踏み散らかし、 終わりの時のシオンの娘達よ、見て下さい。
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彼女達は、出来る限り必死でハイウェイで走り始めました。そしてしばらく行った後、道がどんどん細くなっていきました。彼女達は、踏み込んだりし始めて、生き続けたのでした。
そして母親は言いました。「酷い叫び声を、私の字人生の中で聞いた、女性が火と煙の中にこの様にどんどんと落ちて行った」
私は振り返って言いました。「分かりますね?」
彼女は全ての事に従っていましたが、一言、全てでも一言は従っていませんでした。確かに、ペンテコステ派の女性達は救われることが出来ます、清められて、聖霊に満たされる、そしてそれから失敗します。間違いなく、、「人はパンによってのみ生きるのではなく、神の口から出る全ての言葉によって、
分かりますね?そして彼女は失敗したのです。そして私が言った様に、彼女は、進んでいきましたが、聞かなかったのです、彼女に何が先にあるかについて。そして彼は福音に弟子達、使徒たちによって、使徒及び預言者などの教義書かれていました。そして彼等はそれを聞かないのです。
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さてこの生き返らせる力について気が付いて下さい、Zoe それが御言葉を齎しているのです。その思いはキリストの中に在りあなたの中にもいます。あなたが蘇った時に見せようとしています。神がイエスキリストを蘇らせたとき、彼はあなたを蘇られて命を彼と共に下さったのです。彼の思いの特性のにいるので、居間あなたの命はよみがえらされているのですが、神は全てその肉体の内にいる事を見たのです。神が肉体を見た時です。
御霊がゲッセマネの庭の彼から離れたのです。彼は人として死ぬ必要がありました。
覚えておいてください、友よ。彼はそうする必要はありませんでした。それが神なのです。神は肉体、人間の体に油を注がれました。そして彼はしていませんでした、もし彼が神としてそこに上がっていったならば、彼は死ななかったら、どのような死でしょう、神は殺せませんから。しかし彼はそれをする必要はなかったのです。
しかし覚えておいてください、彼は彼と共に居るあなたと共にそこに行きました。神は花婿と花嫁を決して離れさせていません。そして神がキリストの体を見る時、彼は女性と男性の両方を見るのです。それは一つの体の中で全て贖われたのです。彼等は一つです、同じ言葉なのです。同じ言葉を、花嫁が語る様に、花婿が語ったのです。
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さて、神の約束の全てが花嫁に来てそれを実行する事を失敗する事が出来るでしょうか、そして彼が花嫁と共に居ないなんて?しかし彼は全てをしました、死から蘇る事をして証明したのです、その後に、花嫁は同じことをする必要はありません。御言葉にこの終わりの時彼女も同様になると御言葉はっきりと語っています。マラキ書4章を通して彼女は戻る必要がありますか?ソドムの時代の中で同じように表れる必要がありますか?世がちょうど同じようでなければならないのでしょうか?これらの事が完全な神の御言葉によって我々に知らされている事の認識ではないですか?
さて、友たちよ、長い事話している事は分っています、夕食まで15分ですが、多分それまでには、終わります。しかし気が付いて下さい、ここを見て下さい。何て完璧な事でしょう。私は次にいつあなた方に会えるかは分かりません。ね
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さて、でも神は花婿の中に花嫁がいる事を先見しています。ハレルヤ!さて、彼の妻を守るために、アダムが彼女と行かなければならなかったように。アダムは彼がやっていることを知っていました、エバは彼女のしていることが分かっていませんでした。しかしアダムは彼の妻と共に出て行ったのです。そしてイエス様は彼の妻の場所を取って、彼女の為に罪となったのです。覚えておいてください、彼があなたになったのです。彼はあなたの罪の罰の場所に立ってくださったのです、あなたが彼の場所に立つことが出来る様に。何という愛! 何というフェローシップでしょう!どうやってそれを否定する事が出来るのでしょうか?彼を愛すること以外の事がどのように出来るのでしょう?それについて何時間でも話すことが出来ますが、もう少し先に進みましょう。
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今日のペンテコステの経験の様に、この終わりの時に、約束されたように聖霊が証書の様にやって来るのです。
さて、タイトルを得る事が出来るのです。間違いなく、さて、場所の為の証書を得られるでしょうが、それがあなたのだとはまだ言えません。いいえ、その昔にずっと、それを持っていたと来て請求するかもしれません。しかしあなたが無形の象徴を得た時、それがそれに敵対する基礎から戻る全てに敵対できるのです。そうですよね?
そしてある人が御言葉を信じるという時、そして聖霊が降ると、そのタイトルが印となるのです。そしてそれがあなたに許可を与えあなたがその証書を持つことが出来、すべてがあなたに属するようになり、あなたもそれに属するようになるのです。アーメン!そして聖霊がこの証明に神がこの世の始まる前から見ておられたものですが、そして名前を命の書にかかれるのですが、男性と女性から生まれた者は罪に属しています、そして罪の罰にです。しかしそれを信じるとその途端にその召命を受け取っているのです。しかし聖霊が来るとき、全て世の物が私に敵対します、母がしたことも父がしたことも私の祖母がしたことも、
ちょうど数分前に癲癇(てんかん)を持っている子供のために私が祈ったようにです。それは祖父母からくるものです、子供にその癲癇がおこってしまうのです。
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言った様に、その象徴が来るとき、全ての物が消えるのです。私は象徴の所持者です。アーメン!そして、キリストを死から蘇らせた御霊と同じものが間違いなく私の体の中に、聖霊の象徴があり、御言葉の体が彼の中に居たのと全く同じものが週末に彼が約束したのと同じなのです。その象徴です。全ての私の罪は許され、あなたの罪も許されたのです、イエスキリストの血によってそして聖霊がその召命として象徴として与えられたのです、神が恵みにより先見として私に与えられたのでした。 何と素晴らしい!
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何を恐れているのですか?彼が言われた理由が分かります、「恐れるな私は彼であり、死んでいたが再び生き、永遠に生きる物であり、死と地獄の鍵を持つ者である」心配する必要は何もありません。死でさえもあなたを傷つけたりはしません。何と美しい!
それでは先に行きましょう。その象徴的なタイトル。その罪ははっきりしました。全てそれに反対するものは消えるのです!栄光!愚か者の様に行動しているかもしれませんが、気分はいいです。分かりますか?オー何と素晴らしい象徴。その意味が分かりますか?その意味が何だか認識していますか兄弟?貴方からそれを取り去れるものは何もないのです。アーメン。私はそれを持つ者です。 アーメン。
その象徴とは?私は、彼の死、埋葬そして復活の受理者としてそれを受け取ったのです。彼は私になり、私は彼になる可能性があります。さて、彼は炭火ととなりました、私は息子となるかもしれません、アーメン、そしてその象徴を持つ者です。「これらの印が信じる者には従う」その象徴を見て下さい。
さて、速く進めていきます。後10分ほどしか時間がないのです。
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さて今、すぐに命をくれる御霊に気づきましょう。皆さんが悟る様に幾つかの印をお見せしましょう。しっかり見ましょう、この「命を蘇らせる力」が私の議題です。御子が蘇られた後、ペンテコステの時に彼等がどのようにしたかを見て下さい、彼等にその蘇らせる力がどうしたかをです。それは彼等に命を与えたのです。
さて、ステファンに何が起こったか見てみましょう。ステファンはその力に満たされていました。そうではありませんでしたか?彼は蘇る力に満ちていました。だから、まったく恐れがなかったのです。彼は言いました「あなたはかちっかちで心にも耳にも割礼がされていないから常に聖霊を拒否している:まるであなたの父親と同様である。どの預言者の一人があなたの父親に石投げをしないようにしなさいと言って見せた者が居ましたか?何という事!彼に何かをしたのです。間違いなく、彼はよみがえらせる力に満たされていました。
そして彼らは言いました。「我々はその男を殺してしまおう!」
そして彼が死んだとき、、彼等は彼石投げをしました、彼の可哀そうな小さな頭、その石がぶつかり、彼は上を向いて、「天が開いているのが見える〔よみがえらせる力が働いている〕。展が開いているのが見える、そしてイエス様が神の右の手に立っている」それがステファンに蘇らせる力がさせたことです。
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さて他のこの蘇らせる力を持っていた人。彼の名はフィリペでした。彼はその蘇らせる力に満たされていました。彼は重要で大きな出会いをサマリヤで持っていました。悪魔が追い出され、人々がイエスキリストの名によって洗礼を受けて、彼等は本当の会合を持っていました。
そしてその御霊が彼に話しかけたのです。オー、そのダイナミックが来たら、それは言いました
「このリバイバルから離れる事」
しかしなんとその聖職者は言うでしょう?あれらが言った事と違いを齎すな。彼はよみがえらせる力に満ちていたのです。彼はガソリンを持っていてそのダイナミックが彼に下っていたのです。「砂漠に行きなさい」と言いました。
そして彼はそこである宦官を見つけてイエスキリストの名によって洗礼をしたのです。ある一人の男がメッセージをエチオピアに持っていたのです。そうですね?そして彼は神に従いました。
神への従順により、もしイエスキリストの名によって洗礼をしたことがないなら、そしてそうしてくださいそして蘇る力があなたの中ですることを見て下さい。
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ステファンがこの素晴らしい事をしたときあるいは、ステファンでなくてフィリペがこの凄い事をして大きなリバイバルを去って、神の命令に従ったのは、神への従順によりこの宦官に洗礼する事によって彼がよみがえらせられる力でいっぱいになりそれが彼を連れ去ったのです。
「イエスを死から蘇らせたこの御霊は、あなたの死すべき体も生き返らせるであろう」それは彼が150マイル先に行くほど他の場所に行くほど別の国まで、見える程フィリペを蘇らせたのです。彼の死すべき体をでした。彼はどの様にそうしたのでしょうか?彼はその蘇らせる力に満ちていたのでした。
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オー、生きる神の教会、我々はここに今日少し砂糖を混ぜてこの辺りに立っている事は出来ません。私達は聖霊に生き返らされるまでその蘇らされる力でいっぱいになる様に祈り深くある必要があるのです。。いつか携挙によって連れていかれるようになるために。。はいそうです。 アーメン!何という事!
その表現を許してください。ある母親について考えていました、小さなカバンを作って赤ちゃんの為に。。。何人かの年老いたお母さんたちは覚えていますね。その小さな赤ちゃんはコーヒーを轢いたものそしていくらかの佐藤をそのかばんの様なものに入れてギャーギャー泣いている赤ちゃんに吸わせたのです。そこには古いカフェインとかがあり、少し甘くして彼に吸わせると彼にカフェインが行くようになっていました。我々はそのようなものにつかれています。さて戻って、あなたは鷲なのです、神の御言葉に戻りましょう!強くたくましくなりましょう。何もあなたの感情を傷つける事は出来ないのですだから人のスキャンダルや惑わしから全て解放されているのです。誰かが何でもあなたに敵対してものを言ったら、ただ愛をもっと上げるだけです。アーメン。よみがえらせる力は天的なところに捕まえられるのです、わしは鶏の上を跳び、キリストイエスと共に天的な場所に上がっていくのです。それはフィリップにありました。それが彼を蘇らせ彼を連れて行ったのです。
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もう一人の人いついて話しましょう。エノクと言う名前でした。さて彼はいつも御言葉一つ一つと共に500年位歩んでいました。彼には証がありました。「神の御言葉に背いたことは一度もなかった」彼はよみがえらせる力に満ちていて、そのダイナミックが彼のメカニックに来た時、彼は死ぬこともありませんでした。彼は上にあげられたのでした、家に連れていかれたのです。ただ歩き始めただけでした。彼はまるでフィリペの様でよみがえらせる力に満ちていました、ガザを超えていく代りに、彼等はただ歩いて、行きました「私は年老いている、然し、私には十分なよみがえらせる力を得たから、ただこの地上を歩んで出て行こう」
それが我々が今ちょうど持っている同じよみがえらせる力なのです。分かりますね。それがあなたの死すべき体を蘇らせるのです。そうではないですか?それがよみがえらせる力なのです。
エノクには完璧な証がありました、「全て神が私に告げられたことは私はした。全て神が私の為に言われた事を私はした」そして彼はダイナミックあるいはメカニックになり、その蘇らせる力が彼を打つことによりそのメカニックが彼を連れて上がった。彼は歩いて、地から天に行ったのだった。
99
さて、エリヤについても離しましょう。その後、エリヤは彼の時代において偉大な預言者でした。ごめんなさい。兄弟、姉妹、その時代には、化粧をしている女性達、イザベルとアハブそしてその他に痛めつけられました。そして彼も彼と一緒に立ち上がった人はいなかったようです。彼はそこで怒り神の為に立ち上がっていました、そして神が彼を助け全ての場所で世話をされたのでした。分かりますね、その年おいた人はその日疲れていました。彼は、「私は年を取ったもう先には進めない」と言いました。彼は先に進んでいました、思うに90歳ー本当に年寄でした。そしてそのあたりを歩いていたのです、彼はよみがえらせる力に満たされていました、分かりますか?彼はヨルダンを通って(神様!反対側がほとんど見えそうでした。見えませんか?)
その馬車がその場所に下がっているのが見える程、何頭かの日野馬と、火の馬車がそこに何本かの木にかかっているのが言えるほどに彼は蘇らされる力でいっぱいになっっていました。彼はただ川を歩いて渡り、家に死ぬこともなく戻ったのです。その蘇らせる力が天から馬車を下ろさせ彼を連れ帰らせる力となったのです。彼の上着を脱ぎエリシャにそれを投げて戻したほどでした。その通りですね。
100
さて、そしてその人がその上着を拾ったのです、又、教会のタイプの一つですね、その上着を拾ったのです。さて、彼は2回奇跡をおこないました。キリストとその教会のタイプです。分かりますね、エリヤは4回彼は8回ですね。彼は2倍の力を持っていたのです。なぜならば彼はそれを尋ねたのです。「私がしたよりもより大きな事をするであろう」分かりますね。しかし彼がしたよりもエリシャが2倍全ての事をしたのはよみがえらせる力でいっぱいだったからです。そして見て下さい、彼は80歳か90歳まで生きて死にました。彼は死に、彼等は彼を外に出して埋葬しました。
でもご存知の様に彼の蘇らせる力は彼から去りませんでした。何年も何年もそれ以降に、肉体は腐り、骨だけが残った時、彼は墓に寝ていました。そして彼等は死んだ人を埋めたのです、ある日彼等はその敵を見ました、そしてこの人をエリシャの骨の上に投げたのでした。それらの骨には命に戻ってくるほど、蘇らせる大きな力があったのです。
凄い!
101
彼はあなた方の死すべき体を蘇らせるでしょう。たとえ死んで墓の中に在ったとしても、土の中にさえもその蘇る力は残っているのです。ハレルヤ!「キリストを死から蘇らされた御霊があなたがの死すべき体をも生かすであろう」エリヤはそこに戻っています、エリシャとエリヤ、、、
その死んだ人、預言者は墓に寝て腐っていますが、そこには蘇らされる力に満ちているのです、彼等が死んだ人を彼の上に投げるまで、彼は命を得たのです。彼はまだ手を置いて癒すことが出来ましたよね? 覚えておいてください。
アーメン。 そういう事です。
102
そして覚えておいてください、我々はイエスキリストの肉の肉なのです。我々は彼の肉の肉、骨の骨です。オー、ソ以外にはないのです、我々は蘇るのです。それだけの事です。
あなた方も蘇るでしょう。そうなのです。
復活祭(イースター)の意味は、ただの伝統以上の物です。それは又今も、我々の肉体が彼と共によみがえらされて、天的な場所に共に座っているという事です。
そしてこの身体は海で腐っているかもしれませんし、地の中で腐っているかもしれませんし、スプーン一杯分の灰になっているかもしれませんが、彼女は前に進み、その御霊によって死からこの死すべき体を蘇らせて下さる主がおられるのです。
そして我々は彼の復活のジュリ者なのです、彼の永遠の命の理念を話してきましたが、ご存知の様に、それは彼が言われた「恐れるな」であることは疑いもない事です。
パウロが言った様に「死よお前の棘はどこにある、墓のお前の勝利はどこにある、私は蘇りの力に満たされている。神に感謝する事に、我々の主イエスキリストによって勝利を与えられている。」はいその通りです。よみがえらせる力、素晴らしい!
103
彼は永遠に生きておられ、昨日も今日もいつまでも変わる事がないのです。へブル人への手紙13章8節。
気が付いて下さい、メサイア、油注がれた者。そして彼の花嫁つまりメサイエット(女性形)油注がれた者。
気が付いて下さい、死が神の蘇る力を止める事は無いのです。死はそれを止めることは出来ません。永遠の命を得た時それは永遠なのです。何もそれを止められるものはありません。それを傷つけることは出来ないのです、なにもそれに対して出来る事はありません。たとえ自分で酷い人生を送ってもそれを止められません。そのままなのです。
気が付いて下さい、モーセはよみがえらせる力に満たされていました。違いましたか?彼は預言者で御言葉が表したものでした。彼は御言葉の一部だったのです。彼はその時代の御言葉でした。そうですよね・
そして彼が死んで800年後にも変容の山の上に彼はエリヤと共に立っていました。そうですよね?よみがえらせる力、死はそれを取り去る事は無いのです。いいえ、いいえ。
「私は再び蘇る」その御使いは来て、彼を谷に埋葬しました。彼は腐敗してなくなりました、彼の骨も何もかもなくなりましたが、蘇らせる力はまだそこに在ったのです。それが彼を蘇らせ彼をあげたのです。そしてそこに彼は立っていました。覚えておいてください。
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あなたは「そうなんですか、ブラナム兄弟、800年後ですか?そうなんですか!
マタイ書を読むならば、ここの聖句で分かります。マタイ27章51節。それを書いて、壁に貼る事が出来ます。ここにいる皆が戻ってきて彼が来ると信じたならば、聖書がここで言っている様に、彼が来た後、又、墓が開き眠っている聖徒達が生き返った。彼等に蘇る力が来たのです、そして彼等は彼の一部となり、生徒となったのです。彼等は彼の一部でした、彼等は彼を信じたからです。
希望的には、彼等は羊の犠牲つまり贖罪であるイエスを通して、命を持っていたかもしれません、羊の御霊が人に戻る事は無いのです。それとして、人の御霊と共に、神ご自身が彼の上にいるのです、蘇る力をどれ程我々が持っているのでしょうか?しかし罪への贖罪の為に羊が捧げられたのです、そのタイプでです。私達がそのタイプを持っていなければ、反タイプとなります。何を恐れているのでしょう?そしてこれらの人々は彼の復活のタイプだけを見ているのです、その墓に行ったのです。
105
ヨブが彼の大きなきつい思いに戻ったところで、すべてが取り去らせたのですから。悪魔は言いました「彼を私に下さい。あなたの目の前で呪わせます。」そして彼は「彼の命を取らないでください」と言いました。そして彼は命を取る以外の全てをしました。
そして彼の妻でさえ彼に敵対しました。彼女の息はおかしくなっている様になったと言っています。と言うのは、彼女は彼とは何もなかったという事です。彼女はもう彼を愛していないように見えました、ただ彼を押していました。「ヨブ、あなたはみじめだわ、どうして神を呪って死なないの?」と言いました。
「愚かな女の様に話している」と言いました。何てこと!
彼は持っている者に対する権利を握っていました。さて、彼は預言者でした。行っていました。「私は罪びとではない。犠牲をささげる物を与えられた」アーメン。彼が立っている場所が分かっていました。彼は御言葉の上に立っていたのです。他の人が何といおうと関係ありません、彼は御言葉にあって正しかったのです。
そして、偉大な素晴らしい時代だと、言いました「あなたは愚かな女の様に話している」彼は言いました、
「主が与えられ、主が取られる、主の名は誉むべきかな」言った。
「この世に何もなしで来た、裸でここに来た、同じように、出て行く、主のは誉む劇かな」腫物が壊し、彼の子供達の死、彼は貧しくなり、彼の友人たちは彼から離れ、教会のメンバーその他全ての事が、彼自身から離れていました、そして本当にみじめな状態でした!まだあなた方の内誰もそのようなことを経験してはいません。それでも彼は御言葉にしがみついていました。
106
彼は鷲だったのです。素晴らしい!あなた方はいつも彼の目に鱗を付け続けることは出来ません・・いいえ、絶対に。一度御言葉に立ったら、どうなりましたか?その空が見えて来て、嵐がうなり始め、稲光が光一、そしてヨブは見上げて、幻をいていました、そして、言ったのです。「私の贖い主は死んで折れる事を知っている、終わりの時に彼はこの地上に立ち上がられる。そしてこの身体を無視に食われても、骨も全てが、壊されても、蘇らせる力はそこに在るのでしょう。私自身で、神ご自身を見る事が出来る様になります。私の目で見るのです。「そうですよね?」たとえ私の御座が私の内にあったとしても、たとえ虫が私の体を破滅させようとも、、
107
あなたはその虫があなたに来ない事を知っています。その虫は既にあなたの中にいます。あなた自身の虫です。気が付いていましたか?棺桶に入れた時、空気がきつくなり、その虫があなたを食い尽くすのです、同じなのです、彼等はあなたの中にいるのです。あなたは自分の中に沢山の虫がいるだけなのです。
「たとえ、その虫が私の肌をだめにしようとも、私に肉体を壊そうとも、私の肉体は神を見るであろう」
そしてその復活の朝、栄光!ハレルヤ!マタイ、この素晴らしい作家、27章51では、彼が死んだ後蘇った、旧約聖書の聖徒達が、沢山の地で眠って居た人達が墓から出て顕れて街に出てきたと書かれています。その蘇らせる力は、エリシャの骨にもう骨でもなかったのですが、又ヨブにも、スポーンいっぱいの彼の肉体の灰すらなくてもそこには蘇らせる力はまだあったのです。
「イエスを死から蘇らせたこの御霊があなた方に住んでいるならば、あなたの死すべき体を彼がよみがえらせるであろう。」知っておいてください。今すぐ。
108
あなたは、「私も昔生きていたら」と言います。あなたはより良い時代に生きているのです。もし、あなた方が全員。御言葉の中に入っているのが分かります。大丈夫。書いて下さい。第一テサロニケ4章16節。すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、つまりは、エリヤの様な、又エリシャの様な、何人かが、蘇り連れていかれるのです。何人かは墓にいるかもしれません、彼等も彼と一緒に行くのです。「神のラッパが鳴り、キリストにあって死んでいた物が最初に蘇り、空中で主に会う」その蘇らせ死んだ者を生き返らせるもの力があるのです。
109
お分かりの様に、神の蘇らせる力はこれらの預言者の両方に魅せられていました。
彼等の名前を見て下さい、ほとんど同じです、エリシャ、エリヤ。花嫁と花婿を見て下さい。彼等の一人は、イエス氏であり、もう一人がイエス夫人なのです。ほとんど同じです、彼女と彼との間にあるものです。
エリヤ・・そしてここにどのように表されているかを見て下さい。さて、エリシャは携挙に連れていかれました、教会を代表しています。そうですね。エリヤ。そしてエリシャは復活まで残されていますね。ちょうどある鳥に二つの羽が必要なのと同じように、彼自身のバランスの為にです。その教会は正しく表れていたのです、二人の預言者が居たのです。 それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。邪魔をする事は無いのです。ハレルヤ!共に引き上げられ飛ぶのです。なんででしょう?生きていても死んでいても、蘇る力はまだ生きているのです。
シッカリと覚えておいてください。これらの事を蘇って理解しましょう。
この時代の蘇らせる力に集中しましょう。覚えておいてください。我々はよみがえらされたのです。
それほど前ではないのです。・・助けるためにです。
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我々の主が言われたのです、パウロもでした、「父が私に見せたことは全て私は従うと。」そしてこの終わりの時代に、我々がこの蘇らせる力が我々の上に有るのを見た時、、、彼は我々に蘇らせる力を得させて、病が癒されるのを見ることになる。我々はその蘇らせる力が我々の内で働くのを見ているのです、このソ期の時代と同じように、死人が蘇り、病気が癒されるのです。
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先日、私は誰かと話していました、小さなドノバンウェーツとでしたここで、皆さん彼のことを知っていると思います。私は彼と一緒に狩りをしていました。可哀そうな小さな子、、、彼はと手尾優しい素敵な小さな男です。彼はこの教会に来て、私のとても良い友達になったのです。彼は言いました。「あなたの邪魔はしたくない」
彼の耳を見て、ひっくり返して、言いました「ドノバン。お元気ですか?」
と手を引いた感じで言いました。彼はガンにかかっていました。私は「ドノバン、あなたの耳はどうしたのですか?」と言いました。
彼は「分かりませんブラナム兄弟、6,7ヶ月くらい、こんな感じが続いているのです。
私は「なぜそれについて何も言わなかったんだい?」と言いました
彼は「あなたの邪魔をしたくなかったんですブラナム兄弟」と言いました。
「それが何だか分かっているのかい?」と私は言いました。
彼は「全くわからない」と言いました。
私は彼に手を置いて、何も言いませんでした。二日後、そこには傷後さえありませんでした。それは何だったのでしょう。よみがえらせる力です。あなたの死すべき体を蘇らせ生かすのです。彼の耳はなくなってひっくり返っており、脳もおかしくなっていました。死んでもいたのです。
しかしその生き返らせる力がすることを分かりますね?
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そしてある日、私は自分自身の事を心配していました、「もう50歳だ主の為に何かをしたいならば急いだほうが良い。もう年を取っている」と自分に行っていました。
そしてある朝、蘇らせる力が来て、彼はそのカーテンから見下ろしていて、そこにみんながいるのが見えます。彼は言いました「あなたが愛した全ての人達、そしてあなたを愛した全ての人達、彼等があなたに与えている」その様にみんながいるのが見えました。それは何でしょう?よみがえらせる力。
啓示を受け取るヨハネはよみがえらせる力に満ちていました、そして立ち上がって初めから終わりまでを見ていたのです。
イザヤも蘇らせる力に満ちていました、そして立ち上がって、至福千年など全てを見たのです。
蘇らせる力。「そして死んだキリストを蘇らせた御霊があなた方に住んでいるならば、死すべきあなた方の体も生かされるであろう」覚えておいてください。よみがえらせる力。
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今日我々が見たことを見てみましょう。その蘇らせる力が私達の所に来て、7つの封印を開いたのです。それは何でしたか?人の知性ですか?いいえ違います。神の蘇らせる力が、この事実を先見して何が起こるかを告げたのです・神の蘇らせるのちょ力が世にそれが真理だと告げさせたのです・主の御使いが、。話した様に、火の柱が世にそれを真理だと告げるために世に告げさせたのです。そしてその中で彼等はそれが何だか知りませんでした。そして我々はそれを知っていましたーこの方法で見るから、それは我々の主がそこにいるという事なのです。
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彼こそがこれらの封印を開いた方なのです。彼自身が封印です。神の御言葉全体がキリストであり、キリストがその封印を開封したのです。封印の開封の意味は何でしたか?キリストを顕す事でした。
そしてその7人の御使いはちょうど7つの教会時代の全てがなされることを顕していました。私達はそれを見る事が出来ていませんでした。彼等は絵を取りました、我々ではありません。そして彼はそこに立ち、裁判官として、彼がアルファでありオメガであることを見せ、初めであり終わりであることも見せました。何という方!蘇らせる力が我々にそれをなしたのでした。
蘇らせる力が彼が来られることを我々に見せたのです。よみがえらせる力が我々を死から命に代えられたのです。よみがえらせる力があなた方の間違いを識別する力を与えたのですそして何をすべきか何をしたのかそしてすべきでない事、何をすべきであるか、何をするのかを与えて下さったのです。よみがえらせる力はこれら全てなのです。
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我々の主イエスは全て一緒に蘇る力に満ち満ちておられました。彼は蘇る力で満ち満ちており、彼hあ「この身体を滅ぼしても、三日で蘇る」と言ったのです。蘇りの力に自信がある事を語っていたのです。「この身体、この宮を滅ぼしても、三日でそれを立て直す」
何故?どうして彼はそう言ったのでしょう?彼はそれが彼の事を書いていることを知っていたのです、。それは神の御言葉によって書かれた彼の事で敗れる事は無いのです。御言葉は言っています。「私の聖いものは滅びる事も患難も見る事もない、彼の魂が地獄に置かれることもない」そして彼はその蘇る力が彼を蘇らせることを知っていたのです、だから一つの細胞も壊れていませんでした。
彼は言いました。「あなたがこの宮を滅ばしても、私は3日で立て直すであろう」と
何故?それが預言であり神の言葉です。そして預言は、それが神の本物の言葉であるならば、必ず起こるのです。そしてその同じ預言と神の御言葉が、「彼は世委が得ると言っているのです、そして我々は彼と一緒に既に蘇っているのです。だからこそ、彼は「恐れるな」と言ったのです。そして御霊が今あり彼の内に居た者が私たちの内いるから我々の死すべき体を生かすのです。恐れないでください。御子は引き上げられ、蘇っているのです。
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さて、変容を見て下さい。我々は皆それを顕しています。生きている聖徒たちが携挙した事があります、エリヤはそこに立っていました、モーゼも死んだ聖徒達もです。又彼等両方がよみがえらせる力を持っていました。片方は死にましたが、もう一人は死にませんでした彼等は全員そこにいます。
気が付いて下さい、我々はこの終わりの時の中で我々はそれを見てきました。同じことがヨハネ14章12節に約束されていました。見てみましょう。
間違いなく
人々は言います。「あなたは力があるというのですか?」いいえ、いいえ、我々は変容の山に居た彼等と同じようなものなのです。彼等は言いませんでした、モーセは「私を見なさい」と言いませんでした。弟子たちは言いました、「何が起こったかを知っていますね、彼等はイエスが栄光化されるのを見たのです。イエス様が栄光化されたのを代表したいという事だけだったのです。
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そしてそれは今日も同様です、我々は有名な大きな人物になろうとはしていません。人々が我々について何を言おうと気にしません。我々の名前は何でもないわけではありません、それは彼の名前だからです。私達の人生は何でもありません。それは彼の命なのです。それは彼の力で私達の力ではありません。そして我々がしたいたった一つの事は、彼を栄光化する為です。そしてどうできるのでしょうか?彼が我々の内で彼の復活によって栄光化されそれが私達の中におられるのです、彼は再び今日復活されています。
分かりましたか?我々の思いは栄光化されることではないのです。我々の望みは有名になる事でもありません。教会を大きくすることでも、日曜学校を多くすることでもなくまたピクニックやらパーティやら星を沢山持ってくることやボタンやら何やらでもないのです。それらが我々の望みではなく、神が栄光化されたことを見せる事なのです。何を栄光化する?自分のプライドでもなく我々の人生に彼が生きておられ我々の内に生きておられることです。
もしその様に出来たなら、ウィリアムブラナムが考えていなくてもあなた自身の事を考えていなくても我々がイエスが我々の中で栄光化されるのを見せるまで。。彼を見て下さい。それが我々の望みです。それが我々に蘇らせる力を与えているのです。それが我々に神が我々と共におられるという事を肉と骨が共にあり、花嫁であり、彼が示された方法で我々の中で死から蘇られているの喜びを与えられていることを知る事なのです。
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間違いなく、彼は「恐れるなと言われました」今、気が付いて下さい、我々は彼によって贖われて、彼と共に蘇っているのです。それが人々が彼と共に居よ員が得るという意味なのです。さて、彼の御霊が我々の中に在る事により、その象徴が既に完全い支払われているのです。
いいえ、こう言ってはいけません「さて、出来る様に望む」もうあなたは既にできているのです。「そうなるだろう」ではないのです。「私は既にできたでも自分で出来たのでもなく、彼が私の為にしてくださったのです、私ではなく、彼なのです!」
「さて、ブラナム兄弟、彼等は言います、彼等が何といおうと気にしません、彼等は、彼は私の為になさったそれだけ、それだけが私が気にしている事です。
私は彼が顕れるのが見たいだけです。どうすればいいのですか?彼を呼び出すのですか?いいえ、彼はあなた方の内におられるのです。彼はあなた方の内に住んでいるのです。「さて、主よ、もし私はそこから消えて、あなたが顕れますように。どのようにされますか?あなたはその様に選ばれているのです。全て父が私に与える様に来たものは。」覚えておいてください。栄光!
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すべての証拠は集められ、今朝私達と共に居ます。オー今その歌について考えています。
オー復活の朝、
死の綱が壊されるとき、
我々は蘇る、ハレルヤ!我々は蘇る!
信じますか?我々は蘇る!彼の内に居て彼の一部になるのです、イースター
神の秘密を顕されたのです、それがそうだったように、死んだ後の命です。
我々は今生きている、一度罪と間違いの内に死んだ者である。
本当のイースターの封印が私の周りで死を壊して私は生きているのです。イースターの封印は初めからローマの封印を壊していたのです。彼は綴じられていました。そして人々は彼等が死んだときいなくなりましたが彼はその封印を解いてその秘密を顕されたのです。そして今、神は彼の聖霊によってその封印を解いて、その我々の命の中に在り、キリストは我々の内に住んで表されたのです、今、我々は今彼と共に蘇ったのです。ページからページ、、
我々は蘇る ハレルヤ!
我々は蘇る!アーメン!
その復活の朝、
死の牢屋は壊された時
我々は蘇る ハレルヤ 我々は蘇る!
オー、嬉しくないですか?小さな古い炭小屋で、ある朝、その封印が解かれ、私は彼と共に蘇り新しい者とされたのです、彼の蘇らせる力によって。
御子はあげられているのです。
120
それほど前ではないのですが、ある漁師について話しました。その人は、出て来て、ある年よりの漁師にやとわれて西海岸い行きました。彼等はその朝出かけげ言ったのです。
あなた方の中で、鮭を釣ったことがあるならば、場所を得ますよね。そこはかなり凄い霧に覆われていました。私は小さな兄弟、エディバイスカルが見えます、そこに、(そこのインディアンの人達への宣教師)そして私達は自分たちでそこの海岸沿いで釣りをしていました。
そしてこの漁師は、あり意味強い人達でした。彼は釣りに行きましたそして彼等は流されたのです。日が上がるまで待っていました。そして彼等は霧の笛を聞いて居ませんでした、そしてこの漁師はス朴ワクワクして言いました。「我々は海まで出て行く!ヘイ!」皆ワクワクしていました。
彼は言いました。「息子よそこに座りなさい。」年寄りの漁師は静かですね。彼は何について話していたかを知っていました。「ただ火が上がるまで待ちなさい、我々がどこに居るかわかるから」
あなたは言うでしょう。「私はメソジストか?バプテストか?ペンテコステ?でなければならないの?」と
121
ちょっと待ってください。その太陽は上がります、私達は我々がどこに居るかを見ます。彼は御言葉です。御言葉が顕れその種を通して輝きその殻が取り去られて現れるまで待ちましょう。それによって我々がどこに居るかが分かります。彼を愛していますか?
こんなにも長くなってごめんなさい。今晩何人がここに滞在しますか?オーとにかく帰ってきてください、今晩。7時くらいですね?何か他にありますか?(ネビル兄弟が。いいえと言います)
頭を下げて祈りましょう。
122
ここにまだこの蘇る力を持っていない人が一人かそれ以上いますね?その御子はこの幕屋の中に座ってテープを聞いたり、することによって輝くのです、御霊は神の御言葉に蘇りたいですか?もし女性であれ、だんせいであれ、全ての彼が書いた言葉に従いましょう。
おーそれは危険な事です。もしあなたが死んだためならば、あなたには命がないのですか?
しかしあなたの中の何かが語るでしょう。「今朝蘇りたい、自分の今いる状態から蘇りたい、死んだ種ではいたくない、ただ泥の中に残っていたくはない。立ち上がって蘇りたい。
手を挙げて行ってください、「私の為に祈ってください、兄弟?」神の祝福がありますように、神の祝福がありましょうに、手を見て下さい。祭壇に呼びませんが、人々は祭壇の周りに来てください。それに対してあまり好きではないのです。それはメソジスト派のリバイバルの時代に教会に加えられたやり方なのです。
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聖書は言っています「信じた者たちは洗礼を皆受けた」とここには自分に死ぬ準備が出来ている人達の為に水がいっぱいになっているプールがあります。
さて、主イエスの名で何度も植えられたかもしれませんがその種が生きるまで、それは蘇ってはいないのです。洗礼の水は天からのしずくの様なものです。種にまかれなければそこには命はないのです、それがなければ生きられないのです。
しかしもし自分自身への死の為の水が本物の洗礼で、全て自分が信条や宗派教団に教えられたすべてに対してつまりそれは御言葉に反対なのでそれらに死に、神の息子娘として歩む準備がそれはあなたの心の中にいるという意味、洗礼の水が今朝準備されています。「ここにいる全ての人達よ、悔い改め、あなたの間違い罪の贖いの為にイエスキリストの名によって洗礼を受けて、贖罪を受け取るのです。そしてあなたはダイナミック、その聖霊を受け取るでしょう。それがあなたへの約束、そして全ての世代への約束なのです。
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天の父、私は長く語りました、人々の時間を取りましたが、主なる神様、それを止める物はありません。さて皆さんはここで止めて去って休んで戻ってきてください。我々は死すべき世に死にかかっている人々の間に生きています、命のメッセ―コと共に、復活の証明を持って生きているのです。親愛なる神様、我々は、死すべき体でした、もしこの機会をとらえなかったらどうなるのでしょう?
私達の心は燃えています、魂はワクワクしています。誰でも入ってきている人達はそうです。そしてここにいる沢山お人達がこのメッセージを今朝聞きました。はい2。3百人が手を挙げました、彼等は信じたいのです、主よ。オー間違いなく、それらの為は死んでいません、主よ。彼等はどの様にして手を挙げられたのでしょうか?そこには何かがあるのです。オー神様、古い自身です、それはヨブの妻が言ったのです、「オー!」でも主よ、予備は信仰者で今朝歩いてきて、完全に洗礼の水の中で埋められ自分に死にました。
そのしずくは天からくるものです、神の御言葉はそれが全ての罪を洗い清め、贖うと言っています。あなたはイエスキリストの名によって洗礼を受けましたか?あなたの罪の贖いの為に。罪はイエスキリストの名によって許されるのです。
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そして父よ、彼等が病ならば、良くなって出て行くでしょう。彼等が足萎えならば、聖霊の力によってちゃんと歩いて出て行くでしょう。彼等が罪びとならば、清められ顕れて出て行きます。そしてそのメカニックが居てそのダイナミックがその上からくるのです。聖霊が彼らをとらえるのです。主よ、彼等の死すべき体を蘇らせ、純粋な新しい言語を聞き、神の力、愛、語られていない、死んだ恵みと生きている恵、蘇られたキリスト、その体、花嫁はこの地上で彼を顕しているのです。
父よ、彼等はあなたの物です。彼等は手を挙げました。私は御言葉を説教しています。さて、
父よ、彼等を受け入れて下さい、イエスキリストの名によって祈りお願いいたします。アーメン。
126
彼を愛していますか?彼は素晴らしいでしょう?イースターの復活の一部であることに満足していますか、彼と共に蘇られましたか?手を挙げて下さい。あなたも含まれています。
私の小さな子供達、パウロが言ったのです、(彼の物まねをしようとはしていませんが、その愛を)愛しています。ここから通りやいろいろなところに出て行ってあなた方と話します。砂漠から出て行き、雪などからも出て来てここに来ました。我々は飛行機に乗って、あなた方はその国を超えて、ここに集まったのです。我々はお互いに愛し合っています。
お互いの一部なのです。サタンに他の事を言わせてはいけません。お互いの一部になりましょう、我々は彼の一部です。そして我々はその王国の市民として同国者なのです、これらの祝福を復活を共に楽しんでいるのです。
127
そして今、既にあなた方は復活したのです。神が彼を蘇らせ時、彼はあなたを引き上げました。御子は今あなたの内に居て、彼と同じように、その命を成長させて、終わりの時に完全に復活する為でした。あなたはその可能性を今持っています。どうしてわからないのですか?あなたの魂は変わりましたね?あなたの体はそれに従順になったのではないのですか?何に対しての従順?教会?いいえ御言葉です、それこそが命なのです。そして、あなたは今死から蘇ったのです。それがイースターで、イエスと共に、それがイースターで、あなたとイエスが共に居るのです。我々は見た、あるいはイエスとあなたと私我々はみな、共に蘇らせられたのです。
そして我々は終わりの時に引き上げられるのです、たとえ我々の霊が身体を去っても、肉体が滅びても、たとえ塵に戻ったとしても焼かれたとしても海のそこに在ったとしても、聖書は言っています「御使いが彼を水の上に置いて全てが死んだ者が上がってきた」我々をこんなにも愛して下さる神から我々を隠したり別れさせたりするものな何もなく、それが我々を共に引き上げて下さるのです。
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神の祝福がありますように。ここで長い間話しました。人々がまだ電話で聞いて居るならば、彼等は間違いなく、1分50セントだから、今朝沢山払ったことになります。でも、その時には止められませんでした。ただ続けなければなりませんでした。
さて、主のご意志ならば今晩帰ってきて又あなた方に話します。そしてもしできなければ、そして皆さんご存知の様に、電話はもう続きません。もう電話はありません。
私がどこに行く神アさんご存知ですよね?アフリカです! 長い間前から何年も、戻ろうとしていました。今、あるビジョンがあります、主の御霊がその方向を準備しておられたのです。彼等は言いました、貧しい現地人がそれを聞いて、私が言ったおt城井そこに行かなかった、彼等は毎日、毎日、泣いて祈って、居るのです。「すよ、我々は何をしたのですか?」何千人もの人たちがです。これらの人達は、魂がある事すら信じていません。彼等は泣いて嘆いているのですそして泣いていたのです。
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先に言葉を送らないでください。どうかしないでください。もしビザを申請しているのが分かってそこにいる大臣たちがそこですぐに止めるでしょう。私は狩りに行くとしていくのです。女王の所に行って17台の記者にいっぱいの人を連れて来てミーティングに出るというところに行く予定です。そしてそこに行って彼女のテリトリーで狩りをしなければなりません。そして入って行って、私のパスポートとその他すべてはハンターとしてで、宗教的な礼拝の為とはなっていません。
そして一人の兄弟が私に会う予定で、「我々と小さなミーティングをしませんか?そしてスタジアムは既に借りられています。彼等はそれを知りません。栄光を主に!
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神のご意志が邪魔されることの無いように祈ってください、私の魂は最後にアフリカを離れて以来、戻る事を望み泣いています。素晴らしいメッセージを持っていきたいのです。多分今日から、戻るまで、皆さんに会う事は無いでしょう。数日後に出発するのです、5月10日に出発します。私の為に祈ってくれますか?
覚えておいてください、そこに行くまでどんな問題が起こるかは分かりません。ウイッチドクターが至る所にいます、悪魔、そして彼等は何をしているかわかっていません。そして彼等の前に立つとき何を話しているかを知っているべきです。「すジャス私は私が信じている方を知っている、そして私は彼が守ってくださり導いて下さると知っているというのも彼にその日以来献身しているから。
さて、ここに何枚かのハンカチがあります。親愛なる神様、このメッセ0時今朝の復活のメッセージとして、私はここに立っています。すよ、御言葉が信じる子供達の中で蘇らせる力があることを証明しています。それ故、信じるならば、信仰に世ttえ、渡井sの人生は蘇る力に掘って変えられましたそしてこれらの人々は信じています、主よ、そしてそれが彼等の人生も変えました。そして我々はお互いの為に祈るのです。
私は私の手をこれらのハンカチの上に置きます。神様、イエスキリストを蘇らせた方が、死から彼を引き上げた方、死から蘇らせたその御霊が我々の肉体に住んでいるのです。
その御霊はエリシャの上にもあり、又、死んだ後も、骨以外に何もなくなっても、その中に蘇らせる力がありました。使徒達の手にもよみがえらせる力がありました。使徒達の思いにも、使徒達の見ているところにも、信者たちの言語(異言)にも全てよみがえらせる力がありました。
さて、その蘇らせる力が、この御言葉が彼等の上に有り、私の手は持って居る物であることを顕しています、恵みにより、その蘇らせる力が、ここにいる全て病人の体を蘇らせ、彼等が再び完全になりますように、イエスキリストの御名を通して祈ります。
これらのハンカチだけでなく、会衆の中にいる全ての病の人々の為にも。小さな子供達、年老いた人達、どんな人であれ、読みがらせる力が彼等を今すぐ蘇らせますように、イエスの聖名によって祈ります、アーメン。
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さて、何人が読みがらせる力を得ましたか?もしその力があなたの中に在るならば、お互いに手を置いて祈りましょう。
さて、それをさせない唯一の事は、それはあなたの不信仰なのです。ある女性が彼の御衣に触れただけで、完全い癒されました、ローマ人の兵士は彼の顔に唾を吐きかけましたそして地獄に行きました。だからあなたがどこに居るかによるのです。あなたは信じますか?信じますか?
さて、あなたが頭を垂れてお互いに祈ってほしいです。今すぐ祈りましょう。
ただこういうのです、「主よ、この人は、、」さて、ただお互いの為に祈りましょう。
132
親愛なる神様、我々はこれをイエスキリストの御名によって、唯一、我々が癒され救われるために与えられている名前です。これらの人々は王国の市民で同国民で、蘇らせる力を持つ者たちです、彼等を主よ今すぐ蘇らせてください。そしてその御霊が鷲から鷲へ行きましょう様に、御言葉から御言葉へ、イエスキリストがお互いの肉体に、肉体的に、霊的に、あるいは彼等に必要があるならば必要が満たされますように、お互いに手を置いて祈ります。イエスキリストの御名によって。。