63-0320 第3の封印

  • 伝道者:ウィリアム・ブランハム
  • ジェファーソンビル インディアナ アメリカ合衆国
  • 録音番号:63-0320
  • 年:1963
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友のみなさん、こんばんは。さあ、立ち上がって。頭を下げて少し祈りましょう。
天の父よ、今晩あの美しい賛美歌を聞いていたので、あなたが近くおられると思っていました。主よ、今晩わたしたちをあなたの子として受け入れてくださるよう祈ります。すべての罪と咎を許し、祝福で満たしてください。わたしたちには、必要が沢山あるのです。
そして、わたしたちが生きているこの大いなる時代に・・・世界は年を重ねるごとにどんどん暗くなってきています。そして主の到来は、あなたのみことばとあなたの現れが明らかになるたびに、ますます明るくなってきています。わたしたちは今夜も集会に参加するためにやって来ました。そして、この書の第3の封印を解いてわたしたちに理解できるようにしてくださるよう祈ります。わたしたちが何をし、どのように生きたらよいか、どのようにすれば良いクリスチャンになれるか、わかるためです。
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神よ、今晩ここにいる未信者が皆、あなたを必要不可欠と自覚するようになりますよう、祈ります。どうぞ聞き入れてください。そして天の父よ、生まれ変わったクリスチャンのすべてが、今までよりもっとあなたに近づかなければならないことを自覚し、クリスチャンの愛と信仰の一致の中に入ることができますように。
主よ、今晩ここにいるあらゆる病気の人が癒されるようにしてください。彼らは、あなたが必要不可欠なことを自覚しています。父よ、あなたの誉れと栄光のためになされたあらゆる事、あらゆる発言を祝福してくださるように祈ります。イエスの御名によって、アーメン。
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今晩、水曜日の夜、わたしたちはこうして再び集まって、今晩も御言葉の上にあなたの祝福が大きく注がれることを、主よ信頼しています。今日、わたしはいつものように調べたり、読んだりし、より的確なことをどのように語り伝えるかを考えていました。そしてこの書に書かれていることばの解釈と意味を、主がわたしに解き明かしてくださることを頼みとしていました。今週これまでに、これらの封印を開くにあたって、主がわたしに解釈と意味を解き明かしてくださったことを感謝しています。
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それでわたしは・・・
多分こうしたらよいと思うのですが、できたら日曜日の朝・・・わたしたちは誤解されることを願ってはいないのですが、度々誤解されます。ですから、このことに関して質問したいことがあれば、土曜日の夜までにそれを書いてデスクに渡してください。そうしたら、わたしは日曜日の朝にそれに回答したいと思います。主が望まれるのならそうしましょう。そうしたほうがいいとおもいます。というのは、時々誤解を受けるからです。そのようにして、わたしは・・・わたしが直接誤りを正していくのがいいのではないかと思います。そうすれば、事実の歪曲を正していけると思います。
このように言うのは、わたしは度々・・
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ある人が今日電話でこう言いました・・・事実を確かめたくて電話でこう言いました。携挙が起こる時、ジェファーソンビルからはたった一人、ニューヨークから一人、あとは海外の人たちだというのは本当かと。だからわたしは・・・ね、これは単なる誤解なのです。
それから誰かが、こう言いました。もし土曜日に主が最後の封印を解き明かしてくださったら、イエスは日曜日の朝にここに来られるのだと。だからそういうことは・・・つまり、・・・そうではないのです。わたしたちは知りません。もし誰かが、いつイエスが来られるか知っていると言うなら、そもそもその人が間違っていることがわかります。それは誰も知らないことだからです。でもわたしたちは、あたかも今、イエスが来られるかのように、今日を生きたいと願います。
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ちょっとの間、みなさんの度肝をぬきますから、準備してください。わたしは、今から3分以内にイエスが来られると信じますー神の時間の尺度で。それがどれだけ長い時間かわかりますか?だいたい35年です。神にとっては、千年はたった1日ですよね。昔、使徒が言いました、「時が迫っている。」ここで、「時が迫っている」と言っています。黙示録で使徒がそう言っているのです。それからどれだけの時がたったかわかりますか?神にとっては、それは昨日のことなのです。2日もたっていないのです。ですからもし3分なら、イエスが来られるまで3分もないのなら、(わたしたちにとって、それがだいたい30年かそこいらというなら、)神にとって3分がどれだけか見てみなさい。来られるために、神はすでに立ち上がっておられます!だからわたしたちは・・・
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聖書を読むと、時々神は、わたしたちの時制ではなくご自分の時制で語っておられます。もし明日の夜、神が来られるとするなら、わたしは明日も読んだり調べたりして、第四の封印のためのメッセージを神に求めることでしょう。そして相変わらずここに来て説教をすることでしょう。わかりますか? 神が来られる時にも、いつもと同じことをしていたいのです。主が来られる時に、与えられた任務についているところを見られることほどいいことはありません。与えられた任務についているところをとらえられることです。だから、主が来られるまで今のことを続けていきましょう。
時には読んでいるだけでは・・・。さて、よくよく慎重になってください。読む時は・・・。テープを入手してしっかりと聞いてください。テープを聞けばわかります。テープを再生すれば、ことは簡単明瞭です。そうすれば、はっきりわかります。
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さて、みなさんキリストを愛していますね。今夜ここにいる人たちが皆、キリストを愛していることを望みます。言っておきますが、・・・人々の思い違いを招くのは、こんな場合もあります。誰かが、途中から入って来て、最初の方の話を聞いていなかった場合です。入って来て、何かを引き合いに出して話しているのを聞きます。その人は聞いたことを受け止めますが、話のはじめの部分を聞いていないのです。だから、混乱します。それで、本当はそうでない、間違ったことを考えてしまいます。
ですから、もしわからないことがあったら、質問を紙に書いて、今から土曜夜の間に提出してください。わたしは日曜日の朝に・・・もしちょっとした謎だったら、「これはなんという意味かちょっとわからないのです。」というふうに書いてください。わたしの言いたいことがわかるでしょう。そうしたら、日曜日の朝に答えるようにします。主のご意志によって
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さて、今晩も再びこの祝福された、いにしえのみことばを読みます。6章です、そして今晩、第三の封印を始めます。そしてそれは5節と6節です。そして明日の夜、4人の騎士の話を終わりにします。白い馬、赤い馬、黒い馬、青白い馬です。そしてこれは言っておきますが、その度に、今朝も同様・・・
わたしは、人々が活動を始める前に、朝早く起きて、ずっと一日中祈り続けます。
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しかし今日の明け方早くに、聖霊がわたしのところにやってきてくださいました。そしていとも簡単明瞭に、この封印が開かれました。まさにそのとおりです。聖霊がわたしの語ることを聞いておられるのがわかっているので、感謝しています。さて、何かが起こっているということを、皆さん覚えていてください。皆さんも気づいて欲しいです。わかりますか? 何かが起こっているのです。ことが実際に起きる前に、誰か何かを捉えることができるかどうか、わたしは一度この教会を試したいのです。さて、覚えておいてください。わたしが言ったことを覚えていてください。主がわたしたちを助けてくださいますように。
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さて、5節からです、
また、第三の封印を解いた時、第三の生き物が「きたれ」と言うのを、わたしは聞いた。そこで見ていると、見よ、黒い馬が出てきた。そして、それに乗っている者は、はかりを手に持っていた。
すると、わたしは四つの生き物の間から出て来ると思われる声が、こう言うのを聞いた、「小麦一ますは一デナリ。大麦三ますも一デナリ。オリブ油とぶどう酒を、そこなうな」。
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さて、これまでの封印の背景的事情をちょっとみてみましょう。教会時代の時と同様、それらの事情を重ね合わせて見るために、おさらいをしてみたいと思います。そのようにして実際、聖書の中で時代背景が重なり合っているのです。まるでハシゴを、いえ、階段を登るようなものです。階段を登るために、ひとつがもう一方の方へ駆け下り、そしてこんなふうに戻って来るのです。
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さて、この封印された・・・。それは封印された贖いの書です。みんな理解していますか?この書は、七つの封印によって封をされているのです。七つの封印の書です。さて、エレミヤ書などから引用して描写して見せたので、覚えているでしょう。彼らはこのように、一枚の紙の上に、いえ、紙ではなくて、一枚の皮の上に書き、それをこのように巻きました。そして、一枚の最後の部分はこのようにしておきました。それがそこに何があるかを表示していたのです。それから次の一枚は同じような位置を取り、同じように巻きました。こんなふうに巻いたのです。そしてここの最後の部分は、こんなふうにして断裁しました。そしてもう一枚を残しました。それが七つの封印の書です。
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さて、最近までこのような製本はありませんでした。昔の書は巻物でした。書といえば巻物だったのです。それで、課題のものか何かを読みたいとき・・・。それが聖書であるなら、例えばイザヤ書を読みたいときは、ここをイザヤ書のところまで巻き返して、そしてこのように巻いて読みます。これが贖いの七つの封印の書です。
ところで、子羊が出てきたのを見ましたね。子羊はみ座に座っておられる方の手からその書を受け取って、封を破りました。そして人々に封印を解き放ちました。そこにいた四つの生き物と教会時代で取り上げた四つの生き物は同一で、(聖書一貫して四つの生き物といえば同一です。)彼らは、封印が解かれる時に宣言する役割がありました。さて、・・・わたしたちはそれが贖いの書であることを知っています。
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それからわたしたちは戻って贖いの近親者を取り上げ、彼がどのような働きをするのかを調べました。そして今に至るまでずっと、キリストがこの贖いの近親者の役割を続けています。それを理解している人は「アーメン」と言いましょう。(編:会衆が「アーメン」と答える)キリストは贖いの近親者の役割をしていますが、贖いの働きを終える時がきます。贖いの働きが終わると、キリストは座していた神のみ座を離れます。それは彼のみ座ではなかったのです。「勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座に着かせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である。」それは彼の座ではなく、霊なる神の御座でした。子羊キリストは、その座に属していません。彼は肉体を持った神であり、同時にそれは同じ神が具現化した姿です。
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さて、彼はみ座から立ち上がります。「その巻物を開き、封印をとくのにふさわしい者は、だれか」と呼ばわる初めの声がありました。アダムから始まりアダムが失ったものすべてを贖う全体計画のために・・・。アダムが登場するまで失われたものは何もありませんでした。しかしアダムの後には地上のものすべててが失われました。すべてのものがアダムとともに堕落したのです。誰もこの深い亀裂を越えて元に戻ることはできませんでした。全く不可能でした。人は罪を犯して道を外れました。自分自身に戻る道を失いました。
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この質問の声がした時、黙示録のヨハネは(預言者ヨハネは)幻の中にあり、その場を見ました。天にも地にも、地下にも、誰もふさわしい者はおらず、その書を見るにふさわしい者さえいませんでした。考えても見てください。すると子羊が現われ出て、その書を受け取りました。ヨハネは、もう泣くなと言われました。「見よ、ユダ族の獅子、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる。」それでヨハネが獅子を見ようと振り向くと、そこには子羊がいました。長老は「獅子が勝利を得た」と言ったのに、来て見ると、それは御座から現れた子羊でした。
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さて、彼はそれまで全然気づきませんでした。なぜなら、子羊はずっとそこでとりなしの働きをしていたからです。子羊の書に、天地創造の前から名前が記されている最後の一人の魂が救われるまで、彼は人々のために血を流し、とりなしをしていました。多くの人たちがそこに入り、それでおしまいです。それまで。他の人たちは中に入りたいとも思わないのです。彼らには入りたいという欲求が欠けています。
それで最後の一人の魂が入ったら、贖いの時は終了します。すると子羊は、ご自分が購ったものすべての権利を要求するために現れます。これが創造のすべてです。地とすべてのものはキリストのものです。わかりますか? 彼はご自分の血でそれを贖われたのです。彼がこの書を開くために来られると、おやまあ、・・・ヨハネはもう泣きませんでした。彼が見ると、この子羊は殺害された子羊でした。それは・・・殺されたが、生きかえった子羊でした。
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さて、殺された子羊は、血だらけの子羊だったことがわかりました。体のあちこちから血を流していたのです。それは殺され、その後生きかえって御座に着かれました。ずっと御座の後ろで、救いに入るべき魂、もれなくすべてのために仲介をしていたのです。最後の一人の魂がここに入ったなら、それで完了です。神は贖いの書をずっと持っておられます。今も近親者の役目を果たしておられます。ボアズが町に出かけて行って、ルツが座って待っていたように・・・つまり、ボアズは近親者の役目を果たしたのです。
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そのことを以前、わたしが説教したのを覚えていますか? ルツは落穂拾いをしました。そしてルツは、・・・何であれ働いた後、ルツの最後の勤めは、ボアズが町に出かけて行って近親者として救済措置をする間、待っていることでした。(ルツは教会の型であるとわたしが言ったのを覚えていますか?)ボアズは成し遂げました。彼はサンダルを蹴って証人となり、ナオミを救済し、そしてルツを得ました。
それで、すでに仕事は終えたルツは、ただ待っていました。彼女は、何であれ働きましたが、今や待っていました。教会は、キリストが近親者の贖いの勤めを果たしてくださっている間、多くの者たちは(そのうちのほとんどは、地下で休んでいます)待って休んでいます。
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さて、世界は相変わらず、どんどん悪くなっています。罪は増し、病気や悩みや死や悲しみは増しています。神を知らない男や女たちが死んで滅んでいきます。癌などが彼らを食いつくても、手をのばしてすがることができるほどの信仰を、彼らは持つことができないのです。
さて、気づいてください。すべてが終了した後、キリストのとりなしの役目が終わった後、彼はやって来て、神の御手からその書を受け取りました。すると、ヨハネや天のあらゆるものたち、祭壇の下の魂たちが叫び始めました。第六の封印の時にそのことを話します。彼らがどれほど喜んだことでしょう。(長老たちは)ひれ伏し、聖人たちの祈りを注ぎ出しました。祭壇の下の魂は叫びました、「あなたこそは、ふさわしいお方です。わたしたちを贖い、わたしたちの神のために、わたしたちを王や祭司として地上に戻してくださいます。」ああ、おびただしい数が居るのです・・・。
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また、ヨハネは、天のすべてのもの、地のすべてのもの、ありとあらゆるものがそのことで神をたたえた言っています。ヨハネは自分の名前が書いてあるのを見つけたに違いありません。その時のすべてが・・・
それから彼は、「子羊は贖いの書を受け取るのにふさわしい。」と言っています。今やその書は裁き手の元にあるのではなく、贖い主のものとなったのです。彼は贖いの勤めを果たされましたから。
さて、彼はご自分がなされることを教会に示されます。それから彼は・・・。でも、その書は封じられていました。誰にも、何が書いてあるのかわかりませんでした。それが贖いの書であることだけはわかっていました。しかし終わりの時に、書いてあることが明らかにされるのです。黙示録10章によれば、第七の御使いがそのメッセージを受けることになっています。第七の教会時代が音を発するとき・・・。第七の御使いが音を発するとき、その時までに、神のすべての奥義が成就されるからです。そして奥義が明らかにされた後、御使いが、それはキリストのことですが、天から地上に降りてこられます。メッセンジャーとしてです。
キリストは下りて来られ、黙示録10章に書いてあるとおりに、片方の足を地に、もう一方の足を海に置き、頭に虹をいただき、目と足は火のようでした。彼は右手を上げて永遠に生きておられ御座におられるお方によって誓いました。「もう時がない。」と
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彼が誓いを立てたとき、7つの雷が各々その声を発しました。それで筆記しようと・・・ヨハネがペンを取ったとき、というのは、彼は見たことを書かなければなりませんでしたから、彼は書きとめようとしました。すると、天から「書き留めるな。なぜなら・・・。書き留めてはいけない。それは・・封印しなさい」と言われました。何があったのでしょう? 「封印しなさい。書き留めてはいけない。」わかりますね? それは封印されています。でも言葉として書かれてはいないのです。
それから、子羊が封印を解き始めたとき、彼らが皆困惑したのを見ました。子羊が第一の封印を解いたとき、ヨハネは思ったことでしょう、「さあ、彼がこう言うだろう『誰々が王座を受けて、これこれのことをして、こうなって』というふうに」しかし、実際には、騎手を乗せた白い馬が飛び出してきたのでした。なんと、「彼は、弓を手に持っており、また冠を与えられて、勝利の上にもなお勝利を得ようとして出かけた。」それだけのこと。
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それから子羊は振り向いてもう一つの封印を開きました。すると赤い馬の乗っている者が出て行きました。それに乗っているものは、人々が互いに殺し合うようになるために、地上から平和を奪い取ることを許され、また、大きなつるぎを与えられました。これではなんというか、・・・まだまだ謎めいていて、封印が解かれてもなんのことかわかりませんよね。それから続きます。ところが、終わりの日に、7つの雷が声を発する前に、すべての奥義が解き明かされると言っています。
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さて、そこでです。ずっと調べたり読んだりしてわかったことなのですが、これまでの時代を通して改革者が現れました。預言者ではなくて、改革者です。それぞれの担当者が、各自与えられた働きをしました。例えば、電話のオペレーターのようなものです。彼は電話に関して少しはわかるかもしれませんが、電気技師ではありません。あるいは、電線を引く人のようなものです。もし彼が電信柱の穴を掘る人であって、電線工事にたずさわる人でないなら、電線には手を触れないほうがいいでしょう。それでも彼は、急場をしのぐ働きはできるかもしれません。
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しかし、聖書によれば、終わりの日の教会の最後の部分で、神がわたしたちに真実を明らかにしてくださるとあります。そこでわたしたちが調べに調べた結果、神がエリヤの霊をある人物のうちに置いてくださると書いてあるのを見つけました。
さて、そのことは単純明快にされていると思います・・わたしたちは、そうなることを待ち望んでいます。終わりの日に、どこかで、油注がれた人物が現れます。今、多くの狂信的なことを聞きますが、それは単に・・・。それは悪魔が、本物から注意をそらすためにしていることです。しかし、それは適切に見分けられることでしょう。エリヤがどんな人物だったか知っていますね。それを観察すれば、識別できるでしょう。選ばれた人なら、わかります。他の人にはわかりません。彼らにはできません。彼らは100万キロもピントを外すことでしょう。
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わたしたちはそのことを調べてきて、彼らがどのようにして、ヨハネを、エリアを、イエスを識別しそこなったかを教えました。彼らはずっと判断を誤ってきたのです。そしてこれからも同様の間違いをするでしょう。聖書がそう語っているからです。その時には、素朴で見劣りする人物が現れるでしょう。彼がそんなふうなので、人々は彼を見損なうのです。彼は人々の関心を買うには素朴すぎるのです。人々が求めているのは、賢くて、教養があって、あらゆることを知っている人物です。でも、そういう人物こそ、見当違いなのです。
イエスはそのような人を、決して彼の弟子にしませんでした。彼が採用したのは漁師など無学な人々です。教会などに関わりを持つ人はいませんでした。イエスは、取税人、農夫、漁師など普通の人を神の働きのために選びました。彼らが知識を持っていなかったからです。彼らが無知だったからこそ、イエスは彼らを用いることができました。彼らが自分たちが無知であることを知っている限り、神は彼らを用いることができるのです。もし彼らが自分たちには知識があると考え始めるなら、知るべきことを何も知らないことがわかっていないのです。そう聖書が語っています。それが分かっています
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さてそこで、これらの奥義が解き明かされることになっていることを、わたしたちは知りました。それでは、ウェスレーやルターなどの偉大な改革者たち、神の義、聖別、聖霊によるバプテスマでペンテコステ時代を引き起こしたりした人たちは、どうしてこれらのメッセージをとらえることができなかったのでしょう? なぜ彼らにはわからなかったのでしょう? それは彼らが改革者だからです。
ちょうど、別の面をとるようなものです。王のような権力を持ちながら、本当の王ではないというような、そういう人々がはいってきて・・・。聖書で用いられる言葉づかいなどには、注意を払わなければいけません。さて、しかし、神の義についての不可解な部分や、聖別の不可解な部分や、聖霊のバプテスマの不可解な部分、それらが尻切れとんぼになっている理由・・・。エバが食べたのはリンゴだったのか、ざくろだったのか、別の物だったのか、わかりますか?
サーパントの種とは? 父と子と聖霊の名による洗礼と、主イエスの名による洗礼とどちらが正しいのか? ああ、何百という事項が未解決のまま残されています。わかりますか?
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でも最後の時刻に、この者はやって来て、聖書を用いてそれらの事を明らかにします。その者は、きちんと識別されることでしょう。そうです。さて、今はそれは大したことではないでしょうが、聖書によれば、それがとても重要なことになるようです。
ヨハネが現れて洗礼を施すことになっていたとき、それはどれほど重大なことだったでしょう。考えてもみてください。イザヤ、マラキなど歴々の預言者たちが、彼が来ることを預言したのです。実際に彼が登場すると、それは孤立し年とった、無学のやからで、顔中ヒゲだらけでした。髪の毛はもじゃもじゃと毛羽立ち、古びた羊の一枚はぎを体に巻きつけていました。学問はまったくありませんでした。わたしたちが知る限り、彼は一度も学校に行ったことはありませんでした。そんな彼が荒野から現れました。教壇から歓迎されることもなく、ヨルダン川に立って、人々に悔い改めを呼びかけ始めました。想像できますか?
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聖書はこう言っています、「その日には、すべてのことが素晴らしくなるでしょう。高いところが低くされ、低いところが高くされます。」そうです。「すべての荒々しいところが平にされます。」だから、ヨハネが、いえ、キリストの偉大な先駆者が現れたら、砂漠をすべて滑らかにして草原に変えるだろうと、人々は考えていたことでしょう。
現代と同様、当時の人々も、彼の人物像を勝手に決め込んでいたことでしょう。でも実際は、彼はとても目立たなかったので、弟子さえも、判断を誤りました。彼らは言いました、「でも聖書はどうして・・・? あなたは捧げられるために上って行こうとしてますが、聖書はどうして、まずエリヤが現れなければならないと言っているのですか?」
イエスは答えました。「彼はすでに現れたが、あなたたちはそれを知らなかったのだ。人の子についても、人々は同様に扱うであろう。」彼は言いました、「ヨハネは、彼について記されているとおりのことをしたのだ。そして彼らはなるべくして彼を勝手にあしらったのだ。」「人の子も同じように・・・苦しみを受ける。」
でも、ユダヤ民族全体の3分の1も、イエスが地上にいたことさえ知らなかったと思います。どこかで何か狂信的なことが起こったことを聞いたことはあるでしょう、でも、それに注意を払うことなく、自分のしたいことをしていました。「彼はご自分の民のところに来たが、彼の民は彼を受け入れなかった。」
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さて、そういうわけでわたしは信じているのですが・・・。さて、聖書はイエスがこっそりやってくるとは言っていませんが、携挙は秘密裏に行われます!だから、彼が来る時が秘密にされているのなら、ましてや、携挙はどれほど不明なことでしょう!彼らにはわかりません。彼らはこう言うでしょう、「わたしたちは携挙されるはずだったのに、地上にあるのは裁きではないか!」
イエスは言いました、「それはすでに起こったのだ。それをあなたたちは知らなかったのだ。」
そのようになるでしょう・・・夜中に押し入る泥棒のようなものです。わたしが読んだ本のようです。なんでしたっけ?ロミオとジュリエット、そうでしたっけ? 昔の話ですけど、夜中に彼は家の壁に梯子をかけて、彼女をさらっていきました。
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さて、そのように携挙は行われ、終わります。シャベルを持った天使の軍団が送り込まれて、墓を掘るのではないのです。「わたしたちは、まばたきをする間もなく一瞬のうちに変えられる。」と、聖書は言っています。ほんの一瞬のうちにです。そのように素早くすべてのことが行われるのです。
ただ、誰かがいなくなったと言うだけです。わたしが想像するに、今日の世界を見渡すなら、毎日500人が行方不明になっているでしょう。誰も何も知らないのです。ただ、行方不明になっているのです。でも、携挙の時は、あまり多くの人が連れて行かれるのではないでしょう。
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怖がらたいわけではないのですが、携挙はそんなものではないと思います。わたしはただ、神に言われた通りを知らせたいのです。あなたたちもわかっていますね。「ノアの時代に起こったのと同じように・・・その時は8人だけが水の害から救われました。」水の害から救われたのは、世界中でたった8人です。
「ああ、それならわたしが努力しても仕方ないか」と言う人がいるかもしれません。そう言うのは、その人が必要な信仰を持ち合わせていないからです。もし携挙されるのが一人だとしたら、それはわたしです。わたしは神を信じていますから。そのように信じるべきです。「その一人はわたしになります。」そうです。わたしは神に近く生きていたい。キリストが来られるとき、わたしを連れていってくださることを知っています。そう信じています。誰もかれもがおいていかれても、わたしは神の恵みによって連れていってもらえます。そう約束してくださったからです。わたしは必ずそうなることを知っています。神は嘘がつけないからです。わたしの魂と生活が保証しますが、わたしは毎日を、キリストが来られる日のように過ごしています。だから、わたしは連れていかれます。このようにあなたたちも感じてほしいのです。もし8人だけなら、わたしはその8人の一人になります。もし500人なら、わたしはその500人の一人になります。他の人のことはわかりませんが、その500人のうちの一人になります。
そのように覚えていてほしいのです。そのように思わないのなら、あなたの信仰は間違っています。あなたはまだ救われているかも定かでないのです。ただ救われているのではないかと推測しているだけです。それはやめてください。
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よろしい。この封印のところまでなかなか話が進みませんね。わたしは毎晩・・・わたしが時間を使うので、皆さんが困っているのではないかと思います。ちょっと早めに切り上げることができるかもしれません。話すことが多くて・・・。
封印の解き明かしですが、覚えていてください、それは1節だけなのです。まず宣言があって、次の節で・・・。それについての解説を読んで、ほとんどの解説の中の彼らの考えも読みました・・・。わたしも、他の人たちと同様、初めの馬に乗っていた者とは初代教会のことだとずっと信じていました。でも、聖霊が解き明かしてくださったので、本当は全く逆のことだったのだと知りました。そうなると、全容が見えてきました。それでわたしは・・・
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さて、これはわたしにとっては、とても恐ろしいことです。それでわたしはそれらの質問に答えて、誰もが正しく理解するようにしたいのです。テープを聞く人にも、理解してもらいたいのです。今しばらくは予備知識を話そうと思います。人々が急いで押し入ってきて・・・そんなことはすべきではないのです。でもそうするのは、それが人間というものであり、ここは暑いし、皆が疲れているからです。でもみなさんは、とてもとても素晴らしい。この集会ほど素晴らしく振る舞う人たちを見たことがありません。静かに座って聞いてくれるし、赤ちゃんが泣けばお母さんが授乳室に連れて行くし、とても素晴らしいです。
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でも、わたしが背景を話しているのは、霊の油注ぎが下っているのを感じて、わたしに明かされている言葉を語るよう促される時を待っているからです。それからもしわたしがどこか・・・話しているうちにもしわたしが間違ったことをしてしまったら、必ず、人々の前で、聖霊がわたしを正してくださるでしょう。わたしは正確でありたい。今は正しいことが明らかになっているのですから、想像上のことを聞く必要はありません。わたしたちは真実を知りたいのです。わたしたちには神からの正しい知識が必要なのです。
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さてそれで、騎士たちの登場を言及しました、まず第一者については、それが反キリストであることがわかりました。そして昨夜は、白い馬に乗って反キリストとして登場したのと同一人物が、剣を持って人を殺すために登場したことを知りました。
さて、物事には常に自然の面と霊的な面があります。教会のために、今回の封印を解く前に、わたしは型を示したいと思います。この封印は、主から示されて今ここに書き留めてあります。いくつかの聖句を引用し、7〜8ページあります。注意してください。わたしは教会の型を、明白なかたちで示しますので、あなたたちは必ずそれがわかるようになります。
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さて、エデンの園には、自然体の花嫁がいました。(昨夜、自然体の花嫁について話したことを覚えていますか?)彼女はアダムの最愛の人でしたが、まだ彼の妻ではありませんでした。彼がまだ、妻として彼女を知らなかったからです。それは、マリアがヨゼフの妻であったが、彼がまだ彼女を知らなかったのと同じです。でも彼女は身ごもっていました。わかりますか? さて、アダムが彼女の妻を知る前は、彼女は彼にとって花嫁でした。そうです。そして神は・・・。彼女は、エデンの園で堕落しました。神のことばを守らなかったからです。
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神は、サタンが彼らに近づくことをご存知でしたので、彼らに逃れ場を与えて、彼らを防御しました。神がご自分の子どもを守ろうとされるなら、神のもとにいることより安全な逃れ場が他にあるでしょうか? もしわたしが幼いヨゼフを守ろうとするなら、何をしてでも・・・そして彼の命がかかっているとするなら、もしできるなら、・・・もし40フィートのコンクリートで強化することが必要なら、わたしは90フィートのコンクリートで固めて、安全を確保することでしょう。
そしてもし、わたしの幼い子の死すべき命が失われているとしたら、わたしはその子が救われることを信じるでしょう。わたしでさえそうだとしたら、神は、永遠に失われているご自分の子に対してどれほどのことを思われるでしょう? その子を何で守られるのでしょう? 神は、ご自分のことばでその子の命を守られます。そのことばを守っている限り、安全です。「もしあなたがわたしのうちにおり、わたしのことばがあなたのうちにあるなら、なんでも願いなさい・・・」そのとおりです。それが約束のことばです。
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エバが園を歩いていたとき、サーパントに出くわしました。(とても洗練されたスマートな感じでした。)そして彼女は・・・彼は別の世界に属していました。神は、謙虚さの中に生き、住み、働いておられ、決して別の面をお持ちではありません。さて、この謙虚な女性が歩いていたところ、賢くて巧妙で洗練された感じのサタンが現れました。彼は彼女に自分の計画を売りつけようとしたのです。いくらサタンがうろうろしていても、この御言葉を守っている限りは、彼女は安全でした。ビクともしないのです。もしサタンが、「あなたは病気じゃないか。」と言うなら、
こう言い返すことができます、「キリストが打たれた傷によって、わたしは癒されました。」
「あなたはもうじき死ぬよ。」 
『神はわたしをよみがえらせてくださいます。」
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わかりますか? みことばを守り、みことばを盾にしていればいいのです。キリストもご自身のことばで防戦しました。「聖書にはこう書いてある・・・」だから、みことばを守りなさい。でもエバは、油断してしまったのです。彼女はすべての防備を解いてしまったわけではなく、みことばのたった一言を緩めてしまったのです。それがサタンの狙い通りのことでした。彼は理性を用いて神の約束の背後に入り込み、彼女をとらえてしまいました。だから決して、神のことばに理由付けをしてはいけません。だたありのままに信じなさい!そういうわけで、彼女は安全な場所から離れてしまい、アダムが彼女を妻として知る前に、サタンによって汚されてしまいました。そして彼女は・・・
それで気づきましたか? キリストもまったく同じことをされたのです。贖いのためには、神の方が早く到達する必要があったのです。なんのことかわかりますか? ヨゼフがマリアを知るより早く、聖霊が彼女に到達している必要があったのです。アーメン。わかりますか? そのようにして贖い主はやって来たのです。
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さて、気づいてください。自然体の女は堕落しましたが、神は彼女が贖われるための道を用意されました。彼女は堕落しましたが、神は道を用意されたのです。これが地上の最初の花嫁の姿でした。彼女は夫と結婚する前に堕落していました。彼女は自分で判断し理由付けすることによって落ちたのです。彼女はみことばを守るかわりに、堕落しました。彼女が招いたのは、神から永遠に切り離されるという、死です。そして彼女は夫と地上のあらゆるものを巻き込みました。彼女は堕落したのです。
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さて、神はしかし、憐れみ深いお方なので、女のために贖いの道を用意され、彼女にこう約束されました。いつの日か、まことのみことばが彼女を訪れる。まことのみことばが、彼女に知らされることになると。さて、覚えておいてください。神は女を介してキリストを送ることを約束されました。そしてキリストはみことばです。
ヨハネ1章、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。・・・」そして神は肉体となり、わたしたちのうちに宿られたのです。キリストは御言葉なのです。言葉になる前は、思いでした。思いは創造されなければなりませんでした。そうです。それで神の思いは、ことばして発せられたときに、創造物となりました。神があなたに思いとして与えられたこと、それは神の思いですが、それがあなたに与えられたなら、それはあなたが言葉にして発するまでは思いのままでとどまります。
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そういうわけで、・・・。モーゼが(火の柱に囲まれて)出て行って祈ったとき、神はこう語られました、「行って杖を東の方に向けて『ハエが発生する』と言いなさい。」それまでハエは存在しませんでしたが、彼は出かけて行って杖を上げ、「ハエよ、出てこい」と言いました。依然としてハエはいませんでした。彼は戻って行きました。しかし神の思いである御言葉は、すでに発せられていました。それは神の御言葉ですから、必ず成就します。
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さて、イエスが「もしあなたがこの山に向かって・・・・」と言われたのを思い出しませんか? イエスは、「もしわたしが言うなら」ではなく、「もしあなたがこの山に向かって、動けと言うなら、」と言われたのです。
何はさておき、モーゼの話ですが、緑色の大型バエがブンブンいいだし、しばらくすると1平米に2キロくらいのハエがうじゃうじゃ発生したのではないかと思います。いったいどこから発生したのでしょう? 神が創造されたのです! わかりませんか?
神は、お望みなら、今夜ブヨを発生させて世界を破壊することもできるのです。なぜなら、ブヨを月に届くくらい積み上げることができるからです。そうするためには、ただ、「ブヨが月に届くくらい発生せよ。」と言われるだけでいいのです。それだけで、すべてのことは起こります。化学もなにも必要ありません。ブヨはただ増殖して増殖して増殖していくのです。
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神は好きなことをなんでもすることができるのです。神であり、創造主ですから。ただ、ことばにするだけでいいのです。そうです。創造主なのですから。もしわたしたちが、神の偉大さに気づくことができさえすれば・・・。神はお望みのことを行われます。神は天に座って、人々を見ておられます。教育を受けた賢い人たちが、「神などいない」と言っているのをご覧になっています。なんと、バベルの塔のときと同じではないでしょうか。
さて、神がエバに、しばらく時がたったら、「御言葉があなたに戻ってくる。」と言われたことに気づいてください。さて、エバは何につまづきましたか? クラスの皆さん、答えてください。彼女は何につまづきましたか? 御言葉です。そうですね? 御言葉だったのです。そして神は、彼女が御言葉に戻れるよう救いの道を開くと言われたのです。しばらく時がたった後で、御言葉は、彼女に知られるようになるのです。そうです。御言葉は一つの目的の為のみに来られるのです。。
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さて、わたしが語っていることをしっかり受け止めてください。御言葉は、一つの目的のために彼女のもとに来られます。それは贖いのためです。そうです。でもそれまでの間、つまり、原点であるみことばが現れるまでの間、彼女には代用が与えられました。さて、はっきりとわかりましたか?
神は彼女に、みことばがもう一度訪れると言われました。でもその時まで、その血のための代用を神は与えられたのです。あくまでも、本物が現れるまでの間です。それで、神は彼女に本物の血の代用として、捧げものを用意されました。捧げものは牛や羊やヤギなどの血でした。それは彼女の罪を覆い隠すためで、彼女から罪を取り去ることはできませんでした。それは、あくまでも罪を覆い隠すためのものでした。それは動物の血であり、動物の血は、動物の命でしかありませんでした。それは単に、本物の、(さあ、襟を正して聞いて!)本物の人の血が、神が人となってその血が流されるまでの代用でした。性交なしに、処女が産んだ子がそれを成し遂げるのです。
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さて、約束された神のことばが本物の血となったのです。そして約束のことばが人としてのイエス・キリストの肉体に生まれ変わられたのです。牛やヤギなどの血ではなく・・・。でもちょっと待って。それが来る時、彼女の子孫がサーパントの頭を砕くと、神は約束されました。もし彼女の子孫が来るなら、アダムの直系か、サーパントの直系か何かであって、罪深い子孫には変わりありません。
だからヨハネが泣いたのです。誰もふさわしい人がいなかったからです。みな、深い亀裂の向こう側の溝にいました。でも、動物の血の代用が必要でなくなる時が訪れます。その時には、本物の人の血が、神が血と肉を持って現れてくださるのです。聖書は神がそうであったと言っています。1テモテ3:16です。「・・・確かに偉大なのは、この信心の奥義である。『キリストは肉において現れ、霊において義とせられ、・・・』とあります。そうです。処女が産んだ子がそれを成し遂げたのです。
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さて、羊や山羊の血は、動物の血なので、罪を覆い隠せはしても、罪を取り除くことはできませんでした。でも、それで良かったのです。それは代用でしたから。人々は代用に慣れ親しみました。そして代用を続けました。それから本物の約束のことばが、イエス・キリストとして現れました。彼は偉大なる創造主なる神の子であることを証しし、また、神の生きたことばであることを、ご自身によって裏付けされました。ご自分でご自分を証しされたのです。ことばによって、存在しないものを存在させることができましたから。
人間にも、地上のいかなるものにもそのようなことはできません。神以外のいかなるものにも、創造のみ業はできません。悪魔には、創造はできません。彼は、創造されたものを悪用することには長けていても、創造することはできないのです。罪は義の歪曲にすぎません。わたしの言っていることがわかりますか? 嘘とはなんですか? それは真理の曲解です。姦淫とは? 正しい法的行為の逸脱です。罪のうちにあるすべては・・・。罪は単に真理の歪曲なのです。
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さて、彼には創造することができませんでした。しかしキリストが現れて、彼が創造主であることが証明されました。ずっと約束されてきた本物の血だったのです。そのことを聖書で確かめたかったら、ちょっと調べましょう。今夜はこのことに時間を割きます。心配なのは、みなが早くうちに帰りたがっているのではないかということです。さて、使徒2章(ありがとう。)・・・使徒2章を開き、これが正しいかどうかを調べましょう。キリストが神であることが証明されたかどうかということです。使徒2章22節です。ペンテコステの日にペトロが語っています。
イスラエルの人たちよ、今わたしの語ることを聞きなさい。あなたがたがよく知っているとおり、ナザレ人イエスは、神が彼をとおして、あなたがたの中で行われた数々の力あるわざと奇跡としるしとにより、神からつかわされたものであることを、あなたがたに示されたかたであった。
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「神からつかわされたものであることを、あなたがたに示されたかたであった。」彼が行った力あるわざにより、彼がそうであることを証明されたのです。ここではペトロがサンへドリンの前に立って語っているのです。ニコデモも同じことを知っていました。彼は言いました、「ラビ、あなたが神からつかわされた教師であることを、わたしたちは知っています。」彼らは知っていたのです。でも、なぜでしょう?
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さて、注目してください。エバはこの約束を受けていたのです。でもあの花嫁が降りてきて、拒絶して・・・。本物のみことばが彼女のところにやってきたとき・・・。女は認知することを拒んだのです。それがイスラエルの花嫁でした。彼女は神の花嫁でした。それで神は彼女に離縁状を渡しました。そうですね? 彼女は神の花嫁だったのです。
「でも彼らはまだ結婚していなかったじゃないか。」そうです。でもヨセフは結婚する前に彼女を去らせようとしました。婚約の段階で。
そして神が、神の約束のみことばが、結婚のために来られると、なんと彼女は代用品にすっかり覆われており、本物の約束であるみことば、つまりキリストを受け入れる気はありませんでした。
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たぶん、意味がのみこめていないのですね。もう一度説明します。はっきり理解してもらいたいのです。彼女は約束を受けていた花嫁であるエバは、贖う者が来られること。贖う者は御言葉なのです。御言葉が人となって来られたとき、彼女は拒絶しました。贖い主が来るまで、彼女には代用が与えられ、それを継続してきました。でも贖い主が来たとき、彼女は代用を継続することを望み、本物のみことばを拒絶しました。それがイスラエルの花嫁でした。同様に、すべての霊的生きものの母であり、第2のエバである花嫁も、彼に同じ仕打ちをしました。エバとは、「すべてのものの母」であるという意味です。
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彼はイスラエルの花嫁のところにやって来ましたs。彼女は生けるものすべての母でした。彼女は、しかし、拒絶しました。
自然体のエバは、エデンの園で、神のことばを侮るサタンの論理に耳を貸してしまい、堕落しました。彼女が堕落したのはそのような理由です。そうです。彼女はそうしてしまったために堕落しました。霊的エバは、(それは教会を指し、キリストの花嫁のことですが、)エデンではなく、ローマで堕落しました。わかりますか? ニケア会議によって堕落したのです。ペンテコステによって誕生した教会がニケアに行き、御言葉を守る代わりにローマの論理を聞き入れたので、堕落したのです。彼女を取り巻くすべてのものが、彼女とともに命を亡くしてしまったのでした。
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さて、自然体のエバが堕落したように、霊的エバも堕落しました。神の花嫁が園で堕落したように、キリストの花嫁はローマで堕落しました。気がついてください。神のことばに反する理性を用いることによって、彼女も徳の力を持つ権利をサタンに奪われてしまったのです。これから封印を解き明かしながらそのことを確かめていきますが、それはサタンでした。そして今でもそこにサタンが働いています。それはまさにサタンの王座であると聖書は言っています。
エデンの園でイブが、徳の力を持つ権利を失い、その権利をサタンに与えてしまったように、キリストの花嫁である教会も、ローマで同じことをしてしまいました。教会は、聖書の代わりにドグマや知性を取り入れたのです。
どの様にその型ができていることがわかりませんか? 型どおりにことが進んで、うまく収まるようになっているのです。もし私の手が・・・。もしわたしが、一度も自分の姿を見たことがないとして、自分の影だけを見てきたとしたら、影が自分の姿だと思うことでしょう。わかりますか? しかし、これから何が起こるかを知りたいのなら、過去の出来事を調べてみるのです。「昔あったすべてのことは、これから起こることの影である。」と聖書が語っているからです。そうです。
それで彼女は、聖書を売りわたして、教会にはみことばを変える権利があると言い張る人を代わりに置き、神のことばである力の御言葉を失ったのです。そして彼らはそれを実行しました。ペンテコステのときに生まれたキリストの花嫁は、ニケア会議に貞操を売ってしまいました。それは、エデンの園でエバがサタンに貞操を売ったのと同じです。まさしくその通りなのです。
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神はこのペンテコステの教会に、彼女がエバと同様堕落することを知っていながら、約束されたのです。神はペンテコステの教会に約束されたのです・・・。彼女が生得権を・・・そこを離れることで徳の力を・・・売ってしまったことを信じますか? そのことを信じますか? 確かに、彼女はそうしたのです。ですから聖書に基づかない信条を守っても、なんの意味がありますか?
使徒信条とかいうものが、聖書のどこに記されているのか、誰か見つけてみてください。それは使徒の教えではなく、カトリックが作った教えです。使徒2:38を読んでください。それが使徒の教えです。使徒たちはその教えを用いて活動していたのです。
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それで彼らは生得権を売ってしまったのです。カトリックだけでなく、メソジストもバプテストも、長老派もペンテコステ派もその他の宗派も
同じことをしました。宗派を組織立ててしまったのです。ローマがそれをさせたのです。教会は宗派を作り上げ、人をかしらに立てました。そしてメソジストも、バプテストも、ペンテコステも、その他のものも、同じことをしました。リーダーたちを選び、かしらに立てたのです。
神がなんと言おうと、彼らは自分たちの道を押し通すのです。いったい、どういうことでしょう? 霊的姦淫に他なりません。悪い女です。そうです。人が作った偽物の教えです。それで彼女は、(さて、それを証明しましょう)そうした途端に、神にとってふしだらな女となったのです。聖書がそう言っていることを信じますか? そうです。彼女の娘たちも同じことをしました。
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さて、印をつけたいならば、黙示録17章です。ヨハネは、霊に満たされて上げられ、大淫婦が座っているのを見ました。昨晩この箇所を読みましたね。「そして7つの丘があった。」それはまさに彼女が行ったことです。「この女は、世界を淫らなおこないで汚し、」そうですね? 「地上の王たちは彼女と姦淫をおこない、」騙したり、盗んだり、偽ったり、悔い改めのためにお金をとったり、ノベナや何やらをしています。
さて、この女には娘たちがいたことを覚えていてください。この女が組織制度を取り入れて組織体となったのなら、その制度全体が間違っているのです。エバが神に逆らってすべてを死に投げやってしまったように、死は彼女の支配下にあったのです・・・。そして組織化した教会も、教会の支配下にあった死に、すべてを投げやってしまいました。そのとおりです。すべてを失いました。まさに御言葉のとおりのことが起こったのです。
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黙示録17章を読んでみてください。神は彼女を炎で焼くと、聖書には書いてあります。彼女の子ども達も一緒に焼かれます。そうです。すべての組織制度が、この淫婦とともに焼かれることを意味します。非常に厳しく聞こえるかもしれませんが、・・・あなたたちは聞いていますよね。わたしも聞きたいです。それはしかし、正しいのです。聖書がそう言っているのですから、正しいのです。
「彼女は淫らな女になった。」黙示録の17章を読めば、書いてあります。彼女は何をしたのですか? 彼女は自分の夫を裏切って姦淫を犯したのです。「でも、・・・」あなたは反論するかもしれませんが、いいえ、そう聖書が言っているのです。御言葉は神です。もし聖書からひと言取り去るなら、・・・。あなたは自分の妻に他の男とキスしてもらいたいですか? もし彼女がそれ以上のことはしなかったとしても、あなたは彼女に、そんなことはしてほしくないでしょう。彼女が不誠実であることが、それでわかったのです。「誰でも、この書からひとことでも取り除いたり、付け足したりするなら・・・」ハレルヤ!
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神は、妻に御言葉に貞節であることを望まれます。彼女はそうあるべきです。「御言葉がすべて成就するまで、律法から、そして聖書から、ただの一点、一画でも取り去られることはない。」からです。イエスは言われました、「天と地は滅び去るだろうが、わたしのことばが滅びることは決してない。」みことばに勝手な解釈をしてはいけません。神が望まれるのは、純潔で汚されていない・・・戯れることさえもいけないのです。わたしは妻に、他の男とじゃれついてほしくありません。あなたが、解釈を聞いてみことばからはみ出すなら、あなたは、サタンと戯れていることになるのです。アーメン!敬虔な気持ちになってきませんか? 神はあなたに、汚れを持ってもらいたくないのです。御言葉にとどまりなさい。御言葉を守るのです。そうです。
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エデンの園でイブに約束したように、神は後のイブに約束されました・・・。ペンテコステによって生まれた教会そのものは、生けるものすべての母なのです。でも、ご存知のように、彼女の罪を受けて、すべてのものが彼女とともに死にました。
名もない男がやってきて、こう言います、「わたしは神に仕えたい。」
すると彼らは答えます、「それでは、こうするのがいいでしょう。行って、悔い改めなさい。」
「はい、そうします。神に栄光!行って悔い改めます。」
「そうしたら、わたしたちの仲間に加わりなさい。」
そら、きました。こうなんです。このようにして、命を失ってしまうのです。聖書がそう教えています。わかりますか、これはわたしが言っていることではないのです。聖書が言っているのです。そうです。
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さて、神はエバに約束したように、彼女にも約束をしたのです・・・。神はエバに、時が来れば、御言葉が彼女の元に戻ってくると約束されました。覚えていますか? 彼女が失ったものが、もう一度戻ってくるのです。と言うのは、彼女を元の状態に戻せる唯一のものは、みことばしかないのですから。まさにそのとおり。
前にも言ったように、「銃を撃って、命中しなかったら、どこで的を外したかを見つけ出しなさい。そしてそこに戻ってやり直しなさい。」もし戻るとすれば、ニケアに戻らなければいけません。そこからやり直すのです。わかりますか? 戻って、組織や組織化された教会から離れることです。
今までわたしたちは、見事に封印が解き明かされるのを見てきています。なぜわたしがこんなにも組織というものに抵抗しているのか、自分でもずっと考えてきました。人々に対してではないのです。人々はわたしやあなたたちと変わりありません。わたしが糾弾するのは、教会の組織化です。ここでやっとその訳がわかりました。今までわからなかったのです。そうです。
63
神は霊的エバに、自然体のエバに約束されたのと同様、御言葉が彼女に戻ってくることを約束されました。終わりの日に、教会にみことばが再び戻ってくることを、神は約束されました。
さて注意して聞いてください。はっきりとわかってもらいたいのです。神はエバに、時が来たら、彼女の子孫によって御言葉が回復すると約束されました。この御言葉自体が、彼女の子孫となるのです。それまでの代用として、代用品が与えられると、彼女は代用品を守りました。そして、みことばがやって来たとき、彼女はどうしましたか? 「そんなものは欲しくない。」と突っぱねました。あまりにも素朴で見劣りがして、彼女にはふさわしく思えなかったのです。
「厩ですって? おやまあ、そのような者が。えっ、学校に一度も行ったことがない? 到底受け入れられませんね。メシアであるわけがない。あんな連中に蹴られたりあしらわれたりしているような者がメシアですって? 自分を預言者だと言っていたのに、ボロを纏わされたり、頭を叩かれたりしているなんて。本物の預言者なら、あんな連中を吊るし上げるでしょうに。」
彼らには預言者というものがわかっていませんでした。イエスがそう言われました。「もしあなたたちが、預言者を知っていたなら、わたしをも知っていただろうに。」
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さて、気づいてください。しかし御言葉が彼女の下に来た時
神が言われたとおりに、彼女はそれを別ものとしてとらえました。イスラエルの花嫁 へブルの花嫁 花嫁のことを話しているのです。それはエバからの事です。御言葉が彼女のもとに現れたとき、彼女は退けました。代用品の方が好きだったからです。
さて、神はペンテコステのとき霊的エバに約束しました・・・それが起こる前に(教会が堕落する400年も前に)、神は、彼女が堕落することを告げました。しかし神は、終わりの日に再びみことばを送ると約束されました。
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イエスも、地上におられたとき、同じことを言われました。神がそれを送られると。するとどうなるのでしょう? 初めにみことばがやって来たときと同じことが起こるのです。そうです。彼らは同じことをします。代用品の方を好むのです。彼らは自分たちの教団や信条を選び、自分たちの好きなように生きることを願います。「ええ、わたしは何々という者で、どこどこに属しています。」神が何をされようと、どれだけご自分を明らかにされようと、そんなことはおかまいありません。死人が生き返り、人の心の秘密が明らかにされ、聖書で告げられていることが行われていようと、そんなことはおかまいなしなのです。「わたしの
宗派に関係していないなら、わたしの知ったことではありません。」
イスラエルの花嫁がしたのと同じです。そうです。わかりますか? 彼らは代用品のいうことを聞くのです。神は本物を送ることを約束されました。でも本物がやって来ると、彼らは拒否しました。あまりにも素朴で見劣りがしたからです。
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さて、今日も同じことです。本物が現れるとき。神がマラキ4章で告げられたように、終わりの日にメッセージを送り、もとどおりにすると・・・ヨエルは、「わたしはすべての年月をもとどおりにする・・・」と言いました。聖霊降臨のときに生えた枝から、ローマが食い尽くしたすべて、メソジストが、バプテストが食い尽くしたすべてを、「終わりの日にもとどおりにする!」と神は言われました。そうです。
神はそのような人物をわたしたちに送られるのです。神がご自分のことばを送られたのは、預言者にです。改革者ではありません。今は改革者のときではありません。その時が近づいています。だからわたしたちはその者が現れるのを注意して見ているのです。彼はとても素朴でやさしくて、だから・・・。
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でも、高貴なメソジストやバプテストや長老派やペンテコステの人たちが彼を受け入れると思いますか?
「なぜ、ペンテコステが含まれているのか?」と、あなたは言います。
ペンテコステはラオデキアの時代です。「わたしたちは豊かで
何も欠けたところがない。」と言っています。しかし聖書は、「あなたは自分が貧しいことを知らない」と言っています。あなたたちは、なん億ドルもする建物を建てるかもしれませんが、貧しいことに変わりありません。霊的に貧しいのです。
「いや、すべてわかっている。」とあなたは言いますが、実はあなたは目が見えていないのです。
「でも、神の祝福で覆われている。」と言いますが、実はあなたは裸なのです。
「でも、我々の子どもたちは・・・・我々には神学校がある。」それなのに神のことを知りません。
逆もまた同様です。さて、ラオデキア時代の状態がそのようであると聖書が言っているのですから、誰も今が最後の時代であることを否定できません。ラオデキアの教会時代は第七の時代で、今がその時なのです。キリスト誕生から2000年の時が終わろうとしています。もうこの先に教会時代はありません。
そういうわけで、『のちの雨』運動の兄弟たちは新たに教団を作ることができないのです。この先がないのですから。そうです。今が終了のときです。アーメン!もうこれ以上、新たな教会時代はありません。おしまいです。
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でもペンテコステのメッセージが最後のメッセージだとしたら・・・信仰による義、聖別、そして聖霊によるバプテスマ、この三つが、最後の三つの時代のメッセージで、これによって月満ちて誕生となります。妊婦が出産するのと同じです。まず第一に破水し、次に出血し、それから命が生まれます。
イエスが十字架の上で殺されたとき、彼の体から物質が出てきて、新たに生まれ出ました。兵士が彼の脇腹を刺すと、血と水が出てきました。そしてイエスは、「あなたの御手にわたしの霊をゆだねます。」と言われました。彼の体から出たのは、水と血と霊でした。第1ヨハネの5:7で、そのことを語っています。
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天には、あかしをするものが、三つあります。父とみことば(キリストのことです)と聖霊です。そして、この三つのものはひとつです。「あかしするものが、三つある。御霊と水と血とである。そして、この三つのものは一致する。」
義とされなくても、聖別されることはできます。聖別されなくても、義とされることもできます。聖霊を受けなくても、聖別されることはできます。まさにそうです。ヨハネ17:17によれば、弟子たちは聖別され、悪霊を追い出す権能を受けましたが、聖霊は受けていませんでした。そうです。聖霊が臨むためには、五旬節まで待たなければなりませんでした。ユダが本性を現したのはそんな時です。神によって義とされ、聖別されただけでも、霊は勝手に働くことができるのです。でも終いには、彼は本性を現しました。そうです。
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さて、気がついて下さい。わたしたちは今終わりのときを生きています。霊的イブは、イスラエルのエバと同様、約束を受けました・・・イスラエルの花嫁に、みことばが戻ってくるという約束を受けました。ペンテコステのときに生まれた霊的花嫁は、ニケアにおいて堕落しましたが、終わりの日にみことばが再びやってくるという約束を受けました。そのことを示す聖句が必要なら、黙示録10章にあります。「第七の御使、第七のメッセンジャーが吹き鳴らすラッパの音がする時には、神の奥義は成就される。」このとおり、みことばへの回帰が起こるのです。
聖書は、「終わりの日のこのメッセンジャーは、・・・もとの信仰に彼らを立ち帰らせる、つまり父の信仰に戻させる。」と言っています。でも、本当に彼らが立ち帰ると思いますか? いいえ、とんでもない。マラキ4章によれば、神は終わりの日に、彼女から剥奪されたみことばをもとどおりに回復されます。
さて、彼女はニケアにおいて、みことばを喪失しました。エバはエデンにおいて喪失しました。エバは、カルバリで拒絶し、ニケアの団体は終わりの日に拒絶します。同じことの繰り返しです。でも、御言葉が人となって来られたとき、ヘブルの教会であるエバは、彼を拒絶しました。彼女は当時、すべての魂を持つ者達の母でした。彼女は伝統や教義に没頭していたので、御言葉を見失いました。今回のエバも、まさに同じことをします。
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そうです。約束されていた御言葉が、人となって現れたのに、彼らは拒絶したのです。御言葉は、これらのことをすると約束していました。終わりの日にこうなると約束されていたのです。「人の子がくる時もソドムの時と同じことが起こるであろう。」ソドムで何が起こったか、調べてください。「人の子がくる時も、ノアの時代に起こったことが起こるだろう。」その時何が起こりましたか? さて、彼は同じことが起こると言われました。わたしたちはそのようなことが起こる時代を生きているのです・・・聖書から、ちょっと調べるだけでそのような約束を600も見つけ出すことができると思います。なのに、彼らは拒絶したのです。
彼女は、代用である伝統を守って・・・イエスが彼女のもとを訪れたというのに、彼女は代用品の血に固執して、御言葉なるイエスの、本物の血を拒みました。彼女が伝統の方を守ったからです。御言葉の現れであるイエスが、イスラエルの花嫁に言いました、「あなたがたは、伝統を大切にして、神のことばを虚しいものにしている。」これでは御言葉の力が発揮できないのです。
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今はもうリバイバルが起こっていいはずなのに、こうした理由で・・・。宗派にはリバイバルが起こっていますが、本当のリバイバルはまだ起こっていません。まだ、まだ、まだです。もうリバイバルが始まっているなんて思わないでください。まだです。彼らのところでは、何百人もの教会員が増えているでしょうが、どこにも本当のリバイバルはありません。
花嫁は、まだリバイバルを経験していません。まだ、どこにもリバイバルは起こっていないし、花嫁を揺り起こす、神の訪れもありません。わかりますか? それが起こるのをわたしたちは待ち望んでいるのです。いまだ不明の、あの七つの雷が語った言葉が、花嫁を再び目覚めさせることでしょう。神は本当のリバイバルを起こされます。約束してくださいましたから。さて、よく注意して聞いて。彼女は命を失ったのです。
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さて、もし教会が信条を忘れ、教義を忘れ、聖書だけを受け入れて神の約束を頼みとするなら、神のことばは効果をあらわします。でもイエスが言われたように、「あなたがたは自分たちの伝統を守り、神のことばを虚しいものとしている」のです。こんにち、霊的イブにも同じことが言えます。教会は、今日の霊的花嫁を自称していますが、彼女は神のことばを受け入れず、代わりに教義を受け入れました。それで、みことばは虚しいものとなりました。彼女がみことばに自分たちの信条を注ぎ込んだので、効果がなくなったのです。
74
今日わたしたちが必要としているのは・・・。わたしは、「キリスト再臨の先駆者」という冊子を続けて読んでいます。この冊子のヘッドラインに、「預言者の再来を求む!預言者の再来を求む!」とあります。わたしが思うに、預言者が戻ってきても、彼らには、なんのことかわからないでしょう。そうです。常にそうなのです。「わたしたちは求む・・・」「主のことばを、妥協することなく、語る預言者が戻ってくるのを求めている。聖書がそう約束しているので、信じる。」と、彼らは話題にします。
さて、モア兄弟たちが外食もせずに一生懸命編集していることを、わたしは知っています。彼は、革靴を履く部類の人の中でもっとも素晴らしい人物の一人だと思います。でも、彼でさえ、わたしたちに預言者が必要であることがわかっているのです。そしてモア姉妹は、もっとも優れた女性の一人です。ああ、かわいそうに。彼らは犠牲を払っています。わたしの感想では、「キリスト再臨の先駆者」は最高の冊子の一つです。でも彼らはずっと、「預言者の再来を求む!預言者の再来を求む!」と叫び続けているのです。わかりますか? そのことが彼らの話題なのです。
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こんにちのわたしたちといえば、バプテスト教会らが、自分たちはカトリックに取り込まれたのではなく、彼らと交流をしているのだと、昨日も今日も、ラジオで発表しています。そしてここでは、あの毒物から離れるようにとメッセージを発しています。「同意なしに、どうして二人の者がともに歩けるでしょう?」
光と闇は仲良く共存できません。光が来れば、闇は去ります。光はもっとも力があります。闇によって光を消すことはできません。光によって闇を消すのです。そうです。そしてキリストは光です。キリストは御言葉です。やっともとに戻りました。それを偽りとしたり、間違いとすることはできません。きちんともとの場所に戻ってきます。そうです。
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誰かが、あなたに口論をふっかけるようなものです。あなたが自分の立場をわかっていて、相手が何を信じているかわかっているなら・・・。ウサギをつかまえて、あちこちの穴を閉ざした小屋に放つようなものです。小屋の入り口に立っていれば、ウサギはそこに戻ってきます。ウサギはそこに戻ってくるしかないのです。そこが唯一の出口ですから。彼は、ほとんど折れるくらいに首を突っ込んで、あちこち走り回るでしょう。それをあなたは、ただ立って見ているのです。彼は必ず戻ってきます。そうです。それが唯一の道ですから。御言葉にとどまることです!信条をあちこちで吹聴することはできますが、自分の首を痛めるだけです。この御言葉に立ち帰らなければなりません。
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さて、わかりますか、彼らはいらないのです。神のことばを避けている
のです。自分たちの伝統を守って、神のことばを虚しいものにしています。霊的エバも同じです。彼女は伝統を守り神のことばを遠避けます。神のことばを受け入れる代わりに、宗派や新条や、長老の伝統を守っているのです。
そして終わりの日に現れると約束されたみことばが彼女のもとを訪れても、彼女は受け入れないでしょう。彼女が伝統にしがみついているからです。イスラエルの花嫁がしたように、本物の御言葉が現れて、それが本物であることが証明されたにもかかわらず、彼女は受け入れないのです。なぜでしょう? それは型ができているからです。そうです。彼女にはできないのです。型を打ちこわすことはできません。わかりますか? 彼女がそうすることは予見されていました。そうなることを避けるにはどうしますか? 唯一の方法は、あなたがいる状態に満足すること、それだけです。覚悟してください。
いいでしょう。終わりの日に、ご自身を明らかにし、御言葉を彼女に証明すると、神は約束されました。それでも彼女は受け入れません。神が彼女に、僕である預言者によって約束したことのすべて・・・。神は、イエス・キリストによって、ヨエルによって、パウロによって、マラキによって、黙示録のヨハネによって、最後のメッセージが彼女に訪れるという約束をされました。
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さて、もし書き留めたいのなら、(みなさん、もうわかっているとは思いますが、)イエスが語ったことはヨハネ14:12に、ヨエルのことばは、ヨエル2:38に、パウロのことばは、2テモテ3に、マラキはマラキ4章に、黙示録のヨハネは、黙示録10:1-17に記されています。
何が起こるか、まさにそのとおりのことが記されています。教会にとって、それはどういうことでしょう? 永遠のことばが、人となり、ご自分の民のもとを再び訪れたのです。でも彼らはそれを信じません。
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イエスが彼らの前で奇跡を起こし、ご自分が神であることを証明されたとき、イエスはなんと言われたでしょう?彼はこう言われました、「ああ、カペナウムよ、天にまであげられるというのか、あなたたちのところで行われた力強いわざが、もしソドムで行われていたなら、彼らは今でも残っていただろう。」そうです。
カペナウムでは、彼はほんの少数にしか癒しを行われませんでした。そして彼らの思いを明らかにして、去って行きました。それだけです。だから彼らは、何が力強いわざなのかわからないのです。彼らは、誰もが目覚めるような
絶大な行事でなければならないと考えているのです。判事が演説し、楽隊が奏し、旗が舞い、着飾った女性たちがちょこんと座り、Ph.DやLL.Dなどの肩書を持つ人たちや立派な帽子をかぶり、ローマンカラーをつけた人など、すべてがやって来なければならないのです。そういうのが、とても立派なことなのです。でも神は言われます、「あほらしいことだ。」
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神は、ABCもわからないような取るに足りない者を使って、真の教会に火をつけるような目覚ましいことをされます。すると他の人たちは言います。「ホーリーローラーの連中だ(聖霊のバプテスマを受け、自由に賛美する人に対する蔑称)」でも神は言われます、「これぞ偉大なことだ。」この世が「立派だ」と言うことを、神は「愚かなことだ」と言われます。その逆も同様です。神が約束されたことは、これまでも神によって実現されましたし、これからも実現されます。そうです。
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さて、イスラエルのエバですが、彼女はしてきたことを止めようとはしませんでした。死人が生き返ろうと、神の霊を目の当たりにしようと、お構いなしでした。イエスがやって来られて、神の子であるしるしを示されました。彼が宣教しはじめたとき、彼らはこう思いました、「なんだかおかしな男じゃないか。いったい誰なんだい?」
人々はこう言いだしました・・・。もちろん、先駆者であるヨハネが来たときも、彼らは言いました、「あなたはメシアか?」
ヨハネは答えました、「いいや。だが、遠くないどこかにおられる。」わかりますか? なぜそんなことを言ったのでしょう? 神のメッセージが現れるとき、神が何をされるか知っていたからです。彼には神のなさることがわかっていました。
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ノアがエノクに注目していたのと同じです。エノクが行ってしまったので、ノアは言いました、「箱舟の近くにいた方が良さそうだ。時が迫っているから。」ノアはエノクに注目していました。そしてヨハネは、神から気をつけて見ているように言われたとおり、しるしを観察していました。だから彼はこう言ったのです、「その方は今、あなたたちの近くにおられる。わたしはそのお方を知らないが、会えばそのお方だとわかる。」
そこに立っていた人たちが言いました、「あなたがメシアではないのか?」「我々は本部から遣わされて来たものである。」「我々の長老が我々をここに寄こしたのだ。もしあなたがメシアなら、こんなところでこんな連中といないで、我々のところに来て自分を知らしめたらどうか。さあ、来て、みずから名乗り出なさい。」
ヨハネは言いました、「わたしはメシアではない。」「わたしは荒野で呼ばわる声である。」
いくら聞いても、彼らにはちんぷんかんぷんでした。彼らは何も知らずに探していたのです。でも、こんな男がそうであるわけがない。そうだったらひどいことだ。
「どこの学校を出たのか?」
「学校になど行っていない。」
「会員証を持っているか?」
83
「なんのことだ?」ヨハネは神から油注がれた者でした。彼は言いました、「わたしが持っているものが、ひとつだけある。木の根元に置いてある斧だ。」彼の所有物はそれだけでした。彼は、聖職者のようにではなく、木こりの様に語りました。まむし、斧、木、その類です。彼は教会用語でしゃべりませんでしたが、彼のような預言者は今まで現れなかったと、イエスは言われました。キリストが現れるまで、女から生まれた者で、彼のような者はいませんでした。そうです。
彼は預言者以上の者でした。彼は契約の使者だったのです。彼は、古い時代が終わり、神が定められた新しい時代の始まるちょうど真ん中に位置していました。だから、預言者以上の者でしたが、彼らにはわからなかったのです。彼らには理解できませんでした。彼は一風変わった人物でしたから、彼らは見損なってしまったのです。わかりますね。
84
それからイエスが来られましたが、当然のごとく、彼らはこの大工の息子を受け入れませんでした。際立ったところが何もないだけでなく、婚外子という悪名もささやかれていました。彼らはそのような男に見向きもしませんでした。
ところが神はどうされたでしょう。神は無学で貧しい漁師や木こりや農夫や売春婦をご自分のものとされ、高位の者たちを残されました。なぜ神はそのようなことをされるのでしょう? 想像できますか? なぜなら、これらの人々は、イエスが神のことばであることがわかったからです。
85
さて、ちょっとイエスに注目しましょうか。無知な漁師がいました。彼は自分の名前を書くこともできませんでした。聖書は、彼が無知で無学だったと言っています。彼は採ってきた魚をおろし、向こうがなんだか騒がしいのでどうしたのか確かめようと出かけました。彼は、心の深いところで、聖書に記されたメシアについて知っていました。すべてのヘブル人はメシアを待望していました。彼が来られたら、聖書に書いてあることが実現するからです。
86
これまでも多くのメシアと名乗る人物が現れ、「自分がそうだ」と言って、何百もの人を迷わせ、消滅しました。でも、本物が来られたときに、それらは排斥されます。エリヤのマントやら、コートやらが出回りましたが、それらも、本物が現れたときに、捨てられます。そうです。いろいろな人たちが、ローブや外套をまとい、頭巾をかぶって埋められてきました。それらのことは、ただひとつのことを裏付けるのです。つまり、偽札がはびこるのは、どこかに本物のお札があることを示しているのだと。
そこで、彼がやってきました。するとこれらの高位に着く者たちは本性をあらわしました。彼らは代用品と密接だったために、こんなふうに言いました、「メシアが来られるなら、当然カヤパのところに来られるに違いない。我々の宗派に来られるはずだ。サドカイ派のもとに来られるに違いない。」
サドカイ派は、「それはあなたたちの思いすごしだ。彼はサドカイ派のところに来られるのだ。」
87
こんな感じでした。今日でも状態は変わりません。さて、キリストが来られるとき、何か変でした。キリストが来られたとき、彼らが思っていたのとは全然違っていました。彼は御言葉にしたがって来られたのですが、彼らは御言葉を知らなかったのです。
みんながきちんとのみこめるように説明させてください。ちゃんと理解してもらいたいのです。それが今日の問題でもあるのです。御言葉を知らないということです!
イエスは言われました、「あなたがたは空模様を見分ける事が出来る
のに、時のしるしを見分ける事が出来ない・」
彼らは言いました、「でも、わたしたちにはモーゼがいます・・・」
イエスは答えられました、「もしあなたがたがモーゼを知っていたのなら、わたしをも知るはずだ。」彼らはモーゼを知らなかったのです。だから彼らには理解できませんでした。彼らが知っていたのは、信条でした。そこから生まれたのですから。
88
さて、今度はこちらの漁師を見てみましょう。彼は籠をおろし、灰色の髭をたらし、やって来ました。「彼が何者か、確かめてみよう。」
彼の兄は言いました、「さあ、行ってみようや。あれが、この間俺たちが見たのと同じ人物だ。彼と一緒に、一晩過ごしたのだ。俺が話したヨハネを知っているだろう?」
「ああ、あの荒野の男だろう?ああ、聞いたことあるよ。」シモンは続けて言いました、「彼についてはあっちで聞いたことがあるよ。ああ、行ったことがあるんだ・・・2〜3か月前だったかなあ。そうだ。」
「ある日、彼は立って、おかしなことを言ったんだ。こう言ったんだよ、『さあ、今すぐにも彼がやってくる。』みんなが、『どうして、わかるんだい?』と聞いたら、彼は向こうの方を見たんだ。するとそこになんの変哲もない男が立っていた。すると彼は、『彼の上に、神の霊が鳩のように降ってくるのを見たのだ。そして声がこう言うのを聞いた。『これが、その人だ。これがわたしの愛する子、わたしはこの者のうちに宿る。』そして彼は水に入って行ってその人物に洗礼を授けたんだ。彼はその人物を知っていると言っていた。」
「さあて、どうかな。」シモンは言いました、「そんなことをなんども聞いたがね。」こんなことがあって、彼は今やってきたのです。しかし彼の心の奥に、定められた種が蒔かれていました。イエスがそう言われました。そうです。彼はイエスのところにやってきました。「さあて、集会に行って確かめてみるか。」
89
彼がやってくると、イエスがそこに立っていました。なんの変哲もない普通の人です。彼は言いました、「やあ、君の名はシモン、そして父親の名はヨナだ。」それを聞いて彼は恐縮しました。なぜなら彼のうちで永遠のいのちの種が反応したからです。そうです。
「ちょっと待ってくれ。どういうことだ? この人はわたしに会ったことがなかったし、父のことを知っているはずもない。彼は随分と前に亡くなったのだから。でも今彼ははっきりわたしのことをそう言った。待てよ、聖書がこう言ってたなあ。(長老が言っていたのではなく、聖書が言っていたのです。)『メシアは預言者である』と。彼がその人だ。彼がそうだ。」
90
あるときイエスは、ユダヤ人の集団とともにサマリアを通っていました。彼は集団を離れて一人でいました。そこに評判の悪い女がやってきました。きれいな女性だったと思います。彼女は小さいときから町をぶらついてきたのでしょう。多分何か考えながら、そこにやってきました。そしてバケツを置いて、水を組むためにつるべを落としました。すると、男の声がするのを聞きました。「水を飲ませてくれ!」彼女は振り返って、そこに中年のユダヤ人が座っているのを見ました。
「でも、あなたはユダヤ人じゃありませんか。そんなことしちゃいけません。わたしはサマリア人です。あなたがわたしに話しかけるのは、常識はずれです。」
「でも、あなたに話しかけているのが誰かわかったなら、あなたの方から水を飲ませて欲しいと頼むことだろう。」
「あなたのバケツはどこです?つるべは?」
「だが、わたしが与える水は、いのちだ。」
「え、なんのことです?いったい。」彼女は言いました、「あなたたちは礼拝の場所をエルサレムにしています。わたしたちの先祖は・・・」
「ああ、そうだ。わたしたちユダヤ人は何を礼拝しているかわかっている。だが、人々がエルサレムでもこの山でもなく礼拝するときが来る。彼らは霊によって礼拝するようになる。神が霊だからである。彼らは霊と真理によって礼拝するようになる。」
すると彼女は考えを頭にめぐらし始めました。
「あなたの夫をここに連れてきなさい。」
「夫ですって?夫なんていません。」
「そうだ。あなたは本当のことを言ったわけだ。これまで5人とつき合ってきて、今のは6人目だ。あなたには5人の夫がいた。だからあなたは本当のことを言ったのだ。」
91
さあ、それからです。何が起こりましたか? 長い間眠りについてい種が、そのとき光によって目覚めたのです。それは神の仰せによってできた種でした。そうです。その種はずっと地上に存在していました。神が水を後退させ、地面に太陽が当たったとき、現れたのです。そうです。種に必要なのは太陽でした。光が必要だったのです。そうです。それから神の聖霊が、彼女の過去を退去させ、彼女に光を当て、その種を揺り起こしたのです!
彼女は言いました、「失礼ですが、あなたは預言者とお見受けします。」「わたしたちは(わたしは)、メシアが来られるとき、彼はそのような方であることを知っています。そして何百年も預言者は現れていません。何百年も本物の預言者がいないのです。」そして続けて言いました、「・・・あなたは、わたしに今まで何人の夫がいたかなど言い当てました。」「よくわかりませんが、」「メシアが来られると、このようなことをなさるはずですが、でも、あなたは誰ですか?」
イエスは答えました、「わたしがその者である。」これで決着しました。彼女は売春婦でした。
92
そして祭司は見回して言いました(彼は自分の会衆に報告せねばなりませんでしたから)「あんな者と付き合ってはいけない。彼は悪霊にとりつかれている。」
さて、これが相反するところです。今日も同じことです。まさに同じことが起こっています。そうです。彼女には光が当たったので、わかりました。
それから漁師、木こり、農夫、取税人、売春婦、などは、イエスのうちに、聖書が語っていることの成就を見ました。一方ファリサイ人にはそれがわかりませんでした。彼らが伝統にとらわれていたからです。(編注:ブラナム兄弟が話を止めて、ジェスチャーをする。会衆が肯定的にそれに反応する。)彼らは伝統にとらわれていたので、わかりませんでした。でも売春婦や農夫たちはわかりました。前もって定められたいた者たちはみな、疑いが払拭されれば、種の成長を始めます。そうです。
93
彼女はどうしましたか? 「まあ、メシアにお会いできて嬉しいわ。」と言いましたか? いいえ、彼女はとっさに町に跳んで行きました。水のことなど忘れて。彼女は言いました、「さあ、わたしがしたことを言い当てた人がいます。メシアがなさると聖書が言っていることと同じではないでしょうか。これこそまさにその方ではないでしょうか。」そして人々も同じことを発見しました。イエス・キリストが、ヨハネ14:12で語っておられたことが、もう一度起こるのです。
ルカでもこう言っています、「ノアの時代に起きたようなことが・・・」いかにして神は人の姿になって現れて、ご自分の後ろに誰がいるか、サラが何をしているか(彼女はテントの中で笑いました。)言い当てられたでしょう。それから、終わりの日に起こることを預言した、マラキなどすべての聖句。ヘブル4章では、「御言葉が戻ってこられると・・」。マラキ4章では、「御言葉は、ひとりの人をとおして戻ってくる」と語り、ヘブル4章では、「神の言葉は人の心の思いを見極める。」と語っています。そのようなことが行われたのだから、彼らにもわかるはずだったのに、彼らは立ち去りました。彼らの伝統が彼らをめくらにし、御言葉を無意味なものにしたのです。そして私たちは、ここにいます。それだけのことです。
94
神は同じことを今日おこなうことができるのです。以前おこなったのと同じことを、今この場に現れて再現されることができるのです。神はそうすると言われましたから。神はそうすることを確かに約束されたのです。もし彼が同じことをされたら、・・・。ラオデキア時代の使者はそうすることになっているのです。でももしラオデキアの教会がそれを見たとしても、ヘブルの教会が最初にしたのと同じことをするでしょう。どれほどそれが神のわざであることが証明されても、同じことをするだけです。なんとまあ。
聖書は、「わたしたちが、初めの御言葉に戻って、初めの信仰をもう一度取り戻すために、約束どおりに御言葉が現れる」と言っています。そしてもし彼がご自分の民の中に住んで、これらのことをしていることが明らかになっても・・・科学的に証明するために写真にご自身を写されたとしても、それでも彼らは信じないでしょう。カメラの目が、同じ火の柱として、神がそこに立っておられるのを技術的にとらえて映し出し、それが本物と証明されたにもかかわらず・・・ヘブル13:8に書いてあるキリストは昨日も今日も永遠に変わらないお方であることが科学やその他の方法で証明されたにもかかわらず。科学的にも、霊の領域においても、あらゆる面から証明されています。ずっと証明されてきているのです。でも、彼らは同じ態度を取ることでしょう。彼らは立ち去って、ヘブルの教会と同じことをするのです。
95
ああ、神よ、助けてください。いったん、ここまでにしておきましょう。神よ、わたしたちがわかるように助けてください。これはわたしの祈りです。みんなを遅くまでここに引き止めておきたくありませんから。神よ、わかるようにしてください。わたしは信じます。わたしたちの上に霊がたった今おられ、この封印を開くことを助け、明らかにしてくださるでしょう。
さて、読みましょう。教会の状態が見えてきましたね。教会の過去の状態、彼らが何をしたか、どこに来るべきだったのか、そして何をすべきだったのかを見てきました。彼らはそのとおりのことをしたのです。さて、わたしたちはどこにいつかわかりますか? 自分で判断してください。わたしにはできません。わたしには、ただこの御言葉を伝えるという義務があるのです。教えられたとおりに、伝えることはできます。教えられない限り、伝えることはできません。誰にもできません。
また、第三の封印を解いた時、第三の生き物が「きたれ」と言うのを、わたしは聞いた。そこで見ていると、見よ、黒い馬が出てきた。そして、それに乗っている者は、はかりを手に持っていた。
すると、わたしは四つの生き物の間から出て来ると思われる声が、こう言うのを聞いた、小麦一ますは一デナリ。大麦三ますも一デナリ。オリブ油とぶどう酒とを、損なうな」。
96
さて、子羊がこの書物を手に取り封印を解いています。第一の封印と第二の封印を解き、今や第三の封印を解きます。子羊が第三の封印を解くと、第三の生き物が・・・。さて、第三の生き物が何に似ているか知っていますか? 人間です。第一の生き物はライオン、次は牛、そして第三のものは人間に似ていました。人間です。
それからヨハネは、人間に似た生き物がこう言うのを聞きました、「来て、それが何か見なさい。」この奥義は、地が造られて以来続く贖いの年月を通してずっと、封印して隠され、何が起こるのか誰もわかりませんでした。それが今、「来て、それが何か見なさい。」子羊が封印を解くと、雷が鳴りました。
97
さて、ヨハネは歩み寄ってそれが何かを確かめました。彼は何を見たでしょう? 黒い馬です。それに乗っている者は、手にはかりを持っていました。それが、まず彼が見たものです。子羊が封印を解き、それから獣が順番にこう言ったのです、「きたれ」
ヨハネはこんなふうに立っていたでしょう、そこからこちらにやって来ました。子羊が封印を解いたとき、彼は近寄ったのです。第一の封印の時のように、まず雷が鳴ります。彼は何が起こるのかを確かめ、ひとりの人が最初に白い馬に乗ってやってくるのを見ました。ヨハネは彼が馬に乗って駆けていき・・・。ヨハネは彼を最後まで見届けました。彼は白い馬に乗って彼がやってくるのを見たのです。乗っている者は手に弓を持っていましたが、矢は持っていませんでした。次にわかったのは、彼が駆けて行きながら、冠をかぶっていたことです。
98
それから子羊が次の封印を解くと、彼は今度も同じように見て確かめました。さて、今度は赤い馬です。今度この男は剣を手に持っていました。彼はこのあと聖書の終わりまで、剣を手に持って馬に乗り、殺し、地上から平和を奪い去るのでした。
さて、子羊が次の封印を解きました。人に似た生き物が、「きたれ」と言い、ヨハネは近寄って自分の目で確かめました。すると、今度は黒い馬に乗った人が現れました。
99
さて、昨夜お話ししたように、白い馬に乗っていた人は赤い馬に乗っていたのと同一人物です。それから(四つの生き物の間から)声がしました。ヨハネはこの生き物の中にいて、来て自分の目で確かめるように言われ、この黒い馬を見たのです。
すると、わたしは四つの生き物の間から出て来ると思われる声が、こう言うのを聞いた、小麦一ますは一デナリ。大麦三ますも一デナリ。オリブ油とぶどう酒とを、損なうな。
100
この騎士について、ちょっと考察しましょう。初めの騎士が誰であるか・・・昨晩わかったことは、聖書によれば、第二の騎士も同一人物であり、乗る馬を変えていたのでした。どういうことでしょうか? 彼が役割を変えたのです。そうです。反キリストである彼が、地位を変えたのです。彼が白い馬に乗っていたとき、彼は教義となりました。
今、我々はこれらすべての事が聖句から取られているのを見ました。
101
さて、わたしたちが今夜確かめるのは、別の教会時代です。第三の教会時代にやって来ました。まさにそのとおり、第三の教会時代は、第三の馬の状態なのです。
第一の教会時代はなんでしたか? ニコライ派が教義を打ちたてました。初めの時代からこの調子です。それから、このニコライ宗の教義
が、容認されて、実際に行われるようになりました。それで人々はこの乗っている者に冠を与えたのです。それからこの反キリストの霊は、人として現れました。あとでわかりますが、彼は悪魔として現れるようにもなるのです。悪霊の次に、悪魔がやってくるのです。
102
それであの反キリストの教会が発展して来たように、別途に花嫁も、神の義、聖別、聖霊によるバプテスマの段階を通って成長し、その成長は続いています。彼らは最初にリバイバルがありましたが、神の教会が最後にリバイバルがあるのです。
彼らの最初の3年間...教会時代の最初の三つ段階は、暗黒時代をくぐりぬけました。それからの三つの段階、神の義、聖別、聖霊によるバプテスマをとおして神の教会は、神を現すものとなります。
103
さて彼は反キリストとして、偽預言者として、獣としてやって来て、暗黒時代に入りました。暗黒時代から抜け出した教会は、神の義、聖別、聖霊のバプテスマ、御言葉が人をとおして現れることを通して成長し、今に至っています。反キリストの教会はどんどん落ちていき、神の教会は上がっていきます。なんと完璧で、美しいのでしょう。素晴らしい。
この騎士は同一人物ですが、別の段階の役割をします。最初の段階では、白い馬のときですが、彼は教師でした。反キリストの教えを広める者でした。神のことばを否定する者だったのです。どうすれば反キリストになれますか? 聖書に書かれたことばの一つでも否定する者、そうするように教える者が反キリストです。彼らが御言葉を否定するからです。神は御言葉です。
104
さて、初めの段階は白い馬でした。その騎士はただの教師でしたが、その教えには反キリストの霊が潜んでおり、反キリストの性格を持っていました。彼は無害でした。何も傷つけたり害をなさないように見えました。それがだんだん進んでいくと・・・。サタンはこのようにして入り込んでくるのです。ああ、彼はあたりのいい、ずる賢い奴です。
サタンはエバに言いました、「ねえ、あなたは知恵が欲しいんでしょう? だってあなたは何が正しくて、何が悪いのか知らないのですから。」「もしあなたの目が開けるなら、わかるようになりますよ・・・」「その実はとても美味しいのです。良いものですよ。目にも心地よいですよね。取ってみなさい。それがいいのか悪いのかわからないんでしょう?」
「ええ、でも神はそうしてはいけないと言われました。」
「でも、まあ!」
「ええ、わかってます。でも、神はこうすると言われました・・」
「本当に神はそんなことされませんよ。」できる限り甘い言葉で誘いをかけたのです。その結果がどうなったことか。
この反キリストの霊が初代教会の中で、ニコライ宗の教えとして立ち上がってきたのです。「ニコ」は平信徒を支配し、聖職者を作ったのです。
「でも、私たちはただ、親交を深めているのです。あなたたちはてんでばらばらです。誰も、誰がどこにいるのかわかりません。組織を作って改善するべきです。ともに集まるべきです。それで、集合できるところを作るべきです。」
105
そうです。この世にメソジストのキリスト教会などというものはありません。それは教会ではなく、集合場です。教会は一つしかなく、それはイエス・キリストの神秘のからだです。あなたは、前もって定められていたので、そのからだに生まれるのです。そうです。
「父がわたしに与えてくださったものは皆、わたしのもとに来ます。父が呼んでくださらない限り、誰もわたしのところに来ることはできません。だから父が与えてくださったものは、皆わたしのところに来るのです。」そうです。子羊は最後の一人が入って来るまでは、そこに座ってとりなしをしていてくださいます。ベルがチリンと鳴ると、彼はそこを立ち去り、ご自分のものをみな受け取ります。それでおしまいです。彼のものである教会を家に連れて帰り、敵を火の池に投げ込まれます。彼に属するものはみな彼とともに行きます。そして私達は至福千年に歩んでいくのです。
106
1今度も騎士は同一人物です。最初の段階では、彼は無害でした。そして第二段階では、(ちょっと先に進んで)聖書は彼に冠が与えられたとあります。その男は冠を戴いてスーパーマンになったのです。冠が与えられました。でも聖書は、その人物を教皇とは呼ばず、偽預言者としています。なぜでしょう? 彼には反キリストの霊が働き、もとの御言葉に反したことを教えたので、偽預言者に違いないのです。もとの御言葉に反したことを教えれば、誰でも反キリストです。神は御言葉なのです。
107
さて、彼が冠を受けると・・・。ところで彼はとても無害だったのです。頼りない、ただの小心者でした。でもニケア会議の時、彼は・・・そしてコンスタンチヌスは彼にすべての所領を与えました。それからどうなりましたか?サタンが彼に、サタンの王座と権威を与えたのです。聖書がそう言っています。そのことはすでに学びました。
さて、次にわかることは、悪魔がこれまでも、これからも、すべての政治を牛耳っているということです。マタイ4:11 に書いてあります。サタンはすでに政治を手に入れていましたが、今度は教会を乗っ取ろうと試みて、教会を騙しにかかります。彼はスーパーマンを得て、組織の中で働かせ、代理の座につかせました。別のキリストです。つまり、神の代わりに働くキリストです。この者は神に取って代わる代理人なのです。同じことです。神に取って代わる者、彼の任務は、キリストのもとで代理人として働くことです。
108
さて、それを実行した後、今度は何をしたでしょう? サタンはすでに政治的権力を把握しました。それから宗教的権力も(彼はすでに冠を受けました)手に入れ、その二つを結合することによって、彼は地獄の冠を新たに手に入れました。・・・人が死んでも、その人に十分な支払い能力があれば、地獄から救い出されるということになりました。それで彼には天国においても、煉獄においても(そう呼びだければ)代理人となりました。煉獄など聖書のどこにも出てきませんが、彼は何かを作らなければ気が済まなかったのです。聖書は、彼が底なしの穴から這い上がってきて、地上においては支配者となり、元いた場所に帰ると書いてあります。
109
それから彼は何を手に入れましたか?まず初めに彼は弓を持っていましたが、矢はありませんでした。でも次に彼は大きな剣を手にしました。これで何かをしでかすことができます。それで彼は白い馬を乗り捨てました。彼は白い馬から何に乗り換えましたか? 赤い馬です。血を表します。真っ赤な血の色の馬です。本当にそれに乗ったのです。彼にはおびただしい権力が与えられ、それに大きな剣が与えられました。人を殺すためです。それで彼は真っ赤な血の色の馬に乗ったのです。
昨夜解き明かされた第二の封印で、地上から平和を奪って、互いに殺し合う力が彼に与えられたことがわかりました。ローマ・カトリック教会が編纂した殉教者のリストによれば、この組織は、ヒッポのアウグスチヌスの時代から1580なにがし年の間に、68百万人のプロテスタントを殺害しました。6千8百万人もですもし読みたければ、スマッカーの『輝かしい改革Glorious Reform』という本です。)殉教者の数が6千8百万人と記録されています。
110
聖人と呼ばれる者のうちの一人が、啓示を受けて、誰でもローマ・カトリックの教えに従わないものは異端者として死ななければならないと言い出し、それを広めました。彼は血を流すために赤い馬に乗って出て行きました。
彼には大きな権力が与えられました。天の代理人となり、神として崇められ、地上を治める者となったのですから。彼は教会と国家を一つにすることで、地上を支配する冠を受けました。彼には煉獄から魂を救い出すために祈ることができます。神に代わって、彼は地上において神のようでした。
111
彼の命令に従わないものは誰でも殺すことができる権利を、彼は手にしていました。誰が彼に意見することができたでしょう? 教会にはできませんでした。彼が教会の長ですから。国家も口出しできませんでした。彼が国家の長ですから。それで何百万という人が殺されました。小さな群れの兄弟たちは、殴りとばされ殺害されライオンの餌になり、あらゆる迫害を受けました。竜であるローマが、彼にその王座と権威を与えたのです。聖書がそう言っています。人間の血によって赤く染まった馬が真っ赤な馬になるまで、彼は乗り続けました。
黙示録6:5
さて、ヨハネは彼が黒い馬に乗っているのを見ました。彼は鞍替えしたのです。さて、わたしはこのことを、神から与えられたので、言わなければなりません。もし与えられたことが、他の聖書箇所と食い違っていたら、神はそれを教えてくださらなかったでしょう。聖句の一つひとつは、・・・。それはそのように重大なことです。聖句は他の聖句と整合性が取れなければいけません。もし聖書に矛盾することが・・・。もし主の御使いが聖書に矛盾したことを教えるなら、わたしは彼を信じません。
112
いつかシカゴで、何百人ものミニスターを前にして、わたしは立っていました。あの時の集会に居合わせた人がここにいますか? そうですあのシカゴの集会です。わたしは、「あなたたちはわたしをここでねじ曲げようとしている。」と、そんなようなことを言いました。「なんのことで、わたしにそう反対するのですか?」「聖霊が3日前の夜に、今夜みんなが、予約してあった場所ではなく、どこにいるか、示してくれました。」それが本当かどうか、ここにいるカールに聞いてみなさい。そこにはハンクたちもいました。そうです。あなたたちはあの場にいて聞いていましたね。
わたしは言いました、「わたしが教えていることに、あなたたちは反対しています。それが問題なのです。さあ、誰か、自分の聖書を持ってここにきて、わたしの隣に立って、その教えのどこが間違っているのか証明しなさい。」あたりはこの上ないほど静まりかえりました。「いったい、どうしたというのですか?」「もしみことばに対して堂々と反論できないのなら、引き下がっていなさい!」
113
「あなたたち、神学博士らよ、・・・。あなたたちは自分を紹介するときにドクター何々と言い、わたしは(わたしはわかりません・・ウッド兄弟とわたしは『チェチャコchechaco』と言います)未熟者です。わたしは無教養ですし、どこの神学校も出ていません。あなたたちは、自分の聖書を持ってここにきてわたしの横に立ち、蛇の種やイエス・キリストの名による洗礼やその他、わたしが教えたことについて反論してみなさい。」
誰も何も言いませんでした。みんな知っていますね。かつてないほど静まり返っていました。わかりますか? 彼らは、わたしが何も知らないかのように騒ぎ立てるのです。さて、そこでです。わたしは、人に議論をふっかけるのはよくないと思いますが、人から議論にひきずりこまされそうになったなら、・・・。わたしだったら行かなかったでしょうが、聖霊がこう語りかけてくれました、「さあ、行きなさい。わたしがあなたに味方する。」
114
事が起きる3日前に話しました。みんなそこにいましたね、カールソンさん、トミー・ヒックスたちが同席していました。わたしは3日前にそこに行って言いました、「あの場所をキャンセルすることになりますよ。」
集会の晩は嵐でした。主が言われました、「3番目のドアの、あの窓のところに立ちなさい。」そこでわたしは行って立ちました。こんなふうにして外をみていると、主が言いました、「彼らはあなたに罠を仕掛けた。彼らは大シカゴ合同奉仕者大会で、あなたに話すように促すだろう。」「わたしのことばをあなたが教えるので、それについて彼らはあなたに罠を仕掛けるのだ。」「彼らは予約していた場所をキャンセルする・・・彼らはその場所を利用することができない。そこで彼らは別の場所、これこれの場所を使うことになる。」
115
わたしは立ち止まって、自分が部屋のすみにいるのを見ました。わたしは振り返って、見たのです。彼ら奉仕者がそこに座っているのを。わたしは彼らを見渡しました。すると神が言われ・・・。わたしはこう思いました、「ああ、もし彼らがそんなことをするなら、わたしはその場に行かないほうがいいな。彼らの感情を害するようなことや間違ったことをしたくないから。」
神は言われました、「行きなさい。わたしがあなたに味方するから。」そして、そうされたのです。そうです。ここにいるあなたたちは、あの時あの場所に居合わせて知っているので、そのことの証人です。テープもあります。そのとおりだったのです。
116
さて、これがその奥義です。その解き明かしがわたしに示された時、それは今朝夜明け前のことでしたが、すぐさま聖書開いて探し始めました。そうして検索したところ、見つけたのです。それらのうちの三つが、今のところ超自然的につぶさに明かになったのです。さて、わたしが受けた解き明かしによると、黒い馬の奥義はこうです。
彼は暗黒時代を馬で駆け出しました。黒い馬が表しているのは『暗黒時代』です。暗黒時代は、残存の真の信者にとっては、真夜中です。教会時代のメッセージで、真ん中の教会時代を調べてください。それは暗い教会時代です。主がこう言われましたね、「あなたは力が弱かった。」彼ら、真の信者にとって、それは真夜中でした。
117
さて、よく聞いてください。この者が教会と国家を支配するようになったので、真の教会の希望は、実際に完全になくなりました。彼らはどうするのでしょう? カトリックが教会と国家を統治し、カトリックの教えに従わない者は、みな殺されました。だから彼は黒い馬に乗っていたのです。そして彼がした暗闇のわざを調べてごらんなさい。そうすればわかるでしょう。歴史がわかるなら、調べてみなさい。でも、調べるまでもなく、このことを知ることができます。
さて、よく聞いて。すべての希望がなくなったのは黒い馬のせいです。彼は白い馬に乗りました。それはずる賢く欺くためです。それから彼には力が与えられ、平和を奪い、何百万という人々を殺しました。彼が馬上でやってきたことがそれです。彼は今でもそうしています。わかりますか? さて、今度は黒い馬に乗って現れました。
暗黒時代、当時はそういう時代でした。教会が設立されて力を持つようになった頃から、彼らは全てを制圧して、それが何百年も何百年も何百年も続きました。それがみんなが知っている暗黒時代です。どれだけの人が暗黒時代を知っていますか? 黒い馬は暗黒時代を表しているのです。
118
さて、希望は微塵もなくなりました。小さな信者の群れにとっては、すべてが闇でした。それが黒い馬を表しています。
騎士は手に秤を持っており、こういう声が聞こえました、「小麦一ますは一デナリ。大麦三ますも一デナリ。」小麦と大麦は生きるために必要な自然物です。パンなどはそれで作られます。でも、彼はこれに課金していたのです。その意味するところは、・・・彼は、生きる希望となるようなものを作って彼らに提供し、それにお金を取っていたのです。つまり、その頃から彼は、祈りを施すことにお金を取り始めたのです。有料の祈りです。今でもおこなわれていますね。ノベナです。なんでそんなことを彼はしていたのでしょう? 世界中の富を所有するためです。秤ではかって、「小麦一ますは一デナリ。大麦三ますも一デナリ。」
黒い馬に乗っているものは、・・・信者からお金を搾り取りました。聖書はそのことを、世界中の富を彼がかきあつめると、前もって記しています。昨晩ロシアなどについて話したように、彼らはお金を取って、人々からあらゆるものを搾取します。そうなのです。
119
さて、よく聞いて。教会でお金を取るようになったのは、どこが最初かわかりましたか? そんなことはやめてしまいなさい。組織を建てるため、100万ドルを要する大きな事業のために・・・こんなことは、どこから始まったのかわかりましたか?
父よ、感謝します。ああ、本当に、わたしは嬉しく思っています。そうです。ここまでわかったのは、ひとえに神の恵みです。そうです。真夜中だったのです。理解できるようになりましたか? 彼は生きるための手段に課金しています・・・。それが大麦や小麦のことです。それは自然に関することで霊的なことではありません。大麦パンや小麦パンのことです。彼はそういった命に関わるものに課金して、信者に与えていたのです。煉獄から救うために、司祭による祈りをして信者からお金を取ったりして。お金を取るというのは、歴史的事実です。ノベナと言うんだと思います。そうです、みんな知っていますね。ノベナというのは、いやでもしなければならないことで、懺悔のようなものです。誰かが、そのためにお金を請求しなければならないのです。
自分のために、自分の教会のために世界中の富を引き寄せ、乗っている者は、いまだに馬上で駆けています。本当にそうです。今でも騎士となって乗り続けています。
120
さて、今度は良いことの方に移ります。「リブ油とぶどう酒とを、損なうな。」ということばに注目してください。ほんの少しでも残っていたのです、兄弟。「それに触ってはいけない。」さてオリブ油とは・・・それは聖霊を象徴しています。
よければいくつかの聖句を挙げましょう。レビ記8:12。アロンは神殿に入る前にオリーブ油を注がれなければなりませんでした。それからゼカリア書4:12。二本の管から油が注がれて、「これはわたしの霊である」という箇所です。もっと知りたければ、マタイ14・・・25。そこには愚かなおとめの話があります(25:3)愚かなおとめは油を持っていませんでした。つまり聖霊のことです。それからマタイ25:4。賢いおとめはランプに油も持っていました。つまり、聖霊に満たされていたということです。油は聖霊の型です。ああ、素晴らしい!わかりましたか?よろしい、
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さて、油は聖霊の象徴です。そしてぶどう酒はというと、啓示のための刺激剤です。わあお、あちこちを走り回りたくなりました!そのことを主が教えてくださった時、ご近所さんを起こしてしまわなかったのが奇跡です。啓示のための刺激剤。聖書では、油とぶどう酒は常に、対で書かれています。コンコーダンス(用語索引)で調べてみたら、ずらずらーっと、ぶどう酒と油が対で出てきました。分かりますね?
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約束されていた神のことばの真理が、油で満たされている聖徒らに明らかにされると、彼らはみな、活気づきます。ぶどう酒は刺激剤です。素晴らしい、なんだか素晴らしい気分になってきました!喜びが湧き上がって、叫びたくなります。そうすると、ぶどう酒が人に与えるのと同じ影響が起こるのです。というのは、神の真理が啓示され、それが解き明かされると、油で満たされている真の信者は、刺激されて興奮し、並外れた行動をとるからです。そうです。素晴らしい!今この場で起こっている現象が、そういうことなのでしょう。そうです。普通でない行動をとるようになるのです。
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さて、このことを裏付けする聖句が必要でしたら、使徒の2章から呼んでください。彼らには約束が与えられていました。約束の聖霊が彼らの上に降ったとき、それは聖書的裏付けの・・・。
さて、彼らは、「さあ、待っていよう。主は我々の働きのためにここで待つようにと言われたのだから。」と言って8日間待ったのち、「そうだ、こうしようか・・・」「我々はすでに約束のものを受けたんじゃないか?そう思わないか?そうだよ、もうすでに受けているんだよ。なんでまだ待っているんだ?もう宣教しに町にくり出すべきだよ。主はここで待つように言われたけど、もう8日もずっとここにいるのだから。」とマルコが言い、
マタイは、「でも、もう1日だけ待とうよ」と言いました。
それから9日がたち、マルコか誰か、多分ヨハネが、言いました、「もうこれ以上、待つ必要はないよ。すでに約束のものを受けたさ。そうじゃないか?」
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わたしには、シモンがこう言うのが見えます(シモンは鍵を持っていますからね)、「ちょっと待てよ、みんな!このことは聖書に書いてあるんだ!主は、何日待つようにとは言われなかった。ただ、ことが起きるまでそこにとどまるようにと言われたんだ。それはヨエルの預言が成就するまで、イザヤの預言にあることば、『主はどもるくちびると異国の言葉をもってこの民に語られる。これが元気を回復させるものである。これが注がれるぶどう酒である。』このことが本当だと立証されるまで待つようにと言われたんだ。」
聖書の中で、ぶどう酒はなんであると書いてありますか? 元気を回復するものです。これが主のみ前からくる元気回復剤です。それは聖書的なものなのです。
だから、わかりましたか? ぶどう酒は啓示のための刺激剤なのです。聖霊が降って彼らの上に神の炎が下りると、彼らは活気づくのです。それで、彼らは興奮しすぎて、周りの人から酔っ払っていると勘違いされました。でも酔っ払っていたのではなく、啓示を受けて活気づいたのでした。
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そうです。神が立証してくださった啓示が、彼らにはっきりわかったので、彼らは嬉しくなったのでした。神は約束されました。その約束が今や明らかになり、彼らに立証されました。アーメン!その場に立っていたペトロは言いました、「これこそ、そうだ。このことだったんだ。」預言者が言っていたことが、同じしるしによって立証されました。これこそが、啓示のための刺激剤です。彼らにはそれが備わっていました。
だからペトロは立ち上がってこう言えたのです、「さて、ユダヤのみなさん、エルサレムに住むみなさん、わたしに耳を傾けてください。お偉い方々、わたしがこれから語ることを聞いてください。」ああ、なんと素晴らしいことが起こったのでしょう。約束されたことばが、今こそはっきりわかったのです。それが立証されたとき、彼らは非常に活気づきました。これはその時だけのことではありません。今でもそうです。
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こんにち、神が約束されたことを主から見せていただくとき、この終わりの日に神が約束された封印の解き明かしを、主から見せていただくとき、・・・主が封印を解き明かされるのを目にすることがどれほど喜びであり、栄光であるか、あなたたちにはわからないでしょう。立って、それが解き明かされるのを注視するのです。わたしが誰からも受け取らないし、要求もしないことを教えていただき、主はわたしたちにそんなことは一言も語られませんでしたが、そういうことが起こったことを教えてくださいました。それから、この終わりの日の約束を見るとき、主から約束されていたことが、そのとおりに起こるのを見せていただき、それが完璧であることを知るのは、心の喜び以外のなにものでもありません。
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わたしが「敬虔な気持ちになった」というとき、これがその状態なのです。活気がわきすぎて、敵を殲滅しに勇んで飛んでいきそうになるのです。啓示を受けてからの興奮です。
その通りです。彼らは、約束が自分たちを通して成就したという啓示を受けてとても活気づきました。打ち破りがあったのです。神が約束を解き明かしてくださたとき。周りの人々が、「彼らは、新しい酒に酔っているのだ」と言うくらい、爆発的喜びが起こったのです。主は解き明かすだけでなく、それを実証されました。これがわたしがいつも言っていることです。「人はなんとでも言うだろうが(人はなんでも言いたがるのです)、神が来られてそのことを実証されたら・・・」
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さて、聖書はこう言っています、「あなたがたの中に霊の人、あるいは預言者がいて、これこれのことが起こると言い、それが起こらなかったら、その者に耳を貸さなくてよい。そういう者の言うことを恐れなくていい。無視しなさい。でも、その人の言ったことが、そのとおりになるなら、それはわたしが語っているのである。」「わたしがその者をとおして語っているのである。それがわたしがいる証拠である。」
あのサマリアの女は・・・。メシアが来られたら、こういうことをすると聖書が記していることを、目の前に立っている人がしたとき、聖書が記したとおりのことを行ったとき、彼女は言いました、「この人がメシアだ!さあ、みんな、来て確かめなさい。これこそ聖書が起こると言っていることの実現ではないでしょうか?」
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129 彼女は啓示を受けて活気づいたのです。そうではないですか? 彼女は、受けていた啓示が実際そのとおり起こったとき、活気づきました。そうです。彼女は知っていたのです・・・「キリストと呼ばれるメシアが来られるとき、これらのわざをされることを知っています。」彼女は見たのです。
主が言われました、「わたしがそれである。」
すると奮起し始め、彼女は跳んでいき、町中で叫びました。水瓶を置き去りにし町の男たちに言いました、「行って確かめなさい。」
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東洋の習慣でいえば、彼女の行動は許されないものでした。そうです。あのような部類の女は、誰からも相手にされないのが当然でした。彼女にはレッテルが貼られていたので、町であのような行動をとっても、町の誰もが無視するのが当然でした。しかし、兄弟よ、彼女はいのちのことばを携えていました。彼女は活気づいていたのです。風の日に火事を消そうとするようなものです。そのとき何かが、火を煽っていました。彼女には準備ができていたのです。火を消すことはできません。それは神の火が燃えていたのですから。そうです。
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彼女は言いました、「信じられないなら、集会をやっているから行ってみなさい。そしたら教えてあげるわ。」それで人々は行ってみました。主は同じことを二度はされませんでしたが、彼女に何かが起こったことだけは彼らにもわかりました。彼女は変わったのです。それで彼らは主を信じました。そうです、彼らは主を信じました。なぜなら、「信仰は聞くことから始まる、」神の約束、神のことばを聞くことから、そしてそれが本当であることを認めてから始まります。それは種だからです。種が蒔かれると、いのちが芽生えます。言われたとおりのものを生み出します。もしそうでないなら、それは神から遣わされた種まき人ではありません。だから岩のてっぺんかどこかに蒔かれたのかもしれません。だから正しい種まき人が蒔いた種は、正しい場所に蒔かれるように、神が手配しておられます。素晴しい!
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それで、この黒い馬に乗る者に、どういうことばがかけられましたか? 「オリブ油とぶどう酒とを、損なうな。手を触れるな。それはわたしのオリブ油とぶどう酒である。ほんのちょっぴりではあるが、それだけでも残っているのだ。おまえが消そうとしているあの類いの命を秤にかけるのは構わない。それはおまえ次第だ。おまえの悪行はいつかおまえに帰ってくるのだから。でもあのぶどう酒とオリブ油には、おまえの手を触れさせない。」
「もしできるなら・・・」言い換えれば、「わたしの油とぶどう酒で満たされている小さな群れ(純粋なみことばのぶどう酒と油です)を捕まえて、殺そうとするなら、それがおまえのしていることだが、彼らに『めでたし聖寵満ち満てるマリア』と無理やり唱えさせたり、おまえの信条を押し付けたりしてはならない。彼らから手を離せ。わたしの油が注がれているので、彼らは行く道を知っているのだ。それにわたしの油を注がれているために、彼らには喜びのぶどう酒がある。彼らがわたしの約束のことばを知っているので、わたしは彼らを復活させる。このことを妨害してはならない。彼らを混乱させてはいけない。手を離しなさい。」いえいえ。
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神はご自分のことばを証明して実行されます。彼らは復活することを知っていました。ああ、なんと嬉しいこと。彼らは復活します。今走っているのは黒い馬です。暗黒時代です。白い馬が走って、乗っている者が何をしたかをはっきり知りました。それから赤い馬が現れました。私たちはその乗り手が何をしたかを知りました。今度は黒い馬です。乗っている者は常に同一であることを確かめましたね。時代を通して彼がしていることも。
さて、乗っている者が、はかってお金を取っていることがわかりました。そうです。麦は自然の命です。麦は生きる糧です。でもオリブ油とぶどう酒の喜びは霊を象徴しています。「それは霊のいのちである。それを損なってはいけない。手を触れるな。」言い換えれば、「ローマよ、それに触れてはいけない。それはわたしのものだ。わたしに属するものだ!」
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さて、もうひとつ、気づいてもらいたいことがあります。「オリブ油とぶどう酒とを、損なうな。」と言ったのは、四つの生き物ではありません。気づいていましたか? 四つの生き物はすでに宣言しました。でも注意して聞いて。その箇所をもう一度読んでみましょう。
小麦一ますは一デナリ。大麦三ますも一デナリ。オリブ油とぶどう酒とを、損なうな」。
さあ、よく聞いて、
「すると、わたしは四つの生き物の間から出て来ると思われる声が、こう言うのを聞いた、・・・」
では誰が語ったのでしょう? 子羊です!四つの生き物ではなく、子羊が語ったのでした。なぜ? 子羊はご自分のものを受け取ることになっているからです。彼らは子羊に属しているのです。アーメン。「そのオリブ油に触ってはいけない。」そう、それは四つの生き物ではなく、子羊が語ったのでした。そうです。子羊です。四つの生き物は語りませんでした。子羊が語ったのです。四つの生き物は「きたれ」と言い放ち、ことが始まり、それを見ることができました。そして彼が言ったのです、「小麦一ますは一デナリ。それと同じように大麦もそこそこ・・・」その時、子羊が生き物の間から叫んだのです。「オリブ油とぶどう酒とを、損なうな。」そうです。聞き入ってください。「それに触ってはいけない。さもないと、いつか痛い目にあうからな。」おや、9時半です。
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最善の理解と、最善の知識とをもって、私はこれが三つの封印の本当の意味であると心から信じます。神に感謝します。これが、神が私に与えてくださった啓示であると、はっきり言います。神が、その解き明かしを与えてくださいました。そして、今が終わりの日であることを強く信じます。
明日の晩は青白い馬にとりかかります。今現在は、わたしにはわかりません。わかっていません。それが本当であることを神はご存知です。何ひとつわかりません。古いテキストを調べました。ちょっと前にグラハム・スネリング兄弟を見かけました。彼は出て行ったのかもしれません。でも前にここで説教した時、何を言ったのかを調べました。何年も前のことですが、いつか黙示録を通しでお話しすると言ったのです。四人の馬の騎士をいっぺんに。
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わたしはこう言いました、「白い馬は初代教会です。間違いありません。」アドベンティストやその他の本を読んだので、こう言いました、「それは初代教会が出て行って制服したのだ」と。
次は黒い馬です。わたしはその黒い馬について何と言ったか覚えていませんが、あ、赤い馬のことです。わたしは言いました、「その赤い馬は、多分、行く手に待ち受ける困難のことだ。」「多分多くの戦いが起こるのだろう。」「それが解釈である。」
137
それから、「青白い馬、もとい、黒い馬は、多分地上に闇の時が訪れることを意味するのでしょう。星は光るのをやめ、太陽は沈み、月は輝きを失うことでしょう。」と言いました。
それから、「青白い馬は、これから多くの病気がはびこることを表している」と言いました。でも今は、それが何を意味しているのかわかりません。とにかくこれらが当時のわたしの解釈でした。それが最善の解釈だったのです。でも今・・・おっと、何かを言ってしまうところでした。ああ、あとでわかります。注意していてください。さて、今のこの時を幸せだと思いませんか?(編注:会衆が「アーメン」と言う)今はこれらのことがめきめき明らかになってくるのですから。
国々は没落し、イスラエルは覚醒す
聖書が予告したしるし
異邦人の時の幕切れが迫り
恐怖が邪魔をする
戻って来い。四方に散らされたものよ。
贖いの日は近い
人の心は恐れで崩折れんばかり
御霊に満たされよ。
ともし火の手入れをせよ。
見上げよ。あなたの贖いは間近だ。
偽預言者がうそぶく。
神の真理を否定する
イエスキリストは我らの神
(そう信じますか?)
しかし我らは使徒の歩んだ道を歩く
贖いの日は近い
人の心は恐れで崩折れんばかり
聖霊に満たされよ。
ともしびの手入れをせよ。
見上げよ。あなたの贖いは間近だ。
138
すばらしい、贖いの日は間近、いいですね。
夕べの刻に光がある
栄光の道は必ず見つかる
水の中の道は今日の光
尊いイエスの名のもとに隠される
老いも若きも、罪を悔い改めよ
聖霊が必ず訪れる
夕べの光がやってきた
神とキリストはひとつである
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キリストはみことばです。おおお、素晴らしい!
まもなく子羊が花嫁を迎える
永遠にかたわらに
天の軍勢が集められ
輝かしい光景となる
聖人はみな真っ白な衣を着
イエスとともに永遠の饗宴
主人が呼びかける「さあ、食べて」
「さあ、食べて」
イエスの食卓で永遠の饗宴
群衆に食べさせ
水をぶどう酒に変えたお方
飢えているものに呼びかける「さあ、食べて」
主人が呼びかける「さあ、食べて」
「さあ、食べて」
イエスの食卓で永遠の饗宴
群衆に食べさせ
水をぶどう酒に変えたお方
飢えているものに呼びかける「さあ、食べて」
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お腹が空いていますか? 「幸いなるかな・・・」主を愛していますか?(会衆が「アーメン」と答える)愛しているなら、「愛しています」と言いましょう。さあ、みんな立って両手を上げて、愛を表現しましょう。「主よ愛します。愛します。あなたが先に愛してくださったから。」そうです。さあ、みんなで一緒に。
愛します。愛します。
彼が先に愛してくださったから
そしてわたしのために救いを買い取ってくださった。
カルバリの木の上で。
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(編注:兄弟が異言を語り、ブラナム兄弟が黙る)静粛にしてください。解釈者がいますから。ヒッギンボサム兄弟です。今夜彼はきていますか? 来ていない・・・神がなんと言われたのか知るために、ちょっと待って。(編注:姉妹が解釈をする)聞きましたか? 主を讃えます。わたしの信仰は神によって高められました。この夜心を込めて神を愛しますか? (編注:会衆が「アーメン」と答える)讃えましょう。言いましょう「主よ、ありがとうございます。どれほどあなたに感謝していることでしょう。」(編注:会衆が神を讃える)どれほど心からあなたを讃えていることでしょう。主よ、神に栄光あれ。すべての民よ、主を讃えよ。神があなたたちとともにおられますように。(編注:会衆は喜び賛美し続ける)〔ネビル兄弟が連絡事項を
話していますー編集。〕