62-0401 信仰をとるか、知恵を用いるか

  • 伝道者:ウィリアム・ブランハム
  • アメリカ合衆国インディアナ州ジェファーソンヴィル
  • 録音番号:62-0401
  • 年:1962
1
ありがとう、ネヴィル兄弟。主の祝福がありますように。 みなさん、おはようございます。主の家に戻って来れて嬉しいです。数分前に馴染みのミニスターから 頼まれて、彼のために祈ってきたところです。彼はずっと主に仕えている聖人で、体にどこも悪いところはないのですが、気を失ってしまったのです。ちょうどわたしも、ここに来る道中で、気分が悪くなり、 吐きました。そこで彼に言いました、「お互いに祈りあわなけばならないみたいだね。」彼とは、コッギ ンス兄弟のことです。彼のことはこの会堂でもよく知っていますよね。カロライナから来る兄弟です。 彼はひどく具合が悪くて、立ったまま失神してしまいましたが、体にはどこも悪いところがないのです。 だから、悪魔が彼に攻撃を仕掛けていたのです。悪魔は巧みな誘惑者で、その点にかけてはとても優秀です。
人のことを決して悪く言わない姉妹の話を聞いたことがあるでしょう。
「あなたは、悪魔のことをどう思いますか?」
「ええ、悪魔は抜群の敵です。」そういうものなのです、悪魔は。
2
今週も、この主の家で、みなさんと主イエスの訪れを待つことができて嬉しいです。
さて、今朝は「血による庇護のもとで」という題の話をしようと思っていたのですが、なぜか聖霊がわたしに、変更を促している気がしました。それで昨夜、こう尋ねました、「なぜ主は、『血による庇護のもとで』という題の話をしようとする気を変えようとされるのでしょうか?」約束の地に向かうイスラエルが血の守りのもとにあったことが、話の内容です。いずれまた、この話もするでしょう。
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それで以前ここで見た夢のことを思い出したのです。それほど前の事ではありません、その夢の中で、わたしは教会に食べ物を蓄えるよう言われました。この夢の話をしましたよね。覚えていますか? 夢の解釈まではできなかったのですが、そんなに長い話ではないので、よかったら、もう一度話しましょう。
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わたしは、意味のある夢を見ることは滅多にありません。夜遅く床に入り、しばらくして目が覚め、神経過敏な状態か疲労困憊の時、そこで夢を見て、それから熟睡し、また夢を見て、起きる。わたしのような神経質な人はこのようなものです。それで、わたしはウッド兄弟とソスマン兄弟と一緒だったのです。場所はアリゾナ州ツーソンでした。主は、いつも完璧に夢と解釈を与えてくださいます。
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誰かがわたしに、夢の話をします。するとその夢の解釈をするために、わたしはその夢を再現して見なければなりません。大勢の人がこのことを知っていますよね。誰かが、見た夢の話をします。しかし夢のすべてを話すわけではありません。それでわたしがその夢を再現して見ると、話し漏れたことがわかるのです。だから誰かの夢を再現して見なければなりません。そうすると主が教えてくださるのです。夢を見た人にとって、時には辛辣な、時には厳しくて受け入れがたいことがあるかもしれませんが、包み隠さず正直に伝えなければなりません。主のことばですから。それを誰もが望んでいます。そして主は、常に正しい解釈を与えてくださいます。
6
それで、その晩寝ていて夢を見ました。自分の夢です。昔一緒にボクシングをした仲間・・・わたしはドアのところに立っているロイ・スローター兄弟のことを考えていました。彼は、この教会で一番の古株ではないでしょうか。スローター兄弟は多分一番古くからこの教会にいますよね。
彼のことを話すついでに、みなさんが知らない彼のことをお話ししましょう。彼は腹心の兄弟です。彼がこの世を去った後に花輪を送るより、今、彼に花束を送りたいと思います。彼は本当に良い点がたくさんあるのです。
ロイ兄弟とその家族は、わたしにとって本当の兄弟です。彼は一生懸命に働き、家族を養い、子どもたちを育てました。彼の子どもたちをよく知っています。彼の息子が幼くして亡くなった時、わたしは葬儀の説教をしたことがあります。
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まえに、教会の大工仕事をした人物がいました。教会にはお金がなかったのですが、彼は室内に何か取り付ける作業をすることになっていました。仕事をしたいと願ってやって来たのですが、彼は仕事をせず、ぶらぶらしていて1時間半くらいの仕事をしたと言って、足を怪我しました。それが、(ちょうど教会を訴えるのにじゅうぶんだったので)彼は教会に対して1万ドルの賠償を請求して訴訟に持ち込みました。私たちは裁判になるまでそのことを知らなかったのです。その男は保険に入っていなかったので、そのしわ寄せがわたしたちにかかって来たのでした。わたしたちに支払う義務はなかったのです。
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しかし、あの夜の出来事を忘れることはできません。後ろのちょうどそこの席に座っていたロイが、ポケットから(ロイ兄弟、失礼を許して。)ボロボロの財布を取り出して、中からなけなしの小切手を引っ張り出して言いました、「ビル兄弟、これをその足しに使って。」
彼の妹のエヴェリナは、(多分、どこかに座って聞いていますね)「ブランハム兄弟、わたしの家は、売っても300ドルくらいにしかならないでしょうが、わたしたちはそれをそのために充てます。」これこそ正真正銘、本物です。わたしの書によれば、これこそ真正です。
それからしばらくたって、わたしは初めての宣教集会に出かけていました。セントルイスで大きな集会をもっていたところ、電報が届いて、「娘が危篤 スローター兄弟 スグカエレ」とありました。急いで荷物をまとめました。彼をがっかりさせることはできなかったので、すぐに家に戻り、ニューアルバニーにあるカトリックの病院の病室にとんで行きました。病院側はもう助かる見込みがないと諦めていたのですが、わたしたちが病室に入った途端に、主イエスがスローター兄弟の娘を癒してくださいました。ここにその彼女がいます。水に浮かべたパンのように、恩恵はいつの日か戻ってくるのです。
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話がそれてしまいました。夢の話に戻ります。わたしはかつてボクシングをしていました。ジョージ・スミスという男がこの町に居て、哀れにも今では飲んだくれになってしまいましたが、彼の息子は警官になっています。人は彼のことを6秒スミスと呼びました。アマチュアボクシング大会が始まる前、彼がわたしのボクシングトレーナーをしてくれました。わたしたちはここのボクシングジムにいて、彼は最も荒々しい人物でした。彼がちょっとわたしを打つと、わたしは竜巻に巻き込まれたように空中に飛ばされました。起き上がって、わたしは抗議しました、「そんなに激しく打つ必要ないじゃないか。息の根が止まるほどだったよ。」
すると彼は言いました、「いいか、ビリー。どれほど練習を積んでも、どれほど運動経験を積んでも、おまえの等級でどれほど強くても、こんなふうに打たれて、強打で血を止めなきゃダメなんだ。今は俺のことを憎いと思うだろうが、リングに立った時に、ありがたみがわかるさ。」「打たれることで体が鍛えられて回復が早くなるんだ。打たれたら、リングに倒れる。そしてカウントされる。しかし体が鍛えられていれば、強打に持ちこたえることができるようになる。そうしたら、豪打されてもすぐに回復してもう一度立ち上がることができる。ノックアウトされても、またリングに戻る。」そう言って彼はわたしを場外まで打ち飛ばしました。それから言いました、「とにかくやってみるんだ。わかるか?」彼はわたしを殺すところでした。彼はわたしより15キロほど体重が上でしたし、彼は闘士で、わたしは生徒でしたから、本当に殺されかけました。しかし彼が言った「リングに立てば、ありがたみがわかる」という言葉は、真理でした。
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軍曹が若者を訓練するときは、手荒なやり方をすると聞いたことがあります。若者たちは軍曹を憎みますが、戦闘が始まると、手荒な訓練をしてくれた彼を慕うようになると。そしてそのようにわたしも、キリスト信者を鍛えているのです。髪をショートカットにしてはいけません。化粧をしてはいけません。など、手厳しく言います。でも最終的にはわたしのことをありがたく思うでしょう。訓練は必要です。正しく訓練することが。みことばには従いましょう。みことばと教団の相違を徹底的に洗いだすので、手荒いと思うかもしれませんが、最終的にはありがたいと思うようになるでしょう。最終的には聖書の味方となるのですから。
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夢の中のわたしは妻と手を組んで現れ、ジョージ・スミスが(今、彼は白髪頭だと思います。わたしより10才ほど上のはずです。)リングに立っているのを見ていました。彼は奮闘していました。肩の広いがっしりした若者たちが戦いに挑みましたが、とうてい彼の相手になりませんでした。彼らは1分で打ちのめされたのです。一人の若者が、「わたしならあの老人を打ちのめすことができる」と言い、リングに登りました。彼は屈強な体格をしていましたが、30秒も持ちこたえることができませんでした。リングを後にしながら、「どこからあんな力が出てくるのかわからない。しかしあれは大した男だ。」と言いました。
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その時、わたしは妻を見て言いました、「彼がわたしを鍛えてくれたんだよ。」それから、(夢っていうものはおかしなものですね。)わたしは大きな海にいました。波が立っていました。(妻のメダはその時わたしと一緒にはいませんでした。)船頭がやってきて、「あなたのボートですよ。」と、わたしに小さなカヌーを渡しました。90センチくらいの長さの真っ白いカヌーでプラスチック製でした。
「そんなボートでは渡ることができない。」とわたしは言いました。
「でも、こうすれば時速80キロで走ることができますよ。」
「それは岸辺だったら浮かんでいられるでしょうが、ここを渡っていくには無理です。」
彼は、「それなら、彼らを連れて行きなさい。」と言いました。見ると、ウッド兄弟とフレッド・ソスマン兄弟がいました。この二人はわたしが夢を見た夜にちょうど一緒にいたのです。夢の中で彼らは、操帆装置を取り付けた緑のカヌーに乗っていました。キャンプ用品も載せていました。船頭は「彼らと一緒に行きなさい。」と言いましたが、
わたしは答えて言いました、「彼らは船頭ではありません。わたしは船頭で、カヌーの操り方もわきまえていますが、彼らには無理です。それにそんなカヌーでは駄目です。」
「でも、彼らはあなたを慕っていますよ。」「それなら、ここに戻ってきて蓄えたらいかがですか?」
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それでわたしは戻って、クロンダイクのような小さな場所に行きました。(クロンダイクというのは文明から65キロも離れたような場所にある、牧場相手に商売をしている小さな店です)すると、その場所がこの会堂に変わりました。わたしは、見たこともないような立派な野菜の入った大きな樽を集めていました。90センチもあるような大根や、カブや緑の野菜にジャガイモなど、あらゆるものがありました。
「たくさん貯蓄しなさい」という声がしました。
わたしはそこで貯め続けているときに、目が覚めました。最初はただの夢だと思ったのですが、ずっと頭に残っているのです。でも意味がわかりませんでした。それでウッド兄弟や多くの兄弟に迷惑をかけたのですが、やっと意味がわかりました。今まで何回も言ってきたように、わたしは待たなければならなかったのです。ある事柄が順次起こらなければ、わからなかったのです。
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その夢の解釈はこうです。わたしたちは海外遠征を望んでいて、スイスに行ってそれからアフリカに行って6月にそこでキャンペーンをすることになっていました。腹心の友であるアーガンブライト兄弟は、わたしと妻のパレスチナ旅行の費用を請け負うと言ってくれました。妻とレベッカは、わたしがアフリカのキャンペーンを終えて帰路で合流するまで、ドイツやイギリスやフランスやパレスチナに行けることに心を弾ませていました。みんなワクワクしていたのです。
わたしがいつも、「主が望まれるなら、海外遠征に出かけるつもりです。でもまだはっきりわからないのです。」と言うのを、皆さん聞いてこられていますね。わたしは主からの答えを待っていたのです。そしてこれがその答えです。ジョージ・スミスは、(彼はわたしの最初のトレーナーであり、今日の若者が束になってかかっても相手にならないほどの闘士でした。)わたしの最初のプレイヤーラインの訓練を意味していました。つまりこうです。人々を前に立たせて、待っていますと、幻が来ます。次の人が前に立って、幻がきて、次の人が立って、幻が来て。文句なしにうまくいきました。
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プレイヤーラインを始めたばかりの頃は、何かを見つけるまでは一人の人にずっと時間をかけていました。しかしそれはいい方法ではありませんでした。主ご自身がわたしにストップをかけて、どうすればいいか教えてくださいました。それから人々を先に進ませて祈るようになると、効果は百倍でした。一晩に4〜5百人のために祈らなければなりませんでしたが、前のやり方ではせいぜい25〜30人、あるいはもっと少ない人数しか祈れなかったからです。多分10〜15も幻が来ると、それでもうわたしは精一杯でした。同じことにまた戻って、もう一度初めの訓練に戻るのです。結局のところ、この方法で立ち向かえないものはないのです。なぜなら、それはみことばですから。宣教の現場に必要なのは、宗派の教えではなく、みことばなのです、分かりますね。
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それから、夢の続きですが、メーダがいなくなった後、わたしは海に来ていました。それは海外に行くことを意味していました。
さて、アーガンブライト兄弟が先日電話でこう言いました、「ブランハム兄弟、これは大きな休暇になりますよ。シャカリアン兄弟が心臓麻痺で倒れてしまったので、海外での集会がキャンセルになったのです。」それで彼はスイスでの集会にわたしを誘いましたが、聞くとたった一晩の集会だと言うのです。集会はたった一晩だけで、あとは現地で休暇をとり、あちこち散策できるというのです。とてもいい話です。アーガンブライト兄弟は上等なクリスチャンで、わたしと家族の腹心の友でもあります。
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そして、でも、彼が乗りなさいと言って持って来た真っ白の小さなプラスチックカヌーは、神のことばでした。それはわたしが海を渡るのにじゅうぶんなほどの宣教活動ではありませんでした。それでわたしは言いました、「いいえ、それだけでは駄目です。」
すると彼は、「それなら、彼らのやり方で、彼らとともに行きなさい。」と言い、
わたしは、「彼らは船頭ではありません。宣教師です。わたしは福音の奉仕者です。もし彼らと行くなら、キャンプをしたりして、休暇を楽しむことになるでしょう。」と言い、その誘いを断りました。これが夢の解釈です。
数日前に、アーガンブライト兄弟が電話をくれました。シャカリアン兄弟の状況のために海外での集会がキャンセルになったことはすでに知っていましたが、スイスで一晩だけ集会があるというのです。それでメーダの意向も聞いておかなければならないので、ジョージアから彼女に電話しました。「アーガンブライト兄弟が言うには、5月20日に発たなければならないそうだ」
すると彼女は、「駄目、それは駄目。子どもたちの試験期間だわ。それは無理。」と言い、彼女は旅行に参加しないと意思表示しました。これは彼女のための休暇旅行だったのです。さて、そういうことです。夢とはいえ、すべてのことに意味が含まれています。すべてのことがどこかに意味を含んでいました。こういうわけで夢には解釈があるのです。
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さて、理解していただけるよう話します。テープに残すためにも。家に帰る途中で・・・・、(どれだけの人が、わたしがくりかえし言うのを覚えていますか?)ある朝、部屋の中で声がしました。幻のあと、「サーパントが縛られたので、もう恐れる必要はない」と言われました。それから主は、「恐れるな。あなたがどこに行くのであれ、わたしはともにいると証明しなかったか? あなたが狩に行くときも、わたしが一緒にいることを証ししなかったか?」と言われました。狩に行って何を仕留めるか、行く前にお話ししたことを覚えていますね。「あなたとともにいることを証明しなかったか?」それからとても優しい声で、「あなたがどこに行くにしても、決して離れることのないイエス・キリストの臨在が、あなたとともにある。」と言われました。それで、わたしたちが何か新しいことに進んで行こうとしていることがわかりました。それが何であるか、まだはっきりわかりませんので、ここで言うことはできません。
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先日、家に帰る途中で、幻を見ました。幻の中で少年のような細くて小さい人が縁なし帽をかぶっていました。わたしたちは狩をしていて、わたしは巨大な茶色っぽい熊を撃ちました。すると、狩仲間が振り向いてわたしに言いました、「でも集会では何か混乱が起こっていますよ。」
わたしが、「どんな混乱が起こっても関係ない。わたしが行かなければならないのなら、どこであれ、わたしは行きます。構いません。」と言ったところで、幻が終わりました。今言ったことはテープに録音されました。この幻は実現します。覚えていてください。幻に現れたことは実現します。
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さて、来週の日曜日、主が望まれるなら、わたしはテネシーに行きます。来週の土曜の夜と日曜日に、テネシー州クリーブランドのチャーチ・オブ・ゴッドのヘッドクオーターにM.E.リトルフィールド兄弟(彼の教会を2,3年前に献身しました)の所に行く予定です。来週の土曜の夜と日曜の朝です。日曜は朝の礼拝のみです。時間があれば、家族を連れて行き、戻ってきます。わたしは彼の教会でまた説教をすると約束しましたから。これは来週の日曜のことです。
それからその次の日曜日には、アーガンブライト兄弟がロル兄弟を連れてここに来ます。ロル兄弟は3、4人の大統領に仕えたワシントンの外交官です。彼らはここで新しい映像を見せてくれますから、できたらみんな集まってください。わたしも来たいと思っています。
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それに続く日曜日はイースターです。イースターには盛大な集会になるでしょう。主が望まれるなら、わたしもここに来たいです。その日には日の出の礼拝があります。いつものように洗礼も行われます。イエス・キリストの御名によって洗礼を受けたい人はみんなこの日にここにいらっしゃい。それからお知らせしたように、ここにはじゅうぶんな席がないので、ボーイズクラブを借りることになるでしょう。(そこは7〜8百席あります。ここからすぐのところ、角を曲がったところにある新しいクラブです。)洗礼式をここでしたら、イースターの朝は、誰もが快適に座れるよう、そちらに行きましょう。今週中に探してお知らせします。
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それからわたしはその月の25日か26日にここを発って、次の集会に向かいます。そして6、7、8、9、10日には、ビクトリア島にインディアンたちといることになります。そこに行くにはボートが必要です。
去年の秋の狩で一緒だった宣教の友人である兄弟は、妻とともに、家を離れて奉仕していました。彼の手やあちこちが赤剥けしていたので、どうしてか尋ねたところ、ノミ、シラミ、南京虫にやられたとのことでした。彼と妻は、家を離れてインディアンと生活をともにしていたのです。彼は集会に何人かのインディアンを連れて来ました。(彼らは皆カトリック教徒ということになっていました)その集会で、聖霊がインディアンのチーフをはじめ、連れて来られたインディアンたちに臨み、みんな癒されました。彼らは漁師で、ボートであちこちの海岸に出かけていました。エディー兄弟から呼ばれたので、そこに行こうと思っています。それからそこを発って、1日かけて移動し、フォート・セント・ジョンで2〜3日の夜の集会を開きます。アラスカハイウエイの途中にあります。それから2晩そこで過ごします。
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それから家に帰ってきます。そして6月7、8、9、10日には、みんなも行ける場所で集会をすることになっています。それはサザンパインというところです。皆さんも知っているでしょう。ちょっと前に、素敵な記事を送ってくれた兄弟のことを。ところで、彼はまた雑誌を送ってくれました。皆さんにもそれを見せなければなりませんね。主が望まれるなら、次の日曜日に持ってきます。そのサザンパインというのはここから6〜8時間ばかり走ったところにあります。ノースカロライナです。あれ?サウスカロライナでしたっけ? いえ、やっぱりノースカロライナです。
それから10日にそこを発って、11日と12日はサウスカロライナ州のコロンビアにいるビグビー兄弟のところにいます。
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彼がその記事を書いた人で、長老派の人です。その記事は、わたしについて書かれた記事のどれより、わたしの心を打ちました。彼は長老派で、神学博士です。彼はシカゴにやって来て、なんだったかタイトルを忘れたのですが、記事を書きました。それは本当にいい内容なのです。雑誌に載っています。確かペンテコステにおける長老派の集会とかそんなような、「長老派なんとかのペンテコステの預言者」とかなんとか。とにかくわたしは彼に会います。
それから昨夜、すでに西海岸にいるロイ・ボーダー兄弟に電話しました。35〜40の教会が、カリフォルニアのセダリアとグラスシティで行われる集会に協力してくれることになっているそうです。それからグラスシティを発ってオレゴンに行き、それからワシントン州に行きます。
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そしてアーガンブライト兄弟と合流して、7月の最後の週には、アラスカ州アンカレッジでクリスチャン・ビジネスマンの支部を立ち上げるためにリバイバル集会を開きます。6〜8日のリバイバル集会をアラスカの荒地で行う予定です。どんなだか想像つきますでしょう? 鉱山を探し当てようとする者たちや炭坑夫たちばかりです。ハムエッグが一皿$3.50もするような土地です。本当に荒々しいところですが、彼らは福音を必要としています。
さて、わたしがしようとしていることは、ここで語っているこれらのメッセージを、糧として貯畜、配給することです。何処といって特定の場所はないのですが、行こうと思っています。行って、種を蒔こうと・・・
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先日妻が、(彼女はここに来ていますが)イリノイ州に住む女性から手紙をもらいました。それがちょっとわたしの心の琴線に触れたのです。その女性の手紙はこうです、「ブラナム姉妹、あなたが結婚以来ずっと、多くの苦しみを経験してきたことに、疑いの余地はありません。ブランハム兄弟が長いこと留守にして、子どもたちと残されて。」「子どもたちはもちろん、お父さんを恋しがって泣いたことでしょう。」「あなたの気持ちがわかります。なぜなら、わたしには愛すべき夫がいるからです。」「でも、わたしのことをお話ししましょう。」「この4年間で4回大きな手術を受けました。」「一日に15〜16のトランキライザーを使っています。」「週に3種類のレキシトロンの注射をします。」「睡眠薬はひとつかみ飲んでいましたが、最近は神経を鎮めるための注射もし、それに加え睡眠薬を二瓶飲みます。それでも眠れません。」「医師からは、手遅れになる前に精神病院に行くように勧告されました。そこに行ったら、何か処置ができるかもしれないと。」「もう医療的に処置することはできないそうです。」「わたしは自殺を考えました。愛する夫と可愛い娘を残して。」「わたしたちはカンザスに住んでいます。この場所が好きです。麦の穂が実ってもうすぐ収穫だからです。」
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彼女はメソジストだったと思います。イリノイ州のブルーミントンのメソジスト大学に、・・・11ヶ月前にわたしがいたと書いてある手紙を彼らは受け取ったことでしょう。ここにいる多くの人がブルーミンガムでの集会を覚えていますよね。あなたはそこにいましたね。
彼女の手紙の続きです、「夫がわたしを連れて行ってくれました。友人も一緒でした。」「わたしがこれ以上一日ももたないことを、主はご存知でした。」(彼女はそれほどもひどい病気だったのです)「あなたの息子のビリー・ポールが券を渡してくれました、わたしが一番先でした。その晩あなたの夫が番号を呼んだ時、わたしが一番先に祈られることになったのです。」「ステージに立つとすぐ、彼はわたしの人生とわたしがしたこと、あらゆることを明らかにしました。そして、『もう苦しみは終わったと、主が言われる。』と、そう言われた瞬間からもう痛みがなくなりました。」「以前は体重が30キロくらいしかありませんでしたが、今は70キロくらいになっています。」「ブランハム姉妹、世界中の人があなたの夫を必要としているので、あなたが寂しいと思う気持ちがわかります。」「でも、彼が主に心を捧げたおかげで、カンザスの名もない主婦が、あの苦しみから自由になったことを、どうか覚えていてください。」
わたしはこの手紙をビリーに見せて、「これをあのメソジスト大学に送ってほしい。」と頼みました。
彼は山積みの手紙を見せ「これらも読んでみて。」と言いましたが、
「わかっている。どれも皆素晴らしい証が書いてある。しかしこの手紙だけでじゅうぶんだ。」と、わたしは言いました。
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聞きましたか?「不浄!不浄!」悪霊たちが彼を駆り立てています。(見えますか?まさに彼の心から出て墓に向かっている。)イエスが地上にこられた時、囚われ人を解放されました。イエスはみことばです。だからみことばを受けなさい。そうすれば解放されます。今わたしは語っています。自分の時間とあなたの時間を費やして。語りたいことがたくさんあります。頭を下げて祈りましょう。
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主よ、命に限りある者として、そんなにたくさんは語る時間が残されていないことを知っています。ここには、心が飢えている巡礼の旅人たちが集まっています。農作業を終えて畑から来た人もいれば、仕事を終えて事務所から来た人もいれば、山を越えて来た人、砂漠や沼を超えて来た人もいます。集まって来ても、座る席がなくて立っていたりします。みんな巡礼者です。この世に属していません。この世で暮らしているのは証のため、丘の上の光として、周りの人に光を示すためです。老いも若きもみな、あらためて献身し、みことばで回復するためにここに集まっています。立っていて足がつる人もいます。
主よ、みな、あなたを愛しています。だからここに集まっているのです。いったい誰が、ただ顔を見せるためだけに、立たされても壁にもたれても足が痺れるのにもかかわらず、何キロもドライブしてここに来るでしょうか。
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わたしたちは貧しいのです。素敵な格好をするためにここに来たのではなく、主よ、わたしたちはあなたを礼拝するために来ました。心にひとつの目的、ひとつの動機を持って−それは主よ、あなたです。神よ、あなたが彼らを豊かに祝福してくださることを祈ります。誰一人として、永遠のいのちをいただかないまま、ここから帰る人がいませんように。「そうすれば、道の終点に着いたとき、途中の苦労がなんでもなかったかのようになります。」
病気の人を癒してください。これからの集会の予定のことを話しましたが、まだはっきりわかっているわけではありませんが、あなたの望みであるなら、種をばらまくためにわたしは出かけて行きます。良い土地に種が蒔かれたならそれは芽を出すでしょう。主よ、良い土地に導いてくださるよう祈ります。
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説教壇上に置かれたハンカチや小包みは、ここに来れない病気や困難な人がいることを示しています。天の神よ、キリストを死からよみがえらせたお方よ、終わりの日に聖霊としてわたしたちに現れてくださっているお方よ、遍在されるお方よ、どうか見おろしてください。すべてのことをご存知の全知のお方よ、全能のお方よ、どうか、これらの小包に目を止めてください。それらが病人に触れたとき、聖霊が祈りをよみがえらせて神の耳に届けてくださいますように。そして速やかに彼らを癒してくださいますように。
主よ、先ほど話したカンザスの夫人のことを思います。彼女は、痛みがなくなり、どこも悪いところがなくなって、トランキライザーや睡眠薬に頼らなくてもぐっすり眠ることができるようになり、今では幸せに暮らしています。すべてが順調になりました。ああ、主よ、あなたが来てくださると、本当にすべてのことが良好に変わります。感謝します。
さて、父よ、わたしたちはみことばに向かいます。どうかあなたのみことばを祝福してください。決して虚ろにあなたに戻ることがなく、必ず最初の目的を成し遂げることができますように。イエスの御名によって願います。アーメン。
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みなさん、聞こえますか? 後ろの方の人、大丈夫ですか? こうやって喋るのとどっちの方がいいですか? こっちの方? 後ろの方の人も、こっちの方でいいですか? じゃあ、こちらの方を少し近づけましょう。
先週の日曜日は・・少し遅くまでかかりました。ひどく長い集会になってしまって、ああいうのは好みません。(わたしはちっとも構いまので、)座っている人が時々立っている人を見て、席を交換して休ませてあげたいと思ったら、どうぞそうしてください。クリスチャンの素晴らしい行為です。今度のイースターまでに、多分、別の集会を開くと思います。
33
さあ、今朝は・・・すべての兵士よ、剣を取れ。これから敵に戦いを布告するのだ。こういう歌をよく歌いましたよね。知っていますか。
戦いが進行する、おお、キリストの兵士よ、
断固として敵に向かえ
(この歌きいたことあるでしょう。)
武器がきらめき、軍旗がひらめく
この日、正と悪が交戦した
(そうですね)
戦いが進行する、弱ってはいけない
強くあれ、神の力によってしっかり立て
神が味方なら、神の旗印は我らが頭上に
最後に勝利を歌うのは我らだ!
(そのとおり)
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ではまず、聖書を読みましょう。ヨハネの福音書10章1節から5節までです。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門から入らないで、他の所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。
しかし、門から入る者は、その羊の牧者です。
門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。
彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。
しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」
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さて、今日選んだ話の題は、「知恵をとるか信仰をとるか」です。知恵と信仰を対比します。わたしたちには、生きていくための拠り所として二つありますが、知っていましたか?
生きていくための拠り所は二つしかありません。ひとつは知恵で、もうひとつは信仰です。知恵が何をもたらすか、また、信仰が何をもたらすか・・・今日はこの二つの拠り所について、聖書から答えをもらいながら、日曜学校の授業としたいと思います。この二つが何なのか、これから何をするのか、過去に何をしたのかを、主の助けを求めながら、解いていきましょう。
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信仰をとるか知恵をとるかです。まず最初にこの二つが登場したのは、創世記1章です。信仰が登場し、それから知恵が登場しました。今日でも、この二つは人の営みの中に登場しています。神が信仰の創始者です。人々が神のことばを信じ守ることを、神は求められます。かたや、サタンが知恵の創始者です。人々に彼の知恵(機智)を受け入れさせ、神のことばへの信仰から離れさせようとします。これが二つの拠り所です。
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種の章である創世記が、このような形で始まることに不思議を感じます。今現在起こっていることは、元をたどればすべて、創世記に行き着きます。創世記とは「ことの始まり」という意味ですから。現在起こっている事柄には、みな、どこかに始まりがあるはずです。何事も、始まりがどうだったか調べてみなければなりません。
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ここでちょっとした疑問を提します。すべてのものに始まりがあるなら、終わりもあるはずです。しかし、始まりがないものには終わりもありません。それが永遠というものです。ですから、みなさんに質問します。神の永遠の子という言葉は、いったいどういう了見で現れたのでしょう。もし子であるなら、始まりがあるはずです。もしイエス・キリストが永遠の子であるというなら、どうして彼は子でありながら、永遠であり得るのでしょう? 子というのは、なにかの産物です。ですからキリストは永遠の子ではあり得ません。神の永遠の子などどいうのは存在しないのです。なぜなら、キリストに始まりがないなら、永遠以外のなにものでもないからです。しかし、彼が子であるなら、始まりが存在します。だから永遠の子ではあり得ません。永遠の神が、子の姿をとって現れたというのが真理です。永遠の神です。神おひとりが永遠なのです。
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わたしたちが生きているのは、わたしたちの内に永遠のいのちがあるからだけでなのす。体は朽ちますし、あらゆる部分も朽ち果てます。しかし永遠は神なので朽ちることはありません。さて、神の御ことばである聖書は、神がことばの形で現れたものなので永遠です。神のうちには何が存在しますか? 神がことばを語られる前に、神の思いが存在しています。神の思いは神です。分かりますよね?わたしたち、あらかじめ定められていた者は、(『わたしたち』と言いました。わたしもあなた方共に含まれていると信じていますから。)あらかじめ定められていたので、永遠に神とともにいるのです。そしてもしあなたが神の子に生まれ変わったなら、あなたの内に聖霊がおられ、あなたは神の仰せになったことばの現れとなったのです。ことばになる前に、思いが存在します。ことばは、思いが語られたものです。思いは神のうちにありました。そして私たちは永遠に神の内にあります。わたしたちは、みことばによって「存在せよ」と語られて現れた者です。どのみことばによって? このみことば、神のみことばです。
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神は信仰の創始者で、サタンは知恵の創始者です。神が最初の子に、ことばを与え、それを信じなければいけないと言いました。もし信じなければ、神から切り離されて死ぬという罰を与えました。それからサタンが現れて、エバに知恵を与えようとしました、「あなたは賢くなるのですよ。神のように善と悪をわきまえるようになるのです。」
みなさんは、知恵が悪魔から出たものだと言われて、変なことを言うと、まず思ったのではないでしょうか。でも本当のことなのです。知恵は悪魔から出たものなのです。悪魔が知恵の創始者です。
もちろん、悪魔の持っているものはすべて、神が創造されたものを堕落させたものです。罪とは、義を堕落させた結果の産物。姦淫は正しい行為を堕落させたもの。嘘は真理の堕落。
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又、知恵について、まずはっきりさせておきたいことがあります。知恵には神からのものがあります。神の知恵は神のことばと合致します。それに対してサタンの知恵は、みことばを捻じ曲げようとします。わたしが話している知恵は、この知恵のことです。
サタンにも、ある程度信仰が伴います。サタンを受け入れるためにはサタンを信じなければなりません。だから、堕落したものには、堕落した信仰があるのです。神のことばを捻じ曲げようとするものはすべて、そして間違ったことを大したことだと言うものもすべて、悪霊であって、神の知恵に逆らって、悪知恵を与えようとしているのです。そういうわけで、サタンの信仰ではなく、知恵の方を調べていきます。
信じている多くの人たちは、誠実で、あらゆる信仰を持って信じています。彼らは正しいと信じています。でも確かめなければなりません。信仰が二極化しているのです。真実を信じるための確かな方法は、最初のみことばに戻ることです。すべてのことの基礎となっているのは、みことばです。
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さて、我々の拠り所となる二つは、ひとつが知恵でもうひとつが信仰です。これらはエデンの園ができたときから、対立しあっています。
どちらの側にも子どもがいます。さて、今話している知恵とは何ですか? すべての神からのことばが真理であることを否定するものです。もっと高い知識、もっとたくさんの知恵を用いて、真理から引き離そうとするものです。このような知恵がサタンから来るのであれば、その子は知恵によって生きます。他方、神の信仰が神から来るのであれば、神の子は信仰によって生きます。聖書は言っていますね、義人は知恵によって・・あ、違った・・信仰によって生きると。「義人は信仰によって生きる」のです。学習したことによってではなく、信じることによって生きるのです。そうです。
43
まず、知恵を調べていきましょう。知恵には論理的思考が伴います。信仰に理屈はありませんが、知恵には推論がついています。聖書で調べましょう。創世記3章です。さて、今わたしたちがしようとしていることは何でしたっけ? 主が言われた、「食糧を貯めなさい」ということばに従っているのです。将来いつか、この糧が必要になります。「食糧を貯めなさい。」では、聖書に戻って、創世記3:1を読みましょう。知恵がどのように推論を用いるか、みてみましょう。
「さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、(サタンも神の言われたことばを知っているのです)園のどんな木からも食べてはならない、と神は、本当に言われたのですか。」
女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食ベてよいのです。
しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、(神のことばの引用です)それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬと行けないからだ』と仰せになりました。
(彼女もそこまでは信仰を持っていました。さてここから注意してください。)
そこで、サーパントは女に言った。「あなたがたは決して死にません。」
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これは推論です。「神はあまりにも善なるお方です、神はあまりにも憐れみ深いお方です、神はあまりにもあなたを愛しすぎておられます。」こんにちでも、同じ悪魔の声が聞こえていませんか?「神はこのようなことをなさるにはあまりにも善なるお方でありすぎる。神がこのようなことをなさるはずがない。神が罰を下すはずがない。」いいえ、神はことばで仰せになったとおりのことをなさいます。
「あなたがたは決して死にません。」サタンが何をもくろんでいるかわかりますか? 彼の説得に応じさせようとしているのです。神のことばを自分なりに判断しようとした途端、あなたは信仰を失います。「はい、いいえ、多分」などど思考してはいけません。みことばにとどまりなさい。エバは最初のうちは正しい方向に進んでいましたが、彼の推論に耳を貸してしまったのです。
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こんにち多くの人が、正しい知識を持っていながら、神からのことばだとわかっていながら、(本当にこのことばは神のことばです)神学生らの説得に耳を貸して、その結果みことばから離れ、聖霊から離れ、神の業から離れてしまっています。推論を追い出さなければなりません。なぜサタンがこんなことを言ったか教えましょう。4節と5節を読みます。
「そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。」
あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
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わかりますか? サタンはエバに助言して聞き入れさせようとしています。「神と等しくなりたいと思いませんか?」言葉を変えれば、「あなたは本当は神と対等になりたいと思っているでしょう。それなら、私の助言を聞きなさい。いいですか、神は本当にそう言われたわけではないのです。神はただ・・・」
そのような声がしたなら、聞いてはいけません。離れなさい。それはサタンの声です。良さそうに聞こえても、話を聞いてはいけません。神が言われたことだけを信じなさい。さて、
「そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、(ね、わかりますか? サタンの説得に乗ってしまったので、それが正しい、真理の行為に思えてきてしまったのです。)目に慕わしく、賢くする(信仰を持つ? いいえ、賢くするのです)というその木はいかにも好ましかった。(ね、わかりますか? サタンは、賢くするという、みことばと相反する知識を与えたのです)それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。」
47
何が起こり始めたのですか? 推論し始めたのです。信仰には推論はいりません。信じるのに理屈などいらないのです。癒しの祈りをしてもらい、神のことばを受けたなら、あれこれ考えなくていいのです。理屈も分別もいりません。神がそう言われた、それで解決です。
ああ、このことを主題としてどれだけお話ししたいことか。しかし、ここに4〜50ページのノートがありますから、先に進まなければなりません。
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しかし、推論するというのは・・・わたし自身の、子ども染みたやり方でお話ししましょう。主は、何かが起こることを幻で教えてくださいます。するとわたしは、その幻と反対のことを気にかけません。幻と反対のことが起きるのはすべてサタンの仕業です。サタンが「そんなことは不可能だ」という考えを吹き込もうとするのです。
例えば、先ほど引き合いに出したことですが・・・これはあまり一般的な例ではありませんが、母が亡くなる前のことです。わたしは同胞たちに、一緒に狩りに行くことを約束していましたが、主は、それができないことを知っておられたので、幻を与えて教えてくださいました。そして、主の促しでブリティッシュ・コロンビアに行きました。そこでガイドが、「生まれてからずっとこの地に住んでいますが、今まで一度もシルバーチップ(グリズリーベア)を見たことがありません。それに、馬に乗って羊の放牧地を登っていくのですよ。シルバーチップがいるわけありません。絶対にそんなものを仕留めることはできませんよ。」と、念を押しました。ね、サタンは理屈で、神が示されたことから引き離そうとしているのです。
サタンはわたしに囁きました、「そんなことあるはずない・・・あなたは幻の解釈を間違えているんだ。」
「いいえ、そんなことはない。幻は『神がこう言われる』なのだから、必ず実現する!。」
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そして、カリブーがやって来たので仕留めたところ、(前にお話ししたように、このことも幻の中で示されていました。)ガイドがわたしに言いました、(彼は、数週間をともに過ごした素晴らしいクリスチャンの若者です)彼は言いました、「ブラナム兄弟、この前、馬に乗りながら、わたしの弟が癲癇だと話したところ、あなたは、これこれのことをすれば弟の癲癇がなくなると教えてくれましたね。」「聖霊があなたをとおして言われたとおりのことを実行したら、その日から彼は発作が起きなくなりました。」しばらくして彼は言いました、「さあ、山の頂上に到達しました。ここから5キロ下方周辺には、10センチくらいの高さのハナゴケ(植物)しか生えていません。それとブルーベリーですが、それも5〜7センチくらいしかありません。」「ハナゴケとブルーベリーだけです。わたしたちの馬は樹木限界線を超えて上って来ました。ところが、ここに来る前にあなたが話してくれたことによると、この場所とチェックのシャツを着た青年が立っている場所の間のどこかで、あなたは2.7メートルのシルバーチップグリズリーベアを仕留めることになっていると言うのですね。」
わたしは答えました、「これは『主が言われる』ことです。」
わかりますか? サタンはわたしに幻を信じなくさせようと試みたのです。
50
わたしたちは山を下りはじめました。下りながら、彼は言いました、「ブランハム兄弟、もうあと1.5キロほどしかありませんよ。」
わたしはにやっとして言いました、「疑っているのかい?」
「いいえ、とんでもない。」
それから80メートルくらい下りてきたとき、彼は言いました、「あと80メートルくらいしかありませんよ。」
「そのとおり」わたしは答えました。
彼は言いました、「どう考えたって、たった80メートルの間に・・・」理屈を打捨てなさい。「見てくださいよ。ここからはすべてを見渡せますが、何もいませんよ。」
わたしは言いました、「しかし、みことばをくださった神は、創造主ですよ。あれこれ推し測るのをやめて信じなさい。憶測に耳を貸してはいけません。そんなの無駄なことです。神が言われたことを信じる。それだけです。
わたしは辺りを見回していましたが、黄色いハナゴケだけしか見えませんでした。日が暮れはじめ、丘が美しく照らされていました。わたしのいるところから5キロほど上まで、はっきりと見渡せました。しかし、ふと振り向いたとき、2.4〜3.2キロほど前方に、2.7メートルあるシルバーチップグリズリーが立っていました。グリズリーが、どのようにしてそこに来たのかわかりません。しかしそこにいました。ですから、理屈ではないのです。信じることです。どんな状況に置かれたとしても、状況に注目してはいけません。神のことばを信じなさい!
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神は、「もしこれを食べたら、その日にあなたは死ぬ。」と言われましたね。
ところが、サタンはこんなふうに言いました、「ちょっと言わせてください。神が真理だというのは本当です。わたしたちはみな、みことばを信じています。」「わたしはもちろん信じていますよ。でも、聞いてください。言っておきますが、神はそういう意味で言われたのではないのです。」
神は複雑な言い回しを決してされません。神が言われたことは、言われたとおりのことを意味しているのです。
さらにサタンは言いました、「それでは、神がなぜそんなことを言ったか教えてあげましょう。あなたはまだ賢くなっていませんよね。知恵を受けていないからです。今のあなたは導きを必要とする羊にすぎません。まだ自分自身になれていないのです。」その状態こそ、神があなたに望むものなのです!「あなたはまだ博士号も取得していませんね。あなたは善と悪についても知らないのですよ。そのようなものが存在することは気づいていても、それが何なのか知らないのです。だからわたしが教えてあげましょう。」これが、サタンがエバに教えたかったことです。彼の狙いはここです。「だからわたしが、どうすればいいか教えてあげましょう。」
エバは答えました、「でも死んでしまいます。」
サタンは、「神は確かにそんなことはされませんよ。でも、あなたたちも賢くなることをご存知なのです。」わかりますか? 彼は神のことばに背かせるために知恵を用いているのです。このような知恵のことをわたしは今お話ししています。知恵と信仰の対決・・・信仰に反対する知恵のことです。これが初めの戦いでした。神のことばは変わることなく真理です。彼らは神から禁止されたことをしたので、死にました。そしてそれ以来ずっと、死が継承されいます。疑う余地もなくはっきりしています。ちょっとの間それを調べていきましょう。
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創世記3:1〜7を読みましたね。知恵には推論が伴います。最初に創世記で、そのことが起きました。どれだけの人が、それを信じますか?
医者がなんと言おうと・・・
さて、先ほど証を読んだあの女性の例を取りましょう。医者はもう手の施しようがないと言いました、「いろいろ試みましたが、もうあなたには、なす術がありません。精神病院に行きなさい。そこに彼女を連れて行きなさい。」
彼女は言いました、「精神病棟に入れられる前に、自殺しよう。」
それからどうなりましたか? 神が介入されました。イリノイ州ブルーミントンで集会があることを、彼女は遥かカンザスで耳にしました。「信仰は聞くことから始まる」のです。彼女の夫が彼女と一緒に集会にやって来ました。(彼らはお互いに愛し合っていたのですね。)しかし、考えてもみてください。4年間で4回の大手術を受け、15〜16のトランキライザーを打ったのですよ。それだけでも人を殺すのにじゅうぶんな量です。それからそれ以外の注射を週に2〜3回打ち・・・、ひとつはレキシトロンで、別のはなんていう名前だったか忘れましたが。精神安定のための注射でした。それに加えて、二つの睡眠薬も飲んでいたのです。それでも眠ることができなかったのです。治る見込みがなくて、惨めな気持ちで、毎日毎夜、何年にも渡って病に苦しんでいたのです。しかし、信仰は聞くことから始まります!
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そして彼女は集会に来ました。神は彼女を、一番先に説教壇に呼ばれました。わたしは彼女に近づいて言いました、「初めまして、姉妹よ。」(彼女は、こういう癒しの集会のことは、今まで聞いたこともなかったし、何も知りませんでした。)わたしは言いました、「あなたは〇〇さんで、カンザスからきましたね。」
すると彼女は頭の中で、素早く考えを巡らせました。「待って。彼はさっき、キリストは過去も現在も未来も変わらないと言ったわ。そして聖書で、終わりの日に教会にキリストが現れると約束された聖句を確認したわ。(その日わたしは、ソドムでの出来事などを説教しました。)彼はソドムで起きたようなことがこの終わりの日に起きると言った。そしてまさに今、この場所でそのことが現実となっている。」
54
さて、そうなんです。「あなたは5〜6人の医者にかかりましたね。そして4回手術を受けました。」
「いったいどこから彼はその情報を知ったのかしら? 誰が教えたの? この頭髪の薄い人がそんなことを知っているはずがないわ。どうしてわかったのかしら?」
「それからあなたは、ここに来る途中、〇〇のことに遭遇しましたね。」
「あらまあ!これは彼がさっき説教したとおりのことが実際に起こっているのだわ。これは神からのことばだわ。」
しかしサタンは囁くのです、「ねえ、もしそんなことを信じたら、あなたの牧師がどう思うか・・・」そんなことは関係ないのです。あらゆる思惑を捨て去りなさい。「でもあなたの医者はあなたが精神病院に入った方がいいと言いましたよ。」あらゆる思惑を捨て去りなさい。
「わたしは神がなんと言われるかを聞くわ。」そうです。
わたしは何を言えばいいか知らなかったのですが、聖霊が引き受けてくださり、暴露されました。彼女は信じました。彼女はあれこれ考えなかったのです。「何年も何年も、ノイローゼが続き、正気でいられなくなり、手術や投薬でボロボロになったわ。ここで即座に完治するなんて考えるのはまともではないわ。」などどは考えなかったのです。彼女はあれこれ考えずに、信じました。信仰がそれをさせたのです。それで彼女は即座に癒されました。もし彼女に手紙を書きたいなら、ビリーが彼女の住所を知っています。
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知恵はあれこれ理由づけをします。しかし信仰は理屈ではありません。信仰はただ、神のことばを受けとめます。信仰は約束を受けとめます。
さて、聖書を読みましょう。時間が切迫するまでローマ書の4章を読みましょう。わたしは聖書を読むのが本当に好きなのです。読むといいことがあります。ローマ書4章の17節から読みます。
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聞いてください。パウロはアブラハムの人生を解説しました。アブラハムがゲラルの地に逃げて行ったことは、パウロの文には書いてありません。「アブラハムは神を信じた」とそれだけ書かれています。それが、偉大な使徒パウロのアブラハムに関する解釈です。では17節から。
聖書に書かれているように、(パウロは聖書に忠実だから好きなのです。)聖書に書かれているように、
「わたしはあなたをあらゆる国の人々の父とした。」
過去形で書かれています。アブラハムはその時75才で、若いときからずっと妻と一緒に暮らしていました。妻は半分アブラハムと血が繋がっていました。ふたりのあいだには子がなく、彼も彼女も不妊症でした。しかし、神はアブラハムに会ってこう言われたのです、「わたしはあなたをあらゆる国の人々の父とした。」(過去形です。もちろん世界が造られる前からのことです。)多くの子どもの父ではなく、あらゆる国の人々の父ですよ。考えてもごらんなさい。
「このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の前で、そうなのです。」
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あれこれ推論してはいけません。聞いてください。「無いものを有るもののようにお呼びになるお方のみ前で。」
「彼は望みえないときに(望みがなかったのですよ。もし彼がものの道理など考えていたらどうなっていたことでしょう。しかし彼にはいちるの望みもありませんでした。)望みを抱いて信じました。それは、『あなたの子孫はこのようになる』と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。」
誰がなんと言おうと、「神がそう言われた。」これで決まりです。ああ、もしエバもそのようにしていたなら!しかし、彼女は立ち止まって考えを巡らし、知恵をつけてしまいました。アブラハムは知恵など欲しがりませんでした。彼はみことばを求めたのです。「神がそう言われたのだから、そうなる。決定。」このことをなんども説教で話していますよね。オムツやピンや、赤ちゃんに必要なものを用意して、サラは赤ちゃんの靴を編んで、それから何年も何年も経っても、「主をほめ称えます。赤ちゃんが生まれますから。」と言っていました。そうです。
医者は言ったことでしょう、「でも、彼女は赤ちゃんを生めませんよ。到底無理です。」
「何も言わないでください。わたしたちには赤ちゃんが生まれるのですから。」そうです。
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彼は望みえないことを望み抱いて信じたのです。望みを失いましたが、それでも彼は信じたのです。望みがゼロになったにもかかわらず、科学的にも合理的にも、あらゆる希望が絶望に変わったにもかかわらず、彼は神のことばを信じました。どういうことでしょう? みことばの信仰です。望みがゼロのときに望みを信じたのです。繰り返して言わせてくださいね。希望がゼロだったときに、希望を信じたのです。それでも彼は希望を信じたのです。それで彼は言いました、「神はわたしに言われました。『あなたの子孫は海の砂のように多くなる』と。」さて、19節を読みます。
「アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱まりませんでした。(希望は死に絶え、彼の体は死に体となり、サラの胎も死んでいるにもかかわらず、彼がどうしたのですか?)
彼は、不信仰によって(知恵のことです)神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、
神は約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。
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フーン!理屈や道理はいらないのです。みことばを信じてしっかり守るだけでいいのです。もしこれが神のことばなら、(そう信じますか?)どうしてみことばで語られた事柄や約束の言葉に疑いをかけるのですか? どうして、みことばのある部分は良くてある部分は良くないなどど選りわけたりするのですか? そんなことができません。すべて良いかすべて悪いかのどちらかでしかありません。そうです。みことばが真理だと信じたら、しっかり握りしめるのです。どんな状況が起こっても誰かからどんなに説得されても、手放してはいけません。決してみことばを手放してはいけません。しっかり守りなさい。神がそれを約束されたのですから。
60
わたしがキリストのために固く立つことによって、聖霊が与えられ、聖霊がわたしの人生をとおして生きたキリストを現されるとします。するとわたしが死ぬとき、サタンがこんなふうに囁くでしょう、「あなたは教団に属さなかったから、死ななければならないんだ。」「あなたはあれもこれもしないまま、死ぬことになった。」サタンに耳を貸さず、みことばにとどまりなさい。この場合サタンには道理がないのです。これは神のことばですから。みことばにとどまりなさい。あらゆる思惑を投げ捨てるのです。そして理屈なしにみことばを守りなさい。
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神のことばを単純に信頼するのが信仰です。神はわたしたちがそうすることを望んでおられます。さて、これで下地となる教えが仕上がりました。神が人類に求めておられるのは、神の語られたひと言ひと言をすべて信じることです。エバはほとんどの言葉を信じましたが、ひと言に揺るぎました。彼女は、「もし知恵がついたら、あんなふうになるかもしれないし、こんなふうにならなければいけないかもしれない。」などど、サタンの誘いに心を動かされ、握っていたみことばを手放してしまいました。その時から彼女は転落し始めたのです。彼女がひと言を疑った時点から、人類は墓場に向かって転落し始めたのです。
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「わたしは、このこととあのことは真理であると信じます。神は救い主ですが、今でも癒し主かはわかりません。聖霊のことは信じます。五旬節の日に聖霊が降りたことは信じますが、それ以降聖霊が降りたなどいうことはちょっと信じられませんね。」
ああ、兄弟よ、そんなふうに言う人たちがいるのです。キリストの教会と称していながら、その実そんなものなのです。信心を装いながら、その実、みことばを否定する者たちです。でも、あなたは信じなければいけません。あれこれ推論しないで信じなさい。知恵をつけようとせずに、ただみことばを信じなさい。
知恵はあれこれ思考してより良い方法を与えようとします。サタンがエバに試した方法がそれです。「あなたたちは決して死ぬことはありませんよ。決してそんなことありません。だって神はよいお方ですから。」
63
イエス様はよい神様です。絶対的にわたしは神に信頼を寄せることができます。イエス様はよい神様であることです。ご自分のことばに責任を持っておられるからです。もしわたしが誠実でなかったら、誰がわたしに対して誠実さを示してくれるでしょう。もしわたしがあることを言い、言ったことと違う行動をとるなら、わたしの言葉は薄っぺらになってしまいます。神がよいお方であるのは、神がことばを語られると、わたしたちはそのことばによって生きることができるからです。「人はパンのみによって生きるのではなく、神の口から出るひと言ひと言によって生きるのです。」それなら、神はご自分のことばにとどまらなければなりません。そしてそのことによって、彼を良き神とされることがわかります。
64
もし神がこんなふうに言ったとしたら、どうなるでしょう、「そうだ、これを使って彼らを通らせよう。彼らにこれをさせよう。うん、よさそうだ。あ、こっちに動かそう。」そんな優柔不断では、神ではありません。普通の人間と変わりなくなってしまいます。神がよいお方であるためには、語られたご自分のことばにとどまらなければならないのです。もし神が、この人には不貞を許し、あの人にはちょっとお酒を飲むことを許し、別の人にはちょっと盗みを働くことを許し、違う人には別のことを許しておきながら、わたしにはきっちり命令に従うことを要求し、それで皆同じゴールに達するとしたらどうでしょう。しかし神は、門に入るための道を一つしか用意されませんでした。「道はまっすぐで、門は狭い。汚れた者は入ることができない。」
65
黙示録に、「魔術を使う者、みだらなことをする者、犬のような者たちは都に入れない。幸いなるかな。神の戒めを守り、いのちの木の実を食べる権利を与えられた者は。」とあります。そうです。道は一つしかなく、それは神です。別の道を考え出してはいけません。
ローマカトリック教会はこんなふうに言います、「わたしたちが教会です。それに比べれば、聖書は価値が劣ります。」
シーン司教は、「聖書をもとに生きるのは、泥水の中を歩くようなものだ。」と言いました。
66
こんなこと聞いたら、あなたならどうしますか? もし彼の言うことが正しいなら、聖書が間違っていることになります。でも、聖書が正しく、彼が間違っているのです。あなたなら、なんて言いますか? もし神のことばが正しいなら、シーン司教か聖書のどちらかを選ばなければなりません。シーン司教だけでなく、〇〇師か〇〇博士か〇〇氏が言うことを。わたしは彼らの名前を言いません。彼らがラジオで表明していないからです。シーン司教はラジオで発表したので、名前を出しました。〇〇博士と〇〇氏は、「これこれのことやあれこれのこと」を言いました。さて、あなたは誰を信じますか? 神ですか?それとも彼らですか?
67
「でも、そのとおりの意味ではないのです。」いいえ、書かれているとおりの意味です。これがサタンの最初の嘘です。
彼はエバに「神は本気でそう言われたのではないのです。神はよいお方だから、そんなことするはずありません。確かにあなたたちは死にませんよ。」
しかし実際には彼らは死にました。それ以来、人は死んでいきます。みことばには従わなければいけないのです。
知恵はより良い方法を取ろうとします。現代的で、人気を博し、もっと簡単な方法です。
68
さて、あなたが仲間を一人ここに連れてくるとします。神がその人に触れられるとすると、彼はこんなふうに思うようになります。彼と彼の妻の生活を改めなければいけないと。彼はカードパーティやダンスに行くのをやめ、妻は化粧するのをやめ、髪を伸ばさなければならないと。それに彼は酒とタバコや華やかな交際をやめて、祭壇の前にひざまずかなければならないと。それに彼は、熱狂者とか転がる聖人とかゼルゼバブとか呼ばれることに耐えなければならないと。「ああ、わたしは信仰に入ります。だけど教会はこっちの方に行くことにします。あなたはあまりにも厳格だから。」ほら、わかりますか? このように頭の中で思惑を働かせるのです。このことに関してもうすぐ重要な点に入ります。どのようにして、どちらが正しくてどちらが間違っているかわかりますか?
69
さて 知識は、みことばに何かを語らせようとします。知識とは・・・知恵はあれこれ推論し、より良い方法を見出そうとします。しかし神の方法以外に、道はありません。
知恵は説得を試みます、「ねえ、ちょっと、今はそんなことできませんよ。」それでもわたしたちはそんなことをしなければならないのです。知恵は無難な方法を選ぼうとします。聖書が言っていることと違う解釈をさせて、あたかも聖書がそう言っているように仕向けるのです。
70
さてあなたは言うでしょう「ブランハム兄弟、あなたは・・・」ちょっと待ちなさい。子孫や種のところに話を戻しましょう。知恵を用いて、悪魔は何をしようとしましたか? 神のことばを、違ったことを言っているように仕向けたのです。そうです。悪魔は神のことばに別の意味をもたせて、あたかもそれが神のことばであるように操作したのです。今日でも同じ方法が繰り返されています。
神のことばの意味と違う解釈をさせて、あたかも神がそう言っているように仕向けるとき、こんなふうに彼らは言います、「ブランハム兄弟、あなたの解釈は間違っています。」聖書で、預言のことばは個人的に解釈してはいけないと書いてあります。どうして個人的に解釈してはいけないのでしょう? それは、主のことばは預言者に臨むからです。だから預言者が解釈しなければいけないのです。預言者がすでに解釈して人々に教えたことを、誰かが個人的に解釈することはできません。聖書にそう書いてあります。だからそのやり方を守るべきです。
71
神は、すべての人を裁くための、基本となる何かを持っていなければなりません。その基本となるものが教会であるのなら、どの教会のことでしょう。(900くらいも教団の数があるのに)どの教会が正しいのですか? どうしてあなたが正しい教会にいるかわかりますか? もし、あなたがメソジストの教会員なのに、バプテスト教会の方が正しかったらどうなります? あなたがペンテコステ教会に行っているのに、長老派の教会の方が正しかったら? カトリック教徒なのに、ルーテル教会の方が正しかったら? しかし、どこかに基本となる何かがあるはずです。だから、みことばが・・・
72
「初めにことばがあった。ことばは神と共にあった。ことばは神であった。」そうです。ことばは神のうちにあり、ことばは神だったのです。常に神と共にあるのは神の思いです。神の思いは、神と同じく永遠です。アーメン!同志よ、これはきちんと受け取らなければいけない大切なことです。
さあ、ここからが重要なところです。神の思いは神のことばです。「初めにことばがあった・・・(それは永遠の次元のことです。始まりが最初に始まったときから、時が存在し始めました。)初めにことばがあった。(神の思いのことです。)ことばは神と共にあった。ことばは神であった。」神の思いが神ご自身なのです。あなたもそうですよ。あなたの思いがあなた自身なのですよ。あなたは善良な人として暮らしているかもしれないけれど、心の中で姦淫やら何やらを犯しているなら、それがあなたなのです。あなたが思っていることがあなたなのです。そして神の思いは神のことばです。神のことばは神と共にあり、神の内にあります。そして神のことばは神です。
「初めにことばがあった。ことばは神と共にあった。ことばは神であった。」そのことばは人となりました。神の思いが人体の中に現れ、人となり、わたしたちの間に宿られたのです。そうです。
73
今日あなたがたの内に永遠のいのちがあるのなら、あなたがたの中に神が存在しているのです。神があなたの内におられるので、あなたは神の思いを現す者となっているのです。それなら、いかなる思惑にも耳を傾けてはいけません。そうしないと冠を誰かに奪われてしまいます。いかなる思惑にも心を閉じなさい。ただ神が言われたことは真理であると信じて、それを守りなさい。
知恵は理屈を用いて、みことばを、神が言われたことと違う意味に受け取らせようと仕向けます。
「本当にそうですか? ブラナム兄弟」
それなら創世記に戻って調べましょう。創世記3章4節です。神が言われたことと違う意味に、みことばを受け取らせようと仕向けていないか、確かめてみましょう。創世記3章4節を読みます。
「そこで、蛇は女に言った。『あなたがたは決して死にません。』」
蛇が言ったことを聞きましたか? どんな言い回しをしましたか? みことばを、神が言われたことと違う意味に受け取らせようとしました。神が言われたことは、「あなたがたは死ぬ。」でした。
74
サタンが彼女に言い表したのが知恵なのです、「あなたは決して死にはしませんよ。」わかりますね?神が言われたことと違う意味に受け取らせようとしたのです。それが今日の知恵になったのです。兄弟よ、どうやってそれを破ったらいいでしょう。神学校は神のことを教える学校ですが、知恵の巣窟です。そこが草の根となって、みことばを、神が言われたことと違う意味に受け取らせようと仕向けているのです。
誰か、「使徒信条」を記した箇所を聖書に見つけることができる人がいますか? 聖書に「聖徒の交わり」について書かれていますか? なのにプロテスタントもカトリックもこのことを信じているのです。聖書のどこにこんなことが書かれているのか、知っていたら教えてほしいものです。
75
推論することが知恵の根っこになるのです。わかりますね?わたしたちの戦いは血肉に対するのもではなく、暗闇の力に対するものです。あらゆる思惑を打ち捨て、美辞麗句と美しさで固めたサタンの要塞を打ち崩しなさい。サタンは内側はずる賢く滑らかですが、表面的には倍も美しいのです。罪は美しく見えます。
罪は美しいことを知っていますか? ここにいる人たちで50才以上の人はどれだけいますか? 手をあげてください。(女性にはこんなこと聞いてはいけないことを重々承知しているのですが、みんなで真実を認めなければなりません。)あなたたちに伺います。世界中のこんにちの女性は、平均的にみて、昔の女性より倍もきれいになっていると思いますか? もしそう思うのなら、手を挙げてください。そうなのです。昔より倍もきれいになっているのです。昔の写真があります。
76
祖母の姿に注目してください。長いスカートをはき、三つ編みを背中にたらしています。あまり魅力的には見えません。
ところが今日の女性はどうでしょう。体の線が見えるドレスを着て、動くたびに罪を犯しています。メイクアップをして、つま先で通りを歩き、マックスファクターの化粧で素顔を隠し、若く見えるような髪型にし、スカートは膝の上まで短くし、まるで洋服など着ていないみたいです。でも見てください。美しく見えるのです。サタンはどうすれば美しく見えるかわかっています。彼は美の創始者ですから。このような美しさは、罪をもたらします。
77
地球は、それ自体が母胎なのです。神はご自分の種をどこに植えましたか? 神は種を胎に植えつけられます。でも人は何をしますか? 胎内に悪魔がいるようなものです。子供を変形しようと狙っているのです。それはまさに悪魔が意図することです。悪魔は地球の生き物を交配させ、あるべき姿から変えてしまいました。このことはここら辺でやめておきましょう。書いて用意しておいたことを最後までお話しできなくなりますから。そういうわけで、神は変形した被造物を始末なさいます。世界は、なにもかも狂ってごちゃごちゃになっています。空気も川も汚染されて、汚くて臭いを放っています。
そんなに昔のことではありませんが、あるインディアンが言いました、「白人よ、わたしはもう生きていたくはない。もう戦うこともやめた。」「我々の子どもたちはどこに行ってしまったのか? 彼らは飢えて死ぬだろうか? わたしの妻はどこに行ってしまったのか?」「あなたたちが、白人女性やウィスキーや罪をこの大地にもたらす前は、我々は平和に暮らしていた。ここは神が与えてくださった我々の土地であったのに、あなたたちがそれを奪ってしまった。いつかその償いをしなければならないときが来るであろう。」
78
こんにちのありさまは、いったい何なんでしょうか? 広大で美しい砂漠や山々に、汚物が撒き散らされています。ウィスキーの瓶やビールの缶やらが!あらゆる場所にバーやくだらない娯楽施設があります。遥か広大な砂漠が広がるネバダ州リノは売春窟以外のなにものでもありません。その環境では空気までもが汚れています。かつて美しい山々がそびえていたところは、切り崩されて、あらゆるものが建っています。かつて茂っていた木々は切り倒されました。砂漠の中を自由に流れていた水は、今では汚染されています。世界全体が網にかけられるでしょう。そして地球は、神が植えられた種からあらたに子を生み出します。悪魔によって堕落させられたものは、切り取られ、集められます。そうです。堕落した被造物のことです。神はそれを捨て去り、もう一度あらたに始められます。そうです。
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いったい何が原因でこのありさまになってしまったのしょうか? ひとりの人が、神のことばのひと言を信じなかったからです。地球全体がうめいています。聖書は、自然までもが贖われる日を、神の子が現れる日を待ち望んでうめいていると言っています。木々は無駄に成長努力を重ね、草花はわたしたちを喜ばそうとしていますが、うめいて泣いています。彼らも何かがおかしいと知っているのです。本来あるべき姿から堕落していることを。母胎も低下しているので、完全な子を生むことができません。大地も臭いを放っています。これまで無実の人の血をたくさん吸ってきましたから。大地は・・・(言いたいけれど、率直すぎるかもしれません。)とにかく臭いを放っています。神が言われたことです、それは神の前にあまりにも汚らわしく臭いと。
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トイレに入れば、尿の匂いがします。尿で汚染されているからです。神にとって世界は、トイレのように汚れていて臭いのです。あらゆるものが汚れています。神は世界を木っ端のごとく吹き飛ばされることでしょう。神は言われました、「わたしは新しい天と地を造ろう。」そうです。
どうしてですか? 地球の胎は千年紀をもたらさないからです。代わりに、本来あるべき姿からねじ曲げられたものをもたらしています。なぜ? 知恵をつけようとしているからです。
フロリダの人に対して悪意があるわけではないので、フロリダから来られた人たちはどうぞ悪く受け取らないでください。わたしが初めてフロリダに行って、ジョージアに戻ってきたときのことです。州の境界線のジョージア側に立ち、わたしは言いました、「アメリカ合衆国の国民の一人として、フロリダをセミノールに返還します。」なぜなら、セミノールインディアンの方が、わたしが自分の髪の毛の手入れをするよりも、ずっと上手に庭の世話をすることができるでしょうから。フロリダはすべてが虚飾に満ちているのです。通りのヤシの木には点灯がくくりつけられているし、大きくて贅沢なヨットやらなにやらがあり、まるで千年紀が訪れたかのようです。悔い改めもしていないのに。わたしにしてみれば、それらのものは無用の長物です。そんな場所にいるよりは、ブリティッシュコロンビアの山の頂上で、神が造られた山々の連なりを眺め、人の手に汚されていない自然を眺める方が百万倍も素晴らしいです。
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これらの街々に入れば、大邸宅が立ち並んでいますが、そんなものに惹かれはしません。というより、そのたぐいのことは大嫌いです。しかしいつの日か、いつの日にか、すべてが変わります。大地は苦しんでいる子たちを放り出すでしょう。ある日変わります。はい、ここまで。
信仰は聖書に書かれたことを信じ、こう言います、「みことばには何も欠陥がない。」
奉仕者がこう言うのを聞いたことがありますか?「キングジェームス版、あるいは改訂版、あるいは別の版、それはほんの少しの違いなのですよ。そういうことを意味しているわけではないのです。」そんなふうなことを聞いたことがありますか? おや、まあ!それで世界が汚染されているのです。しかし、信仰はそんな言い分を信じません。信仰は、わたしが聖書に頼って生きることができるようしてくださっている神を信じます。もし、わたしが生きる拠り所としている聖書に不備があったなら、わたしを造られた神は、なさけない神だということになります。しかしわたしは、聖書のすべてのことばが真実であると信じます。そうです。
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それが信じることとどういう関係があるのですか? 聖書が信仰の完全な拠り所となっているのです。だから、聖書は煩雑でわかりにくいなんて言い分を信じるわけにはいかないのです。ただあるがままにみことばを信じなければいけません。もし知恵を用いようとするなら、・・・「聖書のここの箇所だけれど、神がそんなことをすると言われたとしたら、理屈に合わない。」なんて言い出すでしょう。しかし神はそれを実行されたのです。そうです。
「本当に神はその人を殺されたのか。契約の箱が落ちそうだったので手を添えようとした人が、レビ人でなかったという理由で、神は本当にその人の命を奪われたのか・・・。」どんなに神が憐れみ深い神であっても、彼はその人の命を奪ったのです。なぜなら神はレビ人だけが契約の箱に触れることができると言われたからです。神はご自分が言ったとおりに実行されました。それでご存知のとおり、ダビデの心が掻き立てられたのです。
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契約の箱に触れることができるのは、レビ人だけでした。契約の箱の帰還とともにリバイバルが起ころうとしていたときだったのに、部外者がみことばを操作しようとしたのです。そのことから、神の油注ぎを受けた者だけが、みことばを取り扱うことができるとわかります。教義だとか教団だとかが、みことばを改ざんすることはできないのです。聖霊のみが、みことばを解釈します。それ以外のものがみことばを扱えば、死罪になります。誰でもみことばの一部でも信じなかったり、間違いを教えたりする者は、命の書から抹殺されると書いてあるからです。だからそういう行為から手を引きなさい。聞きなさい。ただ聖書に書いてあるとおりのことを信じるのです。誰かの説を信じるのではなく、聖書に書かれていることを信じなさい。それ以外のことをすれば、待っているのは死です。
さて、信仰は何をしますか? 書かれているとおりに聖書を信じます。始めのときから今日に到るまで、神が備えておられる道はこれです。そしてわたしにとって、それは神のことばなのです。神はそういう行為を褒めてくださいます。そしてみことばの真理によって、信仰を完全なものにしてくださいます。
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もし恋人があなたから逃げて、あらゆることに手を出し、娼婦のような生活をしていたら、どうしてあなたはそんな恋人と結婚できるでしょうか? もし娼婦宿に行って彼女を連れ出し、彼女が「これからは良い子になります。」と言ったとしても、そんな女性に信頼を置くことはできません。無理です。
同様なことをする男性に対して、女性は信頼を置くことができるでしょうか? 信頼を置くことができる基となる要素がありませんから、無理です。
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「ここに船を用意しました。船底にはたくさん穴が空いていますが、草の袋を詰めておきましたから、多分なんとか川の向こうまで渡れるでしょう。」なんて言われたとします。わたしならお断りします。こちらにしっかりと建造された船があるのに、どうしてそんな危なっかしいものに乗る必要があるでしょう。そうです。最大級の嵐にも持ちこたえられる神のことばが、わたしたちには与えられているのに、あちこちに破れ目のある神学を、それが間違いであることが証明されているのに、なぜあえて信望する必要があるでしょう。どんな嵐に揉まれても、みことばを信じる信仰は真理であり続けましたし、これからもそうあり続けます。そうです。
「天と地は滅びるでしょう、しかしわたしのことばは決して滅びません。」とイエスは言われました。なぜ? 永遠だからです。イエスははじめに存在し、神のことばを現すために来られました。イエスは神の現れです。神は御子をとおしてご自身を現されました。
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すべてのことの始まりは、種の章である創世記に記されています。すべてのことは始まってからずっと同じことを繰り返しています。知恵と信仰の戦いです。常に戦っています。だから、知恵は悪魔とその子らのものなのです。
みんな、羊とヤギを見たことがありますよね。気づいていましたか? 羊とヤギは鳴き方がとても似ているのです。本物の羊飼いでなければその違いがわかりません。あなたがヤギを連れてきて鳴かせてみて、それから羊を連れてきて鳴かせてみて、両者の鳴き方を比べても、同じにしか聞こえないはずです。しかし本物の羊飼いなら、聞き分けることができるのです。
イエスは言われました、「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。」羊かヤギか聞き分けることができるのです。なぜなら、イエスご自身が羊ですから。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。彼らは知らないものについていかない。」イエスの声とは? そうです。みことばです。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。」彼らは誰にも、「わたしも神の声を語りますよ。これによるとこれはこうなのです。」なんて言わせません。しかしサタンは・・・それについて語る前に、少し熱を冷ましましょう。
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さて、みことばの種は、知識がはびこる環境では育たないことを知っていましたか? 知識が信仰と混ぜ合わさると、その途端にみことばの種は息絶えます。
イブは、「わたしたちがそれを食べたなら、その日のうちに死ぬと主は言われました。」と言ってから、相手の反応をうかがいました。
サタンは言いました、「でも、お聞きなさい。可愛い子よ、確かに神は、目的があってあなたを造られたのだ。そうでしょう? あなたは女ですよ。あなたは女の目的で造られたのです。今はまだわからないかもしれないが、あなたはこの目的のために造られたのです。あなたは愛くるしいものですよ。なんてまあ、華奢な手をしていることでしょう。確かにあなたは・・・」
「でも主は、わたしたちがそうしたら、死ぬとおっしゃいました。」
するとサタンは言いました、「まあまあ、善良で優しい父なる神が、そんなことすると思っているのですか?」そこで彼女はどうしましたか? サタンの言い分に耳を傾けてしまったのです。そしてこう言う彼の知恵を受け入れ、それになびいてしまいました、「これは喜びの木ですよ。あなたは望まれるものになるのですよ。」そうなのです。そしてその後どうなりましたか? どの女もそうであるように、彼女はなびいた途端、そこでいのちを失いました。そうなのです。
わかりますか?彼女は種を抱いていました。そしてやがては母になるはずでした。神の御意思により、仰せのことばによって、彼女はやがて母になるはずでした。しかし彼女はそれまで待てずに、先走りしてしまったのです。
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さて、わかりますね。彼女が、みことばとともに知恵を受け入れてしまった途端・・・ところで、人の知恵はみことばと相入れないのです。理解できたら、アーメンと言ってください。そうです。もし知恵がみことばと異ならず、みことばに同意していることが証明されるなら、そしてみことば自体と同じものを生み出すなら、その知恵はみことばなのです。でも知恵がみことばと相反して異を唱え、しかもみことばに何かを付け加えたり、みことばから何かを削ったりしようとするなら、それは悪魔の知恵です。そのような知恵がはびこる環境では、聖霊に守られるみことばの種は成長できません。そのことが国中の神学校を廃れさせ、風穴を開けて、裁きを流れ入れさせることでしょう。そうです。確かにそうなります。なぜならみことばは、この世の知恵と一緒に成長できないからです。できません。
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エバは与えられたみことばを信じるはずでした。そうですね? 彼女は他の誰かの言い分に耳を傾けるべきではなく・・・ただ、与えられた指示にそのまま従えばよかったのです。そのように彼女は信じるべきだったのです。もし彼女がそう信じていたら、この世に死は無かったことでしょう。そうです。与えられたとおりに神のことばを信じる男女は、神が言われたとおりにそのことばを守り、いのちを得ます。しかし、教団の知恵と混ぜるなら、初めのときと同じで、その時点で死にます。それが種です。それが道です。それが初めのときに実施された方法であり、これまでも、これからも、同様に繰り返される方法なのです。神がそれを許されたからです。今朝、そのことを聖書で確かめました。種が成長する唯一の道は、理屈やあらゆる思惑を切り離して、ただみことばを信じることです。
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エバは、神が指示したとおりに受け取らなければならなかったのです。わたしがずっと話してきたように、わたしは神が聖書を保護し、見張っておられると信じています。そのように神はわたしにお示しになりましたから。わたしには、神が聖書で語られたことだけが必要で、他の知恵はいりません。ところで、わたしは誰をも傷つけたくはありません。しかし、聖書が悔い改めなさいと言っているのなら、それは回心することであって、懺悔とか苦行することではないのです。悔い改めるのです。
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聖書は、イエス・キリストの名によって洗礼を受けなさいと言っています。他の意味はありません。父と子と聖霊という意味ではありません。聖書ははっきり言っています。
「でも、マタイ28:19で、父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさいと言っているじゃありませんか?」
そう、そのとおりです。もしそれが正しくなかったら、彼らが正しいことをしていなかったことになります。そうなれば、イエス・キリストの名によって洗礼を授けるというペテロの信仰が、間違った啓示だったことになり、残りの聖書記述も間違いだったことになり、神が間違った啓示に祝福を与えていたことになります。すると、さかのぼって初めの時に・・・神はエバの行為を祝福せねばならないことになってしまいます。
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父と子と聖霊の御名というのは肩書きとか名目といったものです。御名はひとつしかありません。イエス・キリストの御名によって洗礼を受けなければ、父と子と聖霊の御名によって洗礼を受けたことにならないのです。なぜなら、それが父と子と聖霊の御名だからです。それについては聖書全体が説明しています。聖書に出てくる人物はみなイエス・キリストの名によって洗礼を受けました。誰も、父と子と聖霊の名目で洗礼を受けた人はいませんでした。それらは肩書きなのです。奉仕者とか、聖職者とか、博士とかいうのと同じです。あるいは父とか息子とか人間とか妻というようなものです。ただの名目です。
「どっちだって、大して変わりはありませんよ。」
そういうなら、名前の代わりにあなたの肩書きを小切手に書いて見なさい。「わたしは小切手にサインしました。主婦の名によって。」
啓示によってはっきり示されているのに、それでも神のことばを信じないのと同じくらいナンセンスです。さて、次にいきます。
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神が言われたとおりに信じるべきなのです。聖書は矛盾しません。もし矛盾している聖書箇所があったら、教えてください。みことばは、まったく矛盾しません。サタンは聖書を矛盾させてあなたに教えるかもしれませんが、みことば自体に手出しすることはできません。みことばはそのようなことに我慢がならないからです。聖書に矛盾があるなどというのはずっと昔から言われてきたことですが、まだ誰もそのことを証明できていません。
これら二つの拠り所、あるいは雰囲気とでもいいましょうか、それについて調べて見ましょう。それらが何を生み出すのか。ちょっと見てみましょう。
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環境について、二つの拠り所はそれぞれの環境を生み出します。みなさんは、・・・話の要点をつかんでいただくために謹んで尋ねますが、ああ、神よ、許してください。みなさんは、本物の堅物牧師がいる教会に行ったことがありますか? そういう教会では会衆も堅物です。そうです。そういう環境がもたらされているからです。
牧師がこんなふうに語る教会に行ってみなさい、「ちょっと待って、そんなことあるはずありません。ナンセンスです。わたしは神による癒しなんてことは信じません。聖霊のバプテスマについても。」そこでは会衆も皆・・・。もし一羽の鷲がそんなところにいたら、ニワトリ集団から逃げ出すことでしょう。必ずそうします。これは真理です。鷲はそんなところにいることができません。鷲ですから、空高く舞い上がるのです。鶏小屋で我慢できるはずありません。そうです!鷲は舞い上がりますよ。
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さて今、これらの環境についてわかってくると・・・。教会で信仰を教えると、信仰の環境がその教会に息づくのです。ああ、神よ。もう少し詳しく話しましょう・・・もしこのことが理解できるなら。聖人が信じて祈っているところに人々がやってくるのは、このためです。 パウロは、町の中に信じる者を見いだすことができなかったと言っています。唯一テモテが、希少価値のある信仰を持っていました。それ以外は、教団に属することだけで満足する人たちでした。
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しかし、信じる者がそのような雰囲気の中に入ると、雰囲気が作りだしたことが実際そうなっていくのです。「聖書は真理ですよ。神は癒しをおこなわれます。」という言葉が飛び交う場所にいくと、信仰によって生きる人々を見いだすことができます。
そのような人々の集いに行くと、「わたしは癌の末期でしたが、癒されました。」なんていう証を聞きます。
「わたしは、目が見えなかったのですが、今では・・・」とか。
そんな証を初めて聞く人は、「え?なにそのつまり、どうなっちゃったのですか?」なんて驚くでしょう。
「医師の診断書をお見せしましょう。うちにいらっしゃいな。夕食をうちで一緒に食べましょう。そこで詳しくお話ししましょう。以前のわたしがどんな状態だったか、近所の人が知っていますよ。何年もずっと麻痺していたので、祈ってもらったのです。」
ね、わかりますか。その教会にはみことばが宿っているのです。そしてみことばを信じる人たちがその雰囲気を作っているのです。
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単純で完全であるみことばが、知識に覆われて「そんなことあり得ない。」などと決めつける場所で、どうして成長できるでしょうか? 成長できるはずありません。だから神学校で知識を教え込まれると、人は死んでしまうのです。逆に、みことばが宣べ伝えられるところでは、人はいのちを得ます。アーメン!これが、二つの異なる雰囲気がもたらす結果です。イヴは、正しい雰囲気から間違ったものに転換したので、死にました。それ以来同じことが続いて、とどまることができません。もしあなたの教会がそんな雰囲気を醸し出しているのなら、子よ、もしいのちを得たいのなら、みことばを信じることです。
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さてここでちょっと棘のある言い方になります。決して悪意があるわけではありません。これは教えです。こういうことを教えるためには、少しチクンと刺して燃やさなければならないのです。わかりますか?あ、ちょっと待って。それは牛に烙印を押すのと似ています。かつてわたしは。牛に烙印を押すのがかわいそうで嫌でした。みなさんの中で牛を縛ったことがある人がいるか知りませんが、逃げる牛を追い込んで、四つ脚を縛り上げ・・・かわいそうな牛を引き倒して、銘柄の印された熱い鉄をジュッと押し付けるのです。ああ、兄弟よ、それは酷い光景です。牛は立ち上がるとひとしきり走り回ります。走って、蹴って唸って、ひとしきり暴れます。でも、それによって彼らは、誰に属するかを知るのです。そうです。彼らは自分のいる牧草地が誰のものかを知ります。これは冗談ではありません。ですから銘柄を刻印しましょう。銘柄を刻みつけるのです。そうです。
『カウボーイの瞑想』の歌詞を読んだり歌ったりしたことがありますよね。彼らは迷い子の一歳の子牛をスープにして食べちゃったんです。その子牛には烙印が押されていなかったから。他の牛たちは牧草地に連れて行かれました。群れの親分は自分の牛を知っているのです。だからもし・・・烙印は痛いものです。
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さて、聞いてください。サタンの知恵は科学的に実証できるかもしれません。(ちょっとお医者さんの役を演じてみます。)サタンの知恵の土壌は科学的に証明できるかもしれません。その土壌とは、サタンが人類を成長させるために用意したもので、ビタミンを含んでいます。サタンは科学的にほとんどなんでも実証できるでしょう。そうです。
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サタンの知恵の土壌は、ビタミンPを含んでいます。「楽しみ、人気」です。あらゆるこの世的楽しみ、映画やダンスや・・・彼らはこう思っています、「かまいません、大丈夫ですよ。別に大したことないのです。」人気があります。「町で一番大きな教会ですよ・・・」
ビタミンCも含んでいます。判断力を兼ねそなえた「常識 」です。
ビタミンRも含んでいます。「推論 」です。彼は論理的に考えることができますが、使いものになりません。
ビタミンBも含んでいます。「美しさ」です。サタンは美しいし、罪も美しいです。罪はさらに美しさを増し始めています。今の家は、丸太の家よりどれほど快適で綺麗になっていることでしょう。昔に比べて女性もどれほど美しくなっていることでしょう。フロリダは、神が造られた頃よりどれだけ綺麗になっていることでしょう。どれだけの人が、サタンが美の極みであり、美を追求し、もっともっと美しい王国を造ろうとしていることを知っていますか? 本当のことです。サタンは美しいのです。
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さて、サタンは「推論」ビタミンRと「美しさ」ビタミンBを含んでいます。そして、ビタミンMも含んでいます。「現代的 Modern」です。「あなたたちも現代的になりたいですか。」
ちょっとサタンの知識を用いて、こういうことを信じないか、みてみましょう。このビタミンは、あなたたちが座っているその場所で成長していきます。ある人があなたに知識を与えるとします、「もしわたしたちが、この荘厳な大聖堂で、泣いたり叫んだり、異言を語ったり、走り回ったり、狂犬病のように口に泡を吹いたりすることを許したらどうなるでしょう。教会の執事である市長がなんと言うでしょう。もしそんなことをこの場所で許可するとしたら。」確かに現代的に偏ってきていますね。「もしうちの教会員が町の通りでタンバリン片手に立っていたら・・・もし姉妹が長い髪を垂らしていたらどうなるでしょう。町を行く他の女性たちが、彼女を見て、『見て見て!この教会の頭領だわ。(とかなんとか言って)・・・まるで旧型車みたいじゃない? スペアタイヤが後ろでパンクしているわ。』なんてささやきあったとしたら。」現代的に考えると、こんな感じなのです。
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「あなたたちは現代的になりたいのです。」これが悪魔の知恵です。それはむくむくと成長していくのです。それが土壌の中に含まれているビタミンで、芽を出して成長するのです。育っていくがいい、現代版イゼベルよ。
こんにちの女性たちのように現代的です。そうです。ああ、現代的とはなんということでしょう!「町でもっとも現代的な人たちは、教会に通います。」そうなんです。なぜなら、現代的ビタミンと理知的ビタミンの土壌で、彼らが育ったからです。彼らが育ったのはそういう土壌なのです。だから彼はその作物なのです。理知的です。
しかしそのような環境で育つと、みことばに対して死んでいます。そのようなものになるためには、みことばを否定しなければならないからです。わかりますか。罪人になるには、神のことばを否定しなければならないのです。罪とはなんですか? 不信仰のことです。何を信じないのですか? 神のことばです。まず、神のことばを否定しなければならないのです。
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さて、あと10個のビタミンがあるのですが、割愛して、サタンが隠していたビタミンを明らかにします。それはビタミンDです。それはもっとも重要なビタミンで、死を招きます。とてもモダンでおしゃれな人たち、もっとも美しい教会、最大の教団、かつて最もモダンだったもの、かつて最も美しかったもの、最も理にかなったものがこう言います、「もし神が、ご自分のものとしてわたしたちを造られたのなら、どうして女性たちがもっと自分を美しく見せようとして髪を短くするのを非難なさるだろうか? なぜ神が、ちょっと化粧をしたからといって、非難なさることがあるだろうか?」
聖書に神がなさったことが記録されています。神は、彼女を犬にくれてやったのです。そのことを重く受け止めるべきです。
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「なぜ神が・・・どうしてどうして、神はわたしたちに、聖書に倣って生きるよう期待しておられませんよ。」
いいえ、神はそう願っておられます。神はイヴに、死んではいけない、生きよと言われました。イエスは、「人は、神の口から出るひと言ひと言によって生きる」と言われました。他でもないイエスが言われたのです。そうですね? 「もし誰かが違うことを言うなら、その人は嘘つきです。神のことばが正しいのです。天と地は滅び去りますが、わたしのことばは滅びません。」そうです。
だからビタミンDはサタンの処方箋に含まれています。現代的です。そうです。
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さて、しかし、聖書に記されているみことばの種は、そのような環境で育つことができません。現代的な教会に、聖霊に満ちた人たちが行って、「神に栄光!ハレルヤ!」と叫んだとします。どうなると思いますか? 説教師が言葉を飲み込んであんぐりして、「えへん」と咳払いするのが見えるようです。
すると会衆たちが鶴の首を伸ばしてあたりを見回します。キョロキョロして囁くのです、「なんですって?」
それから気をとりなおした説教師が説教を続けます、「神の御子、イエス・キリスト・・・」
「神に栄光!そのとおり。」また叫びます。
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「えへん、ちょっと執事、こちらへ・・・」そして、その人はドアから放り出されてしまうことでしょう。そのような場所では、みことばは育たないのです。不可能なのです。どうしたって無理です。単純に不可能です。わかりますか?
それからサタンは、毒のスプレーを撒いて、あなたのいのちの胚芽を死滅させようとします。「こんにち、神が癒しをなさると信じている人たちがいます。でも、現代において神は、病を癒すために医師をわたしたちに与えられたと考えるのが、理にかなっています!」
さて、心ある医師に、医者が癒しを行うかどうかたずねてみましょう。彼はこう言うでしょう、「いいえ、とんでもない。わたしは歯を動かすことはできますが、歯茎を癒すことはできません。」そうです。
わたしは、腕を貸すことはできますが、癒すことはできません。
確かにそのとおりです。神が癒されるのです。どうしてそのような土壌にいのちが育まれることがあるでしょうか? どうしてみことばの種がそのようなところで育つことができるでしょうか? 単純に考えて無理です。そのような雰囲気では育つことができません。絶対に無理です。
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しかし信仰は、一種類のビタミンで成長します。単体のビタミンでいいので、あれこれ配合する必要がありません。そのビタミンとは、みことばです。信仰は、みことばによってしか育ちません。そして、すべてのみことが真理であると信じるのが、信仰を成長させるための唯一の方法です。信仰のビタミンは4文字です。それは、l-i-f-eいのちです。信仰に含まれるのはビタミンLです。
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知恵にはビタミンP、ビタミンR(楽しみや推論です)、それからビタミン・・・さっき話したビタミンすべてが含まれます。知識や知恵にはすべてが含まれます。知恵は論理的に考えます。しかし信仰には一つしかなく、それはいのちです。それだけでいいのです。みことばはいのちですから。「あなたのことばは真理です。キリストはみことばであり、道であり、真理であり、いのちです。」信仰はそこにのみ、とどまります。他のものを取り入れたりしません。
信仰が育つのは、聖霊のいのち、永遠のいのちの中です。ゾーィ(Zoe)とは神ご自身のいのちのことです。信仰がみことばを聞いて、それが神からのことばであると信じたとき、信仰は力を発揮します。聞いて信じると、ゾーィの中で信仰が成長し、語られたみことばを実現させるのです。
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神は、どうやって世界を造られたのですか? 神の思いの中に世界は存在していたことを信じますか? そのとおりなのです。そうでなければおかしいです。「どうやって神は世界を造られたのですか?」「どこから素材を持ってきたのですか?」どうすればそんなふうに神と議論できるのでしょう?「神よ、あなたは岩を造るためにどこから材料を持ってきたのですか? いったいどこから・・・」
「気体から。」
「それなら主よ、気体はどこから来たのですか?」「あなたは水をどうやって造られたのですか?その化学式は?」
「H2O」
「それならどこから水素や酸素を手に入れたのですか?」
こんな調子です。らちがあきません。神はなんと言われましたか? 世界は神の思いの中にあったのです。神の思いは神のことばが現れる前の状態です。そして神の思いが発せられて、「光よ、あれ」と言われたとき、そのようになったのです。そこに信仰の基があります。
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「信仰によって、世界は造られた。」と、ヘブル書11に記されています。世界は信仰によって造られたのです。神は、無から世界を造られました。信仰によって、神が仰せになったとおりに世界は存在するようになりました。前もって熟考されたことばだったからです。だから神がそのことばを仰せになると同時に、ことばはいのちになりました。
「わたしは信じます、ブラナム兄弟。」心の中で信じることができます。信じたら、それを口にするのです。「わたしは信じます。」そして口にしたら、絶対に心変わりしてはいけません。とどまりなさい。そしてそこから何が成長するか確かめなさい。信仰からは、みことばが生まれます。知恵はみことばから引き離しますが、信仰はみことばをもたらします。
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察しがついてきましたか? 人が作った教義も、人が作った神学の学びも活動が止まって、途絶えておしまいです。教授もDDもPhDもLLもQUDもあらゆる学位を持つ人も、学校に行って心理学やらあらゆる学問を学びましたが、一つだけ忘れていました。どのように心理学を述べるか、どんな服装をするか、どんなふうに「アーメン」というかなんてことに一生懸命になっても意味ありません。ただ、聖霊の導きに従いなさい。神の子らは神の霊に従います。神学校の知恵ではなく、神の霊の導きに従うのが神の息子や娘です。確かにそのとおりです。アーメン!
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あらゆる教義や、あらゆる学校の学びや、人が作ったあらゆる神学から脱しましょう。彼らが信じられないのも当然です。そこは信仰が育つ土壌ではないからです。彼らは、捨て去るべきビタミンR「推論」をもっていますし、それだけでなく、人気のビタミンや楽しみのビタミンも持っていますから。だから、ちょっと行って楽しもうなんて平気で言います。
「どんな楽しみがあるのですか?」
「たまには外で飲もうじゃないか。ちょっとした楽しみだよ。大したことないよ。」わかりますか。ちょっとしたことだと言うのです。それが彼らのビタミンです。どうすれば、そのようなビタミンが、みことばを育てることができるでしょう。みことばがそのようなビタミンを否定しているのに。「もしあなたがこの世とこの世のことを愛するならば、神の愛はあなたのうちにありません。」と聖書が語っています。ですから、どうすれば神のことばがそのようなビタミンのもとで成長できるでしょう?
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穀物を育てるために必須のビタミンがあります。穀物が成長するために適した土壌が必要です。さあ、ちょっと近づいてきました。適した土壌でなければ、穀物は育ちません。あなたが土地を持っているとして、ある作物は育たなくて別のものが育つことがあるでしょう。砂地や、別のビタミンやらで育つものもあります。そうでないなら、土地に合っていないから育たないのです。それだけのことです。
ところで、雑草は場所を選ばずほとんどどこででも育ちます。そうですね? 教団という雑草はどこにでも生えます。しかし、兄弟よ、いのちの実を実らせたいなら、みことばにたどりつかなければなりません。そうです。確かにそうです。
みんなを長く引き止めて、いつまでも話をしたくないと思っています。
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彼らが信じることができないのも無理はありません。信仰が育つ土壌がないのですから。イエスが彼らについて話しています。マタイ13章1節です。聖書を開いて、どんなふうにイエスが言われたのか、確かめてみましょう。マタイ13:1
「その日、イエスは家を出て、湖のほとりにすわっておられた。
すると、大ぜいの群衆がみもとに集まったので、イエスは舟に移って腰をおろされた。それで群衆はみな浜に立っていた。
イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。
『種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。
また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。
しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。
また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。
別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。
耳のある者は聞きなさい。』(知恵のある者でなく、耳です。聞くことです。)」
115
いいですか。ある人が出かけたと、イエスは言っておられます。みことばが宣べ伝えられ、種が蒔かれると、ある種は道ばたに落ちました。アヒルの背中に落ちた水滴が撥ねかえるようなものです。ある種はごつごつした岩場に落ちました。ほこり程度の土しかありませんでしたから、すぐに芽を出しましたが、根を張るような場所でなかったので、根がありませんでした。(さて、これからこのことを説明しますが、誰かの感情を傷つけなければいいと願います。)
それはカトリック教会です。彼らは岩の上に教会を建てたと言っています。わたしも同意見です。そのとおりだと思っています。地面に土がないので、根を張って育つことができないのです。どうしてでしょう? 聖書を信じていないので、聖書のビタミンをつくり出すことができないのです。彼らにはドグマという教理があります。ローマのドグマですが、まったくみことばが含まれていません。だからなのです。
116
岩の上に落ちたというのは、人知を超えた知恵です。兄弟よ、言わせてもらいますが、彼らは『超』のつく方法でそれを手に入れました。彼らはその知恵を、人の心理に訴える方法を使って、荘厳な建物を使って、聖なる神のような司祭の服装を使って、提供しています。カトリックを脱けたあの修道女の証言をどれだけの人が聞きましたか? 彼女の証言を、いつかこの教会の水曜日の集いで聞かせたいと思います。みんなそれを聞くべきです。
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わたし自身がメキシコに行ってこの目で確かめました。石灰の穴です。修道女たちが産んだ赤子を(おそらく神父が関与して・・・)その赤子らを石灰の穴で焼いたりしていたのです。それだからメキシコに共産主義が広まったのです。彼らはあのくだらないことを粉砕しました。共産主義がメキシコに起こったのはそうする必要があったからです。
共産主義を恐れてはいけません。それは神の駒です。わたしは共産主義を信じません。それは悪魔から出たものだからです。しかし神は悪魔をも利用されます。ネブカドネザル王を利用してイスラエルを捕らえさせたときと同じです。聖書がそれを証明しないか注視していましょう。いつかそれを見ることになるでしょう。神が共産主義を立ち上がらせ、大淫婦が神の子にしたことの復讐をさせるのです。聖書にそのことが書かれています。彼らが火で彼女を焼き、彼女に審判が下るのです。必ずそのとおりのことが彼女に起こります。それがカトリックです。岩の上に落ちたので、育つための土がなく、枯れました。それが人知を超えた知恵でした。
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それから、ある種はプロテスタントの土地に落ちました。しかし、しばらくすると偉大な知恵を持った宗派が大きく成長して、霊の成長を塞ぎ、枯らしてしまいました。「奇跡の時代は終わった。」「〇〇博士が、『なになに』と言いました。」「そんなことが起こるわけがない。」まさにぴったり当てはまります。何を塞いで枯らしてしまったのですか? 知恵が台頭するために、聖霊の働きを塞いでしまったのです。
聖霊はマルチン・ルターの時代に降りました。ジョン・ウェスレーの時代にも降りました。そして初期ペンテコステ教会の時代にも降りました。しかし教団は何をしましたか? 自分たちの知恵を優先させて聖霊を追い出したのです。種を塞いで枯らしてしまったのです。種とはなんですか? みことばです。「その言葉はそういう意味でなく、実はこうなんです。」プロテスタントはこんな感じで、みことばを塞いてしまうのです。
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宗派に属する真面目なミニスターの多くと会って、座って語り合い、洗礼やその他の微妙な問題にも触れてきました。わたしは誰にでも、真っ向からその問題を話し合いましょうと言ってきましたが、彼らの答えはこうでした、「ブランハム兄弟、もしそんなことをしたら、教会から追い出されてしまいます。」
わたしは、「あなたにとって、神のことばと教会とどちらが重要ですか? 」と言いましたが、宗派の埃にまみれていると、それ以上話し合いを進めることはできないのです。しょうもない。みことばを否定するのは間違いです。そこには人の作り出した知恵が働いています。
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さて、プロテスタント教会は、聖霊の働きを塞いで止めて追い出してしまいました。彼らは、みことばの信仰の代わりに知恵をもちい始めました。宗派の知恵をみことばの信仰にとって代わるものとしたのです。(理解できた人は、アーメンと言ってください。)そうです。メソジストやバプテ連合ストや長老派やペンテコステやエヴァンジェリストなどの人々の団体を信仰するようになったのです。まもなく彼らは結束して教会連合を立ち上げ、獣の像になる道を開くことでしょう。そして彼らは、この国家(黙示録13:11)と同等の権力を持ち、聖徒らを迫害し始めることでしょう。ローマの教会が聖徒らにしたことを繰り返します。今はそうなっていく途上にあります。だから今、みことばがあちこちに蒔かれているのです。宗派から離れなさい。そこから出て行きなさい!わかりますか。
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知恵が聖霊の働きを塞いでしまうのです。教団の知恵が聖霊を締め出してしまいました。そのことを聖書で確かめてみましょう。黙示録3章、教会時代のところです。イエスはご自分の教会から締め出され、外からドアをノックして、中に入ろうとされるということが書かれています。「わたしは、戸の外に立って叩く。誰でも渇いているなら、戸を開けるなら、わたしは彼のところに入る。」しかし戸を開ける人はいませんでした。彼らはイエスを追い出したのです どういうことでしょう? 彼らがしたことは、、、
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また、ある種は、(わかりますね。)迫害の谷に落ちましたしかしいくつかは。種がとんで、迫害の谷に落ちたのです。さて、谷には川が流れていて、最高の土壌です。金属を打ち伸ばして利用するように、体に染み込んだ神学が無くなるまで叩かれ、笑い者にされ、コケにされ、引き臼で引かれ砕かれた人は、みずみずしさを漂わせるようになります。そのとおりです。
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その人は、宗派から追い出され、谷に投げ込まれました。宗派の人々は、彼が泥沼に突っ込んだと言いますが、わたしたちは、彼が泥沼ではなく谷に落ちたと言います。そこには百合が咲いています。谷間の百合です。
ある種は、苦しい試練が待ち受けている迫害の谷に落ちました。谷間の百合がベルゼバブと呼ばれたように、彼もあらゆる悪い名前で呼ばれるでしょう。でも谷には清流が流れています。
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詩篇1では、「幸いなるかな・・・」聖書を読んで谷には何があるのか調べましょう。時間がないと思っていましたが、ちゃんと読みましょう。この人がそこで何を見つけたか、聖書で確かめてみましょう。もし人が、土のない埃っぽい砂漠の岩の上に植えられたとしたら、あるいは谷に植えられたとしたら・・・
「幸いなことよ。
悪者のはかりごとに歩まず、(知恵です。アーメン、アーメン、アーメン、アーメン)
罪人の道に立たず、
あざける者の座に着かなかった、その人。
まことに、その人は主(みことば)のおしえ(みことば)を喜びとし、
昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
その人は
水路のそばに植わった木のようだ。(水路って何ですか?霊の9つの賜物です。ひとつの霊である水から流れる複数の水路です。でも9つの別の源から流れます。水の流れる水路です。)
時が来ると実(霊の実)がなり、その葉は枯れない。
その人は、何をしても栄える。」
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分かりますね?ある種は谷に落ち、そこには川が流れていました・・・。気がつきましたか? 植えられたのではなく、川に落ちました。「その人は、水路のそばに植えられた木のようだ。(ここからあちらに運ばれた?)」いいえ、彼は植えられたのです。ということは? 前もってそうなることが決まっていたのです。天地が造られる前から、神の思いの中で彼はそこにいたのです。偶然に出てきたのではなく、その場所に植えられたのです。どこに? 水路です。「彼は根を張り、枯れることがない。」ハレルヤ!「その人は死んでも、わたしが終わりの日に彼をよみがえらせます。」そうです。彼がそこにいることは、前もって決められていたのであって、偶然ではありません。彼は、種がまかれたなら、みことばを受け取ることがすでに決められていました。彼はただ地面に刺さったのではなく、植えられたのです。大きな違いです。地面に棒を突き刺すのと、何かを植えるのでは、違うのです。
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種は植えられました。根をはるべき場所に水が入ってくると、霊であるいのちが芽吹きます。そして反応し始めます。「霊的賜物は9つあります。」
「そのとおり、アーメン!」
「イエスは昨日も今日もいつまでも変わることがない。」
「アーメン!」
「イエスは変わらず今も癒されます。」
「アーメン、アーメン、アーメン!」わかりましたか?
水路のほとりに植えられた者。あちこちから流れてきた流れが、同じ水が流れる水路(複数)になります。
だから枯れることができないのです。だから彼がそこに植えられたのです。ある種はそこに落ちました。絶えることなく水路のほとりで実をつけます。そうです。彼は水路からいのちを汲み続けることができるのです。水路は新約聖書と旧約聖書です。アーメン。それによって養われます。兄弟よ、
神を愛しますか?アーメン
神を賛美しますか?アーメン
神を礼拝しますか?アーメン
アーメン、アーメン!
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はい、そうです、そうです!ああ、素晴らしいと思いませんか? 季節ごとに実をつけるのです。(創世記1:11)実をつけます。なんの実をつけるのですか? 彼の実です。なんの実? 彼ご自身の実です。彼ご自身の実って? 聖書です。聖書のすべてがここにあります。聖書には、愛、喜び、聖霊、癒し、神の約束、すべての実が存在しています。それらが実です。もし彼がこの中に植えられるなら、正しい土壌、つまり信仰に植えられたことになります。信仰は何をしますか? 信仰は成長します。アーメン!むくむくと成長していきます。確かです。彼は水路のほとりに植えられた木のように、季節ごとに実をつけます。
どんな実をつけるのですか? ヨハネ14:12で、イエスは、「わたしを信じる者は、わたしがする業をその人もおこなう・・・」と言われました。どうしてですか? 同じみことばがその人の内にあるからです。イエスはみことばでした。そうですね?「もしあなたがわたしの内におり、わたしのことばがあなたの内にあるなら、願いをなんでも言いなさい。」
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ちょっと前のことですが、ヴェルチ・エヴァンス兄弟彼がやって来て、(彼は遠くから車で来るのです)車を亡くしたと言いました。ミラーズの店の前に鍵をつけたまま駐車していたら、誰かが盗んだというのです。車の中には彼の所持品が全て入っていました。彼はやって来て、(彼の他にフレッド兄弟とトム兄弟と数人がいました。)そのことを言いながら、まるで幼い子がキャンディを取り上げられたようにしょげかえっていました。「わたしはもう、どうしていいかわかりません。」と言うので、
わたしは言いました、「それでは・・・」
さて、どうしますか? こんな時、まず第一にするのは何ですか? みことばに、父にお願いすることです。「もしあなたがわたしの内におり、わたしのことばがあなたの内にあるなら、願いをなんでも言いなさい。」そう、みことばのとおりにするのです。ただみことばが言われたとおりにするのです。
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「さあ、祈りましょう。」と言って、みんなでひざまづいて祈り始めました。「父よ、主イエスの御名によって、あなたのもとに参ります。ここにいる兄弟は、週のうち数日働いてお金を稼ぎ、(彼の手は、故障した車の修理でタコだらけになっています。)2300〜2400キロもドライブして毎週この集会に参加しています。子供がたくさんいるので養うのが大変です。それなのに、往復で50〜70ドルもかけて教会にやって来ています。わたしたちが妥協せずにみことばを伝える努力をしているので、みことばを聞くためにはるばるここまでやって来るのです。」「ところが、誰か悪い人が彼の車を盗んでしまいました。」それからどうしましたか? わたしはこう祈りました、「主よ、あなたに祈ります。イエス・キリストの御名によって、彼の車を取り返してください。」
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わたしは何をしたのでしょう? 神が約束されたことばを神の御前に置き、イエスの御名で封をして、そのことばを神に送ったのです。すると、ウサギを追跡する猟犬のように、みことばはものすごいスピードで道路を駆け抜けて現場をつきとめました。ケンタッキーのボーリンググリーンに向かうちょうど中間地点です。何が起きたのですか? みことばが犯人を見つけたのです。
ちょうどその時、幻が舞い戻って来ました。黄色っぽいシャツを着た若い男が、車を運転していました。彼は元はクリスチャンでした。みことばが彼を一喝しました、「あなたは間違いを犯している。」みことばは彼を捕らえました。神は、神のことばを遣わして犯人を捕まえたのです。「あなたは、こんなことをしているといつか捕まる。そして法によって裁かれる。戻ってその車を返しなさい。」
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みことばが彼を捕まえました。彼はかつてはクリスチャンでした。わたしは彼が車を戻して、道路の側に止めるのを見て、ヴェルチ兄弟に言いました、「兄弟、ここからちょっと行ったところに、あなたの車がありますよ。でも犯人が戻すまでちょっと待ちましょう。ところで、盗まれた時にガソリンは満タンでしたか?」
彼は、「はい」と答えました。
「車の中のあなたの所持品には手がつけられていませんが、ガソリンは半分に減っていますよ。犯人がボーリンググリーンに行くちょうど中間地点まで走ったので、約160キロ分のガソリンを使ったからです。」彼が車を見つけると、ちょうどそのとおりの状態でした。どういうことだったのでしょう? みことばが遣わされて彼を捕らえたのです。
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それからしばらくして、ある男がヴェルチ兄弟から車を買い、支払いをせずに立ち去りました。彼はわたしのところに来て、「ブランハム兄弟、わたしは・・・」
「不憫な人だ」と、わたしは思い、「祈りましょう」と言いました。(彼は400ドル借りていました。)わたしがみことばを送ると、みことばが出て行ってその男を追跡し、発見しました。わたしたちは、行って彼を見つけると、彼は笑い飛ばしました。彼は無神論者でした。一度誰かが彼を教会にさそいましたが、彼はこう言いました、「説教師がしゃべっている間、可愛いブロンドでも物色しているよ。」だから、はっきりしています。それは悪魔です。
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だからみことばは彼をつかまえることができませんでした。その代わりにみことばは何をしたでしょう? 彼から目を離しませんでした。ヴェルチ兄弟はめげずに踏みとどまり、「大丈夫、きっとうまくいく」と言い、みことばは彼を追いました。「もしあなたがわたしの内におり、わたしのことばがあなたの内にあるなら、なんでも願うことを言いなさい。」みことばは彼を追いかけ、最初に起こったことは、彼の息子の一人が、ここに来る途中の道で、その男が盗んだ車に乗っているのを発見したのです。ナンバーを書き留め、それをウッド兄弟に渡しました。彼らがそれがどこなのか電話して調べると、彼はボーリンググリーンにいることが判明しました。
天の神のみ知ることです。わたしには何も聞かされていませんでした。何も知らなかったのです。
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先週の日曜日の午後、ちょうど一週間前ですが、ここでの集会が終わったので、次の晩の集会のあるフロリダに行くために着替えて準備をしました。車に乗り込んだとき、その男を(幻で)見たのです。それで、「ヴェルチ兄弟、わたしたちはボーリンググリーンを通って行きますよ。」と告げました。それ以上のことを彼に言うことはできませんでした。どうするかは彼が決めなければならないからです。メーダが自分で決断しなければならないのと同じです。
彼は言いました、「でも、そこを通ると50キロ近く回り道することになりますよ。」
道を走りながら、わたしはこう思いました、「彼は見つけるだろう、彼は見つけるだろう。そうしなければならないんだ。」
車にはエヴァンス姉妹も乗っていました。しばらくして彼が、「ねえブラナム兄弟、どうしてわたしは気づかなかったのだろう。さっきあなたはボーリンググリーンと言いましたよね。」と尋ねました。
「確かに。」
「あの男がわたしの金を持って、逃げたこと知ってますよね。」
「確かに。」
「彼はボーリンググリーンにいるのです。ずっと考えていたのですが・・・あれこれ考えてみなければならない問題があって、あの男の居場所を突き止めて、それから・・・」
それでわたしは言いました、「あなたはどうしたいのですか? そこに行ってお金を取り戻しますか?」
もしわたしが彼に伝えれば・・・しかしこれは彼自身でなんとかしなければいけないことでした。彼が決めなければならないことなので、わたしは彼に伝えることができなかったのです。もしそうしてしまったら、幻が無効になってしまいますから。
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わかってもらえますか? イエスはなぜマリアとマルタに、「その石をどけなさい。」と言われたのでしょう。彼は神ですから、「石よ、去れ。」なんて言えば、石は簡単に動いたはずです。でも彼女らは自分で何かをしなければならなかったのです。
イエスはなぜ立って収穫を見ていたのでしょう。(イエスが収穫の主であることを信じますか?)彼は弟子たちに言いました、「収穫の主に願って、収穫のための働き人を送ってくれるよう祈りなさい。」言い換えれば、「わたしがこれからすることを、わたしがするように、わたしに願いなさい。」
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わかりますね? わたしたちは家族で仲間です。それが教会なのです。だから自分たちでなんとかしなければならないのです。ここに福音があります。わたしは知っていますが、もしあなたがただ座っているだけで福音を宣べ伝えないなら、どんな益がありますか? 自分でなんとか努力しなければいけないのです。「神が癒してくださることは信じますが、わたしにはわかりません。」などと言わずに、立ち上がって、みことばを自分のものにするのです。信じなさい。あれこれ考えずにただ信じるのです。
もし彼が行かなければ、もうお金を取り戻すことができないことがわかっていましたので、わたしは言いました、「もしわたしだったら、今すぐに行ってお金を取り戻すだろうけど。」そこで彼は実行しました。その男をベッドから起こして問いただしたとき、幾らかのお金を取り戻すことができました。それから彼は近所の人を呼んで、残りのお金も取り戻すことができました。どうしてそれができたのですか?みことばの働きです。みことばを信じる人がいれば、現れて力を発揮します。
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同じことが癒しについても言えます。もしヴェルチ兄弟が、「行くのはよそう、他の方法を考えよう。」なんて言ったとしたらどうなっていたでしょう。あるいは「行く気がしないなあ、まあ、あの車は・・・」なんて言ったとしたら。そうしたらみことばは実現しなかったのです。だから信じなければいけません。信じなければ。みことばが信仰の雰囲気の中にあるなら、それは実を結びます。そうなれなければいけないのです。
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死者が生き返るとき、何が起こるか考えたことがありますか? フィンランドであの少年が生き返ったとき、何が起こっていたか考えたことがありますか? あの少年の霊は、すでに彼の肉体から離れていたのです。でもみことばが、遥かな宇宙空間を探してその霊を見つけ出し、少年に戻しました。どうしてそんなことができたのですか? それはみことばだからです。病を癒し、死人をよみがえらせるのがみことばです。どのようにして? それには、水で潤ったみことばが必要となります。神が幻を示されるとそのとおりのことが起きなければなりません。少年が横たわっていて、みことばがありました。何もかも、2年前に幻で示されたとおりの状況がそこにありました。だから、クマが丘を下ってくることについてもお話ししたのです。なんであれ、みことばによって示されたことは、そのとおり起こらなければなりません。
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それでどうなったのですか? ある言葉をわたしはこう祈りました、「天の父よ、2年前にあなたは本国でわたしに、この死んだ少年が生き返ると言われました。ですから、そのおことばに頼みを置きます。まず第一に、みことばは、『信じるものにはこれらのしるしが伴う』と言われました。そして弟子たちをお遣わしになり、病を癒し、死者をよみがえらせ、悪魔を追い出すように命じられました。それから幻で、この死んだ少年が生き返ることをお示しになりました。」ですから言います、「死よ、もはやおまえはこの少年を所有することはできない。わたしは主のことばを手にしている。」わたしの力ではありません。わたしはみことばではありませんから。神が、みことばなのです。もしわたしがみことばだったら・・・
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みことばもなられる方はおひとりで、それはイエスだったのです。イエスは処女から生まれた、神の仰せのことばです。わたしは、両親の結合によって生まれたので、純正品ではありません。死ぬべき存在がわたしです。わたしの体は滅びます。しかしイエスは違います。彼はみことばであり、処女から生まれました。イエスが生まれるために、女も男も何者も関わっていません。おとめは培養のための器であり、イエスは彼女の乳で養われました。それは事実でしょう。しかし、イエスは神です。神がイエスです。性交とはまったく関わりがありません。性交なしに血によってこの世に生を受けました。このことはもうすぐお話しします。
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さてそして見てください。イエスこそがみことばです。預言者はみことばではありませんでしたが、主のみことばが預言者に臨みました」。預言者はみことばではありません。みことばが預言者に臨んだのです。こんにちもそれに変わりはありません。みことばがあの少年に臨んだとき、何が起こりましたか? 幻がやってきました。クマが現れた時は? ほかにもいろいろなことが起こった時は? 幻がやってきたのです。それは主のみことばが臨んだということです。それからどうなるのですか? みことばが保たれます。
それから、みことばは言い表わされなければなりません。「死よ、少年を返せ!イエス・キリストの御名によって、このことばを伝える。」するとみことばは、ボーリンググリーンで車を盗んだ青年を追跡したようにして、追跡を始めます。そして死んだ少年の魂を捕まえ、少年のところに戻し、みことばが前もって知らせたとおりにその少年を生き返らせたのです。そうなのです。何がそうさせたのですか? 信仰です。知識ではありません。
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「さてどうかな、空気はこれこれからできていて、酸が多くて、気体が多くて、宇宙光が多くて・・・わたしの頭では処理しきれない。もしわたしにできるなら・・・」というかも ああ、そんなのは時間の無駄です。知恵ではなく、信仰が必要なのです。知恵はただ、そんなことはできないと教えてくれるだけです。ところが信仰は、それができると実証します。そうです。イエスは過去も現在も未来も変わらないお方であることを示すのです。(急ぎましょう。)
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種類に従って実を実らせると言われたとおりです。イエスは、「わたしを信じる者はわたしがするしるしをおこなう・・」(ヨハネ14)と言われました。
「それがイエスがなさったしるしですか?」イエスは、会堂長の一人娘が死んで冷たくなって横たわっている家に入りました。イエスが家に入った時、多分少女は死んで2時間ほどたっていたでしょう。人々は彼女を小さな寝椅子に横たわらせ、香料で防腐処置する用意をしていました。そのような状況の時にイエスが入ってきたのです。彼らは嘆き悲しんでいました。イエスは彼らにこう言って、みなを外に出しました、「ここから出て行きなさい。さあ、出て行くのです。」「ペトロとヤコブとヨハネはここにいなさい。あなたたちは信じるとわかっている。」そして父親にも声をかけました、「あなたは信じますか?もし信じないのであればわたしについてきてはいけません。」
母親が言いました、「主よ、わたしは信じます。」
「それなら、ここにとどまっていなさい。」
イエスは直視して少女のそばに立ち、言いました、「タリタ、」(「少女」という意味です。)ハレルヤ!イエスは祈り求める必要ありませんでした。彼はみことばですから、祈る必要がないのです。なぜなら、みことばはすでに用意ができているからです。わたしはみことばを受けるために祈らなければなりません。祈って、神が何を言われるか知る必要があるのです。それから神が言われたことを言います。でもイエスはみことばそのものでした。アーメン!
「少女よ、あなたに言います、起きなさい。」彼女の手を取りました。それだけです。ああ、なんと、これぞ種類に従って実を実らせることの明示であり、現れです。
「わたしを信じる者は、わたしがする業をその人もおこなう。」というのが、イエスのことばです。
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さてもし、これらの地球の胎が産出するもののように、宗派が抱えているものなどは、ゴミ屑や罪の寄せ集めです。そうです。何とまあ、
どうしてこんなことが起こるのですか? どうすれば神の真理のことばが、ショートカットへアやミニスカートやタバコ吸いや、ボーリング場に入り浸る者や、教会に所属する者たちの内で成長することができるでしょう? 愉快なことを求め、歓楽を愛し、大衆と迎合してこの世的なことを愛する者たちに、どうして神の愛が訪れるでしょう? どうしてそのような土壌で、神の種が成長できるでしょう? けっして根を貼ることはありませんし、どんな命の胚芽も実ることはありません。土埃のかぶった教団の岩の上で朽ち果てるだけで、決していのちを実らせることはありません。そのとおりです。
神の愛より、愉快なことを求める人、快楽を愛する人、・・・恐ろしいことです。しかし彼らは賢い。彼らは神の子より倍も賢いです。そうです。彼らは、賢くて、教育があり、エバがしたように知恵を追い求める人たちです。エバと同じ処方箋で一服盛られているのです。これは本当のことです。
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どうすれば、水を吸って生い茂る百合の種が、土埃のかぶった宗派の中で成長できるでしょう? 百合が育つためには水が必要です。そして水とは聖霊のことです。宗派は信心深さを装っていながら、霊の働きを否定します。ですから彼らの上にみことばが落ちても、それは成長することができません。エバの上にあったみことばが成長できなかったのと同じです。なぜですか? 彼女が知恵を、サタンの知恵を受け入れたからです。
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みことばは彼らにをも訪れ、彼らの上にも落ちます。確かに。みことばはこれからも彼らの上に落ちます。彼らはみことばが宣べ伝えられるのを聞くことができます。でも、教会の席に座って、身動きしない人を見たことがありますか? 女性たちにショートヘアのことを説教しても、何年たっても相変わらずショートヘアのままです。男性たちに喫煙のことを、女性たちに飲酒のことを説教しても、なんの効果もありません。アヒルの背中に水をかけるようなもので、みことばが成長する余地がないのです。愉快を求め流行を追いかける人たちは言います、「ほかの女性たちがそうするのなら、わたしもしてもいいわ。」ほかの人が何をしようと関係ありません。神のことばに従うのはあなたの役目です。そうです。
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みことばは彼らの上に落ちますが、成長できません。サタンの知恵が邪魔するので (わかりますね)成長せずに宗派の屑となって終わりです。彼らはヘブル書13:8を信じることができません。知恵で膨れ上がっているので、何も実らせることができないのです。どうして彼らに、ヘブル書13:8の、「イエスは昨日も今日もいつまでも変わることがない」ということばを信じさせることができるでしょう? いいえ、できません。もちろん彼らに尋ねれば、「信じますとも!」と言うでしょう。でもそれなら証拠を見せてほしいものです。結実を見せてほしいものです。彼らが説教する教会で、最初の使徒教会がおこなっていたことがおこなわれているか、つまりみことばを信じているか見せてほしいものです。みことばを受け入れてみことばの実を結ぶ代わりに、教義に合わせて洗礼をとり違え、あかしをねじ曲げる者よ。あかしを引き出すために何かを仕立て上げる者よ。サタンはどんなあかしにも、うまい解釈をつけることができます。そうです。そんなことはサタンにとって簡単なことです。ですが、サタンにはみことばを生み出すことができません。それが彼を憤らせることのひとつです。彼にはみことばの実をつけることができないのです。そうなのです。
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カインとアベルの例を見ましょう。二人とも誠実でした。カインは、母教会の知恵を用いて・・・(エバはカインの母親でした。エバがカインの母親だったことを知っていましたか? そうだったのです。)母親と同じに、彼は思考を巡らし、自分の知恵を用いて、花や野の果物で美しいいけにえを捧げました。サタンがエバに「決して死にはしませんよ。」と囁いたように、カインも言いました、「決して神はわたしの捧げものを拒んだりなさらない。わたしはすばらしい祭壇を築いてそれを美しく飾ったのだから。」今度のイースターと同じです。全国で彼らは何百万ドルも費やして花で祭壇を飾りつけてイースターを祝っています。祭壇は花を飾るためのものではなく、いけにえを捧げる場所です。彼らがカインの精神を引き継いでいるのは明らかです。エデンの悪魔と同じです。
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何が起こったのでしょう? カインは「決して・・・ない」と思いました。捧げものをすることは彼にとって死活問題ですから、彼が真剣にそうしたことは間違いありません。同じように、彼らも偽善的行為としてそれをやっているのではなく、真剣なのです。
「それなら彼らは真剣に間違っているというのですか?」そのとおりです。人は、ひまし油と間違えて、本気でヒ素を飲むことができるのです。効果のない真剣さ。これは真理です。残念ながら、嘘偽りのない真理です。
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アフリカの女性は神々に捧げるために、自分の赤ちゃんをワニに与えます。それほど真剣になれますか? 台所の神に捧げるために、中国では自分の骨を折るということを知っていますか? それならモハメッド教徒のことは? 自分の体にフックを刺して、口を縫い付けて火の上を歩く人たちがいます。彼らが天国に行くために神々に犠牲を捧げる様子を示した、ちっちゃなフィギュアがあります。祭司は口に棒を刺し、頭をチェーンで巻き、手を後ろに回してそのチェーンで縛り、足も縛ります。彼は死ぬまで飲むことも話すことも食べることもできません。クリスチャンの中にそれほど真剣な人を見たことがありますか? 真理を信じなくても、みことばを信じなくても、それほど真剣になることができるのです。わかりますか?
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さて美しさということについてですが、カインは言いました、「決して神はわたしの捧げものを拒んだりなさらない。なんとわたしの祭壇は美しいことだろう。」同じ精神が、同じ知恵が、こんにちも働いています。
「わたしたちはこんなにも立派な教団を立ち上げました。神は必ずわたしたちを受け入れてくださるでしょう。」神はみことばのほかは何も受け入れません。
「見てください。ブランハム兄弟、もし毎年これほど多くの福音奉仕者を輩出すれば・・・。私たちの宣教プログラムは昨年10万ドル以上供出しました。」それは良いことでしょうが、しかし、みことばを認めてみことばに従うまでは、死んだ活動をしているにほかなりません。そのとおりです。
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「ブランハム兄弟、あなたは自分をなに様だと思っているのですか? ただのピーマン頭ではないですか!」そのとおりです。確かにわたしはそうです。でもわたしが何者であれ、あのみことばとともにいさせてください。そうすればいつの日か、価値のあるものに成長していくことでしょう。あのみことばに止まるのです。わたしたちにはこの小さな会堂しかありませんが、今の時点ではこれでじゅうぶんです。座れる場所があればいいのです。なぜならわたしたちはイエスが来られるのを待っているからです。わたしたちには、建物やその他で年間何百万ドルもかかる立派な教団は必要ありません。食べ物などに不足しながらもみことばを宣べ伝えようとしている人々がいるのですよ。いったいどうしてしまったのでしょう。・・・?目を覚ますことができたようです。
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しかし、カタキズム(カトリックの教義)を受け入れることができたのであれば、なんでも受け入れることができるくらい盲目になっているはずです。真実のことを言います。あのような教えを飲み込むことができた人は、・・・賢い人です。聖書が、「地上の王たちでさえ、彼女と不品行を行った。」と言っているのは納得です。そして賢い人たち、知識を持った人たちのことです。カトリックの司祭は賢い人たちですよね。教育のことを言うなら、彼らは何年も何年も何年もかけて学びを重ねています。
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彼らは修道女たちと一緒に暮らしてはいないと言います。それなら尋ねますが、なぜ彼らは子種をなくさなかったのですか。彼女たちは花嫁です。修道女たちは花嫁で、彼らが花婿なのは当然です。女子修道院長が赤子らを窒息させ、石灰の穴に入れるのです。信じないかもしれませんが、そこにいた本人の証を聞いてください。「さあ、法によってわたしを逮捕してください。」「わたしたちはロシアやメキシコで彼らがやったことと同じことをします。わたしたちはそのことを政府に暴露します。」しかし、今では政府の頂点に立つ大統領がカトリックなのです。どうやって実行できるでしょう?
あのみことばは成就しなければなりません。彼らはここで組織を作り獣が彼らの上に立つのです、彼らは親しく交わり、獣にものを言う権利を与えます。ああ、兄弟よ、あのみことばはすでに成就し始めています。世界を支配するのは共産主義ではありません、しかしローマ主義がそうなのです。
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さて、このことを考えてください。カインは言いました、「決して神はわたしのいけにえの捧げものを拒んだりなさらない。」彼は「わたしはいけにえを捧げました。」と言いましたが、どんないけにえですか? 植物の生命です。緑や花や野菜、これらは植物です。だから苦しみを伴いません。苦しみの伴わない犠牲です。
人は苦しみたくありません。でもそれがこんにちの問題なのです。もし自分の教会から追い出されないなら、もし笑い者にされないのなら、彼らは直ちにこのみことばを信じるでしょう。彼らが望んでいるのは植物の命、知恵の一種です。「この命はそれと同じくらいいものです。」いいえ、そうではありません!どこからそんな考えがきたか、主が望まれるなら、教えましょう。
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しかし、アベルは信仰によって、・・・カインは知恵によってこう言いました、「決して神はこれを拒んだりなさらない。祭壇もあるし、教会もある。」(教会とはそのためのものです。祭壇があって礼拝を行う場所です。)「わたしは祭壇を築いた。弟のように真剣に礼拝したいのだ。それにここには美しいものを用意してある。決して神は拒んだりなさらない。」これは悪魔が彼の母に囁いたのと同じ嘘です。サタンの知恵です。
さて、アベルは、・・・ヘブル書11によれば、「信仰によって、アベルはカインよりすぐれたいけにえを神に捧げました。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。」とあります。
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アベルは、何によって? 知恵によってですか? 神学によってですか? いいえ、信仰によって、彼はカインよりすぐれたいけにえを神に捧げました。それでは彼は何を信仰したのですか? どこから彼は信仰を得たのでしょう? 彼には両親と異父兄しかいなかったのですから、いったいぜんたいどうやって、どこから彼は信仰を得たのでしょうか。そして彼は何に信頼したのでしょう? 植物を信頼したのですか? それともこれですか? いいえ、違います。彼は神のことばに信頼をおいたのです。なぜなら、彼はどうしてエデンの園を追い出されたのか、その理由を知りたかったからです。「なぜわたしたちは追い出されたの?」
母親はこんなふうに言ったかもしれません、「それはわたしが悪魔の嘘に耳を傾けたからですよ。あなたのお兄ちゃんは、これこれこんな事情で生まれたのですよ。だから、神がわたしたちを追放されたのです。」
彼は言いました、「そうか、それで園の門に近づくことさえできないんだ。ケルビムは剣を抜いて命の木を警備している。」だから信仰によって・・・
158
カインは知恵によっていけにえを捧げました・・・彼は神のことばを知らず、自分で考え出した知恵によって良い祭壇を作り、美しく飾りました。しかし、アベルは誰からも教えられずに、信仰によって、植物の命ではなく、性行為が原因であること、それに血が伴っていることに気づきました。そうなのです兄弟よ、ある時やっと、泥沼を抜け出すことができたのです。信仰によって、彼の子らは今も気づいています。
彼は知恵によってそのことを教えませんでした。それは知恵によってではなく、信仰によってわかることなのです。聖書はこう記しています、「アベルは信仰によって・・・」彼は何を捧げましたか? 動物を殺してとった血です。わたしたちも動物です。恒温動物です。そうです。わたしたちは動物界で最高クラスの霊長類のうちでも最高峰であるヒトであり、魂を持っています。そしてそれがいのちです。
159
アベルは信仰によって啓示を受けました。彼は幻を見たので、ドクドクと流れる血を捧げました。なぜならいのちは血の中にあるからです。植物の茎に命がありますが、植物の命には感情がありません。(このことをしっかり受け止めて欲しいのですが)
アベルは信仰によってみことばにとどまりました。知恵によってではなく、信仰によって、それが血を伴う性行為であることを理解したのです。血球は男性から生じます。男性の精子の中に血球があるのです。ヘモブロビン・・・血は男性から生じます。罪の原因となって、エデンの園から追い出されたのが、りんごや桃やジャガイモや何やらが原因でないことをアベルは知っていました。原因は血を伴う性行為です。だから彼はいけにえとして血をお返ししたのです。信仰によって彼はこうしました。知恵によるのではありません。聖書に書かれているすべてのことと神の教会は、信仰による神の啓示をもとにして出来上がっています。それならば、どうして知恵によってそれを理解できるでしょう?「この岩の上に、わたしの教会を建てる。」とあるとおりです。
「ええ、確かにわたしたちはそれを信じます。」そう言うなら、キリストのいのちはどこに形作られていますか? キリストのいのちはどこにありますか?
160
次に、これらの聖句を書き留めたいですか? もし彼らが、「信じます。信じます。信じます。」と言うのなら、どこにいのちがありますか?
もしあなたが信じるならば、イエスは言われました、「信じる者には、これらのしるしが伴う。(伴うかもしれないではなく、断定です。)」「もしわたしを信じるなら、わたしのする業を、その人もするのである。わたしを信じるなら、 わたしのする業を、その人もするのである。」キリストは戯れにこう言われたのではありません。彼は言ったことを実行されます。どうしてそんなことができるのでしょう? 信じた者の内にキリストのいのちがあるからです。知恵が生まれるのではありません。信仰に生きるためには知恵を否定しなければなりません。みことばに信仰を持つのです。みことばにある知恵を学習するのではありません。みことばに信仰を持つのです。
161
サタンは誰よりもよくみことばの知識を誇っています。説教師も司祭も彼に太刀打ちできません。サタ ンは誰より知恵者ですが、信仰を持つことはできません。信仰は人を生かします。信仰は人を悔い改め に導きます。信仰は人を宗派組織から抜け出させます。サタンには知恵があります。だから宗派組織にとど まらせるのです。そうです。 しかしアベルは、信仰によって、それが性行為であることに気づきました。命は血の中にあります。だ から血をいけにえとして捧げました。そして神はそれを受け入れられました。
162
さて、第2テモテ 2:3 でこう言っています、(悪い土壌ではあるけれど、彼らのところにもみことばは落ちるのです。)「彼らは見えるところは敬虔であっても、その実を否定するのです。」彼らは敬虔を装いながらも聖霊の力を否定するのです。(書き留めたいのでしたら、第2テモテ3 章です。)
聖霊は永遠のいのちのしるしですが、彼らはそれを否定します。「異言を語るなんてありえない。神の癒しや聖霊のバプテスマは今は存在しない。それらは使徒たちのものだ。」
パウロはこう預言しました、「終わりの日には、最後の時には、これらのことが起こるだろう。」彼らの生きた時代ではなく、今の時代のことです。「聖霊が強調してこう言われます、『終わりの日には、後の日には、信仰の失格者となる者がでるだろう。』」云々。信心を装う者が現れるのです。
163
どうすれば永遠のいのちのしるしである聖霊が、霊の水やりがなくて土埃が舞う教会の中で育つことができるでしょう? 聖霊は、宗派教団の楽しみや知恵や浮かれ騒ぎの中で育つことはありません。どうすれば生ける神の奇跡が、婦人として慎ましく振舞うことのできない女性たちの間で育つことができるでしょう? 尋ねてみたいものです。どうすれば神の奇跡が、ちっぽけな生計のよりどころのために、あるいは宗派の好意を得るために説教壇に立って、神の真理を避けて説教する人のところに育つことができるでしょう? そのようなところに、どうして霊的なしるしが現れることができるでしょう? 無理です。
164
どうすれば聖霊のしるしが、宣教師が人々を連れ出して川岸で洋服を脱がせるような宗派で育つことができるでしょう? 昨夜、わたしは偶然通りかかったのですが、ある教区で盛大なダンスパーティーを開いていました。そのようなところで、どうすれば霊の実が育つことができるでしょう? そこは教会の岩の上であって、笑い者にされたりひどい扱いを受ける谷間ではありません。
165
百合は苦労を忍びます。数年前にわたしがした話を覚えていますか? ミスター・リリーの話です。イエスが彼についてこう言いました、「紡ぐこともしないが、栄華を極めたソロモンでさえ、これほど美しい装いはできませんでした。」どうやって百合はそのように美しく装うことができたのでしょう? なんのために? 通りかかる人は百合が漂わすよい香りを嗅ぎます。(匂いを嗅ぐ真似をする。)ミツバチは飛んできて百合の心臓部に入り、百合の蜜を吸います。百合は自由に与えます。骨を折ってそうするのです。ハレルヤ!それが本物の神の人です。それがリリー牧師、ミスター・リリー師です。(そうです!)みことばのために労苦し、うつむいて神に叫びます、「神よ、わたしにはどの場所が適しているのかわかりません。」それはみことばによって明らかにされなければならないのです。神があなたにみことばを与え、それがわかったなら、あとは無償で行くだけです。大きなキャンペーンは必要ありません。「もし1000ドルも保証してくれるなら、行きましょう。」なんてことは言いません。手ぶらで行くのです。「アフリカの遠隔地でもどこでも、神よ、あなたが望まれるところにわたしは行って、種を蒔きます。ただで与えます。」ハレルヤ!
166
イエスはこう言われました、「栄華を極めたソロモンでさえ、これほど美しい装いはできない。」「野の百合を考えてみなさい。」哀れな百合は、努力して得るためにあらゆる苦しい思いをしなければならず、笑い者にされ、あらゆる教団から除け者にされ、嫌な名前で呼ばれたりしますが、みことばにとどまります。昼も夜も労苦し、谷間で横たわります。そこは水路の水を飲むことができる場所です。なんのために骨を折るのですか? 与えるためです。「あなたたちはただで受けたのだから、ただで与えなさい。」了解!このような百合が、どうして土埃の教会の岩の上で育つことができるでしょう。
167
カインの子孫は知恵があり、科学的思考の持ち主でした。カインの子孫についてちょっとみてみましょう。カインの子孫は何になりましたか? 建設者、発明家、科学者です。彼らには知恵がありますから、建築物を建てたり、鉄を製造したり、物質を調合したりしました。彼らは科学者で賢く、教育を受けていて、しかも宗教家でした。しかしその知恵の作物はなにを実らせましたか? 神の裁きが下って、人類全てに死罪が言い渡されました。そうですか? 彼らは何をしたのですか? 死を生み出したのです。知恵があり賢いにもかかわらず、彼らに何が起きましたか? 神の裁きが下って、一人残らず滅ぼされました。本当ですか? 神がそう言われました。彼らは賢く、高等教育を受け、洗練され、宗教的で、素敵で、頭がきれ、自分たちの知恵に頼っていましたが、カインの子孫は一掃されました。
168
今、同じことを彼らはしています。賢い科学者たちが原子爆弾などを作り、人類全体を滅ぼそうとしています。原爆の灰が降って・・・人々の目を焼き、癌を引き起こしています。放射性物質を海に放出し、探してももはや見つかりません。それが解き放たれた時には全世界が破壊されると言われています。人間は自分たちの肉体を爆破させようとしているのです。もっとも聖書にこう書いてあります、「空の鳥が王や隊長の肉を食べる。」云々。死の灰によって腐っていきます。
このようなことを、彼らは知恵を用いて自分の手で行なっています。だから、賢さや知恵がもたらすのは死なのです。単純になって神のことばを信じ、生きる者となりなさい。知恵を選べば死にます。そうです。終わりのときの収穫で、彼らは滅びます。
169
さて、アベルの子孫は質素でした。彼らは農夫だったり、羊飼い(牧師のことですよ)だったりしました。羊飼いや農夫で、慎ましい生活をしていて、誰も賢さを誇ることなく、みことばにとどまっていました。終わりのときに、彼らは何を生み出しましたか? 預言者です。そうです、預言者です。なんのために? 終わりのときのしるしとなるためです。
ノアは箱舟を造り、その扉のところに立って、「雨が降るぞ。」と言いました。誰もが彼を狂人と呼びましたが、彼は預言者でした。アーメン!彼は何をしましたか? 彼のことばを信じる人と助かりたいと願う人に救いをもたらしたのです。質素で無教育の人種がもたらしたのは、信じること、信仰を持つということです。もう片方の人種は知識を信じて、人類に死を招きました。質素な人たちは信仰を持って何をしましたか? 救いをもたらしました。主の預言者が現れて、終わりのときが近づいていることをしるしを用いて知らせました。
教育を受けた人たちがそれを信じたと思いますか? 鼻であしらい、立ち去りながら、こんなふうにがなり立てました、「いったい雨はどこから来るのか? 空に水があるというのなら、科学的に立証してみなさい。」それが科学者というものです。知ったかぶりをして、神など存在しないと科学的に証明しようとします。
170
あの写真が撮られたとき、彼らは椅子から飛び上がりそうになりました。彼らは理解できずに、「照明か何かがレンズに当たったのだ。」と言いました。彼らが発明したカメラという科学的装置が写した写真なのに、信じられなかったのです。それに対して、ジョージ・レーシーはこう言いました、「失礼ですが、このカメラは心理状態を写すことはできません。その光は確かにそこに存在していて、それをレンズがとらえたのです。」「それが何なのかはわかりません。しかしそこにあったことは間違いありません。」「わたしはその写真に署名をします。」そして彼はそうしました。そしてFBIの検閲も受けました。
171
わたしたちの神は、この終わりの日に、あらゆることを徹底的にひっくり返されます。しかし、神が見せつけられることに、この世は耐えられません。知恵と知識が増すので、ジェット機がハエのように舞う空中爆撃戦や水中戦なんてのが行われるようになり、あらゆる腐敗がはびこり、人々は罪を犯しながら生活し、危険から身を守るためのシェルターを建築しようとしています。しかし、確かなことはひとつしかありません。それは神の義が、箱舟の入り口に立っているということです。
172
扉とは誰のことですか? イエスは言われました、「わたしが羊の囲いの扉なのです。」先ほど読んだとおりです。「わたしの羊はわたしの声を聞く。彼らは知らないものにはついていかない。」教団のものと絡まるようなことはありません。彼らはこの世と同様、教団からも脱出します。「わたしは彼らを囲いから連れ出し、先頭に立って彼らを導いていく。」アーメン!「彼らにはわたしがわかる。誰もわたしのように歩むことができない。誰もわたしがすることを真似できない。」イエスが言われたことです。アーメン!
「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、誰もおこなうことができないからです。」そのとおりです。ニコデモの告白にあるとおりです。
173
質素な少数人種は預言者を輩出しました。アベルの子孫の終わりの日に、預言者が生まれて終わりの日のしるしをおこない、警告を与えました。今のときも同じようだと思います。「耳のあるものは、霊が教会に語ることを聞きなさい。」
だから、いのちのみことばの種は知恵が働く環境では育つことができないのです。
174
モーゼとヨシュアはみことばに信頼していました。コラたちは、踊ったり女性を薄着にさせたりしていました。彼らがエジプトの知恵を引き継いでいたからです。モーゼはそれを厭いました。こんにちのコラの状態はどうでしょう。楽なことを好み、踊ったり、徹夜でパーティをしたり、ショートヘアにしたり、短いドレスを着たりして、「大した違いはありません。構いませんよ。」なんて言っています。いいえ、違うのです。聖書は、それはいけないと言っています。そうです。
175
コラも含めて彼らはみな洗礼を受けました・・・。ここでも宗教的教会の典型を見ることができます。「えっ、彼らが洗礼を受けたのですか?」それなら、1コリント10:1〜2を読みましょう。もう遅い時間になっていることはわかっていますが、夕飯は焦げつかないでしょう。主が、ごちそうを提供し続けてくださるなら、この夕食はちょっと長引くかもしれません。さて、1コリント10:1〜2(あ、間違えて2コリントを開いちゃいました。)1コリント10:1〜2です。
「そこで、兄弟たち、私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの祖父たちはみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。
そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受けました。」
176
コラもほかの人たちと同様に同じバプテスマを受けましたが、彼は何をしましたか? 女性たちに踊りを踊らせ、ワインを飲んで楽しませ、服を脱がせて不貞をはたらきました。聖書がそう言っています。彼らは女性たちの服を脱がせ、踊りを踊らせた、云々と。モーゼの怒りが燃えました。いつのことだったかわかりますか? 彼らはコラ博士の知恵の方針に従ったのです。彼は言いました、「あなたたちをエジプトに連れて帰ろう。」彼らはエジプトに戻ってしまっていたかもしれません。しかしそこにモーゼが戻って来ました。そこですべてが一転しました。彼とヨシュアはみことばにとどまりました。神があたえられた約束のことばにとどまったのです。そうです。
ほかの人たちは、コラの知恵に従って、踊ったり、服を脱いだりすることを好みました。みな同じひとつの洗礼を受けていたのです。
177
イスラエルとモアブは・・・あ、このことはもう話しましたね。急がなければならないので、飛ばしましょう。イスラエルとモアブのことです。かたや、洗練されていて知恵のある大きな教団で、かたや小さな非組織集団でした。
178
ある日、(これを話さなかったら、おしまいにできません。)ある日、この二つの勢力が、神のことばをめぐって対決しました。さあ、話のヤマ場に来ましたよ。引き返すこともできますが、あるいは一週間もそれに触れもしないでいることもできますが、わたしが話していることを証明することは可能ですが、理解してほしいと思います。
ある日、知恵と信仰が対決するときが来ました。イエスとサタンが向かい合いました。そうです。イエスとサタンの二つの大勢力が真っ向から対立したのです。知恵と信仰の対決の時がやって来ました。
両勢力とも、みことばを用いました。そうですね?(ああ、兄弟よ、おもしろくなってきました。どうか聞き逃さないでくださいよ。『神よ、わたしの心を開いてください。』)両勢力とも、神のことばを用い、同じ聖書を用いました。しかし、回心していない側にはみことばの効き目はありませんでした。そうです。確かに。両者とも神のことばを用いましたが、サタンは頭の知識からそれを用いたので、効き目がありませんでした。
179
そのことを裏付けする聖句があります。読んでもいいですか? 急いでヘブル4章を開きましょう。ぜひこれを読みたいのです。まさにぴったりの聖句です。ヘブル4章の1〜2を読みましょう。
「こういうわけで、神の安息に入るための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれに入れないようなことのないように、私たちは恐る心を持とうではありませんか。
福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、(知識によって? 知恵によって?)信仰によって、(信仰によってどうなりました?)結びつけられなかったからです。
180
全てのみことばを知る事もできるでしょう。たとえ最初から最後まで聖書を暗記しても、力にはなりません。みことばを使って、力を得ようとしている人を見たことがありますか?「兄弟、神に栄光・・・」それは役に立たないのです。みことばをもてあそぶことはできません。そんなことしてはいけません。どんなに宣言しても、みことばがそれを証しします。何を主張しようとも、みことばがそれを証しします。そうです。
さて、サタンはみことばを知っていました。聖書を最初から最後まで知っていました。想像するにもしサタンに称号があるとするなら、彼の称号を書き留めるのに4〜5ページを要するでしょう。博士、尊師、長老、Ph、LL、QDなどあらゆるアルファベットが並んでまだまだ続くことでしょう。彼は聖書の博士号も持っているでしょう。聖書のすべての言葉を知っていますから。間違いなく、彼は知っています、わかりますね。
181
だからサタンは言いました、「わたしはそのことばを知っていますよ。」エバに話しかけたとき、彼は神がアダムに言って聞かせたことばを知っていたことはわかっています。彼は頭の知識でそのことばを知っていましたが、力とはなりませんでした。イエスは、前もって定められていたいのちなので、神のことばを啓示として受けて、それを信じる信仰によってそのことばを知っていました。神に栄光!このことが心に浸透して理解できるといいのですが。イエスは自分自身を知っていました。サタンは不審に思っていました。イエスは、ご自分が前もって定められていた神の被造物であり、彼をとおして神ご自身が現れることを知っていました。力の業をしていたのはイエスではなく、彼の内におられた父でした。悪魔には、神学を抱えて飛ばせておけばいいでしょう。
182
サタンはみことばを知っていました。彼は歩く聖書であるかのように、聖句を引用することができました。彼はそんなふうに聖書を引用できたのです。しかし、イエスは自分の立場をわきまえていましたから、じっとしていました。彼は、世界が造られる前から、屠られた羊として定められていたことを知っていました。イエスはそれが自分なのだとわかっていたのです。ああ、兄弟よ、「聞く耳のあるものは聞きなさい。」イエスはその役割が定まっていることを知っていました。彼がみことばを知っているというのはこういういたし方によるのです。ですからみことばが効力を発揮しました。そうです。サタンは知恵によって知っていただけなので、駄目でした。サタンはイエスと同じみことば、同じ聖書を引用しました。彼は詩篇から引用してこう言いました、「聖書にはこう書いてある。『神は天使たちに命じて、すべての道であなたを守るようにされる。彼らはその手であなたを支え、あなたの足が石に打ち当たることがないようにされると。』」
それに対して、イエスは言われました、「聖書にはこうも書いてある。」
183
サタンはみことばを知識によって知っていましたが、イエスは経験によって知っていました。彼は啓示を受けてそれを知ったのです。彼は、この世に現れるはずの神の子が自分であることを知っていました。彼は自分の立場をわかっていました。彼は、その目的のためにこの世に生まれたものであることをわかっていましたので、神のことばは、彼をとおして効力を発揮しました。素晴らしい!(もう見えてきましたか?)イエスは自分のことがわかっていました。逆に、サタンも自分のことを知っていて、彼には知恵を用いてみことばを扱う権限がないことを知っていました。みことばは神だからです。わかりましたか?
184
イエスは自分のことをわかっていたので・・・。イエスは定められたときに現れるはずの被造物でした。信じますか? イエスは、自分がすでに定められていたみことばであり、神の子として肉体をもって定められたときに現れ、罪のいけにえとなることをわかっていました。そして、数週間前の日曜日にお伝えしたように、彼は敵を知っていました。それでこの二つの勢力、知恵と信仰が対決の時を迎えたのです。イエスは自分のことがわかっていました。サタンは、イエスと対等に渡り合えるほど聖書の知識を持っていましが、みことばの効力を持っていませんでした。どれほど知識があっても、駄目なのです。
さて、大きな教団に目を向けましょう。ちょっと考えてみてください。彼らは、「わたしたちにはみことばがある。」と言いますが、みことばが実際におこなわれているか、見せてほしいものです。カトリックは、自分たちが最初の教会であると言いますが、どうでしょう。信仰の伴わない働きというものを見せてください、そうすればわたしは、信仰による働きを示しましょう。これは、みことばが言ったことです。
185
ある種を植えて、それが育つなら、その種以外の作物が実ることが
出来るでしょうか?トウモロコシの種を植えて、それが育つなら、モロコシ以外のものが実りますか? じゃがいもの種芋を植えたなら、じゃがいも以外のものが収穫できますか? 花の種を植えたなら、その花の種類以外の花が咲きますか? だったら、あなたの心に神の種が蒔かれたなら、あなたは神の子になるはずです。イエスは言われました、「もしわたしを信じるなら、わたしの業をその人もおこなう。」もし信じると言いながら、イエスに従わないなら、その人は嘘つきということになります。「わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」これはすごいことですよ。もし種が、滑ってどこかの岩の上に落ちることなく、谷間に落ちたなら、そこでは風に吹き飛ばされることもなく、鳥に食べられることもありません。だから育ちます。種があなたの心の中に隠されたなら。
186
ダビデは言いました、「わたしはあなたのみ教えを心に秘めています。(だからどの宗派教団もはそれを取り去ることができないし、空の鳥もそれを食べてしまうことができません。)あなたのみ教えを心に秘めて、昼も夜もそれに思いを馳せます。それはわたしの寝台の支柱に刻まれ、わたしの指に結びつけられ、わたしがどこに行こうとも、共にあります。」
またイエスは言われました、「あなたの名はわたしの手の甲に刻まれている。」だから、忘れられることがあるでしょうか? そんなことはありえません。
187
イエスは、ご自分が前もって定められていた被造物であることをわかっていたので、信仰においてサタンを敗北に追い込みました。(さて心の準備はいいですか?)イエスがそうだったのであれば、前もって定められていたイエスの花嫁はどうでしょう? 花嫁は前もって定められていたことを信じますか? 前もって定められていた、現在のイエスの花嫁であり、教会であり、みことばの種です。神が約束されたことのすべてを、現在この教会はもっています。すべてが揃っています。聖霊が与えられ、種が蒔かれ、夕べの光が輝いています。イエスが言われたソドムのしるしがあります。そしてマラキ4章に記されたことも。前もって定められた教会です。ああ、悪魔め・・・。
188
ここにいる人もテープを聞く人も生ける神の教会です。あなたは自分の立場がわかっていますか? あなたは神に呼ばれ、聖霊があなたの心を支配し、神のあらゆることばがあなたに現実となって現れていることがわかっていますか? ああ、兄弟よ、サタンはそれに立ち向かえると思いますか? サタンにその成長を制止する力があるとでも? それに伴うしるしを抑えることができるとでも? 牢獄に入れるとかいうことはできるでしょう。ある者は牢獄で朽ち果て、ある者はライオンの餌にされ、ある者はのこぎりで引き裂かれ、ある者は焼かれて灰になりました。でも、前もって定められていた教会の息の根を止めることはできないのです。(そうです!)「神はあらかじめ定められた者たちを、(イエスが神から定められていたのと同じです。)召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになりました。定められていたのです。」そして今この終わりの日に、あらゆる種は蒔かれ、すべてが揃いました。(世界は秩序立てられ、時は迫り、教会は秩序立てられ、種は蒔かれ、夕べの光が輝いています。)イエスが、「ソドムの時代のように・・・」と言われたように、ソドムのときと同じしるしが現れています。(神の御使いが現れ、聖霊が注がれて、イエスがなさった同じしるしをおこなっています。)神が終わりのときに遣わすと約束された、マラキ4章に記されているしるしです。それらをわたしたちは目の当たりにしているのです。どこで? ここです。
アーメン、アーメン、アーメン、アーメン、アーメン!
神を愛しますか? アーメン!(もちろんです!)
あらかじめ定められていた教会が、終わりの日の今、ここにあります。種を蒔かれ、聖霊を注がれ、自分の立場をわかっている教会です。サタンよ、覚悟しろ。
189
何が起きましたか?(ちょっと待って)何が起きましたか? 教会のために約束されたすべてのことが揃い、マラキ4章で約束されたことも・・・
イエスに向き合ったとき、サタンは何をしましたか? 彼は、「わたしだってみことばを知っているのだ。」と、あらゆる宗教的教会の力を尽くして、イエスに飛び込んでいきました。サタンが宗派の土埃を、いくらイエスに投げつけても、それにはいのちがありません。彼は飛び去りましたか? 彼は飛びつくより速く墜落しました。なぜ? 100億ボルトの電線に激突し、羽が焦げたからです。だから彼はすぐイエスから離れました。イエスから墜落したのです。その電線にはおびただしい電流が流れていましたから。
190
サタンにも電線がありました。でもどんなにみごとな銅でできた電線でも、いのちが通っていなければ、廃物です。使い物になりません。同じ電線でも、かたや発電機から電力を通し、かたや発電機に接続されていません。そうです。そういう理由で、前もって定められていた器は、力が発揮できるのです。接続されているところでは、みことばが威力を発揮します。どこに接続されているのですか? 教団ですか? とんでもない!それは壊れたコンセントで、見た目は敬虔でも、力を否定します。そうではなく、みことばに接続するのです。みことばはすたれることがないので、同じ力をいつまでも供給できます。素晴らしい!
アーメン、アーメン!
神を愛しますか?
神に仕えますか?アーメン!
宗派につながるのではなく、この発電機につながりましょう。兄弟よ、いいですか? つながるのです。そうすれば力を発揮します。イエスに働いたのと同じみことばですから。
191
モアブもつながっていましたし、イスラエルもつながっていました。モアブは無意味な教条と偽の預言者につながっていました。しかしイスラエルがつながっていたのは、打たれた岩と青銅の蛇と炎の柱と(ハレルヤ!)生ける神のしるしでした。それは効果がありました。なぜ? 知識や人の作った教条ではなく、信仰に、みことばの信仰に、みことば自身を信じる信仰に基づいていたからです。いのちはみことばから生じます。『わたしのことばはいのちです。」とあるとおりです。電流がみことばを通して流れたので、サタンはとっさに離れなければなりませんでした。そこでは彼の神学的埃は、面目を失うほかありませんでした。
サタンの電線には電流が通りません。無意味な教条です。同じ電線にも関わらず・・・イエスは天の父のみことばを用いました。サタンも天の父のみことばを用いました。サタンはサタン、イエスは神です。そこが大きな差です。本当のことです。かたや教条、かたやみことばです。かたや偽物、かたや真理です。一方は実りをもたらし、一方は不毛です。同じ電線なのにです。そうです。同じ電線なのにです。ヘブル4:2
を見てみましょう。
192
宗派のように、知恵によって。宗派教団は知恵によってこう言います、「電流の流れる時代は終わった。」
神を愛しますか?アーメン!
神に仕えますか?アーメン!
神を信じますか?アーメン、アーメン、アーメン!
わたしは神を信じます。信じますとも!アーメンとは、「そうなりますように。」という意味です。主よ、今朝のわたしの祈りは、ここにいる信者一人残らずに電流を流してくださることです。いのちの電流を流し、ブンブン音を立てて神の栄光を光らせる者にしてください。そうです。電流を流して下さい。
193
わたしが信じていることをご存知でしょうか?その輝かしい教会のための種は蒔かれました。(あなたもそう信じますか?)それは、建物全体に電線が配置され、みことばによってすべてのコンセントがチェックを受けたのと似ています。「あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、驚き怪しんではなりません。それはあなたをチェックするためです。」もし線が接地していて、どこかで漏電があったなら、建物全体のスイッチを駄目にしてしまいます。神はご自分の教会でそのようなことが起こることを望まれません。終わりの日には、ヒューズが飛ぶようなことは起こりません。とんでもない!彼は戻ってきて、きちんと溶接し直されます。そうです!そしてすべての灯りが、それぞれの場所に設置されます。あとはご主人が帰ってきて、みことばによってスイッチをオンにするのを待つだけです。(そうです!)それは今かもしれません。もし癒しが必要なら、スイッチに触れなさい。あなたに必要なのはスイッチに触れることだけです。もしあなたが本物の電線で、接地しているなら・・・もしあなたの電線が接地していてつながっているなら、そしてイエスに夢中になっているなら、どうすればいいか教えましょう。アーメン!そうです。
194
さて、宗派教団の知恵は、奇跡の時代は終わったと言います。電線に電流が流れていないからです。しかし信仰はちゃんとわかっています。電流の流れを感じるので、正常に動作することがわかっています。彼らは光を知っています。光が何をするのかもわかっています。
信仰は電流です。電流であり、霊です。知恵は宗派教団の様式です。サタンは、イエスを天の父のみことばへの信仰から引き離そうと試みました。これが、彼がした試みです。彼は地上に建つ大きな宗教的教会組織をイエスに見せ、「さあ、いらっしゃい。ここに属すれば、あなたを司教にしますよ。」と言いました。しかし彼を誘惑することはできませんでした。
イエスは言いました、「聖書にはこう書いてある。」そうです。サタンはイエスを誘惑することはできませんでした。彼はそんなことを超越していました。
195
しかしイエスはみことばでした。イエスは自分がみことばであるという知識に信仰がありました。モーゼも自分のことをわかっていました。モーゼは、自分が神の召命を受けた、神の僕であることを知っていました。彼は自分が何をしなければならないのかを知っていました。だからサタンの言うことに怯えませんでした。サタンは彼を誘惑し、怯えさせようとしましたが、モーゼは自分の立場をわかっていました。そうです。
さて、急ぎましょう。もう何ページも省いて話しています。
196
パウロは、(これを話さなかったら、終わりにできません。)パウロは、はっきりと彼の時代の花嫁に、(パウロは、花嫁をキリストに捧げる役目を持っていることをと信じますか?)パウロは彼の時代の花嫁に、この終わりの日に、彼が花嫁をイエスキリストに捧げることを明言し、知恵をとるか、信仰をとるかはっきりさせました。ちょっと聖書を読みましょう。1コリント4章です。ここを読んだら終わりにします。主がそう望まれるなら。1コリント4章18〜20節まで読みます。
「私があなたがたのところに行くことはあるまいと、思い上がっている人たちがいます。
しかし、主のみこころであれば、すぐにもあなたがたのところへ行きます。そして、思い上がっている人たちの、演説ではなく、力を見せてもらいましょう。」
その当時でき始めていたのはローマ教会です。聖書にこう書いてありますね、「彼らは私たちから離れて行きました。彼らが私たちの仲間ではなかったからです。」そうです。
「神の国は言葉にはなく、力にあるのです。」
197
わかりますね? 言葉ではないのです。「わたしは教育を受けた者だ。兄弟よ、わたしはあなたより高い教育を受けている。わたしは司祭だ。わたしは・・・」そんなのは意味がありません。あなたが自分を豚か何かだと言うくらい頓珍漢なことです。そんなのは空虚なことです。悪魔はたくさんの知識を持っています。そうです。
「神の国は言葉にはなく、力にあるのです。
あなたがたはどちらを望むのですか。私はあなたがたのところへむちを持って行きましょうか。それとも、愛と優しい心で行きましょうか。」
198
さて今度は2章です。(もうちょっとでおしまいにします。)2章を開いてください。さて始めましょう1節から読みます。パウロが現在の花嫁に語っていることです。現在の花嫁をキリストに捧げようとして、このことをしっかり心得ておくようにと語っています。パウロも学識者でした。しかし彼は、学んできた知識を捨て去らなければならなかったと言っています。彼はいろいろなことを学びいろいろな学位を持っていましたが、キリストを知るために、その一切を捨てなければなりませんでした。(さあ、聞いて)
「さて兄弟たち、私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。」ね、知恵を用いなかったのです。
199
「わたしは〇〇博士です。わたしたちは〇〇神学校で学びました。」いいえ、そうではなく、パウロは言いました、「わたしは知恵をもってあなたがたのところに行きませんでした。」今日の話のタイトルは何ですか? 「知恵をとるか、信仰をとるか」です。パウロは言いました、「わたしは知恵をもってあなたがたのところに来ませんでした。」『わたしたちは神学校で学んで、奇跡の時代は終わったと言うことを知りました。また、聖書のこれらのことは本当はそういう意味ではないということも知りました。』なんていうことを言わなかったのです。それならなんと言いましたか?
「なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。
あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。(わたしはあなたと共にいる。)
そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の表れでした。(ブース・クリボーンが言うごとく、「やあ、誰がノックしたの?」わたしは神学論をもってあなたがたのところに来ませんでした。)
それは、あなたがたの持つ(F-a-i-t-h)信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。」
アーメン!信じますか? 「あなたの持つ信仰が、宗派教団の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。神の力を信じる信仰です。
200
この二つの勢力はエデンの園のときから戦いをくりかえして来ました。神の信仰とサタンの知恵の戦いです。両者は妥協して交わることができないこと、成長のために分離されなければならないことを、神は全時代をとおして証しされました。
急いでその例をあげて、話します。
エサウとヤコブはその典型です。両者とも敬虔で、両者は双子です。エサウは宗教的教会型でした。彼は賢くて、道徳的でしたが、自分が持っている生得権の価値を軽んじていました。ヤコブはその生得権を得るためには手段を選びませんでした。この二人が一緒にいる間は、何も得るものがありませんでした。そうですか? お互いに敵対しあって暮らしていましたから。言いたいことがわかりましたか?アーメン!「そこから出て来なさい。離れなさいと、神が言われる。彼らの汚れたものに触ってはいけない。わたしがあなたを受け入れるからだ。」
ヤコブは、神から祝福を受けるために、兄の教団から離れなければなりませんでした。神はアブラハムにも同じことを告げました。イスラエルとモアブも。イスラエルの400人の預言者がミカヤの前に立っていましたが、彼は彼らから離れて神からのことばを受け、みことばを携えて戻って来ました。モーゼとコラも同様に、妥協して協力することはせず、分離しました。そうですね?
201
アブラハムとロトについてです。ロトは敬虔で、形式的教会の代表型でした。彼は長い間アブラハムと共に旅をして来ましたが、彼が一緒にいる間は神はアブラハムを祝福することができませんでした。神からの祝福を受けるためにはアブラハムは、すっかり神に従って、宗派教団を代表するロトと決別しなければならなかったのです。アブラハムが決別して独自に歩み始めたとたん、神は言われました。「さあ、アブラハム、立って四方を見回しなさい。すべてあなたのものだ。」そうです。彼が決別して独自に歩み始めるまでは、神はこの祝福をお与えになりませんでした。
202
神は、カインから隔離するまでは、セトを祝福できませんでした。神はカインに印をつけてノドの地に行かせ、カインと彼の知恵者集団はそこで科学者や偉い人を輩出しました。一方セトは、義と愛と神のことばへの信仰のもとで子孫を増やし、その中から終わりの日の警告をして信じるものを救う預言者を輩出しました。反対に、知恵はみなを死に追いやりました。全員死に絶えました。一人残らずです。どんなに偉い学位を持っていても、神の裁きが下って、みな滅ぼされました。
203
そして神の霊によって新たに生まれた者以外は、神のことばをすべて信じて守る者以外は、すべて神の裁きのときに滅ぼされます。品をつくって通りを歩く人たち、行いを改めることなく平気でいる人たちは、世間ではなんでもなくても、神の裁きで馬の肥やしになります。腐敗して朽ち果てます。必ずそうなります。女性たちよ、目を覚ましなさい!
204
時間がもうないのですが、ちょっとした証があります。ちょっと前に、カリフォルニアで出くわした女性のことです。わたしはテントに呼ばれるのを待って道を走っていて、(不名誉な言い方ですが)ギャルが歩いているのを見かけました。彼女は可愛い娘に間違いありませんが、カウボーイハットをかぶり、タッセルのついたブーツを履いて、腰を振って道を歩いていました。誰もが彼女に口笛を吹き、手を振っていました。わたしは彼女を止めるべきだと思いました。(もしわたしが説教師でなくて、メーダが一緒にいたなら、そうしていたでしょう。)「ちょっと姉妹、あなたに言いたいことがあります。あなたは確かに人から可愛いと思われるでしょう。あなたが腰を振って歩けば、車がスリップしたり止まったり、男たちが狼のように口笛を吹いたりするでしょう。でもいつの日かその体を蛆虫が這い回って食べ尽くしてしまうことでしょう。多分今から6週間あとくらいにそうなるでしょう。腐って墓に横たわることに。体は腐り果てても、欲望の赴くままに生きたあなたの魂は、悪魔の地獄で多くのときを過ごすことになるでしょう。」
205
モーゼとコラ、ロト、アブラハム、洗礼者ヨハネと収税吏、イエスとパリサイ派等の宗派教団、信仰と知恵。
祭司たちは立ち上がってこう言ったでしょう、「もちろん、わたしたちは・・・」
彼は答えました、「そうです。」
「わたしたちにはこのような立派な父がいます。わたしたちはこのようなことを成し遂げました。」
「そうです。あなたたちとあなたたちの伝統は、神の戒めを無効とし、人の戒めを教義として教えています。」
「わたしたちに教えようとするとは、いったいあなたは何者ですか? どこの学校を出たのですか?」
「わたしのする業がわたしを証ししています。もしわたしがメシアがするはずの業をしないのであれば、わたしを信じる必要はありません。でも、もしわたしがメシアの業をするなら、あなたたちにはわかるはずです。あなたたちは業を信じますから。それはわたしを証しするものです。もしわたしがその業をしないのであれば、わたしを信じる必要はありません。」
彼も知恵を用いる宗派教団と対立しました。イエスには信仰がありました。何の信仰? 神の子であることです。そうです。
206
聖マルチンとローマ教会の対立・・・改革の日々のローマの教会がローマ多神教の教会になっていく前に、マルチンは立ちはだかってカトリック教会の教義に抗議しました。マルチンの教会は、神の力が彼と共にあったので、しるしと不思議と奇跡をおこない、みな異言を語り、預言し、驚くことをおこなっていました。彼は死者を生き返らせ、病を癒していました。対するカトリック教会は、そんなことをするマルティンに抗議して、彼を火あぶりにしようとしました。知恵と信仰の対立です。
現在も同じことです。さてとどめの一発をさしましょう。ゼカリア4:6をもっておしまいにします。聖書は、「権力によるのでなく、力によるのでなく、わたしの霊によってと主が言われる。」と記しています。「知恵によるのでなく、知識によるのでなく、宗派によるのでなく、わたしの霊によって、わたしのことばにいのちをふきこむ。」
207
弟子たちに種が蒔かれると、霊がそのみことばにいのちを吹き込みました。「権力によるのでなく、力によるのでなく、知恵によるのでなく、知力によるのでなく、あれこれによるのでなく、わたしの霊によって、わたしはわたしのことばにいのちを吹き込む。わたしの霊によってと主は言われる。」神のことばにいのちを吹き込んで業をなさせるのは、みことばの信仰の水やりです。
208
どちらが勝利するのでしょう? 現状では知恵の方が優勢に見えます。しかしそれは勝利しません。現状では、神のことばをすべて信じる教会は少数派です。でも心配しなくても大丈夫です。聖書はこう記します、「恐るな、小さな群よ、父は喜んであなたたちに神の国を与えられる。」そうです。恐れてはいけません。信仰にとどまりなさい。みことばにとどまりなさい。みことばから離れてはいけません。とどまりなさい。
神を愛しますか? アーメン!
神に仕えますか? アーメン!
神を信じますか? アーメン、アーメン、アーメン!
歌いましょう。
神を愛しますか? アーメン!
神に仕えますか? アーメン!
神を信じますか? アーメン、アーメン、アーメン!
神を愛しますか? アーメン!
神に仕えますか? アーメン!
神を信じますか? アーメン、アーメン、アーメン!
おお、神を愛します。あなたは? 信仰によって、知恵によってではなく、信仰によって、わたしたちは救われました。そうですね? 「知恵によってではなく、知識によってではなく、わたしの霊によってと主は言われる。」
209
さあ、しっかりと教会に対してそれを浸しましょう。銅製の電線は伝導体です。アルミニウムはそうではなく、電気を通しません。ゴムホースも電気を通しません。それは絶縁体です。材木も絶縁体です。周りは絶縁体だらけですが、わたしたちはそれを求めません。絶縁したくありません。わたしたちは伝導体でありたい。生まれ変わって神のことばを信じる男女でありたいです。
210
さて、かの発電機はなんと言いましたか? 「わたしの名によって、なんでも父に願いなさい。わたしがかなえてあげよう。」さて、あなたはどうしますか? プラグを差し込むのです。アーメン!そうですか? ただプラグを差し込むだけでいいのです。そうすれば電流が電線を流れてきます。するとどうなりますか? みことばが成長し始めます。
「そして彼は水路のほとりに植えられた木のようになる。その葉は枯れることなく、その人は何をしても繁栄する。不信心な者はそうではない。不信心な者はそうはいかない。」それは罪人のことではなく、不信心な人、信じると言いながら実は信じない人のことです。そうです。
不信心な者はそうではない。彼らは正しい人とともに裁判の席に着くことはできない。とても無理なことです。だから時が来て、種がまかれ、前もって定められていた者たちは・・・前もって定められていた者たちだけが、正しい人の席に着くことができます。
211
たった今、黙示録12と13からこのことを証明できます。聖書は、反キリストが地上に現れてすべての人を惑わすと記しています。すべての人、地上にいるす・べ・ての人々を宗派教団と教義によって惑わすのです。あらゆる人が騙されますが、地が創造される前から定められていた人たちだけは騙されません。これは、あなたの手でどうこうできることではないのです。ただ、「アーメン!」と叫びましょう。なんだかいいですね。そうです。
神を愛しますか? アーメン!
神に仕えますか? アーメン!
神を信じますか? アーメン、アーメン、アーメン!
ちょっとみんなで練習しましょう。わたしはこの歌を気に入っています。いいと思いませんか? これはフェニックスの決まり文句の歌です。でもわたしは気に入りました。もう一度歌いましょう。
神を愛しますか? アーメン!
神に仕えますか? アーメン!
神を信じますか? アーメン、アーメン、アーメン!
212
いつまでも続けられますね。「神を礼拝しますか?」とか言葉を置き換えればいつまでも続けることができます。フェニックスから始まって、ばらばらにしたくなりました。 アーメン、アーメン、アーメン!
今朝プラグを差し込みましたか? アーメン!
スイッチを入れて!アーメン!
電流が流れていますか? アーメン、アーメン、アーメン!
成長が始まりました。アーメン!
実をつけます。アーメン!
それを現しましょう。アーメン、アーメン、アーメン!
素敵ではないですか? こんなに長くみんなを引き止めてしまってごめんなさい。でも今は50年の解放の年を迎えた気分です。素晴らしいです。大丈夫です
213
来週の日曜日は、リトルフィールド兄弟のところに行って、みことばを蒔きます。ここで話したことのあるみことばをあちらの神の教会でも蒔きます。みなさんも、もちろん来てください。数年前に献堂式をわたしがおこないました。でも1500席ほどの教会ですから、ぎゅうぎゅう詰めになることでしょうが、リトルフィールド兄弟と約束をしました。彼は可能な限り約束を守る大切な兄弟です。主がそう望まれるなら、わたしはそこに行きます。ここの会堂でも集会があります。その次の日曜日は、アーガンブライト兄弟がロル兄弟を連れてここにやって来ます。ロル兄弟の話は楽しいに違いありません。さて、ネヴィル兄弟にバトンタッチします。主の祝福がありますように。