神の解かれる幕

  • 伝道者:ウィリアム・ブランハム
  • ジェファソンビル インディアナ州 アメリカ合衆国
  • 録音番号:64-0614M
  • 年:1964
1
頭を垂れて祈る間、立ち続けましょう。
我々の大いなる主よ、我々は間違いなくこのように集まり、主の再臨の前にこの地上に居られる今日のような素晴らしい日を官舎しています。どうか我々自身が心を御言葉によって、今日探り、そして我々の中に信仰が見られるならば、主のお出でになられるときに準備されていますように。聖句が言っているように、「キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつまでも主と共にいるであろう。」(第1テサロニケ5-16-17参照)
本物のクリスチャンの霊がまだ人々の間に世界にあることを感謝します。そしてまだ、あなたとあなたの御言葉を信じている人々が居る事を官舎しています。それゆえ、今日、あなたからの祝福kを求めて祈ります、あなたが我々一人一人に必要のために祝福を注がれ、御言葉によって清められ、あなたの手によって使われる道具にこの終わりの時に会ってなれるように。我々の主イエスキリスト、我々の素晴らしい羊飼いが現れる事を期待して、その御名を通してお祈りします。アーメン。どうぞおかけください。
2
今朝ここに再びいられることを大いなる特権とみなしたいと言いたいのです。そして、十分な咳が無い事を申し訳なく思っています。そして今晩病気の人のために祈る予定にしています、そして今朝は、ちょっときついです。
そして、このメッセージを今日、テープに記録します。主がそれに関して㈠二か月前に、考えている事に関して話してくださいました、そしてそれは長いメッセージになります。十分に集会で時間がないのです、礼拝では30分か40分くらいしか時間を頂いていないからですと言うのは、仕事や何かに人々が行くからです、だから私のメッセージが短くする方がよい事を見出しました。そして彼らはそれを録音する時間がなかったようなので、ここの幕屋に来るまで待ってここから録音した方が良いと考えました。そしてそれはちょっと長いものになります、そしてあなた方が立っている事を知っているので、出来る限り急ぐつもりです。そしてさて、席を変えたり何かをすることは私には邪魔にはなりませんから、全く大丈夫ですと言うのは、これは徳月な日なのでこの六をすることにしました。
そして、だから、主がそのフィールドでどれだけ素晴らしい事をされたかと言う素晴らしい報告がありますが、たぶん、それは今晩もっと時間があるので、その時に話す予定としましょう。
3
そして今、我々は主があなた方一人一人を祝福して下さると信頼しています。あなた方の心が喜びであふれ、主の来臨を期待しているのを知っています。そして私もまた、そのことを話すとあふれています、起こっている物事を見るにつけそうなります。そして、国内紛争、そして教会の状態等、また、主の来臨に対する印が、実際的にも霊的にも起こっているのが分かります、主が現れるのは今からとても近い事をが分かります、この日々の内の何時かに変えられる事を知ることにつけ喜びで満たされます。今現在の、我々の様から変えられるのです。
4
さて、信じているのは、彼らがどこかで電話が繋がれば、電話を通して異なる場所にフェニックスを通してこのメッセージを流すことが出来たと理解しています。そして、そうならば、分かりませんが、このことをここに入っている直前に言われました。そしてそこにおられる人々は皆、本当に健康と主の栄光が彼等の上にあることを楽しんでいます。
5
そして今、我々は主の御言葉を開きます。そして我々のあるべき事についてその召命にこたえ、皆がここでお互いを楽しんでいます、我々はここに居る理由としてこのような暑さに誰だって、知りつつ座っていたくはありません。我々はたった一つの理由でここに居るのです、それは神とより近く歩むこと。そしてそれだけが我々の出来る事、主イエスが我々とともにおられると信じる事。そして我々はここで主とより近く歩むのです。
6
さて、この暑さは私には若干きついです。ツーソンの湿気の低い暑さにある意味慣れています、それに比べてここの湿度は、、実際、暑さはツーソンの方がここよりも気温は高いのですが、湿度が低いのです。我々は湿度は、時々,0.21%たぶん、そんなような感じで、殆ど、酸素テントの基に住んでいるかのような感じです。でも、ここは水分が会って、ある意味、絞り機にかかりたい、と言うな気分にさせます。それはかなりきついですね、それは分かっています、そして小さな赤ちゃんと一緒に居るお母さんたち、と立っている人たち、老いも和解も、そしてあなた方のように一緒に居たら。そして今、神様があなた方の犠牲のゆえに豊かに報酬を与えて下さるように望んでいるのです。
7
ロイボーダー兄弟が、ここのどこかにおられると理解しています。彼が通知するのを聞いたのですが、彼はもしかしたら入れなかったのかもしれません。大丈夫です。彼がその集会のマネージャーです。
さて、今以前我々とともにおられた方、ミシガン州のスタージスの方でジャクソン兄弟が、今朝、主の御許に行かれたことを皆さんにお知らせしたいのです。彼がどのようにいかれたかあるいはそれについて誰も知りません。彼は元気にしていました、そしてただ、思うに、彼らが彼が死んでいたのを見つけたか何かだと思います。それについての完全な詳細を得ていません。そして我々は、ジャクソン兄弟がクリスチャンであったことをとても神に感謝しています。数年の間彼に会っていませんでした、彼は我々とともにおられ、我々のひとりでした。(神が、彼の魂の中におられました)そのようにいかれると、我々は何かそこにあったのではないかと信じています、たぶん、彼が行くべき時だったのです。ただ主は決して警告されませんでした、あるいは彼について、彼はただ行ってしまったのです。それはそれと言う方法でした。そして出来る限り早く彼の奥さんに電話して、我々の悲しみを彼女に告げたいのです。そして、我々は皆、神に彼の勇敢なクリスチャン人生と地上において彼があるべき意味特に、この地元の集まりにおいて特に我々はそのことを感謝したいのです。
8
さて、今夜、病人のための祈りをすると言うお知らせをしました、そして今晩病気について又もっと話す予定です。
しかし、今回は、今御言葉に直接入っていきましょう、と言うのは、混んでいて暑いからです。御言葉に直ぐ入っていきます。今朝は、二つの聖句の場所を読みたいのです、長めのものです、だから、それによって私が言いたいことに関しての、多少の背景が分かるようになります。
そして今、彼らがそのテープを持っている事を望みます、ソスマン兄弟と彼ら、それを売る前に、もしできるならば、公共に出回る前に一度聞きたいのです。
9
さて、私が読みたいのは、ピリピ人への手紙2章、1節から8節。第二コリント3章、6節から初めて、4章に入っていきます、それは背景の為だけです。さて、ピリピの2章、まず、読んでいきます。読み始める前に、祈りましょう;
10
主なるイエス様、あなたの御言葉は真理です。そしてこの我々が生きている難しい時代において、国は国に敵対し、疫病、地震があちこち起こり、人の心は怖れと不安で気絶し、壁に書かれているのを見ています。さて、それは実際上の事で、全世界がこれを見ているべきです。しかし今、霊的な面においてもまた、大いなることが起こっている事を見ていて、それらを今日私達は話したいのです。
我々の心をあなたの言葉によって祝福してください。我々は天にも地にもこの書を取るにふさわしいものはいませんでした、その封印を開くのに、あるいはそれを見る事さえもです。しかしそこに一人だけ現れた方がいるのです、屠られた子羊、血を流された方、来られたその巻物を取られました、ふさわしい方で、それを解くことが出来たのです。オー神の子羊、あなたの言葉を今日、私たちの心に開いてください、慰めのために。我々はあなたのしもべです。罪を許してください主よ。そしてなんでも我々の人生において今日においての偉大なる力や権力や影響で御言葉から離れさせるものは何であれ取り去って下さい、主よ、どんな邪魔もです、我々はあなたの御言葉を通して、全ての祝福と我々に対する約束を完全に手にすることが出来る可能性があるのですから、イエスの御名によってお祈りします。アーメン。
11
ピリピ人への手紙2章
そこで、あなたがたに、キリストによる勧め、愛の励まし、御霊の交わり、熱愛とあわれみとが、いくらかでもあるなら、
どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いになって、わたしの喜びを満たしてほしい。
何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。
おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。
キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。
キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、
かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、
おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。
12
さて、もしここで今コリント第2の3章そして、6節から始めます、18節まで読んでいくらか4章からも読みます。
神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす。
もし石に彫りつけた文字による死の務が栄光のうちに行われ、そのためイスラエルの子らは、モーセの顔の消え去るべき栄光のゆえに、その顔を見つめることができなかったとすれば、
まして霊の務は、はるかに栄光あるものではなかろうか。
もし罪を宣告する務が栄光あるものだとすれば、義を宣告する務は、はるかに栄光に満ちたものである。
そして、すでに栄光を受けたものも、この場合、はるかにまさった栄光のまえに、その栄光を失ったのである。
もし消え去るべきものが栄光をもって現れたのなら、まして永存すべきものは、もっと栄光のあるべきものである。
こうした望みをいだいているので、わたしたちは思いきって大胆に語り、
そしてモーセが、消え去っていくものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、顔におおいをかけたようなことはしない。
実際、彼らの思いは鈍くなっていた。今日に至るまで、彼らが古い契約を朗読する場合、その同じおおいが取り去られないままで残っている。それは、キリストにあってはじめて取り除かれるのである。
今日に至るもなお、モーセの書が朗読されるたびに、おおいが彼らの心にかかっている。
しかし主に向く時には、そのおおいは取り除かれる。
主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。
わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。
1.このようにわたしたちは、あわれみを受けてこの務についているのだから、落胆せずに、
恥ずべき隠れたことを捨て去り、悪巧みによって歩かず、神の言を曲げず、真理を明らかにし、神のみまえに、すべての人の良心に自分を推薦するのである。
もしわたしたちの福音がおおわれているなら、滅びる者どもにとっておおわれているのである。
13
主が彼の御言葉を読むことのゆえに祝福を増し加えられますように。
さて、今朝の私の議題は、神がこれを明らかにされると信頼しています。そして毎回、もしテープを得て、聞いているならば、そして教会にはっきり告げることなしに、神が霊的な悟りをあなた方に持たせておられると信頼し希望してますね。そのような事が時々、我々は詳しくして離さなければならない事があります、それは外に出て行かせてしまう可能性があるもの、あるいは何人かは去っていくか、何人かはそれについて考えあぐねるようなことを言わなければならないのです。しかし、それは目的をもって行われているのです。その方法でなされなければならなかったのです。
14
そして、ある人達はこのように言うかもしれません、「神がわざとそのような事をすると言うのか」彼は間違いなくされました。今もそうされています。
彼はある日言われました、彼の周りに何千にもの人々がいた時、彼は言いました、「神の子の肉を食べ、人の子の血を飲まない限り、あなたがの内に命はない」と
医療関係の医師や、看護師あるいは立派な学者、また彼の持っていたようなミニストリーを持っている人にとっても、どのように考えていたと思いますか?その理由として、彼が行ったのは、「肉を食べ?それは人食い人種だ!人の血を飲む?それは吸血鬼だ!つまり、彼は我々に人食い順と吸血鬼になってほしい」そして聴衆は皆、彼から歩み去っていったのでした。
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そして彼と一緒に居たミニスター協会がありました、70人の選ばれた者達でした。そして彼は彼らに向かいました、そして言ったのです、「彼が来たところから人の子があげられていくのを居たら何だと思うだろうか?さて、彼はそれを説明しませんでした。彼は方法について説明したことはありませんでした、パウロはその後にそうしたのでした。彼はただそれを言ったのでした。分かりますよね。そして、その時、これが、、彼が言われた時、「これらのミニスター達があなたが彼の着た場所から人の子があげられるのを見る時なんて言ったのでしょうか。と言われました。
疑いもなく彼らは、男性は言いました、「さて、ちょっと待って下さい。オー我々は彼と食事をしました。一緒に釣りもしました。一緒に寝ました。彼が生まれた場所も知っています。我々は彼が揺すられていたゆりかごを見ました。そしてどのようにこの人は、、、これを言うのは難しい事です。
 そして、聖書はこう言っています。「彼らはもう彼とともには歩んでいません」彼らは彼を離れました。
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その時、彼が持っていた12人が離れました。彼は12人を選び、そのおうちのひとりは悪魔だったと彼は言いました。さて、彼は彼らを振り返らせました。そして誰の彼がちょうど言った、「どのようにして彼らは彼の肉を食べ、血を飲むのだろう?」と言って誰もそれに関して説明する者はいませんでした。そして、彼が地上で生まれた時、彼がどのように来られたか?分かりますね?彼らはそれを悟れませんでした。そしてそれから、彼は使徒となりました、そして言いました、「あなたも私から去りたいのか?」
そしてそれが、死とペテロが造った大いなる声明なのです、「主よ誰のところに行きましょうか?」分かりますね?「我々が満足したのです、我々は安心しているのです、あなただけが、この時代のための、命の言葉を持っておられるのです。」分かりますね。「そして私たちはそれに満足していました」分かりますよね、彼らはそれを説明できませんでした。彼等は、、穴阿多には信仰を説明することはできません。それは何かあなたが信じる事なのです、そしてそれはしっかりしていて、他の何物もその場所をとることは出来ないのです。それゆえ、彼らはその御言葉を知っていて、彼らが生きていたその時代のために書かれていたことので彼らは知っていたのです、それは救い主の時代出、彼は正にその場所にピッタリ嵌っていたのです。そして彼らが出てきた、冷たい公的な教会に戻って何が出来るのでしょうか?そして言ったのです。「どこに行けばよいのでしょうか?」と、分かりますよね?「我々は完全にあなたが命の言葉を持っていると納得しているのです」そして彼らにはその説明は出来ませんでしたが、彼らはそれを信じていたのです。分かりますね?
17
そしてイエス様は言われました、彼の会衆から雑草を取るように、彼はグループを一緒にすることが出来るまでね。そしてこれらみんなの中から、彼らの内の11人しか彼が実際に誰なのかを理解していませんでした。彼等は彼が神であり、神以外の何物でもない事を知っていました。
さて、私の今朝の議題は、明らかにされる、あるいは、覆いを取られる、神と言う事です。
神は何時も、何時の時代にもすべての時代において、覆いの内に隠されていました、しかし彼はいつも常に、神だったのです、しかし彼は自分自身を世から隠し続けていました、そして彼の選ばれた者達だけに彼自身を明らかにされたのです、その時代の使徒のようにです。さて、それはキリストの内で神が語っておられたのでした。
さて、人は何時も、自然の人は、肉的にそれを見せようとするのです、それから神様と言う感じ。彼はいつもそれを見たがっていたのです。人は、彼に似せて創造物を作られました。彼らが考えたのは、インディアンは太陽を崇拝しています。そして我々が見出したのは、アメリカでは、動物のスタイルが違うことなどなど。そしてアラスカのトーテムポールにおいて、この神が入っていると言う彼らの考えは違う形になりました。パウロがアテネで話したとして、その時代、人口の丘の上で、彼に少し似ていました。知らない神について彼らは迷信的だと考えていましたというのは彼はそこにいたのを知っていたのですが、彼らは主を知らなかったのです。
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そして我々はヨブの中にさえもそれを見出すのです。ヨブはそこに神がおられることを湿地得ました。彼はそれを知っていたのです。そして正気ならばそれが人間ではないことは底意何かがあることは知っていたのです。そして今、ヨブは彼に話したかったのです。そして、私は神がヨブに話しかける神の選んだ形に気が付いてほしいのです。神は彼がヨブに話しているとき覆いをかけておられました。竜巻の中でも竜巻が下って来る時も彼は覆いをかけておられたのです。神がまだ竜巻の中で彼自身の覆いを取られてこられると信じていますか?
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ここに何人か座っていますが、ある数字が戦時ちう私たちと一緒に居て、主は竜巻の中に来られました。その前日に主は言われたのです、バンクスウッズ兄弟と彼らに、彼が言われたとき、「この岩を取って持ち上げそれを空中に投げ上げなさい、そして「主がこう仰せになられる!」と言いました。あなたはそこですぐに見ることになるのです。「そして私はその石を平って、山の上に上がり、空中に投げました、そしてそのコースを取っておりてきたら、竜巻が始まりました、その吸い込みがありました。
あなたは何かがそれに続くためには何かをしなければならないのです。イエス様はいくつかのパンを取ってさき、いくつものパンに倍増されたのでした。彼は水を取り、その水差しに注ぎました。エリヤは塩を取ってそれをカメの中に入れて、枝を取って、水の中に投げ入れました。それは何かを象徴するためです。そしてこの岩を拾って、空中に投げることそして、それが竜巻の中に降り始めたのでした。
20
翌日、狩猟の旅にあるミニスターが我々と一緒にいた間の事でした。彼は近くに立っていましたそしてこう言いました、「主はこのような幻を与えることがありますか、ブラナム兄弟?」
私は「はい、しかし、ここに来るときは普通休みに来ます」そしてただその時に幻が来たのです。
そしてボーダーズ兄弟、(彼は今そのにいると思います)彼は一緒に来ていました:バンクスウッド兄弟、思うに、そしてそこいくかか居ました確か8か10くらい。そしてバンクスウッド兄弟が、これを山の上でちょうど見ていました、そことちょうど反対側で、私のはそこに行くためにちょうど離れたところに7人の御使いが現れたのですそれはちょうど1.5マイルくらいだったのです、そしてそこで戻ってきて7つの封印について語りました。そこからちょうど半マイルくらいでした。
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そしてそれから、翌日、これが続いている時に、兄弟に、この兄弟に言いました、「あなたの問題は、目にアレルギーを持っていることですね。医者は2年間ほどそれが止まるように」、できませんでした。彼らはあなたの目がだめになってしまう」と言っていますね。阻止t得私は、「でも心配しないでください、主イエスが、あなたの信仰に栄誉を持っておられます」そして彼はちょうど彼の銃を置きました。そして私は言いました、「あなたのお母さん」ちょうど彼女の問題が何だったか。そして彼は言いました。「それは真実です」と
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ここの教会のロ位ロバートソン兄弟はここに立っておられます、思うにここにいる全員が彼の事を知っていますね。彼はベテランとして知られているので、そして何が起こっていたかを知っています、私は彼の方に手を置いて、言いました、「ロバートソン兄弟、気を付けてみてください、何かが起こることが定められています」
私は自分が立っているべき場所に歩いてもどり、外の空気の中に峡谷の上を通して竜巻が空中に来ました、そしてそれは大きなもので、岩でさえも砕いていました、そのサイズは8日10インチで、山の上から来て、そこから2百ヤード先に投げられていました。そして3回そのように手をたたいたような音がして、それから声が聞こえてきました。分かりますか?
そしてそこに全員が立っていました。バンクス兄弟、今ここにおられる方が挙がってこられて言われました。
「昨日私にあなたが言っていたことがあれですね?」私は言いました。「そうですね。それです」
彼は言いました。「今、それは何と言っていますか?」
私は、「さて、それはただ私の為だけなのです、バンクス兄弟ね。というのは、それは人々への警告だからです」
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しかし、それは進み、北に少し旅している時に起こりました。それより数日後に、海の中でそれは撃たれたのです、そしてフェアバンクスのあたりで起こったことをあなたは見ました。それは裁きの印なのです。さて、我々は神がまだ、おられることが分かります、分かりますよね、それは人々をパニックにさせるのですが、それは起こらねばならなかったのです、分かりますよね。それはただ起こらねばならないのです。それはとにかく怒らねばならないことなのです。分かりますね、それはとにかく起こるのです。
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モーゼはある時神を見たいと望みました、そして神はその岩の上に立つようにと言ったのです。そして岩の上にモーゼは立ち、神が通られるのを見たのです、そして彼の背中は人の背中の様でした。神は竜巻の中におられたのです、神は、モーゼがその岩の上に立っている間でした。
思うに、あなた方皆、は先日、そこでその写真を見ましたね、我々は同じ岩に立っていました。そしてここにその光があります、主の御使いがそこにおられて、手をたたいていたのです。ちょうどそれは掲示板にまたあります。
25
注目してください、旧約聖書のエホバは新約聖書のイエスです。分かりますよね?同じ神がただ彼の形を変えたのです。
さて、ツーソンのバプテスト派の牧師が先日私に言いました、「どうしてあなたはイエスと神が同一人物だなんて言えるんだ?」と
私は言いました、「まあ、それはかなり簡単なことです、もし、あなたが自分自身の考えを外れて、聖書の言葉だけを考えるのであれば。彼らは同じ存在なのです。神は霊であり、イエスは、神を体の中に入れた存在なのですね?私は、こう言いました、「ちょうど、家のようなものです。私の妻にとって、私は彼女の夫です。そして、私には若い娘リベカがいます、和たちは彼女の父親です。そして私には一人孫がいて、彼の名前はポールです、私は彼の祖父になります。私は、夫であり、父であり、祖父なのです。そして私の妻は、父あるいは祖父として私を呼ぶことはあり得ません、彼女は、私を夫としてのみ呼ぶことになります。私の娘は、夫や祖父として私を呼ぶことはありません、彼女は私の子供です。」ね?しかし、これら3つの人物は同じ人間なのです。分かりますか?それが、神が:父、御子、聖霊、ちょうど、その取扱い方なのです。神は同じ方で、同じ神なのです。
26
神はご自身を変えられたのです、形を変えられました。
もし、ピリピ書で気が付くならば、彼はこう言っています、「それを盗みとは考えない、しかし人の形をとったのである」と
さて、ギリシャ語の言葉のその形がそこにあるのですが、私はそれを昨日一日中見ていました、それがなんであるかを考えようとしていました、見出したのは、この言葉、「en morphe」そのつづりは、e-n-m-o-r-p-h-e. ギリシャ語の中でそのen morpheがなんであるかを見出そうとみていたのです、私は間違った発音をしているかもしれませんが、だからそれをつづったのです、もしそのテープが出たときに、人々は(学者)がそれによって私が何を意味しているかが分かるようにです。そのen morpheが彼が彼自身を変えるという意味なのです。彼は降りてこられたのです。さて、ギリシャ語の意味は何か見えないものを意味していて、しかしそれはそこにあるそしてそれは帰られていて、その目が見ることが出来るものであるということでした。 分かりますか?
27
エリヤがそのようでした、ダサンでのことですね。分かりますよね、そのしもべは全ての天使たちを見ることは出来ませんでしたそして神がその形を変えたのです、というのは天使は連れてこられていなかったのですが、神がそのしもべに見せるために変えられたのでした。そしてそこの山には山いっぱいの天使たちと火と、火の馬と火の馬車が彼の預言者の周りにいたのですね。彼らは、kれが見えるように変えられたのです。そのものはすでにそこにありました。
そして、それが私が言おうとした事柄です、神は常にここにおられます。唯一彼がされたのは、彼が人となられ、彼は彼のマスクを交換されたのです。これがen morphe、彼は彼自身を彼がすでにあったものからその今の状態にあるいは彼のマスクを、ほかの動きに。
28
大きなドラマの中のようなものです。今朝私が話していたように、このシェークスピアをある意味キャッチアップすること。それは昔からの事です。しかし、シェークスピアがその劇を英国のジェームス王のために書いたとき、彼はマクベスの人物像を、ほら、シェークスピアは魔女を信じてはいませんでしたが、その劇では、その王が魔女を信じていた場所だったので、彼は魔女を含めなければならなかったのですね。そして今、それをするために、彼らはキャストを変えなければなりませんでした。
カルメンで、ベッキーがいますが、彼らは学校で演技をしていて、彼女が数週間前に卒業したところでした。さて、多分一人の人が、3あるいは4役を演じていたのです。それをするためには、彼は彼のマスクを好感していました。時々、彼はこの人物から出て、次の場面で彼はまた別の刃部として出ていたのです。しかしそれはいつも同じ人間だったのです。
29
そして、それが神に起こったのです。神は彼自身を火の柱から、人になられるという変わり方をされました。そして、彼自身をまた再び御霊に戻られたのです、そしてそれによって神が人の中に宿られるようになるためです。神は人の中で行動されているのです。イエスキリストは、人として人の中で行動されていました。それが彼ご自身だったのです。彼は火の柱から、出てこられて、荒の中でそのように隠れて、イスラエルから神は隠されていたのです。モーゼは、神の体の形を見ましたが、彼はいつもはこの火の柱の中に隠されていたのですそれこそが神からの言葉であるロゴスだったのです。
さて、我々がここで見出すのは、今、ペンテコステ(五旬節)以来神は人の中では行動されていませんあ類は、彼は人を通して行動されていたのですね。彼は火との中で動かれていたのです、それがイエス様でした。さて、彼は人々を通して動かれています、彼はこの目的のためにその人々を選ばれたのです。神は人の形の中におられ、彼は彼自身を神の形から人の形に変えられたのでした。
30
彼は3つの名前、三つの子としての名前で来られました。彼は、子として、人の子、ダビデの子、神の子という3つの子の名前で来られたのです。
さて、彼ははじめに人の子として来られましたというのは、彼は預言者だったからです。さて、エホバご自身が、エゼキエルをそしてほかの預言者たちを、「人の子、あなたは何を見るか?」として呼ばれています、イエスは、ご自身を、神の子とは、呼ばれませんでした、なぜならば、聖句を壊すことは出来ないからです。聖句が崩れているということは一つもないのです。すべての言葉がそうでなければならないのです。それが道だと私は信じています。そうでなければなら似のです、私が信じているからではなく、それが神の言葉だからです。
31
さて、も押しあなたが初めから気が付いていたのであれば、一つの言葉、聖書の1ページ目にある、創世記の1章で、すべての病気、悲しみ、心痛、そしてすべての事が人間に起こってきたことは一人の人が一つの言葉を信じなかったゆえにこのことのすべてが起こった理由なのです、それを見出だしています。それは聖書の最初にあります。そして聖書の最後の黙示録22章で同じ神がこう言われています。「誰でもこれに一つの言葉を足したり、取ったりしたものは」分かりますね、それは一つ一つの言葉その通りでなければならないのです。
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さて、それゆえに、だからこそ、小さなこと、いつも誰かが、私が女性のボブスタイルについて話し続けることにおいて、文句を言います。さて、私にとって、彼女がそれをし続ける限り、どれだけ彼女が聖徒のような行動をしようがどれほど彼女が知っていようが、それでも間違っているのです。彼女が短パンを履いたり、これらの服装をするならば、どれほど彼女が歌う事が出来て、どれほど彼女が説教がうまくできようが、何であれ、彼女がしていようが、どのような人生を生きていようが、それでも御言葉を一つ破っているのですから、私は彼女のしていることを気にしません。分かりますか?ね。それは全ての言葉でなければならないのです。一文でもなく、一言。一言なのです!そして、聖書は、自分勝手に解釈していないのです。それは一言一言が書かれた方法なのです。我々はそれを信じなければなりません。
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そして、ただ信じるだけでなく、それを生きなければなりません。もし、それに生きないのであれば、信じていることになりません;我々はただ信じると言っているだけになってしまいます。それらの弟子たちが説明できなかったけれども彼らはそれを信じていました。とにかく、彼らは告白をしてその通りに生きていました。彼らの残りのみんなが離れて行った後でも、彼らはそれにとどまったのです。彼らはそれを信じていました。それが我々のするやり方なのです。それがあなたがしなければならないのです。どれほど、ほかの人たちが何をしようとも、我々はそれを信じているのだから、そう行動するのです。もし、そうしないならば、あなたはそれを信じてはいないわけです。
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今彼が来られた時のことに注目してください、彼は人の子として来られなければならなかったのですというのは聖句がそう言っていたから、彼はそうしたのです、神は彼らのために預言者を建てられました。そして、彼は彼自身を神の子と呼んでくることは出来なかったのですというのは、それはその時代ではなかったからです。彼は、神の子として、預言されており、それを成就するためにそして、それ自身すべての事を彼らに明らかにするために、彼がなさったことと類似するように。その時、彼は地上では人の子だったのです。
35
そのスロフェニアの女が彼に走ってきたところを見て下さい、そして彼女は「ダビデの子、憐れんでください」と言ったのです。彼は決して彼の頭を挙げませんでした。彼女は、彼をダビデの事して要求していたのです、彼女は異邦人でした。(私の娘が私を夫としてあるいは妻が娘として言う事と変わりがないのです)しかし、彼女は私の娘であり、妻で、彼女は福音の中で私の娘です。しかし、地上では、彼女は私を父と呼ぶ権利はないのです)。さて、気が付いてください、この以上人の女性は、彼をダビデの子と呼ぶ権利はありませんでした。しかし、盲人のバルテマイにはあったのです、分かりますよね、彼はユダヤ人だったからです。彼は人の事してこられました。
あなたがこれらの言葉とこれらのことを知っていなければなりません。その時のハティライトを見て下さい、3つの引きの時でした。それを覚えていますよね、すべての事があり、その女性は正しいことを言いました。あなたは正しい言葉を正しいことを神に向かって言う必要があるのです。
36
今、気が付いてください、彼は預言者として最初に来ました、そして彼らは彼を十字架にかけました。彼の人びとが彼を十字架にかけたのです。彼は人の事してきたのでした。そして、聖霊が降臨したのち、彼は神の異なりました。神は霊だからです。彼は聖霊でした、神の子、彼は神の事して教会時代を通じて生きておられました。
さて、至福千年には、彼はダビデの事なり、彼の父のダビデの御座につかれるのです。彼はダビデの子になるわけです。
さて、覚えていますね、神の子との間にラオデキア教会時代の中で、彼らは彼を教会から追い出しました。そしてルカ書において、彼は言われました、彼は再び、人の事して、預言者として、明らかにされる、その残りが成就するためには、分かりますか?その聖句は完全につながっているのです。人の子、神の子、ダビデの子、それは何でしたか?それは常にずっとお暗示神だったのです、形をただ変えられただけです、彼はただそれを買えただけでした。それは彼に題して大きなドラマです。それを演技されていたのです。
37
彼は、人の子として預言者として来られました。まさにその通りに、その小さな女性も彼女のすべての罪の内に会ってさえ、その井戸にいた女性も、彼女は彼を認識して言いました。「キリストと呼ばれる、救い主が来るのを知っていて、彼がそれをすることを知っている」ほら、彼女があらかじめ定められた子孫だったので、彼女はそれを認識したのでした。そして、彼女は、ほかの残りの人びとはそれが分かりませんでした、彼らは認識するものを何も持っていなかったのです。彼らはもともと罪の内にいたのでした。
38
彼の行動において、彼は形を変えました。そして、彼は人の子の形で来られました。改革者の時代、ウェズリー、ルターそしてそれを通して、その時、我々は、それが集められているのが分かります、ちょうどイスラエルのためイがしたのと同じように、彼はペンテコステ派の時代に終わりの時に現れる時、聖霊として現れましたが、彼らはそれを拒否したのです。彼らはイスラエルがしたのと同じことをしました。そして、彼は今何をしていますか、人の子として戻ってこられました。そしてその時、それから、ダビデの子。どれほど我々が近いかわかりますか?人の子、ダビデの子、神の子。彼は終わりの時にマラキ書の4章によると、人の事して、明らかにされ、すべての子の時代のための残りの預言にもよります。それ以降彼らが彼を教会から外に追い出した後、教会との関係はもうないのです、扉はたたいていました。まだそこにいくらかのあらかじめ定められた子孫がいるのです。彼は彼らのところに行かなければなりません。
39
人の中に宿られる神、は彼自身が空にされました。ヨエル2:28で分かります、彼は言いました、「その後わたしはわが霊をすべての肉なる者に注ぐ。」さて、もしそこにある御言葉に気づくならば、ギリシャ語の言葉です、これを間違ってしまっているかもしれませんが、それは、私が見つけたのです。その言葉に目を留めている必要があります。
英語は時々、二つの意味を持つことがあります。その言葉、我々は、「神」と言います、神は天と地とを創造された。(創世記1章)しかし今、その聖書の中に、それは、初めにエロヒム、さて、エロヒム、さて、英語で「神」と呼んでいるのです、しかしそれは本当にはエロヒムではありません。何かある意味小さな神々、その言葉神(小文字)偶像を神にすることが出来ますし、ピアノを神に仕立て上げることすらできるのです、あなたはなんでも神にすることが出来ます。
でもその言葉エロヒムは違います、その意味は「自分自身で存在したもの」分かりますか?ピアノは自分自身で存在することは不可能です、ほかのものも自分自身で存在することは出来ません。エロヒムの言葉の意味は、「彼は常に存在していた」で、神の意味は他にもなんにでもなります。その言葉の違いが分かりますね?
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さて、ここで彼自身を空にしたと言っている時あるいは注ぎだした、今、我々はこのことを考えるのです、彼は「吐き出した」英語の意味の殻にする、彼自身から注ぎだす、は何か彼から彼から出たものとは違うことを意味します。しかし、そのギリシャ語の「ケノス」は彼が吐き出したという意味ではないのです、彼の腕が出て行った、目が出て行った、ほかの人。
そして、それは、彼が彼自身を変えられた、彼は彼自身を注ぎ入れたということになります、ほかのマスクに別の形態にということです。(アーメン)ほかの人物が彼から出たものが、聖霊と言われるものではなく、それは彼自身だったのです。分かりましたか?彼自身が彼自身を人々に注ぎ込んだのです。キリストはあなたの中におられるのです。考えると、何と美しく、素晴らしいでしょう、神が人の中に彼自身を注ぎだされたのです、信者の中にです。注ぎ入れられたのです。それは、彼のドラマの一部なのです、そうすることがです。神の神格の全体がこの人であるイエスキリストにあらわされていたのです。彼は神であり、唯一の神であられるのです。第3者や第2番目のものや一番目のものがいるのではなく、しかし神が人の中に入られた唯一の人物なわけです。
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第1テモテ3:16 確かに偉大なのは、この信心の奥義である、神であるエロヒムは聖書の中の大文字のG-o-d神でそれがのちにそもそもの神であるエロヒムが参照されているのです、初めにエロヒムがいた」分かりますね、そして偉大なのは、エロヒムのおくぎであり、エロヒムは肉を取って現れ、我々に来られた。エロヒムは人間の肉体の中に隠されていたのです!偉大なるエホバが、すべての宇宙、時間、すべての場所で人を作られた方。我々が、その神エロヒムを扱ってきたわけです。「初めにエロヒムがいた、そしてエロヒムが肉体を取って、我々の間に宿られた」
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何という事?これが彼のやり方、そのドラマの一部です。それが彼が行動されたのです、彼自身を他の人として彼自身を明らかにされるというのが彼の方法なのです。我々は死すべき体を持つものです、彼はそのことをご存知です。そして、我々は死すべきものとして理解するだけなのです。我あれは死すべき体を持つものとしてしか知りません。我々は五感によってのみ知らされて知るのです、そしてのころは信仰によって信じる必要があります。我々は神があるという必要があります、彼を見たことがあろうがなかろうが、私たちはそれをとにかく信じるのです。分かりますか?それがあろうがなかろうが、我々はまだそれを信じるのです、神がそう言われたからです。
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ちょうどアブラハムのように、息子を見ることは出来ませんでしたし、印もなく、皿の妊娠もありませんでした、月経さえもありませんでした、しかし神がそう言われたから。それがすべての希望だったのです、彼女の子宮は死んでいましたし、彼の命も死にかかっていました、そして彼の精子も乾いていました、そして彼女の中にある命も乾ききっていました。しかし神の約束に対して不信仰によって揺らぐことはなかったのです。しかし強く、賛美をし、神が彼が言われたことをを何でもなさることが出来ると知っていたのです。それが我々が今日御言葉を信じるべき道なのです。どのようになるでしょうか?私は知りません。神がそのようになると言われたのだから、そうなるわけです。
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誰がこの偉大なる目に目内人でしょうか?誰がアブラハムが幻で見た存在でしたか?最後に、彼は肉体を取って現れました、その息子が来る前でした、神ご自身が、人の形を取って、アブラハムのところに来られます、終わりの時にも。顕されました!彼は神を小さな光の中で一度見て、アブラハムは彼を幻の中で見、彼の声を聴きました、沢山の啓示、しかしその約束の子が来る直前に、彼は彼自身が肉体を取って人として現れるのを見たのです、彼に話しかけ、そして肉と飲み物で彼を養いました。分かりますよね、注目して下し、神ご自身が、人間の肉体の中に隠されていたのです。
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これは彼のやり方の一部です。彼が彼自身を私たちにあらわす方法なのです、永遠の言葉を顕現させる、神であるエホバが肉体を取られたのです。ちょうどヨハネによる福音書の1章にあるように、「初めに言葉があった、言葉は神とともにあった、そして、、、初めにエロヒムがあった、エロヒムが御言葉となった、そして言葉はエロヒムであった。そして言葉はエロヒムを作った」分かりますよね、それは同じことでただ、公表されただけということです。
ちょうど属性のようなものです、それは神の中にあるのです。あなたの思いは一つの属性です。神は初めからおられ、永遠の存在なのです、神は、永遠でもともと神でさえ最初はなかったのです。彼は神では中田のです、神というのは、崇拝される対象物ですから。分かりますか?だから、彼はそれでさえなかったのです。彼はエロヒムで、永遠の存在だったのです。しかし彼の内には感ががありました、彼は物質になりたかったのです。そして彼は何をしましたか?そして彼は言葉を声を出して語り、その言葉が形作ったのです。それが創世記から黙示録に至るまでの全体の絵なのです。何も間違いはそこにはありません。それはエロヒムがそれをものにしたのですそうすれば彼は触って、感じられたからです。そして、至福千年にはエロヒムがその御座に座っているのです、その通りです、彼のしもべたち皆が彼の周りにいるのです、彼は彼らを世の礎が作られ前からあらかじめ定めておられました。
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人が建物にビルを鳴らしたり、その方を作ったりするようなものです。一つ一つのビルはお互いに違う音を鳴らすのです。同じ材料でも、しかし沢山の鉄、沢山のスチール、沢山の銅がその「ディン」という音を作るわけです。
それが神のやり方なのです。彼はこれからあれまでを育てられ、これとあれに対して彼が欲しかったまさにそこになるまで育てられるのです。それが彼がおりてこられた理由です。神が彼ご自身を預言者を通して、火の柱の中に隠されていました、そして神の子の中に来られたのでした。彼は神だったのです。それがちょうど同じように、完璧から完璧にされる方なのです、栄光から栄光へとです。それが教会が進む方向なのです。
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注目してください、時代を通して、同じやり方なのです、彼の預言者によって、彼は彼自身を顕かにされました。彼らはまさに預言者ではなかったのです、彼らは神々でした。彼はそう言われています、彼らが神の言葉を語ったのでした。彼らは神がその中に隠された肉体でした。彼らは神々だったのです。イエス様はご自身で言われました。「私が神の御子だと言ったときに何故私を非難するのか、あなた方自身の立法に、主の言葉を受け取る者たちを神と呼んではいなかったか?」分かりますか?
だから、それは神人の中に形作られた者で、預言者と呼ばれていたのです。分かりますよね。そして主の言葉はこの人に来ていたのですだから、それは預言者ではなく、預言者はそれを隠すものでそれは御言葉であり神だったのです。その人の言葉は、そのように行動はしていませんでした。私の言うことが分かりますか?それはそのようには行動できないのです。しかし、可能性として、それは神だったのです。分かりますね、彼は彼は人の形を取った、「人」と呼ばれる神の言葉だったのです。気が付いてくださいね、彼は決して彼の性質を変えられなかったのです、彼の形式だけを変えられたのです。ヘブル13:8にこう書かれています「彼は昨日も、今日もいつまでも変わることがない」そして彼は性質は変えられませんでした、彼が来られた時。彼はいつも時代を通してずっと預言者で彼の形を変えられていました。ヘブル13:8には、イエスキリストは昨日も今日もいつまでも変わることがない」と書かれています。彼はただ彼のマスクだけを変えたのです。
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私は、私の子供が生まれた時夫から、父に変わったのと同じなのです。私の孫が生まれた時、祖父となりました。しかし私は変わっていません。私は今も、私なのです。(そしてそれは神です)それはただ、私の、、、変わりました。ほら、それはあなたの形を変えたのです。気が付いてください、そして自然は若い人から中年そして老人に変わったのです。そしてほらね、あなたはの形を変えただけですよね。
今、あなたは、ここに立っている小さな人、16歳の人には言えなかったのです、彼は祖父でした。彼はそう離れませんでした、彼の形は変えられなければならないのです。数年でそれは変えられます、そして彼は祖父になります。私の言っている意味が分かりますか?
しかしそれはいつも同じ人物なのです、同じ存在、神もずっと同じなのです。このやり方で、彼は彼自身を彼の人びとにこのようにすることで彼の人びとに明らかにされました。気が付いてください、彼の人びとに彼は火の柱として、時代を超えて顕れてきました。イエスの時代にも、彼は彼自身を彼の民に顕かにされました。聖霊の時代においては、神の子として、ダビデの事して、彼は常に、彼自身を彼の民に同じやり方で顕かにされます彼を知らせるためにです。彼は何かに隠れるのです、気が付いてください、同じやり方か、あるいは同じ性質、毎回です。
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神はイエスの中に隠されていました、十字架上での贖いの業を成し遂げるためでした。神は霊としては死ぬことは出来ないのです、彼は永遠の方だからです。しかし、彼はマスクをつけて、死のパートを行動したのです。彼は死にましたが、彼はそれを神の形で話せなかったのです。彼は御子の形を取って、人の子として地上でなさなければならなかったのです。分かりますか?彼は御子との形でなければならなかったのです。そして、彼が五旬節に戻られたとき、彼は再び神の子だったのです。あなたは私の言っている意味が分かりますか?アイデアが見えましたか?彼は...
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彼は人間の肉体を取ってこなければなりませんでした、誰も、性的欲望がない。なぜならば我々サーパントの子孫としての声明によって証明しているのです、分かりますね、「性的」間違いなく「性交渉」リンゴではなく:性交渉!そうなのです。そうでなければならなかったのです。ここで気が付いてくださいね。どんな良い人でも、その時代の預言者たちを見て下さい、彼らは預言者以上にならなければなりませんでしたね。それをするために派でした、彼は処女懐妊されてくる必要があったのです、処女懐妊を見せることがその証明だったのです。彼は処女に生まれなければならないのです、そうなると解毒剤になるのです。ほら分かりますか?だからそれは性交渉をしなければならなかったのです、彼ご自身が来ることでの証明が必要だったのです、彼は性的欲望なしで来られましたが、処女からの誕生を通してこられました。彼はエホバからイエスにマスクを変えました、その劇の中で彼が演技をすることによって贖いの業をなしたのです、神が十字架の上にいるということです。
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ギリシャ人たちは彼に会いたかったのです。ヨハネによる福音書12:20に、そこに書いてある、「 祭で礼拝するために上ってきた人々のうちに、数人のギリシヤ人がいた。「君よ、イエスにお目にかかりたいのですが」と言って頼んだ。気が付いていましたか?
さて、ギリシャ人たちは学者で、彼らは大いなる人々でした。そして彼らは神に対して偉大なる思いを抱いていました、パウロはマーズヒルの上で彼らに説教をしました。そして彼らは、世の科学や教育によって導かれていた偉大な人々でした。しかし、彼らはギリシャ神話を信じていて崇拝もしていました、そして、芸術の本そして性的な芸術などなどを崇拝していました。
そして彼らは病人を癒しそしてそれがどのように起こったすべてのを予告していたこの人について火がついていました。そして彼らは興奮していて、彼らは彼に会いに来たのです。さて、しっかり今見て下さい、これを見逃さないでください。そして彼は来て、ピリポに言いました、それはベツサイダでした。「済みません、我々はイエスに会いに行きます」そしてピリポとほかの弟子たちが、彼をイエスに連れて行きました、イエスに会うために。
さて、気が付いてください、そのまさにイエスが彼に報告した言葉でしたー彼らは彼が誰であるかを見に来ましたが、彼には会えませんでした。彼らはその形は見ましたが、彼は彼の宮にいたのです。神は彼の宮にいて、人間の肉体に隠されていたのでした。気が付いてください、その言葉は、彼は言いました、「麦の一粒が地に落ちて、死ななければそれはそのままである。分かりますか?その時間は来るのです、それは人の子において、栄光を受けるのです、そして彼はこの地上から移されなければならなかったのです。そして、この時代が来なければ、あなた方はそれを見ることは出来ないでしょう。分かりますか?
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聞きなさい!彼らはなぜイエスに会えなかったのですか?彼は隠していたのでした。神はマスクをしていたのでした。ギリシャ人たちは唯一神を欲しがっていたのです、そしてここに彼はいましたが、彼らは彼に会うことは出来ませんでしたというのはベールのせいでした。それは今日も同じことなのです。彼らはベールのせいでイエスを見れません。それは彼らの上にかけられているのです、これらのギリシャ人たちもマスクをしていましたあるいはイエスがこれらのギリシャ人にマスクをかけていたのです。
気が付いてください。彼は彼らに言いました、「この麦の一粒が地に落ちない限りそれはそのままである、」彼らはそれをどうしても理解できなかったのです、なぜ彼らが彼に会うことが出来ませんでした。そこに一人の男が立っていました。彼らは神に会いに来て、人を見たのでした。分かりますか?彼らは神を見ることが出来なかったのです、なぜなら神は彼らに対してベールをかけていたのです。今、あなたの思いの中にとどめて下さい、神は人の中に隠されていました、彼らはこう言っていました、「これらの業を神でなければ誰にもすることは出来ない、人にはそれは出来ない、そしてここにある人を立たせそして神の業が彼を通して顕かにされる!」ほら、彼らには、神にベールがかけられていることを理解することは出来ませんでした。
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彼は人の中に隠されていたのです、彼は常に隠されていました。しかし、彼は彼らに向けてベールをかけていたのです、彼は彼の人間の宮の中にいました。神は人間の宮の中にいるのです。本当に注意深くしてください、さて、彼は昨日も今日もいつまでも変わることがない方なのです。分かりますね、神は彼自身を世界から隠されていたのです、人間の中に隠されていたのです、分かりますね?ほら神の事を話しています!これらのギリシャ人たちは、「我々は彼に会いたい」そしてイエスは言われました、「一粒の麦が落ちて死なければならない」あなたは自分自身のアイデアに対して完全に死ぬ必要があります。あなた自身の考えを取り除く必要があります。分かりますね、これらの弟子たちがそうだったように、彼らは彼の肉を食べ、血を飲むということを説明することは出来ませんでしたが、どれほどほら、彼らはそれらの事をするには死ななければなりませんでした。彼らは理念に対して死んでいました、そして彼らはキリストにあって信じでいました。何がそうであれ、どれほど、彼が欺かれているように見えてもまだそれをとにかく信じていたのです、分かりますね、彼らはそれをその人の中に見れたのです、その人は食べ、の御、釣りをして、眠りすべての事をこの地上に生まれたもののすることをしました、そして彼らとあゆみ、彼らと話しました、ほかの人と同じような服装をしました、しかしそれは神だったのです。
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だから、ギリシャ人は、彼は彼らから隠されていたので、イエスに会いたかったのです、気が付いてください、彼の言葉は彼らにこのように書かれていました、「この一粒の麦の粒が落ちない限り
神は人の形の中に隠されていて、彼の見方からも隠れていました。彼は人しか見ることは出来ませんでした。しかし神のあらかじめ定められた、子孫でした。ある人は人を見ました、ほかの人は神を見ました。そしてそれは人間の形の中に隠された神だったのです。神は人にベールをかけています。彼はその肉体に住まわれ、肉体が彼のベールだったのです。そのベールは借りられたもので、神があらわされたのでした。
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旧約聖書では、神は彼が彼の憐れみの座にお荒れた時に隠されていました。憐れみの座はベールによって!旧約聖書では、神は彼の宮の中におられました。しかし人々は来られて、このように礼拝していたのですが、そこにはベールがあったことを覚えていておいてください、隠されていた神だったのです、アーメン。彼らは神はそこいたのを知っていました。彼は神を見ることは出来なかったのです。火の柱は、もうそこには決して現れなかったのです。気が付いていましたか?聖句の中に一度も、火の柱がベールとなってその時からイエスキリストが来るまでそれは見せられていました。神は隠されていたのでした。
彼が地上に立っていた時、彼は、「私は神から来たので神に行く」と
そしてパウロは、彼の死の後、埋葬、そして復活、彼のダマスカスへの道、そこにはまた火の柱が現れました。それは何ですか?そのベールの後ろから出てきたのです。神に栄光!
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彼はそのベールの後ろにいたのです。
さて、彼は何の後ろにいたのですか?肌のベールでした。分かりますね、「アナグマの毛皮」そのベールの後ろにいたのです。そしてそのベールが十字架にかけられた日に取られた時、そのベールは十字架の日にかけられて巻かれていました、憐れみの座の全体が見えるようになりました。
さて、そのユダヤ人たちは神がその罪深い我々のような問題の多い人間たちに憐れみをかけられるのかを理解できません。しかし彼らには彼は隠されているので、憐れみを下さるこの方を見ることは出来ないのです。彼はその憐れみの座の後ろにおられたのです、中側からはそのアナグマの毛皮が振り下がって、彼を隠していました。
その前に、もし...
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もし誰かが、そのベールの後ろを歩いたらば、それは突然死になったのでした。(オー我々はそれについてすぐにその学びに入っていくつもりです、もしそれをあなたが受け取ることが出来ればですが)それらの毛皮の後ろを歩くために、一人の司祭の息子さえもそれを一度試して死にました。そのベールの後ろに行こうとしないでください。その人はその後ろを歩かれていたのです。なぜ?そこにはまだ贖いがなかったからです。それは可能性がありました、それはただ可能性だったのです、そして可能性と言うものは本物にはなっていないのですね。ただの可能性なのです。それは贖いだったのです、罪が隠され取り除かれ、分かれた、むしろ分かれたのではないのです。分かれるというのは、離婚するとか、わきに置く」と言うことです。そして羊や山羊の血ではそれは出来なかったのです、エホバはベールに隠されていました、このベールのある所に彼は隠れてそこに入ると人は入ろうとしただけで死に至っていたのでした。
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しかし、ペンテコステ依頼、その十字架依頼、そのベールが上から下まで、その世代のために割かれたのです。イエスは神で隠されていたのでした。そして彼がカルバリーの丘で死んだとき、神は人、稲妻をそのベールを上から下まで割くために送られました、その憐れみの座がはっきりと目るようになりました。しかし彼らはそれを見るにはあまりにも盲目だったのです。モーゼがここで行っているように、パウロは言いました、モーゼの書を読んで、「モーゼが呼んでいる時、まだ、ベールは彼らの心にかけられていた」オー兄弟、姉妹、それがユダヤ人たちがベールがさかれたときに神を見やすい位置に持ってこられたのです、十字架にかけるという。彼は単純に見える状態でしたが、彼らはそれが見えなかったのです。
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さて、異邦人に同じことが出来たでしょうか?(オー神様!)彼らが教会時代を持っていた時、神の御子が、しかしこの宗派のベールや物事、この伝統のベールがペンテコステ以来それがあります、教会の伝統が定めとなり、物事が人々によってこのように言われたのです、「奇跡の時代は終わった、そしてこれらの事も」そして神がそのベールを取られて、はっきり見えるようにされたのでした、そして彼らは再び、十字架にかけられる準備が整っているのです。それこそが今正しいのです。
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そのベールを取られた神、単純にみられるように、彼らは彼がそこに立ったのを見るべきだったのです。しかし彼はあまりにも普通でした、彼は普通の人だったのです。彼らはそれを見ることが出来ませんでした。分かりますね、そこに人が立っていました。「まあ」彼らは言いました、「この人、彼はどこの学校から来たのですか?」しかし覚えておいてください、そのやりが彼の体に刺された時、その霊が彼を離れた時、その宮、その捧げたからだがひっくり返って、その稲妻がそこに降りて来て、宮とそのベールを割いたのです。それは何だったのですか?彼らの神がカルバリーの丘にかけられていたのです、そして彼らはそれを見るにはあまりにも盲目だったのです。彼を見える場所に連れてきたのです、そしてまだ彼らはそれでも見えませんでした。彼らは、盲目なのです。神様が、人の体の中にベールされて隠されているのです。
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あなたは、彼がその後パウロに戻り、また、獄にいたペテロにも日の柱として来られたのです、それを覚えていますか?
しかし終わりの時には、彼は再び戻られることになっているのですが、火の柱は人の子に荒らされるために戻ってくることになっています、ほら、御言葉を表すため、その光です。その言い伝えはもう消されるのです、もうそれを邪魔するものは何もありません、それがはとにかくなされるのです。神は、ただ宗派を砕き、伝統を引きずり下ろします。彼はそれをどのような霊でされるのでしょう。彼が初めてしたようにです。彼がエリヤの時代に、ヨハネの時にしたことを見て下さい、「あなたたち自身に言おうと思わないのか、アブラハムを父として持っていると、なぜならは、神はこれらの石からアブラハムの子供たちを起こすことが出来るのである」分かりますか?だから「私はこれやらあれやらに属しているから」と思わないでください。分かりますか?神はそのベールを割かれました、彼が誰なのかを見せるためにです。分かりますね、ここにそれが貸し出されている時にはそのベールを見て下さい、我々はそれを見つけ出しています。
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そしてある時、ある人がそのベールを通ってある多々押したら、その人は突然死していました。さて、それはそれを通り過ぎない死なのです。アーメン。もしあなたがその伝統のベールを破ることが出来ず、宗派の壁を通り抜けることが出来ないならば、それは神を見るために悪魔の権力の中に居たらそれは死になります。一度、その死がある場所に入るならば、それは死なのでそこから離れるべきなのです。その憐れみの御座全体は簡単に目るように置かれています、誰でもそれを見えるのです、そのベールは取られたのです。神に栄光を!その憐れみの座の全体が見える場所に来たのです。
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どのように神が我々のような穢れた罪びとに憐れみをお持ちになることが出来たのでしょう、彼は彼自身を隠されていた時に、それは奥義なのです。そして今、それははっきり見えるのです、神の御言葉によってそれは明らかにされました。それはいつもその御言葉で、常に、それは神なのです。それは御言葉が開かれたのです。もしその人々が、神の御言葉を知っていたら、その日、イエスが死なれたときに、彼らは憐れみの御座を見たでしょう、彼らは彼が誰だかわかったことでしょう。「その時それは誰だったのですか?誰がそのベールを取り除かれたのですか?」覚えておいてください、それは死が入り込んだのです、誰もそれを見ることは出来ませんでした。モーゼはある形式でそれを見ました、それは竜巻それは人の背中でした。さて、それはまた同じ人が血を流しておられるのです。それは何でしたか?神は彼らにその憐れみの座を見せたかったのです。神は彼が誰だかを示したかったのです。だから、宮のベールを天の神の手を持って頭から下まで神を見せるために取り除かれました。それはイエスキリストが十字架に罹っていて、その憐れみの座でした。それは何だったのですか?人々はそれを見るにはあまりに盲目でした。
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それはまた、今も繰り返されています。その言い伝え、そして伝統、そのペンテコステの日から、御言葉が人の子の形を取ってこられたのでした。そして彼らはローマのニカエアで組織し始めました。そして初めにしたことは、彼らはメソジスト、バプテスト、長老派、ペンテコステ派などなどに入り込みました。それは人の言い伝えによって組織されたのです、悪魔がどこに立っているかを知らないのです。しかし、神に栄光を期しましょう、彼は終わりの時に彼が何をなさるかを約束されました。彼ははっきり見える形で御言葉を示されると、それに開かれて見えるように。
もし、彼らがその御言葉知ってさえいれば、彼らはイエスが誰かを知っていたでしょう。もしある人が御言葉だけを知っていれば、彼はその時代において我々が生きている時代を知ることが出来るのです、そして何が起こっているかも。彼らは御言葉聞くことをただ拒否したのでした。彼らの伝統、ユダヤ人がそれを見る理由になりました。なぜかというと、彼らは実際には見ていたようなのです、それが破かれて開いたからでした。それは目的のために破かれたのでした。
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今現在、このリバイバルは何のためでしょうか?どのように豊かになれるのでしょうか?どのように祝福されるのでしょうか?私はどれほど多くのなりすましがいようと気にしません、他の事もすべて..モーゼが出かけて行ったときには、彼と一緒に混在した群衆がいました。しかしそれが何をしましたか?それはエホバご自身が神としてベールを取られて、正しいものと間違ったものとの違いを見せられたのです。メソジスト、バプテスト、長老派のどれが、あるいは誰が正しいのですか?神の言葉は正しいのです!「すべての人の言葉を嘘にして、私のものを真実とせよ」神には解釈をする人の必要はないのです。彼ご自身が彼の解釈者なのです。彼はそれを表されその解釈を与えられます。神ご自身が露にされているのです。オー素晴らしい!我々ののど真ん中に、我々は彼の素晴らしい見てがこれらの事を告げられていることなさっていることがを見ています。今晩何かが分かりましたね、どのようにして神の手を見るか、それが何をするか、それ自身がどのように開かれるか。分かりましたか?
そして人々はこう言います、「オーそれはナンセンスだ。それこそ狂信である。そんなものはないのだ。それはナンセンスにすぎない。それはベルゼバブである。それは悪魔だ。それは占いだ。それはこれだ」分かりますね、同じことを彼らは主イエスについて言っていました。
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オー教会そしてもしこのテープが配れるようになったら、分かりませんか、福音のミニスター達、あなた方はどこに生きているのですか?我々が今いる時代が分かりませんか?神が神自信を見せておかれているのです。見て下さい。彼はその宮のベールを割かれて、神がはっきり見えるようにされたのです、そして彼らはあまりにも盲目でそれを見ることが出来ませんでした。そして彼は今日同じことをされているのです、彼の御言葉を目の前に置き、彼が御言葉の中で我々の前にそうするとされたすべての約束を置かれているのです。はっきり見える場所にです。
分かりますね、異邦人の教会がすること?同じことをユダヤ人の教会はしました、そしてあまりに盲目だったので彼らは見えなかったのです。それだけのことです。その時代と同じようにそれは彼らの心に置かれるようになるでしょう。
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注目してください、死はそれから今離れているのです。このベールを通っていくしかないのですあるいはあなたはそうしないでしょう。いかに神が彼らに憐れみを持っておられるか、しかし覚えて下さい。それが何であったかを、神はそのベールの後ろにおられて現れておられたのです。そのベールの裏にあるものがなんであるかを見て下さい。そしてベールとは何でしたか?御言葉。それは何でしたか?それは契約の箱でした。それは御言葉が隠されていたベールですね。そしてイエスは御言葉でした、彼は御言葉で、人間の肉体の中に隠されていたのですそれがベールでした。そして今日、伝統のベールが御言葉を再び隠しています、「それはそうでない」と言い、しかしそれはそうなのです。神がそうだと証言しているのです、彼自身が、輝く太陽のようにすべての人びとの前で、輝いているのです、でも彼らはそれを見ることが出来なかったのです。神様我々を憐れんでください。
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類似性の中で、モーゼは神のご臨在の中からその時代のための神の言葉とt重荷出てきたのでした。さて、見て下さい、我々は今出エジプト記19章にいるのです。これを見逃さないでください。出エジプト記19章で、モーゼは神のご臨在から来たのです、あるいは20か21。19:20と21です。モーゼは、神のご臨在から来たのです、彼は御言葉の中に入っていたのです。御言葉は書かれていて、彼は御言葉とともに神のご臨在の中にいたわけです、彼はその時代のための御言葉を持っていました。各時代のための御言葉があるのです。そして、モーゼが出てきたとき、彼の顔は輝いていました。分かりますか?御言葉が彼の中にいたのです、人々に分け与えるためにそれがすでにあらわれる準備がなされていたのです。
本物の神の御言葉は、それに書かれ、モーゼとともにいたのでした。それはモーゼと共に居て明らかにされる準備がされていたことに気が付いてください。彼は彼らの時代のための字言葉でした、彼は隠された、ベールがされた生きた御言葉だった訳です。モーゼは彼自身の顔にベールをかける必要があったのです。何で?彼が御言葉だったからです!アーメン。その御言葉が知られるまで、モーゼは彼自身を隠さなければなりませんでした。アーメン!分かりますか?御言葉があるところではどこでも、それは隠されていたのです!
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モーゼは御言葉を持っていました。さて、覚えていてください、御言葉があらわされた後、モーゼは再びモーゼだったのです。分かりますか?疎化し、尊が彼の中にあり、分け与えられていた時、彼は神だったのです!彼はモーゼではもはやなかったのです、彼はその時代のための主の言葉を持っていたのです。何もそれが終わるまでは彼に触れることは出来ませんでした、その御言葉が彼とともにいたからです。それゆえに、彼が来た時、人々は彼らの頭は回したのです、彼らには理解できなかったのです。彼は変わってしまって、別の人だったからです。彼は尊賭場に来たからです。「そして彼はベールをかけていた」聖書はこう言っています「顔全体に」彼が御言葉を持っていたからです。彼がその時の彼らへの御言葉だったのです。
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さて、見て下さい、もしモーゼが、オー兄弟、これはある意味侮辱になるでしょう。しかしもしモーゼが、パウロがここ第2コリントの3章で言ったように。もしも^-ぜが彼の上にそのような種類の栄光によって彼の顔に覆いがかけられなければならなかったならばね。と言うのは、それは自然な栄光で、それは実際的な律法だったのです。そしてもし、モーゼが律法は滅びなければならないことを知っていたならば。しかし栄光はあまりにも偉大で人々を盲目にしてしまいますから彼らは彼らの顔に覆いをしなければなりませんでした。それはもっとさて、見て下さい、もしモーゼが、オー兄弟、これはある意味侮辱になるでしょう。しかしもしモーゼが、パウロがここ第2コリントの3章で言ったように。もしも^-ぜが彼の上にそのような種類の栄光によって彼の顔に覆いがかけられなければならなかったならばね。と言うのは、それは自然な栄光で、それは実際的な律法だったのです。そしてもし、モーゼが律法は滅びなければならないことを知っていたならば。しかし栄光はあまりにも偉大で人々を盲目にしてしまいますから彼らは彼らの顔に覆いをしなければなりませんでした。それはもっと大いなるものなるのでしょうか?(霊的に盲目な人びと!)そのような栄光は消え失せるけれども、この栄光は消えることがないのです。モーゼは肉的な律法を持っていました、罪に定める、恵みのない、何もない、それはただあなたを罪に定めるものでした。しかし我々が話しているのは、それには許しがなく、ただあなたがしたことを言うだけの事でした。これはあなたに逃れる道を与えてくれます。そして、その御言葉の覆いがとられた時、何と素晴らしい、どのような顔になるのでしょうか?その覆いはされていなければなりませんでした。覆いがなければならなかったのです。今注目してくださいそして、その霊は人間と言う宮の中に覆われていたのです、彼は自然な覆いの中で自然な言葉を語っておられたのです。
71
さて、ここでパウロが今語っています。この感覚では、霊的な御言葉「我々はミニスターで、律法の文字ではない、しかし霊に奉仕することが出来る」その霊は文字を取ってそれを表されている。
それはただ律法だけで、それを見なければならなかったのです、「姦淫を犯してはならない、盗んではならない、偽証をしてはならない、これをしてはならないあれをしてはならない」分かりますか?それを見なければならなかったのです。
しかしこれは霊であり、この時代のために約束された御言葉に来られたのです、そして二つの石の板ではなく、生ける神のご臨在によってあらわされているのです。人が作っているような謎の考え方やフーディーニのようなトリックではなく、まさに神の約束が我々の真ん前で明らかにされ実現されているのです。どのようなものがその覆いの後ろにあるのでしょうか?そしてそれを緩めるには...
72
それはすごく大きく人々がエホバがこの火の柱になってこられたのを見た時に地上が揺れ始め主がなさったことそして山が焼けているほどだったと人々が言うまででした。そしてたとえもし誰かがその山に行こうとしたら、その人は死んでいました。それはあまりに偉大で、モーゼがその揺れを恐れたほどでした。そしてもし主がその時、山だけをゆすられたとしたら、今回は彼は天地をゆすられることになるでしょう。
この栄光はどうなのでしょうか?もしそれが自然な覆いによっておおわれていたならば、これは霊的な覆いによっておおわれているのです。だからただ自然な見方をしようとしないで、霊的に入り込みあなたがどこにいるのかそして我々が生きている時代がいつなのかを理解するのです。
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それはあなたにとって理に適っていますか?ほら、それは人々に対してかけられている霊的な覆いで、「私はメソジスト、そして私は他の人と同様に良い人間である。私はバプテスト、私はペンてコスト」などと言っている。それが伝統的な覆いであるということを理解していないのですか?それはあなたか神を隠しているのです。そのものが楽しむべき全てからあなたを遠ざけているのです。アーあなたは、「私は飛んだり跳ねたり、叫んだりしています」
彼は言いました、「すべての言葉!エバは一言以外すべての言葉を信じました。分かりますか?それは神の御言葉の全てなのです、それがこの時代の約束として実現されているのです。
注目してください、今我々が続けるにあたり、ここで沢山話すことがありますが、20ページほどのメモがありますが、すべてを話すことはないです。私は急がないと。
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彼は人々に御言葉を語る前は自然な覆いで覆われていました。神は約束されたように人間の肉体によって覆われている必要があったのです。神様、、分かりますか?神は彼自身を人間の肉体の内に置かれ、霊的なベールで彼らを覆われたのでした。(「まあ、私はこれだ、そして私はあれだというのです)人々に語るにあたり。そのベールが解かれる時、それは伝統的なベールが真っ二つに割かれているのに、彼らは言うので「奇跡の時代は終った。」と
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ある人が私に先日言いました、そこにいた小さなバプテストの説教師で彼は私に来て言ったのです、グリーン兄弟、そして彼は言いました、「ブラナム兄弟、あなたに反対することが一つあります。「あなたは人々に、、、をさせようとしている」それはラマダインでのことでした、我々はそこで集会をしていました。「あなたは使徒達の時代のように彼らに今日生きさせようとして使徒の時代を信じさせようとしている」そして言った、「使徒の時代は使徒達の時代で終わった」
私は言った。「そうでしたか?」
そうだ。
私は言った、「使徒の時代のスポークスマンは誰でしたか?」
彼は言った。「上の部屋にいた、12人の使徒達」
私は言った、「そうするとパウロはいないことになりますね」そして私は言ったのです、「スポークスマンはペテロでした、ペテロはペンテコステ(聖霊降臨)の日に、何が起こっているのが彼らが見た時に、聖霊が働いていたのです、彼は言いました、「この約束は、われらの主なる神の召しにあずかるすべての者、すなわちあなたがたと、あなたがたの子らと、遠くの者一同とに、与えられているものである」もし、彼が今も召されているのであれば、同じことがここにもあるのです。それではいつ使徒の時代は終ったのですか?使徒の時代が終わるのは神が召すのをやめられるときです」彼は何も言わずに帽子を取って、離れて行きました。
それは御言葉にさせなければならないのです。それは御言葉なのです。イエスはサタンに言いました、「それは書かれている」ほらね。それだけのことです。それは書かれている。
私は言いました、「ペテロはそれは決して終わることがないと言われました。主が召されている限り、この祝福は彼らの物なのです。さてあなたは言われます、「彼は止められた。」いつのことですか?
「何も問題はなかったのですか?」
私は言いました、「何も、全く、先に進みます。」ね?分かりますね?ペテロは言いました、それは神が召された者すべてのためだ利、使徒の受けた祝福と同じものを受け取るのです。それは主の言葉ですから、ね。
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さて、自然なベール、神、その御言葉自身が人間の肉体によって覆われていたのです。それは何でしたか?神がモーゼによって覆われ。神はモーゼの中に覆われておられたのです、そして神のご臨在がモーゼの中にあったのです。彼は御言葉と共に彼の内でそのように完璧で彼の顔を覆う必要があるまでになっていました。そしてそれこそが御言葉を開き人々に告げることになっている立証された預言者であったことを示しているのです、「あなたはそれをするな、それをせよ!それはするな、ね。
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御言葉をその世代に与えるには、彼自身が人間の内に覆われていなければなりませんあるいは、御言葉は、呼び出された者さえも、盲目にするのです分かりますね?そこにいた人々さえ、彼らはそれを立ってみることは出来なかったのです。出エジプト記の中で我々はそれを見出しまs、彼らh言いました、「神ではなくモーゼに語らせよ。」ほらね、だから火の柱はあまり現れないわけですよね?ね?
神は言われました、「私がそれをする、彼らのために預言者をたてる。」アーメン!「彼らの内から一人の預言者を打ち立てる」そして彼はまさにその通りに来たのです。そして彼は御言葉になられるでしょう。」
彼は言いました、「もし彼らが御言葉なんであるかを見たいならば、」言いました、「今、モーゼ、私は燃えるやぶの中の裏に私自身があなたに現れよう」と言われました。「私が降りて来て、山に火をつける」と言われました。「彼らはあなたが真を告げていることが分かるであろう。私が同じ燃える在り方でここに現れよう。私はここに現れて人々にそれを召命する、あなたのミニストリーを立証しよう。」ここで神はモーゼにそう言われたのです、沢山の言葉を通して。
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彼が言ったことに注目して下さい、「さて私は人々の前であなたに栄光を与えるであろう」言われた、「今、あなたは彼らに告げた、私は燃えるやぶの中であなたに会った、今、私は同じ火として降りて行く、そして私は人々にあなたがそれについて決して嘘をつくことはないことを見せよう。」そして科学的にさえ、もしあなたがそれを居たいならば、証明したのです。「私はそこに降りて行く、そして彼らにそれを教えよう」
そして彼が嵐を始めた時、エホバが嵐を起こし始めた時、人々は言いました、「いや、いや、いや!エホバに語らせないでください、我々は死ぬでしょう。
分かりますね、彼はベールに隠されていなければならなかったのです。だから神は彼自身をモーゼの内に覆われ、モーゼに御言葉を与えていたのです。そしてモーゼは降りて来て、主の言葉を彼の顔にベールをかけて語っていたのです。そうですね?エホバは預言者の形の内に覆われていたのですというのは、それは絶対的に、そうだからなのです、そして神は、彼はもうそのようには語らないと言われました。彼は唯一預言者を通して語られると。それ以外で語られたことはなかったのです。それが唯一神の語られる方法なのです。それだけなのです。そうなのです、ほかの方法はありません。彼はうそをつきません。
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注目して下さい、モーゼだけが御言葉を持っていたのです。さて、グループが降りて来たのではないのです、ただパリサイ人あるいはサドカイ人あるいはそれは特定のセクトあるいはクランもなかったのです。それはモーゼだったのです!彼は一人の人を得たのです。彼はふたつかみっつの異なる思いを持っていたわけではないのです。彼は一人の人を使うのです。モーゼが御言葉を持っていて、モーゼだけだったのです。ヨシュアは持っていませんでした。誰も他の人は持っていませんでした。アーメン!ヨシュアは大将で、ヨシュアは軍の指揮官だったのです。ヨシュアは信者で、クリスチャンだったのです。しかしモーゼは預言者でした。御言葉は、ヨシュアには来ることはありませんでした、それはモーゼにしか来られなかったのです。その時代においてモーゼが主要な預言者だったのです。注目して下さい、その御言葉はモーゼが死ぬまで、ヨシュアに来ることはありませんでした。いいえ。神様は一人づつと対処されるのです。神は一人です、ね。さて、モーゼだけが御言葉で、グループではないのです。
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さて、神様は、モーゼがベールの中に入るのに誰も従わないように、なりすましがないように系警告されました。女性、男性、司祭、誰であろうとも、どれほど信心深くとも、どれほど栄誉があろうと、どれほど彼らがあろうと、彼は警告されました、「モーゼだけにさせて下さい!そしてもし誰でも、動物でさえ、それに触り、それはそこで殺されなければなりませんでした。」ベールの前で、決して砕かれたりはしません、ベールは一人の人に属しているのです。メッセージは一つですね。神殿の中には一年に一度だけ油注がれて、決められた日に入っていたのです、御言葉を出すのでなく、ただ、血を捧げていたのです。その前に唯一一人、そこにただ歩いてさえいたのです。誰も他の人は死んでいたのです、ね。
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彼らは今、霊的に死んでいます。これは、霊的なベールなのです。それは実際的な覆いでした。これは霊的なベールですね。彼らは歩き続けて、そこに居て、あなたは彼らに言えるのです。「オー、知っています!私はそれを知っていますが、私は、、、」進んで、それは大丈夫です、それはただ話していれば、あなたは覚えていてください、最後のエジプトでの災害は、出エジプト前の死でした。地上での最後の災害は出エジプト前の霊的な死だったのです。その時、彼らは火葬され塵に戻るのです、そして義人が彼らの灰の上を歩くことになるのです。しかし最後の事は、霊的な死です、御言葉を拒否することに因るのです。
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さて、注目して下さい、神は誰でも、火のベールに入ってモーゼに従おうとした人々に警告しました。モーゼは覆われるためだったので、彼はそこから出て来なければなりませんでした。そしてモーゼは、モーゼとして中に入り、この火の柱の中に入って行ったのです、そして彼が戻って来た時、彼は覆われていたのですというのは、彼はそこに入って行ったから、彼の伝統から離れたのでした、長老たちの伝統から出した。そして彼は火の柱を見たのでした、しかし今、彼は火の柱の中に入って行ったのでした。アーメン!そして彼が出て来て、覆われていました。人の内にい高みの御言葉、覆われていた!ここに彼は歩み出て来ました、オー、南東素晴らしい。和レアwれはそれを見ることが出来ます。ほかの誰もそれを試すことは出来ないと警告されていました、誰もそれを成りすますことは出来ないのです。あなたも試さない方が良いのです、ね。たとえ、司祭でもあるいは聖人であろうとも、誰であろうと、枢機卿であろうが、司教であろうが何であれ、覆いの内に入ろうとするならば死んだのでした。神は彼らに警告していました。なりすましを得ることはないためです
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神の御言葉は一人にのみ顕かにされていました。それはいつもそうなのです、預言者は主の言葉と共に出てきたのです、各時代において、いつでも、聖書全体を通してそうなのです。御言葉は一人の人に来ています。すべての時代において、その同じことが最初から最後まで教会時代でさえも変わっていません。他の人達には彼らの場所があります、そうなのです、注目して下さい、しかし、火の柱からは離れていてください、ね。ここで我々は何という学びでしょうか!ほら、誰でもモーゼに、なりたいのです、そして誰でも、、
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ダタンと彼らがそこで何を言ったかを覚えていますか?彼らはこう言ったのです、「させ、も0ぜ、ここでちょっと待ってくれ、あなたは自分自身の上にあまりにも多くを取り過ぎている」ネ?「神は他の人達も召しているではないか」
それは事実です。彼らはお互いの道にしっかり従っている限りは良かったのですが、誰かが無理やり上って、神がモーゼに与えた立ち位置に昇ろうとしたときには、つまりあらかじめ定められその仕事に定められていたのに、それを撮ろうとしたとき、火が降りて来て、地上に来て彼らを即座に飲み込んだのです。ね。気を付けて下さい!分かりますね?よりよく、信心深いクリスチャンとして、御言葉を信じて下さいね。その柱からは離れていなさい!何という学び!
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神は初めに、モーゼに燃えるやぶの中で洗われました、神は火の柱に隠されていたのでした。さて、しっかりちょっとの間聞いて下さい。神は初めにモーゼに来ました、彼は隠されていました。神は火の柱の中におられ、やぶの中でかkされていました、ちょうど肌の裏にあるように、憐れみの御座が祭壇にあるようにね。彼は覆われていたのです、彼はいつも覆われています。そして彼がモーゼに来たおt気、彼は火の柱の中におられたのでした、火の柱によって覆われていたのでした。しかしここで、人々の前で、神は、彼を同じ日の柱によって立証したのでした。ね。モーゼは言いました。
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さて、しっかり見て下さい!皆さん読んでいますね、、思いをどっかに持って行かさせていませんか?分かりますか?「耳のあるものは聞くがよい」ね?
神がモーゼに現れた時、それは火の柱の中におられたのでした、神がモーゼを神の御仕事をするように召した時。そしてモーゼは来て、人々にそのことを語りました。彼らはそれを信じませんでした。しかしながら、モーゼは奇蹟や物事を話したのでしたが、この時、彼は目に見え、科学的のも現れ、神が語られたということをで同じ神となることをモーゼの御仕事の中で立証したもでした、つまり神が火の柱の形の内で洗われ、山に火をつけた。そして彼はモーゼの所にやぶの中で着て、彼が彼に話したのでした。そういう事でした。
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神が初めにモーゼに現れたのは燃えるやぶのベールの中ででした。人々の前に、神は再び、覆われて、モーゼをベールによって立証したのです、彼自身が同じ日によって覆われていたのです、そしてその同じ火の柱が降りて来たのです、そしてそのために彼らが唯一神の言葉を聞くことがd圭太のです。それが分かりますか?御言葉によってのみ、彼らは彼の声を聴いたのです。モーゼの為でした、そしてそれは彼らの為でした、生きた御言葉。モーゼ!分かりますね、神はモーゼによってその御言葉をしっかりと証明しなければならなったのです。ね。モーゼは言われました、神はモーゼに言われました、「そこに降りて行きなさい、そして私はあなたと共にいる、何もあなたの前に立つものはない。私はあってあるものだから。
モーゼは降りてきて言いました、「あなた方はこれを信じないかもしれない、多分、しかし神は火の柱の中に現れて、これらの事を私に告げられた。」
「オー我々には、色々な種類の事が起こっている」パロは言いました、どうして!パロ牧師は言った。「まあ、お前は安っぽいマジックトリックを得ただけだ。どうして、私はここに魔術師がいる、彼らは蛇を言え、杖を蛇に変えられる。ここに来なさい、魔術師たち」そして彼らは降りて来て、同じことをした。
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モーゼは知っていたのです、何も彼の邪魔をするものはなかったのです。どれほど沢山のなりすましがいても何の違いももたらしませんでした、モーゼはただしっかりと立っていたのです。あなたが知っている初めの事は、彼らはしばらくの間うろうろして、直接、モーゼの蛇が彼らを皆食べてしまったのです。どうして?ちょうど使徒たちと同じように、彼らはそれを説明することは出来ませんでした。モーゼは神がどのようになさるかを知りませんでしたが彼はそれをなさっていたのでした。
覚えていますね、彼はヤンネとヤンブレが終りの時に戻るであろうと、ね、なりすましです。
「また、もし出来るならば選民さえも惑わすであろう」マタイによる福音書24:24ですね。ちょうどまさにその通り同じことなのです、同じような奇跡など全てです。御言葉を見て下さい。御言葉を気を付けて見るのです!ある人は言います、彼は奇蹟をするとそしてまだ3つの神かいると信じたいのです、いつもですね。そのようなものからは離れなさい。私たちはそれが間違っていることを知っていますよね。そんなものはありません!ね?御言葉、全ての言葉は神の口から出るのです全てがです。創世記、一つの言葉!ここでも言っています、「一つの言葉を取ったり足したりしてはならない」分かりますよね。それは同じ言葉でなければならないのです。ね。
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注目して下さい、人々は何かが起こっているのを見たのでした。モーゼは預言者としてのベールがありました、そして神は彼の言葉を立証したのでした、そこに降りて行きました。そして彼は印や奇跡を見たのでした。そしてその時、この後、人々は彼ら自身と分離したのでした。教会。ほらん。教会の意味は「呼び出された者達」である。ほらね?彼らが世から呼び出された後、そして民となったのでした、ほらね、その後、神は彼自身に彼が火の柱である事によってしらせ他。彼はモーゼのメッセージを証明した。ほらね?彼は火の柱だった。彼らは写真を撮ったのかもしれない、と思った。もし彼らがカメラを持っていたら、それは皆火がついていたから。しかし彼らはそれを証明した、神はそのメッセージが正しいことを証明した。そのメッセージはそこにあり、全てがそうだった、そこには脱出になることになった。彼の預言者がこの脱出した人々による覆いだったのだった。
90
その人々(考えて!)見て、何かが彼に起こったのだった。彼はさて、ほかのイスラエルの民とは違っていたのだった。彼は違っていた。彼のメッセージは違っていた、彼は司祭とは違っていた、彼は何かから違っていた。ね。彼は異なる人達だった。その人々は何かが起こっているを見た。神は彼の預言者の中に彼自身を覆っておられたのであった、彼の言葉を彼らに話したのであった。それが彼がした事だった。モーゼは民に対する生きた言葉だった、火の柱によって覆われていた、アナグマの皮の後ろに後に覆われていたのであったね。
91
御言葉はモーゼから始めに来なければならなかった。ね。モーゼは御言葉を持っていた。彼らは神によって書かれたものだった、誰もそれらを解釈することは出来なかった、モーゼがまずそれらを解釈しなければならなかった。それが理由で彼の顔を覆わなければならなかった、だから、彼は、あなたはそれが分かりますか?ね?そういうことなのです。我々は、選ぶことが出来るのです、そして他に何もないのです、しかしそれは顕かにされなければならかった。顕らかにされるためには、モーゼはその民には神にならなければならなかったのです。
あなたは、「ナンセンス!」というのです。
彼が言ったのはモーゼ自身さえも言ったのでした、「あなたは神になり、アロンはあなたの預言者になる」分かりますね?ね?さて彼はやってきました、ほら、彼は彼自身を覆わなければならなかったのですというのは、神は常に、ベールの後ろに居なければならなかったのです。オー、何てこと!分かりますか?神は公から隠されているのです。
言った、「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。」ね?
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神はベールの後ろに隠したのだった。モーゼは彼の顔を覆たのでした。モーゼはその時覆われた生きた御言葉だったのです。民は火の柱を見たのでした、言った、「さて、我々は満足していますね。?」モーゼに話させよ。ほらね?「神に語らせないで欲しい、そうでなければ我々は死ぬ。」モーゼはその火の柱に歩んでいくのです。ね。
そして言った、今、彼は言った、「さて、私はこのようにもはや彼らに話すことはしない、私は預言者にそれらを与える。」ほら、そしてそのようにして、彼はいつもそれをされたね?言った、「さて、彼らはそうさせた...」しかしこの預言者はこの言葉を持たなければならない。もし彼は伝統によって覆われていたならば、神は決して彼を送りはしていない。もし彼が御言葉によって覆われていたならば、神がそれを立証されるでしょう。神は彼自身の言葉を解き明かされる。モーゼは彼らに語った、神がそれらを解き明かしたのである。アーメン。
モーゼは言った、「主はそのように言った!」そして主は彼が言ったことをなさった。必ず正しくされたから。
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さて、彼は言った、「今、モーゼは、あなたは理解している、その民は理解しているから」ほら、私はあなたに見せたのだ、私はあなたに立証した」神は彼自身をこの預言者の内に彼の御言葉を人々に語るために語るために覆われたのだった。それが理由で彼の顔を覆っていたのであった。
そして、純粋なるクリスチャンは今日未信者に対して同じものによって覆われているのを知っていますか?彼らは女性達が長い髪や物事があることに因って分かるのである、彼らは言います、「それは古臭く見える」女性は彼らの髪の毛を後ろでツイストしている、そして言った、「パンクした、スペアタイヤがある。」ほら。それは皆覆われている。彼らは盲目なのである。「ほら」彼らは言う、「私は、Ph. D, L...を取得した」あなたが何を取得しようと気にしない、それでもまだあなたは御言葉について無知である。その通りである。「オー、それはただ小さなものである。」初めに小さなレッスンをします。
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彼らが神のご臨在の内である教会の伝統を宣べ伝えるうちに彼らを覆ったのだと言って、人々は何だろうと言いました?オー憐れみ、良きこと!それが加えたり取り去ったりその他すべての事、彼らの自身の事を射出したのです、そして彼らは自分自身の思いがあります、そして神の御言葉ではないのです、ね、どのようなベールですか?それは教会のベールを得ている。神はベールを大きく引き裂いたのだった。
彼らは言う、「それには預言者達というようなものはいない。使徒と預言者としてこの終わりの日にそのようなことはない。神の癒しなどというようなものもない。先見者というようなものももうない。マルコ16章などと言うものが成就するようなこともない。使徒たちの時代は終った。」彼らは人々に対して覆われた、しかし神は聖霊の火によって歩んだ、そして上から下までそのものを貸した。(テープの一部がブランク)神はその覆いを外した。
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モーゼは、覆いだった、生きた神の御言葉で、人間の肉の裏に隠されていたのです。その火の柱はモーゼの内にいたのです、もちろん、肌の裏に覆われていて話していたのです、分かりますね。
さて、その御言葉、御言葉が前に出されていたのです、そしてそれは書かれていたのでした、そしてそれは置いてくれ、そしてまだ覆われていたのです、神にとってはいつも御言葉の中にありました。アーメン!彼は御言葉なのです、いつもそうです。彼は御言葉の内におられるのです。それが理由で、御言葉は覆われていなければならなかったのです。
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オー兄弟、姉妹、あなたはそれを捕まえていますか?見て!分かりませんか?それはこれらの時代を通して神に言われたことによって覆われていた、そして終わりの時に開かれていました、7つの封印は解かれたのでした、そして物事が人々の中に入って来るのです、そして物事はそれに沿って行われたのでした。7人目の御使いのメッセージの時代に:どのようにしてキリストが彼の教会に置くのか、神の御子、どのようにして彼が人の子として再びどのように明らかにされたのか、どのようにして教会が秩序を正されたのか、そしてすべてが終りの時の為だったのです、信条でもなく、宗派でもなく、ただ絶対的に御言葉はその個人の内に生きているのです。」わたしは一人を使い一人から離れるのである。私はこれを使いもう一人から離れる、」ね。何かに結びついてもおらず、宗派でも建物でもなんでもないのです、それは神と共にある心、それだけなのです。分かりますね。
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注目して下さい、人の肉体の中に覆われていたのです。モーゼは御言葉でした、後にアナグマの毛皮の後ろに隠れて話すようになったのです。だから、それはキリスト、我らがモーゼ。キリストは我々のモーゼなのです。彼は神で人間の肉体に覆われていたのです、人間となりその肉体に覆われていたのです。その通りだったのです。そして彼は、昨日も今日もいつまでも変わることがない方ののです。彼はアナグマの毛皮によって覆われていました。彼は覆われていたのでした。そして今回、彼は人の中に覆われていたのです。今、注目して下さい「昨日も今日もいつまでも変わることがない」この時代に約束された言葉なのです。彼は今もキリストです、この時代に対する約束された言葉、人間の肉体の内に覆われていた。その御言葉こそが神なのです。
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油注ぎは人なのです。キリストという言葉の意味は「油注がれた者」ほら、「油注がれた者」その時、モーゼは彼の時代におけるキリストだったのです、彼は油注がれたものだったのです。エレミヤは彼の時代のキリストだったのです、その時代の御言葉の一部だったのです。
しかし、イエスが来られた時、彼は贖い主油注がれた者として来られたのでした。そして、それは両方、モーゼとモーゼの内の全てそしてすべての御言葉そしてすべての神格が肉体となって彼の内にあるのです。それが理由で、全ての神殿の幕が破れ、憐れみの御座が完全に見えるようになったのです。彼は油注がれたものでした。
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気が付いて下さい、今、その覆いは人間の肉体の内にあるのです、この時代に約束されたその御言葉も覆われていなければならないのです。注目して下さい!罪を愛している教会の会員たちと罪びとはそれを見ることが出来ないのですというのもそれは人間の覆いがあるからです。
それが理由で彼らは主を見ることが出来ないのです。「どうして、彼は人に過ぎない。彼はどこから来たのだ?彼はどんなフェローシップカードを持っているのだ?どの教会に属している?(今晩それについて話したいのです、どの教会にかれが属しているか?分かりますか?)そしてそうなのですね、「今、どの教会にかれは属しているの?どのグループ?どの学校を彼は持っているの?彼はどこで教育を受けたの?さて、この人は伝統によって生れ、彼の周りの言い伝えによってここに居て、彼は聖い結婚によって生れたのでした。もちろんそうです、彼は悪魔のものだ!分かりますね?「彼は悪魔からでたのでした!彼は聖い結婚によって生れて来たのです。そしてヨセフは彼女を石打から守るために結婚したのでした、というのは彼女は姦淫を犯していたのでした。そしてその人がやって来て、我々司祭にすべきことを言うのですか?」
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そしてそこで神はそこに立ち、御言葉を顕かにして泣いたのです、「神様、どうして私はあなたを捨てられるのですか?」そのまさに神殿で歌っていた歌でした、ダビデは彼らのために何年も前に書いていたのでした、キリストを表すために。「私の骨は砕かれた。彼らは私の手と足に釘を刺した」そして彼らはそこに立っていたのです、そして歌っていました、そしてまさにその人が十字架上で死にかかっておられました。そして彼らはそこに立ってその歌を歌っていたのです、そしてまさにその人が十字架上で死んでいたのです。そしてそれを終えると、、
彼が死んだとき、天の神が彼がちょうどシナイ山にいた時のように降りて来られ、聖なる火を持ちそして神殿の幕(ベール)を上から下まで、割いて分けたのでした。そして彼らに何が出来たのでしょうか?神殿の窓から外を見ると、カルバリーの山の上に、神がその場におられたのです、犠牲の捧げものとして。
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しかし、彼らは今日未だそれが分からないようです。この終わりの時代に神はこの時代のためにもたらされた御言葉によって伝統を切り裂いたのでした、そして彼らはまだそれをまだ知らないのです。彼らはただ、知らないだけなのです。それはただ単純なのです。ほら、それはとても単純なのです、それは世からはとても遠いのです。
私は馬鹿になるように、特定な集会で先日説教しました。この後近いうちのいつか、私は、それについて話したいのです、「馬鹿になる」我々は皆誰かのためのバカなのです、だから私はキリストのためのものです。パウロは「愚か者ととなる」と言っていました。確かにあなたもそうならなければならないのです。ね。それはその物は共に持つには愚かになる必要があるのです。ね?その通りなのです。
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さて、気が付いて下さい、その幕(覆い)は人間の肉体なのです。分かりますね、今、罪を愛する人々はそれを見ることが出来ないのです。伝統的な宗教的な人々、彼らはそれを見ることが出来ないのです、なぜならば、彼は人だったからです。なぜ?その人間の肉体は神を隠していたのでした。
さて、もし、彼は偉大なる火の柱として降りて来たのです、ね。偉大なる火の柱なのです、エホバが動いていたならば、それを彼らは信じなければならないのです。しかし、あなたは彼がしていたことが分かりますね、彼は全ていわゆる賢いとか優秀と言われる人々を迂回することが出来たのです、彼はただ彼自身を彼がモーゼに約束したようにあらわされたのでしたのね。「私は人々に預言者を通して話します」そして彼は人の子であり、預言者だったのです。そして彼らの何人かはそれを認識していました、世では100分の100パーセント、彼らはそれを信じていました。彼らののころは信じていませんでしたが、彼はただ変わることはなかったのでした。
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しかし全能の神が完全な形でおられたのです、憐れみの御座。彼は彼自身の子供たちが、「彼を持つことはない」とその場で言っている時に、死なれたのです、彼から離れよと!そして彼に唾を吐いていたのです。
類似、その昔、ダビデは神殿を離れた、拒否された王でした。道を降りて行き、年老いて足萎えになった男がはいはいしながら寄って来たのですが、彼はそのようではなかったのです、彼は彼を「年寄りの偽善者」と呼び、あるいは彼の顔に直接唾を吐きました。そして見張りが刀を抜いて言いました、「私の王に唾を吐くとは、犬を追い払う」と
ダビデは言いました、「掘っておきなさい、神は彼にすでにそのことを告げておられたのでした。」そしてダビデはたぶん、彼が山に登って後ろを振り返り泣いて言ったことを知ら中たのです。
それから800年後、ダビデの子が同じ山を登り、振り返り、エルサレムを居ながら泣いておられました、拒否された王として。彼らは彼の顔に唾を吐きかけていました。
分かりませんか?それは同じことだったのです。御言葉が降りてこられたのです、今日もそれを追っているのです。常に多勢からは拒否されていて、信じているのは少人数なのです。
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さて、ね、彼らはそれを祈ることは出来なかったのです。それらのギリシャ人は彼を見ることが出来なかったのです、彼は人の体の内に住まわれていたのです。どうして?彼らは言いました、「この人の名はイエス、彼はナザレから来た」
さて、彼らの時代にあった名前は、「ヨハネ、ジム」のような名前だった。彼らは、言った、「ジョンはジェファソンビルの出身で、ジムはニューアルバニーの出身です」あるいは、そのような感じでしたね。
彼らは、言った、「これはナザレ出身のイエスです。一般的に信じられていたのは、彼の母親が塀によって妊娠した」ね?そしてその時、それはまさに彼らが信じていた事だった。本当に!そして彼らは言った、「さて、そしてこれはナザレのイエスです。」分かりますか?「彼は誰ですか?」ほら、彼らにはそれを理解することは出来なかった。
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でも、何で?
この御言葉は、その時代の為だった、彼は説教していたと言った「聖句を調べなさい。彼らは、永遠の命を持っていると知っていた、そして彼らは私が誰であるかを証していた。もし、あなたが私を信じられないなら、私の事を覆いとしても忘れて下さい、御言葉が出てきたものを信じるのです。二人の証人がいるから」彼は言った、「私は語り父も私のために語る」アーメン。そうなのです。
私はこの時代の御言葉を語り、父がそれを確証するのです。さて、それはあなたへの証人ですか?そうですよね。そのようにして成就するのです。
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第2コリント人への手紙の中にあります注目して下さい、第2コリント人への手紙3章6節、古い神殿の建物で、神様はユダヤ人の肌の奥に住んでいたのです。古い幕が割かれた時、まだユダヤ人たちの目は開かれておらず、彼が誰だか分かっていませんでした、そして彼はまだ誰だかを見ていなかったのです。そしてその時、ペンテコステ(聖霊降臨)が明らかにしたのは、真実で生きている神様だったのです、その幕が2つに割れた時、神と共にいて、上から割れたのでした。さて、幕はなぜそれをしたのでしたか?それはなぜそうしたのでしたか?
なぜ何が今日にメッセージとしてなぜ来たのか?それはどうしてそのように言われたのですか?何故?
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誰か私に電話をしてきた人がいるのです、ここにそんなに前ではなかったのですが、ある人が私と教会時代について議論従っていました、「神は彼の聖教会におられる」そしてそのようなことでした。そして分かったのは、それはある女性説教師だったのですそして、私はただそのことを忘れていました。ね、もしそれが男性であればそれは大丈夫で、それには違っていたでしょう。しかし、だからでも他の国から引っ張り出しても何の意味もないですね、ここでの集会を出て行かなければならいのでしょうか?分かりますね?だからそのままにしておくのです。盲目が盲目の人を導けば、彼らは皆、溝に落ちるでしょう。
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だから、今、この時代において、古い宗派や伝統の幕は神の御言葉によって破かれるのです、だからそれが表わされることが出来るのです!私の言う意味が分かりますよね?伝統はこういうのです、「これらの事は全てのことは、過去の事で終わった。」(ちょっとしっかり使ってみてみましょう!)「それらの物は過去である。」しかしこの終わりの時代において、伝統の幕は真っ二つに割かれたのです、そしてここには火の柱が立っているのですね。ここにかれは終れ、この時代のための御言葉を顕かに表わしておられるのです。幕は割かれたのです!さて、世において、彼らはそれでも信じていないのです。どんなことがあろうと、彼らはそれを見ることはないのです。彼らには分からないのです。それは彼らには送られていないから。
覚えて置いて下さいね、神の御子はソドムには現わされていませんでした、二人のメッセンジャーが送られていました。そうですよね。
しかし、神御自身が肉体を取って来られたのはアブラハム、選ばれた者に顕されていました。そして、彼が彼自身を顕かにされた時になさったことを見て下さい。そして、今、アブラハムは知っていました、彼は彼の後ろにいたサラの思いを知ってさえいたのです、彼は言いました、アブラハムは彼を「エロヒム、あなたの僕、、、」と呼んでいました。
109
今、注目して下さい、それは顕されることが出来るのです。御言葉には幕がこの時代人々に対して張られているのです、「それはなされない」
あなたは私がある朝初めてここを離れた時に話した説教を覚えていますね、ゴリアテとダビデ?私は言いました、「そこにいる挑戦者を見よ、奇跡の時代は終った」テープが出て来る者を見て、それらの一つ一つを見なさい、それはどのようにしてどんどん分かりやすくできるのか、もしあなたの耳が聞き、目が見るなら。しっかり見て下さい!私は言いました、「偉大なる教会の世界があり、この科学的時代でそれはなされない」としかし私は言いました、「神は光の中におられ、決して取り去られたことはないのです、しかし一度だけ。それ以来取られたことはなく、そこの皮の上にモ、彼らはその写真を撮ったことはなったのです。ほらね?私は言いました、「彼は私にそれはなされると言われ、彼は呼ばれて国々を一掃されたのです。
そしてデービス医師が「あなたは小学校しか卒業していない、7年生の教育しか受けていないのに、王や君主たちが祈られにやって来てリバイバルが始まり国々を一掃するって?というまで?
私は、「それを主が仰せになられたのです」と言った。
そしてそれはなされなければならないのです。分かりますよね?ほら、それはなされました。それがその物なのです、彼には解釈者入りません、彼自身がなさるのです。ほらね?彼は既になさいました、ご自身で、彼の選んだ者達を召され、ほら、全ての種類の人生の歩みから。さて、それは顕されているのです。
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私は言いました、ダビデはそこに立っていました、ちっちゃなやせっポッチの彼の後ろは皆頭を垂れていて、彼の手には石投げヲ持っていただけでした。そして、どうして、サウロが彼を見たので、つまり教会の組織は言いました、「どうして、あなたは訓練さえ受けていないではないか!」彼は言いました、「あなたにPhDか何かを与えられるか見てみよう。」この武具を彼に着せてみて、そして彼が分かったのはそれは神の人には合わないという事でした。
言いました、「それを私から撮って下さい」言ったのです、「それについては私は全く知らない」そして言いました、「私のやり方で行かせてください、私はライオンとも熊ともそれで戦いました。彼はある種の森の人でした。彼は言いました、「このように行かせてください」
そしてこの年長のゴリアテは言いました、「俺のところに犬を送って戦おうというのか?」そして言いました、「お前をやりで刺して、お前の死体をそこにつるして犬に食わせてやる」と
ダビデは言いました、「あなたは私にペレステ人として、武具と槍を持って戦ってくるそして私はイスラエルの神である主の名によってあなたと戦う」預言者を見て下さい、ダビデは言いました、「今日私はあなたの頭を方から切り落とすであろう」アーメン。オーなんという事!彼は彼の持っている物を知っていたのです、彼が信じている方を知っていて、完全に彼は彼に委ねているならば彼は守って下さるという事と説得されていたのです。ね?だからそれはとにかく起こったのでした。
その年長者は言いました、「奇跡の時代は終った、その壁は崩された。エホバはまだ完璧に立っておられ、彼の御言葉を表しておられるのです、幕を開かれた方。そうなのです。
111
気が付いて下さい、異邦人の教会もその幕によって目を閉じられていました、それが割かれて神を見せられたのち、教会の幕。どうやって、人を幕としてその内に御言葉が再び置かれたのです。それが椅子られるが見ることが出来なかった事でした。もしそれがある天使か何かがあれば、イスラエルはそれを信じたでしょうが、それは天使ではなく人でなければならなかったのです!アーメン!神は御言葉の約束を破ることは出来ません。終わりの時に再び同じことになるのですね。盲目のイスラエルとは?それは人です。「あなたは人なのに自分を神にしている」だから彼らは彼をその為に殺したのです。そして今日、メッセージは人を通して出てきたのです、天使ではないのですね?神は彼のやり方を変えることは出来ません。彼は言われたのです、彼は変わることはないと。ね。注目して下さい、今日の異邦人は当時のイスラエルと同じくらい盲目になっているのです、その約束ですから。どうしてですか?幕!神は人を幕として隠されていたのです、盲目のイスラエル。注目して下さい、全ての盲目の人達、それは盲目になるのです、そして他の人達には真理が明らかにされるでしょう。それは他の人の目を閉じて、ほかの人々の目を開かれるでしょうから。
112
見て下さい!イエスは立って言われたのです、「あなたの名前はシモン、そしてお父さんの名前はヨナ」彼は言いました、「主なる神様!」
ピリピは、、彼は言いました、「どうやってあなたはそれを知ったのですか?」
彼は言いました、「見よ、偽りのないイスラエル人がここにいる!」
そして彼は言いました、「ラビ(先生)あなたはいつ私を御知りになられたのですか?
彼は言った、「ピリピがあなたを呼ぶ前に、あなたが木の下にいた時、私はあなたを見た。」
彼は言った、「ラビ、あなたは神の御子であられます。あなたこそがイスラエルの王」
しかし、そこに立っている者達は、「彼はベルゼバブだ」ほらね?それは何をしたのでしたか?一人の目を開け、ほかの人の目を閉じたのでした。司祭たちは何と言ったのでしたか?「どうして、その男は、ベルゼバブだ!」と
113
その小さな女性は言いました、「私は救い主が来られるのを知っていますその方は油注がれた方と呼ばれるのです」ね。「場裏注がれた方がくる、我々には預言者がいませんでした、あなたは世弁者に違いありません。しかし油注がれた方はこられるのです、我々は彼を探しているのです。これは異邦人にとって終わりの火なのです、あるいはユダヤ人にとって?言いました。「これは終わりの時である」ネ。サマリア人とユダヤ人は救い主を探していました、分かりますね。言いました、「この時こそ彼は現れる時なのです。我々は彼が来るときこれらの事をなさるのを知っていまs。彼はこれらの事を我々に言うのです。
彼は言った、「あなたの話している私がそれである」
彼女のは開かれ、司祭たちの目は閉じられていたのでした。それが福音が常にすることです。それはある人々の目を開き、ある人々にのみ真理を明らかにされるのです、ほかの人々の目を閉じている間に。それには二つの意味があるのです。ある人達は太陽をまっすぐに見て、そして盲目になります、他の人達はそれを得ながらそこから離れて行くのです。それが違いなのです。
114
それは全ての時代に起こってきたことです、神格は人間の肉体の中に隠されていたのです。気が付いて下さい。彼はなさったのです、預言者達は神格を持って幕となっていたのです。彼らは神の御言葉でした、そうではないですか?人間の肉体を幕として隠れていたのです。だから彼らはモーゼにもイエス様でさえも気が付かなかったのです。
注目して下さい、古い神殿の中のアナグマの革の裏に隠れておおわれていたのです、それが御言葉でした、御言葉は石の板の上で現わされていたのでした。
115
さて、私はいまから20分ほどで終われるようにします、もし出来るとしたら、11時半までに。注目して下さい、もし注目していたならば、ここでいくつかのページを開きました、短くしようとしていたのですが、長くなり過ぎないように。皆さんは暑くて疲れていることが分かっていますから。
116
その古い神殿の裏で、幕の中に、何がそこにあったのでしたか?エホバとは何ですか?そこに何が隠されていたのでしたか?何をその幕は隠していたのでしたか?オーハレルヤ!その幕が隠していたものは何でしたか?それは御言葉を隠していたのです。その幕、アナグマの革が隠していたのは、彼らの目から御言葉を隠していたのです、実際の目ですね。その裏には、また、供えのパンがあったのです。すべての栄光なる神は、その古いアナグマの革の後ろに隠れていたのです、そうなのです、実際的な目から全て隠されていたのです。
それは今日も同じなのです。それは「ホーリーローラーの集まり、狂信者」などと呼ばれるのです。しかし彼らはそこに隠されている物を知らないのです。そうなのです。彼らはそれを知りません。ね?
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そして、神がおられる時、憐れみの内で、彼らの見せるために幕を割かれたのです、彼らは彼らの言い伝えや伝統にあまりにも包まれているために、今でさえそれが彼らには隠されているのです。
今も変わらないのです!その栄光、聖霊の力、シェキナの栄光は信者の上に来られrているのです、さて、私の言っているのは真なる信者です、神の働きは神の御言葉を信じる信仰を下さるのですから。それは全て彼らの目からは隠されているのです、彼らは、「そのようなことは過去で終わっている」というのです。分かりましょね、彼らはまだその幕の後ろで生きているのです。あなたはもうその幕の後ろには靄は居ないのです、小さな者達、神があなたにははっきりと見せられるのです。
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先日、フレッドソスマン兄弟と、トムシンプソン兄弟(彼はここに来たことがあるかどうかは私は知りません)我々数人がバプテスト教会にいました。そしてそのミニスターが何かかなり良く聞こえることを言いました、私達全員が「アーメン」と言いました。その教会にいた全員が彼らの首を伸ばして、後ろを向いたのでした。ね、我々は裏にあるシェキナをそこで見てそのパンくずをそこで見出したのでした、ある意味それを得て、喜んでいたのです。そして我あれは別の言葉で言ったのです、「主よ感謝します!」ね?そして彼らがそれをした時、この人たちはあまりに幕に覆われていてそれをただ笑ったのでした。彼らはその意味が全く分かっていませんでした。ほらね?彼らはまだ幕に覆われていたのです。だから、
しかし神は我々を完全に見ておられていたのです、隠されていたのです。今も変わりません!
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さて、神が彼の憐れみの中におられ、幕を割かれた時、彼ははっきりと見える場所に連れて来られました。しかし彼らは自身の伝統の中にあまりにも包まれていたので、彼はそれでも彼らには隠されていたのです。今も変わりません!すべての栄光は、我々のためにキリストの内に隠されていて、御言葉の内に、つまりそれこそが我々の神殿なのです。
オー、今、私は、これについてもう少し掘り下げていきます。今朝の私の感情について許してください。私をこのことを皆さんに長い間分け合いたかったのです、それは私を縛っていました、分かりますか?
120
気が付いて下さい、神である御言葉の内にあるすべての栄光。すべての神の内にある祝福は御言葉の内にあるのです。それは不信者には伝統によって隠されているのです。私が言おうとしていることが分かりますか?しかしそれは全てキリストの内にあるのです。全て神なのです、彼は彼自身を空にされたのです、「ケノス」そしてキリストの内に来られたのです、そして私たちがキリストの内に入るつまりは、幕の後ろに入られたのです。
「まあ、私はキリストに入っています」とあなたは言います。そしてそれでも、3人の神がいると信じているのですか?父と子と聖霊の御名によって洗礼をするのですか?これらの全ての伝統を信じているのです、長老たちの物として?いいえ、あなたはまだ幕の後ろにいるのです。分かりますね?幕の中に入って来て下さい、彼、キリストは御言葉です。どうやって?
「私は神による癒しは信じていません。これらの奇跡やらそう言った物は信じません。」
さて、分かりますね、あなたはそのうちには居ないのです、幕の内に、あなたはそれについて何も知らないのです。キリストは御言葉です!そして我々は御言葉の内にいるのです、我々はキリストの内いるのです。そしてどのようにキリストを否定しながら、キリストの内にいられるのでしょうか?それが彼が言われたことです、「それから一つの言葉も加えられたり、取り去られたりしてはならない」どのようにそれを取ったり加えたりできるのですか?ほらね、それがその幕がいかにあなたから幕から離れていなければならないかを示しているのです。ね。
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我々は彼の内にいるのです!その時、我々は彼の内にいるのです、我あれはまだ宗教家や世の大学教授達に対してはいまだに幕をはられているのです。ね。我あれは栄光を持ち、楽しんでいるのです、我々は、アウトサイダーたちには幕の内にいてまだ隠されているのです。彼らは我々は「狂っているとか狂人」だと思っています。再び言います。ね。分かりますね?そうなのです。しかし我々はここにいて、キリストの内にいて、彼の内に洗礼を受けて、第1コリント12章のように、我々はこの栄光を受け継ぐ者たちなのですね。しかしアウトサイダーはそうではないのです、あなた方はまだ中を見ても否定しているのです。ほら。
だから今、我々は彼の内に入るように招待されていて、彼の全てを受け取る者となるためなのです。我々は彼によって招待されたのです、人間の幕によって不信仰者には隠されている者にね。彼らは栄光を知っていました、それについて読んでいた下、それはここで御言葉の内にあり、神の栄光などなどがあるのです、それはただ彼らには言葉にすぎないのです。我々にとってはそれは現われなのです。ね?それはもはやただの言葉ではなく、現実なのです。アーメン!
神は言われました、「光あれ!」それは言葉でしたが、そこに光があるのです。それは言葉ではなく光なのです。私の言わんとしていることが分かりますか?
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さて、それは私達にとってただ書かれた言葉ではないのです。我々は彼の内にいるのです。さて、我々は彼を見ているゆえに彼を楽しんでいるのです、今私たちは彼を理解し、御言葉が彼ご自身の中で現わされているのです。それは隠されています、外側では、どうしてかって?それは人間の肉体の内に隠されているからですよね。
オー彼らは言います、「その人々の集まり、彼らはどこの学校に行ったの?どういう教育を彼らは受けたの?彼らはどこから来たの?どのグループに彼らは所属しているの?ほらね、彼らは理解していません。
ある人が他の人に言いました、先日の事でした、「あなたは宗派に属していなければクリスチャンにはなれない」
彼は言いました、「私はクリスチャンです、それらのどれにも所属していない」言いました、「神様は私から癌を取り去ってくれた」「それについてはどう思いますか?」と言った。それは医者だった。彼は言った、「それをやっている宗派を示してください」と。
ほらね、それは今でも幕を被されて隠されているのです。
123
我々はキリストの内側にいるのです。さて、そうあってこそ、全ての真実の信者は彼をみるようになるのです、この時代の御言葉の約束は表向きに顕されています。それはもしあなたにそれが出来るならば、それは大きな言葉です、ね。すべての真の信者は、それは御言葉あのうちにあるのです、神を大っぴらに見るのです、その幕は破かれました、そして神様ははっきりとあなた方の前に立たれているのです、あらわされて、寝、神様が大っぴらに顕わされているのです。
これをするには、我々の古い宗派の伝統の幕を再度割く必要があるのです。本当にそれが何かを理解するには、あなたはそのようなものの中から出て来る必要があるのです。分かりますね?あなたがそれをしないならば、彼らはあなたの前にずっとその幕を引き続けることになるでしょう。「アー、それをするには何もない」しかしここに書かれているのです、そしてここでそれは顕されているのです。ね。ね。
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さて、もし、ある人が太陽を見ることを拒むとするならば、こういうのです、「オー、ほら、神が言われたのを知っています、「光あれ」しかしそこにはそのようなものはありません。地下に降りて行きます。それを見るのを拒否しますほらね?その人は気が狂っています。その人は何かがおかしいのです。
ある男性あるいは女性に何かおかしい時、神の約束を見ることが出来る時には、それが表されるのです、そしてその時、それを信じるのを拒否するわけです、というのは、宗派教団はその幕を引っ張り下ろすからです。ほらね、それは幕がかけられているのです!
125
これをするには、我々の、宗派教団の伝統の幕は破られるのです、神の御霊の人その剣によって、それこそが神の御言葉なのです。いつも、彼の御言葉は彼の剣なのですね。彼は彼のその時代のための剣を取られたのです、いっぱいの火によって、その幕を上から下まで引き裂いたのでした。彼は同じことを同じ剣によって今日もなさっておられるのです!私の信条でも信条の書でも、カトリックの公共要理でもなく、主の剣なのです、ね。幕を破り、神がしっかりとそこに立っておられ、御言葉を表されているのを見るのです。何という恵み深い景色となるでしょうね。分かりますね?神の聖霊とその火、彼の剣がそれを割くのです、言葉が宗派の幕を割くのです。
126
さて、もしあなた方がただ、「その御言葉」と言うならば、そしてその御言葉はうまく行くのですか?というならば、その剣がここにいて素晴らしくなるでしょうか、そしていうのです、「それは割くことは出来ない、言ってください、「へー」そうしたらそれは割かれるでしょうか?
しかし神の剣がそこに置かれるのを見る時それは割かれるのを見るのです、彼女はそこに定められた手がそこに送られるのです。ね。それを開いて割かれ、そこに彼はおられるのです。それこそが神をはっきりと見せることになるのです、偉大なるエホバ。それは彼の言葉が顕かにされるのです、その時代のために約束された分がです。分かりますか?ね?今日の約束の剣が出される時、それはそうするはずになっているのです、そして神は彼の剣を取られて、宗派を切り裂かれるのです、幕を引きずり降ろして、彼自身を明らかにされてそこに彼がおられることを見せられるのです。今も同じ、火の柱でおられるのです!気が付いて下さい、それが御言葉今日の約束として表られていることなのです。
127
我々は、それがペテロがその時、「主よ、我々はこの後誰を見るのですか?」言った時にそれが分かります。我々はどこに行くのですか?我々はその中に生まれた時に、どの教会に我々は加わることが出来るのでしょうか?ね?あなたにできること、、、この真理を知った後に、どの宗派の教会に加われるのですか、彼ら皆がそれを否定する時に?彼ら一人残らずです!それについて良い事を言った物を一つもまだ見出していません。そうなのです。その通りなのです。
128
私はこれらの旅をここで始めたのです、42の教会が一つの場所で支援してくれた時、そこに着いたとき、私にはだれのいませんでした。彼ら全員が言いました、「彼は永遠の保証を信じている」それは律法主義者を離れさせました。ある人は言いました、「彼はイエスの御名によって洗礼を授けている」それは他の全ての人を離れさせましたん、ね。彼らの内の一人は言いました、「彼はサーパントの子孫について信じてる。サーパントには子孫は居ない。それは彼らを離れさせました。
聖書は言っているのです、「私は彼女のすえ(子孫)とサーパンとのすえ(子孫)の間に恨みを置くであろう」と
ほらね、それは御言葉から幕を取っているのです。分かりますね?そうなのです。それは子供たちに顕かにされているのです。それは彼らが見ることが出来るように幕を取られたのです。それは再び言われたように、それは正しくて、一度言われたならば、「あなたがそれを見る時」「私を見る時、あなたが父を見ている」ほら、神と神の言葉は一つなのです。さて、分かりますよね?御言葉が顕かにされたお方、それは何ですか?分かりましたね。
129
イエス様は言われました、「御言葉を調べている、あなた方は思っている、あなたは神を進呈ㇽ、私の内でも信じている。もし私が父の業をしないならば、私を信じなくてもよい。しかしその業をするならば、私と父は一つである。あなた方私を見る時、父を見ているのである。」
そして御言葉が表されている伊野を見る時、あなたは父である神を見るのです、というのは御言葉は父であり、御言葉は神だからです。そして御言葉は神自身が彼自身の言葉を使い、信仰者の中に顕される時、御言葉が神自身として見られるのです。それを生かすことが出来るものは信者以外にはないのです。それはないのです、それはなしえないのです。
130
あなた方は麦を取って別の種類の土に植えたら、それは決して成長しないのです。しかし、その土地の中に麦を成長させる特定の肥料がなければならないのです。そしてもシそれがないならば、もしそこに肥料がなければ、麦は目を出すことがないので、肥えることなく、決して成長しません。それは同じことで、どれほど御言葉落ちようと、それが正しい心に落ちない限り。
イエスがそう言われました、「ある種は、道端に落ち、あるものは、石地に落ち、あるものは、そこにやって来る空の鳥に食べられてしまう。」そしてその時、彼は言いました、「あるものは、いばらの地に落ちて、いばらが伸びて、ふさいでしまった」伝統、宗派、この世の煩いがそれをふさぐのです。しかし、「あるものは良い地に落ちて、100倍にも実を結んだ」と言った。そして「それは神の御国である」
それは同じことなのですね、ある人たちは、全くそれを信じないことになるでしょう。
ある人達はしばらくの間信じて、弟子たちのように。彼らは彼に従いました、沢山の人達、70人は彼に数年従い、見出して、1年半か2年、もし彼らは彼の内に何かを見つけられるかだけのために、ちょうど、彼がこれらの事をする力を持っているのを何とかして、ウサギの足か何かのように、ある種の魔術師、彼がこれらの事をするための何か、彼がどのようにして、人々の心の中にあり考えていることを知ることが出来るのか。そして彼らは最終的に、彼が言われたように、「天から来られた方」であることを知るようになるのです、彼は「彼自身が御言葉であられたのです」そしてそれを彼らが知る時、彼らには受け入れがたかったのです、彼らは言いました、「誰もこれを悟ることは出来ない」そして彼らは彼から離れて行ったのです。それがいばらに落ちた種の事でした。
131
それは同じことに戻らせるに出、全ての会衆の内には、あなた方偽預言者、不信者、信者がいます。それは全ての会衆の中にいるのです。あなた方は全ての時に彼らは見出すのです。彼らの内の何人かは信者になりたがるのです、それは最悪なのです。そしてその時、彼らは実際には不信者でかれはあなとぉ邪魔することはないのです、頭を振ってただ出て行くだけなのです。しかし偽信者は、彼らは信者だと言うのです、そういう人たちを気をつけなければならないのです、それらの偽信者たち。そしてその時、何人かの純粋なる信者がいるのです。ほらね3つの種類の人々がいるのが分かりますね?
不信者がいるのです。彼がこう言うとすぐ、「人のこの肉を食べなさい」オーなんという事。
他の人達は、偽の信者だったのです。彼らは最後まで(ユダがしたのと同様に)ほぼいたのでした。
しかしその時、本当の信者たち、彼らはそれを説明することは出来なかったのですが、彼らはとにかく信じたからでした、そして彼らはその時代を経験したのでした。
132
その幕、不信仰者の伝統を取り去ったのでした、あなたは神が分かるのです。伝統の幕が取り去られた時、あなたは御言葉の神であることを見ることが出来るのです。彼はそれでも彼の御言葉を守られるのです。彼は神であり、神の御言葉を書かれた方であり、ほかの物の皮膚という壁の裏に隠されているのです。幕の後ろに行くことが出来ない人たちには、彼はいまだに皮膚の幕の裏におられるのです。
133
注目して下さい、だから、我々は彼の一部になるのです、あなたが彼に幕を張るように。あなたは、彼の一部なのです、(キリストがあなた方の内にいる限り)そしてキリストを神とする限り。なぜなら、彼の内に神がおられたからです、つまり神が彼を神とされたのでした。そして、キリストがあなたの内にいる限り、栄光の希望、キリストの一部となる限り。「彼は私を信じている限り、私がした業も信じるであろう。」ほらね?キリストがあなた方んおうちに隠されている限り、あなたはキリストの一部となるのです。その時、それは不信仰者に対して幕を張るのです、しかし彼があなたの内におられることをご存知です。幕の後ろで、あなたはキリストの心をそそらせるのです。その時、私はこの幕が理由で後ろになったのです。その幕は再び、人間の肉体の内に、神に隠れて、不信仰からの言葉を。
134
「書かれている」ほらね、書かれているのです。「あなたは書かれた書簡だったのです。」聖書は言いました。さて、書簡とは何ですか?それは書かれた言葉です。そしてあなたは書かれた、つまり、あなたはこのように読まれるのです、あなたは、彼は言いました、「あなたは書かれた書簡である」または、「あなたは書かれた御言葉で明らかにされたものである。」何もそれに加えることは出来ない。あなたは言えないのです、「私は書かれた書簡です」そして何か違った種類のものである生き方をすることは、しかしこれは既に書かれていたのです、だから、何も加えたり、取り去ったりすることは出来ないのです。
135
リーバイル医師はこの有名な本を書いていました、しばらく後にそれを見て欲しいのです。ばいる兄弟はここにいます、どこかこの中にいます。外で見ました、彼が入れたとは思いません。しかし、彼はそこで本を書いていました、とても驚異的な、ラオデキア時代に関するものです。そして皆さんに見て欲しいのです、それはまもなく出版されます、そうしたら、私たちは、それの最後を読みます。そして、書かれているものとして、我々は話し合っていたのです、それはそこにあり、ほら、、、ラオデキア時代について...
136
皆私のところに来ていつも言うのです、「ブラナム兄弟、7つの雷鳴は声の雷鳴ですね、そして彼は言いました、書き留めるな、それを閉じておけ」言った「それは終わりの日に開かれる7つの雷の事ですよね?ほら、7つの雷鳴、それは私達にそれを告げてくれますよね?さて、その音は本当に良き音ではないのですか?ね?しかしあなたがそれを言う時、しっかりと見て下さい。彼は言いました、「それを書き留めるな」分かりますね?これらの7つの雷鳴は彼らの声を言い表していたのです。そして彼は言いました、「それを書き留めるな、ほら、しかしそれを終わりの時までその書をしっかりと封印しておきなさい。」
137
さて、ある人そして多くの人達が私に言いました、そして神学者達は言いました、「ブラナム兄弟、もし主なる神が、、、」言った、「もしあなたの経験によって神が彼の人々に与えられたのだとしたら」へりくだってこう言いました、「あなたは自分自身で聖書を書くことが出来る、もし神が表されたのがあなたの言葉だったしたら」
私は言った、「それは事実かもしれない」ほら、彼は私を捕まえようとしていたのです、ね。そして言いました、「でも分かるように、私にそれは出来なかった」
彼は言った、「どうしてできなかったというのか?あなたは全ての資格がある」
私は言った「しかし見てごらん、一つの言葉も加えたり取り去ったりすることは出来ない。」ね?
そして彼は言った、「まあ、その時、かれら、7つの雷鳴、分かりますよね」と言った、「7つの雷鳴がなる時、それはある人に啓示が与えられるのではなかったですか?」
私は言った、「そうではないのです、何かが取り去られたり、加えられたりするからなのです。」そこにすべてが顕かにされているのです、そして7つの封印がそれが何であるかの啓示として開かれたのでした。
それは今も御言葉です!つまり、あなた方は御言葉から離れることは出来ないのです。それは御言葉を持たないようになるのです。そして神の御霊は御言葉から離れることあり得ません。ちょうどそこに御言葉として、あるものは結びつき、ほかの人の目を開くことになる。いつもそれが起こるでしょう。
138
「あなた方は、全ての人に読まれる、書かれた書簡である」あるいは、「あなた側は我々の.....」
それを変えて、この周りに置こうとしたら、それは回ることはないのです。あなた方は書簡であると書かれています」というのはあなた方はそれに何も加えることは出来ないのです、「すべての人が読む」「神の御言葉が明らかにされる」つまりはそうなのです。ペテロとヨハネはそれを見せました、彼らがそこに上って行ったとき、彼らは無知で無学な者ととして見做されていた。
それはすべてん人が読むもの。「神の表れの言葉」言い換えるとそうなります。彼らはそこに上って行き、彼らが無知で無学として見ていたのでした。彼らは教育はありませんでしたが、彼らはイエスキリストと重荷いたのを気付いています。彼らは無知で無学だったのですが、彼らは書かれた書簡だったのです、ね。彼らがまだイエスと一緒に読まなかったからというのは、椅子は彼自身を彼らを通して彼自身を表しておられたのです。キリストは人間の肉体の内に隠されていました。また、明らかにされ。 生きさせたのでした。
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ちょうど、モーゼの中に彼がおられた時のように。
御言葉がモーゼの中におられた時、彼は神が肉体におられた状態でした。それがイエスの中におられた時、それは神が肉体におられたのです、ね。唯一彼がされた時は、マスクを買えられたのです、御言葉でも性格でもありませんでした。彼は昨日も、今日もいつまでも変わることがない方なのです。彼は唯一形を変えられただけでした。彼はノアからモーゼに変えられました。彼はモーゼからダビデに、ダビデから、ヨセフに、完全な神格の全てを肉体的に顕わされてこられるまでそうだったのです、ね。
それは今も変わることのない神であられるのです!アーメン! アーメン!それが分かるように望んでいます、ね。それは同じ神様なのですが、彼は別の幕を使われていただけなのです。ね。彼は別の幕を着ておられたのです。
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彼は改革者の内でもそれをやり、幕を取られていました、幕を着られたのでした、終にルターの時代を通して、ほかの時代を通して、終に完全な時が来るまででした。それが来る前に、預言者はまた建てられているのです。それがなされる時、それは御言葉の予兆というか予見がそこで見せられ、何がなされるかが顕かになされているのです、ほかに何が残っているか、教会が残されて悟りを持たずに。その時、これは消えかかる時なのです、そしてヨハネが言ったように、「彼は必ず栄、私は衰える」そしてすべてをお持ちの彼が来られるのです。彼は完全にルター、ウェズリー、ペンテコステ派の時代からずっとずっとを通して明らかにされていました。完全に顕わされていたのです、ね。ただ表されるために降りてこられたのです、神が開かれていたのです。さて、この時代のための約束を成就なさったのです。
141
さて、モーゼはその時代の御言葉でした、なぜなら御言葉は彼にその時代のためのものを与えておられたからです、モーゼ。ヨハネは彼の時代にキリストをまさに表していたのです。分かりますね、彼らが一人一人が御言葉だったのです。
そして、イエスが来られるとき、彼は御言葉の完全な現われだったのです、というのは、完全な贖いの計画が彼の内に置かれていたからです。完全な贖いの計画は、モーゼにも、ヨセフにもエリヤにも置かれてはいませんでした。ね。彼らは御言葉の一部だったのです、それを示すためのものでした。分かりますか?さて、気が付いて下さい、あなたの思いをしっかり保ってください、今分かりますね、言ったようにそうなのです。ね、全ての計画は彼の内にはありませんでした。彼らはそれを指し示していたのでした。
142
それゆえ、彼が来られたのち、完全な形でしたから、我々は他の者を指し示すことは出来ませんでした、それは彼に戻っていたのです、御言葉でした。これは完全な啓示です、何かをそれに加えたり取り去ったりすることは出来ないのです。そこには完全な啓示なのです。すべてが、彼が来るための影でした、しかし彼が来られた時、彼は完璧であられたのでした。
ヘブル人への手紙1章に、「神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、 この終りの時には、御子であるイエスキリストを通して、わたしたちに語られたのである」そういうことなのです。カルバリーの丘で、明らかにされたのです。神の御子が開かれたのでした。
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注目して下さい、「生かす」というのは今日、御言葉が人間という器であり、幕の内で明らかにされているのです、それは絶対的に、御言葉がその時代において成就され、それは神に戻っているのです。彼にあって洗礼を受ける、第1コリント12章によると、我々はかれと共に認識されるのです。アーメン。
144
30分と言いましたが、少し長くしても良いでしょうか?分かりますか?見て下さい、ここでこれを今見逃すことはただ出来ないのです。注目して下さい。彼と共に認識される。(同一視される)。
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さて、気が付いて下さい。ここに何人アメリカの国民がいますか?手を挙げて下さい。分かりました。あなたはアメリカ人で、この国と共に認識されるのです。この国が何であれ、あなたはそうなるのです。そうではありませんか?アメリカの栄光の全てであり、恥の全てでもあるのです。彼女はアメリカと共に認識されるのです。あなたはアメリカ人ですから、アメリカを取るわけです。ハレルヤ。
私は彼がデラワエアを超えていた時、ジョージワシントンと共にいました。私は彼と共に認識されるわけです。そうなのです。私はゲッツバーグアドレスにいた時アブラハムリンカーンと共にいたのです。私はそこに立っていました。私はグアムの兵士たちと一緒に居ました、あなたたち若い青年たちが、旗を掲げていた時です。私はそこにいました。私はアメリカ人です、私はそれと共に認識されるのです。アーメン。さて、アメリカ人になるということは、革命での恥であれ何であり、私はそれを負うことになるのですというのは私はアメリカ人だからです。そうなのです。
146
そしてクリスチャンとして、私はキリスト共に認識されるのです。アーメン!私はノアと彼が箱舟に入った時、一緒に居ました。モーゼがエジプトを出てきたとき、彼と共にいました。エリヤがカルメル山にいた時も一緒に居ました。そうなのです!神に栄光!彼がそれをした時私は彼と共にいました。私は確実に彼とと重荷いました、彼のカルバリーでの死と共に私がこの世の物に死に、自分自身とすべての伝統に死んだときにでした。私は彼と共に認識されたのです。イースターの朝、彼が死から蘇られた時、私は彼と共に認識されたのです。私は聖霊が力強い風と共に降りて来た時、聖霊降臨(五旬節の日)に彼と共に認識されたのです。私は彼と共にいるとみなされているのです。彼の全てが私にあるのです、私は彼の前の状態の今なのです、彼の内に死に、彼と共に我々は認識されるのです。彼がなんであるかが私がそうあるなのです。アーメン!
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私の国が何であれ、それが私のある状態なのです。埃を持ってそうなります。彼女の恥を負う覚悟が出来ています。アメリカであるためにその非難を負います。そうなのです。私はキリストイエスのダブルなのです。全て彼がなされたすべてを私はそうするのです。私は彼と共に認識されたいのです。
彼ら使徒たちは、彼らが戻って来た時、彼らは馬鹿にされいろいろな名前で呼ばれました、彼の名のために受ける批判や非難を偉大なる栄誉だと考えていました。
私は彼らの一人でいられること、御言葉と共に認識されること、それはキリストであるからであるので非常に嬉しく思っています。彼と共に同一視される事!彼の内に洗礼を受け、我々は彼と同一視され彼に似たものとして見られ彼の御言葉と共に認識されるつまりそれは彼なのです。もし私がキリストの内にあるならば、私は彼の御言葉であり、彼のために御言葉なのです、阻止れ彼が私であるとき、アーメン。それが分かりますか?大丈夫。
148
御言葉はそこで目視として明らかにされ、表されたのです。そして、それが私に何を置きますか?彼がシェキナの栄光であるならば、私はその一部なのです。アーメン!オーアーメン!そうなのです。御言葉自身が顕かにされたのです、それ自身がです。考えてみて下さい。神の奥義がこの時代の内に天的なメッセンジャーによって彼らの時代にいたことを知らせたのと同じように我々にも知らされたのです。注目して下さい、モーゼに送られた同じ火の柱、聖書を書いた、モーゼにいた同じ火の柱です。ダマスカスへの道でパウロがあった同じ火の柱、そしてパウロは新約聖書を書きました。
覚えていますね、マタイ、マルコ、ルカとヨハネ、彼らは自分たちが見た事だけを書きました、しかしパウロは啓示を持っていたのです。彼はそれを引きだしましたというのは彼は、火の柱を持っていたのです。祖いて考えてみて下さい、その同じ...
149
だから、ヨセフ、彼らすべては、何が続いているかについて書きました。その時代にいる誰もが返事を書きました。しかしモーゼがその現場に戻って来た時、彼は啓示を持っていました。彼は火の柱に会ったのです、そしてそれは創世記のようにモーゼに顕かにしていました。彼は初めの聖書の本を書いたのです、モーゼが書きました。そうですか?彼は神に火の柱として出会ったのです、火の柱の中に隠されていたのでした。
パウロが彼にその道で会った時....その弟子たちは彼がしたことをただ書いただけでしたが、モーゼは啓示がありました。エジプトに3年言ってそして学び、旧約聖書の神が新約聖書のイエスであるという啓示だったのです、「私は天的な幻に不従順にならなかった」そうなのです。正しい!
そして考えてみて下さい!同じ火の柱がそれらの人々に上がって来て、聖書を書いていたので、それは同じ火の柱がここにあり今日その聖書を解釈しているのです!アーメン!どれほどそれを彼に感謝するのでしょう!変わりません!何という慰め、何という認識!私はそれの中で認識することを喜んでいます、私は何をしたらいいのか分かりません。私はむしろすべてのバプテスト派、メソジスト、長老派、ルター派、そして彼らの残りの全てとして認識しているのです。シェキナの栄光と啓示が置かれている場所の御言葉が認証されていたのです。
150
火の柱が私たちの中に目が見えるように顕れるのです、メッセージが正しいということが認証されたのです、ちょうど彼がシナイ山で彼がしたように。覚えて置いて下さい、本当のメッセージが来る前に、モーゼは彼らにエジプトを離れるように伝えていたのですが、本物の十戒が来る前に、封印が齎されて、神が人々の前に降りて来て、モーゼが神によって送られたことを証明したのです、(そうでしたか?)火の柱の中でモーゼは彼がやぶの中で彼をみて話したと言ったのです。
おー、この終わりの時代にも、同じ火の柱を見るためには、同じ御言葉を語ることに因ってちょうど我々の中で見ることが出来るのです。それだけでなく、実際に顕かにさせることによって解き明かしまたそれが真理であることを証明するのです。だからその人々は不従順ではないこと彼らはただそうしたいのです、そして、「彼は真理を知ったのちに、知っていながら、罪を犯すならばその罪のための贖いはもうない。」
151
注目して下さい、同じモーゼやパウロに送られた火の柱が聖書を掻き、それを明らかにするために今送られているのです。神の恵みによって、変わることのない神の約束がマタイ28章「見よ、私はいつもあなた方ともにいる」が成就しているのです。ヨハネによる福音書14:12「私がした業をあなたもするであろう」それはルカによる福音書17:28-29で成就「終わりの日に、人の子が現れるであろう」ほらね、マラキ書4章、「見よ、私は預言者エリヤを送る、そして信仰の民を元々の言葉に回復させるであろう」ね。どのようにしてこれを分かりますか?アー何という事!
152
彼は彼自身を死ぬことに因って我々に顕かにされました。今、我々自身はしに、ほかの人々に彼を明らかにさせるのです。伝統や物事に死なせ、彼を他の人に明らかにさせるのです。宗派に死に、彼を他の人々に顕かにさせるのです。
153
注目して下さい、その古い宮にはシェキナの栄光とシェキナの光が御言葉の上に会ったのです。御言葉は種であり、それは信者の為だけの供えのパンを齎すのです。その血はまたその契約の上にもかかっているのです、そしてその血は水であり、水がその粒に命を齎すのです、麦、種、それこそが御言葉なのです。
イエスが言われたように、「モーゼが銅の蛇を持ち上げたように」そして再び彼は言った、「神はその一人子を与えて下さったようにこの世を愛してくださった、誰でも御子を愛する者が滅びることがないようにである」モーゼは荒野で、岩を叩き、滅びゆきそうな人々を救うために水を齎した。神はイエスを叩き、彼の内にある御霊を滅びゆく人々にもたらされたのである。その血は彼から出て、御言葉によってその水が現れたのです、水が命を種にもたらし、それがシェキナの栄光を齎し、それが御言葉から輝き出て、供えのパンを齎すものなのである。その供えのパンは選ばれた人々だけの為なのである。そうですね?
154
さて、その幕を破って行き、幕を取って、彼のご臨在の中に入る、そこにある御言葉は信条ではなく、御言葉であり、そこにはシェキナの栄光を見るのだ、シェキナ、権力、聖霊は尊を通して華夏が木、約束が齎されあなたに幕の後ろにあるものを見せているのである。アーメン!
私は栄光が決してだめになることのないリヴェンの幕を超えた。
ハレルヤ、ハレルヤ、
私は王の臨在の中に生きている。
栄光が決して朽ちることのないリヴェンの幕を超えた
私は王の臨在の中に生きている。
155
古いジュゴンの革、宗派は破かれていた。シェキナの栄光の中でそれは破られた、そして御言葉を見た。私は火の柱が動いているのを見た。御言葉が顕かにされているのを見た。彼が言ったことは皆この終わりの時に彼がなさると言ったことを、それが大きくなっているのを見ている。子供たちが、それを信じている成熟した御言葉からシェキナのパンを食べているのを見る。アーメン!我々が生きているのはなんて素晴らしい時だろうか!ほら、シェキナは御言葉を超えて、そこにはパンがあり、そして血を振られるそれは水を与えるものであるところであった。御霊は御言葉に命を与える。そして、(何人が「試練」のテープのメッセージを聞いたことがありますか?はい、多くの人達があるようですね)。だからそこには、御言葉は成熟しなければならないのです。成長するためには、正しい種類の地になければならないのですね。そして、神はその心を打つ、約束を作ったのです、それは敗れることはあり得ないのです。
156
ノアは、120年間待っていました。アブラハムは25年間その子供のために待っていました。神がそう言われたのだから、それは解決なのです。ね?それは何ですか?御言葉は信仰により、それを信じることによって、水を与えることになり、結果をもたらすのです。それはその御子をもtラスのです、雨が齎すのでした、洪水を齎し、それにより処女が身ごもったのです。
預言者が、「処女が身ごもる」と言った。うたがうこともないがすべての小さな若い少女が出かけて彼女の赤ちゃんの服を用意下のです。つまり、この預言者イザヤは、認識されていた預言者だったのです、神に立証されていたのでした。そして主が言われました「処女が身ごもる。私は超自然的な印を彼らに与えるであろう、大いなる印、処女が身ごもる。」
157
そして彼らの民が皆、彼らは信者であり、あなた方皆と同じようである、彼らは預言者がそう言ったのを聞いていた、全ての小さな女の子、全ての人は言った、「それは私の娘になるだろう。はい」ブーティやら鳥瞰図や何かを言って買い、全ての準備をしていた、なぜならば、彼らは彼女がそれを持つことになることを知っていた。その世代はいなくなり、彼らは考えていた、「その認識されていた預言者、神の立証していた方、彼は何かが間違っていることをどのようにして彼は言えたのか?それはそうでなければならない!」
それは八百年後だったが、彼女は、赤ちゃんを産んでいた!「天地が滅びても、私の言葉は滅びることはない。」
158
「そして終わりの時にはそれが起こるであろうと神が言われる!」ほらね、そういう事なのです。御言葉に光が当たっているのです。太陽の光はその種(子孫)を栄光から栄光に変えるのです、我々はより彼にもっと似て来るようになるのです、ご臨在の内に我々は生きるのです、彼のように、我々が彼(主)と共に歩むので彼の祝福された似姿に合わせられているのです。
太陽が何をするかを見て下さい。あなたは種を撒くと、何が起こりますか?その種は腐ります。種の内側に命があるのです。その命が出て来て茎を作り、初めにあなたが知るのはそれに房を齎すのです。ね。それがウェスリーのリバイバルで他の物の様ではなかったのです。それからペンテコステのリバイバルがやってきましたね。それが聖霊のバプテスマを齎しました。良し。何が起こったのでしたか?耳に真菌を得ていて、何かが町がり始めたのです、このことや、あの事、それは御言葉には見えませんでした、それは他の物とは違っていました。元々の種が中には入っていなかったのです。
159
しかし、神はまだそこにいて、同じようにただそうさせたのです。
注目して下さい、それは何をしましたか?それは終に、元々の種に再び戻ったのです。彼がマルチンルターの形で来られた時、彼がジョンウェズリーの形で来られた時、彼がペンテコステ派の形で来られた時、彼は再び同じ種が入って来ることを人の事して表されることにされていました。彼は彼自身を人の子として、茎の時代そしてそれからもずっと表されていました、しかしこの最後の自裁において、彼は再び人の事して彼自身を明らかにされたのです。分かりますか?
良し、初めと同じように、形成されたのでした。
160
そして、何がその茎を成長させるのですか?それはずっと育っているのです。その小さな茎は成長し、それでも元々の粒のようにはまだならないのです。ルターのメッセージもそうではありません。いいえ。ほかのメッセージもそれに沿って来るのです、フィニー、サンキー、ノックス、カルヴァン、その他もっと、彼らの内の誰でもありません;彼らは今もメッセージですが、それは、それらは完全な啓示ではなかったのですというのは時がまだ来ていなかったからです。あなた方はトウモロコシの耳も時が来なければそこにはないですよね?そして終にそれがくると、元々の種が地に入り込むのです。
161
つまり、神はまさに自然に従っているのです。ね。神は子羊として生まれましただから、彼は馬小屋で生まれたのです。子羊は寝台で踏まれませんね?彼はかるばりーに導かれていたのです。羊も導かれています。そうなのです。山羊は彼らを死の道に導くのです、ご存知のように、それは、畜殺場でした。山羊が彼らを導いたのです、しかし、彼らは導かれなければならないのです。そうなのです。だから彼らは畜殺に導かれたのです、彼が子羊だったからです。
何でも認識された彼は自然の中にありました。それが理由で彼は3月か4月に生まれているのでした、12月ではありませんでした、そうなりえなかったのです、20フットの雪が積もり年のその時でした。それは太陽神だったのではなく、彼は神の子だったのですね。ローマの太陽神は12月の25日に太陽がローマサーカスがあり、太陽神の誕生日の時だったのです、それを彼らは神の子にさせたのです。いいえ、彼は神の御子でした。彼の誕生日は、自然の流れの内にあるのです。まさに。
さて、もう一度注目して下さい、我々が進むのであれば、我々にはほんの少しの時間しか残されていません。
162
完璧なるために。茎が形作られた後、房が形作られた後、粒が軸補にしっかりつくようにってそれで完璧になるのです、普通の粒に再び戻るのです。
さて、覚えていまsね、粒は発芽しなければならないのですよね。もしそうじゃなければそれは生きることはないですよね。それは外側にはないのです、彼らのメッセージはいのちに来ることになるでしょう。それは発芽されなければなりません。しかし覚えていてください、茎にも粒にも同じ命が宿っていたのです。ただ戻ることによって成熟するのです。彼は彼自身を明らかにされました、何を?人の子、血に入って行った粒により。メッセージが分かりましたか?
ギリシャ語で、彼らに言いました、「我々はイエスに会うであろう」
彼は言いました、「一粒のトウモロコシの種が地に落ちない限り。ほらね。大丈夫!
163
さて、彼は彼自身を次に何を明らかにされたのですか?異なる形、茎と房、そしてそれから、全ての葉と全てです。彼は彼自身をその時明らかにされたのでしたか?同じ御霊、しかし違う形で。
ほらね?しかし最後のトウモロコシとは何ですか?それは元々の粒に戻るのです。そうですか?
そして彼のミニストリーは元々の御言葉に再び戻る改革に来たのです。その御言葉は預言者に来るのです、そして彼はそれをマラキの4章で約束されていたのです、信仰の人々を元々の粒にもどることによって回復させるのです。地にここで入って行くことは同じなのです。その粒はここを通して来るのです。それは神の子として来られたのです、さて、それは神の子としてそれ自身を顕かにされて、そしてその時、彼自身がダビデの子として御座に来られて明らかにされるのです、ね。つまり3種類の息子、ただ、ちょうど。オーなんと、再び、元々と同じように!
164
さて、彼自身の完璧なミニストリーがあり、ある人でもある宗派でもなく、(彼らはその時代にを通して、)しかし彼自身は約束に彼自身が表されたのです、ルカ17:28、そしてマラキ書4章など、ヘブル13:8それはまさに正しいのです。その時において、それはどうすべきなのですか?アブラハムの忠誠な子孫が約束の子を捜していた時、そしてすべての種類に置いて成就されていなければならないのです。そして神ご自身は人間の形を取ってあらわされたのでした、アブラハムの自然な子孫、破壊の前に、イエス様が言われたのは、この忠実な子孫に同じことを約束の子に戻って来る前だったのです。
165
注目して下さい、古い幕はその栄光を隠されたのです。年寄りのアナグマの革、そこには人が求める美しさが肉にはなかったのです。だから人々は言います、「小さな覆いかぶさっている人のようなのですか?」多分30歳、そして白髪で白いひげで見るのに楽しくはないのです。聖書入っています、「彼には人が求める美しさはなかった。」彼は王のようには見えなかった、そのアナグマの革。しかし、オー何が内側にあったのでしょうか!
そして小さな「ホーリーローラー」の集まりがこのような暑い建物に共に座るのです、彼らは彼らを呼ぶのです、人々が望むような美しさはあまりなかったのですが、内側は!私は多くの心からそれは覆っていると確信しています、ね?分かりますよね?
よし、
166
外は何もないのですが、全てが内側にあったのでした。それが内側にありあなたはそれを見るのです。あなたはそれにどのように張り込みますか?握手?参加?違います、それに生まれるのです。だからあなたの古いアナグマの革を取り除き死ぬのです、ほら、古い自分自身に死に、新しいものに入るのです。ね?古いアナグマの革を捨てるのです。
シェキナの光はない、、聞いて下さい、ミニスター達!ミニスター達、これを聞いて欲しいのです。一度中側に入る時、今、本当に簡単にだからそれを間違いなく得て欲しいのです。幕の内に入ったら、シェキナの栄光の下に、壁なの光は神の御言葉を取り、そしてイエスが「占い師」として明らかにするものではないのです、今日の宗派のようなものではなく、「精神的なテレパシー」ホーリーローラー、ベルゼバブ」シェキナの栄光はそれとして彼に顕かにはされません。
しかしシェキナの栄光はその時代のための約束としての種が成熟させ、御言葉、彼にユリの谷として見せられるのです。それはその種が前に出て来るのです、谷のユリ、命のパン、アルパとオメガ、昨日も今日もいつまでも変わることのない方。彼は、信者のものなのです。シェキナの栄光は信者に彼は昨日も今日もいつまでも変わることがないことを明らかにされているのです。
167
それは時代でも、彼の過去でもなく、彼は死んで、そして全て。だから友の皆さん、もしそれを信じるならば、もしそれを信じるならば、あなたはシェキナの栄光を決して打たれたことがないのです。シェキナの栄光が一度でも彼が3人だと顕かにされたことがありましたか?ほらね?シェキナの栄光が父と子と聖霊の名によって人々が洗礼をどのように授けたことがありましたか、聖書の中にそのように洗礼を受けている人があったでしょうか?シェキナの栄光はいかに彼は昨日も今日もいつまでも変わることなく、使徒に彼を限界することがいかに出来たのでしょうか?
ね、そのシェキナの栄光が彼を表し、あなたの中に約束の言葉を顕かにされるのです。それが理由で、彼はモーゼの顔に幕をかけなければならないのですというのは、彼の内で、御言葉の中にあったのです。彼は小さな人としてイエス様の内に幕をかけていて、エホバから見出し続けるのです。彼は彼自身を今日幕をしているのです、地上の器としてシェキナと共にです。外側で、多くのホーリーローラーのように見える、古いアナグマの革の様でした。しかし中にシェキナの栄光に隠されていたのです、そして膨らまないパンを膨らませて食べており、何百マイルも、ある所を超えて超えていました、それは信者のための食べ物で、信者の為だけでした。ふくらまされていないパンは信者の為だけだったのです、ね、見せパンの種。注目して下さい、何をしているのですか?シェキナの栄光が悪くならないように見せパンを置いているのです。
168
天からのマナについて覚えて置いて下さい、それは一世代からもう一つのシェキナの栄光に居続けるのです、外では一晩でボウフラがわいてそれは腐ったのです。そうですよね?
シェキナの栄光の外側で、「奇跡の時代は終った。ほら、それは皆狂信主義です。しかし内側では。。。
169
見て、ヨセフの時代にエジプトのようにヒマワリの種を彼らは得ていたのです、4000年近く前の事です。ヨセフはそれらを収穫の種を蓄える場所に置いていたのです。彼らはそれらを植えたのでした、彼らは生きていました。どうして?彼らには命がありました。
170
今日のこのシェキナの栄光とは何だったのですか、あなたの前に幕の破れる前に神が立っておられる場所であったのでしたか?ほら、我々の前にここで立っている神とはだれですか?火の柱彼は人間を幕として隠されていました。しかしそれは何ですか?それは何をしましたか?そのシューブレッドの種、この時代にこれらの約束の内に生きるための御言葉、シェキナの栄光がシューブレッドを成長させ、それを起こさせ、パンを信者に持たせ、何年も何年もこの時代のための御言葉を聖書の内のページに置いてきたのであった。
宗派にとってそれは、悩みの種であった。宗派にはそれは転びの石になったのである。何年間もを通して、ルター、ウェズリー、マルチンルター、など、サンキー、フィニー、ジョンスミス、ノックス、全てがそれによって躓いていました。
171
しかしそれはその終わりの時代には何をなしたのでしたか?何が顕かにされたのでしたか?「もたらされた」マラキ書の4章は何をしたのですか?人々をその障害物から話、伝統から離れ、シェキナの栄光と共にパンを明らかにしてそこに戻るようにしたのです。そうなると言われたように、引き上げられ出来たものをしっかりと見て下さい。(オー素晴らしい!)その見せパンがこの時代のためにしたことです。宗派にとっては、障害物、沢山の狂信者たち。
しかし我々、信じるものにとっては、、、
172
しかし、今、黙示録10が約束していたように、「すべての神の奥義が何年も隠されていたものが、7人目の御使いの時代にそのメッセージの中で引き上げられて明らかにされる:そうですか?彼は1年半前に何と言いましたか、今から約2年前でしたか?「ツーソンを出て、ツー損の北側に行きなさい、大きな事になる」そして何が起こったのですか、封印が解かれる、封印がこれらの事を明らかにする。戻ってただ彼は言いました。「それは何ですか?人ではありえないことが分かります。それは完璧になっていました、まっすぐに毎回です。それは何でしたか?それは神の御手によるものです、ね。我々の前で。そして小さなグループだから、人間の内に隠されていたのです、外の世界には幕がかけられているのです。彼はそれを外の世界から隠していました。彼は学ぶべき彼自身の幼子たちだけに明らかにされたのです。分かりますね?そうです。
173
皆さん、
ほら、聖書にあるすべてのたとえ話、聖書の全てのタイプは、ここで私たちの目の前で現わされているのです。聖書の中に書かれている火の柱の中にある同じ神、旧約、新約聖書の両方で、ここではっきりと表されていて、ちょうどそのように示されているので、それがなんであるか、ちょうどそこで解釈されているのです、そしてそれがその解釈であることをはっきりさせているのです。
「我々は解き明かしを得た」その後、そこで何が起こるか見てみましょう、ね。それなのです、それが表されているかを見ましょう。顕れなさい!イエスは言われました、「私が父の業をしないのであれば、信じなくてもよい」ほら、それがいかに証明されなければならないのか。
しかし今、イエスのように召命されたのではなく、彼らは彼の頭の周りにぼろ布を巻いて、彼をそれで叩き、言いました、「もしお前が預言者ならば、誰がお前を叩いたか言うがよい」また、「もしあなたが神の子であるならば、このパン。。」ほら。それは悪魔なのです「もしあなたが神の子であるならば、そこからとんで、、、」
174
彼がするべき、啓示はそれであるべきでそれがそれなのです。
しかし今、黙示録10章が明らかにされ、神の奥義が表されて、知られた時、つまり7つの封印の書に訳されたように。
さて、あなたの信仰は御言葉である彼に置きましょう。なぜなら黙示録10章はこう言っています、あるいはむしろ19章ですね、ここに書き出してありました。黙示録10章に行、いいえ、それは10章ではなくて、19章です。
彼が来る時、彼は、「神の御言葉」と呼ばれるでしょう、白い馬に乗り、天からの追随者が彼と共に来るのです。
教育の宗派教団の幕を壊しましょう!宗派の伝統の幕を打ち破るのです!あなたから彼(主)を隠しているその幕を打ち破るのです!プライドの幕を破るのです、あなた方女性達、あなた方は王の娘達なのです、そのように行動し、そのように生きるのです。すべての幕を打ち破りなさい!どれほど、PhDやLLDが何を言おうとも、「それが聖書に反しているならば、」その幕を破りなさい。我々破られた幕を超えるためにいるのです。我々は他の側に、今いるのです。そしてあなたは分かるでしょう、古い伝統やその他の事を破る時に死か彼に来ることが出来ないこと。あなたは彼が立っていて力強い征服者と共に立って、この時代に顕された神の御言葉の約束を見るのです。力強い神が明らかにされるのを見るでしょう、彼の右にここにいる我々の内にあるものが立ち、力強い神は、伝統によっては征服されません。
175
彼は、その後ろに彼を隠そうとしていました、彼らは長年にわたり、しかし、その約束の時が近くなっているのです。神はモーゼを一度立ち上げ、そしてそれらのことから神の子供たちを十二しました。そして彼は今も、彼は征服されていません、「天地が滅びても、私の言葉は滅びる事はない」彼は昨日も今日もいつまでも変わることがないのです。
彼らは言いました、「そんなことはあり得ない」しかしそれはなされたのです。その時、それは終ったのです、彼らは言いました、「それは悪魔のものである」しかし、神の御言葉を変えることはありません、それは神を信じるものにとっては維持されるのです。その力強い征服者、昨日も今日もいつまでも変わることがないのです、彼の性質により、御言葉により、ヘブライ人への手紙13:8
176
これを閉めるに当たって言うのです、なぜならばあと5分で12時になります、ただこれを言うのです。まだあと10か12ページ残っています。それを別の時に話しましょう、多分今晩ですね。
注目し、これに気が付いて下さい。一度、オークションがありました、彼らはバイオリンを出していました。これは皆さんは何回も聞いたでしょう、古いバイオリンでした。その時、オークションの人が言いました、「私はその為に何を提供しましょうか」と言いました。市によって正しくないかもしれません。昔々、しかし心から来ていますから。そして彼らはその古いバイオリンを取り出しました、それはあまりよく見えなくてある意味痛んでいるように見えました。彼はそれをうまくかけられませんでした。終に、彼は1ドルか何かで始めましたあるいはそのような感じでした。
177
そこにいた一人はそれを売るべきでないと考えて立っていました、彼は言ってそれを拾い上げました。彼はそれを手に取って、弓を取って、ロジンをつけて、弾き始めました。そして彼がそうした時、皆が泣き始めました。彼らは彼らの人生でそのような音楽を聴いたことがなかったのです。
その後、オークションの人は言いました、「いくら出しますか?」
「2千ドル」「5千ドル」「1万ドル」ほらね?それは何だったのですか?主人の手が、その古い楽器の内にあるものの幕を開いて明らかにしたのです。
同じことが今!この古い本、傷めつけられ、笑われ、焼かれ、からかわれた古い本!しかしその時が来たのです、彼らは宗派のオークションにかけられ、世界教会協議会を得ました。彼らはそれを誰のものでもないかのように売っているのです。宗派教団のオークションが来ているのです。
178
しかし、覚えて下さい、そこにはその古い本の中には何かあらかじめ定められ、来るべき日のために定められた手があるのです、それがこの本の言葉を選ぶことによって、あらかじめ定められた心を通して、その中にある約束が明らかにされる仕事があるのです。それは古臭いホーリーローラーの集まりのように見えるかもしれませんあるいは他の何かのように、しかし、それには主人の手が必要あのです、それに言葉がなければ、明らかにされた言葉、そしてそれがもっと、ホーリーローラのようにさせるのです。それは、私たちのみんながそのようになりませんでしたか、友の皆さん。それは多くの狂信主義ではありません。それが誰の手よってその誓いがされたかによります。
さて祈りましょう:
179
我らの天のお父様、信仰によって、今日、私は、その古い書のマスターを見ているのです、彼らはそれを伝統のために、宗派教団のために入れ替えられて、それを入れ替えようとしていたのです。さて彼らは、人の世界教会協議会のために、共産主義、無神論に入れ替えたのです。主に対してオークションをしているのです。
神は、前に進んだのです!確かに、あなたはそうされました。預言者を主よ、我々に送って下さい、その誓いを選んで、イエスキリストは昨日も今日もいつまでも変わることがないことをこの御言葉を選んだことによって証明されるのです。多くの、主よ、彼らの命を売り私のです、彼らは彼らの古い伝統を捨て去り売り払ったのです、彼らはその幕を破るでしょう。彼らはそれを欲しいのです、主よ。彼らは何でも与えるでしょう、彼らにイエス様をただ与えるのです。
主よ、私はあなたがそれを彼らに証明されたと今思います。彼らはいたるところからやって来たのです。彼らは彼の人生、全ての事を費やして集会しようとして彼らは全てのするようにしたのです、というのは彼らは大いなる対価の真珠を見出したいからです。ほかの事はとても小さなことです。しかし彼らを祝福してください、父よ。
180
今朝、この説教壇を置き、ハンカチを置きました。多分、彼らの内何人かは、癒しの礼拝が始まる前に今晩離れなければならないでしょう。オー永遠なる神様、下を見て下さい。あなたはここにおられ、あなたは幕の内におられます。そして私は、これらの小さな幕を送っているのです、すよ、それを「ハンカチ」または小さな「エプロン」そして小さな赤ちゃんのための「ブーティ」と呼んでいました。そして私はそれらを小さな幕の印と送っているのです、今朝それにあなたの言葉として説教されているのです、そして、彼らの上に手を置かれて、体、私はそれを信じて証明されて信者としてでした。そして信仰によって、この建物の中にいるすべての人は、同じことを主よ、しているのです。病人が元気になりますように。
181
あなた方は、ここで御言葉を打つことが出来ます、主よ、ちょうど年寄りのバイオリニストがバイオリンにしたように、そしてそのようにされるのです、主よ。正しい旋律を奏でさせるのです、主人の手の内で、我々は全体を見える場所に立っているのです。
それらの人々は古いバイオリンのために何も与えなかった時、彼らはその時考えなかったのです、彼らはそれが欲しくありませんでした。彼らはそれを彼らの家には持っていませんでした。しかし、それを学んだ一人によって一度選んだ時でした、そして、彼らは得たいもの全てを売ったのでした。彼らはそれに関して騒いだのでした。それは彼らには遅すぎたのでした。
182
だからそれは時々、主のラッパが音を立てた時に、もうその時、時がなくなるのです。そして彼らを見られ、馬鹿にして、神の言葉が表されるのを見て、幕が開く前に、ほかの人々はそれを見て叫びますが、貴方が言われたように、「その時にはもう遅すぎるのです」彼らは結婚式に行ったり、彼らは取り残されて、泣いたり騒いだり、歯ぎしりをしたりするであろう。
今朝、ここにいるすべての人々が信じるのを父よ、助けて下さい。利己的さの幕、不信仰の全ての幕、そして、信者の御前で力強い征服者が見るためにすべてを突破しますように。また、「主よ、私はあなたと常に一緒にいます、終わりの時にさえも。しばらくすると、世は私ももはや見なくなるであろう、しかしあなた方は私を見るであろう」あなた自身を私たちの中で現わしてください、主よ、あなたがなさってきたようにです。御前に置いて我々が見えるようになるまで、そのようにとどめて下さい、現れて見えるものが変えられるとき、あなたは再び、人の子、ダビデの子になられるのです。主よ、イエスキリストの御名を通してそれを叶えて下さい。
皆が祈る間、頭を垂れましょう。
183
今日、もしここにいる何人かが外が内に置いて。ここでは、祭壇の呼びかけを齎す方法ないか、その部屋がないからなのです。しかし、誠実に言って、思っているのは、これは真実であると信じていますか?今日において我々が生きている時代に置いてあなたは、この混乱とノアの時代、モーゼの時代にあった、キリストの時代にあった科学的時代のように、あったと信じていますか、神は彼の内に生まれた偉大な父の全てのように、我々の中に今日立っていただいているのですか?
184
この見える火の柱は科学的に証明されていて、長い昔から、小さな少年が私にその外に会って私に話したように、そして話していたのです、私はここに生きていて、その場所を取るのです、あなたにそれについて話しています、そしてそれは、、、
川にある日流れていて、そのミニストリーの前に始めているのです、初めてのリバイバル、彼は空に現れたのです、彼自身は認証され、そして任務を与えたのです。この何年もの間ずっと、私は心の内にそれを隠して来ました、キリストによって幕とし、同じ御言葉を解釈した同じ火の柱として約束しました。私たちは終わりの時に、主の来臨に関して。そしてもしあなた自身が幕の外にいることを見出すならば、死によって離れているのです、信仰によって、今朝言います、「神の助けによって、そしてあなたの助けにより、すよ、その幕を通してその突破口が欲しいのです。私はあなたのおられるところに入り、神の御言葉全体を分かるためにしたいのですか?
185
モーゼになろうとか、アロンになろうとしないでください。あなたはあなたのままでいるのです、ただクリスチャンとしてなのです。
あなたの頭を垂れて、神向かって手を挙げて言うのです、「主なる神様、幕の内に私がいられるように助けて下さい。神の祝福があります、神が祝福しましょう二。そのようにただ見るだけなのです。
外側、覚えて下さい、穴の手を見たことがないかもしれません。とにかくそれを見るほど価値がありませんでした。神は、それは唯一わたしに、、それはどこかに種が落ちていることを見させたのです、また、しかし、神は本当の心をご覧になります。
もし、他の誰かで手を挙げていない人がいて、今引き上げられたいならば、手を挙げて下さい、祈りの内に覚えられたいならば。手を挙げて下さい。神の祝福がありましょうに。それは良い事です。神の祝福がありますように。
186
父よ、我々はこれらのために今日祈ります、主よ、まだ幕を通していないのです。彼らはイスラエルのようにそこに立っているのです、彼らは見ています。彼らは祈っていますが、彼らはまだこれを開いていないのです、その偉大なるシェキナの光を、両方、霊的にも肉的にも、それだけ、カメラの技術的な目はその写真を撮り続けています。ちょうど2週間ほど前にそれを再びとらえました。あなたはあなた自身を顕かにされました、主よ、力強い神様、信者に幕を開いて下さい、まだ未信者に幕をかけているのですが、信者に対して幕を開かれたのでした。彼らが突破口と今日なれますように、主よ、彼の偉大な大いなる栄光を見ますように。彼らの心がこの教会に今晩戻る前に変えられますように。彼らがあなたの御霊で満たされ、あなたのご臨在と共に満たされますように。主人が彼らが得た信仰を捉えて、まっすぐに御言葉に入りますように、そしてしっかりと合わせて戻りますように。「天地が創られる前から、これを信じるようにあなたはあらかじめ定められていたのである、信じなさい、わが子よ、そうすれば救われる。」
187
父なる神様、我々は彼らをあなたの御手に今委ねます、我々にもはや何か出来ることはないことを認識しますように。それは全てあなたと共にあるのです、父よ。私は彼らにあなたを与えたいのです。イエスキリストの名によって、あなたの御子である方、アーメン。
愛してる、愛してる
だから初めに私を愛してくださったから、
私の救いを買って下さった
カルバリーの木の上で。
あなたは彼を愛していますか?
素晴らしい、素晴らしい、私にとってのイエス。
カウンセラー、平和の君、
力強い神こそが彼なのです。
私を救い、全ての罪と恥から守って下さい、
私の贖い主は素晴らしい、彼の御名を賛美します!
以前は失われていたが、今見出された。
罪から自由になった。
イエスは自由と完全なる救いを与えて下さった。
救って下さり、罪と恥から守って下さい。
素晴らしい私の贖い油脂、彼の御名を褒めたたえます。
オー素晴らしい、素晴らしい、私にとってのイエス。
カウンセラー、平和の君、
力強い神こそが彼、
私を救い、罪と恥から守って下さい。
素晴らしさこそが私の贖い主、彼の名を褒め称えよ
188
何人が彼が力強い征服者、御言葉が肉を取って現われた方が我々の前にアルファ、オメガ、彼はそのお方はこられる、ダビデの子孫である方、人の子であり、神の御子であり、人の子であり、ダビデの子になられるのですか?それを心から信じていますか?各時代に置いて、彼は信者に顕かにされ、未信者から人間の肉体の内に彼自身を隠されていたのです。彼はその幕の内に隠されているのです。神がすべての幕を破られ、我々が彼は土曜な状態であるかを我々が見るのです。
イエスがすべての束縛を破られた
イエスが全てのそくばくを破られた
オーイエス様が全ての束縛を破られた。
彼があなたを自由にされた時、
ヨルダン川の反対側で
エデンの優しいフィールドで
命の木が花が咲くところで
そこには私のために休息がある。
イエス様は破られた
ヨルダン川を今越えたくないですか?荒野に十分長い間居て、その約束の地を超えようではないですか!
イエスがすべてのそくばくを破られた。
イエスがすべてのそくばくを破られた。
オーイエス様が自由にされた時!
今手をあげましょう;
いつまでもいつまでも彼を褒め称えよう、
いつまでもいつまでも彼を褒め称えよう
いつまでもいつまでも彼を褒め称えよう、
彼は私を自由にされた(アーメン!)
189
自由にされると気分を良くしてくれませんか?オーなんて素晴らしい、なんて素晴らしい!彼はそこに居られますね?お互いに握手をして言いましょう。
イエスがすべてのそくばくを破られた。
イエスがすべてのそくばくを破られた。
オーイエスがすべての束縛を破られた。
オー彼はあなたを自由にされた時!
私はいつまでもいつまでも彼を褒め称える。
(全能の神)
彼は決して昨日も今日もいつまでも変わることがない方。
いつまでもいつまでも彼を褒め称える。
私からすべての信条を取り去って下さった。
そして私に彼の言葉を信じるようにさせてくれた。
190
オー!マスターバイオリンが弓をこの言葉をひくのが聞こえませんか?彼は昨日も今日も変わることがないのです!
私はいつまでもいつまでも彼を褒め称える。
私はいつまでもいつまでも彼を褒め称える。
私は(彼、御言葉)いつまでもいつまでも褒め称える。
(彼は何をしたのですか?)彼はおかれた。
(カーテンの後ろで)私を自由にして下さった。
神を褒め称えよ!私は彼を愛している。彼を愛していませんか?天国的ではありませんか?御言葉の属性が大好きです、と言います、まさに聖霊、其れは優しく、へりくだった、そのように、オーただ考えて下さい:
ヨルダン川の反対側で、
(私はそこに近づいている)
優しい死すことのないエデンの中で
(そこで何を見つけられるのか?)
命の木のある場所(それはエデンの園で)それが
花咲いている。
そこには休みを
あなたは生きたいですか?
彼は全てのそくばくを破られた。
イエス様は全ての伝統を破られた
全てのそくばくを
イエスは全ての束縛(すべての宗派、全ての信条)を破られた。
全ての束縛を破られた。
オー、彼があなたを自由にされた時!
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神を褒め称えよ!私はただ彼を愛している。イザヤが言うのは間違いがないのです、「彼はその霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」
素晴らしい、素晴らしい、私にとってのイエス、
議士、平和の君、大能の神、
私を救い、全ての罪や恥から私を守る、
素晴らしい私の贖い主、主の名を褒めよ。
オー何てこと!それは私の心を咲かせた。彼はなんて素晴らしいのでしょう!これに終わりはなかったのです、この33年前にこのように感じました。そして彼が送らせてくれるならば、ある日、私が目を閉じて、同じようになるでしょう。アーメン。
素晴らしい、素晴らしい、私のイエス。
議士、平和の君、大能の神;
彼は私を救い、全ての罪と恥から私を守られている。
素晴らしい私の贖い主。主の名を褒めよ!
192
その日の残りに私はここに居続けて、パウロは言った、「私は御霊の内に御霊の内に歌うであろう、御霊の内に御霊の内、宣べ伝える。歩くならば、御霊の内に歩こう。語るならば、御霊の内に話そう。すべての事を御言葉と御霊によってなそうではないか。はい、アーメン!それは神の全ての真理なのです。
私は彼を見る、大能の神が、開かれたのです。彼が信条や宗派教団を引きづりおろし、批判的なものや教育プログラムも引きづりおろし、全て、前に歩んでそこに立っている。信条が彼に勝つことが出来る思うのですか?宗派教団が彼に勝つことが出来ると思いますか?世界教会協議会が彼に勝つことが出来るとお見ますか?彼は全てに勝てるのです、全てのそくばくを破り、地獄を開き、封印を解き、至聖所に入ろうとしている、私たちに彼自身を見せてくれ、御言葉になり、昨日も今日もいつまでも変わることがない方である、アーメン、私は彼を愛してる。
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さて、この午後に私が会う時まで、一つの事をしたいのです。それは、
イエスの名をあなたと共に連れて、
悲しみと悲哀の子、
それは喜びと慰めをあなたに与えます、
オー、あなたの行くどこでもそれを連れて行きなさい。
尊い名、オーなんて優しい、
地の希望、天の喜び、
尊い名、オーなんて優しい
地の希望、天の喜び、
もし、サタンがあなたを誘惑しようとするならば、あなたは正しいものを見ていない、イエスがしたように彼を御言葉に導きなさい、ね。ほら?アーメン!
イエスの御名によって、頭を垂れよ、
彼の足元にひれ伏せ、
天の王の王、私たちは、
彼に冠をかぶせよう
私達の旅が終る時、
尊い名(尊い名!)
オーなんて優しい!
地の希望、天の喜び、
尊い名、オーなんて優しい!
地の希望、天の喜び。
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ビリーは6時ごろに来ます、プレイヤーラインに来たい人達にプレイヤーカードを配ります。そうするべきだと思います。我々はそうします、しかし、群衆になり、我々はそうすべきです、あなたは分かりますね。
さて、彼を覚えて下さい!思いの内に彼を常に覚えていなさい、心の内に、どこに行こうとも。ね。イエスをいつも心に留めて行きなさい。
あなたと共にイエスの名を常に持って行なさい。
(さて、聴いて!)
全ての罠への盾として、
(何が起こるのか?)誘惑があなたの周りに来る時、
(あなたは何をしなければならないか?)ただ祈りの内に
聖い名を
尊い名(尊い名!)
オーなんて優しい!
地の希望、天の喜び、
尊い名、オーなんて優しい!
地の希望、天の喜び、
今、頭を垂れましょう。ネビル兄弟、来て会衆を解散させてくださるように尋ねますね。牧師であるネビル兄弟、神の祝福がありますように。