55-1006A 隠された命

  • 伝道者:ウィリアム・ブランハム
  • イリノイ州シカゴ市レイン・テック高校
  • 録音番号:55-1006A
  • 年:1955
1
それでよろしいです。ではお祈りをいたしましょう。私たちの天の父よ、今日、カルバリでお亡くなりになることで私たちをこのような素晴らしい親睦の中にお取り戻しになった、神様の息子である、イエス・キリストについてのすべてのことを感謝いたします。そしてイエス様が今、私たちに対して祝福なさったことを感謝いたします。 
さて、私たちの親愛なるこの国の大統領についてですが...彼に感謝いたします。なぜなら彼が就任している間に戦争が終わったからです。そして今ロシアとの和平交渉などの重大な事も解決されたようです。父よ、彼は私たちの国のリーダーであり、私たちは彼を愛しています。そして私たちは彼が心臓発作を起こしたと聞きました。私たちは彼がクリスチャンであり、主のことを愛しているのを知っています。父よ、彼のことだが、私たちは彼がしたすべてのことであなた感謝いたします。私たちは今、私たちの国のリーダーとしてこのような人を必要としています。
2
一緒に集まった兄弟たちとして、私たちは彼の病気からの釈放を求めてあなたにお祈りをささげます。主が彼を確実に癒し、すっかり回復し、そして彼に降りかかるこれらの苦しみは、ただ彼を主により近づかせ、彼が自分はあなたに頼りさえすればよいということを知るようになるためだけに起こっているのでありますように、主にお祈り申し上げます。
父よ、私たちは彼が早くホワイトハウスに戻られるように願います。そして彼が地上で政権を握っている間、世界の国々が平和であるように願います。主よ、これらのことを叶えてくださるようお願い申し上げます。
 父よ、偉大な天の支配者である主イエスが来られる時はどんなものなのか、人々に味あわせてください、そうしたら平和はすべての心の中に宿り、もはや戦争はないのでしょう。父よ、これらの祝福を叶えてください。私たちはイエス様の御名によってお願い申し上げます。アーメン。皆さんどうぞお座りください。
3
私はちょっと遅れて来たので、讃美歌を聴き損ねたみたいです。私は外でウェルモ兄弟に会いました。そしてエクベルグ兄弟を見かけなかったので、今日もまた讃美歌を聴き損ねたようですね。私はあのような昔ながらの讃美歌が好きです。
 そういえば、ここはたくさんの伝道者が居られますね。本当に・・・、このような素晴らしい集会が開かれて、とてもうれしく思います。そして私自身にとっても、今日はあなたがたに主のことを話し、伝道できるすばらしい機会です。あなたがたのうち多くの方は、そのことについて私に教えることができると思いますが。ここに居られるたくさんの人にとっては、私はただの赤ん坊みたいなものですね。それに、伝道者の方々に伝道することとなると、私は非常に、ちょっと恥ずかしくなります。
4
さて、あなたがたは「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです」と聞いていますね。そして私の友人であるジョセフは、先日確かにそのような信仰を少し使いました。彼が集会の中でお知らせを言うとき...彼は一度も私に尋ねようとしませんでした。もし彼が私に「知らせてもいいですか。」と聞いていれば、私は間違いなく「だめです、ジョセフ兄弟。」と言ったのでしょう。しかし彼がもうすでにお知らせしてしまったものですから、それで、私は来るしかありませんでした。だから、もしよろしければ、ちょっとの間私のことを我慢してください、そうして下さると大変ありがたいです。私は今日の午後に少しお話した後、そして今晩の礼拝の準備をするつもりなのです。
5
私たちはみな、主である神様がこの大会の中での素晴らしい運行や、フィラデルフィア教会のこと、ボズ兄弟や彼のすべてのスタッフのこと、そしてシカゴやその周りにいる人々のことで大変感謝しています。私たちはあなたがたに大変感謝しています。
 私が思うに、まさにここで起きたことがアメリカの背骨を支えているのです。もし主イエスが私たちがアメリカになることをお助けにならなかったら、アメリカはどこにも存在しなかったでしょう。結局、すべての国々の背骨はそれらの道徳です。ある国で道徳が堕落したら、その国はもう終わりなのです。母性愛がなくなったら、もうあきらめてしまうほうがよいのです。ほかのすべての国がそうなってしまった今、私たちの国も例外ではないのです。
6
私たちは、最後の武器が積まれ、最後の消灯のラッパが吹かれたら、王イエスが地球に到来し支配する偉大な瞬間はもう目の前であると信じています。そして私たちみなそれを待ち望んでいるのです。それがこれらの集会が開かれるわけであり、私たちが一緒に集まる理由です。なぜなら私たちは共通の話題を持っているからです。もちろん、私たちのテーマは神様の子であるイエス・キリストです。
 もし私は今現在起きていることに目を向けると、私はとっても落胆するのでしょう。しかし、ある時わたしはある教訓を学びました。それは、私がある人から聞いたお話しです。彼らは一台のシュウィンの自転車を一番うまく乗れた人に贈ろうとしていました。この物語をこの教会もしくはこれらの人々の前で話したかどうかがわかりません。
7
幅12インチの板の上で100ヤード乗ることができた少年が、新しいシュウィンの自転車をもらえるということになっていました。その市の近くに住む少年の多くは自分は、乗ることができて、その試合で優勝することができると思っていました。そしてその中に、一人のちょっと弱虫な少年がいました。人々はみなその少年は優勝できないだろうと確信していました。そこで、すべての少年たちが乗ろうとしましたが、その小さな弱虫な少年以外、みんな落ちてしまったのです。その小さな少年は板の最後まで乗り、自転車を降りて、そのシュウィンの自転車を勝ち取りました。ほかの少年達はみんな、彼を囲んで聞きました、「どうやって乗ることができたの?」
 彼は言いました、「じゃあ、みんな、きみたちがどうやったのかを教えようか。彼らがあなたたちをスタートさせると...(人々は競技者を支え、彼らがスタートできるように自転車をちょっと押したんです。)きみたちはこうやって下を見て、自分の自転車を板の上に保とうとしただろう。しかし、僕は下を見ようとしなかったんだ。下を見ると緊張しちゃうからね。そして落ちるよ。僕はただ終点を見つめて、終点に向かって走り続けたんだよ。」
 このように、兄弟たち、もし私たちはここの周りを見ると、私たちは緊張してしまいます。しかし、終点を見つめましょう、終点に目を向けましょう。
8
ジャック兄弟が今日、ちょうどディナーテーブルである物語を話してくれました。私は心に、とても深い感銘を受けました。それは迷子になった小さな男の子の話でした。確か、アイルランドかスコットランドでの話しだったと思います。その男の子はどうやって家に帰るのかが分かりませんでした。そこで人々は彼を囲んで探してあげようとしました。彼は言った、「ええとですね、」彼の住んでいる町の丘の上に大きな十字架があったので、こう言いました、「もし私を、あの十字架のところまで案内してくれたら、私は家に帰れます。」そうです。そうなのです。もし私を連れてあの十字架のところまで案内してくれたら、私は家への帰り道を見つけることができます。それが家への帰り道なのです、そうでありませんか、アーメン。
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さて、私はどうやってこのような聴衆に話したらいいかがわかりませんが、私は私がここで聖書の1,2節を読み上げ、私のごつごつとしたササフラスのような昔ながらのやり方で神様の御言葉について少しお話してみようかと思っています。
それでは、ヘブライ書10章19節を読みましょう:
「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。」
 私たちの主に御自分の御言葉を祝福して頂くようにお願いを申し上げましょう。父よ、私たちは御言葉をもっていることで感謝いたします。なぜなら、信仰は神様の御言葉を聞くことから始まるからです。私たちは今日主の召使として、男と女として仕事から離れてここに座り、ここに入って、この大会で自分を新たにしようとしています。天におられます父よ、今日午後いつものように私たちのところにふたたび来て下さるようお祈り致します。なぜならあなたはそう約束されたからです。そして主は今日私たち一同を祝福し、御自分の御言葉がすべての心の中で安らぐ場所が見つけられるようにして下さるようお祈り致します。イエス様の御名によってお願い申し上げるます、アーメン。
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私は...思い込んで、先知ったばかりでした。昨日の夜は何も準備しませんでした。なぜならたいてい私が着くとほかに用事があるからです。でも私は偶然このことを思い付きました、「イエス・キリストの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができる」ということです。私は今日の午後の時間を少し使って、小さなテーマ:「隠された命」について話そうと思っています。
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さて、この大会にいるほとんどの人はどうやったら神様にもっと近づけて一緒に歩くことができるのかを知りたいと思っています。私はあなたがたが今日午後そう思っていることを確信しています。さて、私は超自然現象について話してみようと思っていました。しかしどうやって始めたらいいかが分かりません。あなたがたと同じように、そのことは私にとっても謎なのです。そしてわたしはこう思いました、それならあるキリストとともにいる隠された命、私たちが隠れることができ、ほかのすべてのことから隠れて、キリストとともに生きる方法があるはずです。
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私はヘンリー・グロートを見ています。神様の祝福がありますように、ヘンリー兄弟。私は長い間あなたを見かけませんでしたね、兄弟。私はちょうど振り向いたらあなたのお父さんを見かけて彼だとわかりました。
 私が体調を崩して、言い方を変えれば、伝道事業から約8ヶ月離れたときに、彼らは私にとってまるで本当の兄弟そして父親のようでした。彼らはいつも私と一緒にいました。グロート兄弟と私たちで、お祈りするために一緒にトウモロコシ畑へ出かけた日のことは、決して忘れないでしょう。私はそのときとても緊張していて、幻の中に長い間いたので、自分が幻の中にいるのか、それとも外にいるのかが分からない状態でした。私はグロート兄弟が跪いて私と一緒にお祈りしたことを決して忘れません。彼は腕を私に回して、ただ簡単に言いました、「ああ、パパ神様よ、ブランハム兄弟を助けに来てくださいますか。パパ神様よ、ブランハム兄弟を助けに来てくださいますか。」グロート兄弟、私はいつもそのことをまるで昨日のことかのように思い出します。
 ああ、それはどんなすばらしいことでしょうか。グロート兄弟、私はいつか私の腕をあなたに回し、そして常緑樹の下に座り、そこには命の水の泉が王座から湧き出ているのでしょう。私たちはパパ神様の元で永遠に永遠に生きるのでしょう。
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さて、神様はこれらのこと、そして聖書をこのように単純にしてくださいました。そして福音をこのように単純にしてくださり、私のような教育を受けたことがない人でさえ福音を話し、伝道する機会があります。私は先ここの兄弟たちに言っていたんです、私はおかしく感じる、今日私はここに来て、そして自分がここに座っている学者や何人かの全国でもっとも頭の良い人たちと向かい合っていることを知っている、わたしの文法は大変ひどいものである、ああ、まったく不適任です。しかし、もし主教などの人の前に座ったら、あなたがたは私と同じように感じるでしょう。しかし兄弟たち、神様は神学の中にはあまりお住みになりません。主は愛や謙虚さの中に住まわれるのです。そこであなたはまことに、すべての人は神様と知り合いになり、神様を知ることができるのです。私は神様がただの一握りの人たちやある特定の宗派だけをお選びにならなかったことを本当にうれしく思っています。神様は「望む者なら誰でも」とおっしゃいました。そうして私やあなたにも入って、一緒に親睦をかわし、神様について話す機会をお与えになられたのです。
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神様は旧約聖書でこのことをとても素晴らしくなさいました。神様は私の避難所であり、私はときどきこのことをテーマとして伝道しています。旧約聖書の中で神様は、心が単純な人でも御自分の御心や御自分のなさったことを理解できるように、たとえ話や象徴的な形でご自分自身や御自分のなさることを表現なさいました。
 私はよく、旧約聖書がどのように新約聖書をあらかじめ示しているかを探るために旧約聖書に戻ります。新約聖書で神様のなさったことや今なさっていることは、神様はいつも旧約聖書であらかじめ示されました。そして私たちは、旧約聖書で神様を無視したり、神様と縁を断ったすべての人の結末を、実例を通して見ることができます。また、旧約聖書で大胆にエホバを信じて、人前に出た人々の結末を見ることもできます。今、私たちは自分たちの選択をするのです。
 神様が私たちに自由な国、そして礼拝の場所をお与えになり、私たちが神様に対する信仰によって自分の帆を立ち上げ、この地球から飛び立つことができることを神様に感謝致します。なぜなら今日、このようにすることができない所もたくさんあるからです。
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例えば、旧約聖書で神様がたとえ話を使って、御自分の今日の投影となるようないくつかのことをお話になりましたが、私もこの方法でしか聖書を教えることができないのです。彼らは立派なギリシア語などについて話しますが、私はこれらのことについてちっとも分からないのです。しかし、もし私が神様があらかじめ示されたとしてそこでなさったことを振り返って見ると、神様が今日なさっていることについての全体的な概念を持つことができるのです。なぜなら、それらの出来事は影だからです。
 もし私が西に向かって進み、太陽は東にあったとすれば、私の日陰は私の前にあるでしょう。もし私は一度も自分自身もしくは人間を見たことがなかったとしたら、私は自分の影を見た時に自分の外見について少し知ることができますね。旧約聖書はキリストの到来の影であり、すべてのものが十字架をあらかじめ示していました。そしてキリストにおける神様のすべての贖い、すべての計画、すべての救いの計画はカルバリで成し遂げられたのです。
 なんと美しいことでしょう。旧約聖書の中で、神様は、私たちが今日享受している聖霊のことをあらかじめ示されました。そして私たちが集まって親睦することができるように、これらの大会の順序をあらかじめ示されました。
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教会が始まったばかりの頃に戻ってみると、神様がどのように、今日私たちが次の新たな祝福を受け取ろうとしている場所のことをあらかじめ示されたかが分かります。皆さんが知っているように、私たちはまるで借りた時間に存在しているようです。神様の癒しの素晴らしい祝福、そして発せられた超自然の力は実に、今までにない強さで世界を震撼させるような復興をもたらしました。キリスト教信仰がこの5、6年間のように全世界を震撼させたことはどの時代にもありませんでした。そうです。どの国でも、どの場所でも、ラジオを通しても、福音伝道者によっても...
 私たちは幾つかの神様を信じない国に行き、そこで幾つかの普通の伝道師によって配られた冊子を見ました(これはとても良いことです)。しかしそこに住む人たちが超自然な行いを見たとき、何万もの異教徒たちは十字架に向かって跪き、主イエス様に仕えました。神様の強力な行いがなされたのです。
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私たちは長い間この地面を守ってきたが、今、私たちは戸口に立って、垂れ幕の向こうに跨ごうとしていると、私は心から信じています。そこは、神様のさらに偉大なる秘密が教会に知らされる場所です。そして私はその一員として、メッセージが来るときに耳、目、そして心を開いてそれを聞き、吟味します。なぜならサタンは、たくさんの偽の使者を送るからです。しかしそれをわきに置けばよいのです。覚えておいてください、それらを見たときは、それは、本物の何かがもうすぐ起こるのだということを意味しているだけなのです。なぜならサタンは、あらゆる手を尽くして(私が昨晩に言ったように)神様の本当の宝石の出現を妨げるからです。あなたはそれを聞くでしょう。彼はアベルを捕まえるために障害物を置いた。ジョセフを捕まえるためにも一つを置いて、イエス様を捕まえるためにも一つを置いて、さらにモーゼを捕まえるためにも一つを置きました。あなたがたはサタンが邪魔しようとするものに気づくでしょう。
そうであるから、この国のあちこちに出てきている一時的な熱狂的な宗派なども「気を付けて、ここにでもすぐに起きるから。」と言っている光柱にすぎないと思います。
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私はここにいる多くの方の中で、フルゴスペルの兄弟がたくさん来ているということに気付きました。私自身もバプティスト教会から出てきて、聖霊による洗礼は聖霊による単独の仕事だという考え方を受け入れていました。私が思うに…マルティン・ルターは信仰による義認ということに到達し、それだけで足りると思っていました。それは彼の時代の光だったのです。彼がそれを伝道し、信じ、守りました。そしてそれは彼の時代の光だったのです。
 その後、あるジョン・ウェスレーという男がもう一つの垂れ幕に入りました…カルバン主義がまたたく間に国中に広がり始めた時、彼らは落ち着いてきて、こう言いました、「神様がなさりたいことなら、神様はなさるでしょう。復興を起こすのは良くないでしょう。」神様はジョン・ウェスレーを奮い立たせ、そして彼は確実にカルバン主義を地面に叩きつぶしました。神様の恵みの第二の働きである聖別の働きの下で、彼は正しいバランスを持つべき場所にたどり着きました。ナザレ派はそれに続き、そうしたらペンテコステ派が来て、その次に来たのは聖霊による洗礼で、より高い高度に登っていきます。
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そして今、兄弟たちが聖霊による洗礼を受けた後、彼らは、「これが頂点だ、これがすべてです。」と言いました。しかし兄弟たち、これは間違っています。お分かりでしょうか?神様の力には頂点がないのです。私たちはどんどん前に進み続けるのです。神様の無限の源泉の栓はまだ抜かれていません。私たちはまだ神様の祝福や力を知らないのです。これらのことは天使長にでさえ黙示されていないのです。そして今神様を信じる教会の前に置かれています。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」
 だから私たちは前進し続け、私たちの権利を主張しましょう。神様が玄関を開けて歓迎の絨毯を敷いて下さるとき、私たちはより深い所に進んでいくべきであり、決して境界を作って、組織を作り、あるところまで行って、「私たちはこれを信じており、それだけで十分です。」と言うようになってはいけません。私たちはこのことを信じるだけでなく、それ以外に神様から聞いたすべてのものを足さなくてはいけないのです。それが主・イエス様を愛するすべての男の人と女の人の動機になるべきであり、神様の豊かな憐みの手から受け取ることができるすべてのものを受け止めるべきです。それが私の考えです。
 それが私はいかなる組織にも参加したことがないし、どの組織にも賛成したことがないことの理由です。なぜなら、私は自分を神様の愛、そして神様が私に与えることができるものに向かって大きく開きたいからです。
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ある時、聖書を読んでいて気付いたことがありました。(少しだけ話させて下さい。)、旧約聖書時代に、ある息子がある家に生まれたとき、彼は生まれた時から息子なのですね。彼はその家に生まれたときに息子になるのです。そして普通、その時代の典型な東洋の家では、息子は子ども時代を過ごすための場所とお世話係りの家庭教師が与えられていました。パウロは新約聖書で、その家庭教師がどうやってその子どもを育てるのかについてみごとに語っています。そして私たちは…律法が、私たちをキリストのところに連れていく家庭教師なのです。
 子どもが生まれたとき、彼は今日の教会、聖霊によって新しく生まれ変わった教会を象徴しているのです。神様はご自分の教会を指導し、育て、成長させてこられ、そして今は何かほかの事が起きるときであると私は信じています。ここに来るまでに、教会は成長しているべきなのです。それなのに私たちの中の多くの人は、ほかの人を指導するべきなのに、まだ聖書の混じりけのないミルクを望んでいます。お分かりですか?今私たちは元々指導者になるべきなのに、まだ自分たちを指導してくれる人が必要なのです。だから私はこのことで恥ずかしくて頭を下げます。なぜなら私は今知っているよりももっと、神様について多く知っているべきだからです。
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さてここで、私が信じていることに、ある子どもが…そして聖書の言うことには、ある子どもが育てられるときに、家庭教師は子どもの行いを父親に報告し続けるものです。このような意味で、家庭教師は、ペンテコステそして教会にとっての聖霊です。聖霊が与える…
そして覚えてください、何が起ころうとも、その子が子どもとして生まれたのなら、いつまでも子どもなのです。聖霊から生まれた人は神様の子どもとなるのです。なぜならそれは実は二回目の誕生であり、新たに生まれることです。それはその人の中に元々なかったものを作り出します。ある人が信仰の大家庭に生まれたとき、彼は子供になります。そして聖霊がこの人についていき、神様にこの人の進展を知らせるのです。
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この子どもがある年まで成長すると…彼はまだ子どもであるが、しかしもしこの子が向こう見ずで、何事にも気をかけずに、父親の仕事に興味を示さないとしたら、その子はいつまでたっても家族の一員として認められません。でももしその子が礼儀正しい子で、良い子どもであり、父親の仕事を愛し、興味を持ち、父親の仕事を進展させるために自分にできるあらゆることをしようとすれば、家庭教師は父親にそれを報告し、そしたらいわゆる息子の任命、もしくはパウロがガラテヤ書で言った「身分を受ける」ということが行われるのです。私たちはイエス・キリストによって子どもの身分、すなわち息子の身分を受けるよう運命付けられているのです。
ある家に生まれた同じ息子が同じ家族の一員として受け入れられることができ、もしくは同じ家族の中に位置づけられることができ、あるいは自分の生まれた家族の中である位置が与えられます。今日、聖霊が教会の間で指導者、教師、預言者などの教会における役割を決めようとしていると私は信じています。私たちはたくさんの偽の警報が人々の間で行き来しているのを見てきましたが、これらのことはただ本当の、本物の息子の身分を受けることが近づいていることを示しているに過ぎません。私はこのことを信じています。神様が教会のこれらのことをお決めになるのです。それは神様の仕事であって、人間の仕事ではありません。
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この少年が成長して、自分の息子の身分を受け入れる準備をしているとき、彼は証明され—-つまりその家庭教師が父親に、この少年は息子の身分にふさわしいということを知らせ、この少年は公の場所に連れて行かれ、ローブを着せられ(名誉のローブ、おそらく紫もしくはほかの何かの王族の色をしています)、座らせます。そうしたらその町のすべての人やその周りの人が来て、その父親が自分の息子を家族の一員として受け入れるところを見るのです。彼がその家族に受け入れられたとき、彼はすでにその家族の息子であり、子どもであり、恵みの跡取りではありますが、その家族の中に位置されるのです。彼がその家族の中に位置され、自分の場所を与えられたとき、その少年が小切手にした署名は父親の署名と同じように有効になるのです。
今日教会はこういう時期にたどり着いて、私たちが偽の警報を見た後、次に教会内で大きく動くのは、神様だと私は信じています。しかし、神様は御自分の教会の中で正確に指導者、預言者、教師、福音伝道者を任命されるでしょう。人が作った神学校から出てくるのではなく、神様が教会の中で任命されるのです。神学校がすばやく作り出したものではなく、神様が教会の中で任命され、神様がお選びになり、聖霊がこの教会を指導してお育てになったものです。そこで神様は御自分の息子たちに身分をお与えになります。彼らは元々神様の息子なのですが、神様は彼らが御自分がお与えになった身分にふさわしいかどうかをご覧になりたいのです。
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ある完璧な象徴に気づいたのでしょうか。神様は御自分の息子に同じようなことをなさいました。神様は三人の立証人(なぜなら二人もしくは三人の立証人の口によってすべての言葉は成り立ちます)、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ:愛、信仰、そして希望をお連れになられました。神様は彼らをこの世界から離れたところにある山にお連れになられました。公認の立証人の前で、神様は御自分の息子をお受け入れになられました。イエス様は彼らの前で変容され、御衣は太陽のように光り輝きました。そうしたら雲の中からある声が言いました、「これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい。」神様はイエス様を山に配置なさり、そこに立証人を置いてそのことを見届けさせになり、イエス様にロープをお着させになり、そのロープは太陽のように光り輝きました。そして神様は言われました、「これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい。」神様は御自分の息子を家族としてお受け入れになられました。「もう私に従わなくてよい、これは私の息子で、これからは彼があとを引き継ぐのです。」アーメン。息子の身分を受け入れることは教会がその時期に近づいていて、息子の身分を受け入れるときが来たことを喩えています。その時が来ているのです。
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隠された命に戻って、この息子の身分を得るため必要なものを探してみましょう。隠された命、私たちは気づいた、旧約聖書のモーゼの律法の中に、私たちはそこにあるとわかりました…読者は皆、荒野にある神様の幕屋の中には三、二枚の垂れ幕、二個の仕切られた部屋、そして庭があるのを知っていますね。最初に庭があって、次に聖なる場所があり、最後に至聖所があります。それは神様の家なのです。それは神様の住む場所です。そしてあなたの住む場所です。
覚えておいて下さい、あなたは三つ部屋の家にしか住むことができません。二つ寝室があるかもしれない;三つキッチンがあるかもしれない、しかしあなたは三つ部屋の家にしか住むことができません。神様は三つ部屋の家に住んでおられました。神様が地上におられたとき、神様は三つ部屋の家をお持ちになりました、イエス・キリストの魂、体、そして霊です。
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その一時的な神殿の中に、神様は庭、聖なる場所、そして至聖所にいらっしゃいます。それぞれの部屋は分離されていて、それぞれ異なる調度品があり、異なる住処を示しています。このことはとてもみごとに教会を象徴しています。罪人はまずキッチンに入ってきます、キッチンは食事の場所だからです。リビングは語り合う場所です。寝室は休む場所です。ああ、神様。分かりますか。
 罪人が入る:「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」彼は入って御言葉を食べます。そうしたら彼は洗礼を受けて信仰に入り、キリストを個人的な救世主として受け入れ、このことが彼を神様との語り合いに入らせます。しかしこの後、彼が寝室に入ったとき、静かに神様とともにいます、世界のすべてのものはシャットアウトされ、彼は静かに神様とともにいるのです。兄弟たち、姉妹たち、この場所こそが、今日のペンテコステ運動のたどり着くべき場所です。「私たちは三位一体です。私たちはメソジストです。私たちはアッセンブリーズです。」とわあわあ言うのではないのです。私たちはただ一人きりで、静かに神様とともにいるべきです。このことを信じますか。もちろん、そうするべきですね。
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注意してください、大祭司が年に一度、一つ目の垂れ幕の中に入り、そして二つ目の垂れ幕に入り…外の水盤で彼らは生け贄を洗い、その後、生け贄は殺され、真鍮の祭壇の上に置かれ、その血は大皿に入れられ、大祭司は年に一度垂れ幕の後ろに入り、罪のための贖いを行いました…この大祭司の服装に注目してください。彼が垂れ幕に入ることができる前に、着替えて、正しい服装を身に着けて中にはいらなければならなりません。それが今日の教会です。今日の教会はこれらの極端な宗派などのものを脱ぎ捨て、イエス・キリストの正義を身につけ、中へ入る準備をしなければなりません。彼の歩行は独特なものでなければなりません、すべての…彼の服のへりには、ざくろが1つと鈴が1つ付いています。彼が歩くときに、彼の歩みはあまりにも完璧なものなので、その鈴は鳴った、「聖なるかな。聖なるかな。聖なるかな。主にありますように。」
 私たちが今日必要なのは、私たちがアッセンブリーズや、もしくはチャーチ・オブ・ゴッド、もしくは一体論、もしくはほかの何かであるかどうかではありません。私たちの歩みも公に向かって「聖なるかな。聖なるかな。聖なるかな。主にありますように。」と鳴らすべきです。
28
もう一つのことは、彼が中へ入る前には、油をそそがれなければならないということです。そそぎの油はシャロンのばらで作られていました。ばらを押しつぶすことによって香料が得られ、その油はアロンのあごひげからすそのへりまで流れ、全身がそそぎ油におおわれます。正しく歩き、正しく生き、正しく動き、正しく身に着けます。彼は目の前の血を取りに行き、彼が垂れ幕の後ろに行き第三の部屋に入るとき、彼の後ろにある垂れ幕が落ちて、外の世界はもはや彼を見ることができません。そしてすべての男の人、少年、女の人、少女が神様に油をそそがれて歩いてその神殿の中に入ると、神様の垂れ幕である聖霊は彼をある秘密の場所に置きます。垂れ幕は彼の後ろで落ちて、この世そしてこの世に属するすべての物は彼の後ろで切り離されるのです。
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兄弟の皆さん、それが私たちが神様による息子の身分受け入れを必死に得ようとする理由です。私たちの生活の中で意見の相違があり、ささいな事で大騒ぎをし、他人と口論したりすることが、垂れ幕が私たちの後ろで落ちず、私たちが神様の御前に行くことができない原因なのです。そうです。私たちは、自分たちの宗派というものに興味を持ちすぎています。私たちは他人に興味を持ちすぎています。「それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」それは牧師たちのそれぞれの問題です。牧師は伝道をする前でさえ、お祈りをする前でさえ、いつも一人でいるべきです。いかなることをする前にも、彼はその静かな場所で神様と2人きりで過ごし、神様とともに隠れるべきです。あの垂れ幕がいったん落ちてくると…
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この垂れ幕の中にある調度品は外のとは異なっていました。庭に戻ると、そこには生け贄を洗う水盤がありました。つぎの垂れ幕の中には何があるのでしょう。そこには生け贄を焼く炉がありましたね。そこには七つの金の燭台があり、ランプを表わしており、光を放ちます。そして庭の外には太陽の光があります。一つ目の垂れ幕の中の光は、人工の作りものでした。
注意してください、彼らがこのランプの明かりによってここに歩いて入ってくると、彼らが次に入るのは至聖所で、彼らは油をそそがれてその中に歩いて入ります。神様はそれらをなんと綿密に計画なさったのでしょう。それは私たちにとってなんと美しいものなのでしょう。なぜならそこで、神様の永遠なる救いの偉大な計画を見ることができるからです。神様の牧師たちはいかにこの中に歩いていき、いかに自分たちの支度を整えてこの中に入るべきでしょう。
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この内側の庭の奥は至聖所と呼ばれています。その中には贖いのふたと呼ばれる調度品が置かれていました。約束は契約の箱の中にありました。そして契約の箱には二人のケルビムがありました。それが中にあったものです。それが至聖所の中にあった調度品です。そして、外に来ると金の燭台があり、さらにその外には水盤がありました。
 それはみごとにルター、ウェスレー、ペンテコストの時代、まさしく、人間に与えられる神様の恵みの三つの段階、もしくは時期を表しています。私たちは最後の時期にいます。私はそれを固く信じています。分かりますか。
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さて注意してください、この偉大なる運動の中で、神様はどうやって彼らをこの素晴らしい場所にお連れになったのでしょう。あるときモーゼは神様にマナが落ち始めていることを教えられました。マナは命の象徴です。つまり、キリストは天から降りてこられ、地上でお亡くなりになり、このことでキリストは私たちに命をお与えになります。マナは天から来て、地上に落ちてきて、人々はそれを食べることによって生命を維持します。キリストは天から来たマナにおなりになって、私たちはこのキリストによって生きることができます。
 そして注意していただきたいのは、人々がマナを食べるとき、早くとって食べなければなりませんでした。なぜなら日が昇るとすぐに腐ってしまうからです。これはキリスト、すなわち聖霊の象徴です。マナは今日の聖霊の象徴です。自然界で、神様が教会に実際にマナをお与えになったのと同じように、霊的な世界で、神様は今日の教会に霊的なマナをお与えになっています。教会が初めて勝利し、紅海(血の象徴)を越え、約束の地への長旅を始めたとき、マナは一日目の夜に降りました。アーメン。
そしてペンテコステの日に教会が生命を越えて死に入ったとき、神様は霊的なマナを天からお降らしになって、イエス様がもう一回いらして、私たちが約束の地である至福千年に入るまで、教会の生命を維持なさいます。
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ああ、彼らがそれを拾って食べたとき、甘い味がすると言いました。「それは岩の上にできる蜜のような味だ。」と彼らは言いました。蜂蜜のような味がします。ダビデはそれを岩の上にできる蜜と呼びました。まさにそのようなものです。
 ある象徴に注意してください。マナは彼らが約束の地に入るまで一度も降ることをやめたことがありませんでした。四十年間同じマナは毎日降り続けました。ハレルヤ!兄弟、あなたはどうやって聖霊を受け取って、そしてペンテコステに残すことができるのでしょうか。ペンテコステは続いています。人は頑固な心がゆえにマナを食べることができないのです。そのとおりです。
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注意してください。これはあることを象徴していました。ペンテコステの日に私たちのマナが…人々が屋上の部屋に上り、主・イエスの命令に従い、長く待ち続け、エルサレムの町で聖霊の第一回目の降臨を待っているとき、「天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」彼らは街道に出ていきました。彼らは元々一組の臆病な伝道師たちで、屋上の部屋に隠れていました。しかしながら、突然、彼らの魂を維持するためにマナが降りそそいできました。彼らは経験を持って街道に出ていきました。これは彼らが経験したことがないものでした。神様が、御自分の教会がこの長旅を通して約束の地にたどり着くのを持続させて下さるということを、みごとに象徴しています。
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兄弟の皆さん、注意してください。このマナはどのぐらいの間続いたのでしょうか。それは彼らがもう一つの時期に入り、約束の地に入るまで、長旅の間中降り続きました。これはどのぐらいの間続いていくのでしょうか。イエス様が来られるまでです。ペテロはこう言いました、「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」どのぐらいの間続いたのでしょうか。神である主がすべての人をお召しになるまでです。そして恵みの時期が続く限り、神様は御自分に仕えるよう男と女をお召しになります。だから聖霊は今日もやはり同じように真実なものです。彼は決してこう言わなかった…
 さて、彼らがこのマナを食べるとき、覚えておいてください、もし彼らがこれを食べて…たくさんの人はそれを食べてこう言いました、「まさにこれです。」彼らは毎日新鮮なものを集めなくてはなりませんでした。そうです。彼らは毎日新鮮なマナを集めなくてはならなかったのです。なぜなら、それは彼らの二つ目のステップである九時には溶けるからでした。それは腐ってしまうのです。
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よくあるのは、人々は神様の二つ目の部屋に住んでいて、語り合いにさえ入っているのに、彼らがすでに御言葉を受け入れた後、キリストを自分の生活の中に受け入れる二つ目のステップに入ったのに、秘密の部屋は何なのか、寝室は何なのか、休憩所は何なのかを知りません。彼らもマナを食べているのにもかかわらず分からないのです。しかし、あなたはマナを長く放置しすぎると、それは最終的に融けだすということに気づきましたか。そこには…それは腐ってしまいます。たくさんの人はキャンプ礼拝けいれいを患っているのだと思います。彼らは行ってキャンプ礼拝で主から食べ物を得ますが、もう一つの復興が起こる前に、彼らは皆元に戻ってしまって、何かの極端な宗派などにねじり込んでしまいました。兄弟、これはどういうことでしょうか。あなたはまだ一度も、もう一つの場所に入ったことがないのです。
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神様は「モーゼ、金のつぼを作りなさい。」と言われました。ハレルヤ!その中にはマナが入れられました。覚えておいてください、信者がそこに入ったなら、マナは決して尽きることはありませんでした。どれだけ年月が流れてもいつまでも新鮮で、新しくて、甘いのでした。キリストの御前に来て隠れ、垂れ幕がその後ろで落ちる人なら誰でも、全能の神様の御前にいて、昼夜、いつでもそのマナを食べているわけです。それはいつでも、初めてあなたの魂に語りかけたときと同じように甘いのです。これこそ、私たちに今日必要なものなのです。マナのある場所に入り、遠く離れているところで装わずに、遠く離れているところで演技をせずに、実際そこに入ってください。アーメン。その人は一旦…
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覚えておいてください、信者だけが、選ばれた者だけがそこに入るのです。神様があなたをお選びになったのです。黙示録2章でこう書かれていると思います、「勝利を得る者」。つまりそれは勝者に約束されたものなのです。
あなたは「私は喫煙に勝利しました。」と言うかもしれません。神様は、そのようなことを言われているのではありません。喫煙をしないことやウィスキーを飲まないこと以外に、キリスト教信仰の中にはまだもっとたくさんのことがあるのです。「勝利を得る者は、すべてのものを相続する。彼はわたしの子となる。わたしは彼の神となり、そして(よく聞いて)わたしは隠されたマナを彼に与える。(アーメン)わたしは彼を隠し、垂れ幕の外の世界には知られていない隠されたものを彼に与える。」ハレルヤ!人々はマナを食べてはいるけれども、このことについて知らないのです。「わたしは隠されたマナを彼に与える。わたしは彼の名前が書かれた石を彼に与える。」私の言っていることがお分かりでしょうか、つまり、息子の身分を受け入れる場所、もしくは神様とともに隠された場所に入ることです。
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福音の伝道師はあなたの宗派や世の中がどう思うかについて関心を持ちません。彼らは隠されたマナの置き場所の入り道を探し、そこで神様の完全な黙示があなたの心の中の愛を完璧にし、あなたや神様やすべてのものは休みに入ります。何事が起ころうと、何があろうと、あなたは隠されたのです。なんといい住処でしょうか。ああ、私にそこに住まわせてください。歌に書かれたように、「いのちの木の下に休ませてください 水が自由に流れ そこでこひつじは光 救われた魂は決して死ぬことはない」アーメン。
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彼らは外でマナを食べていたのですが、このことについて知らなかったのです。彼らはそこに入ったことがなかったのです。私の親愛なる兄弟、あなたはそこに入ったことはありますか。私の無知を軽蔑しないでくださいね、わたしはただあなたたちにいくつかのことを聞きたいだけです。生活の中であなたはキリストがあなたが自分の教会について論ずることができるすべてのことよりもまさっているような所に達したことはありますか。キリストはあなたにとって、全世界よりもまさっているでしょうか。私は、感情的になったり心が興奮することを言っているではありません。私が言いたいのは、あなたの心の底に、何かがそこに定着し、何かが起こって、あなたはそれがどうやって来たのかが分からないが、あなたは隠れ、そしてあなたのすべての動機や目的が、イエス・キリストに仕えるためになるということです。あなたはあの場所に入ったことはありますか、私の親愛なる兄弟達よ。誰の言うことも気にせず、外に出ていって賢いように装ったりせず、神様の愛があなたの中で錨のようにとどまって、あなたはそれ以外のものを見ることができず、あなたのすべての動機や目的が神様の御心を行うこと、すべての人を愛し、愛をあらゆるところから流れさせるような場所に、あなたは入ったことがありますか。なんといい住処でしょう。それは隠された場所です。兄弟たちよ、それこそ、私たちがたどり着くべきところです。それは神様が御自分の秘密をお明かしになる場所です。それは神様が人に身分をお与えになり、人をお召しになる場所です。私の言いたいことを分かっていただけますか。
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この同じ場所で…(時間があまりないので、もう一つの考えを話すために急ぎます。)この同じ場所で、彼らはアロンのさおを置き、神様は誰をお選びになったのか、誰をお選びにならなかったのかを決めました。そのさおは命のない棒でした。ある夜、それは命を取り戻し、発芽して花を咲かせ、アーモンドの実をみのらせました。それは花をつけて、実を生らせ、ともに命を取り戻しました。これは、罪人が神様の御前に連れられて、聖なる所に入っていく様子の、典型的なパターンです。
 覚えておいてください、そのさおは、生きるためのすべての要素を失いました、そして聖なる場所に入ったとき、それはまだ死んだままでした。しかしとどまって…彼らがそのさおをその場所に持ち込んだばっかりのとき、それはまだよみがえっていませんでした。それが、あなたが聖霊を受け取ってから聖霊があなたを観察して、神様の御国に対するあなたの態度を観察してきた理由なのです。もしそれが利己的な動機であり、あなたが考えていることが、ある宗派を広めること、もしくはあなた自身、自分の地位を広げること、自分自身を世の中で尊敬される人にすること、どこかで大きい教会を立てること、評判を良くすること、あるいは何か神様の御国を強めることやより良くすること以外の事ならば、兄弟よ、何かが間違っています。アーメン。
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さて、あの古い死んださおが神様御自身の御前に連れて行かれて、そこに置かれた時、何が起こったのでしょうか。それは芽を出し、花を咲かせ、実をつけました。このことはこういうことを表わしています、私たちは生まれて…そのさおはアーモンドの木から取ったものでした。それは切られたときに死にました。そして人が神様から切り離されたとき、彼は霊的に死にました。しかしながら、一度神様の場所、神様の御前に連れて行かれたなら、彼はよみがえって、命を実らせました。彼は花を咲かせ、実をつけます。
イエス様は木のところに来られて、その上の実をお探しになりました。しかしそこには実が一つもありませんでした。そしてそれが私たち今日の教会の問題です。私たちは実以外のものはすべて持っています。私たちは叫ぶことができ、異言を話すことができ、聖書の中の言葉について論ずることができ、自分たちの神学を教えることができます。しかし実を生じることとなると、その木は不毛です。御霊の実とはなんでしょうか。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、忍耐です。このことは、たくさんの人がまだ、外の一つ目の祭壇の上にいるということを示しています。あなたはいまだに公に向けて開いています。あなたはいまだにヨハネ会の評論、近所の人が思うこと、もしくは自分自身についての何かを聞いています。しかし一旦垂れ幕の向こうへ入って、カーテンが落ちたら、あなたはキリストを通して神様の中に隠れます。分かりますか。
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注意してください、なんと美しい絵でしょうか、罪人が神様の御前に横たえられています。このさおはそこに横たえられて、新たにされました。それはよい香りがしました。花のよい香りです。そして実をつけました。芽を出しました。ここで、地上の話をするのに美しい象徴をお話します。
 収穫を得る前に一番最初にすべきことは、種を持つことです。種が土の中に蒔かれたらその実をつけます。そうでしょう?さて、私たちの一番最初にすべきことはキリストを受け入れることです。
 さて、その木は最初からアーモンドの木でなければなりません。そしてあなたがこの場所に入る前にキリストを受け入れなければなりません。そうしたらこの偉大なる神様の御前でこれらのことが起こります。御言葉を見てください、キリストは御言葉です。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」キリストは、人間の命の中に入ってこられます。
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さて、注意していただきたいのは、一番最初のことは、新たにされることです。種子を成長させるのは何でしょうか。朝起きて露が天から降りて大地を新たにするのを見つけたことがありますか。どうやって新たにするのでしょうか。静けさの中で新たにします。露は昼間には降りてきません。露は夜の時、すべてが静かである時に降りてきます。あなたがささいな事で大騒ぎし、論争し、この世のことで気をもむ限り、私の兄弟よ、露は決してあなたの上に降りてはきません。神様と2人きりになって、静けさの中で憐れみの露のしずくをあなたの上に降りさせてください。なんと貴重な思い出でしょう。真夜中の静けさの中で秘密が明かされ、露のしずくがいかに留まって、いかに私の魂を満たしたことでしょうか。神様が、いかにカーテンをその回りに下ろし、1対1になることで御自分の信者を得られるのか、神様は天から更新をもたらし、この世の中のほかの人、もしくはほかの方法でこのことを知ることはできません、そこに横たえられる人だけが知ることができます。
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あなたは朝散歩に出て、本当に新鮮な、すがすがしい気持ちを味わったことはありますか。神様は御自分の大地を新たにされました。よい香りについてですが、あなたはバラ園に入ったことはありますか。私のところではスイカズラがたくさんあります。スイカズラは日中暑いときにはあまり香りがしませんが、朝早く、すべての空気が浄化された時には、スイカズラのあの芳香が漂うのです…人を大騒ぎ、口論、気をもむことから出させましょう、そんなものから福音の芳香を得ることはできないのです、しかし彼を一度神様の静けさの中に単独でいさせてください。
 説教壇に来る人は誰でも、まず一人きりになるべきです。そうしたら実が出てきて、その実をつけます。神様の御前にいて、この偉大なる秘密の場所の中に入るすべての人は隠れて、正義、平安、愛、喜び、寛容、善意、親切、忍耐の実をつけるでしょう。ほかの事で大騒ぎしないでください。それをあなたの命の中に入らせてください。その息子の身分を受け入れる土地であなたが神様とともに隠れない限りそれを得ることはできません。
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終わる前にもう一つ気をとめていただきたいことがあります。光を見てください、外の庭にあるのは天空から来る太陽光などの光です。曇りの日もあり、時には日の光がまったく差し込みませんでしたね。暗い日もありました。それは外の庭のことです。
次の庭では神様の灯火である義認のランプが置かれていて、人の手によって光がつけられました。私たちはそこで自分たちの宗派を論争し、違いを論争し、お互いに一歩も下がらず、「ああ、私は神様の癒しなど信じない。私は神様から来た幻を信じない。私はこれは信じない、あれは信じない。」あなたがたは論じています、なぜならあなたがたは生きていて…あなたはマナを食べてはいるけれども、しかしながらあなたは人工の光の下で生きているのです。そうです。時々光が消えます。時々あなたのランプは煙を出します。しかしながら隠れることを望んでいる人にとって、次の場所に入って行くと、もう人工の光はどこにもありません。しかしこれらのケルビムの翼の間の下では、超自然の光がそこにかかっていました。それは神様の栄光で、部屋全体を照らしていました。人が一度あのシェキーナの栄光に入ると(ハレルヤ!)、彼は全能の神様の御前にやってきます。(編者注:ブランハム兄弟は説教壇をたたいた。)この世界の薄暗さ、人造の組織、そしてすべての人間によって作られた信条は消え去り、彼は全能の神様のシェキーナの栄光の中に生きています。
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私の兄弟たちよ、あの場所に住むことができるよう神様にお願い申し上げましょう。お立ちください。ああ、親愛なるイエス・キリスト、とこしえに生きる神様の御子よ、私の親愛なる兄弟たちと姉妹たちは今、この午後に、この「兄弟愛」にちなんで「フィラデルフィア教会」と名づけられた小さな教会の講堂の中に立っています。主にお祈り申し上げます、親愛なる神様、神様の御前で、どうかすべての牧師や福音伝道者、そしてすべての著名な牧師や教師を憐れんでください。そして、ああ、神様、私たちが十字架をつかんで、自分を生け贄としてささげ、そしてすばやくシェキーナの栄光の中に駆けつけるまで、聖霊が私たちの心を強く十字架に縛りつけて下さるようお願い申し上げます。そこで私たちは、もう世界中を飛び回らず、人と争って一歩も譲らないようにはならず、正しいかそうでないかについて論争せずに、神様の御前に生活してとどまり、神様とともに隠れる人のためにそこに蓄えられたマナを食べられるようにお願い申し上げます。主よ、これらのことを叶えてくださいませ。
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あの祝福がこの集会に降りかかるよう、そしてすべての男の人と女の人がここを出て、全能の神様のシェキーナの栄光の下に隠れるよう、お願い申し上げます。父よ、これらのことを叶えてくださいませ。私は主の僕として私の兄弟姉妹たちのために、この祝福をイエス様の名によってお願いします。アーメン。私は信じます。
  ああ、私は主を見たい、主の御顔を見たい、
  主の救済の恵みによりそこで永遠に生き;
  栄光の道の上で大声で歌わせてください;
  ああ、心配事はすべて去り、ついに家にたどり着き、永遠の喜び。
 主の御名を称えよ。私は主を愛しています。永遠に喜び、シェキーナの栄光の御前に立って、決して離れません。これは私のメッセージです。これは私の歌です。主の御前を歌い、一日中称えます。完璧な服従、すべてが平穏です。私と私の救世主は永遠に祝福されます。そういうことです。私たちはなんと主を愛しているのでしょうか。主を愛していますよね?ああ、私はどれほど主を見たいのでしょう。
  これは私のメッセージ、これは私の歌、
一日中私の救世主を称えます;
これは私のメッセージ、これは私の歌、
一日中私の救世主を称えます。