63-0428 Look-見よ

  • 伝道者:ウィリアム・ブランハム
  • アメリカ合衆国アリゾナ州フェニックス市
  • 録音番号:63-0428
  • 年:1963
1
おはようございます。今朝またフェニックスで、兄弟たちと楽しい時を過ごせて本当にうれしいです。 欲を言えば、もっと歌を聴いていたかった。ジミーの歌には何か引きこまれていきます。うーん、この少年 には何も付け足す必要がありませんね。
アウトロー兄弟が教えてくれたのですが、ドアのところに座っているのが彼の素晴らしいお母さんで、81 歳です。姉妹に神の祝福がありますように。想像するに、何年も前にあなたは赤ちゃんを腕に抱いて、小さ な手があなたの頬を撫でていたのでしょうね。それがもう 80 年も経ったとは。今ではその赤ちゃんの教会 に座って、彼の話を聞いているとは思いもよらなかったことでしょうね。その時、こうなると信じられまし たか?素晴らしい、すばらしい。とてもうれしいです。神があなたに・・いいえ、歳をとったなどとは言え ませんね。あなたの内なる人は永遠の存在なのですから。わかりますか?あなたには始まりも終わりもない のです。あなたは永遠のいのちを持っているのです。素晴らしい。
2
ダイソン兄弟には、まだ会う機会がなかったのですが、今夜から来週まで、この教会で集会を続ける のですね。わたしはここからリバイバルが広がることを確信して期待しています。わたしもここに残って、 兄弟が説教するのを聞きながら、神の素晴らしさに浸っていたいのですが。聞いたところでは、彼はエルサ レムからの宣教師の息子だそうですね。あなたたちはこの兄弟のもとで素晴らしい一週間を過ごすこと間違 いなしです。わたしも、もしできるなら参加して、彼の話を聞き、支援したいところです。でも、参加でき ない人、家が遠くて戻ってこれない人はわたしと同じことをしてください。彼のために祈ってください。集 会が祝福されるように祈ってください。
3
初めてのフェニックスでの集会を覚えています。この教会が別の場所にあって、たしか、別の屋根の 下で礼拝をしましたね。アウトロー兄弟とわたしたちは素晴らしい時を過ごしました。その集会で録音した テープを持っています。気持ちが塞いだとき、わたしはこのテープを聞きます。もうすり減ってきています。 このテープを録音した人が今ここにいるのではありませんか。もちろんこの若いクワイヤーの最近のレコー ドも持っていますが、その彼らも、その頃は幼なくて歌っていたのです。
彼らの素晴らしい歌声を聞きながら、アウトロー兄弟に言いました、「テープに録音しておいてくれたおか げで、習うことができます。テープを流してこの歌を聴くのが好きなんです。歌ほど素晴らしいものはない ですね。」
4
神は音楽を介して癒しをおこなわれます。知っていましたか? そう、神は音楽で癒されるのです。 神は愛を介して癒しをおこなわれます。それから薬、祈りを用いても、様々な方法で癒されます。あなたに 必要なものによって方法は異なります。思いやりの手が差し伸べられて、それが古傷を癒すこともあります。 恨みとか何かで痛んでいた古傷がです。小さな愛や思いやりが、それを癒すのです。塞いでいるとき、巷で の言葉で言えば、落ち込んでいるとき、このテープを聞くか、あるいは音楽かレコードをかけるのです。そ うしていると手や足がとんとんリズムを打ち始めます。それが身体中に広がると、気分がよくなって再び立ち上がることができます。
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さて、6時間のメッセージについてですが、これは宣教用ではありません。これはわたしが自宅で、 ただ・・・。わたしがいかに話を長く引き延ばすか、皆さんご存知ですね。多くの人は 5 分で、わたしが6 時間かけるより、もっと多くを語ることができます。だから何を言うかによるのです。
先にメモを受け取ったのですが、赤ちゃんを主に献げたいと希望する姉妹がここにいると書かれていまし た。わたしはアウトロー兄弟に、「あなたは赤ちゃんに洗礼を授けませんよね。」と聞きました。
彼は、「しません。しません。ただ聖書が語るように、赤ちゃんを主に献げるのです。」と言いました。
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ですから、今そうしましょう。その姉妹は赤ちゃんを連れて、ここに連れてきなさい・・・わたした ちはこれが聖書の教えであると信じます。聖書に従って、そして主イエスが残してくださった教えにできる 限り沿って、イエスがされたようにわたしたちもするのです。イエスに触れていただくために人々が乳飲み 子を連れてきたとき、イエスは彼らの上に手を置いて言いました、「子供たちをわたしのところに来させなさ い。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」
オルガンかピアノを弾いてくれる人がいたら、ゆっくりしたテンポであの気持ちのいい曲を弾いてくれま せんか。「連れてきなさい、彼らを連れてきなさい、罪の世界から彼らを連れてきなさい。」この曲知ってい ますよね。
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この子の名前は?(姉妹が「レベッカ」と答えた)レベッカ。苗字は?(「ハマー』)ハマー。この兄 弟姉妹はハマーさんです。神の祝福がありますように。この子は初めての子ですか?そう、4番目の娘。そ れなら宣教師にならなくては。フィリップには四人の娘がいました。ご存知ですね、彼女たちは皆預言者で した。あなたはそうでないかもしれない。でも神はあなたの娘たちの中から四人の預言者を与えられますよ、 ハマー兄弟。なんと愛らしい。ちょっと見て、あくびをしています。
赤ちゃんは好きですが、いつも恐々持ち上げています。壊してしまうのではないかとドキドキします。彼 らは、なんていうか・・・赤ちゃんを持ち上げると奇妙な感じがするのです。妻は、「壊れるわけない。」と 言うのですが。でもとても可愛らしいです。本当にそっと扱わなければならない感じがします。だからよけ れば抱き上げさせてください。
これは妻がうらやましがる仕事です。なんと愛らしいのでしょう。可愛いレベッ カ・ハマー、ご機嫌いかが?そう、それは良かった。二人の結合により神がこの愛らしい子供を与えてくださっ たことに感謝します。神から授かった子です。神以外の誰も命を与えることはできません。頭を下げましょう。
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天の父よ、この朝この小さな愛のかたまりをあなたに献げます。あなたの大いなる御手によりこの家 庭にもたらされた子です。母親はどんなに生まれてきて対面するのを待ち望みながら、胸の中で育んできた ことでしょう。そしてこの朝、聖書の名前を与えられたこの可愛い女の子が、両親によって神の前に連れて こられました。与え主である神にその子を返すために、献げるためにここにいます。父よ、彼らの家庭を祝 福してください。彼らの家族をそして小さなレベッカを祝福してください。
聖書には、人々があなたに手を置いて祝福してもらうために赤ちゃんを連れてきたと記されています。も しあなたが見える姿でここにおられたなら、両親は小さなレベッカをあなたに差し出していたことでしょう。 主よ、わたしたちの手はあなたの代理としては貧弱であることを認識しています。しかしあなたがわたした ちにそうすることを任せられました。それで、主よ、イエス・キリストの御名によって、あなたにこの小さ なレベッカを献げます。受け取って、彼女をあなたの栄光のために用いてください。あなたをたたえます。 イエスの御名によって、アーメン。
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主の祝福がありますように。主が祈りを聞いてくださり、この子が生きて、素敵な女性になりキリス トの素晴らしい働き人となりますように。神の祝福がお二人にありますように。なんと素晴らしい。
小さな子たちよ、なんとあどけないことか。よく思うのですが、子供はなんと純粋なのでしょう。しかし 私たちも、もし子どものように純粋になることができれば・・・・ところが、私たちはもっと純潔なのです。 イエスキリストの血がわたしたちの罪を洗い流してくださったのですから。
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さあ、本題に入って聖書を読みましょう。ご自分の聖書で読みたい方は、ヘブル書の9章を開いてく ださい。9章の 24 節から読みましょう。
「キリストは、本物の模型にすぎない、手で造られた聖所に入られたのではなく、天そのものに入られた のです。そして、今、私たちのために神の御前に現れてくださるのです。
それも、年ごとに自分の血でな い血を携えて聖所に入る大祭司とは違って、キリストは、ご自分を幾度もささげることはなさいません。
もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリスト は、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。
そして、 人間には、一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっているように、
キリストも、多くの人の罪を 負うために一度、ご自身を捧げられましたが、二度目には、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々 の救いのために来られるのです。」
みことばの朗読に、主が祝福を与えてくださいますように。頭を下げて祈りましょう。
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全能の神、すべてのものの始まり、イエス・キリストによって世界を造られたお方よ、こうして今朝 あなたの御臨在のもとに集まり、あなたの民として、あなたへの奉仕のために、わたしたちは自分たちを捧 げます。あなたの御手からすでに受けたものを感謝します。そして朗読したみことばを祝福してくださるよ うに祈ります。聖霊の助けにより、みことばがわたしたちの現実となりますように。みことばの創造者を見 つめながら。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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今朝は、「見よ」ということばを主題に取り上げて、主が導いてくださるとおりに語っていきます。 話を進める参考として、2、3 の言葉と聖書からの抜粋を書きとめておきました。見よ。LOOK。実際に使わ れるときは、「でも見て!」 というように、誰かが見ているものをあなたにも見せるためにこの言葉を使います。「見て!」
道を歩いている途中で、誰かが何かを見つけて「見て!」と言い、それから見たことを話します。山でも サボテンでも何でもいいから、誰かが何かを見ます。そしてあなたの注意を引くために言うのが、「見て!」 です。
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こんにち誰もが何かを見ています。誰もが何かを求めていて、何かが起こるのを待ち望んでいます。 世界はレーダーやスクリーンを使って絶えず空を監視しています。各国が自衛のために魔法の目のようなも のを持っていて、何か原爆を積んだミサイルのようなものがスクリーンに映し出されるのを監視しているの です。そしてその物体の送り主に送り返す何かを装備して待っています。
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すべてのものが見ています。
フォード社はフォード車の改良に目を向けています。シボレー社はシボレー 車の改良に。フェニックス市はもっと大きくよりよい町づくりに。国家は領地の拡大を目論んでいます。教会はといえば、もっと多くの会員を集めることを追求しています。しかし、花嫁は主が来られるの を待ち望んでいます。 私たちは皆、見ています。
何を見るかは、「見よ」と語る声によって異なります。誰かが言っています、「こ れこれを求めよ」と。もしそれが教会なら、今年はもっと多くの会員がほしいと言っているのでしょう。そ れもいいでしょう。
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しかし今朝わたしがあなたたちに伝えたい声は、ヘブル書を書いた人、その人はパウロ だと信じていますが、その人の言う「イエス・キリストの再臨を期待しなさい」という声です。キリストを 求めなさい。
それを実行するためには、まずあなたが何かを見て、それから見たことを誰かに伝える必要がありま す。ノアはこれを体験しました。彼は信仰によって、まず洪水が来るのを見ました。大雨が地上を覆いつくし、 大地はすべて洗い流されてもう一度神の手に戻りました。人々によってもたらされたこの世の汚れ、彼らが いた当時の集合体が一切洗い流されて、一からはじめ直さなければなりませんでした。
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七つの封印に関する教えのシリーズが終わったばかりですが、第6番目の封印が解かれると、自然へ の著しい災禍が起こることを知りました。月、星、地球は吹き出します。教会は追放され、イスラエルは粛 清され、すべてのものが第七の封印の下で浄化され、そして千年紀が始まります。まずは清められなければ なりません。
それがこんにちの教会で・・・・何が言いたいかというと、汚れを取り除いて清める必要があるというこ とです。神が何かを始められる前には、浄化が必要なのです。今の状況を見ると、神がご自分の計画を続行 されるためには、その前に何かが起こらなければなりません。そして浄化が。私たち多くが、振り返って見 る必要が・・・
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テープが、というか映画フィルムがあるのですが、イスラエルで撮影されたフィルムです。数年前、 いえ 5 年ほど前、イランやその他の場所からユダヤ人が戻ってきました。家族を背負い、ごった返す船や飛 行機で戻ってきたユダヤ人に質問しました。「母国に骨を埋めるために帰ってきたのですか?」
「いいえ、メシアに会うために来たのです。」彼らはこう答えました。
イスラエルが、木が芽吹いてきたのを見るとき、それは大いなるしるしです。イスラエルが国家となるとき、 到来のときが迫ります。そしてもうイスラエルは国家となっているのです。着々と物事が起こっているのに、 世界は・・・盲目状態に陥っています。ノアの時代と同じです。しかしキリストの再臨を待ち望んでいるわ たしたちには、それがキリストがまもなく来られる旗じるしに見えます。何かが起ころうとしているのがわ かります。何を見ているのかによって変わってきます。
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ノアは、神のことばによって洪水が起こることを知っていました。信仰によって彼は洪水を見たのです。 彼はそれが来ることを知っていました。なぜなら神のことばがそれを約束したからです。ノアは、信仰によっ て神のことばが語られたことを見たのです。しかし世間ではそれが見えませんでした。空に水があるなどど 科学的に実証できなかったからです。でもノアは水があることを知っていました。神がそうおっしゃったか らです。
教会もそうなのです。召し出された者、花嫁からなる教会は、主が来られるときが迫っていることを知っています。科学がどれだけ進んで、原子分裂させようとも、月にメッセージを送れるようになろうとも、そんなことは信じる者にとっては無意味です。主が来られるときが間近であるというしるしに意味があるのです。国々が崩壊しつつあり、世界が分裂しつつあり、教会の活動がバラバラになっていくまさにそのとき、わたしたちは揺るぎない御国を受けると教えられています。しかしこれらのことが起こり始めると、神のことばによって、教会はますますしっかり結びついていきます。
今わたしたちが生きているのは素晴らしい時代です。
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誰もが何かを期待しています。これから家でご 馳走を食べるのを期待している人もいるでしょう。午後に家族でピクニックに行くことを計画している人もいるかもしれません。また、一週間後にお隣さんや友人がやって来るのを楽しみにしている人もいるでしょ う。誰もが何かを待っているのです。
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そして信者のグループとして共に集っている今、わたしたちは主が来 られることに心を定めて、キリストを待ち望みたいと思います。キリストは、今度は罪を負うためではなく、 主を信じて再臨を待ち望んでいる人たちの救いのために現れてくださるのです。
神は(ヘブル人への手紙の)書き手をとおして、このことを観て考察するよう、促しておられます。 書き手はここでこう言っています。「わたしたちはキリストが二度目に来られるのを待ち望んでいます。キリ ストをありのままに見ることができるために。」そしてわたしたちはキリストがみことばであることを知って います。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」そしてヘブル 13:8 で、 キリストは過去、現在、未来ずっと変わらないとありますから、神のみことばを調べるのです。
みことばは 神がご自身を表現されたものです。神がキリストをとおして来られたとき、キリストは神ご自身を写し出し ておられたのです。そして過去のキリストはこんにちも同じキリストです。なぜなら神は永遠であり、変遷 することがないからです。 なんという希望でしょう。この混乱した現代に、神は真の証しを残しておいてくださいました。わたした ちは本当に恵まれています。真の証し、つまりみことば(聖書)を調べれば良いのですから。みことばは、 イエス・キリストが神を余すところなく明らかにされたものです。
神は真の証しなしに、神の民を置き去りにされたことはありません。神はイエス・キリストによって世界 を裁かれます。そしてイエス・キリストがみことばであるなら、神は教会を、いえ、世界をみことばによっ て裁かれます。神はみことばだからです。裁きの時がやってきます。罪人にはそれがわかっています。
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教会というと、多くの人は奇妙なイメージを描いています。世間の人が教会を通ると、(ここでいう 教会はキリストのからだの集合体のことですが)教会の女性が立派で長い糸のような髪をして黒いドレスの ようなものを着ていると。そして男性は長い指をしていて黒い服を着て常に彼らを非難していると。これを いい意味で捉えると、当たっていると言えます。教会は特殊な人の集まりですから。つまり招き出された人 たちです。
男性がそのように教会を裁いているように見えるのは、人が良いと思っている事すべてに対して、 教会が常に非難しているからです。ある人が罪人で、罪はいいことと考えていて、この世的な生活の楽しみ を続けているとします。そこで教会が立ち上がって、それは罪だと非難するなら、彼にとって教会は化け物 に見えます。しかし彼がわかってさえいれば、神のことばは、神の僕の口をとおして語られ、それが救いを もたらす神の唯一の道なのです。そう、そのとおりです。
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神は太陽や月や星や風や自然を用いて福音を伝えることができたかもしれません。しかし、神は人を 用いて福音伝道をされました。神の声は人をとおして語られます。その声が本物かどうか、語られた言葉に よって判断できます。それで聞いている言葉がどのようなものか、わかります。もし聖書に矛盾しているなら、 それは無視してください。しかしもしそれが聖書と一致するなら、神はご自分のことばに責任がありますから、 必ず証明し、実現してくださいます。神はそう約束されました。
だからわたしたちはすごい時代を生きているんです。キリストのことばが語られているのですから。
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キリストがこの世に来られたとき、ご自身がみことばでした。本を書く必要はありませんでした。何も執筆 しませんでした。なぜなら彼がみことばだったからです。彼は、他の人が(彼について)書いたとおりのお方だっ たので、ご自分では何も書く必要がありませんでした。彼はみことばですから、ご自身の手で何ひとつ書く 必要がなかったのです。彼はみことばそのものです。そしてキリストは過去も現在も未来も変わらないお方ですから、ずっとみことばであり続けます。
ある日、彼はユダヤ人に言いました、「誰がわたしを罪に定めることができるのか?」さて、罪とは不信仰 のことです。「誰がわたしに指をさして非難できるか。いったい、わたしに関して書かれた聖書で、ひとつで もわたしが成就しなかったことがあるか」と。
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兄弟姉妹よ、もし生ける神の教会が立ち上がって、「誰がわたしを罪に定めることができるだろうか。」 と言えるなら、なんと光栄なことでしょう。聖書で神が約束されたすべての賜物、神が約束してくださった ことがすべて、わたしたちの間で行われているのです。素晴らしいではありませんか。誰が・・・それなら わたしたちは・・・神ご自身が証しされるのを聞けば、教団教派の思惑などすっかり消え去ってしまうこと でしょう。
誰だって死にたくありません。誰も喪失を望みません。誰もが神のご臨在の中で生きたいと願います。わ たしだって、あなただって、みんなそうです。ですが、神が用意してくださった方法で神に近づきたくない のです。でも、そうすると別のところにたどり着いてしまいます。
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息子のビリーが先日カメラをくれました。被写体を見せて、「親父、それを写真にとって」と言いま した。カメラは 35mm のペトリです。わたしはその小さなカメラを手にとって被写体を覗き込みました。被 写体のサボテンが3本見えるのです。茎が一本、二本、三本。カメラから目を外して見ると一本しかありま せん。でもまたカメラで覗くと、やはり三本あるように見えるのです。
焦点がぼやけていると起こる現象です。レンジファインダーが必要です。わたしたちは、神を別のところ に遠ざけようとしたり、別の何かと取り違えたりします。多分レンジファインダーを使っていないからでしょ う。聖霊がわたしたちの考えや教会の神学を追い払って、代わりにレンジファインダーを用いて焦点を合わ せてくれますように。そうすれば三つも四つも見えたりせずに、おひとりの神を見ることができるでしょう。 わかりますか?
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同じカメラで覗いて人は何かを見ることができます。するとその人の知性が、茎はひとつしかないこ とを教えます。わかりますか?聖霊にお任せすれば、そのように聖霊が教えてくれるのです。聖霊がみこと ばを引き出して、焦点を当ててくれます。それで何を見ているかがわかるようになります。それであなたも 多分わかるでしょう。あなたに何かを見せようとしている人が結局はそれほど間違っていないことを。レン ジファインダーを使えば、みことばそのものがみことばをあらわし始めてくれます。アーメン。あなたが委 ねれば、聖霊がしてくださるのです。わかりますか? レンジファインダーを使うのです。いったん焦点がきっ ちり合えば、次からも合わせることができます。
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わたしは射撃、射的が好きです。それほど昔でもないのですが、ケンタッキーにリス撃ちに行きまし た。そこには・・75 型の小さなライフルを持っていたのですが・・・集会でこんなことを言って、神聖を汚 しているように受け取られなければいいのですが、とにかく言います。要するに、この小さなライフルで鍛 え込んだのです。小さな頃から銃をいじくり回していました。銃が好きなのです。それでこの小さな 75 型で、 50 ヤードで照準を当てて、いつもリスの目玉を打ちあてることができるようになりました。射撃場からもらっ た証明書があるのですが、射程距離 50 ヤードで雨の日でも風の日でも9発同じ的に打ち込んだと証明して います。もちろん、それをするには主の助けがあったのです。普通にできることではありませんから。
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それからリスを撃ちましたが、リスの目から外れて弾が当たったので、落ち着かなくなりました。それでもう一度紙の的に撃ってみましたが、やはり着弾点が外れました。50 ヤードの距離から標的には当たる のですが、1/4 インチ、あるいは 1/2 インチくらい外れていたのでした。もっと上手くいくはずだと、考え つくかぎり銃を調節してみましたが、どうしてもわかりません。
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それで、検査してはめ込み直してもらうために、銃を包んでウィンチェスター社に送ました。ウィンチェ スター社から丁寧な手紙が届きました。銃はうちにあります。手紙には、「ブラナム師へ、あのライフルは 25 ヤードで1インチの揺れがあります。75 型はターゲット銃ではありません。レジャーハンティング用の ものですので、それ以上を期待することはできません。」とありました。
銃を製造したウィンチェスター社が 25 ヤードで 1 インチの揺れがあると言ったのですが、わたしは 50 ヤードで9発命中させたのです。さあ、ここで考えました。妻は「ねえ、ビル、製造会社がそう言うのだ から、それが妥当なのでしょう。なぜそんなことにこだわるの・・・・」と言いました。
わたしは、「でも、 こうなんだ、会社がなんと言おうと、この目でみたんだ。あのライフルでできるってわかっているんだ」っ て言いました。
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兄弟たちがリスを撃っているとき、わたしはつっ立っていました。彼らはリスを真ん中からでも後ろ からでもどこからでも構わず撃っていました。木の下でわたしは泣きました。「神よ、わたしは神経質で自分 を制御できません。あなたはどうしてわたしをこんなに神経質な者にされたのですか。」ふと気がつくと、目 の前に聖書がありました。
そして自然に声が耳に入ってきました。「あなたはわたしの目的のためにこのよう な性質なのだ」と。
あのライフルが一度ゼロに焦点が合ったのなら、同じライフルなのだから、またゼロに合うのはずなので す。それでわかったのです。
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このみことばに従えば、レンジファインダーを使って、使徒たちが見たのと同 じものを見ることができるところまで、使徒たちがしたのと同じ福音を伝道するところまで焦点を合わせれ ば、彼らと同じ結果をもたらすことができるのだと。焦点を合わせさえすれば、何度でも標的に命中するは ずです。
教会がなんと言おうと、人がなんと言おうと、できるはずなのです。なぜなら・・・わたしが見たい ものは、使徒たちが見たのと同じビジョンです。そこに焦点を合わせたいのです。そうすれば、彼らと同じ 働きができるはずです。病いが癒され、死者が生き返り、悪霊が追い出されます。栄光の教会が生まれ、必 要が生じた時には、すすんで自らの血で証しをする人が現れるでしょう。あなたが何を見ているかにかかっ ています。
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もしわたしがウィンチェスター社の言葉に目を留めていたなら、銃の製造元なのですから、わたしは その言葉に納得していたことでしょう。でも違うとわかっていました。さて、教会に目を留めるなら、教会は「あ の時代は終わった。今はあんなことは起こらない・」と言っていますから、あなたはどこに行くと思いますか? 的から外れたところです。わかりますか?
でも神が常に神であるなら、今でも神です。神はいつも神であったし、神以外のなにものにもならずにずっ と神です。神は永遠の神です。ですから、わたしは焦点をこの方に合わせます。教会が設定した標的ではなく、 キリストが設定した標的に焦点を合わせます。わたしたちはキリストが現れるのを待ち望んでいます。同じ イエスです。イエスは、「しばらくの間この世はわたしを見ないであろう。しかしあなたたちはわたしを見る。 わたしが世の終わりまであなたたちとともにいるからである。」と言われました。みことばを司る方、みこと ばである同じ方が、そして標的に向かって真っ直ぐにみことばを向けてこられる方、主イエスが、聖霊となって今この場所にいてくださり、わたしたちの思いをみことばに向けさせ、真理である生きた神に向けさせ、 ひとつの目的に、成就に向かわせてくださいます。もしイエスに委ねるなら、みことばに焦点を当ててくだ さいます。そしてイエスが過去も現在も未来も変わらないお方であることをはっきりとわからせてくださる はずです。あなたが何を見るかにかかっています。
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わたしたちは焦点の合った生き方をしなければなりません。他人が言うことにではなく、わたしたち の生き方をキリストに合わせるのです。キリストはみことばです。わかりますか? もしみことばを遵守し て生きていくなら、みことばとわたしたちの生き方が同じになります。「もしあなたがわたしのうちにおり、 わたしのことばがあなたのうちにあるなら、望むことを願いなさい。それはかなえられる。まことにあなた に言う、この山に向かって『動け』と言い、心に疑いを抱かないで信じるなら、あなたの言ったとおりになる。
(お お、まあ、)わたしが言ったことではなく、あなたが言ったことです。」 あなたとキリストが同じになるから、 キリストの思いがあなたの思いとなり、それがかなうのです。そして、キリストの思いは、父のみことばを 成就することでした。みことばは神でした。そうです。それであなたとみことばは、ともに焦点があうのです。 それであなたは生きた神と一致するのです。なんと素晴らしい。
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人が神の前で罪を犯したとき、人は深くて大きい谷を渡ってしまったのです。ヘブル書が書いている ように、「彼は終わりの日に、彼を待ち望んでいる人々の救いのために現れました。」
さて、この深い谷間を渡ったとき、人は後戻りすることができませんでした。なぜなら、その谷は、人と 神を分ける淵でしたから。それで恵みとあわれみにあふれる神は、身代わりを用意されました。それは人の 身代わりとなって死ぬための羊、それといけにえの動物でした。「しかし牛や山羊の血は」、ヘブル書で先に 読んだように、「罪を取り除くことはできません。」ただ罪を覆うのです。それは神の怒りをなだめる効果が ありますが、罪を覆ったにすぎません。良心が語っていました。本当の血が現れて、罪をきれいに取り除き、 罪と決別させ、永遠に罪と関わりのないものとする、そのときを待ち望んでいるのだと。
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イエスはただの人ではありませんでした。三位一体の第三神格でもありませんでした。彼は神でした。 神そのものでした。エマヌエル、神がともにおられるお方でした。聖書で学んだように、わたしたちは神の 血によって救われたのです。神ご自身がわたしたちのところに来られたとき、神はご自身の・・ありのまま の姿を変えられたのです。ご自身の幕屋を変えられたのです。神は栄光の高みから降りて来られて、人とな られたのです。ですから性交を伴わないで生まれました。ご自身で体を用意され、そこに住まわれました。 エマヌエル、神がわたしたちとともにおられる。みことばが肉となってわたしたちの間に住まわれた。ご自 身の血によって、多くの子を神のもとに買い戻すために。
体はもちろんキリストのものでした。キリストは油注がれたお方という意味ですから、そしてキリストは 過去も現在も未来も変わらないお方ですから、今もキリストはみことばです。それでみことばは油注ぎなの です。「もしあなたがわたしのうちにおり、わたしのことばがあなたのうちにとどまっているなら、願うこと を言いなさい。」これは神のみことばで、油注がれたことばです。これによってかなえられるのです。
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さて、白い生地に滲みをつけてしまったら、どうやっても除去できない時代がありましたね。わたし の母は、油脂にコーヒーを混ぜてシミ抜きをやっていたことがあります。あるときは古いテレピン油の瓶を 使っていましたし、灯油や何かを使って着物のシミ抜きをしていたこともあります。でもきれいに落ちない のです。シミのあとが残ってしまうのでした。これは山羊や羊などの血を象徴していると思います。
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今はブリーチというものがあります。そのブリーチとかクロロックスとかいうものが、製造されまし たので、もし今ここに風呂桶いっぱいのブリーチがあったとします。それにスポイトでひと滴の黒インクを 入れたとします。ちょっと考えてみましょう。黒インクって何ですか? ほとんどが水分です。でも色は? その色はどこからきたのでしょう。色にはまず始まりがあります。私たちは創造を知っています。ですから、 色はまず創造のときに始まったのです。それは創造される前に創造主のうちにあったのです。
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わたしにはこれから語る言葉の意味がわかりません。分析してみることができません。でもこれから 使う言葉をどうか許してください。要点を捉えていただくためなのです。では・・・この一滴のインクですが、 それは目的を持って存在します。色がその色になったのには目的があるのです。この一滴のインクで死亡証 明書を書くことができますし、死刑台に送ることもできます、あるいは罪を赦免することができます。それ が存在するのは目的があるからです。正しいことのためにそれを使うべきです。
では、その目的が終わったとします。その一滴を風呂桶いっぱいのブリーチの中に落とします。何が起こ りますか? 色がもはや存在しなくなります。色は破壊されました。どこに行ってしまったかわかりません。 さてそれは元の酸に戻ったのです。水の記号は H2O です。ですから水に戻ったのです。それはブリーチの中 にあります。でもブリーチの中の化学物がそれを完全に破壊してシミが全く見えなくなり消滅しました。そ れは分解して元の酸に戻りました。酸はどこから来たのでしょう? それはたどっていくと分子に行きつき ます。分子は何ですか? 分子は原子からでき、原子は電子になり、などなど、続きます。
それについて考えてみましょう。黒インクが分子からできたとき、分子41に分子69を掛け合わせた時 に水素分子ができます。もし69の代わりに68を掛け合わせたらどうなるでしょう。黒の代わりにピンク になるのです。何かがそれを決定するのです。もしそれが原子4倍、6倍、11 倍だったら、・・・・もし 11 の代わりに6だったら、茶色になります。わかりますか?どこかで誰かが設計して色ができ上がっているの です。
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窓の外のヤシの木を見てみましょう。それはなんですか?火山灰と生命からできています。通りの向 こうのユーカリの木を見てください。何ですか? 火山灰と別の種類の生命からできています。見て、薔薇 が見えますね。それは何ですか? 火山灰と生命です。では色はどこから来たのでしょう。ちょっと考えて みてください、いったい誰が花に色をつけたのでしょう。同じ種に二つの花が咲きます。ひとつは黄色、ひ とつは赤。両方ともひとつの小さな種から咲きます。どこから色は来たのでしょう。一部分は緑、ある部分 は白、ある部分は赤、ある部分は黄色、いったいどこから色が来たのでしょう。同じ場所で同じ陽に当たっ ているのにです。何かがそれを決定しているのです。それは自然物質ですから、どこかで創造されたに違い ありません。
それは元をたどれば創造主に行き当たります。
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では、もし罪を犯すことが人にシミとなって残るなら、 そしてモーゼが、羊を捧げることによって神の声を受けることができたのなら・・・・「わたしのことばをあ なたの口に授ける。」 それで彼が神のことばを持って下って行き、「ハエよ生じろ」と言うと、そこにはハ エが存在していなかったのに、およそ5分も経たないうちにブンブンバエがあちこち飛び回り始め、もう 10 分もすると 1 平米に1キロのハエがうようよ。何だったのでしょう? 神のことばが預言者をとおして語ら れたのです。神のことばは造り出します。正しい手段によらなければなりませんが。
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もし神がモーゼを使って、羊や山羊の血によって、谷の架け橋の役割りをさせたのなら、そして人の 口を介して神のことばが何かを創り出したのなら、・・・・牛や山羊のいけにえにそれほど力があるのなら、イエス・キリストの血の力はどれほどでありましょう。罪が告白され、神のブリーチの中に落とされると、・。 神ご自身が造り出されたシミ抜きは、シミを忘却の海に投げ込み、もう二度と思い出されることはないのです。 人が罪を告白して神との関係が正しくなると、神は告白された罪をご自分の血の中に落とし、その罪を忘れ 去るのです。そして、その人の中に本来あるべき霊、つまり神の霊を与えて、その人を神の子とされるのです。 教会にどれほどこの神の創造の力が必要なことでしょう。わかりますか?それはあらゆる罪の壁を打ちこわすのです。
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そんなことは昔の時代のことだと、こんにち人は言います。あたかも、まだキリストの血によって救 われていないと言っているようなものです。でもあなたがキリストの血によって救われているなら、みこと ばによって神の力は同じく与えられているのです。同じであるはずです。神が羊や動物の血によってそれを されたのなら、ましてやイエス・キリストの血によってはいかなることでしょう。
わたしにはできるはずです。わたしたちは神のことばに焦点を当てて生きていかなければいけません。写 真を撮るときに、カメラの焦点を調節するのと同じです。焦点が合えば、本物の写真が撮れます。それが欲 しいのです。わたしたちの人生の焦点をイエス・キリストに合わせるのです。そうするとキリストとあなた はひとりとなります。義なるイエス・キリストの血によって、神の子とされたのですから。
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それなら、教会からは、いさかいや苦痛や悪意や疑いや良心の咎めがなくなるはずです。もしそうな れば、神のみことばの力が働いて、約束どおりあらゆる神の祝福が現れるはずです。自分たちの生活を正し て、それからキリストだけを見るのです。司教や偉い人や模範とする誰かを見るのではありません。イエス・ キリストを見るのです。教団教派やら教皇やらカンターベリー大司教やら地上の聖職者らを見るのではあり ません。イエス・キリストを見るのです。キリストはみことばです。
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アブラハムは、異邦人の土地に逗留しながら約束を待つように神から言われたとき、決して約束を疑 いませんでした。クリスチャンは見えないものを待ち望みます。わたしたちは生まれながらに五感をそなえ ていますが、その一つが視覚です。でも視覚をとおしてすべてのものが見えるわけではありません。たった 今この場所に、生きている創造物の具象が存在しています。生きている声が存在しています。嘘だと思うな らテレビをつけてごらんなさい。たった今この場所に存在する国中の人たちが見えるかどうか。彼らの姿や 存在がこの場所を通りぬけています。本当ですか?なぜですか?それがわかるためには受信器が必要です。 信号をとらえて復調して現像を映し出すものが必要です。
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イエス・キリストが過去も現在も未来も変わらない事実を、教会が知る唯一の方法は、送信器の中に 入ることです。それはキリストの血です。罪から切り離し、深い谷間を渡って神のご臨在の中に送り込んで くれる送信器です。わたしたちを神の子にし、その中に神ご自身が現れてくださいます。なんと偉大なこと でしょう。そのことに今注目するなら、こんにちの世界の紛争や他人の関心事や大衆のことなど、視界から 消えてしまいます。わたしたちの信仰の創始者であり完成者であるイエス・キリストを見ているからです。
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さて、クリスチャンの武器はすべて、超自然のものです。もしクリスチャンでありながら「見れば信 じる」と言うなら、見なければ信じられないのならクリスチャンではありません。「信仰は望んでいることを 保証し、目に見えないものを確信させるものです。」見えなければ信じないのならクリスチャンにはなれませ ん。神の武器はすべて超自然です。愛、喜び、平安、信仰、忍耐、親切、柔和、寛容、そして聖霊、すべて 見えないものです。クリスチャンは目で見えるものに頼りません。信仰の目で見るものに頼ります。
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信仰はただ一つのことに基づきます。それはみことばです。アーメン。なんだか叫ぶバプテストみたいな気持ちになっ てきました。そうです。わかりますか?
みことばをとらえたなら、それは生きたものとなります。それがみことばです。心と目が明確にみこ とばをとらえることができたら、神がなさっていることを正に把握するまで焦点を合わせられたら、なんと 素晴らしいことでしょう。アブラハムはそれを見ました。彼は約束を少しも誤解してとらえませんでした。 もし彼が見てから「わたしは 75 歳で、これこれの声がわたしに話しかけて、わたしが妻によって子どもを もうけると語ったんだ。妻は 65 歳で、15 年も 20 年も前に生理は止まっているのに。」と言ったなら、どう なっていたことでしょう。
でも実際のところ彼はどうしたでしょう。自分の状態に目を向けませんでした。彼は神が語られたことに 目を向けたのです。そのことばはとても現実的であったので、彼は神のことば以外のことには注意を向けな かったのです。彼は家を離れました。不信仰や足を引っ張ろうとするあらゆることから、身を離しました。 アブラハムは独りで歩くために、世間から離脱しました。
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これが正真正銘の信者がすべきことです。疑う者や不信仰の者から離れて、キリストとともに歩くの です。これがあなたの生き方です。アブラハムはそうしました。それから 25 年経っても彼はまだ約束を信 じていました。なぜでしょう。アブラハムが神の御意志に自分の思いを合わせていたからです。神のことば を受け、それを信じました。わたしたちも神のご計画に焦点を当てて、神がわたしたちに望んでおられること、 神がわたしたちに約束してくださったことに心を集中させて、それ以外のことから離れるなら・・・。どれ だけ時間がかかっても、ただ信じ続けるのです。ローマ書 4:20 で「彼は不信仰によって神の約束を疑うこと をせず」と書いてあるとおり、アブラハムは不信仰に感染するようなことを一切しませんでした。彼はひと つのことだけを見ていたのです。それは、彼に語りかけた神の声でした。
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こんにち教会がすべきなのはこのことです。神の声、わたしたちに語りかける神のことばだけに注意 を払うのです。あちこちの教会や人々はなんとでも言うでしょう。でも声に注意を払ってください。わたし たちは何を見ていますか?アブラハムは語りかける声に注意していました。彼はその声に矛盾するものをす べて、無きに等しいものとみなしていました。しかし実際にはこの世の焦点からかけ離れてはいたのですが。
ノアの時代のように、この世の常識からかけ離れていたのです。 というのは、ノアの時代には、雨が存在していませんでした。でもノアは、神がそう言われたのだから、 天に雨が作られるのだとわかっていました。アブラハムには、自分の体が枯れ果てているのがわかっていま した。しかし自分の体のことを心配しませんでした。サラの妊娠能力のことも。彼は半分妹である若いサラ と結婚してずっと一緒に暮らしてきました。今や彼女は 90 歳です。そして彼も 100 歳になりました。しか しそんなことを気にしませんでした。そんなことを思い悩んだことは一度もありませんでした。なぜでしょう。 彼はすべての不信仰を追い払っていたからです。素晴らしい。
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教会もそうすべきです。教会のひとりひとりもそうすべきです。疑いを一切、焦点から追い払うこと です。そしてみことばだけに焦点を当てるのです。約束されているのですから。神がそう言われたのですか らそのとおりになるはずです。「彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。彼は、不信仰によって神の 約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰しました。」日々彼は強く なっていきました。時が経つほど奇跡が大きくなるからでした。
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夜が明けるのが待ちきれなかったり、次のリバイバルが来るのが待ちきれなかったりすることがあり ます。それで出て行って、この世的なことに巻き込まれることもあるでしょう。わたしたちは自分を恥ずか しく思うべきです。ここに来て告白し、イエスの血によって罪を清めていただくより前にすべきことがあり ます。それは唯一生きておられる神、「天地は滅びてもみことばは滅びない」と約束された方に焦点を当てる ことです。そしてそこにとどまるのです。そうすれば教義の嵐にフラフラすることがないし、場所から場所へ、 門から門へとさすらわなくてすみます。
神に焦点が合っているなら、自分が置かれている立場に確信があり ます。使徒たちのように、自分の人生が的を得ていることを悟ります。彼らと同じように生きているからです。 彼らと同じ洗礼を受けたので、彼らと同じ結果を得ます。同じ霊の働きがあるからです。あなたの焦点はぴっ たり合っています。会社がなんと言おうと、教団教派がなんと言おうと、あなたの焦点はぴったり合ってい るのです。的を得たことがその証拠です。アーメン。
何を見るかによって、自分の立場がわかります。誰か別の人に目を向けているなら、あなたは離れていき ます。微かな風が吹いても、標的から外れます。しかしあなたの焦点がピタッと決まったところで固定する なら、風なんかで的を外すことはありません。それで決まりです。押しとどめるものはありません。神が運 んで行って・・・
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ダビデが石投げで投げた小石が、まっすぐ敵のひたいに飛んで行ったように、あなたの祈りもまっす ぐに天に届くはずです。あなたを清めるキリストの血が捧げられたからです。あなたには罪もシミもありま せん。そうです。あるはずがありません。ブリーチがわたしと神の間にある以上、どうして神がわたしのう ちに罪をみつけるでしょう。もしわたしが罪を犯すなら、それは意図的ではありません。「真理の知識を受け て後、ことさらに罪を犯し続けるならば・・・」しかしあなたは、したくて罪を犯したのではありません。 罪を犯しましたが、意図して犯したのではありません。なぜならあなたの心には・・罪を犯そうという気持 ちがないからです。しかし意図的に罪を犯すなら、事態は別です。もしそうなら、あなたは元々ここにいな いのです。
つまり、すべての罪のシミが洗い流された状態に到達したのです。それで子羊の血によって贖われたので、 あなたは罪を犯す前のアダムとなりました。神ご自身の血によって洗われた神の子です。
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子どもは血によってできます。血のみです。血は男性に由来します。女性は卵子を提供し、男性はヘ モグロビンを提供します。その中に胚があるのです。その胚の中にいのちがあります。そのいのちは、教会 で告白をしたからあるいは信条を唱えたから与えられたのではありません。イエス・キリストの血によって 生まれ変わったから、いのちが与えられたのです。「わたしの業をあなたもするようになる。わたしを信じる 者は、死んでも生きる。誰でも生きていてわたしを信じるならその人は死なない。」
神のいのちがあります。神の子として、神の血によって生まれたあなたは、・・・この聖書を書いたのと同 じ聖霊がこのことにあなたの目を向けてくださいます。教団教派や信条にはそのことができません。神ご自 身だけがあなたの目のカメラを固定させ、神を見て神の目的を知ることができるようにしてくださいます。 確かにそうです。
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さて、モーゼのことですが、彼はイスラエルの姿を見ました。ファラオの宮廷で育てられた大預言者 モーゼは、窓の外を見ました。彼は窓の外を見て、泥壁作りの集団を見ました。半裸で働きながら背中を鞭 打たれ、全く自由のない人たちでした。しかし、モーゼは神のことばを知っていました。それで彼は彼らを 約束の民とみました。神に約束された人々です。世界が彼らを見下して泥壁集団と言おうが、奴隷と言おうが、 そのようなことはお構いなく、彼は彼らを約束を受けた人々と認識しました。
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ファラオも同じ窓から彼らを見ましたが、ただの奴隷にしか見えませんでした。しかしモーゼは勝利 を見たのです。なぜでしょう。彼は自分に焦点を当てていたからです。王子でしたからエジプトの王位継承 者でしたが、彼は自分に焦点を当てて、この世的欲望から身を引いていました。手に入れることのできる美 しいものや権力に距離を置いていました。だから神の約束によって祝福された人々を見ることができたので す。彼が自分に集中できたのは、神がアブラハムにした約束、いつか神の民のもとにやってくるという約束 を知っていたからです。自分がこの目的のために生まれたのだと知っていたので、そのことだけに集中でき たのです。
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ファラオにはこの可能性がありませんでした。彼は申し出を受け、それを拒否しました。拒否した時 点で、彼はもうそのことに注意を払うことができなくなりました。誰でも、神のことばを退けたならば、神 から離れていってしまいます。なぜならキリストとの親交をもたらすみことばを退けたからです。そのとお りです。だから・・
でもモーゼは窓から外を見て、それを信じました。なぜでしょう。モーゼは信仰の目で見たからです。そ のようにしてモーゼは見たのです。さて、注意を払って聞いてください。信仰を必ず持ってください。信仰 を持つと、神の御意志と望みがわかるようになるのです。もしあなたの持っている信仰で、みことばに集中 できないのなら、そんな信仰は捨ててください。それは間違った信仰です。でも、神に与えられた信仰があ なたを神のことばに注目させるなら、あなたは正しい位置に立っており、焦点がピタッとあっています。な んとまあ、神よ、今この時、この時代を生きるわたしたちを助けてください。信仰は神の望みを識るために 与えられました。どのようにして識るのでしょう。みことばのカメラのレンズをとおして神の約束を識るの です。これがイエス・キリストの完全な啓示です。
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それで、あなたの信仰がこのみことばに焦点を当てさせるなら、教団教派や信条や何やらには目が向 かなくなるのです。あなたの焦点が神のことばに合っているからです。ぴったり合っているからです。あと は発射するだけです。すると祈りが、何にも邪魔されずまっすぐ神のところに届きます。そうです。あなた が神にぴったりと焦点を当てているなら、正しく的を得ているのです。
あなたは誰かの「そんなこと起こるはずがない」という言葉に耳を向けません。起こったとわかっている ことに目を向けるのです。的に注目するのです。当たった場所に注目するのです。一度当たったなら、神は 過去も現在も未来も変わらないお方です。信条だとかあなたを混乱させるものから目を離して、みことばに たち返りなさい。そして不信仰を告白して、聖霊があなたの目をまっすぐイエス・キリストに向けてくださ るよう委ねなさい。
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他のだれかでも、医者の言うことでもなく、わたしたちはキリストを見るのです。彼は 位置に着いています。
教会も、位置に着いています。否定できません。位置に着いて発射するでしょうが、標的を外すこと でしょう。キリストの再臨を待ち望む者だけが照準をピタリと合わせることができるのです。何を見ている かにかかっています。そうです。さて、信仰はこれをするためにあります。同じ信仰が同じものを見ます。
こんにちの教会の信仰は同じ神の計画を見るべきです。このことを聞き逃さないでください。神を求めるこ んにちの教会は、確かに神の計画を知るでしょう。なぜなら神の計画はここに青写真として書き記されてい るからです。そして聖霊は、信仰によってそれを読んで組み立ててくださいます。
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聖霊がこれこれの方法でこれこれをすると聖書に書いてあるのに、人が来て「さてそれは狂信だ」と言うなら、どうしてその人は聖霊に満たされていると言えるでしょう。聖霊は・・・本物の聖霊がみことば を否定するようなことをするでしょうか。いいえ、聖霊はみことばと一致しています。神ですから。わかり ますか?あなたは何を見ていますか。何が見えますか。イエスが見えなければいけません。イエスを見る唯 一の方法は、聖書に目を向けることです。これは聖霊の自然記号です。わたしの言うことがわかりますか? それは聖霊がよみがえらせる手紙なのです。聖霊がこの手紙をよみがえらせて、現実に変えるのです。
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モーゼは信仰によって見ました。こんにち神の御計画を見る人も同じものを見ます。信仰によって見 ます。
モーゼはのちにこの偉大なことを見て悟りました。人々が困難に襲われた時、彼は何をしたでしょう。 彼は青銅の蛇を造って棒にかけました。そして不信仰によって蛇に噛まれた人がこの青銅の蛇を見上げるな ら、生きると言いました。考えてみてください。ただ来て見るだけ、しかも棒は荒野で採ってきた木で、多 分そこらに生えている雑木か何かだったでしょう。それが自然の成長から切り離されたので、命のない材木 でした。青銅は多分エジプト人のヘルメットか何かから廃品利用して造ったのでしょう。それを溶かしてつ なげて蛇を造りました。
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もし人がそこに行って、偶像としてその蛇を見上げたなら、何も起こらなかったでしょう。しかし本 物の信者がそこに行って、霊によって示された真理を掴んでその蛇を見上げるなら・・・・その蛇の形自体は、 罪がすでに裁かれたことを象徴していました。彼らは罪を見ました。自らの不信仰がそれです。エデンの園 での蛇はすでに有罪判決が下されていました。そしてその蛇は青銅で造られ、神の裁きを意味します。わか りますか?いけにえが捧げられる祭壇は青銅で造られていました。青銅は神の裁きです。
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大預言者エリヤは、空を見上げていました。3 年半雨が降らず、水が枯渇したとき彼は「空が鉛(青 銅)のようだ」と言いました。それは何だったでしょう。神のお告げを信じない国に対する神の裁きでした。 人々の信仰はほとんど消えかかっていたので、それがわかりませんでした。こんにち、水素だとか酸素だと か爆弾だとか、人が作り出したものを見て、いっとき国家が鉛のように見えるのに気づかなかったら驚きです。 神の裁きです。
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わたしたちは知性を誇りにするようになりました。子どもに教育を受けさせて不良集団を作っていま す。教会などでも、子どもを神学校に送り込んで勉強させ、博士号や法学博士なんかの位をつけさせていま すが、それでどういう結果になるかわかりますか。ひとつ知識が増えるたびにどんどん神から離れていくの です。神は単純明快です。人が神を見いだせない理由は、複雑すぎて単純明快になれないからです。
誰かが、「ブラナム兄弟、どのようにしてビジョンを見るのですか」と尋ねました。
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わたしではない のです。
わかりますか?自分を蚊帳の外に置かなければいけないのです。神は約束されました。神はその約 束を必ず果たされます。しかしあなたは単純に自分のやり方から身を引かなければなりません。誰かが、「こ の人は、もし我々の大学で博士号を取っていたのなら、偉大な人物になっていたことだろう」と言いましたが、 もし彼がそうしていたら、神との間にもうひとつ溝を作っていたことでしょう。
人類は月にメッセージを送ることができます。でも、足元の草について聞かれても説明できないのです。 神は単純さの中に隠れておられます。人は単純になりきれません。教育を受けると、偉くなって鼻が高くな ります。神は偉大なお方なので、ご自分を低くすることができ、罪人から隠れておられます。それでイエス は神に感謝して言いました、「あなたに感謝します、父よ、天地の創造主よ。このことを知者や賢者から隠し、 乳飲み子や子供のような者に明らかにされたからです。」
神を知るには単純になることです。
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上るのは下ること。どちらが北極か南極への道か。あなたは空間 に立っているのです。わかりますか?上るのは下ることです。「へりくだる者は高くされ、自分を高くする者 は低くされるのです。」わかりますか?わたしたちは自分を低くしなければなりません。あまり多くのことに 手を出さないほうがいいのです。ただ一つのことだけを求めましょう。他のことから目を離して、キリスト を見るのです。もし自分の名前が書けないのなら、そうする必要がないからです。ただ心をキリストに向け なさい。そうして、彼が何をしてくださるか、期待しなさい。そうです。そのとおり。
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さて、多くの人がそこに行って見ました。「すごい蛇が設置されている。人々がそこに行ってその蛇 を見上げると癒されている。自分も家族を連れて行こう。」そんな声がこんにちも聞こえています。「すごい 癒し人が町にやってくるそうだ。みんなで行って癒されよう。」さて、そのように思うなら、焦点がずれてい ます。そうです。焦点はイエスに、イエスだけに合わせるべきです。イエスを見なさい、そうすれば神が意 図されていることがわかります。
イスラエル人たちは青銅の蛇を見上げて言いました、「あの青銅の蛇は、罪がすでに裁かれたことを意味し ている。青銅は神の裁きが下り、神がわたしの罪を裁かれたことを示している。この青銅の蛇は、この後に 現れる何かを象徴していて、それは、わたしの罪がすでに裁かれて自由の身となったことを意味している。」 そして癒されたのです。そのとおりです。
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イエスはヨハネ 3:14 でこう言っています、「モーゼが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げ られなければなりません。」あなたがイエスを見上げるときは、教会人としてでなく、預言者の一人として でもなく、ただ良い人としてでなく、三位一体の第三神格としてでもなく、ただ神ご自身が内在されたお方 として、いのちを与えるために天から降って来られ、上げられて「誰でもわたしを信じるものは滅びないで、 永遠の命を受ける」と言われた方として見上げるのです。
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あなたのカメラの焦点をそのことがはっきり見えるまで合わせることができたら、神ご自身のいのちが捧げられたことが分かれば・・・・
イエスが地上に生まれたとき、その命を手放す必要はありませんでした。でも、すすんで命を投げ 出されました。神ですから死ぬ必要はなかったのにです。でも、すすんでご自分のいのちを与えられまし た。子孫を得るため、子孫をとおしてみ業を完成させるためです。「わたしの行うわざを行います。」(ヨハネ 14:12)もしそのようになり、あなたがイエスだけを見るなら、あなたのカメラは焦点があっており、神は あなたを用いることができます。確かです。
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さて、ただ見上げて「、わたしは車に十字架を吊るしてあるし、家にもひとつ十字架がある」と言うなら、 それもいいでしょう。でも本題はそうではないのです。神が語っておられるのはそうではありません。あな たは認識しなければならないのです。あなたが罪人であることを神がご存知なこと、あなたが罪を告白すると、 神があなたの罪を被って、人間となってくださったことを。あなたの身代わりに死んで、ご自身をあなたに 与えるために神が人となって降りて来られたということを。あなたは罪を告白しました。するとブリーチで はなく、神の力によって、あなたの罪深い血(性欲)を神の血が洗い流し、あなたを自由な神の子にしてく ださいます。そうです。
何を見ていますか?「わたしはアッセンブリーズ・オブ・ゴッドに属しています。」
「わたしはペンテコステ」
「わたしはメソジスト」
「わたしはバプテスト」
それではまだ標的から外れています。イエス・キリストに焦 点を当ててください。アーメン。そして返事を聞くのです、「あなたのおびただしい罪は、すべて赦された」と。
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カナンの女のように粘り強くなりなさい。どれほど失望させられても、彼女は神に神経を注いでいま した。彼女はイエスのところに来て望みをかなえられました。彼女の焦点が正しかったからです。「奇跡の時 代は終わった。あなたの主人は去っていくだろう」などなど、どんなに横槍が入っても、彼女はお構いなし でした。彼女の弾丸がまっすぐ標的に当たったのです。アーメン。
(録音の空白:編) それからわたしたちはイエスが来られるのを待ち望んでいます。それは必ず起こる・・・・ あなたは目的を持たなくてはいけません。目的が何かをはっきりわからなくてはなりません。
71
羊の門には大勢の人々がいました。神は常に救いの希望の道を備えておられ、あの青銅の蛇を見上げ るのもそのひとつでした。ここ羊の門では、彼らは見なければなりませんでした。病院を思い浮かべてくだ さい。そこには大勢の病人が、何千人もの病人が横たわっていました。こんにちの病院のように、愛する者 のいたわりがありました。彼らは水に目を注いで待っていたのです。5つの回廊を持つ羊の門はエルサレム の外にありました。
そこへイエスがやって来て、見ていました。そこでは何か超自然なことが起きるはずでした。そして超自 然が起こるとすぐに人々が殺到しました。こんにちの教会を見てください。神は、みことばを明らかにされ てそれを実証され、人々が超自然に目を向けるよう望まれます。でも人々は、それが教団に関連していない という理由で目を背けるのです。わかりますか?
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羊の門で人々は、超自然現象が起こることを待ち望んでいました。神はいつも人を介して、約束され たことを超自然的に行われます。神は約束されました。それで、超自然現象が起こると、彼らは飛びついていっ てそれを掴み取りました。
今でもなお、聖霊、神の超自然の力は、地上で働いておられ、いろいろなことを教えてくださっています。 しかし人々はそれに飛びつくのでなく、それから逃げています。みことばが肉となり、それが実証されてい るのに、神がなさったことをわたしたちもすると約束されたことが現実起こっているのに、自分たちのグルー プに提携していないという理由で、背を向けているのです。それが現実です。
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イエスは行って教会全体から一人を見つけました。わたしは、「神はみんなを癒されるか」と聞かれ たら、「いいえ」と答えます。そしてペンテコステの兄弟よ、あなたたちにこのことを告げます。あなたたち は、人が神に用いられて病院に行き、病人を解放し、病院全体を空にする日がやってくると期待しています。 そんなことは起こりません。騙されてはいけません。わたしを信じてください、そんなことは決して起こり ません。
イエスは霊に導かれてその病院に行きました。そこで彼は用意のできたひとりの男を見つけました。イエ スはその男に話しかけ、その男の秘密を明らかにしました。・・・彼は歩けなかったわけではないようでした。 誰かが彼をたたいて走らせることができました。というのは、「わたしが行くうちに、ほかの人が先に行くの です。」と、彼が言いましたから。目が見えないわけでもなく、耳が聞こえないわけでもなく、喋れないわけ でもなかったのです。身体障害というよりは、何かの病気にかかっていたのです。死に至る病でもなかった ので、38 年も彼はそこに横たわっていました。彼が降りていこうとすると、誰かが先に降りていくので、天 使の力に触れることができませんでした。
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こんにち、神の霊に導かれてヴィジョンを見、同様のことをする神の人がいても、彼らは「それ、あ そこにジョーンズがいる。癒し人が彼を癒すか見物しようじゃないか」などと言います。
イエスにボロ切れで目隠しをして、イエスの頭を棒で叩き、手から手へ棒を持ち替えて、「さあ、誰が叩いたか当てたら、あん たが預言者だと信じよう。」と言った老いぼれ悪魔と同じだと気づきませんか。
天地が始まる前から、イエスは誰の手に棒があったかをご存知です。イエスは誰のための道化にもならず、 ただ神が望まれていることだけをされました。教会も同じようにするはずです。わかりますか? しかし、彼らは何かを待ち望んでいました。
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さて、もし彼らが、「さあ、他の連中が何をするか行って見ようじゃないか。超自然かどうか見てみ ようじゃないか」と言うなら、彼らは何も得るものがありません。しかし押し進んでいき、前に陣取る人、 祭壇に呼ばれるのを待つ人、神のみ業を待ち望む人は、神から何かを受けます。
ここにいるウィリアム兄弟の息子がそうです。彼は聖霊に満ちた家庭に育ちました。父親にうながされて ある集会に参加したとき、この若い青年は神の手による超自然が行われているのを目の当たりにし、その場 でクリスチャンになりました。彼はキリストを受け入れる準備が整っていたのです。水が動くのを見たから です。彼は超自然な何かがあることを知っていました。
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教会に属するのでも、握手をするのでも、百万人増加でも、新しい教会でも、新しい建物でも、新し い何かでもありません。超自然な動きによって起こる新しいいのちを彼らは待ち望んでいたのです。彼らは ある季節ごとに、来て待っていました。
さて、もしそれがいつでも起こるわけではなく、それでも屋根の上で飛び跳ねているのだとしたら、「この 教会は冷めてしまったから、他に移ろうか」と思うかもしれません。でもそれは馬鹿らしい考えです。わた したちは本当に待つのが苦手です。アブラハムは神が冷めてしまったとは考えませんでした。彼は 25 年待っ て神の手が動くのを見ました。
彼らは羊の門で何ヶ月も待ちました。なんであろうと超自然の動きが起こるのを待っていたのです。彼ら は待ち望んでいました。
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こんにちわたしたちはそのようなビジョンを失ってしまっています。ペンテコステよ、 わたしたちは何かを失っています。キリストを見ましょう。
教団組織は拡張して道を外してしまいました。もっと大きな教会や、高度なクラスや、高教育の説教 師などを得ようと争っています。それで何を得ましたか?神が「見よ」と言われたことからはるかに外れて しまいました。何を見ていますか? 見て、いのちを得よ。いのちを望むなら、そうすべきです。
他の人は笑うかもしれません、「あの転がる聖人の連中がプールの周りにたむろしている。あの連中が言っ ているのはただの風のことじゃないか。風が吹いて水が動いているのだ。」彼らにはわかりませんでした。そ れは哀れみの天使、癒しの天使だったのです。わたしはそれが天使だったと信じます。
単純だと思うかもし れませんが、神は単純さの中に隠れておられます。
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集会に来てこう言う人がいます、「ブラナム兄弟、あなたが転がる聖人の仲間だとは知りませんでした。 なぜなら、あなたが話している間、叫んだり泣いたり、アーメンと掛け声をかけたりしている連中がいるの ですから。あれはただ感情的になっているのじゃありませんか。」信じない人にとってはそう受け取れるかも しれません。しかし、神の素晴らしさを味わったことのあるわたしたち、聖霊を知っているわたしたちにとっ ては・・・
「あの異言を語っている人たちは、ただ早口にペチャクチャ言ってるだけで、何だか・・・ただの思考、た だ興奮しているだけじゃないのか。」そう言う人もいます。そう言う人にとってはそうでしょう。でも聖霊の 経験をした人にとっては別です。そうです。別です。
「今では、あんなのは時代が違って・・・・人々はそんなの信じないだろう。」そんなことを言う人がいても、 神の本物の働きを止めることはできません。イエスは不信仰のど真ん中に来られましたが、不信仰が彼の働 きを止めることはありませんでした。彼は進み続けました。
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こんにち、誰が狂信と言おうがなんと言おうが、信じる人は信じます。それを説明できませんし、何 なのかかわからないのですが、彼らはそれが何であるか漠然と把握しているのです。(雷の正体を知るために 凧を飛ばした)ベンジャミンフランクリンのように。彼は凧の糸を握って、「わかった!わかった!わかった!」 と言いました。漠然とではあるが、わかったのです。
同様にこの人たちも、原子について説明できませんし、原子の中に幾つ分子がいるかわかっていませんが、 聖霊を受けたことはわかっています。なぜなら、彼らは神のことばにぴったり焦点があったからです。ペト ロは五旬節の時に、「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの 名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」と言いました。告白 した罪が神の血の中に落とされると、血が罪を赦免し、その人は神の子として立ち上がるのです。アーメン。
80
そしてねらいが定まりました。さあ、「願い求めなさい、それはかなえられる。」
すると、神の御意志がわかるようになるのです。何か超自然的な方法により、あなたのうちの何かが 反応して、「ここそこに行ってそれをしなさい。ここそこに下って行ってそれをしなさい。」といった声が聞 こえるのです。わかりますか、あなたのうちの何かがいつもねらいに的中するのです。なんと素晴らしい。
もう遅くなってきたので終わりにしなければなりません。もうちょっと時間をください。
81
たとえ人から笑われても彼らを止めることはできません。同じように彼らも待ちました。「うちの教 会は、うちの兄弟は、説教熱が冷めてしまった・・・」などと言われても、冷めたわけではありません。水 が動くのを待っているのです。わたしは何かが起こるのを待っています。今わたしがツーソン(アリゾナ) にいるのはなぜでしょう。わかりません。水が動いたので、ここにいるのです。何かが起こるのを待ち望ん でいます。何かが起こります。先日わたしがここに来るとき、何かが起こったとお話ししましたよね。雷、 いえ、爆発が起こったのです。そして七つの封印が明らかにされました。テープを入手して確かめてみてく ださい。わかりましたか?わたしたちは水が動くのを待っているのです。
82
ツーソンの北にある砂漠の、斜め奥あたりで遭遇したのです。それが起こる前にみなさんに語ったと おりのことが起こったのです。そこで草を摘んでいたとき、爆発が起こり山全体が揺れ、岩がゴロゴロ落ち ていきました。そして聖霊(天使)が現れて言いました、「すぐに家に帰りなさい。七つの封印が開封される からです。」テープを入手して確かめてください。これは「主がこう言われる」です。それが起こる前に知ら されていたとおりです。真実かどうか確かめてください。わたしが去っても、真理は語り続けます。 友よ、
わたしたちは終わりの時代を生きています。わたしはイエスが来られるのを待ち望んでいます。イ エスは来られると信じています。アブラハムのように、約束が長引いてもイエスを愛する思いは強くなって いき、日々自分の思いをイエスに伝えています。イエスを信じるみなさんも同様のことと思います。
「ああ、 あなたは時代遅れだ、あなたはこうすべきだ」などと、他人が何を言おうと、動揺しません。神を信じます。 みことばに心を集中させます。それが真理であることを知っているからです。今まで誰もわたしを動揺させ た人はいません。神がわたしの心をみことばに直結させてくださっている限り、わたしはそこにとどまります。 アーメン。
83
ある日エリヤは、助けがやって来るのを待っていました。ずっと待ち望んでいるうちに、この八十何 才かの老人は疲れて山に登れなくなりました。ずっと断食して祈っていた後でしたから。しかし神は人々が 悔い改めるなら、事を起こすと彼に知らせてありました。エリヤは何を待っていましたか?彼は召使いに言 いました、「行って、確かめなさい。見よ、何かが起ころうとしている。」
年半の間、雨はおろか、雲や露一滴さえも降りませんでした。それでも「行って確かめよ」と言ったのです。 ゲハジは立って、目を凝らして見ましたが、何も見えませんでした。彼は戻ってきて「何も見えませんでした」 と報告しました。「もう一度戻りなさい。(アーメン)戻って何か見えるまでとどまりなさい。」
84
そこでゲハジは戻って、目を凝らして見つめました。エリヤは、小さな坊主頭と白い髭を日にさらし、 骨ばった腕で骨ばった膝を抱えて言いました「神なる主よ、」そして祈り始めました。
そして「もう一度確かめてきなさい」と言いました。アーメン。彼は何をしていたのでしょう。どれほど空 が鉛のようであっても、どれほど神の裁きが厳しいものであっても、神が約束を果たされるのを期待してい たのです。そうです。
いつか誰かが言いました、「ブラナム兄弟、あなたは信じているのですか?教団組織をあんなに激しく非難 していますが、なぜそうするのです?」
わたしは答えました、「教団組織にいる兄弟たちを非難しているので はありません。組織という存在を非難しているのです。」
それは弟子たちがイエスの遺体に香油を塗って包んでいたときのようです。遺体は腐敗し始めていました、 そうです、ひどい腐敗臭が漂っていました。それでも彼らはとどまっていました。
85
こんにちも同じです。教会は内部に疑念をため込んでいます。何々主義やあらゆる形式やらに落ち込 んで問題を抱えています。それでも教会と共に歩まなければなりません。そこにとどまらなければなりません。 そこにとどまるのは、愛しているからです。心のうちの何かがおしとどめています。心臓が脈打ってこう言 うのです、「とどまりなさい。」それはいつか復活する日が訪れるからです。そして神はそこから取り去るこ とでしょう。アーメン。そうです。素晴らしい主イエス。そうです。
86
エリヤはずっと見張り続け、やっと人の手の大きさの雲を見つけました。不信仰な者なら、「なんだ それっぽっちか・・・(わかりますか?)もしそれがやっとなら、いらない。」と言うことでしょう。でもそ れは何だったのでしょう。エリヤは超自然なものを探していました。神の手によってしかできないことを知っ ていたからです。そして彼はイエス(J-e-s-u-s)の手を見ていました。彼には信仰( f-a-i-t-h)があったからです。 そうです。彼はそれを見て言いました、「大雨の音が聞こえる。」それは何だったのでしょう。彼は初動を認 めたのです。
87
ああ、不信心の者よ、水の洗礼のやり方やあらゆることに疑念を持ちながらも継続している者たちよ、 神の霊があなたたちの目を開いてほんの少しでも見せてくださるように。そこから初めて「大雨の音が聞こ える」と言えるように。みことばの代わりに教会信条を信じる者よ、みことばに戻ってきなさい。そして初 めの微動を見て、信仰によってそれを認めて、「これこそ私が探し求めていたものだ。」と言えるように。
わたしたちは主が来られるのを待ち望んでします。終わりの日の聖霊の注ぎを待ち望んでいます。しるし と不思議を見ています。今起こっていることを視ています。わかりますか?あなたには見えていますか?あ なたは何を見ていますか?神が言われたとおりのことが今起こっています。あなたの信仰がそれをとらえて、「私もそれが欲しい。」と言えるように。
88
エリヤのことですが、彼がそれを認めたとき、彼の生命が新たにされたに違いないと思います。彼が アハブの馬車を追い越したからです。丘を登るのさえ大変だった彼が、馬車の前を走ったのです。彼はアハ ブの敏速な馬の前を走って「雨桶を出しておきなさい。大雨の音が聞こえるから。」と言いました。初めの微 動が・・・・。ベテスダのプールに起きた初めの微動で、彼らは駆け寄っていったのです。アーメン。
もしあなたが今まだ聖霊を受けていないのなら、もし初めの小さなお知らせ音が、「これは真理である。あ の人はみことばを語っている。それは真実である。」と言うのを聞いたなら、急いで飛びつきなさい。待つ必 要はありません。あなたは何を見ていますか?何を待っていますか? 時は思っているより、遅い時刻になっ ています。それに向かってできるだけ早く飛びつきなさい。なぜ?エリヤが微動を見たとき、それは祈りの 答えの証拠だったからです。
89
神よ、この朝ここに集っている病人が皆、今ここにおられる聖霊を感じることができますように。祈 り求めてきたことが、神の御臨在の中でかなえられたことの証拠であることが、わかりますように。聖霊の バプテスマを望むすべての人が、微かな威厳のある思いが「それは真実だと信じる・・」と言うのを感じる ことができたら。「それが私が祈ってきたことがかなえられた証拠だ。」と言えることができて、手を上げて、「神 よ、今受けます、」と言うなら、何かが起こります。神はしるしをわたしたちの周りに投げかけておられるの に、わたしたちはそれから外れたところに向かおうとしています。そうです。何ということか。エリヤはそ れが祈りの答えだとわかっていました。
90
ヨナは、みことばと矛盾することに目を向けませんでした。水底で大きな魚の腹の中にいましたが、「わ たしは隠されてはいない。もう一度わたしは聖なる神殿に目を注ぐ。」と言いました。彼は何を見ていたので すか?彼は実際の神殿を見てはいませんでしたが、神殿に向かって願いを捧げるなら神に聞いていいただけ るという約束を見ていたのです。
神よ、もしわたしたちがみことばの約束に目を向けることができたなら。キリストは約束されました、。「二 人か三人がわたしの名によって集まるなら、わたしもその中にいる。何でも願うことはかなえられるであろ う。」そのことがわかったなら、初めの微動が起こった時それに飛びつくのです。モタモタしていてはいませ ん。何を期待して待っているのですか。
神はあなたの祈りを聞いて、答えをあなたの周りに置いてくださいます。するとあなたは「ちょっと待てよ、 誰々はなんと言うだろうか。」などど言わないでください。周囲ではなく、キリストを見てください。キリス トが語ったことばに目をとめてください。「二人か三人がわたしの名前によって集まるところにわたしもいる。 彼らのまん中にいる。願いを言いなさい。それはかなえられる。」なんという約束を神はしてくださったので しょう。
ヨナは、疑いを起こさせるようなものは一切、目にとめようとしませんでした。
91
もし悪魔があなたに、 「ちょっと待って。今晩リバイバルが始まったら、少し良くなるかもしれない。」と言ったとします。妥当な 言葉に聞こえますが、リバイバルが始まるまで待つ必要はないのです。たった今、リバイバルを起こす側に 立つのです。神はあなたを通してリバイバルを始められます。教会を通してリバイバルが起こるのを神は望んでおられます。すると聖霊は使いを用いてメッセージを送ります。神は大きなしるしと不思議を現して、 そのメッセージが正しいことを裏付けされます。わかりますか?疑いを抱かせるあらゆることから目を背け なさい。ヨナのように。神は鯨の腹から彼を救い出しました。そうです。そのとおり。
92
ヨブは、すべてがうまくいかなくなり、友達さえもが彼をはねつけたとき、じっと空を見つめていました。友人は、「あなたは隠れたところで罪を犯している。なんのためにそんなふうに見上げているのだ。 神があなたに送ったこれらの災いによって神はそれを明らかにされたのだ。あなたは密かな罪びとだ。ヨブ よ。」と言いました。
ヨブは自分が罪びとではないとわかっていました。神に要求されたことを忠実に行なっていたからです。 全焼のいけにえを捧げることが、神から求められたすべてでした。ですから、ヨブは忠実に全焼のいけにえ を捧げていたのです。
神は、ただみことばを信じることを、あなたに求めておられます。神のことばです。アー メン。何々主義や信条やらを求めてはおられません。神を信じることが、神からの要求です。「わたしを信じ る者は、」アーメン。アーメン。「わたしを信じる者は、わたしがする業をおこなう・・・」世の終わりまで 神に目を注いで、いのちを得なさい。イエスは過去も現在も未来も変わらないお方です。アーメン。アーメン。 そのとおり。他のことに期待をかけないでください。
93
見よ。ヨブは立ったまま見ていました。彼の体は腐りかけ、膿と腫れ物と血だらけでした。教会の仲 間は彼から去っていき、彼を密かな罪びとと非難しました。妻から、「あなたがこんな惨めな姿になるとは。 神を呪って死んだらどうか。」と言いわれた彼は、
「愚かなことを言うな。主は与え、主は取り去り給う。主 の御名は褒め称えられるべきかな。」と、言い返しました。
その頃だったと思います。彼が断固としてしてみことばから離れないでいたとき、稲妻が光り、雷がとど ろきました。この預言者は空に目を向けて言いました。「わたしは知っている。わたしを贖う方は生きておら れ、ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもって、わたしは神を仰 ぎ見るであろう。」
94
はじめ彼は「贖う方」と言い、それから「神」と言いました。「わたしは知っている。わたしを贖う 方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもって、 わたしは神を仰ぎ見るであろう。このわたしが仰ぎ見る。ほかならぬこの目で見る。」彼が朽ちようとしてい たとき、体が腐り始めていたとき、未だ彼の魂が肉体に入っているとき、彼は見つめていて、ついに復活を 見たのです。ハレルヤ。彼は自分も復活することを知っていました。神のことばを守っていたからです。見て、 いのちを得よ。兄弟よ。アーメン。彼は神の目的を知ってそのとおり行ったのです。 神がヨブを試されたのには理由がありました。
神が人々を試すのには理由があります。何もかも根拠があっ て起こりました。今でも同じです。神はしるしと不思議と真理の福音を人々に送られます。そして人々に判 断を任せられました。真理より教会信条を守る者、聖書に矛盾していることがわかっていながらこれこれを 拒否し、これこれを受け入れる者。しかし神は試されているのです。そして裁きの日には申し開きすること ができません。
95
見よ、終わりのときの神の約束を。もうすぐ終わりにしますから、もう少しだけ言わせてください。 見よ、終わりのときの神の約束を。神がすでになさっていることを見てください。神は聖霊を注ぎ、初めの 聖霊降臨を回復し、初めの聖霊のバプテスマを回復し、初めの水の洗礼を回復し、全てを元の状態に戻して くださいました。まっすぐ降って来られて、精確なまぼろしと預言という、キリストのなさった業を再開し てくださっています。すべて精確に同じことがなされています。これは人間の思いをはるかに超えています。 人にはできません。神のみ業です。
96
イスラエルの子らを導いた火の柱を御覧なさい。聖書学者は皆、それが契約の天使、イエス・キリ ストであったことを知っています。ヘブル書 11 章には、「モーゼはエジプトを立ち去りました。彼はキリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。」とあります。わかりますか? それは何だったのでしょう。荒野のキリストです。
ヨハネ 6 章では、彼らが聖餐式か何か、パンを割いて 解放の喜びを味わって素晴らしい時を過ごしていたとき、イエスがこう言ったと記されています。「わたし が、天の神のもとから下って来たいのちのパンです。わたしの肉を食べる者は永遠のいのちを持っています。 そして終わりの日に、わたしはその人をよみがえらせます。」彼はそのとおりになることを知っておられま した。彼はご自分がいのちのパンであると言われました。
97
彼らは「あなたは自分を神にしている。だからあなたが狂っていることがわかる」と言いました。「発 狂している」というのは「正気でない状態」のことです。「あなたが正気でないことはわかっている。あな たはまだ 50 歳にもなっていないのにアブラハムを見たというのか。まったく狂っている。頭がどうかして いるのだ。あなたは狂信者だ。」
イエスは「アブラハムが存在する前、すでにわたしは存在している。」と言われました。アーメン。
「わたしはある」というのはいったい何でしょう。モーゼが見た燃える芝です。彼は生涯それを見続けま した。そしてそれが彼を約束の地に導きました。同じ光が今ここに下ってきて、ここに立っておられます。 キリストは、「わたしはアブラハムが生まれる前から存在する。わたしは燃える芝である。わたしは火の柱 である。わたしは光の天使である。わたしは神から出て神に戻る。」と言われました。
98
イエスが復活されたのち、タルソスのサウロは、聖霊を受けた人たちを迫害するためにダマスカス に向かう途上でしたが、そこに大きな光が降ってきて彼の目をくらましました。サウロ以外、その光を見 ることはできませんでしたが、彼はその光を見ました。あまりにも眩しいので彼の目は見えなくなってし まいました。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」
「主よ、ああなたは誰ですか?」
「わたしはイエスである」
燃える芝で現れた同じ光が、神からきた同じ光が、神のもとに戻りました。同じ光がわたしたちの間に現 れた写真がここにあります。
99
同じ不思議、同じ奇跡、同じしるしが起こっています。それなのになお、他 のことに関心を向けているのです。真理の福音、みことばの実証、聖霊のバプテスマ、イエス・キリストの御名による洗礼。わたしが 教えてきたこれらのことは絶対に真理です。神が裏付けしてくださっています。アーメン。ふうっ、敬虔 な興奮が沸き起こってきました。そうです。なぜ?それは聖霊がここにおられるからです。世界中あちこ ちで証ししておられ、一度も間違っていたことがありません。アーメン。
何を見ていますか。何を待っているのですか。もうその時です。水は動いています。行動してください。 終わりの日のしるしが現れています。「夕べになっても光がある。」そのとおり。ヘイウッドが言いました。
「栄光の道をあなたは見つける。」そのとおり。この終わりの日にあなたは見つけるでしょう。
100
見よ。何を見ているかによって違います。見よ。火の柱、聖霊が何をなさったかを。過去も現在 も未来も変わらないお方を、今見て信じましょう。今が終わりの時代であることを理解しましょう。終わ りの時間に、その時間の最後の数分にさしかかっています。
このフィルム、水曜日の夜の集会でアウトロー兄弟に持ってきたものですが、エルサレムを題材にした 映画で、「真夜中まで 3 分」というタイトルです。科学者の言葉からとったタイトルです。聖書でイエスは言っています。「いちじくの木や他の木々が芽吹いたなら・・・・」イスラエルは国家として復帰しました。イス ラエルは今や国家です。他の木も芽吹いています。メソジストも、バプテストも、カトリックも他の教団も 出てきています。ペンテコステ派はオラル・ロバートによって、その他の教団もリバイバルが起こって枝を 伸ばしています。「そのとき時間が迫っていることを知りなさい。これらのことがすべて成就するまでこの時 代は過ぎ去りません。」
101
イスラエルは母なる土地に戻って、しるしを掲げています。ダビデの星です。独自の通貨、独自の国家、 独自の軍隊、すべてを持っています。その国家はイスラエルです。それは何ですか。彼女はそこに戻り、神 がその中から 14 万4千人を選ぶために浄化を受ける用意ができたのです。
こんにちの教会を見てください。混沌として、ごたまぜになっています。教会は望んでいます、「彼らより もっと多く得たか?彼らより良いものを得るべきだ。わたしたちはこれ、それ、あれ・・」
102
そして花嫁は主 イエス・キリストが来られるのを待ち望んでいます。キリストはお忍びでやってきて、夜のうちに花嫁をさらっ ていきます。
ロミオとジュリエットの本に出てくるように、彼がハシゴを使ってやってきて、乙女たちの中から 花嫁を連れ去るのです。イエスはやって来て、教会信条に目を向ける人ではなく、キリストに目を向ける人、 キリストを待ち望む人、キリストを心の中心におく人を探し出します。彼らは、イサクとレベッカのように、 血で結ばれています。血のつながりがあるのです。わたしたちもそうならなくてはなりません。キリストと、 血のつながりを持つのです。いけにえを捧げてわたしたちの罪がイエスの血によって消滅することによって。 どこかの教会が言うことではなく、誰かが言うことではなく、血が成し遂げられたことによって、そしてそ れが実証されたことによって。みことばに従って、キリストがしたのと同じ働きをし、同じ奉仕をすること によって。アーメン。
103
教会よ、何に目を向けていますか。おお、この終わりの日々に、キリストがともにいてくださって いるのに、私たちは忘れてしまっています。わたしたちの間に場所を占めていてくださっているのに、わた したちはそれに気がつかないでいます。聖霊は今ここにおられます。それでも多くの人はここを離れると忘 れてしまいます。多分多くの病人は、信じて確固とした信仰を持つべきことを忘れてしまっています。本当 にプールの水は波立っているのです。水は自然に逆行して渦巻いて、それが超自然現象であることを示して います。聖霊は、普通の人も知識人もいい服を着ている人も高教育を受けた人も見ています。そして彼らの 上に降りてきて、何かが彼らの周りをぐるぐる回っています。彼らは叫びます、「神に栄光!ハレルヤ。」ど うしたのでしょう。水が騒ぎ立っているのです。アーメン。
104
そこにいる罪人や背教者や売春婦や呑んだくれなどが皆聖人のように、神のようになります。彼らがそれ を受け入れたからには、彼らの生き方について指をさすことはできません。それは何でしょう。水が騒ぎ立っ ているのです。あなたは何を見ていますか。
聖霊がわたしたちのところに降りてこられた・・・ちょっと前にアウトロー兄弟とそこにいて、病 気や問題のある人々の注目を聖霊に向けていました。もうすでに解決しているはずです。聖霊はそれぞれに 起こったことを見せてくださいましたから。それは何ですか。聖霊です。イエス・キリストは過去も現在も 未来も変わらないお方です。何を待っているのですか。水が騒ぎ立つのをですか?それはすでに起こりました。 間もなく天使は去っていき、力は消え失せます。そうなったらもう救いはありません。暗闇に取り残される だけです。
105
何日か前に聞いた話ですが、・・・もうすぐ終わりにします。殺人を犯した少年がいました。彼は何 か悪いことをしたのです。先日わたしはテキサスの法廷に呼ばれました。彼らから届いた証書があります。 それには「命を助ける」とあります。わたしは、あの主の御使いの写真をとったアイルランド人のために法 廷に行きました。ヒューストンでその写真を撮った当時、彼はわたしを非難し、あらゆることで悪く言いま したが、その彼がわたしに腕を回して抱きつき、こう言ったのです、「考えても見てくれ、ブラナム兄弟、わ たしはあなたのことを催眠術を行なっていると非難したのに、そのあなたがやって来てわたしの息子を死刑 台から救ってくれたのだ。」そのとおり。わたしは法廷で彼らに話したのです。すると知事が何をしたと思い ますか?罪を赦免したのです。なんということでしょう。4、5日後には彼は死んでいるところでした。そ うです。なぜ?わたしはいのちに関心があるのです。いのちです。
法廷でわたしは言いました、「あなたにはこの少年の命を奪う権利はありません。世界で初めて血が流され たのは、兄が弟の血を流したときです。彼は弟の血を流しましたが、神は彼の命を奪うという最高刑罰を与 えませんでした。神は彼の上に印を置き、誰にも彼を殺させませんでした。その印を擦り落としてはいけま せん。」アーメン。アーメン。いのち。わたしたちはいのちに関心があるのです。
106
tある日、ある母親の息子が人を殺しました。息子は牢獄で死を待つばかりでした。かわいそうな母 親は知事のところに行き、頼み込みました。監視の一人が知事のところに行き「あの少年の母がやって来て います。あなたに会いたいそうです。」と言いました。
そしてドアを開けて「夫人よ、知事があなたに会うそ うです。」と言いました。
かわいそうな母親はひざまづいて知事の膝に手を置き、「知事さま、貴いお方よ、 あなただけがわたしの息子を助けることのできる最後の方です。どうか、彼が有罪なのは確かです。彼は有 罪です。裁判所は彼を有罪としています。」さて、神の法廷で無罪と言える人がどれほどいるでしょうか。「裁 判所は彼を有罪としました。彼は実際に殺人を犯したのですから、死刑を受けても仕方ありません。それは わかっています。でも、恐れながら言いますが、人としてあなたにはわたしの息子の命を奪う権利がないの です。神だけがいのちを与え、いのちを奪うことができます。だからお願いします。死刑にしないでください。 母親の心の限りを尽くしておねがいします。」と言いました。知事は彼女を去らせた後、彼女の嘆願に心が痛 んだので、その少年のいる牢屋に自ら降りて行きました。
107
少年は頑迷になっていました。こんにちの教会のように。「わたしの好むような説教をしないなら、 耳をかさない。」来る人来る人が、牢獄の中の彼に話をしようとしましたが、一向に聞こうとしませんでした。 知事が入っていって言いました、「息子よ、あなたと話がしたい。」 彼は牢獄の中から叫びました、「うるさい、出て行け。」
「息子よ、わたしはあなたを助けたいのだ。」
「出て行けと言っただろう、出て行け。」
このように人々は聖霊を扱うのです。そうです。「出て行け。わたしは関わりたくない。」そしてドアを叩く のです。「もし耳をかしたら、カードパーティを諦めなければならないし、これもあれを諦めなければならな いし、教会信条から離れなければならないし、それに・・・」わかりますか?あなたは耳を傾けるべきです。 彼が唯一、赦免できるお方なのです。そうです。あなたは何を見ていますか。
108
少年は多くのことに気を取られ、この人を見ることを恐れました。それで背を向け続けました。説 教の後、前に出てくるよう呼ばれたとき、人々はこのように振る舞うのです。彼らは背を向け、耳をかしま せん。神が語っているのに背を向けるのです。「それは真実です。」小さなささやくような声・・・エリヤは強い風の音を聞きました。血と火と煙も現れましたが、彼は気に留めませんでした。しかし小さ な囁くような声が聞こえた時、彼は外に出てきました。ああ、その小さな声を教会は聞き逃してしまったの です・・・そうです。
知事は出来る限りの事をしました。少年に話しかけようとしたのです。しかし彼は「お前が出て行かないなら、 ここから投げ出すぞ。」と言いました。
それで知事は「よろしい。息子よ、わたしはできる限りの事はしたのだ。」 と言って出て行きました。
109
知事が出て行くと、少年は横柄な態度であたりを見回しました。監視の一人が、「知事、うまくい きましたか?」と聞くと、
「いや、まったく聞こうとしなかったよ。」と知事が答えました。
それを聞いた少年は跳び上がって、格子をつかみ、聞きました、「誰だったって?」
「あれは知事だよ。おまえを赦免するために来たのだ。」
すでに遅しでした。少年は金切り声をあげて叫びました。「考えても見ろ、知事がこんなところまでやって 来て、赦免しようとしてくれたのに、拒絶してしまったなんて。」
それから、首の周りにロープが巻かれ、黒いマスクを被せられ、13 段の階段を上り、彼は最後の言葉を残 しました、「考えても見ろ、知事がこんなところまでやって来て、赦免しようとしてくれたのに、拒絶して しまったなんて。」そして息絶えました。
110
ここには知事よりすごいお方がおられます。イエス・キリストがここにおられるのです。男とか女 とか呼ばれる牢獄を訪れて、罪の赦しを与えるために。拒絶してはいけません。拒絶しないで。神が用意さ れた人生の目的を探し当てるのです。わたしたちは今、際どい時刻を生きているのですよ。わかっているは ずです。
古い歌にあるように・・・
国々は没落し
(今何時か見よ)
イスラエルは覚醒し
聖書が予告したしるし
異邦人の時の幕切れが迫り
恐怖が邪魔をする
戻って来い。四方に散らされたものよ。
贖いの日は近い
人の心は恐れで崩折れんばかり
御霊に満たされよ。
ともし火の手入れをせよ。(何?)
見上げよ。あなたの贖いは間近だ。
(そのとおり)
偽預言者がうそぶく。
神の真理を否定する
イエスキリストは我らの神
(そのとおり)
この時代は
神の啓示をかき混ぜる
しかし我らは使徒の歩んだ道を歩く
贖いの日は近い
人の心は恐れで崩折れんばかり
聖霊に満たされよ。
ともしびの手入れをせよ。
見上げよ。
あなたの贖いは間近だ。
111
そのとおり、兄弟よ、見上げよ。世界のあらゆる教義から離れよ。そして見上げよ。キリストを見よ。 イエスを見よ。こんな歌があります。
見て、いのちを得よ、兄弟よ、いのちを
イエスを見ていのちを得よ
聖書に記されているとおり、
ハレルヤ
ただ見て、いのちを得よ
今何を見ているのか
見て、いのちを得よ、兄弟よ、いのちを
イエスを見ていのちを得よ
聖書に記されているとおり、
ハレルヤ
ただ見て、いのちを得るのです
信じますか?さあ、みんなで歌いましょう。
これ知ってますか?
見て、いのちを得よ、兄弟よ、いのちを
イエスを見ていのちを得よ
聖書に記されているとおり、
ハレルヤ
ただ見て、いのちを得よ
112
何を見ていますか。イエスは彼の再臨を待ち望んでいる人のところに、救いの完成のために栄光の お姿で来られ、この罪深い世界から救い出してくださいます。信じますか?見て、いのちを得よ。ただ見る だけしかできません。みことばを受けなさい。棒にかけられた蛇が、生けるみことばが肉となることを象徴 していたように、こんにちのみことばは聖霊のご臨在を象徴しています。聖霊はわたしたちの牢屋を訪れて くださっています。頭を下げて耳を傾けましょう。
見て、いのちを得よ、兄弟よ、いのちを
イエスを見ていのちを得よ
聖書に記されているとおり、
ハレルヤ
ただ見て、いのちを得よ
113
頭を下げている間、イエスを見ましょう。兄弟よ、みことばに目を向けましょう。まだ悔い改めて いないのなら、今悔い改めなさい。まだイエスキリストの御名によって洗礼を受けていないのなら、受けな さい。神は約束されましたから、そうすれば聖霊を受けます。それが初めの教会の始まりでした。神は無限のお方です。神はご自分の計画を途中で変えることは決してありません。だからずっと変わらないのです。 教会は五荀節の日に、悔い改めと、イエス・キリストの御名による洗礼と、約束どおり聖霊を受けることによっ て誕生したのです。「わたしを信じる者にはこれらのしるしが伴う・・・」
もしまだ受けていないのなら、友よ、神に向かって両手を上げて言いなさい、「ブラナム兄弟よ、祈ってくだ さい。」神の祝福があなたに、あなたに、あなたに、神の祝福があなたに、あなたに、あなたに、素晴らしい。 そうです。
見て、いのちを得よ、兄弟よ、いのちを
イエスを見ていのちを得よ
聖書に記されているとおり、
ハレルヤ
ただ見て、いのちを得よ
114
聖書に記されています。わたしたちは今終わりのときを生きています。このことに議論の余地はあ りません。いんちきでも悪ふざけでもありません。みことばが現れているのです。みことばが真理を語って いるのです。あなたはずっとこの集会にいました。集会の前にもいたので、真理を知っているはずです。信 じているフリをする人たちも多くいることを知っています。でもそういう人に目を向けてはいけません。モー ゼの時代にも信じる者、信じない者、信じるフリをする者がごたまぜでした。でも覚えておいてください。 その大衆の中には本物のイスラエル人がいて、約束の地に入ったのです。わかりますか?
115
同じことがここの集団にも言えます。霊に満たされた、本当に本当の本物の男女がここにいます。 彼らの生き方に指を指すことはできません。今、見て、いのちを得たいと思いませんか?信じるフリをする 人から目を背けなさい。狂信になるかもしれない人から目を離しなさい。それらすべてから目を離して、本 物のイエスを見なさい。わたしたちはイエスのことばに記されています。ハレルヤ。イエスの再臨を待ち望 む者に、彼は現れてくださいます。 前に来て祭壇で祈ってもらいたい人、まだ聖霊を受けていない人、まだ使徒の働きにあるようにペトロが 語った資格を取得していないけれど今取得したい人は、もう一度歌っている間に祭壇の前まで来なさい。祈 りましょう。それから洗礼式をして、聖霊が降るよう祈りましょう。歌っている間に。
見て、いのちを得よ、兄弟よ、いのちを
イエスを見ていのちを得よ
(誰か他の人?)
聖書に記されているとおり、ハレルヤ
ただ見て、いのちを得よ見て、
いのちを得よ、兄弟よ、いのちを
イエスを見ていのちを得よ
聖書に記されているとおり、ハレルヤ
ただ見て、いのちを得よ
女性方どうしたのですか。男性だけ?ほとんど見えません。今は真剣な時間です。そうです。
見て、いのちを得よ、兄弟よ、いのちを
イエスを見ていのちを得よ
(誰か他の人?)
聖書に記されているとおり、ハレルヤ
ただ見て、いのちを得よ・・・
116
誰か他にもいるはずです。出ておいで。ここに四人立っていますが、もっと誰かいるはずです。出ていらっしゃい。いのちを得たいですか?覚えていてください。神はそれを書き記されます。彼らが「救わ れるためには何をしたら良いのでしょう」と尋ねたとき、言われたとおりです。神はそれを変えることはで きません。聖書時代から一度も神は変更を加えていません。
今わたしたちは別の考えを持っています。あらゆることを変更しています。でもそういうことに目を向け てはいけません。彼らがしていることに目を向けてはいけません。神が語られたことに目を向けなさい。聖 書に目を向けるのです。見て、命を得なさい。兄弟よ。それが唯一の道です。姉妹もです。この経験をまだ していないのなら、神ご自身が証明した聖書そのものであることがわかっているなら、この機会を逃しては いけません。何を見ているのですか。
117
何を見ているのです。現代の忌まわしいどんちゃん騒ぎの中にとどまりたいですか?何を待ち望ん でいますか。神はすべてを整えられました。波立つ水の最初の微動で人々は飛びつきました。空に浮かぶ手 のしるしを見てエリヤは言いました、「人の手の大きさの雲、蒸気のような・・・」それは何だったのでしょう。 彼は信じ続けました、「大雨の音が聞こえる。」するとその雲は二つになり、二つの雲が丘になり、丘が山に なりました。山は山々になりました。空全体に雷が走り、雨が落ちてきました。何だったのでしょう。エリ ヤは神が送られたものを受け入れたのです。
今、もし微かにあなたの心に触れ、こういう声が聞こえたら、「わたしもそれが欲しい。」それはあの小さ なしるし、人の手の雲です。さあ、いらっしゃい。
見て、いのちを得よ、兄弟よ、いのちを
イエスを見ていのちを得よ
聖書に記されているとおり、
ハレルヤ
ただ見て、いのちを得よ
さあ、頭を下げましょう。
118
奉仕者の兄弟よ、よかったら、ここにきて一緒にこの兄弟たちの上に手 を置いてくれませんか。
(兄弟のためにに祈っている) 教会のすべての皆さん、頭を下げて祈りましょう。この兄弟たちは祈っています。だからみんなも、彼ら の上に手を置いて祈りましょう。もう一人いました。
119
主イエスよ、今日彼は告白しました。神よ、彼を聖霊で満たしてください。主よ。彼は今、イエス・ キリストだけが彼を清くすることができることを知り、カルヴァリの丘を見ています。ただひとつの血だけ があの谷間を渡らせることができるのです。それはイエスキリストの血です。その血は谷間を流れ彼を神の 元に・・・?・・・祈りを聞き入れてくだい。父よ。イエスキリストによって。アーメン
120
みんな、祈りましょう。兄弟の上に手を置いて、心から祈りましょう。今あなたは告白します。神 は嘘をつくことができません。
わたしが受けたのもそのとおりです。わたしは出て行って言いました、「主なる神よ、わたしは本当に真剣 です。全身全霊で本当です。これは生か死かの問題です。わたしは死にたくありません。生きたいのです。 天国に行きたいのです。そしてあなたは約束されました。」わたしはそれまで聖霊降臨という言葉を聞いたことがありませんでした。しかしこう言いました、「聖書に書いてある要求によれば、まず悔い改めよとありま すから、悔い改めました。それからイエスキリストの御名によって洗礼を受けました。主よ、あなたは聖霊 をわたしに約束してくださいました。あなたは確かに約束してくださいました。」
121
それまで異言を語ることを聞いたことがありませんでしたし、わずかに聖書で読んだだけでしたし、 別によく考えたこともありませんでした。ところが、十字の形をした光が部屋に入ってきて、それがいった い何をもたらしたのかというと、異言でした。わたしは言いました、「すみませんが、あなたの声、あなたの 言葉がわかりません。英語で話してくださらないと、わたしにはあなたの言葉を聞き取ることができません。 もしもう一度戻ってきてくださって、語ってくださるなら、それが、あなたがわたしを受け入れてくださっ たしるしとなるでしょう。」するとそのとおりになりました。兄弟よ、わたしはそのとき、見て、いのちを得 ました。それ以来ずっと、神の栄光の領域においていのちを得ています。そこでは神の力が、祝福の噴水か ら自由に流れています。
122
さあ、ここにいるみなさん、立って両手をあげましょう。兄弟よ、聖霊がここにおられます。赦す ことのできるお方があなたの横におられるのです。心からそれを信じましょう。一人一人がそれを信じましょ う。さあ、神に向かって声をあげましょう。神の祝福があります。 天の父よ、主イエスの皆によって・・・?・・祈ります。あなたがこれら・・・?・・・をかなえてくだ さるよう祈ります。主よ、彼女が見ることができますよう・・・?・・・
見て、いのちを得よ、兄弟たちよ、いのちを得よ、
イエスを見ていのちを得よ
聖書に記されているとおり、
ハレルヤ
ただ見て、いのちを得よ 見て、いのちを得よ、
・・・そして病気のあなたたち、同じように見なさい。イエスを見なさい。イエスを見ていのちを得よ
そうです。青銅の蛇のように。蛇自体には力はありませんでしたが、彼らが何を見ているかが大切だった のです。神の約束が言っています、「彼らが病人の上に手を置けば、彼らは癒される。」わたしは彼の上に手 を置きますが、それは青銅の蛇のように代理です。彼らがイエスに目を注ぎますように。神の怒りを鎮める ために死なれたお方に。私たちの病が癒されるために、罪が赦されるために死なれたお方に目を注ぎますよ うに。神の力が降って、皆の病を直してください。イエスキリスト、神の子の御名によって。アーメン。
赤ちゃんですか?
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主イエスの御名によって、神の祝福がありますように。心から信じて ください。
見て、いのちを得よ、兄弟よ、いのちを
(どのようにして?)
イエスを見ていのちを得よ
聖書に記されているとおり・・・
(覚えていますか、兄弟・・・)
こんにちの教会の状態を知っているでしょう。わたしたちは諦めてしまうのが早いのです。エリヤはそこに とどまって、何かが起こるまで祈って、祈って、祈りました。そして心の中で何かがチリリと鳴ったのを感 じたとき、こう言いました、「大雨の音が聞こえる。」もしここにいる男性女性が、聖霊を求めているなら、 癒しを求めているるなら、こう言うのです、「主よ、あなたは約束されました。あなたはそれを約束されたの です。」それから何かを微かに感じたなら、「主よ、来ました。わたしは受け取ります。」と言うのです。すると何かが起こります。
見て、いのちを得よ、兄弟よ、いのちを
イエスを見ていのちを得よ・・・
両手を上げて、さあ、望んでいるものを受け取るのです。主はここに、牢獄に、あなたと共におられます。ハレルヤ!