63-0803E 影 響

  • 伝道者:ウィリアム・ブランハム
  • アメリカ合衆国イリノイ州シカゴ市
  • 録音番号:63-0803E
  • 年:1963
1
ありがとう、どうもありがとう。もう少しの間立ったままで、頭を垂れて祈っていましょうか。頭を下げるだけでなく、心も一緒にね。一体このなかにどれだけ祈りのリクエストのある人がいるのでしょう。手を挙げて神様に知らせてくださいますか。さあ、いまから祈る間、そのリクエストを覚えていてくださいね。
2
天におられるお父様、今日のこの楽しい時を感謝します。また主の元に集まれたこと、そして信じさえすれば、私たちが望むものをすべてあなたは与えてくださるのだという、その素晴らしい約束をとても幸せに思っています。そして主よ、今晩お願いすることが叶えられるように、不信仰な私たちを助けてください。私たちは手を挙げています。そして私たちの願いをすべてご存知であるあなたに祈ります。どうか今夜、私たちに与えてください。励ましを与えてください。この世界はひどい状況ですし、私たちは大きな嘆きに直面しています。主よ、どうかあなたの聖なる助けを与えてください。私たちをあなたの御言葉によって励ましてください。主イエスが地上に来られるまでに、私たちが何をすればいいのか、教えてください。叶えてください、お父様。イエス・キリストの御名によって訊ねます。アーメン。
席についてください。
3
今夜またここに戻ることが出来て本当に感謝しています。恵み深い主についてもう一度語ることができるなんて。ここ、レーンテクにもう一度来ることが出来て嬉しく思います。まるで家に帰ったようです。おやおや、祈るべきハンカチがだいぶあるようですね。昨日は二度も集会がありましたから、いつもの癒しの集会を取り消し、祈りのカードなどを片付けなければなりませんでした。二度も集会をしたので、みなさん疲れてしまっていないといいのですが。今晩こそは、これらのハンカチの上に祈りましょう。そして信仰を持って祈る全ての人に、主がその祈りを叶えてくださいますように。
4
メル・ジョンソン兄弟が明日帰ってしまうのは、本当にさびしいことです。彼は素晴らしい歌い手ですしね。神様が彼に与えられた、あの素晴らしい歌声を感謝します。
そうそう、明日のことを話しましょう。ここに訪問に来ている方には失礼ですが、この集会所のひとたちに伝えなくてはいけないことがあります。ジェファーソンヴィルから私の友人が何人か来ています。ミード兄弟がフィラデルフィア教会で礼拝を開くと聞いています。明日ここで集会があったりはしませんか?おお、あるそうですよ。何時ですか。(編者注:誰かが「十一時」という。) 十一時にここで集会があるそうです。私も一時半、もしくは二時、いや...三時ごろには戻るでしょう。そして明日の晩は七時ですね。もし御自分の教会で集会が無いならば、ぜひ明日ここにいらしてください。
5
あなたがたをそれぞれの教会から引き離そうだなんて、そんなつもりは全く無いのですよ。私たちにそんな権限はありませんから。私たちは、まだ救われていない人たちが救われる手助けをしたいと願っているのです。まだ聖霊を受けていなくて、聖霊を受けたいと心から願う人、そんな人たちのお手伝いがしたいのです。そして病気に苦しむ人たちのためにお祈りをしたいのです。どこの教会から来たのだろうと関係ありません。そして終わったらあなたの教会に戻りなさい。あなたが聖霊を受けたら、あなたの病が癒されたら、みんなのところにいって証しなさい。人々に述べ伝えるのです。あなたの教会がそれに反対しようとかまわない。いいですか、光が溢れているところで輝くのはたやすいこと。しかし光が必要なのは闇の中です。光は闇のなかでもっとも影響力があるのです。
6
おっと、ありがとう、ヴェール兄弟。(編者注:ヴェール兄弟がマイクの調整して、「このままにして、聞こえるかどうかを見てみよう。」と言った。)ヴェール兄弟はみなさんが聞こえないと思っていたようです。これでよく聞こえるようになりましたか。うん、いいみたいですね。
7
今晩は癒しの集会がありませんから、すこし早めに終わらせましょうね。私は毎回言うんです、「さあ、今晩は九時半までに皆さんを解放してあげますよ」ってね。ああ、でも九時まであとちょっとしかない。今朝も二時間喋ってしまったし、今晩もこんな感じですから、きっと皆さん、明日の夜私がこの町を去る頃には疲れきってしまうでしょうね。ああ、やっと終わった!なんて思うかもしれません。ほんの二十分くらい喋って、それで終わりに出来たらいいのだけれど。皆さんも私も疲れてきたなと思ったらやめにしますね。
8
さて、聖書を開いてくださいますか。イザヤ書です。イザヤ書の六章ですね。聖書を読む前に祈りましょう。神様がその御言葉を祝福してくださるように、わたしたちがそれを自分のこととして受け取れるように。さあ、まず御言葉を読みましょう。よく聞いてくださいね。
「ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。その裾は神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。 『聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。』 その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。そこで、私は言った。 『ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。』 すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。 『見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。』 私は、『だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう』と言っておられる主の声を聞いたので、言った。 『ここに、私がおります。私を遣わしてください。』」
9
祈りましょう。主イエスさま、私たちはあなたの助けなしにはこの憐れみ深い御言葉を理解することが出来ません。どうか、今晩、私たちを助けてください。もう一度、このシカゴの街であなたの福音が語られるために。どうか、主よ。いまここで及ばされる影響力が、いつまでも続くものとなりますように。イエスの御名によって願い求めます。アーメン。
さて、今読んだこの箇所から、今日は「影響力」について話したいと思います。ご存知でしょう、私たちはいつも自分の行動によって誰かを感化しているのです。私たちのふるまい、喋り方、生き方。すべてのことで、誰かを感化しています。
10
皆さんも知ってのとおり、多くの人は教会に行きません。彼らは教会について偏見を抱いているのです。彼らは教会にいる女性は魔女ばかりで、男性は黒衣の悪魔たちだなんて、間違えた印象を持っているのです。でもね、彼らは何をしていると思いますか。教会に行かない人たちはね、私たちのことを観察しているのです。こういったのはパウロだったと思います、「私たちは生ける神の手紙、すべての人がこれを読む」。そしてあなたがどこにいようと、誰かがあなたを見ているのです。
11
そして特に、特にですね、あなたが自分はクリスチャンだと言い表したならば、周りの人たちはあなたの言動をよく観察するでしょう。そしてあなたの行動が彼らを感化するのです。私たちは自分の行動に気をつけなくてはならない。だってもし人々を間違った方向に感化してしまったとしたら、勿論自分自身も非難されますが、人々は、あぁクリスチャンってこんなものなんだなと考えるのですよ。するとキリストが非難されるわけです。誰もキリストに不名誉を押し付けたいなんて考えていないでしょう。しかし時を間違えた正しくない行動というのは、きっとあなたを見ている人たちに悪い感化を及ぼします。クリスチャンであると宣言したならば、誰もが周りから見られているのです。
12
そう、今日読んだ聖書の箇所ですが、影響力について書いてある場所はすこし前のところなんですね。もし聖書を開いてくださるなら、第二歴代誌の26章にあります。ウジヤ王の生涯についてです。
ウジヤ王は羊飼いの少年でした。彼は王の息子で、若くて、外で遊ぶのが大好きでした。彼は家畜の世話をしていました。森で時を過ごすのが大好きだったのです。葡萄園も好き。何かが育つのを見るのが好きでした。そして彼は本当に素晴らしい影響力の元で育ちました。父のアマツヤは素晴らしい人でした。ただ晩年少し道をそれて、外国から偶像を取り入れたりしてしまいました。神様はそれでアマツヤを地上から取り去られたのですね。しかしこの若者は良い感化を受けました。ウジヤの母はエルサレムの娘で、父のアマツヤは信仰のある人でした。ウジヤは両親から良い影響を受けて育ったのですね。
そう、これは子どもを育てるときに大切なことです。子どもには良い影響を及ばさなくてはなりません。知っていますか、子どもたちがあなたを一番よく見ているのですよ。子どもたちはあなたのすることなすことを観察しています。そしてなんでもあなたのすることを真似するのです。あなたのすることは彼らのお手本ですから。
13
思い出すのは、そうそんなに昔のことじゃないな、ロサンジェルスでのフルゴスペル・ビジネスメンの集会の時でした。オーラル・ローバーツが何か、影響力について語ったんですね。そして私にも何か喋るようにと言われた。その時私が話したはなしというのが、
昔どこかで読んだことのあるお話です。ある男がクリスマスイブの夜に、クリスマスプレゼントを配りに家の近くを歩いていました。プレゼントを隣人や同僚に届けるためです。一軒一軒の家で、彼はお酒を振る舞われました。彼はすべての家をまわってから、頂いてきたたくさんのプレゼントを抱えて、公園を横切り家まで近道しようとしました。雪は10~12センチは積もっていたでしょうか。男は酔っぱらっていたので真っ直ぐに歩けませんでした。彼が歩いてきた道を振り返ると、白い雪の上にジグザグの足跡がついていました。
男の後ろを、男の後ろを、七歳の息子が短い足で懸命に追いつこうと歩いていました。男の子はめいっぱい大股で歩いて、時々倒れながらも、ジグザグに進んでいました。父親の彼はすこし立ち止まって、息子が追いつくのを待ってあげました。彼は息子に尋ねました。 「息子よ、どうしてそんな変な歩き方をするんだい?」 男の子は言いました。
「パパの足跡に添って歩こうとしているんだよ!」
これはただのたとえ話じゃありません、真理をついています。あなたの子どもたちはあなたのパターンに沿って歩むのです。
14
今のアメリカが次の世代に示しているお手本ときたら、どうしたことでしょう。煙草を吸う、男も女も酔っぱらう、家のなかで賭け事をしている。一体こんなんじゃあ、次の世代はどうなってしまうというのですか。みんなノイローゼになってしまう。アメリカだけじゃない、全世界がこんな感じですよ。この世代がこれでは、次の世代が思いやられる。次だけじゃない、次の次はどうなる。このまま続けば我々は絶滅してしまうでしょうね。だって、こんなにひどい手本を子どもたちに見せているのですから。
15
今日のクリスチャンだってそうです。御覧なさい、クリスチャンだといいながら、酒は飲む、煙草は吸う、詐欺師まがいなことはするし、不正を働きます。キリスト教が衰退しているのも、不思議なことじゃありません。クリスチャンが世の人に影響力をもたらすのです。証しを立てながらも、自分が好きなように生きようとするのですから。
このような時代にこそ、聖霊が必要なのです。聖霊が、あなたの中で生きているのです。あなたが自分で生きているのではありません。聖霊を受けたら、キリストがあなたの内に生きるのです。もし主があなたの中からあふれ出なかったら、いいですか、あなたは聖霊を受けていないのです。もし本当にイエスがあなたの内にいるとしたら、イエスはその中で生きているのです。あなたはもう自分勝手には生きられない。「あなたは死に、神の内に生きる。キリストによって、聖霊に封印されたのだ。」だからもうあなたが昔の生き方を続ける余地は全然ないのです。
16
さて、ウジヤ王の話に戻りますね。この若い男の子は、信仰のある良い親を持ち、親から良いしつけを受けてきました。父のアマツヤが死んだとき、彼は16歳。人々は彼を次の王にかつぎ上げました。たったの16歳で権力の座についたのです。彼の生涯について読んでくだされば、ウジヤは政治の影響を受けなかったのがわかります。ウジヤは、大衆の意見に惑わされませんでした。そうではなく彼は「主を求めた」と書いてありますね。
ウジヤ王が若かりし預言者イザヤに影響を与えたのは、この点においてです。イザヤはウジヤ王の治世に生きました。この王と預言者は、お互いに若者で、だいぶ気が合って仲良しだったようです。イザヤはよく宮殿で、王と親しく談笑しました。イザヤはウジヤ王から良い感化を受けたのです。イザヤにとって、王は英雄でした。なぜならウジヤは決して人を分け隔てしないし、その意見がぶれることもなかったからです。ウジヤ王はただ神だけに仕えることを強く決心していたのです。皆さん、このような人をお手本にすべきです。
17
ウジヤは決して異教徒の風習に歩み寄りはしませんでした。逆に異教徒たちが、国を良く治めて神に大いに祝福されるウジヤを見て、感嘆したくらいです。
神はその御言葉に忠実である人をみな祝福されます。神はそのような人を祝福せざるをえないのです。さて、イザヤは本当にこの王が好きでした。
王国は大いに栄え、ソロモンの栄華に少し劣るくらいでしたでしょう。ウジヤの勢力はエジプトにまで及んだのですから。
政治やその他の何にも惑わされず、神のために立ち上がる王を見て、若いイザヤはとても感銘を受けました。ただ真っ直ぐに神の言葉に従うウジヤ王は、イザヤに素晴らしい感化を及ぼしたのです。神は御言葉に常に真実であったこの若者を、大変祝福されました。
18
しかしこの王も、今日の多くのクリスチャンと同じようなことをしてしまいました。王が謙虚でいる間は、神の豊かな祝福が彼に降り注ぎました。しかし、まわりのすべてが上手くいき、すべてが薔薇色に
見えたとき、彼は思い上がってしまったのだと、聖書に書いてあります。彼は偉いのは自分なのだと勘違いしてしまったのです。そして彼は神の道を外れてしまいました。
今日の教会でも同じことが起きています。いつもそうなのですが、人が自分自身に満足してしまったとき、彼はもう祈るのを止めてしまいます。もう神の導きを求めて奉仕をする必要を感じなくなってしまいます。
19
こんな表現をしてもよいでしょうか。私はこれが終わりの日のリバイバル、今の時代のリバイバルに関係した多くの人たちが堕落した理由だと思っています。これらの運動の指導者達のなかには、酔っぱらって説教壇に立ったなどと非難される人がいます。実際に間違えたことをした人たちがいます。それというのも始まりは、彼らが人々に大いなる影響力を持ったことで、偉いのは自分なのだという思いに捕らわれてしまったことです。自分の小さな王国を持ったような気になって、自分が何をしようと構わない、自分は尊敬されているのだから、なんて思うようになってしまったのです。そしてそれにまるで気づいていないのです。しかし神様はすべてを見ておられます。ネブカドネザル王を思い出してださい。彼はある日、散歩をしていて、「見よ、わたしが建てた王国はなんとも素晴らしいじゃないか」と言ったとたんに、主の天使に打たれてしまいました。
20
男であろうが女であろうが、司教だろうがカーディナルだろうが同じこと。もし自分が偉いなどと思うようになったら、気をつけなさい。神様はあなたをそのままにはしておかれません。神様は決して他人と栄光を分かたれないのです。いいえ、栄光は神のみにあるのです。
時に神様は、ある人に他の兄弟より少し優れたミニストリーを与えられます。いや、優れてはいないかもしれない、少し他の兄弟と違っているだけかもしれません。でもとにかくその人は途端に鼻高々になってしまうのです。大得意になって、もう道で会っても挨拶なんぞしてくれないかもしれません。そのような時、彼は神の道を離れてしまうのだと思います。神様はそのような人間を使うことが出来ないのです。
21
このウジヤ王は、敬虔な人ではありましたけれど、あるときから自己満足に陥ってしまったのですね。彼はプライドが高くなり、自分のしたいことはなんでも勝手にしていいような気になった。誰にも尋ねる必要はない、そう思ってしまいました。しかし、いつだって誰だって神様の下にいるんですからね。神様はわれわれの神です。
ウジヤ王は高ぶってしまいました。そしてあまりにも高ぶったので、自分は「神に祝福されている」ため、「祭司の仕事」をすることができると思い込んでしまいました。だから彼は香を持って、祭司に取って代わろうとしました。彼は自分の役割を踏み越えてしまったのです。
22
わたしはいつも、フルゴスペル・ビジネスメンの人たちに言っています。「牧師になろうなんて思っちゃいけないよ」ってね。牧師は誤りを正すのにとても苦労しますし、金銭的にも苦しい仕事です。ビジネスマンは特にこのような仕事に召されていません。そうする時に、境界を越えてしまうのです。
覚えておきなさい、世の中にはたくさん、牧師になるべきでなかった牧師たちがいます。牧師や宣教師といった仕事は、食事に招かれたり、有名になったり、誰かより偉くなったり、褒められたりしたいからという理由でなるべきものではありません。時として彼らは昔の祭司たちのようになってしまうのですね。
イエスは言いました。「お前達はやもめを餌食にし、高い地位に就くことを望み、見せびらかすために長い祈りを捧げる」「お前達はその悪行の報いをうけるだろう。」と。
私たちは決してそのようにならないようにしましょう。神様は私たちが謙虚でいることを望まれます。登り坂はすなわち下り坂に通ずる。謙虚でいなさい、そうすれば神様が持ち上げてくださいます。自分自身を持ち上げるのは自分を落とすことになります。
23
ウジヤ王は祭司でもないのに、祭司の領域を侵しました。
それでも神様はウジヤを祝福しました。彼は偉大な人だったからです。彼は自分の王国を、世界中の国と対抗できるくらい大いに栄えさせました。周りの国々はどんどん羊やその他の家畜などの貢ぎ物を送ってきました。ウジヤは牧夫と葡萄園の世話人を持っていました。ああ、すべてを持っていました。彼はたいへん裕福な暮らしをしていました。それから彼はのぼせてしまったのです。
教会でも同じこと。ある地方の小さな教会が慎ましく神様に仕えているとします。教会は小さいけれど、真実な心を持って神様に仕えています。すると誰かがもっと良くしようと美しい教会堂を建てるのを手伝ってくれます。それか自分たちで、他の教会に負けない立派な教会を建てようとします。会衆は美しい教会堂に誇りを持って威張るかもしれません。さて、これは間違ったことです。覚えておいてくださいね。
24
神はイスラエルに言われました。「わたしがお前を見つけたとき、お前は野で血だらけになっていた。」そしてこう続きます。「お前は十分な食べ物を食べ、綺麗な服を着せてもらうと・・」彼女は神に背を向けます。そして娼婦のようになってしまい、みんなに自分のことを見るようにと呼びかけます。神様がそれを喜ばれるはずがありません。
この偉大なるイスラエルの王ウジヤでさえも、自分に召されていない仕事に手をだそうとしてしまいました。祭司たちが駆け寄ってきて、王に言いました。「これはあなたの仕事ではありません。あなたにこれをする権利はないのです。これは神が聖別された人だけができるのですから。」
25
ああ、もしすべてのミニストリーが聖別されたものだとしたら!もし人々が、福音を述べ伝えるのは教会のメンバーを増やすためではないとわかったら!宣教の目的は聖別された赤子のような人たちを神の御国に入れることなのです。彼らがどんな教団や教派に属そうが、神の御国のためなのです。
今日伝道者が何か現象のようなものを神から与えられて、それを用いてミニストリーを始めるのは本当に難しくなっています。見よう見まねのまがいものが出回るからです。誰かがやってきて「これはこうだ」と言い、「自分にはこれがある」と言い、あるいは、少し違ったことをやり始めます。
26
私の知り合いに、良い人で、神の御言葉の素晴らしい説教家がいます。彼は本当に良い兄弟です。私はこの前彼と話す機会があったのですが、彼はやたらと聖霊から受ける興奮にこだわるのです。彼はそのミニストリーを完全に、その感覚の上に建ててしまいました。いまや彼は、人々は洗礼を受けたら不老不死になれると説いています。彼はもう大分危ないところまで行ってしまっていました。正しい道に戻るのも危ういかもしれません。これも、間違った道に進んでしまったからです。
「人は女から生まれ、人生は短く、苦しみは絶えない」生まれ出た者はみな滅びねばならない。「また人間はただ一度死ぬこと、その後に裁きを受けることが定まっている」死ぬこと、それは定めなのです。
27
私はこんな伝染病病院みたいな世の中にいつまでも生きていたいとは思いません。あらゆる病気が周りに漂っています。私は誰にも捻じ曲げられていない、神様がお創りになったそのままのものがほしいのです。品種改良した植物のようなものはほしくありません。神御自身の手によって造られた、病気や苦痛や死と無縁なものがほしいのです。神様さえお呼びくだされば、私はいつでもこの世を去る用意が出来ています。「私たちの住まいである地上の幕屋が壊れても、神のくださる建物があることを、私たちは知っています。」(第二コリント5:1)霊の体は壊れませんし、死ぬこともありません。
28
この世で生きたって何が面白いのですか。私は嫌ですね。私たちはこの世を去ろうとしています、なんと嬉しいことでしょう。この老いた体には病原菌や死などがまとわりつき、痛みや苦しみ、そして老いに満ちています。誰がこんな体に永遠に留まっていたいものですか。私はこれから新しい体が来ることを嬉しく思います。私たちは主の備えてくださった新しい栄光の体に移るのです。この空虚な殻から命が去ると、なかに住む神の永遠の霊が、向こう側にある新たな幕屋にむけて、旅立ちます。そしてそこに永遠に住まうのです。これ以上なにを望むのですか。なんて素晴らしい約束でしょう。これらのことを単純にわかりやすくしてくださった神様に感謝します。
29
いいですか、こちら側の出来事はみな、あちら側の影にすぎないのです。私たちも、影です。ここ説教台からはたくさんの人たちが見えますね。通りにもたくさんの人たちが歩いています。彼らはみな生きていますが、それが本当に生きているのだとは言いがたい。なぜなら死がそのうちに潜んでいるからです。「死の陰の谷を行こうとも」(詩篇23:4)、ダビデの言葉です。影を作るにはとても強い光が必要なのですよ。とても強い光があるはずです。闇しかなければ、影は作れませんからね。暗闇のなかに光があると、影が出来る。さて、あなたは光と闇、どちらにいますか。
30
ハンサムな若い青年も、数年経てば、髪は白髪混じりで薄くなって、肩が垂れ下がってしまいます。美しくて、清らかで、敬虔な顔立ちの若い姉妹が立って神を賛美していても、数年後には、猫背で二三人の子どもを抱えて、やつれた主婦になっているかもしれません。ええ、体には死がついているのです。どんなに健康で美しく見えたって、死は必ずそこに潜んでいるのです。
私はそこにどんな霊が入っているかを見ます。光に属する者は、常に光について語り、光輝いています。反対に闇に属する者は、世について語り、世に影響され、完全にこの世のものです。死んでもただ闇に帰るだけ。私たちがいまこの場にいるのは、ただただ神様の恵みのおかげです。私たちが偉かったからでは決してない。神様が哀れみ深くおられるからです。神の御前では、ただひれ伏してその御名を讃えるのみです。
31
ウジヤ王がこのように謙虚な気持ちでいた間は、神様は彼を祝福しておられました。しかし問題は、彼が自分の召された仕事に満足せず、すべきではないことに手を出してしまった時です。彼は自分は主に祝福された者だから、何をしても正しいのだと思ってしたのです。
私たちはなんと間違いを犯しやすい生き物なのでしょう!なんて酷いことか!心から正直に生きなくてはなりません。神様に召されない限り、勝手に物事を始めようとしてはなりません。本当にそれが神から来たものだと確信するまで、事を始めるのを待つべきです。
たいていの場合、まことの神の人を召すために、神はその人を追い詰めねばなりません。神は多くの野望や誇りを持った人を用いられません。彼らはその願望を達成したら何をしだすのかわかりませんから。ほらね。神はたいてい御自分の人を、モーセやパウロのように、御自身の僕になる前に、どん底まで追い詰められ、すべての栄光を剥ぎ取られます。それは彼らが聖霊の囚われ人になるためです。
32
さてウジヤ王は、香炉を捧げる権威のある人、神に仕えるために聖別された人にそのことを非難されて、どんな行動をとったでしょうか。ウジヤ王は祭司達に向かって、怒りました。
これはなんともおぞましい反応です。誰かが来て、神の言葉をもってあなたの間違いを指摘してくれたときに出来る、一番ひどい反応がこれです。自分がしたいことを押し通したいがために、御言葉に従わず、怒り出すのです。
ウジヤ王にはなにが起きたでしょう。怒っている間に重い皮膚病が、彼の顔面に発症しました。顔から皮膚病に罹ったのです。それを見た祭司達は、王を神殿から追放しました。ウジヤ王はそのまま皮膚病患者として死にました。あんなに順調にスタートした彼の人生も、皮膚病患者として終わり、追い出され隔離されました。ずっと長い間、神からの感化を受けてきた人であったのに。
33
敬意を表しながらも言いますが、残念なことに、順調にスタートし、努力し、すばらしい成果をあげて神に仕えていたのに、今は神から離れ、酒に溺れていたり、ボロボロになったり、神から離れたりしている若い人、中年の人、年老いた人たちがいます。ある人は、金のために道を踏み外し、ある人は妻でない人と関係を持ったりしたのです。どこの教団もそのような醜聞を抱えています。お互いの悪口を言えません。なぜならすべての宗派はみな罪を犯しているからです。一時は神から感化を受け、そういう人たちを見てきました、人々に素晴らしい影響を及ぼしていたのに、自惚れ始めると…。
あなたが神のために周りの人に感化を及ぼせる、そんな立場にあがったときは、常に謙虚でいることに気をつけなさい。いつもいつもへりくだっていなさい。
34
この王は皮膚病患者として、不名誉な最期を迎えましたが、預言者イザヤはこのことから多くを学びました。それは人に望みを置くのではなく、神のみを望むことでした。イザヤが自分の手本と思ったウジヤは、いい人でしたが、人生に失敗してしまったのです。
ここから私たちも教訓を得ることが出来ます。それは誰を自分の手本としようと、心は神のみを仰ぐべきだということです。カーディナルだろうが、祭司だろうが、預言者だろうが、人間であるかぎり、間違いや過失、そして死と罪から逃れられません。いつまでも正しく、確かでおられるのはただ一人、イエス・キリストのみです。
でもとにかく、イザヤはこれで大切なことを学びました。神の絶対的秩序により人はあるべき場所に据え置かれているのだと。
35
「僕はラクな暮らしがしたいから、牧師になろうかなあ。よし、進路は神学校にしておこう。こんなことやあんなことをして…。神からの賜物を真似さえすればいいんだろう。きっと僕は偉大な伝道事業を持つようになるさ。」最近はこんな牧師で溢れかえっていますからね。
しかし、イザヤは学びました、人を召すのは神なのだと。神が御自分に属する人を、つまり御自身をその場所に配するのです。神が配属を決められたのです、神はウジヤ王を決して祭司として召されなかったのです。」神はウジヤ王を王として召されたので、彼は王であることに満足しているべきだったのです。イザヤがここで学んだのは、人は決して、他の誰かになろうとしてはならないということでした。
36
自分のヒーローだった王が恥辱にまみれて死ぬのをみたとき、イザヤは絶望を感じました。そこで彼は神殿に行って、神に自分の思いをすべて話してこようとしたのです。彼が幻を見たのはその時でした。やっと彼は、常に仰ぎ見ているべきお方を見たのです。神殿でイザヤが幻で見たのは、天高く御座についておられ、衣の裾を引いておられる神でした。彼が見た幻の中で、神の高くあげられた御座は地上のどこよりも高いものでした。幻の中で見た主こそ、イザヤが本当に見ようと切望していた方でした。
そこにはまた、天上の生き物であるセラフィムが飛び交っていました。このセラフィムですが、ここではヘブライ語で「燃やし尽くす者」という言葉が使われています。彼らは捧げものと香を、神の御前に焚くものだったのです。彼らは、地位の高い天使であり、捧げものがあるかぎり罪人たちのために働きます。これらのセラフィム、燃やし尽くす者は特別な役割があり、神の御前に存在し続けます。セラフィムはケルビムとも呼ばれますね。彼らは特別な役目を持っており、神の臨在のうちにいるのです。
37
イザヤは神の霊が自分の上に降りるのを感じ、目を開きました。イザヤはこのために生まれてきたといっても過言ではなかったのですね、目を開けるとそれは、まるで夢の中で違う地に降り立ったかのようでした。そして彼は、高く上げられた神の御座を見ました。彼が神殿に目を向けると、セラフィムたちが神殿のあちこちを飛び回り、「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主!聖なる、聖なる、聖なる万軍の主!」と唱えるのが目に入りました。
このことがどれだけ大きな変化を、そして感化をこの若い預言者の上にもたらしたことでしょう!彼は人が失敗するのを目の当たりにしました。良い人は失敗するけれども、彼はいまや偉大なる神を見、セラフィムを見ているのですから!
さて、セラフィムの持つ特別な覆いに注目してみましょうか。彼らは二つの翼で顔を覆い、二つの翼で足を覆い、二つの翼で飛んでいました。神様はなんとも聖なる方です。考えてみよ、天使たちでさえ、神の御臨在のなかでは、顔を覆わずにはいられなかったのです。
38
考えてもごらんなさい、兄弟姉妹よ!聖なる天使たちでさえ、神の臨在のうちでは敬意と尊敬を示して顔を覆ったのですよ。今日のクリスチャンたちはどうしたのですか。神への敬意がないのでしょうか、神の御言葉や神の民、神の働きを何とも思わないのでしょうか。復活の日に一体彼らはどこにいるのでしょうね。だって聖書は言っていますから。「正しい人さえやっと救われるなら、不信心な人や罪深い人はどうなるのか」(第一ペテロ4:18)とね。
最上位の天使であり、憐れみの御座の傍らに居るもの、捧げものを燃やし尽くす者であるセラフィムも、神の臨在のうちではその聖なる顔を隠さねばならなかったのです。ケルビムたちは、神が御座におられるその周りを、昼も夜も行き来しながら、「聖なる、聖なる、聖なるかな、主である神よ!」と叫んでいるのです。この意味かわかりますか。なぜ二つの翼で顔を隠したのでしょう?
39
今日の人々には尊敬の念というのが欠けています。彼らは教会に来て、ふざけまわったり、大声で笑ったり喋ったり。神の福音の語られる場所でそんな振る舞いをし、まったく敬意を示しません。彼らは道で会っても、知らん顔です。私が人々から尊敬されたいとか、そんなつもりで言っているのではありません。しかし、道で人に会ったら、「お早うございます、兄弟。いい天気ですね!」くらい言うのがクリスチャンとしての礼儀ではないでしょうか。人を敬うのは大切なことです。それが、人に向かって、「やあ、説教者!」なんて叫ぶなんて。これが当たり前になってしまったのですよ。
いいですか、イエス様はこうおっしゃいました。「これらのものにしたことは、わたしにしてくれたことなのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのであり、わたしをお遣わしになった方を受け入れる者は、神を受け入れるのである。わたしの僕にしてくれたことは、わたしにしてくれたことなのである。」
不遜な行動をする人たちは、神の臨在に気づいていないのです。世俗の影響が強くなり、宗教が衰退しているので、もはや尊敬や敬意というようなものは、彼らのなかになくなってしまったのです。
40
それらの兵士を見てみましょう。イエス様の顔に敷物をかぶせ、預言者だから人の心の秘密を当ててみろと馬鹿にするなんて、なんておぞましく無謀な行為でしょうか。彼らはイエス様を庭に連れ出し、顔に敷物をかぶせておいてから、順々に頭を棒で殴って、「お前が預言者なら、いま打ったのが誰か言い当ててみろ!」なんて言ったのです。ね、敬意なんてないのです。彼らはイエス様に触れても何も感じなかったのです。
しかしイエスの衣の裾に触れたあの長血の女、彼女はただその衣に触れる信仰だけで、自分の望むものを手に入れました。わかりますか。私たちは神の臨在に気づき、それに敬意を払わなくてはなりません。
41
79私たちが頼って生きているちっぽけな五感は私たち自身の小さい世界に過ぎません。わかりますか。しかし神は...私たちは地上のものとふれるためにそれらを与えられたのですが、本当はそれを超える感覚があります。地上を超えた次元で生きるための感覚が。
神はいつもわれわれと共にいてくださいます。ただそれを覚えていさえすればよいのです。「主を畏(おそ)れるひとの周りに、主の使いは陣を敷き、守り助けてくださった。」(詩篇34:8)今日この建物のなかにも、イエス・キリストがおられます。この建物のなかには、たくさんの天使たちがいます。見えないが、彼らの影響力を感じることはでき、ここにいると分かります。そうでなければ、聖書が間違えていることになる。もし聖書が間違えているなら、神が間違えていることになりますね。聖書には書いてあります。「主の使いは陣を敷いている」と。彼らは去ることはありません。「主を畏れるひとの周りに」いるのです。
42
イエス様はおっしゃいました。「二人、または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもそのなかにいるのである。」(マタイ18:20)イエス様は見えない世界におられるが、五感では感じ取れなくとも、イエス・キリストはここにおられます。もし私たちがそれを感じ取れるのならば!
そしていまここだけではない、道を歩いているときも、どこにいるときも、自分をクリスチャンだと公言し主を畏れる方よ、覚えてください、どこに行っても、神の天使はあなたの側にいてくれます。天使はあなたのすべての行いを見、心の思いをすべて読み、あなたのすべてを知っています。それに気づかねばなりません。
それに気づかねば、道を踏み外してしまうかもしれないですからね。今日の世界がこんなに堕落しているのは、人々が神の臨在に気づいていないからでもありますから。
43
もしもダビデのように、「わたしは絶えず主を見つめています」(詩篇16:8)と言えたなら。素敵な言葉ですよね。「主の行かれるところ、わたしも行き、主は決してわたしを離れることがない。わたしはそれを知っている。」またダビデの言葉があります。「神はわたしに、先立って進まれます。」(詩篇59:11)
「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない。」(ヘブライ13:5)イエス様の言葉です。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたと共にいる。」(マタイ28:20)神は私たちを見捨てることが出来ない。これは約束ですから。
集会の目的はこれです。イエス・キリストがいまも生きておられる、それを人々に伝えるのが目的なのです。そのために私はどの教団からも遠ざかって一人ミニストリーをしています。主を信じるすべての信者に、すべての教団に、それらの教団にいる人々に伝えるために。「わたしは絶えず主をみつめている。」ダビデは言いました。「わたしは揺らぐことがない。」
44
さて、セラフィムの顔を覆う二つの翼ですね。彼らは神の臨在のなかで、神に仕えています。
セラフィムが、神に仕えるのにその聖なる顔を翼で覆ったのなら、牧師は何で顔を覆えばいいでしょうか。私たちは恥じ入って顔を覆うべきでしょう!私たちはどのように生きていくのでしょう!神はいつまでも聖なる方。私たちは常にそれを覚えねばなりません。神の恵みがなければ、私は裸の罪人です。しかしイエスの血が、私たちを罪から清めてくださったのです。
45
さて、セラフィムの足を覆う二つの翼ですね。これは謙遜を意味します。
例えばモーセ。モーセは燃える柴の前で神に出会うまでは、あまり謙虚な人ではありませんでした。しかし、神の光が約束の言葉を語るのを聞いた時、それが本当に神からの言葉であると理解しました。分かりますか。そして彼らは、モーセは、解放の時がやってきたことを悟りました。ここに超自然な存在が降りて来られ、繰り返してこう言いました。「わたしはアブラハム、イサク、ヤコブと交わした約束を忘れてはいない。」それを聞いてモーセは靴を脱ぎました。彼は自分を卑下したのです。足は彼の土台で、彼は靴を脱ぎました。
46
パウロにも同じことが起こりました。パウロは頭上に現れた光の天使を見たとき、「主よ!」と叫んで地の土ぼこりに倒れました。彼は声の主が誰なのか、理解したのです。彼はへりくだりました、「私は無に等しい者です!」
「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしの目は万軍の主を見てしまった!」預言者であるにもかかわらず、そうイザヤが言ったのも無理ありません。
パウロは偉大な学者で、地位の高い者でしたが、神の御前ではただひれふしました。
そしてモーセも、神の臨在のなかで、へりくだりました。彼は預言者で、神と、神の言葉を畏れることを知っていたのです。
バプテスマのヨハネを見てみましょう。彼がヨルダン川のほとりで人々に洗礼を授けていたとき、天から光が降ってきて、彼は叫びました。「見よ、世の罪を取り除く子羊だ。」彼がへりくだったときに、イエスは現れて彼の洗礼を受ける水に入られました。
47
このあいだ受けた質問にこんなものがあります。あなたも不思議に思ったことがあるかもしれません。イエス様が水に入ったとき、ヨハネが言った言葉です。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが私のところにおいでになるのですか。」
私の古くからの友人であるロイ・デーヴィス博士が、昔これについて語っていました。博士は私に手を置き、ミッショナリー・バプティスト教会の宣教師に任命してくれた人です。彼は言いました、「ビリー、ここで起きたのはね…。」私が彼に質問したのでした。彼は、「つまりこういうことだよ。実はヨハネは自分自身まだ一度も洗礼を受けたことがなかったんだ。だからイエス様はヨハネに洗礼を授けられた。次にヨハネは逆にイエス様に洗礼を授けたのだ。イエス様も、未洗礼のヨハネから洗礼を受けるわけにはいかないだろう。」その時は、まあそれもありえるかなと思ったのですけれど。
しかし二年前のある日、私が森の中で座っていると、聖霊が光の形で降りてきて、私に幻を見せてくれました。そこで聖霊は教えてくれたのです。
48
私が見たのはこういうことでした。その日のヨルダン川のほとりには、その時地上で最も重要な二人の人物が揃っていました。預言者ヨハネと、救世主イエスです。その二人が、その時代に語られるべきメッセージを持っていました。彼らは水の中で出会い、お互いの目と目を合わせました。ヨハネはへりくだって言います。「わたしがあなたから洗礼を受けるべきですのに、なぜわたしのもとにいらしたのですか。」
イエスは言われました。「今は止めないでほしい」そうです。「しかしこうしてわたしたちのうえに起るべきことが起きる・・・(but thus it behooveth us)」「ベフーベス (behooveth)」は「行動が適切である(becoming)」という意味です。「正しいことをすべて行うのは、我々に相応なことです。」なぜですか。イエスは神であり、ヨハネは預言者だったからです。ヨハネは預言者でしたから、イエスの言葉をすぐに理解することができました。律法によると、生贄は捧げられるまえに洗われなくてはならないのです。それゆえイエスは捧げられるまえに、洗われなくてはなりませんでした。だからイエスは言われたのです。「今は止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」(マタイ3:15)
49
ああ、もしこのことについてもう少し喋ることができたのなら!今日、この時代の光の中に生きる私たちにも、すべて正しいことを行うのはふさわしいことなのです。ペンテコステ教会の人々が、聖霊に呼ばれたのを見るのはふさわしいことです。ほかの兄弟たちとの交わりを避けるのは、ふさわしくないことです。教会をどんどん教団化して、私たちと同じ聖霊を受けた兄弟を遠ざけるのは、ふさわしくないことです。(編者注:テープに空白がありました。)本当にふさわしくありません。神が働いて現れ、御自分の言葉に沿った働きをされるのに、その人が自分の教団に属していないからといって、拒否するのはあってはならないことです。それは正しくありません。
私たちはクリスチャンであるべきです。紳士であるべきです。私たちは神を畏れねばなりません。どんな人にも手を差し伸べて、親切であるべきです。そう、すべて正しいことをするのは、私たちにふさわしいからです。今私たちは知っています...
50
イエスが洗礼を受けたのは、主が生贄だったからです。ヨハネはイエスの上に大いなる光を見て、それを知りました。その時まで、地上で最も重要な人物はヨハネ自身でしたが、へりくだりました。偉大な主イエスが現れるのを見て、彼は言いました。「私はあなたから洗礼を受けなくてはなりません。」
しかしイエスは言いました。「すべて正しいことをするのは我々にふさわしいことです。」
ヨハネは変わりました、彼は神の僕、預言者として、捧げものは洗われねばならぬこと、それを成就せねばならないことを知っていました。「見よ、世の罪を取り除く子羊だ。」と彼は言ったばかりです。子羊は祭司の前に差し出される前に、水盤で洗われなくてはならなかったのです。
イエス・キリストを受け入れたからには、あなたはそれにふさわしいことをしなくてはなりません。イエス・キリストの下にある男性も、女性も、罪から離れなくてはならなりません。
51
今日の懺悔ときたら、まるでおふざけのよう。前のほうに出て2分位跪いて祈り、すぐ立ち上がって言います。「おお、主よ。あんなことするつもりじゃなかったけど、あなたはご存知ですよね。もう大丈夫、ハレルヤ!」そしてまたすぐ罪に戻るのです。兄弟たちよ、懺悔というのはこういうものではありません。
心から反省しなさい。罪の告白をするのです。そして間違いを正しなさい。そんな風にしてはいけません。イエス様はおっしゃいました。「あなたが祭壇に捧げ物をしようとし、兄弟が自分に反感を持っているのを思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず兄弟と仲直りし、それから帰ってきて、供え物を捧げなさい。」(マタイ5:23-24)いいですか、正しいことをするのは私たちにふさわしいのですよ。
52
ショートヘア、ボブヘアのご婦人方、ご存知ですか。あなたがたは髪の毛を伸ばして、正しいレディーのように振る舞うべきなのです。ズボンを履いているご婦人もそうです。そんなものは脱いで、スカートを履くべきです。クリスチャンらしい振る舞いをしなさい。それが正しいです。聖書はこれらのことが間違えていると書いていますよ。女性がそんなことをすべきではありません。  そして煙草を吸っている男性方、そんなことは正しくない。そして妻にレディーらしくない振る舞いをさせています。それなのに、自分を「神の息子」なんて呼ぶのですか。
そして煙草を吸っている男性方、そんなことは正しくない。そして妻にレディーらしくないふるまいをさせていいます。それなのに、自分を「神の息子」なんて呼ぶのですか。
結婚式での、「これを愛し、尊敬し、従います。」という偉大な誓いはもう意味が無いも同然になってしまいました。いまのアメリカでは、女性が支配者です。どこにいっても、女性が支配権を持っています。聖書に女性はそうなると書いてありました。
53
女性はとても安全で慎重なドライバーだなんて話を聞きますけれど、それは違うと思いますね。私と息子は国中をいつも横断したり縦断したり、車で移動しています。毎回警笛がブーブーと鳴るたびに、それが女性か男性かチェックしているのですが、300回中281回が女性でした。
そんな話はなに基づいていたのでしょう。逮捕された人に基づいているからです。警察は身なりの良いご婦人なら電話番号を控えただけで逮捕せずに解放してしまうのです。だから表面には出てきません。
そう、この世は女性の世界になってしまいました。聖書にもそう預言されています。実にそうです。説教壇上の牧師もそうで、そんな世界を批判するのを怖がってばかりいます。
54
しかし私たちには、全て正しいことをするのがふさわしいのです。誰かが声を上げなくてはなりません。自分の評判や名誉を気にしません。私たちはイエス・キリストの福音に、愛によって囚われています。主の囚人となれば、聖霊の語ること以外は語りません。正しいことを話します。そうです。あなたは主の愛の囚人となるのです。正しいことを行うことだけに心をくだき、ほかの事はなにも気にしません。神への奉仕者は、特にそのことをもっとわきまえているペンテコステ派の人たちは、声高に語るべきです。
55
ある時、ある有名な方が私のところにきて言いました。「もう女性について何やら言うのはやめたらどうだね。どうだい、君がもうそんなことをしなくてもいいように、手を置いて祈ってあげようか。君は病人に癒しの祈りをするだけで十分だと思わないかね。人々は君のことを預言者だと言っているのだよ。」
私は言い返しました。「私は決して、自分が預言者だなんて言ったことがありませんよ。」
彼は言いました。「でも人々はそうだと思っているんだ。君はその才能をいかして、人々にどうすれば彼らも、すばらしい霊的賜物を得られるのか、教えるべきじゃないかね。」
私は言いました。「それが今日の教会の問題なのですよ。」
彼は言いました。「女性に髪を切るなだとか、あれをするな、こうするなと教えるよりも、もっと高尚で、偉大なことを教えるべきではないのかい。」
私は言いました。「ABCすら学ぶ気のない人たちに、どうやって代数を教えこめるというのですか。」
まず土台から、基礎からしっかり建てなくてはなりません。頂点からはじめてはいけません。まだ土台が無いのですから。それが今日の問題なのです。兄弟たちよ、「すべて正しいことをするのは我々にふさわしいことです。」この言葉を人々は無視しているのですよ。
さて、天使たちですが、
56
バプテスマのヨハネ、パウロ、彼らはみな神の栄光とその光を見たときに、ひれ伏しました。彼らは尊敬し、敬意を持って自分を卑しめたのです。
そして天使たちでさえ、神の臨在のなかでは、顔と足を翼で覆ったのです。さて、気づきましたか。セラフィムにはもう二つ翼がありましたね。その二つをもって彼らは行動しているのです。
57
これこそ知られている神の真のしもべです、預言者に神の心構えのある僕がどんなふうであるべきかを語っています。心構えのある僕はどのようにあるべきでしょうか。これらの僕は...彼はひとりの人物に注目し、その人のした間違いを見ました。主はイザヤに天にある御国、王座を見せました。その御座をこそ、私たちは常に仰ぐべきなのです。そして主は、神の臨在のなかで仕える真の僕の有り様を見せました。セラフィムの、敬虔な顔と足を覆い、2つの翼で行動しています。へりくだり、謙虚で、常に行動していること!アーメン。もしそれが心構えのある僕でなかったら、心構えのある僕はどんなものかを私は知りません。へりくだって、謙虚で、行動しているのです。おお!聞いてください!
58
井戸端に水汲みに来た彼女は、神の賜物に気づき、自分に話しかけている人がメシアであると悟るとすぐ行動を起こしました。水甕さえ忘れて、町に走って行き福音を伝えました。「さあ、見に来てください。私のしたことを何もかも言い当てた人がいます。もしかするとこの人がメシアかもしれません。」(ヨハネ4:29)彼女の行動のなんと素晴らしいことか!
今朝話したように、ペテロは舟の上でイエスの言葉に従いました。イエスの言葉に従って、ペテロが網を片側に下ろすと大量の魚が獲れました。それを見てペテロはすぐさま舟も網も捨てて、その場でイエスに付き従いました。そう、彼はその前にイエスにひれ伏して言いました。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。」(ルカ5:8)
ね、ペテロの言葉はイザヤのあの言葉に似ていませんか。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者なのです。」(イザヤ6:5)
59
主の臨在が真の信者にもたらすものが見えますか。私たちは罪の告白でさえしたがらないのです。私たちはただこう言います、「えぇ、でも私たちはペンテコステ派だし…。」とか「わたしたちはバプティスト派ですよ。」とか「うちは長老教会に属しているから。」などと言ってそのまま生活します。しかし正真正銘の、神の僕と呼ばれる者は、神の御前でへりくだるのです。批判はしません
批判者のパリサイ人、律法主義者達を見なさい。彼らがイエスを批判してばかりいました。
しかし本当に神に仕える心を持つ僕は、そんな時に神の御前にひれ伏しすぐさま行動に移るのです。イエスは言いました。「わたしについて来なさい。人間を獲る漁師にしてあげよう。」本当に神だと見たペテロは、すぐさま行動に移しました。
60
癒された盲人は、外に出ると「その地方一帯に、イエスのことを言い広めた」と聖書に書いてあります。地上に神の表れが生きておられ、盲人の目を開けることさえできることを知ると、彼はすぐさま行動にでたのです。彼はみちみち神を讃えながら人々に証をしました。パリサイ人が彼を捕まえて、私が今朝話したように、なぜそんなことを語るのかと非難しました。イエスに目を癒してもらった盲人はこう言いました。「どうしてかって、そんなこと僕にはわからないです。僕に先生と神学について話せるような頭はありませんから。でも一つだけわかるのは、見えなかったこの目で、いまは見えることです。」彼は行動に出ました。そぐにその地方一帯にイエスの御名を述べ伝えたのですからね。
そして時に、聖職者でなくても、神の御名を言い広めることが出来るのです。あなたの、神の御心に叶う生き方が、人々に主の御名を広めるのです。
61
ペンテコステの日に集まっていた信者達はみな、貧しい漁師や収税人、つつましい仕事をしている人ばかりでした。神からの約束を待ち望み、彼らは二階の部屋に集まって十日間熱心に祈って待っていました。すると、「突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」のです。そして彼らはすぐさま行動に出ました。なぜなら彼らは神の約束が果たされたのを見たからです。私たちは行動を起こさねばならないのです。
62
このことを言ってもよろしいのでしょうか。この二、三年に私たちが見てきた神の御業ですが、これはすべての生まれ変わったクリスチャンを行動に移させるに十分だと思いますね。でも実際のところ、私たちはそれを尊敬せず、それは神から来たものだと気づかないのです。私たちは好奇心が旺盛で、ちょっとしたものを見て、興奮してしまいます。私たちは気分よく感じたいのです。しかし本当に信じ、期待しているのならあなたは行動を起こすはずなのです。
63
ある朝マリアは井戸に向かう途中に天使に出会い、彼女が乙女のまま男の子を産むことを告げられました。それを聞くと、行動に移りました。彼女はすぐさま周りの人々に、自分が乙女のまま男の子を産むのだと、天使に告げられたとおりに語りました。マリアは他の人が自分をどう言おうと気にしませんでした。マリアは実際に神の天使に会い、それが彼女に行動を起こさせたからです。彼女は聖霊が自分の上にあり、新しい命がその胎に育っていることを知っていたのです。
ああ、もし私たちの上にも聖霊があり、新しい信仰を内側に育ててくださっていることを、私たちが自覚できたなら!聖霊はさまざまな方法や賜物を使ってご自分自身を表そうとし、携挙される教会に強い信仰を持たせようと働きかけています。それは私たちに、行動を起こさせるべきなのです。しかし、私たちが謙虚で敬意深く、神様が望まれるとおりにしているかどうかに私は疑問を持ちます。
終わりの時代に現れる火の柱は、教会全体に行動を起こさせるはずです。それは神の再臨が近いことのしるしです。
64
イスラエルが祖国に帰還しました。イエス様が言われました、「いちじくの木の枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことがわかる。それと同じように、あなたがたもこれらすべてのことを見たなら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。」(マタイ24:32)イスラエルの帰還と建国を見た世代は、メシアの再臨をも見るでしょう。
パレスチナに住むラビから知ったのですが、とても興味深い話があります。パレスチナの土地には何百年も何百年も葡萄の木が生えませんでした。しかし今年、まだ小さいが、葡萄の木がその土地に根付いたのです。ユダヤ人によれば、葡萄が再び生長するのを見たなら、メシアは確かに帰途にあるのです!
65
バビロンからやってきた賢者は、星を研究する天文学者たちでした。彼らは三つの星が夜空に並んでいるのを見ました。それはセム、ハム、ヤペテの星です。それらは現れ、並びました。そして彼らは知っていました。この科学者たちは、ずっと天の事象を観察していたので、この三つの星がエルサレムの上にかかるのを発見したのです。彼らがバビロンにいたとすれば、エルサレムの方向を見ると、西の空に見えるはずです。彼らはそれらが現れるのを見ました、この三つの星が一直線上に並んだときに、メシアが地上に生まれるのだと知っていたのです。神に栄光あるかな!
66
イスラエルが帰還し、聖霊が教会の上に降り、世界教会運動が盛んになり、世界教会協議会が成立しようとし、カトリックとプロテスタントが統一し、キリストが花嫁を迎えに来ます。
神は携挙にむけて、わたしたちの信仰を育むために、賜物をこの時代に与えておられます。病人が癒され、盲人の目が見えるようになり、死者が復活します。
天にもしるしが現れています。天使が星座のように現れたではありませんか!科学者は遠くからそれを見詰めていましたが、このことは何ヶ月も前から予言されていたのです。そのことが起きて、雑誌にも載っていました。何ヶ月前にもそれが起きると話しました。七人の天使が降りてきて言ったではありませんか。「神についての六つの謎が完全に解き明かされる。」と。ちょうど主がおっしゃったとおり、これは前々から予測されていたのです。
今の時代は不思議なしるしが満ち溢れています。人々はそれを空飛ぶ円盤だのUFOだの恐ろしいしるしだの呼びますが、これらはイエスの再臨が近づいていることを知らせるしるしなのです。
67
小さな葡萄の木が生えました。イスラエルも再び国家になりました。イスラエルは自分の国を持ち、自分の旗を持ちました。世界一古い旗であるダビデの星の旗が、2500年たった今、再びイスラエルの空にたなびいています。イスラエルは自国の軍隊を持ち、自国の貨幣さえあります。イスラエルは国連にも加盟し、2500年ぶりに国家となったのです。そしてその間彼らは集まりました。
68
「真夜中まであと三分」という名のテープの中で、ユダヤ人にインタビューをしている場面があります。そこで年老いたユダヤ人にこう聞くのです。「あなたは約束の地に骨を埋めるつもりで、イスラエルに帰るのですか。」彼は言いました。「いいや、メシアが帰ってくるのを待つために行くんだよ。」アーメン!このやりとりから神の暦を見いだせます。いいですか、キリストの再臨は本当に近づいているのです。
私たちはへりくだらねばなりません、敬虔でいなくてはなりません。すべての魂が救われるために、行動を起こさなければいけません。右にも左にも種を撒くために、力の限りをつくさねばなりません。
それなのに、私たちはまだこんなことを言っているのです。「神に栄光がありますように。今日は礼拝があるけれど、なんだかそんな気分じゃないな。今晩このテレビの番組を見ていたいしなぁ。今日は祈りの集会があるけれど…。」このラオデキアの時代の教会は眠っているのです。そして富んでいます。おお!私たちはそんな時代にいるのです。 私たちは行動しなくてはならない。
私たちは行動しなくてはならない。
69
私たちはその預言者のように自己賞賛の中から、宗派の中から出ました。預言者イザヤの目の前で起きたようなことが、今日の教会でも起きています。ある人は神をたたえていましたが、自分を崇めてしまった途端、重い皮膚病に罹ってしまいました。同じように今日の多くの教団は、神ではなく自分たちを崇めています。「私たちの教団はどこよりも大きいですよ。これほどメンバーの多い教団は他にありますまい。」自己賞賛しています、不信仰という名の皮膚病が彼らを襲います。彼らは神から追い出されてしまいます。
私たちは天からの幻を求めるべきです。幻は私たちのうちにおられるイエス・キリストを示してくれます。主の約束された御言葉は主はそうすると言っています。そうです。人間が作った教団に影響されるのではなく、神から直接影響を受けてください。
70
神の御言葉を教義や信条とすり替えてしまったが故に、御言葉から離れてしまった人たちがいます。ウジヤがしたように、彼らは聖職について教壇に立とうとし、真の神の御言葉を拒絶します。祭壇で香を持つウジヤと同じように彼らは場違いな者たちなのです。クリスチャンであると言っておきながら、聖書の言葉を否定するような人間は、ウジヤが祭壇にふさわしくなかったのと同様、説教壇にふさわしくないのです。また聖霊に満たされて神の祝福を受けていると宣言しておきながら、聖書やその中の真理を無視してそれを信条などと取り替えるような人は、ウジヤのように、罪と不信仰という名の皮膚病に罹っているとみなしてよいのです。
71
神の道から離れてしまった人たちは、その知性によって神の道を究めようとします。「わたくしは何々博士、法学博士、云々…」彼らは聖霊の油注ぎが欠けているのを、その学歴や地位の高さで補おうとするのです。聖書のよく知られた箇所を解釈し、そこから言葉を取り出し、部分部分をうまくつなぎ合わせて、耳ざわりの良いメッセージを語ろうとします。それは人間の知識です。彼らは延々と調査して、天使らのことや何やらをどうやって結びつけるか考えているのです。
しかしこれだけは言っておきましょう。神が御言葉に息を吹き込まれると、御言葉は組み立てられ、その意味が明らかにされ、命が御言葉の中に生じます。神はそれにより、御言葉が真実であることを立証され、証明されるのです。これが御言葉の真実、神ご自身の語り方です。
72
この幻は、イザヤに大いに影響を与えました。おお、何たる影響!それはこの預言者に影響を与えました...
いいですか、イザヤはそれまで一人の人間を仰いでいたのです。しかし彼が真実のものを見たとき...彼はある人の敬虔な生き様を見ました、彼はその人が失敗し、皮膚病を患って亡くなるのを見ました。同じことがいまあなたの目の前で、あなたの教団で起きています。気づけばみな神を離れていた、そんなことがありはしませんか。
さて、いま教会一致促進運動(エキュメニカル運動)が盛んです。教会が教会として存在できなくなる非常事態のときに、もし教会が教会一致促進運動に参加しなかったら、その教会は成立することができません。「誰にも福音を伝えることができない。もし福音を伝えたなら、死刑になってしまうだろう。もし教団を超えて説教する人がいるならば、彼は世界教会運動に参加しているのだ。」名前を思い出せませんが、これはルーテル教会の誰かが書いた言葉ですが、その通りです。「教会が賛美する場所ではなく、ただの倉庫になってしまう。」いいですか、すでに獣の刻印が押されつつあります。私たちはそれを見ています。教会は行動をおこさねばなりません。そう、その通りです。
あの幻が、イザヤに及ぼした影響を見てみましょう。彼がある人が失敗するのを見た後・・・イザヤは、神が一人の人間に怒り、その人から離れ、皮膚病で打たれるのを見ました。
73
それを見てイザヤは神殿に行き、祈りました。「おお、主よ。あなたこそが神です。わたしは今まで間違えたものを仰いでいました。」そして神は幻を見せてくださったのです。そして驚くべきことに、その幻は幻に留まらず立証されました、なぜならセラフィムたちはあちこち飛び、さらにその声は幻が起きたときに実際に神殿に響いたのです。
そう、彼は真実のものを見ました。彼は預言する人でした。預言者には神の御言葉が訪れます。しかしイザヤは、それまではウジヤ王を英雄視し、指導者、兄として仰ぐ程度の次元に留まっていました。それから彼は、ウジヤ王が神の御言葉から逸脱するのを見、王が自分の領域に留まらずに、与えられていない奉仕に手を出したため神によって打たれたのを見ました。その後何が起こりましたか?イザヤは天を仰ぎました。そして彼は主を見ました。
74
私の言っていることがわかりますか。どこに話しを持っていこうとしているのか、想像がつきますか。主イエスは約束してくださいました。「主が来られる日は、ロトの時代のようになる。」聖書を書かれた神ご自身がこうおっしゃったのです。「イエス・キリストは、きのうも今日も、永遠に変わることのないお方です。」(ヘブライ13:8)そしてまたこうもおっしゃいました。「わたしを信じる者は、わたしが行う業をまた行う。」(ヨハネ14:12)私が言いたいことがわかりますか。
そして正直な心を持つイザヤは、神の栄光を見て行動を起こしました。彼は自分の罪を自覚して、大声で罪を告白しました。彼はいままでそのような真実を見たことはありませんでした。自分が罪人であるとイザヤは叫びました。
それから何が起きたでしょうか。預言者が罪を告白すると、本物の清めが来ました。
人々がその罪を告白しないかぎり、癒しの集会を開く意味はないのです。あなたが自分の罪を、不信仰を、過ちを告白するなら、神様もあなたのために何かをしてくださるでしょう。しかし罪の告白が無いかぎり、罪の清めも無いのです。
75
「災いだ!わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。そして汚れた唇の民のうちに住んでいる。」とイザヤが叫び、罪を認めた途端、セラフィムが聖なる火を運んできました。いいですか、神は決して神学校で人を清めません。律法の書も人を清めることができません。神は火によって人を清められるのです。
神の僕がその役目につくときに、神は聖霊と火によって彼を清められます。神は火によって清めるのです。教育や書物や知性、そして教団や教派も人を清めることはできない。神はその僕を、聖霊の火によって清められるのです。
76
もう皆さんは気づかれましたか。罪の告白をし、罪を清められると、その次にすることは神の任務に応じることです。罪の告白と清めの後、清いイザヤは言いました、「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」罪を告白し、炎によって清められたので、神の仕事をする準備が整ったのです。イザヤは人々の手本になる用意ができたのです。彼は、多くの人が彼から感化を受けられるように人生を神の御手に投げ出しました。
しかし罪を告白する以前、清められる以前の彼には、人々に強い感化を与える力はありませんでした。彼はウジヤ王のただの操り人形でしたから。
77
さて、罪を告白し清められ、神から任務を頂いたので、イザヤが預言者として仕える準備は整いました。神は彼に聖書全体を書かせました、イザヤ書は66章ありますが、これは聖書の66巻と対応しているのです。創世記から始まり、バプテスマのヨハネが登場し、イザヤ書65章と66章の千年紀で終わります。イザヤは聖書のあらすじを書いたようなものなのですね。なぜでしょう。それは彼が神の臨在を目で見てへりくだったからです。
彼は何を成し遂げたのでしょう。彼はへりくだり、罪を告白し、清められ、任務につきました。何百万人もの人たちが、彼から影響を受けたのです。ここに彼の書いた本があります。イザヤ書は、当時から今日まで、人々を感化してきました。そしてこれからも影響し続けるでしょう。
聖書に書いてあります。「彼らの行いは報われる。」(黙示録14:13)聖霊がパトモス島でヨハネに語りました。「あなたは、多くの民族、国民、言葉の違う民、また王たちに、再び預言しなくてはならない。」(黙示録10:11)その通り、ヨハネの書いた黙示録はいまも人々に預言し続けているのです。「然り、彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いは報われる。」(黙示録14:13)彼らはいまだに人々を感化し続けているのです。もちろんそうです。
78
さて今日にも、同じことが言えます。私たちは人々に影響を与えなくてはなりません。
人々に影響を与えるには、、まず神を認め、清くなり、へりくだることから始めなくてはなりません。謙虚でいることを学び、自分自身を卑しめねばなりません。常に自分に、いかに自分が小さいものであるかを言い聞かせなさい、それを思い続けなさい。あなたは何でもない存在です。私も同じ。誰にも価値などというものはないのです。しかし主はすべてです。主こそ讃えられるべきお方。おお、神の子羊よ。私たちは神殿に戻らなくてはなりません。私たちは神殿に戻り、神の祭壇のもとに行かねばなりません。私たちの心の中に祭壇を築き、そこで自分たちを捧げなくてはならない。そうすれば万軍の主がまたこの終わりの日に現れてくださり、初めのときと同じく奇蹟をおこしてくださるでしょう。それを見ると、あなたは叫びます。「災いだ!わたしは滅ぼされる。
神の炭火 唇に触れ
預言者の罪 雪より白くなりぬ
我誰をつかわさん 神の声が言えり
預言者は答えん 我ここにあり我を遣わし給え
79
その通りだと思いますか。≪編者注: 会衆がアーメンと言う。≫ 歌いましょう。 【訳者注:ここで一同が、George Bennard作の賛美歌“Speak, my Lord”を歌う。以下はその歌の大意】 語りませ、主よ 語りませ、我が主よ 語りませ、我すみやかに答えん 語りませ、主よ 語りませ、我が主よ 語りませ、我は答えん 我を遣わし給えと 罪と恥のうちに滅び行く幾万の民の 苦く悲しき叫びを聞け すみやかに、君、すみやかに行け すみやかに答えよ、我ここにありと 語りませ、主よ 語りませ、我が主よ 語りませ、我すみやかに答えん 語りませ、主よ 語りませ、我が主よ 語りませ、我は答えん 我を遣わし給えと
80
皆さん、主を愛しておられますか。≪編者注: 会衆がアーメンと言う。≫ さあ、頭を垂れていましばし祈りましょう。いまの歌をハミングしましょうか。≪編者注: ブランハム兄弟がハミングし始める。≫  神の炭火 唇に触れ…
さて皆さん一緒に。≪編者注: ブランハム兄弟が歌っている間に、会衆はハミングし始める。≫ 預言者の罪 雪より白くなりぬ 我誰をつかわさん 神の声が言えり 預言者は答えん 我ここにあり我を遣わし給え 語りませ、主よ 語りませ、我が主よ 語りませ、我すみやかに答えん 語りませ、主よ 語りませ、我が主よ 語りませ、我は答えん 我を遣わし給えと
81
天のお父さま、私たちの不信仰の罪を清めてください。実に幾万の民が罪と恥のうちに滅んでいるのです。私たちが持っていないものを持っていると嘘をついたからといって、どんないいことがありましょう。私たちが人間の頭で、起こってもいないことが起こったと想像しても、なんの意味がありましょう。天におられる私たちのお父様、いま私たちを不信仰から清めてください。肉の体の思いから、清めてください。イエス・キリストの血によって、清めてください。
主よ、あなたは先日幻によって、このシカゴの会衆の一部に、キリストを待つ花嫁がいると教えてくださいました。主よ、どうすれば彼らの心をあなたに向けることができるでしょうか。私はただどこでも蒔けるところに種を蒔いているだけです。もし今夜ここに、まだあなたの御国が地上に現されるのを見た経験、そしてその結果を感じた経験がない人がいるのならば、もしまだ御言葉によって生きていない人がいるのなら、主よ、どうか今夜彼らにそれを与えてください。どうか、主よ。イエス・キリストの御名によって祈ります。
82
さて、皆さんは私がどんな人間かご存知だと思います。ご存知なければ是非知っていただきたい。私は狂信者ではありません。もしそうなら、・・わかりません。神様が狂信者に光栄を与えられるとも思いません。この数年間の伝道で、何かが起こったはずです。私は皆さんの兄弟です。私は心から信じています。これは主から直接伝えられたことではありませんが、わたしは、今ここにいる世代が携挙を経験すると信じます。それほど、終わりの日は近いのです。まだ来るものが見えませんが、すべてが神の計画のうちに進んでいますから。
83
ソドムの町が焼かれるまえに何が起きたか覚えていますか。神が肉体をもって地上に現れたのです。そのとき神は人間として現れました。それで牛乳やコーンブレッドや子牛の肉を召し上がることが出来たのです。そこに立って召し上がりました。しかしながらアブラハムはその方を「全能の神」と呼びました。人間の体なのに? そうです。神は後の日に起こることを身をもって示されたのです。イエスのことですね。
そのとき神のなされたことを見てみましょう。まずはじめに、神は約束について話されました。これは神学的にも興味深いところですね。神様はおっしゃいました。「わたしはあなたに約束をしたが、いまそれを確かなものとするために来た。」アブラハムとサラは待っていました。ソドムに火が降る前のことです。彼らは、約束の息子が生まれるのを待っていました。神は肉体をもって現れ、彼らにしるしを与えられました。神の約束の子であるイエスが来られるときにも同じようになることを示されたのです。そして私たちは15年間、神のしるしを見ています。
さて、教会はどんどん悪くなる一方です。無理もないです。これがラオデキアの時代であることが、一目でわかるではありませんか。
84
いま聖霊がここにおられます。多分ここにいる誰かが・・・病気の人のために祈るつもりでしたが、いま人々を祭壇に招きたいと思います。いままで神に告白したことのある人も、ない人も。私とともにあなたの心の中の祭壇に行き、そこで神に告白しなさい。「主よ、わたしを清めてください。炭火を持った天使を送って、わたしのなかのすべての不信仰を取り去ってください。天使がイザヤに触れたときに彼がしたように、今夜わたしもあなたの臨在を認識することができますように。」さあ、誠実になって、神と向かい合ってください。
85
神様はこの時代に約束を与えてくださっています。大いなる神学理論を約束されたのではない。神が約束されたのは…。
いいですか、ヘブライ人たちは二千年かけて神学を打ち立てましたが、神はそれを壊す前に彼らにひとつのしるしを送られました。ロトの時代も、神から別のしるしを与えられました。彼らは同じしるしを見たのです。もし神が人々に...イエスが地上におられたとき、イエスはヘブライ人たちにしるしをお見せになりました。そしてサマリヤ人にも。しかし異邦人には何もなさいませんでした。
今は異邦人の時代の終わりです。イエスの日がユダヤ人たちの時代の終わりだったように。異邦人の教会はいま呼ばれているのです。神はその御計画を変えることができません。神は果てしないです。神は完全で、あまねくおられ、全能で、全知で、無限でおられるからです。神はいつ何時でも変わることがないのです。そうでなかったら、神ではありません。だから神は、かつてなされた御業を、次にもなされるのです。人々は神はそれぞれの時代に同じ方法で御自分を現されることを知っています。神は変わらぬお方であると知っています。
86
もしイエス様が今晩ここに、この演壇に立っておられたら、イエス様がなさることは一つしかありません。昔と同じことをなされるでしょう。それは人々に彼が神の息子であることを知らせるためです。
いま、ここにイエス様はおられます。主がそう約束されたのですから。そして主の約束にのっとって、御業をなされます。「わたしは葡萄の木、あなたがたはその枝である。」枝自身には命はなく、葡萄の木が命を送っています。しかし枝も栄養をたくさん得れば、木と同じ命を得ることができます。葡萄の木は、枝に命を与えているのです。
87
さて少し静粛に。天におられます神の導きによって今日私が話したのはこういう話でしたね。神を信じるイザヤは、人が神の代理を務めようとしたために失敗するのを目の当たりにしました。それから、イザヤは神を見、臨在を感じて叫びます。「災いだ!」神はこのように約束されたのです。それぞれの時代に、神は約束をお与えになっています。私たちの時代にも、約束は与えられています。神の再臨は、すべて確実に着々と進んでいるのです。
さあ、ここにイエス様がおられるのを信じますか。《編者注:会衆がアーメンという。》 どうか、主よ、お助けください。
88
このなかに病気の人はどれだけいますか、手を挙げてください。信仰を持ちなさい。この聖書の言葉を信じなさい、「偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情してくださいます。」(ヘブライ4:15)
あとに続けて祈ってください。「神様、あなたに触れさせてください。そしてブランハム兄弟を通して、イエス様がなされたように、わたしに語りかけてください。彼もわたしも同じ子の身分を得た神の子どもですが、終わりの日にはこのようなことをなさるとあなたは約束なされました。主よ、どうかあなたの御業を見せてください。」
天におられる神様、私はすべてを尽くし、ここシカゴであなたの福音を伝えました。どこにいっても、主よ、あなたがわたしと共にいて助けてくださいますように。
89
あそこの大柄な男の人、いま椅子から立った人。私から見てちょうど正面にいる人。あ、いま手を挙げていますね。いやそのひとつ後ろだ、白いシャツの人ですよ。あなたは自分のためではなくて、誰か他の人のために祈っていましたね。牧師の人だ。私がその人のどこが悪いのか、言うことができると信じますか。彼は心臓に問題がありますね。そうでしょう、手を振ってください。彼が癒されることを信じなさい。
ただ信じるのです!信じなくてはなりません。信じなければ、何も起きません。さあ、誠実になって。
90
あそこにいる女性、二列目の端から二番目に座っている方です。彼女は結腸の病気ですね。結腸の感染症だ。端のほうに座っている、すこし白髪がかった、小柄なご婦人です。さあ、立ち上がってみんなにあなたがどこにいるのか教えてあげてください。そう、あなたです。あなたは結腸の感染症で、そして合併症もあります。その通りなら、手を挙げてください。
彼女は誰に触れたのでしょう、私ではありません。彼女は神様に触れたのです。イエス・キリストは昨日も今日も変わりないお方ですから。
後ろのほうにご婦人がいますね。頭が疼いて、神経質になってしまう。いろいろな症状がでる。ファイファー夫人、心の底から信じますか。さあ、立ち上がりなさい。私はあなたを知りません。イエス・キリストがあなたの願いを叶えてくださったのです。私はいままで彼女に会ったことはありません。見知らぬ他人です。心配しないで、あなたの信仰が癒しをおこしたのです。
みなさん、信じますか。≪編者注:会衆がアーメンと言う。≫ 神様が約束されたとおりでしょう。
91
後ろのほうに座っている男性、そこの人です。あそこ、あの光見えますか。彼は大変悪い状態にあります。喉に腫瘍があるのですね。手術を受けたのに、医者は匙を投げてしまった。神様があなたを癒してくれると信じますか。それを受け入れますか、ストーンレイクさん。心の底から信じますか。いいでしょう、立ち上がりなさい。イエス・キリストがあなたを良くしてくださいます。 「もし信じることができるなら!」
あちらで担架に横たわっているご婦人、あなたはプレイヤーカードを持ってらっしゃらないでしょう。そうですよね、もう最近そんなものは使っていませんから。あなたは麻痺にかかってしまった。神の真実を受け入れますか。今夜聞いたことが真実だと信じますか。そこに横たわったままなら、あなたは死んでしまうでしょう。しかしイエスさまは麻痺だって治してくださるのです。イエス様がそうしてくださると信じますか。あなたが信じて受け入れるなら、その担架から起きあがって家に帰りなさい。イエス・キリストの御名によって。良くなりなさい。
92
ほら、彼女が起き上がった。誰かちょっと彼女に手を貸してあげなさい。彼女は麻痺だったのですよ。誰か…。おっと、彼女は一人で出来たようだ。椅子から立ち上がりました。もうどこも悪いところはありません。イエス・キリストの御名によって。
あなたは心から信じますか?≪編者注:会衆は喜びの声を挙げる。≫ では、自分の足で立ちなさい。
おお、麻痺だったご婦人が人々のなかを歩いています! 語りませ、我が主よ、油注いでください。 心から信じますか。≪編者注:会衆が喜びの声を挙げる。≫
203別の麻痺だった男の人が、担架から起き上がって講壇に向かって歩いています!神を褒め称えています。神に栄光と賛美あれ! みなさん、信じますか。≪編者注:会衆が喜びの声を挙げる。≫
もう一人の麻痺の人はどこにいったのですか。ここにある担架はすべて空になりました!みんな自分の足で立って神を賛美しています!
神の炭火 唇に触れ…
あの麻痺だったご婦人がいま講壇に向かって歩いています!神を讃えます!主に栄光と賛美あれ!
もうひとりの麻痺だった男の人も、こちらにやってきました。彼の足取りを御覧なさい、フィッチ兄弟。
さあ、神を讃えましょう。両手を挙げて神に栄光を捧げましょう。(編者注:会衆は賛美を続ける。)